●my favorite things 406-410
my favorite things 406(2023年11月23日)から410(2024年1月1日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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406. 1940年の『FRIENDS of a LIFETIME(生涯の朋友)』(2023年11月23日)
407. 1956年の『The BEST of Friends(最良の朋友)』(2023年11月24日)
408. 1972年~1982年に北冬書房から刊行された鈴木清順の本(2023年12月22日)
409. 1972年のシナリオ『夢殿』(2023年12月23日)
410. 2024年の桜島(2024年1月1日)
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410. 2024年の桜島(2024年1月1日)
2024年元旦。
夜明けの桜島。
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409. 1972年のシナリオ『夢殿』(2023年12月23日)
鈴木清順(1923~2017)生誕100年に『夢殿』上映の夢を見ます。
鈴木清順には、企画やシナリオだけに終わった映画がたくさんあります。
高松塚古墳の壁画が発見され、梅原猛の『隠された十字架 法隆寺論』が出版された1972年に書かれ、1977年『映画芸術』に掲載された鈴木清順・大和屋竺・前田勝弘・田中陽造によるシナリオ『夢殿』も、いつか映画館で見ることができるのではないかと期待していました。
鈴木清順の時代劇映画は、『オペレッタ狸御殿』(2005年)だけということになるのでしょうか。
『ツィゴイネルワイゼン』(1980年)、『陽炎座』(1981年)、『カポネ大いに泣く』(1985年)、『夢二』(1991年)もコスチュームプレイということでは時代劇ですが、あたりまえのように『鋳剣』も『夢殿』も見たかったです。
鈴木清順『暴力探しにまちへ出る』(発行1973年6月15日、北冬書房)収録の「暴力探しにまちへ出る」に、シナリオ『夢殿』のもとになった粗筋が書かれています。引用します。
私は死後の暴力の物語りを空想していた。
夢違えとは俗に悪い夢を違えて、災害危難から人を守ることを云うのだが、いい夢或いは現実を悪い夢に変えてゆく暴力的夢違えがあっていい筈である。
法隆寺で聖徳太子の子、山背大兄王一族二五人が自殺し、寺が炎上したのは周知のことであるが、山背大兄王が蘇我氏に追放され、生駒山中を放浪していたのに何故法隆寺に帰って来たか。法隆寺近辺は蘇我氏の勢力範囲になって居、生駒からのこのこ法隆寺に出てくることは全くの自殺行為であり、一方蘇我氏も、生駒から法隆寺に入る山背を何故拱手傍観したのだろうか。有り得べからざる事が起ることは其処に悪魔的所為がなければならぬ筈である。その悪魔的なものが聖徳太子自身だったではあるまいか。高松塚古墳のような石棺から聖徳太子がよみがえり、山背や蘇我の夢や現実を悪魔的に違えていったのではないか。山背の自殺も嘘である。聖徳の悪魔は自殺なんて寛恕な余裕を彼に与えはしない。法隆寺の炎上の前に、酸鼻な修羅場が聖徳のからくりでなされた筈だ。そしてそのからくりは、歴史上で私たちが知る聖徳の善なる仏性によって始まるのだ。生駒山中を放浪する山背一族の疲労困憊は眼に余る。仏として尊敬された聖徳の霊に山背一族が救いの祈願をするのは当たり前のことである。仏の聖徳は極く自然に山背一族の前に仏性を現わし、光背のなかを法隆寺に導き、山海の珍味を用意する。而し聖徳には山背に対する怒りがある。一族二五人を皆殺しにしなければ気の済まぬ怒りとは並大抵のものではない。それは何か。仏弟子である聖徳の顔に泥をぬるもの、惟神(かんながら)の道でしかない。山背大兄こそ父聖徳に背いて日本の政治の基本を神道に置いたのではないか。山背大兄が惟神である歴史上の実証はないが、そう考えることで法隆寺の悲劇が物語りとして発展する。聖徳が政治を捨て夢殿に入ったのも、自分の子であり、次の帝位を約束されている山背が背信の仏敵者であった為ではないか。聖徳の生存中からこの親子はことごとく云い争った、韓のくにから来た俳優(わざおぎ)が朝廷で見せた眼くらまし(奇術)に一膝乗り出し興がった聖徳を、仏とはあれしきの者かと非難したのも山背だった。この小面憎い子に仏である聖徳は責めることも手をふりあがることも出来なかった。仏教立国の政治理念もこの子あるが故に中途で挫折した。そして聖徳は自分の子すら仏の弟子にし得ない自分を恥ぢ、夢殿に入り外界の一切の門を閉じ、自分一人仏と一体となることでかろうじて彼の一生を終えたが、死んでみると仏教立国の政治理念は蘇我氏が引き継いだものの、依然として山背が惟神の統領として隠然たる勢力を持っている。もう聖徳は我慢し兼ねた。生かしてはおけぬ。山背の美くしい郎女、聖徳には孫娘の姫の霊招きに応じてよみがえった聖徳は、表には仏の慈悲、裏には悪魔の剣を持って山背一族を法隆寺に呼ぶが、美くしい姫に心悩む。而し殺人者は既に聖徳の悪魔が用意して了っている。郎女を夢のなかでのみ愛した東国の若者である。聖徳の善魔の与える酒池肉林の法悦のあと若者による斬殺が始まる。そして最後の一人を斬ろうとした時、若者はそれが夢で愛した姫である事を知り驚くが、既に刀の勢を止めることは出来なかった。若者は姫を斬った、と思うが、炎上した法隆寺の焼跡から二四の焼死体が検証されただけで一つ足りなかった。聖徳が姫を生かしたのだ。生きていた姫は若者と出会い愛し合うようになるが、姫の手にはいつか小さな夢殿の模型が握られていて、これと同じものを建てたら身も心も捧げると若者に云う。若者は都の大工にあたるが、八角円堂の八角は四(死)と四で縁起が悪いと断わられ、若者には又それ丈の資力もなかった。姫は若者を諦め自分で大工を探していると、夢殿の模型を見、夢殿を自分の手で建ててやるが、建立したあかつきは自分の妻になって欲しいと云う者が現われた。若き藤原鎌足である。鎌足と若者は恋仇となった。若者は最後の手段として姫を東国に引っさらってゆこうとする。それは丁度夢殿が出来上った日だった。昨日まで傍にいた姫の姿がなかった。鎌足は自信たっぷりに姫を迎えに来た。二人の若者はみやこ中姫を探しまわったが、何処にもいなかった若しや夢殿に……二人は夢殿にとって帰し、重い扉をあけると、姫は初老の聖徳と抱き合ってた――
残念ながら、鈴木清順監督作品『夢殿』は撮影されることはありませんでした。
◆
前回からの続きで、手もとにある鈴木清順関連の雑誌もいくつか並べてみます。
■『映画芸術』318号
1977年8月15日発行 編集プロダクション映芸(映画芸術新社)
鈴木清順五大傑作映画=完成シナリオ集 保存版
シナリオ野獣の青春 脚本 池田一朗 山崎忠昭
シナリオ関東無宿 脚本 八木保太郎
シナリオ河内カルメン 脚本 三木克也
シナリオ東京流れ者 原作脚本 川内康範
シナリオけんかえれじい 脚本 新藤兼人
蓮實重彦/身振りを欠いた手招き 『悲愁物語』
波多野哲朗/清順映画とは何か
山根貞男/大衆映画の自己破壊の艶やかさ―鈴木清順と加藤泰―
■『映画芸術』319号
1977年10月15日発行 編集プロダクション映芸(映画芸術新社)
鈴木清順=“悲愁”以後
鈴木清順の幻の名作・映画化期待!! シナリオ夢殿 脚本 鈴木清順・大和屋竺・前田勝弘・田中陽造
■『映画芸術』333号
1980年6月1日発行 編集プロダクション映芸(映画芸術新社)
◎超大特集=ワイド構成 「ツィゴイネルワイゼン」鈴木清順・その美学と哲理の真骨頂 完璧なる新展開
1 ルポルタージュ ツィゴイネルワイゼン撮影40日間迫力追跡 清順映画の形成過程・なぞを全解明
2 評論 種村季弘 この世は忘れ物である
蓮實重彦 幽霊は乾いた音を響かせる
飯島哲夫 鈴木清順のアリバイ宣言
3 シナリオ ツィゴイネルワイゼン 脚本・田中陽造
4 シナリオ対照 清順演出、カット割り、シナリオ変更、ロケ地の全詳細
5 俳優となって全撮影カットを語る/藤田敏八
6 鈴木清順インタビュー わが戦前から戦後へ 67年映芸再録
■『映画芸術』338号
1981年6月20日発行 編集プロダクション映芸(映画芸術新社)
かげろう座完成記念大特集 自我世界をひっくり返しいかに夢と性・潜在意識からの大飛翔は可能か―。鈴木清順ツィゴイネルワイゼンPart II かげろう座の全貌
1 三年間をめどに、映画界に踊り狂おう/鈴木清順
2 インタビュー対談 鏡花ルネッサンスと清順 笠原伸夫×小川徹
3 シナリオ かげろう座 田中陽造
4 独占公開 シナリオ参照 清順演出脚本 そのカット割り、シナリオ変更・追加、ロケ地などS1~68に至る詳細
■『映画評論』1968年7月
1968年7月1日発行 映画出版社
鈴木清順事件レポート―作家に推された“殺しの烙印” 河原畑寧
人斬り数え歌 鈴木清順
シナリオ=鈴木清順未発表シナリオ集
続・けんかえれじい 具流八郎
ゴースト・タウンの赤い獅子 具流八郎
北海道を舞台にした『ゴースト・タウンの赤い獅子』は、小林旭、宍戸錠、ピーターを出演者としてイメージしていた作品。
のちに、この脚本を手にした原田芳雄は、ピーターに予定されていた役を自分が演じて、映画を実現しようと動いていたようですが、実りませんでした。
具流八郎は、岡田裕、曽根中生、山口清一郎、大和屋竺、榛谷泰明、田中陽造、木村威夫、鈴木清順、8人のペンネーム。
具流八郎の名で実現した映画は『殺しの烙印』(1967年)だけでした。
こうして、シナリオの載った雑誌を探すのも楽しいのですが、具流八郎脚本を集めた一巻本があったら、ほしいです。
『ピストルオペラ』(2001年)の脚本協力に「具留八介」もクレジットされていました。誰だったのでしょう。
■『ユリイカ』1991年4月
1991年4月1日発行 青土社
特集 鈴木清順
■『ユリイカ』2017年5月
2017年5月1日発行 青土社
追悼 鈴木清順
■『シナリオ』440号
1985年3月1日発行 シナリオ作家協会
新春放談 鈴木清順vs大森一樹 軽量浮薄に哲学的に いま、活劇の時代
カポネ、大いに……笑う、か? 中村賢一
書割りのアメリカ 大和屋竺
シナリオ 原作 梶山季之 カポネ大いに泣く 鈴木岬一 木村威夫 大和屋竺
■『イメージフォーラム』1981年9月
1981年9月1日発行 ダゲレオ出版
陽炎座 製作ノート 白石宏一
■『イメージフォーラム』1985年4月
1985年4月1日発行 ダゲレオ出版
鈴木清順の世界
巻頭ヴィジュアル構成 ゆき、あめ、かぜ/ガン・アクション/宙づり/少年/鏡/花/階段/ヒロイン 解説 上野昂志 石井深 波多野哲朗
特別対談『カポネ大いに泣く』をめぐって 映画、アクション、オペラ 鈴木清順・三谷礼二
清順映画のセンス 林静一
形にならない面白さ 村上知彦
ドン・キホーテよ、永遠に――未公開シナリオ断想 大和屋竺
清順横断――モアレふたたび 上島春彦
フィルモグラフィ+日活時代の批評コラージュ
製作ノート カポネ大いに泣く(後編) 髙橋正治
◆
〈2024年2月7日追記〉
カセットテープの入った箱をひっくり返していたら、1988年にNHKのFMシアターで放送された鈴木清順脚本『異聞世界語事始頌』をエアチェックしたテープが出てきました。
原田芳雄、佐藤オリエ、笑福亭松喬、田中綾子らが出演。
原田芳雄が演じるのは、二葉亭四迷こと長谷川辰之助。
演出は佐野元彦。
『めざら資源』というサイトの「ラジオドラマ資源」で検索してみると、鈴木清順脚本のラジオドラマでは、1985年7月に、NHK大阪制作のFMシアターで、『過激にして愛嬌あり』が放送されています。
これは聴いたことがありません。演出は柴田岳志。
タイトルからすると、宮武外骨がらみの作品でしょうか。
『過激にして愛嬌あり』の出演者は、以前紹介した『さようなら、ギャングたち』と同じ泉谷しげる、高沢順子、小林稔侍がそろっているので、より一層聴きたい気持ちが増します。
TBSの『夜のミステリー』『ミステリーゾーン』『夜の図書館』などで放送された鈴木清順作のラジオドラマも、きちんと聴いてみたいものです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
コトリンゴ『小鳥百景』(2023年、日本コロンビア)
CMやジングル、劇伴など25曲を集めた拾遺集。
配信の時代に移行してきて、20世紀的なスタジオ・アルバムというものは、過去のものになっていくのかなと思いました。
存在が「たまもの」です。
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408. 1972年~1982年に北冬書房から刊行された鈴木清順の本(2023年12月22日)
写真は、北冬書房から刊行された最初の鈴木清順の本『花地獄』。
今年は、小津安二郎(1903年12月12日~1963年12月12日)の生誕120年・没後60年、鈴木清順(1923年5月24日~2017年2月13日)の生誕100年ということで、 残念ながら映画館ではありませんが、小津安二郎は秋朱之介(1903~1997)と同い年だったんだなとか思いながら、二人の映画をテレビでよく見ました。
『生まれてはみたけれど』(1932年)にも『ピストルオペラ』(2001年)にも現れる青木富夫(1923~2004)を見て、ほかに二人の映画に出演したことのある俳優は何人ぐらいいたのかととも思いました。
『麥秋』(1951年)と『悲愁物語』(1977年)の佐野周二(1912~1978)がいますね。鈴木清順は松竹時代から顔見知りだったのでしょうか。ほかにだれがいるのかしらん。
見返していると、小津映画での俳優陣の身振り、カラダの動かし方は、日常的な動作にしても、今では見かけないものだということをいちばんに感じました。
これを現在の身体で演じるとなると、もう舞踊の領域です。
小津映画の俳優の動きは、今だと choreographer(振付師)が必要なカラダの動かし方だと思いました。
いや、当時も振り付けされた動きだったのかもしれません。
鈴木清順映画の登場人物たちのカラダの動かし方も「暗黒舞踏」的な、日常を感じさせないものなのですが、そういう動きとも違います。
セロニアス・モンクのピアノを、ミスタッチを含めて、そっくりそのまま演奏する人がいましたが、小津映画の登場人物たちのカラダの動かし方を素人がそのまま模倣すると、現在の身体性との違いから、節々痛くなるに違いありません。
テレビで見ると、そうした間の抜けたことばかりを考えてしまいます。映画館で見たいです。
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■鈴木清順『花地獄』
発行日1972年6月10日、北冬書房
装幀 林静一
■鈴木清順『暴力探しにまちへ出る』
発行1973年6月15日、北冬書房
■鈴木清順『夢と祈禱師』
発行日1975年4月28日、北冬書房
装幀 林静一
■鈴木清順『孤愁』
発行日1980年12月25日、北冬書房
イラスト・林静一 デザイン・伊藤重夫
■鈴木清順『まちづくし』
発行日1982年6月15日初版、北冬書房
本文カット・林静一
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■磯田勉編 轟夕起夫協力『清順スタイル』
2001年3月24日第1刷、ワイズ出版
■『陽炎座』
1981年10月1日発行、シネマ・プラセット、群雄社出版
■鈴木清順『けんかえれじい』
1970年9月30日第1版第1刷発行、1991年12月15日新装第1版第1刷発行、三一書房
「人斬り数え歌(原案)」、高倉健をイメージキャスティングしていた「鋳剣(脚本)」、「けんかえれじい(脚本+コンテ)」を収録。
私が鈴木清順の本を集めたのは、『孤愁』が新刊として出たころで、そのころは、赤と黒に桜があしらわれた表紙の『けんかえれじい』初版は古書店でも高くて、手が出せませんでした。新版が出たときはうれしかったです。
表紙から桜が消えたのは残念でした。
鈴木清順に桜吹雪は欠かせません。
■鈴木清順『けんかえれじい』
2003年1月25日第1刷発行、日本図書センター
日本人の自伝シリーズ、人間の記録150
新組ですが、内容は三一書房版と変わりません。
■鈴木隆『けんかえれじい』
1982年、角川文庫
鈴木隆『けんかえれじい1』(1982年9月20日初版発行、角川書店)
カバー 和田誠 解説 和田誠
鈴木隆『けんかえれじい2』(1982年9月20日初版発行、角川書店)
カバー 和田誠 解説 伊藤桂一
原作の鈴木隆『けんかえれじい』も読みはじめたら徹夜になるような面白い本でした。
角川文庫版ではじめて読みました。
柳田国男がいう「明治大正年間において、大部分の喧嘩は、変則なる一種の社交術に過ぎなかった」ことの見本帖です。
『けんかえれじい』については、原作本や鈴木清順の映画の前に、NHKの少年ドラマシリーズで見たのが最初でした。調べてみると1973年5月~6月の放送です。
70年代後半、竹下景子が有名になりはじめたころ、けんかえれじいで道子役だった人だと気づくぐらい、しっかり見ていたドラマでした。
振り返ってみると、鈴木清順の映画『けんかえれじい』は、その後連綿と作られ続ける『ビー・バップ・ハイスクール』『クローズ』『東京リベンジャーズ』など不良とけんかを主題とした作品群の起点になった作品だったような気がします。
◆拾い読み・抜き書き◆
鈴木清順『花地獄』収録の「交攻の五人」の、映画『けんかえれじい』で北一輝を演じた緑川宏のことを書いた文章が記憶に残っています。
引用します。
うちに椰子の実が一つある。図体が大きいのと重いばかりで飾り物にもならないので閉口しているが捨てる訳にもゆかない。自殺した男が持って来たものだからである。持って来たその男はこう言った。「これはうちで成った貴重なものです」東京で椰子の実が成るはずはない、と言うと、「それなら僕のアパートに来て下さい、嘘か本当か分ります」
私はその男のアパートへ行くかわりに会社に行き休職の手続きをとって貰った。男は俳優で緑川宏といった。そのあと精神病院を小当りに当ったが、何処も満員でしばらくアパートに独りでいるより仕方がなかった。女房はとうの昔娘をつれて家を出て了っている。叔母という人がやって来て、「実は私共夫婦のいる家は恭次郎(本名を野口恭次郎と言った)のもので、病院に入る迄うちで療養するように言ったのですが、当人がどうしても聞き入れてくれないのです。別に乱暴する訳でもないから大丈夫です、と医者は言うのですが、あの部屋を見たらただ事ではないと誰でも思います」
叔母さんの話では、アパートのベランダから部屋一杯、熱帯植物が繁茂し、それが手入れもしないから枯れたのは枯れたまま、茂るのは茂るにまかせ、昼なお暗い有様の中で、熱帯魚が大方死んで浮き上っている水槽から、酸素の気泡が絶えず浮いて、酸素だけが生きもので、あとは死んだ世界だという。台所は饐えた臭いで充満し、緑川はトイレ兼風呂場に蒲団を敷いて其処にいるという。叔母さんが掃除をしようとすると、気分が変るからしないでくれと言い、植物の名前から手入れの方法、バナナや椰子の実の成らせ方など飽きもしないで喋り、腹が減ったろう、とライスカレーを手際よく作ってくれたという。
私と緑川の出会いは大船の撮影所である。当時彼は本名の野口を使っていた。人当りは決していい方ではなく、新米助監督の私には厭な部類の俳優だった。俳優も大部屋に永くいると余程割り切った考えを持たない限り根性がまがるのは当り前で、そうそう助監督の言いなりになってなんかいられないというのが建前になり、一度通行人になってキャメラに映ったら、次のキャバレーの客になって出るのを出渋る。成程今通行人で表を歩いている人が、同じ場面でお客になっているのはおかしな訳だが、私たち助監督にすれば何が何でもキャバレーを一杯にしなければ監督にいじいじ言われるから、洋服を替えても出て貰う。そうゆう場合に、屁理屈の一つも言わなければ気の済まぬ俳優が野口で、あとあと付き合いがなければ私もそのままの野口で忘れ去って了っただろうが、私が日活に移ると間もなく彼も移って来、芸名を緑川と変えた。改名は私の師匠である野口博志監督の手前である。「あんたが助監督で野口、野口と呼んだら、それが仮令私であっても監督が気を悪くするからね」と冗談のように言った。
その後緑川はちょいちょい私の家に遊びに来るようになると、彼が川崎で生れ、中学の時父母を亡くしてぐれ出し、父親の遺産があったので横浜、銀座と遊び暮し、銀座では昼のタマリ場が玉撞のカツラ、ビリヤード笙、お茶はブラジル、千疋屋、資生堂、チョコレートショップ、コロンバン、腹が減れば大増、スエヒロ、精養軒、横浜は山下町のバー、ホワイト・ホース、此処で監督の島津保次郎と知り合い、映画界に入るキッカケをつかんだものの日ならずして兵隊にとられ、同監督が祝入隊と書いてくれた襷をかけて上野駅から高田の聯隊へ。その時の上野駅十三番線の寒々とした光景は今でも忘れられない、と言った事を或る時は笑いながら、笑っているかと思うと突然真顔になり、そうかと思うと空笑いしたり、又或る時はしみじみ喋った。私はその時分から彼の真顔の目つきが気になって仕方がなかった。言うなれば気持が悪いのである。酒を飲まないでも据わるのである。その故か私が監督になってからの彼の役はいつも刑事だった。その頃の日活の花形は何と言ってもギャング役だったが、彼の角ばった端正な顔はギャングには不似合に思えた。心機一転の日活も毎度毎度刑事役ではそれこそお付き合いの程度で、前から好きだった植木に凝り出したのである。
《略》
私が熱帯植物の話をすると、植物に偏執狂と思われる程の愛を示していた彼が、ぱらぱらっと私の前に写真を並べて見せるのである。何の変哲もない夜の盛り場や、神社仏閣、はては平凡な野山の風景が天然色で映っている。その一つ一つに彼がどんな気持でシャッターを切ったか、この赤い提灯は、今おうかがいに行っている霊感者の家の玄関にある提灯で有難いものなのです、と講釈を一ならべするとむづかしい顔をしてさっさと帰ってゆき、帰ったかと思うと又やって来て、朗らかに「御迷惑でしたでしょう、退屈で、御免なさい、御免なさい」と何度もお辞儀をして帰ってゆくのである。
そして翌日、椰子の実を持って来たのである。
私が彼に北一輝の役ふりを当てたのは、彼がまだ鬱蒼たる密林に独り住んでいた頃である。試写が終った時、彼は私の方に馳けて来て、ぴょこんと頭を下げ何か言いたげだったが、口のまわりがひくひく動いただけで何も言わなかった。彼の眼に涙が光っていた。
数日後、彼は彼の演じた北一輝の写真を大きく引き伸ばして私のとこに見せに来た。何如にもうれしそうだった。
間もなく彼は小平の精神病院に入院し、二度程私は手紙を書いた。当人からは何の返事もなかったが、叔母さんから当人の伝言を伝えて来た。何時彼が病院を退院し、密林で首をくくったのか知らない。死体は1ヶ月も経って発見された。
椰子の実をみる度に私は彼がたった一度だけ私に聞かせてくれた歌を思い出す。
〽弱虫がたった一声ちっちゃな声で
棄てちゃいやよ、と言えた晩
この文章を読む前に見た『けんかえれじい』でも、緑川宏が演じる北一輝の存在感は、「気味が悪い」ということばで片付けられないものを感じました。
この文章を読んだからといって、腑に落ちたわけでもありません。
亡き父と『けんかえれじい』を見たことがありました。
亡父といっしょに映画を見たという記憶はほとんどないのですが、あるとき、ヴィデオで『けんかえれじい』を見ていたら、旧制中学・旧制高校出身の父の興味をひいたのか、一緒に見始め、最後まで面白がって見ていました。
ただ北一輝の描き方が気に入らなかったようです。
緑川宏が演じる北一輝は何か常ならざる者に見えてしまいます。
父は、そういう描き方をするのは嫌だ、危険だと感じる人でした。
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407. 1956年の『The BEST of Friends(最良の朋友)』(2023年11月24日)
前回からの続きです。
シドニー・カーライル・コッカレル(Sydney Carlyle Cockerell、1867~1962)への手紙をまとめた、1940年の『FRIENDS of a LIFETIME(生涯の朋友)』の続編です。
『The Best of FRIENDS Further letters to Sydney Carlyle Cockerell』(1956年、Rupert Hart-Davis)
『最良の朋友 続・シドニー・カーライル・コッカレルへの手紙』
編者は、前作同様、ヴァイオラ・メイネル(Viola Meynell、1885~1956)、彼女の遺著でもあります。
シドニー・カーライル・コッカレルという人物を一言であらわすと、いい意味で「モリスの忠実な番犬」というのがあてはまるような気がするのですが、言い過ぎでしょうか。
コッカレルは、ケンブリッジ大学附属のフィッツウィリアム美術館の館長を1908年から1937年まで30年務めましたが、学歴としては高卒で、館長としては異例の存在です。40歳までは在野の人でした。
1884年、ロンドンのパブリックスクール、セント・ポールズ・スクール(St. Paul's School)を卒業すると、祖父と二人のおじが営んでいた石炭商Geo. J. Cockerell & Co.で働くようになります。コッカレルが10歳の時、父親が亡くなったので、その跡を受け継ぐようなかたちでした。
10代後半のコッカレルは、仕事以外の時間で、その人生に大きな影響を与えた3人と出会います。
1人目は、オクタヴィア・ヒル(Octavia Hill、1838~1912)。貧困層の住環境改善につとめた社会事業家で、その手伝いをするようになります。もともとは亡くなった父が、彼女の支援者だったことがきっかけでした。
2人目は、ジョン・ラスキン(John Ruskin、1819~1900)。コッカレルは子どものころから収集癖があって、整理分類を得意としていました。貝類の収集では10代にして専門家をしのぐほどで、その知識からラスキンとの文通が始まります。『建築の七灯』(The seven lamps of architecture、1849年)などラスキンの著作に感銘を受けて、フランスにゴシック建築に見に渡航したとき、たまたま、ラスキン一行と同行することになり、3週間ラスキンと一緒に古建造物を見て回るという夢のような旅を体験しています。ラスキンにとっても、最後の大陸への旅行でした。
若いながら、コッカレルには仲裁者の能力もあって、長い間仲違いしていたオクタヴィア・ヒルとジョン・ラスキンの関係を修復させています。
それぞれ名声のある50歳代の女性と70歳代の男性の長年の不和を解消するよう働きかけるなんて、たいした若者です。
3人目は、ウィリアム・モリス(William Morris、1834~1896)。コッカレルは5人兄妹の次男で、長男のテオ(Theo Cockerell)がモリスの政治集会に参加していたことから、「テオの弟」として知り合います。1890年、モリスは「古建造物保存会(The Society for the Protection of Ancient Buildings: 略称S.P.A.B.)」を立ち上げ、コッカレルはその委員会のメンバーに選ばれます。メンバーは、モリスのほか、建築家・デザイナーのフィリップ・ウェブ(Philip Webb、1831~1915)、製版・活字の専門家エメリー・ウォーカー(Emery Walker、1857~1933)、建築家W・R・レザビー(William Richard Lethaby、1857~1931)、アーツ・アンド・クラフツ運動(Arts and Crafts Movement)の推進者たち、当時その世代を代表するような専門家が集まっていました。委員会の会合は毎週木曜日午後5時から、7時には「食事(High Tea)」で、毎回談論風発の集まりで、最年少のコッカレルにとっては、最高の学びの場でした。コッカレルの日記によれば、会合は少なくとも125回以上開かれていたようです。
コッカレルはこまめな人で丁寧に日記を書く人でした、1886年から1962年までの日記は、現在は大英図書館(British Library)に所蔵されています、公刊はされていませんが、例えばウェブ上でその日記にアクセスできるようになれば、文化史的に素晴らしいアーカイヴになるのではないかと思います。
1892年、25歳のコッカレルは石炭の仕事を辞め、アートの世界に飛び込みます。モリスの私設秘書、ケルムスコット・プレス(Kelmscott Press)の秘書(Secretary)となって、モリスの仕事を支えます。 コッカレルの収集、整理分析の能力、そして実際的なビジネスのセンスは、モリスに欠けているものを補うに十分な存在でした。
1896年にモリスが亡くなったとき、ケルムスコット・プレスを見事に畳んだのも、コッカレルの手腕でした。
その後、エメリー・ウォーカーと、古文書や古写本を複製する製版所を運営したり、中世古文書・古写本の収集家、在野の専門家として、確固たる存在になっていきます。
1907年、装飾写本の制作者フローレンス・ケイト・キングスフォード(Florence Kate Kingsford、1871~1949)と結婚。
1908年、40歳をすぎて結婚したコッカレルは、M・R・ジェイムズ(Montague Rhodes James、1862~1936)の退任のあと空席になっていた、ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館の館長(Director)に応募します。基本的に大学関係者が引き継いできた職なので、ケンブリッジ大学と無縁なコッカレルにとっては不利な求職でしたが、決定をつかさどるような有力者たちに働きかけられる多くの友人たちがいて、イギリス中とどこを探しても美術館館長としてコッカレル以上の適任者はいないと運動してくれたようです。仕事に正確で信頼が置け、ビジネスの能力があり、率直で、気配りのある、高い品性の持ち主と評価されていました。
『The Best of FRIENDS(最良の朋友)』は、前作『FRIENDS of a LIFETIME(生涯の朋友)』と違い、亡くなった人だけでなく、刊行された1956年当時存命の人からの手紙も収録しています。意外なところでは、俳優のアレック・ギネス(Alec Guinness、1914~2000)とも文通しています。美術関係者が多いですが、交友関係は広いです。
前作のように個人個人で手紙をまとめるのではなく、編年形式で1900年から1954年まで並べられています。そのため、話題が波及していく様子や、やりとりの流れが分かりやすくなって、ドライブ感のある、時間と人の考えの流れを感じられる構成になっています。
ただ、 ロウレンティナ・マクラクラン(Dame Laurentia McLachlan)からの手紙だけは、巻末にまとめて収録されています。
『The Best of FRIENDS』(1956年、Rupert Hart-Davis)ダストラッパー
『The Best of FRIENDS』(1956年、Rupert Hart-Davis)表紙
縦220×横148×幅28ミリ
308ページ
『The Best of FRIENDS』(1956年、Rupert Hart-Davis)扉
Rupert Hart-Davisのキツネのプリンターズ・マークは、レイノルズ・ストーン(Reynolds Stone,1909~1979)作です。
『The Best of FRIENDS』(1956年、Rupert Hart-Davis)刊記
◆
『FRIENDS of a LIFETIME』でコッカレルに手紙を送った人々
下記手紙の送り手につけた番号は便宜上のもので、『FRIENDS of a LIFETIME』の62人から続けて付けてみました。
『FRIENDS of a LIFETIME』の手紙の送り手は1940年時点でみな亡くなっていましたが、『The Best of FRIENDS』では、亡くなった人と1956年当時存命だった人の手紙が交じっています。【 】で生没年を示した人が1956年当時存命だった人です。
1940年の『FRIENDS of a LIFETIME』では、個人別に手紙がまとめられていましたが、1956年の『The Best of FRIENDS』では、1900年から1954年まで年順で編集されています。ただ、デイム・ローレンティナからの手紙だけは最後にまとめて掲載されています。
下記の番号も登場順です。
(63) Sir Arthur Quiller-Couch(1863~1944)、作家、Qというペンネーム、ケンブリッジ大学の英文学教授
(64) C. H. St. John Hornby(1867~1946)、英国小売業大手のWHSmith創業者、Ashendene Pressの経営者
(65) Laurence Binyon(1869~1943)、詩人、大英博物館員
(66) Katharine Adams(Mrs. Edmund J. Webb、1862~1952)、製本家
(67) Lady Helena Carnegie【1865~1943】、第9代サウシェスク伯爵ジェームズ・カーネギーの娘
(68) Theodore Watts-Dunton(1836~1914)、詩人、批評家
(69) Lucy Clifford【1846~1929】作家
(70) Wilfrid Meynell C.B.E.(1852~1948)、出版者、編集者、Viola Meynellの父
(81) Hilare Belloc(1870~1953)、歴史家、保守主義の評論家
(82) Sir Muirhead Bone(1876~1954)、版画家、水彩画家
(83) George Bernard Shaw(1856~1950)、劇作家、社会主義の評論家
(84) Sir Max Beerbohm【1872~1956】、エッセイスト、カリカチュア画家、劇評家
(85) Siegfried Sassoon, M.C. 【1886~1967】詩人
(86) Walter De La Mare, O.M., C.H. 【1873~1956】、小説家、詩人
(87) Martin Hardie, C.B.E、【1875~1952】、画家、版画家、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館の絵画・版画部門学芸員
(88) Sir J. J. Thomson, O.M., F.R.S.(1856~1940)、Trinity Collegeの学長
(89) Mrs. G. M. Trevelyan, C.H. 【Janet Penrose Ward、1879~1956】、歴史家George Macaulay Trevelyan(1876~1962)の妻
(90) Mrs. C. M. Doughty(Caroline Amelia McMurdo、1862~1950)、陸軍大将Sir William Montagu Scott McMurdoの娘、著作家のC. M. Doughtyの妻
(91) Gertrude Caton-Thompson, Litt.D. 【1888~1985】、考古学者
(92) Mrs. J. W. Mackail(Margaret Mackail)【1866~1953】EdwardとGeorgiana Burne-Jonesの娘
(93) Dr. Axel Munthe(1857~1949)、スウェーデン出身の医師、著作家
(94) Carolin Nias(1862~1948)、Admiral Sir Joseph Niasの娘
(95) Bernhard Berenson【1865~1959】、美術史家
(96) Laurence Housman【1865~1959】、劇作家、イラストレーター
(97) Rt. Hon. Lord Kennet of the Dene, G.B.E., D.S.O. 【1879~1960】、政治家
(98) T. H. White【1906~1964】、小説家、『永遠の王 アーサーの書』
(98) Freya Stark, C.B.E. 【1893~1993】、中東各地を探検した旅行作家
(100) Alec Guinness, C.B.E. 【1914~2000】、俳優
(101) The Rev. Dr. John S. Whale, D.D. 【1896~1997】、歴史家、神学者
(102) T. Sturge Moore(1870~1944)、詩人、画家
(103) Mrs. Edmund Booth【Etta Addis】
(104) Field-Marshal Earl Archibald Wavell, P.C., G.C.B., G.C.S.I., G.C.I.E., C.M.G., M.C.(1883~1950)、初代ウェーヴェル伯爵アーチボルド・パーシヴァル・ウェーヴェル陸軍元帥、インド総督
(105) Edward Johnston, C.B.E.(1872~1944)、カリグラファー、書体デザイナー
(106) Bridget Johnston、【】Edward Johnstonの長女
(107) Derrick Leon(1908~1944)、小説家、伝記作家
(108) Major Earl Wavell, M.C.(1916~1953)第2代ウェーヴェル伯爵アーチボルド・ジョン・アーサー・ウェーヴェル少佐、ケニヤで殉職
(109) Alfred H. Powell【1865–1960】、アーツ・アンド・クラフツ運動の建築家、陶器デザイナー
(110) Sir Shane Leslie, Bart.(1885~1971)、外交官、著作家、ウィンストン・チャーチルのいとこ
(111) Oswald P. Milne, F.R.I.B.A. 【1881~1968】、建築家
(112) Sir Kenneth Clark【1903~1983】、美術史家
(113) Sir Desmond MacCarthy, Litt.D.(1877~1952)、作家、文芸評論家
(114) Rr. Rev. E. S. Woods, D.D., Bishop of Lichfield(1877~1953)、リッチフィールド司教
(115) Ernest G. Harris【 ? 】
(116) Eileen Bigland(Mrs. Lilburn)【1898~1970】、伝記作家
(117) The Countess of Huntingdon(Margaret Lane)【1907~1994】、作家
(118) Richard Incledon【 ? 】
(119) Walter Oakeshott, F.S.A. 【1903~1987】中世文学研究者、オックスフォード大学のVice-Chancellor
(120) The Hon. Mrs. Gilbert Coleridge【Marguerite Winifred Pierpoint Mitchell、1883~1964】、Gilbert Coleridge(1859~1953)の妻
(121) Sir Owen Morshead, K.C.B., K.C.V.O., D.S.O., M.V. 【1893~1977】、王立図書館員
(122) Ruth Draper、C.B.E., LL.D. 【1884~1956】、アメリカの舞台俳優、劇作家
(123) William M. Ivins【1881~1961】印刷史研究者、白石和也訳『ヴィジュアル・コミュニケーションの歴史』(1984年、晶文社)
(124) Rt. Hon. C.R. Attlee, O.M., C.H., M.P. 【1883~1967】、労働党政治家
(125) Joan Hassall【1906~1988】木版画家
(126) The Abbess of Stanbrook(Dame Laurentia McLachlan, O.S.B.、1866~1953)、ベネディクト会修道女、スタンブルック修道院長
(127) Christopher St. John(Miss Marshall)【1871~1960】、女性参政権運動家、作家
(128) Mrs. Bernard Shaw(Charlotte Payne-Townshend、1857~1943)、ファビアン・ソサエティ会員、女性解放運動活動家
(129) Sir Ivor Atkins【1869~1953】ウスター大聖堂図書館司書、ウスター大聖堂のオルガン奏者
129の興味深い名前が並んでいます。
今の世で、コッカレルのように信頼される存在は誰なのでしょう。
◆
ウィルフリッド・ブラント(Wilfrid Jasper Walter Blunt、1901~1987)によるシドニー・カーライル・コッカレルの伝記『Cockerell』の英国版と米国版の書影も並べてみます。
『Cockerll』(1964年、Hamish Hamilton)ダストラッパー
コッカレルを人生を彩った人物として、ローレンティナ・マクラクラン(Dame Laurentia McLachlan、1866~1953)、トマス・ハーディ(Thomas Hardy、1840~1928)、ジョージ・バーナード・ショー(George Bernard Shaw、1856~1950)、ジョン・ラスキン(John Ruskin、1819~1900、フレヤ・スターク(Freya Stark、1893~1993)、T・E・ローレンス(Thomas Edward Lawrence、1888~1935)、ウィリアム・モリス(William Morris、1834~1896)、ウィルフリッド・スカウェン・ブラント(Wilfrid Scawen Blunt、1840~1922)の8人の写真が選ばれています。
『Cockerll』(1964年、Hamish Hamilton)表紙
縦228×横160×幅40ミリ
xviiiページ、386ページ
『Cockerll』(1964年、Hamish Hamilton)扉
『Cockerll』(1964年、Hamish Hamilton)刊記
『Cockerll』(1965年、Alfred A Knopf)表紙
手もとにあるアメリカ版は、ダストラッパーなしの裸本です。
縦218×横150×幅33ミリ
xviiiページ、386ページ
『Cockerll』(1965年、Alfred A Knopf)見返し
フィッツウィリアム美術館の写真が使われています。
イギリス版も同様の見返しです。
崇文堂で買い求めました。
『Cockerll』(1965年、Alfred A Knopf)扉
『Cockerll』(1965年、Alfred A Knopf)刊記
クノップ社の本の流儀で、使われた活字がモノタイプ社の「Walbaum」と明記されています。
組版は、英国版・米国版、同じものが使われています。
コッカレル伝の著者のウィルフリッド・ブラント(Wilfrid Jasper Walter Blunt、1901~1987)は、美術史学者、伝記作家。晩年はワッツ・ギャラリー(Watts Gallery)の館長を務めていました。
『FRIENDS of a LIFETIME』に手紙を収録されたウィルフリッド・スカウェン・ブラント(Wilfrid Scawen Blunt、1840~1922)は遠い親戚のようですが、その名前を受け継いでいます。
コッカレルは、ウィルフリッド・スカウェン・ブラントの私設秘書としてエジプトに行っていた時期もありました。
伝記作者のウィルフリッド・ブラントのボタニカルアートについての概説書は、邦訳もでています。
■ウィルフリッド・ブラント著 森村謙一訳『植物図譜の歴史:芸術と科学の出会い』(1986年・2014年、八坂書房)
ウィルフリッド・ブラントの弟アンソニー・ブラント(Anthony Frederick Blunt、1907~1983)も美術史学者で、荒井信一訳『ピカソ<ゲルニカ>の誕生』(1981年、みすず書房)、岡崎康一訳『ウィリアム・ブレイクの芸術』(1982年、晶文社)などの邦訳もあります。
しかし、アンソニー・ブラントは、美術史学者というより、ソ連のスパイとして記憶されています。
頭の切れる曲者を輩出する一族だったようです。
◆
コッカレルと修道女ロウレンティナ・マクラクラン、作家バーナード・ショー3人の手紙のやりとりは、ヒュー・ホワイトモア(Hugh Whightmore)の台本で舞台化され、テレビ・ドラマにもなっています。
イギリスのチャンネル4制作の1991年作品『Friends of a Lifetime』のDVD、カナダ盤(2002年)を持っています。
コッカレル役は、ジョン・ギールグッド(Sir John Gielgud、1904~2000)、デイム・ローレンティナ役は、ウェンディ・ヒラー(Dame Wendy Hiller、1912~2003)、バーナード・ショー役は、パトリック・マクグーハン(Patric McGoohan、1928~2009)。
文通によるつながりなので、それぞれの対話でなく、個々の3つの場所でのモノローグで進行する物語になっています。
バーナード・ショー役をアイルランド系の俳優が演じるのはもっともなことなのですが、コッカレルの文通相手だったアレック・ギネス(Sir Alec Guinness、1914~2000)でも見てみたかったです。
このテレビドラマと同じころだと、イヴリン・ウォー(Evelyn Waugh、1903~1966)原作のイギリス映画『ハンドフル・オブ・ダスト(A Handful of Dust)』(1988年)で、アレック・ギネスが演じた「Mr. Todd」は強烈でした。
優雅な上流階級ものを期待して見ていた人が、「何なの、あのじじい」と怒りに震えていました。
◆
鹿児島市春日町の旧岩崎邸が無くなっていました。
鹿児島では珍しい、戦前から残る洋館でした。
敷地にあった楠や桜などの樹木も、洋館と一緒に無くなり、全くの更地になっていました。
広くて、草野球ができそうです。
かつて重富島津家の上屋敷があった場所です。
鹿児島城下絵図には4333坪とあります。
重富島津家というと、島津久光(1817~1887)や島津珍彦(1844~1910)ゆかりのお屋敷があった場所です。
島津家が移った後、分割されて、藤武邸や共立幼稚園などに分かれた一画にあった、洋館でした。
保存が決まった藤武邸より古い建物だったのではないでしょうか。
藤武邸の保存については議論の場がありましたが、旧岩崎邸については何の前触れもなく消失してしまいました。
旧岩崎邸の敷地内には、縄文時代の遺跡、春日町遺跡もありました。
マンションになるという話です。
鹿児島に「古建造物保存会(S.P.A.B.)」のメンバーがいたら、何を思うのでしょう。
ながらく人も住んでいなかったようですし、高い塀に囲まれた私有地で、写真もほとんど見かけません。
春日神社の境内から見える様子しか記憶にありませんが、鹿児島ではほかで見ることがない建築物で、絵に描いたような「洋館」でした。
門構えも立派でしたね。
取り壊すのであれば、なにか本格推理映画の舞台として使って、映像の記録を残せばよかったのに、と勝手に思ったりします。
何も無かったことのように、なくなりました。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
チャクラ(CHAKRA)メジャーデビュー前の1978年~1980年のデモ音源を、2023年に聴くことができました。
デビュー盤『CHAKRA』(1980年、日本ビクター)より、「ニューウェーブ」です。
道に迷うとフュージョンに紛れ込みそうな危うさも感じましたが、日本の「ニューウェーブ」です。
CHAKRA『おとはじめ』(2023年、galabox)
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406. 1940年の『FRIENDS of a LIFETIME(生涯の朋友)』(2023年11月23日)
前回の佐佐木信綱『明治文學の片影』(1935年)に続いて、同じような構成の「手紙の時代」の本を取り上げます。
イギリスの書誌学者でケンブリッジ大学附属のフィッツウィリアム美術館(Fitzwilliam Museum)の館長を1908年から1937年まで30年務めたシドニー・カーライル・コッカレル(Sir Sydney Carlyle Cockerell、1867~1962)というなかなかの人物がいます。
その人へ送られた手紙をまとめた本です。
Edited by Viola Meynell『FRIENDS of a LIFETIME LETTERS TO SYDNEY CARLYLE COCKERELL』(1940年、Jonathan Cape)
ヴァイオラ・メイネル編『生涯の朋友 シドニー・カーライル・コッカレルへの手紙』
佐佐木信綱『明治文學の片影』同様、1940年の刊行時、亡くなっていた人たちの手紙があつめられています。
ジョン・ラスキン、ウィリアム・モリス、トマス・ハーディ、ヘンリー・ジェームズ、T・E・ロレンスといった手紙の書き手が次々でてきます。
手紙の数は1通の人から20通を超える人まで、1877年から1937年まで、コッカレル宛ての62人の手紙が、ゆるやかに時代順に収録されています。
美術、文学、古文書、筆記体、政治、ゴシップ、人が関心をもつさまざまな話題が取り交わされていますが、特に、図書館や美術館、博物館に関心のある人にとっては、格好の読み物になっています。
こういう本が、ふつうに翻訳されていればなと思います。
『Friends of a Lifetime』の編者のヴァイオラ・メイネル(Viola Meynell、1885~1956)は作家で、出版一族の一員です。
父のウィリフリッド・メイネル(Wilfrid Meynell、1852~1948)はタイポグラフィーに詳しい編集者・出版人で、Westminster Pressを主宰、母のアリス・メイネル(Alice Meynell、旧姓Thompson、1847~1922)は詩人、弟のフランシス・メイネル(Francis Meynell、1891~1975)はノンサッチ・プレス(Nonesuch Press)の創業者です。第135回で紹介した1943年の『FLEURON』誌刊行20周年記念に催された食事会の参加者の1人です。
ノンサッチ・プレスは、秋朱之介(西谷操、1903~1997)が、こんな本を作りたいとあこがれていた版元です。
1937年、コッカレルはフィッツウィリアム美術館館長を退任し、ケンブリッジを離れてロンドンのキュー(Kew)に移転します。
その新居を訪ねたヴィイオラ・メイネルは、書庫に入る許可を得て、何冊もの手紙を整理したモロッコ装の本を借りだす許可を得ました。
そこから企画が立ちあがり、誕生した本です。
1956年に、続編の『The Best of Friends』 も刊行されています。
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)ダストラッパー
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)表紙
縦227×横155×幅36ミリ
384ページ
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)扉
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)刊記
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)見返しの書き込み
手もとにある本には、見返しに、シドニー・コッカレル自筆の書き込みがあります。
To R. Page Arnot
from Sydney Cockerell
Kew 9 Oct 1951
ロバート・ペイジ・アーノット(Robert "Robin" Page Arnot、1890~1986)は、イギリスの共産主義者で、イギリス炭鉱労働者の歴史について大部の著作のある人です。アーノットにはウィリアム・モリスについての著作もあるので、モリスの徒からモリスの徒へ贈られた本だと思うと、ちょっと胸があつくなります。
1940年刊行の本ですが、1951年にコッカレルの手もとにあった本を贈ったもののようです。
『FRIENDS of a LIFETIME』(1940年、Jonathan Cape)誤植修正
2カ所、コッカレルの手で、誤植が修正されています。
p12
Roxburge Club → Roxburghe Club
ロクスバラ・クラブ
p245
Haifa → Hirfa
◆
『FRIENDS of a LIFETIME』でコッカレルに手紙を送った人々
『FRIENDS of a LIFETIME』では、1940年の刊行時、亡くなっている人たちの手紙が収録されています。
(1) Sydney Joh Cockerell(1842~1877)Sydny Carlyle Cockerellの父親、石炭商、社会事業家 2通(付記)
(2) Mrs. S. J. Cockerell(Alice Elizabeth Bennet、1845~1900)、Sydny Carlyle Cockerellの母親 1通
(3) Sir Richard Douglas Powell, Bart., M.D.(1842~1925)Royal College of Physiciansの学長、英王室の侍医 1通
(4) Lady Bennet(Agnes Willson、1822~1889)、Sir Jon Bennet夫人 1通
(5) John Ruskin(1819~1900)、芸術家、芸術・政治経済の思想家 19通(付記)
(6) Octavia Hill(1838~1912)、ロンドンの公営住宅の改革者、ナショナルトラストの創始者 6通
(7) William Morris(1834~1896)、詩人、ロマンス作家、工芸家、出版者、社会主義者 2通
(8) Sir Charles Stewart Loch(1849~1923)経済学教授、1868年設立のロンドンの慈善組織協会の幹事 1通
(9) Mrs. William Morris(Jane Burden、1839~1914)William Morrisの妻、画家ロセッティのモデル 3通
(10) May Morris(1862~1938)、William とJane Morrisの二女、刺繍作家、デザイナー、父の作品の編集者 5通
(11) Henry Elford Luxmoore(1841~1926)、イートン校の校長、ラスキンの理想を実現するために設立されたセント・ジョージ・ギルドの会長 2通
(12) Count Leo Tolstoy(1828~1910)、ロシアの小説家、1通(付記)コッカレルは1903年ロシアにトルストイを訪ね、ラスキンの本を贈っている。
(13) Alice Meynell(Alice Thompson、1847~1922)詩人、本書の編者Viola Meynellの母 1通
(14) Algernon Charles Swinburne(1837~1909)、詩人 1通
(15) Sir Edmund Gosse(1849~1928)、貴族院図書館司書、詩人、評論家 3通
(16) Charles Fairfax Murray(1849~1919)、芸術家、収集家、ロセッティやモリスの友人、コッカレルが館長を務めたフィッツウィリアム博物館への寄贈者
(17) Arthur Hughes(1832~1915)、ラファエル前派の画家、挿絵画家 1通
(18) William Hale White(1831~1913)、作家、ペンネームMark Rutherford、1通
(19) Philip Webb(1831~1915)、建築家、デザイナー、Morris & Co.のパートナー 21通(付記)
(20) Lady Burne-Jones(Georgiana Macdonald、1840~1920)、Sir Edward Burne-Jones夫人。Rev.G. B.Macdonaldの5人の娘の1人。そのうち2人は、Stanley BaldwinとRudyard Kiplingの母 15通(付記)
(21) William Richard Lethaby(1857~1931)、建築家、ロイヤル・カレッジ・オブ・アートのデザインの教授 15通(付記)
(22) William De Morgan(1839~1917)、陶芸家、小説家 1通
(23) Katherine Bradley(1848~1914)、詩人、姪のEdith CooperとともにペンネームMichael Field 3通
(24) Ouida(Louise de la Ramée、1839~1908)、小説家、イタリア在住 日本では『フランダースの犬』が知られる 13通
(25) Robert Bontine Cunninghame Graham(1852~1936)、作家、旅行家、政治家、下院議員 1通
(26) Wilfrid Scawen Blunt(1840~1922)、詩人、旅行家、政治家、反帝国主義の国家主義者 42通(付記)
(27) The Hon. Mark Napier(1852~1919)、弁護士、下院議員 1通
(28) Ralph, 2nd Earl of Lovelace(1839~1906)、第2代ラブレス伯爵、登山家、詩人バイロンの孫 1通
(29) Lady Blanche Hozier(1854~1925)Lady Blanche Ogilvy、第7代エアリー伯爵の娘 2通
(30) Alfred Russell Wallace, F.R.S.(1823~1913)、自然科学者、旅行家、社会学者、ダーウィンとともに自然選択を提唱 4通
(31) Sir Francis Darwin, F.R.S.(1848~1925)、園芸家、チャールズ・ダーウィンの三男、ダーィンの伝記作者 1通
(32) Henry Festing Jones(1851~1928)、シシリーについての著作家、サミュエル・バトラーの伝記作家 2通
(33) Sir Emery Walker(1851~1933)、製版制作者、収集家、タイポグラフィーの専門家 4通(付記)
(34) Thomas J. Cobden-Sanderson(1840~1922)、製本家、印刷者、弁護士、1880年代のアーツ・アンド・クラフツ運動の推進者 16通(付記)
(35) Charles Montagu Doughty(1843~1926)、旅行家、詩人 『アラビア砂漠の旅』 13通(付記)
(36) Edward Garnett(1868~1937)、作家、批評家 1通
(37) Guy Le Strange(1854~1933)アラビアとペルシャについての研究者、中東についての著作家、教会装飾画家Henry L. Styleman le Strange of Hunstanton Hallの三男 1通
(38) Robert Bridges, O.M.(1844~1930)、桂冠詩人、優れた手書き文の推奨者 1通
(39) Henry James(1843~1916)アメリカの小説家 1通
(40) Professor F. York Powell(1850~1904)、オックスフォードの欽定教授、現代史 1通
(41) Arthur Christopher Benson(1862~1925)エッセイスト、伝記作家、イートン校校長、ケンブリッジのMagdalene Collegeの校長 3通
(42) Lady Gregory(1859~1932)劇作家、作家、Irish Theatre第一の支援者、セイロン総督Rt. Hon. Sir William Gregory, F.R.S.の妻 1通
(43) William Butler Yeats(1865~1939)、詩人、劇作家 8通
(44) Thomas Hardy(1840~1928)、小説家、詩人 24通
(45) Mrs. Thomas Hardy(Florence Dugdale、1880~1937)、Thomas Hardyの2番目の妻 27通
(46) Sir James Barrie, Bart., O.M.(1860~1937)、小説家、劇作家 2通
Viola Meynellは、James Barrieの書簡をまとめた『Letters of J. M. Barrie』(1942年、Peter Davis)
を編集しています
(47) Charlotte Mew(1869~1928)、詩人 8通(付記)
(48) Joseph Conrad(1857~1924)、小説家、船長 2通
(49) Alfred Edward Housman(1859~1936)、詩集『シュロップシャーの若者』の作者、ケンブリッジのラテン語教授 2通
(50) Roger Eliot Fry(1866~1934)、画家、批評家、ケンブリッジの美術教授 2通
(51) Walter Willson Cobbett(1847~1937)、親戚、アマチュアのヴァイオリニスト、『Cobbet’s Cyclopaedia of Chamber Music』の編者、10のストラディバリウスとガルネリを所有
(52) Montague Rhodes James, O.M., LITT. D.(1862~1936)、1894~1908年のフィッツウィリアム博物館館長、コッカレルの前任者、中世古文書の専門家、怪奇小説作家 1通
(53) David Lindsay, Earl of Crawford and Balcarres, K.T.(1871~1940)、芸術愛好家、British MuseumとNational Galleryの理事、ロクスバラ・クラブの代表 1通
(54) Walter K. Shirley, 11th Earl Ferrers(1864~1937)建築家、第11代フェラーズ伯爵 1通
(55) Sydney Holland, 2nd Viscount Knutsford(1855~1931)、弁護士、第2代ナッツフォード子爵、London Hospitalの会長 1通
(56) Charles Ricketts, R.A.(1866~1931)、画家、挿絵画家、舞台美術家、収集家 鑑定家 15通
(57) Francis William Bain(1863~1940)、歴史家、経済学者、インドのデカン大学の最高責任者、インド物語集の作家 1冊
(58) Dame Anne Dowson, O.S.B.(Irene Carlos Dowson、1889~1937)、ベネディクト会修道女 4通
(59) Oswald Barron(1868~1939)、マルトレイヴァース紋章官、紋章学と系譜学の権威 2通
(60) Thomas Edward Lawrence(T. E. Shaw、1888~1935)、『知恵の七柱』の著者、アラビアのロレンス 16通
(61) Mrs. Leverton Harris(Gertrude Richardson、1865~1938)、Rt. Hon. Leverton Harris, M.P.の妻 1通
(62) Lady Horner(Francis Graham、1854~1940)、Sir John Horner, of Mellsの妻、『Time Remembered』の著者
やはり、一人の人間がどれほど多くの知友を得ることができるのかと驚きます。
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