●my favorite things 371-375
my favorite things 371(2022年1月31日)から375(2022年5月4日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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371. 2020年の『Matrix 36』(2022年1月31日)
372. 1960年の『ジョアン・ハッサルの木版画』(2022年2月27日)
373. 1976年の藤井令一『詩集 シルエットの島』(2022年3月31日)
374. 1976年~2006年の藤井令一詩集(2022年4月5日)
375. 1950年の『IMAGE:5』(2022年5月4日)
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375. 1950年の『IMAGE:5』(2022年5月4日)
ロバート・ハーリング(Robert Harling、1910~2008)編集のイギリスの印刷美術誌『IMAGE』(ART AND TECHNICS)の第5号。
1950年秋に刊行。
縦247×横183×幅8ミリ。100ページ。
ロバート・ハーリングは、イギリスのタイポグラファー、デザイナー、編集者、小説家、ジャーナリスト、船乗りといろんな顔をもつ人物。
007シリーズの作家イアン・フレミング(Ian Fleming、1908~1964)の友人としても知られ、ジェームズ・ボンドの人物造形のモデルになったとも言われています。
イアン・フレミングの『ゴールドフィンガー(Goldfinger)』英国初版(1959、Jonathan Cape)ダストラッパーには、ハーリングがデザインした活字「Tea Chest」が使われています。
『IMAGE』第5号では、「ENGLISH WOOD ENGRAVING 1900-1950」と、20世紀前半のイギリス木版画を特集しています。
主に書籍用に制作された木版図版を収録。そのためほとんどの図版は、オリジナルの木版から刷られています。
大判の画集のなかに置くと慎ましいたたずまいですが、図版の質が高いので、ほんとうに見ていて飽きない雑誌です。
手もとにあるロバート・ハーリング編集の印刷関連誌は、この1冊だけです。
ハーリングが企画編集した一連の活字と印刷図版の専門誌、
■『タイポグラフィ(Typography)』(1937~1939、Shenval Press)全8号
■『アルファベット・アンド・イメージ(ALPHABET AND IMAGE)』(1946~1948、James Shand at the Shenval Press)全8号
■『イメージ(IMAGE)』(1949~1952、Art & Technics)全8号
これらのページを隅から隅までめくっていく機会があれば、『FLEURON』(全7号、1923~1930)のページをめくるのとは、また違った楽しい時間を過ごせると思うのですが、なかなか手が回らず、いまだその思いはかないません。
▲『IMAGE:5』(1950年、ART AND TECHNICS)ダストラッパー
▲『IMAGE:5』(1950年、ART AND TECHNICS)表紙
表紙の木版画は、グウェン・ラヴェラ(GWENDOLEN RAVERAT、1885~1957)の「Silver Street, Cambridge」(1938)
▲『IMAGE:5』(1950年、ART AND TECHNICS)目次ページ
テキストは、前書き「SOME NOTES ON THIS ISSUE」と書評をのぞけば、編集者・批評家としてイギリスの木版リヴァイヴァルの推進者だったトマス・バルストン(Thomas Balston、1883~1967)の概論のみ。
ほとんどのページを木版図版にさいています。
目次は次のようになっています。
「SOME NOTES ON THIS ISSUE」 1~2
Thomas Balston「ENGLISH WOOD-ENGRAVING 1900-1950」 3~21
図版 22~84
「BOOK REVIEW」 86/88/90/92/94/96
広告 85~100
表3にも広告
カヴァー(ダストラッパー)の謳い文句に「almost 100 engravings reproduced in most cases from original wood blocks」とあるように、あわせて100点近く、ほとんどが写真から版をおこしたものではなく、オリジナルの版木から刷られています。
1950年ごろだと、40人の版画家のオリジナルの版木を使った版画選集を、手ごろな価格でつくることができたわけです。
そういう意味では、活版印刷の時代ならではの本ともいえますし、20世紀にリヴァイヴァルした木版は、富める者でなく貧しき者のためのアートフォームだったのかもしれません。
今、この規模の作家の版画選集をオリジナルの木版を使って作ろうとすると、ものすごく手間のかかることになり、富める者だけの本になってしまいそうです。
『IMAGE:5』には、次の作家の木版図版が掲載されています。
全ページ紹介したいくらいですが、いくつかの見開きを参考まで抜き出してみます。
■LUCIEN PISSARRO(1863~1944) 3作品「Frontispiece for Moralité Legendaires」(1898)、「La Pointe de Cargoussa」「From The Book of Ruth and the Book of Esther」(1896)
■GORDON CRAIG(1872~1966) 4作品「A City」(1907)、「Torre Dei Diavoli」(1908)、「View over Florence」(1908)、「January」(1905)
ルシエン・ピサロとゴードン・クレイグの作品で始まります。
■NOEL ROOKE(1881~1953) 1作品「The Two Bridges」(1914)
■ERIC GILL(1882~1940) 5作品「Canticum Canticorum」2作品(1931)、「Headpiece for The Green Ship」(1936)、「Hamlet, Act V」(1933)、「Engraving from 25 Nudes」(1938)
■ROBERT GIBBINGS(1889~1958) 2作品「From Glory of Life」(1934)、「Bermudan Fish」(1931)
エリック・ギルの裸婦像に、ロバート・ギビングスの蛇が並んでいます。
■GWENDOLEN RAVERAT(1885~1957) 3作品「Poplars」(1916)、「Harvest by the Sea」(1918)、「Silver Street, Cambridge」(1938、表紙にも使用)、4色1作品「The Minaret. From The Bird Talisman」(1939)
ロバート・ギビングスとグウェン・ラヴェラのページから。
グエン・ラヴェラの多色木版に彩られた、ヘンリー・アレン・ウェッジウッド(Henry Allen Wedgwood、1799~1885)の『The Bird Talisman』(1939、Faber)は、陶芸のウェッジウッド(Wedgwood)家と進化論のダーウィン(Darwin)家の子どもたちに愛されたアラビアンナイツ風の物語です。
■EDWARD WADSWORTH(1889~1949) 3作品「Camouflage」(1918)、「Platelayers’ Sheds」(1914)、「In Drydock」(1918)
1918年のエドワード・ワズワースの木版からは、戦時下のプロパガンダとモダニズムの結びつきを感じます。
■PAUL NASH(1889~1946) 1作品「A Window in Hampstead」(c.1917)
■ETHELBERT WHITE(1891~1972) 2作品「From The Story of My Heart」(1923)、「A Corner of the Forest」(1931)
■JOHN NASH(1893~1977) 4作品「A Cottage in Gloucestershire」(1925)、「Tailpiece to What Thou Wast Naked」(1931)、「The Fisherman」(1931)、「Horses Grazing」(1920)
■DAVID JONES(1895~1974) 1作品「Noah. From The Chester Play of the Deluge」(1928)
■DOUGLAS PERCY BLISS(1900~1984) 1作品「The Figure Heads」(1929)
■ERIC RAVILIOUS(1903~1942) 3作品「Bird-nesting」(1927)、「From Fifty-Four Conceits」(1933)、「The Dew Pond」(1931)
エリック・ラヴィリオスのページから。
1930年代にエリック・ラヴィリオスが、ウェッジウッドのためにデザインしたマグカップなども手にしたいもののひとつです。
■GERTRUDE HERMES(1901~1983) 1作品・2色見開き「The Prawn」(1950)
ガートルード・ハーミーズのページから。
2色刷の見開き。綴じ糸の穴が中央に入っているのがもったいないです。
■BLAIR HUGHES-STANTON(1902~1981) 2作品「The Whales. From The Ship of Death」(1934)、「The Four Horsemen from Revelations of St John」
ブレア・ヒューズ=スタントンのページから。
■E. FITCH DAGLISH(1894~1966) 1作品「Great Tits」(1939)
■CLARE LEIGHTON(1899~1989) 1作品「From Country Matters」(1937)
■LEON UNDERWOOD(1890~1975) 1作品「Simian Ecstasy」(1938)
■MARY GROOM(1903~1958) 1作品「Turkeys in the Snow」(1930)
■JOHN FARLREIGH(1900~1965) 5作品「Detail of a large flower engraving」(1950)、「The Duke’s Head」「The Frighted Horse」「Dick Tarleton」「The Unicorn」(「Four designs engraved for the Brewers’ Society」1946)
ジョン・ファーリーのページから。
■AGNES MILLER-PARKER(1895~1980) 1作品「Can Stried Urn...」(1938)、4色1作品「Siamese Cat」(1939)
アグネス・ミラー=パーカーのページから。
刻まれた線の流麗さでは、際だった技術をもつ版画家です・
■IAIN MACNAB(1890~1967) 2作品「Morning. From Pippa Passes」(1937)、「Drying Sails, Lake Garda」(1938)、2色1作品「Canterbury Pilgrims」(1938)
■TIRZAH GARWOOD(1908~1951) 2作品「The Crocodile」(1929)、「The Dog Show」(1929)
■JOHN BUCKLAND-WRIGHT(1897~1954) 4作品「Headpiece from Hymn to Proserpine」(1944)、「Tailpiece」(1949)、「Engraving for Endymion」(1947)、「An engraving from Love Nights by Powys Mathers」(1936)
■C. F. TUNNICLIFFE(1901~1979) 3作品「Engravings from A Book of Birds」(1937)2作品、「A Selection for an engraving, The Percheron Horse」(1940)
C・F・タニクリフのページから。
■CLIFFORD WEBB(1895~1972) 2作品「Aquarium」(1934)、「Roman Wall」(1945)、4色見開き1作品「Pumas」(1949)
クリフォード・ウェブのページから。
これも見開きの真ん中に綴じ穴が開いているのが惜しいです。
アーサー・ランサムのツバメ号とアマゾン号シリーズの最初のイラストレーターです。
■GEORGE E. MACKLEY(1900~1983) 3作品「Three engravings from the artist’s book Wood Engravings」(1948)、「The Mill」(1946)
■REYNOLDS STONE(1909~1979) 6作品「From The Open Air by Adrian Bell」(1946)
■LYNTON LAMB(1907~1977) 3作品「A device for the Nonesuch Press」(1935)、「Two book plates」(1949-1950)
レイノルズ・ストーンとリントン・ラムのページから。
■GWENDA MORGAN(1908~1991) 4作品「Country Scenes」(1949-1950)
■GEOFFREY WALES(1912~1990) 2作品「Design for Export edition of Harper’s Bazaar」(1949)、「Lot 34」(1948)
■PETER BARKER-MILL(1908~1994) 3作品「From A Voyage Round the World」(1944)
■WINIFRED MCKENZIE(1905~2001) 1作品「House over the Canal, Bath」(1950)
■ALISON MACKENZIE(1907~1982) 1作品「The Road to Sorrento」
■JOHN O’CONNOR(1913~2004) 3色1作品「From Canals, Barges and People」(1950)、7作品「Headpieces from The Young Cricketer’s Tutor」(1948)、「From Canals, Barges and People」(1950)
アリソン・マッケンジーとジョン・オコナーのページから。
■WILLIAM ARMOUR(1903~1979) 1作品「Girl’s Head」(1949)
■JOHN WORSLEY(1919~2000) 3色1作品「Engraving for The Wreck of the Serica」(1950)
■JOAN HASSALL(1906~1988) 4色1作品「Bookplate for Kathleen Horsman」(1946)、8作品「From Our Village by Mary Russell Mitford」(1946)、「From Child’s Garden of Verses」、「From National Book League Bibliographies」(1945-1950)
ジョン・ウーズレイとジョアン・ハッサルのページから。
■KINGSLEY COOK(1911~1994) 1作品「The House with the Tattered Wallpaper」(1949)
■G. W. LENNOX PATERSON(1915~1986) 1作品「Wrens in Honeysuckle」
▲書評と広告のページから。
THE GOLDEN COCKEREL PRESSや『THE STUDIO』の広告。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
最近、AppleのiPadのCMに、スパークス(Sparks)の「THIS TOWN AIN'T BIG ENOUGH FOR BOTH OF US(この街はぼくたちふたりには狭すぎる)」(1974年)が使われていたり、NHKの「あさイチ」の映画紹介コーナーで、スパークスのドキュメンタリーが紹介されたりして、スパークスに陽のあたる日が来ているのかと、古参の部類としては胸がさわぎます。
便乗して、しばらく仕舞ったままのレコードを引っ張り出したら、紙にだいぶシミがでていて、ロン・メエルとラッセル・メエルのサインが入ったシートにもシミが出ていました。湿気の多い鹿児島のような土地柄とはいえ、失敗です。
ちゃんと定期的に棚や箱から出さないといけなかったと反省。
陽の光があたってほしいということでは、例えば、デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキン(Dave Stewart & Barbara Gaskin)も、「80年代のカーペンターズ」みたく、新たに陽があたらないものかと思ったりします。
写真は、カンタベリー系の音源としては珍品の部類に入るんじゃないでしょうか。
1987年4月にリリースされたデイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンのアルバム『The Singles』の販促用に配られたソノシート「シート・レコード・クイズ」です。
DJのピーター・バラカンが、デイヴ・スチュワート&バーバラ・ガスキンの「It's My Party」「I'm In A Different World」をかけながら、クイズを出題します。
そのクイズに応募すると、MIDI特製スチュワート/ガスキン・レコード袋(布製)が先着500名に送られるという、ファンにもうれしいキャンペーンもありました。
運良く入手できた、そのレコード袋は、結構しっかりしたつくりで、重宝しました。
仕舞い込まず、ふだんづかいしたので、だいぶ汚れていますが、今も健在です。
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374. 1976年~2006年の藤井令一詩集(2022年4月5日)
鹿児島市は、桜の花とクスの若葉の季節です。
同じ鹿児島県ではありますが、奄美大島に根ざした藤井令一(1930~2017)の7つの詩集では、桜やクスは、あまり目立つ存在ではないようです。
桜は、『シルエットの島』(1976年)「しがらみの島 三月」に、「弥生の桜ナガシに濡れそぼりつつ」「あなたの中で、黄色いフリジヤは匂い、すももの白い花は散り、ひがん桜はしっぽりとその心のように濡れて咲いたのに。」、『遠心浮遊』(1984年)の「染色月」に
「桜ナガシの通過儀礼にぬれ」、「鳥待月」に「海棠桜は既に散りはてて、白いくちなしの花の余情残心」、『島影』(2006年)「北風のコンチェルト」に「染色月の季節に緋寒桜が染まる頃」と登場しますが、クスは登場しません。
春の雨を表す「桜ナガシ」ですが、流されるのはソメイヨシノの花びらでなく、「ひがん桜」「海棠桜」「緋寒桜」の花びらのようです。
藤井令一の詩世界の植生をのぞいてみると、鹿児島市とは近くもあり遠くもあり、土地柄を感じます。
アザン葉(ススキ)、棕櫚の花、芙蓉、ビロー樹、ハイビスカス、太陽の子花(てだっこばな)、仏桑花(ぶっそうげ)、ちょうちん花、阿旦(アダン)、木麻黄(モクマオウ)、柘榴、砂糖きびの穂、紫ききよう、ナゴランの花、松、浜昼顔、あじさい、パパイヤ、柘榴、蘇鉄、島芭蕉、クロトン、野菊、ニガナ、ユナ木、檳榔、榕樹(がじゅまる)、ハジ木、ブーゲンビリヤ、すももの花、浜木綿(はまゆう)、カンナ、山茶花(サザンカ)、サルスベリの花、白蓮花、あじさい、くちなし、甘蔗(ヲウギ)の穂花、砂糖黍の穂花、アカギ、・・・などといった植物が、詩語として生いしげる世界です。
前回の『シルエットの島』(1976年)と『白い闇』(1978年)に続けて、手もとにある藤井令一詩集を並べてみます。
『巫島狂奏曲』(1991年)のほかは、鹿児島の古本屋さんで入手した児玉達雄(1930~2018)旧蔵のものです。
■藤井令一『女影』(1982年4月12日発行、根元書房・那覇市)
児玉達雄旧蔵本。藤井令一の手紙1枚・児玉達雄の礼状の下書き(書き損じの原稿用紙の裏)2枚はさみこみ。
縦187×横128×幅8ミリ。96ページ。
22編の詩を収録。
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)カヴァー
理由はわかりませんが、カヴァーが2種類まかれていました。
装釘 佐藤文彦
カバー絵『サヴォイのピアズレイ』よりコラージュ。
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)カヴァー
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)にはさみこまれた手紙から
日付は、昭和57年(1982)5月3日。
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)扉
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)目次
港町のスナックや女性との関係を主題にした、夜の流行歌の衣裳をまとった作品を収録。
ギュウスタブ・モローの象徴主義絵画と結ぼれていそうな「モオーレの夏」に魅かれます。
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)のページから
▲藤井令一『女影』(1982年、根元書房)奥付
■藤井令一『遠心浮遊』(1984年8月18日発行、海風社・大阪市)
児玉達雄旧蔵本。手紙1枚はさみこみ。
1985年1月30日『南日本新聞』杢田瑛二「鹿児島の詩誌から 7月-12月」切りぬき(『遠心浮遊』評を含む)はさみこみ。
縦215×横141×10幅ミリ。108ページ。
30編の詩を収録。
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)カヴァー
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)表紙
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)にはさみこまれた手紙から
日付は、昭和59年(1984)8月15日。
終戦の日です。
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)目次
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)のページから
コンクリート・ポエトリー的な表現は珍しいです。
▲藤井令一『遠心浮遊』(1984年、海風社)奥付
■藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年1月20日発行、檸檬社・東京都文京区)
縦188×横133×幅14ミリ。98ページ。
19編の詩を収録。
現代日本詩人叢書25
ネット古書店で、沖縄から購入。
▲藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)外箱
▲藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)表紙
表紙に、だいぶシミがでています。亜熱帯気候にふさわしい紙は何かと考えます。
▲藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)目次
写真は、越間誠。
▲藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)のページから
このホノホシの海岸は、綾瀬はるか・高橋一生主演のTBSドラマ『天国と地獄』(2021年)で、入れ替わり伝説の舞台になっていました。
ホノホシの海
石の群の円さが
果てしない海の歴史にうそぶく
波打ちぎわの大合唱の大呪文
訪れた世迷い人も石群に迷い
魚の目をまねてみたが
ホノホシの海は
浪のしぶきでその夢を溶かした
まぶたのない目の喜びは
やはり人間のものではない
円い石の群は限りなく
時間を止めたまま
人間の目をぬらし続ける
ここには既に
豊穣も飢餓もないのだ
ただ陽に透かされた
円い永遠の群だけが
人よりもいちずに
淋しさを生き続けるだけ
なのであった
▲藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)奥付
■写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年8月25日発行、南海日日新聞社・名瀬市)
児玉達雄旧蔵本。手紙1枚はさみこみ。
縦182×横208×幅8ミリ。92ページ。
40編のソネット(14行詩)を収録。
右ページに越間誠の写真、左ページに藤井令一のソネット(14行詩)。
南海日日新聞に1994年から1997年、4年間連載。
越間誠の写真は、1965年から1986年に撮影された奄美大島の自然や古くからの習俗を写したもの。
紅灯の巷や、港町の夜の情景のような写真は含まれていません。
藤井令一が写真を選び、詩も故きをたずねる民俗叙事詩になっています。
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)カヴァー
装丁 安里恵子
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)表紙
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)にはさみこまれた手紙から
日付は、1998年(平成10年)8月31日。
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)目次
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)のページから
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)奥付
▲写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)正誤表
『残照の文化』1998年8月25日初版第1刷には「正誤表」がはさみこまれています。
『残照の文化』は、1999年2月10日に第2版がでて、第2版では正誤表の個所は修正されています。
地方出版物で増刷がでるのは、とてもありがたいことなのですが、初版のほかの誤植が修正されなかったのは、残念です。
例えば、冒頭の詩「唄者と島唄」には、2個所、明らかな誤植が残ったままです。
唄者と島唄
蛇皮を打つ三弦を、激しくはじく竹のむちの音色に
伝統し伝説する島の心はフーガしピアノシモしアレグロし
唄者は岩礁の働哭を、闇を刻む海の呪文を島唄する
こぶしと裏声が光と影を旋律し聞く人は皆島に溶け込む
上がる陽(ヒ)や、太陽(テダ)の落(ウ)てまぐれや、雨(アマ)ぐるみ
諸鈍の長浜や、潮道(シユミチ)の長浜や、東(アガレ)立雲、送り節
かんつめやなべ加那やうらとみや長菊女やけさ松
俊良主(シュンジョシュウ)や梅西主や野茶坊や儀志直や岩加那と
天空(テンクウ)、海浜(ウミハマ)、女(オナグ)、男(インガ)、叙事(ジョジ)、叙情(ジョジョウ)、島のすべてを
伝統し永遠の命を継ぐ島唄に秘めて歌う唄者
それは人や神でありまた音楽家で語りべでもあった
島唄は、海が閉じる黄昏の版画に埋没する挽歌
伝説色を溶く時間の亀裂の、流離の祖語の叫び
時代の年輪を快り泥土に染みて、縷縷(ルル)と泣く
「働哭」は「慟哭」、「快り」は「抉り」です。
せっかくの増刷だったのに、惜しい話です。
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「唄者と島唄」のタイトルにもある「島唄」ということばが、藤井令一の7つの詩集に、どのような形で出てきたか、気になって調べてみました。
第一詩集『シルエットの島』(1976年)には、詩語として「島唄」「しまうた」は登場しません。
■『白い闇』(1978年) 「しまうた」1975年発表
やがて海が閉じると
黄昏の版画に
埋没する挽歌
伝説色を溶く
時間の亀裂に
古風な流離の始まり
疎語の叫びの
岩礁の慟哭
時代の年輪をえぐって
よみがえる島の亡霊
闇をきざむ海の呪文に
消された顔の魚眼の泪
泥土に染みて
蛇皮を裂く三弦のむち
真夜中の浜をさまよい
縷々と泣く
タイトルに「しまうた」とひらがなで登場したのが最初。
■『遠心浮遊』(1984年)「春の中の島の春」
島がいとおしいと思う胸さわぎは
うつつ世の人の心のネガティブ
雲がぬらした阿旦の葉と葉と葉がからみ
ひそかに口ずさむ島唄に涙ぐみ
伝説の恋人と並んで座る
此の流れ木の朽ちた感傷は
行方も知れぬ時間の美しいポジティブ
■『巫島狂奏曲』(1991年)「沈黙の調べ」
生と死の時の流れの調べのオモリを
海は浪は優しくつぶやき続ける
幾百年もの遠い想いをたどり
人の心はいつしか島唄にひたっていく
シマはまた古い昔の
別れニシ(北風)の季節を通過していた
■『残照の文化』(1998年)「干瀬(ヒシ)の協奏曲(コンチェルト)」 (1994年)
やがて満ちた汐が干瀬を呑み込む黄昏どきは
白浜に集う人びとの島唄遊びの酒宴もたけなわに
大自然と島の祝事の調べは海の落日に映えしきり
■『島影』(2006年)「しまうた(島唄)」 平成8年(1996)
深い海の大潮・八潮のうねりか
渚に寄せるさざ浪の忍び音か
しま唄は流離の想いを縷縷と告げ
「上がる陽ぬハル加那節」の
天下った神女の情念を忍ばせて
「太陽(デダ)ぬ落てまぐれ節」の
言霊信仰の神秘な唄声に酔い
道弾きサンシンの音色に誘われ
名曲「シュンカネ節」の哀調が
島の夜更けの深い闇をさすらう
唄の名数の多い「雨ぐるみ」の節は
「西ぬ管鈍節」「今里立神節」
「大熊助次郎加那」「あんちゃんな節」
「チョイチョイ節」等と呼ばれつつ
しま唄は海の黄昏に溶けゆく挽歌
時代の年輪を抉る岩礁の慟哭か
伝説色に更ける夜の浜に染み透り
「しまうた」「しま唄」「島唄」と三つの表記。
■『島影』「名瀬(奄美大島)」 平成11年(1999)
島唄はサンシン(琉球三味線)の韻律に
哀愁を酔い、島は限りなく
古い島の思い出に浸っていく
藤井令一の一連の「島唄」の詩は、「黄昏の版画」「挽歌」「伝説色」「祖語/疎語」「岩礁の慟哭」「流離」「時代の年輪」「縷縷」といった言葉が繰り返し使われ、変奏曲のようになっています。
■藤井令一『島影』(2006年10月10日発行、ジャプラン・鹿児島市)
児玉達雄旧蔵本。手紙1枚はさみこみ。
見返しに児玉達雄による書き込み。
縦188×横126×幅9ミリ。120ページ。
40編の詩を収録。
鹿児島詩文庫3
▲藤井令一『島影』(2006年、ジャプラン)カヴァー
▲藤井令一『島影』(2006年、ジャプラン)表紙
▲藤井令一『島影』(2006年、ジャプラン)にはさまれた手紙から
▲藤井令一『島影』(2006年、ジャプラン)目次
▲藤井令一『島影』(2006年、ジャプラン) 奥付
藤井令一の7つの詩集の最後を飾ったのは「新春の茜空」。
その最後の部分から。
心地よい時のリズムは
限りなく果てしなく続き
そこを漂う私の人生はもう
あわく朽ちかけている。
限りあるものは
限りも無い時の流れのなかで
透明に戻るのだ
その可笑しさの寂しさを
もう詩に書くことも諧謔することも
出来なくなってしまったのだ。
その想いのみが新春の茜の空に
そっと優しく煌めいているだけだった。
藤井令一の詩のなかには、強いフウニシ(冬の北風)やミイニシ(秋の北風)が吹いているような印象がありますが、ここでは、穏やかです。
穏やかですが、最初の詩集『シルエットの島』の表紙のような、大海原に広がる茜空なのでしょうか。
◆
藤井令一の詩世界から離れますが、今年の鹿児島のクスの若葉とさくらの写真をいくつか。
◆拾い読み・抜き書き◆
藤井令一には晦渋な詩が多いなか、自身の戦中戦後の体験を語ったと思われる詩「ある思春期」の強さにひかれました。
『遠心浮遊』(1984年)に収録されている169行の長詩です。
その一部を引用してみます。
(略)
アッツとサイパンで玉砕の血潮が散り
戦禍はアジアを北上した
バークシャ種の風貌をした軍曹が
電鍵を手にして現れたのは
中学二年の真北風(まにし)の頃
わずか三、四ヵ月の猛特訓で
誇り高き少年通信兵に仕立て上げられ
ミリタリズムの悪夢の砦の
南大島の要塞に連れ去られた
シコロスキーとグラマンの群れの
日夜を忘れた機銃の熾烈な愛撫に
貞淑な瀬戸内の海はもだえ
鉄片の限りない洗礼を浴びて変節し
味方の高射砲のたまの破片を噛みしめ
ガソリン切れの特攻機を呑んで悶絶した
既に沖縄島は壊滅し
刻々と奄美に鬼気は迫っていた
少年達は
残照にきらめく日本の王のため
日ごと死ぬ決心をかためた
(略)
この少年兵体験については、『白い闇』収録の「少年兵」という詩で、そのことを調べた新聞記者に「あなた達のことは 学校では記録されておりません」「あなた達は戦争中もずっと 学校に居たことになっています 八十名の少年兵の記録は有りません」と告げられています。
その頃の島は
山も海も町も哀れな奇形児だった
皮膚と瞳の色の異なった
外国人数名が島を支配し
アルファベットが空気中に充満し
原色刷りのトランプ風な軍票が
B円と名のって幅をきかせた
男も女も救済物資の軍服の
H・B・Tの緑の聖衣をまとってうろついた
米軍政下の奄美には
ひょ鳥が来なくなって鴉が増え続けた
少年はもう日本米の味を忘れていた
L・S・T(上陸用舟艇)から吐き出された
乾燥じゃが芋の結晶が解ける薫りが
此の世で一番美味いものだと思った
季節風が夏の追憶に悩む頃
チェスターフィルド(たばこの名)の煙の中に
少年がいつも夢みたものは
アラビアとスカンジナビアとシプル島を
ランボオがふかして行く
パイプの煙に染められて
練金術から解かれた言葉の
リキュール色した放浪だった
(略)
米軍統治下の民主主義は
可逆的に住民の自由を撲殺した
日本への自由渡航は許されず
密航船の逮捕が日夜くり返され
獄舎は囚人で溢れた
北緯三十度線という冷酷な
姿のない空間が少年達の
自由な進学の夢を絶ち切った
英語につかれた若人達は
わずかな恩典のシステムに乗って
アメリカのカレッジへと去った
医学や理工学を求めた若人達は
同じシステムが無償で
わずかに限られた頭数を
日本の大学へほうり込んでくれた
その後からどす黒い義務の呪縛の影が
死霊のようにつきまとっていた
非実用不価値論に演繹された商学や
文学を求めた若人達は
十トン足らずのぼろ発動機船で
死と恐怖と希望と冒険の
密航犯人の罪業を背負いながら
いるかのように三百八十キロの海溝を泳ぎ
大隅半島の渚へ逃げのびた
(略)
一年間アメリカ人にあやつられ
ライブラリアンとしてタイプを叩き
図書とレコードとスライドの谷間で
デモクラシーの宣伝に埋没し
月給三千六百円の高給とりになった
その脳髄の怠惰な時代
ボードレールとヴェルレーヌとマラルメに
粗悪な紙質のページでめぐり逢った
サンボリズムの宇宙を模索した少年は
晩春の浜辺のアダンの夕暮れに
真紅のカンナがいけにえのように
半分腐りかけた哀しみを見て
真っ白いかもめが自由の記憶を追って
沖の立神岩の空へ溶けるのを見て
もう我慢がならぬと
北の空へ向かって放浪の石を投げた
石は遂に落ちてこなかった
二十世紀も折り返し点に着き
徴兵検査も成人式もなかった時代
少年は心のねじれた大人になって
まだバーが四、五軒しかない
赤ちょうちんの列が小雨にふける
池袋の夜をさまよっていた
藤井令一のこの体験は、詩ではなく、自伝的な小説として読んでみたかった気がします。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
藤井令一『遠心浮遊』(1984年)「鳥待月」に、
この南島ではいつまでも
坪山豊の蛇皮線の音が懐かしいと
自然に帰る心の四月である
とあります。
藤井令一と同い年、この人もまた終戦の年に15歳だった奄美の唄者、坪山豊(1930~2020)のカセットテープやCDが手もとにあればよかったのですが、手もとにある奄美島唄のCDは、元ちとせが高校生のときのアルバム『故郷・美ら・思い』ぐらいです。
奄美のセントラル楽器が出したカセットテープやCDを集めるのは楽しそうです。
▲元ちとせ『故郷・美ら・思い』(1996年、セントラル楽器)
このCDにも収録されている、「むちゃ加那」「かんつめ」について、藤井令一『シルエットの島』(1976年)冒頭の「奄美方言私訳」で次のように説明してます。
ムチャカナ=(ムチャ加那) 伝説の美女ウラトミの娘で、母に似て美し過ぎたため村人達の嫉妬を駆り、遂に海に突き落とされて死んだ少女の名。それを知って悲しみに狂い後を追って海に死んだウラトミと共に、民謡に哀切をこめて歌いつがれている。
カンツメ=奄美民謡の中の代表的悲運悲恋の美女卑僕。約二百年も前の頃、十九才で買主の邪恋と虐待にあい、愛人の岩加那を残し自ら首を吊って死んだと云われる美女カンツメの哀しい物語りは、民謡に悲涙をもって歌い続けられている。
『シルエットの島』では、「島唄」ということばは使われず、「民謡」「奄美民謡」ということばが使われています。
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373. 1976年の藤井令一『詩集 シルエットの島』(2022年3月31日)
憂鬱なことが続くと、寄り道がしたくなります。
鹿児島の古本屋さんで入手した児玉達雄(1929~2018)旧蔵の本は、格好な寄り道場所でした。
今まで手を出さなかったものまで手を出してしまいます。
奄美の詩と批評の人、藤井令一(1930~2017)の詩集もそのひとつです。
藤井令一は、亡父・平田信芳(1930~2014)と同じ1930年生まれ。終戦の年、15歳だった人です。
詩集を読んだだけですが、父性というか、「ぼくのおじさん」的な懐かしさも感じます。
藤井令一の書誌に詳しくないので、断言できませんが、たぶん『シルエットの島』(1976年、思潮社)が最初の詩集。
表紙カバーの写真は、奄美の写真家・越間誠によるもの。
藤井令一の詩集で越間誠の写真を使っているものは、ほかに、『巫島狂奏曲』(1991年、檸檬社)と『残照の文化』(1998年、南海日日新聞社)がありますが、カラー写真が使われているのは、この表紙カバーだけです。
奄美大島に詳しい人なら、写真がどこを写したものか、すぐに分かるのでしょうか。
手もとに7冊、藤井令一の詩集があります。
うち6冊が児玉達雄旧蔵のものです。
ほかの児玉達雄旧蔵の1冊は、たぶん、古本屋さんでどなたかの手に渡ったのだと思いたいです。
■藤井令一『シルエットの島』(1976年8月15日発行 、思潮社・東京都新宿区)児玉達雄旧蔵・献呈署名・手紙1枚はさみこみ
■藤井令一『白い闇』(1978年7月30日発行、葦書房・福岡市)児玉達雄旧蔵・献呈署名
■藤井令一『女影』(1982年4月12日発行、根元書房・那覇市)児玉達雄旧蔵・手紙1枚・礼状下書き2枚はさみこみ
■藤井令一『遠心浮遊』(1984年8月18日発行、海風社・大阪市)児玉達雄旧蔵・手紙1枚はさみこみ
■藤井令一『巫島狂奏曲』(1991年1月20日発行、檸檬社・東京都文京区)
■写真 越間誠 詩 藤井令一『残照の文化』(1998年8月25日発行、南海日日新聞社・名瀬市)児玉達雄旧蔵・手紙1枚はさみこみ
■藤井令一『島影』(2006年10月10日発行、ジャプラン・鹿児島市)児玉達雄旧蔵・手紙1枚はさみこみ
タイトルにある「シルエット」「闇」「残照」「影」ということばは、藤井令一の詩世界の主旋律のようです。
7冊の版元・出版場所が違うのも、ちょっと珍しい気がします。
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)表紙
縦196×横131×幅16ミリ。158ページ。
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)見返しの献呈署名
▲はさまれた手紙の日付部分
児玉達雄宛のあいさつの便箋1枚が、はさみこまれていました。
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)扉
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)目次
冒頭に、「奄美方言私訳」が置かれ、詩の中で使われる次のような奄美のことばを解説しています。
タネオロシ、アラセツ、シバサシ、ドンガ、ノロ、アラボレ、オモリ、チヂン(ツズン)、トネヤ、ミキ、アザン葉、ニライ・カナイ、ゴショガ道、ウラトミ、ムチャカナ(ムチャ加那)、ヤチャボウ(野茶坊)、カンツメ、イワカナ(岩加那)、アマンユ(奄美世)、ケンムン、イキマブリ、シュナリ(潮鳴り)、ミイニシ(新北風)、ナガシ(梅雨)、フウニシ、タチガン(立神)、シマ、モモタブラ、シマグチ(島語)、タカグラ(高倉)、ボレ(群)、サイ・タナガ、イラブチ、ハブ
奄美のことばはカタカナ表記です。それが藤井令一の詩で多用される「ピアニシモ、プレリュード、ロンド、フーガ、シャンソン、プレスト、リズム、カデンツア、トレモロ、バイオリン、ソナタ、オペレッタ」など音楽用語をはじめとする外来語とまじりあって、詩の表面を形づくっています。
◆
交響曲のような4部構成です。
「I 白日夢」は「四月」から「三月」、散文詩12編で構成されています。
「II シルエットの島」は「四月」から「三月」、最初の「四月」と「五月」はソネット(14行詩)ですが、他の詩に規則性はありません。自由詩12編。
「III 時の逸話」は「一月」から「十二月」、行わけされた自由詩12編。
「IV しがらみの島」は「八月」から「七月」、散文詩12編で構成されています。
初出は『南海日日新聞』を中心に、『地点』『詩稿』『詩と真実』で、次の順に発表されたようです。
「時の逸話」(1972年)
「シルエットの島」(1973年)
「白日夢」(1974年)
「しがらみの島」(1975年)
詩集にまとめるあたり、順番が入れ替えられています。
「April is the cruelest month. (四月は残酷きわまる月である)」ではじまる、T・S・エリオット(T S Eliot、1888~1965)の長詩 『荒地』(The Waste Land、1922年)を意識、していたのだと思います。
「時の逸話」の「十二月」に「=荒地=のシンホニーに酔いどれよう」という詩句もあります。
また、『荒地』の翻訳者であった西脇順三郎(1894~1982)は、藤井令一にとって詩の導き手だったようです。
「シルエットの島」の「一月」に次の詩句があります。
二日酔の北風が
海からよろよろ迷いこむと
女神の行列は島をぬらし
こわばる時間をぬらし
「アムナルワリア」の頁から忍び出て
ぞろぞろ南へ南へさまよって行く
『Ambarvalia(アムバルワリア)』(1933年、椎の木社)は、西脇順三郎の詩集のタイトルです。
◆
「跋」は、島尾敏雄(1917~1986)が書いています。
批評家・藤井令一の立ち位置について《島を自由な場所から眺めることができている》とし、詩人・藤井令一については《詩はわたしにはよくわからぬところがある》とくちごもりながらも、《「涯なき愛憎」(時の逸話・二月)をくぐり抜けたあとの彼自身の島に向かう距離がうまく計り取られ、程よいあたりに凝視の砲座の据え着けを終え》《明らかに島の内にも外にも向けた自由な姿勢》を感じ取って、対話したい相手として認めています。
藤井令一の生活についても、《名瀬の町の繁華な場所に彼の写真店のスタジオがある》 《彼の生活を支える暗室機械》 と言及していて、写真を仕事にしていたのだと知ることができました。光と影は、詩の主題ということだけでなく、写真という光と影の媒体をとおして生活の糧でもありました。
また、奄美大島のアメリカ占領時代について、《奄美のあの奇妙な「分離の八年」の中での彼の密航による奄美脱出と、そのあとにつづく東京潜伏体験が、島を見る彼の目な差しを鋭いものにしている》とあり、終戦の年に15歳だった青年ならではの、すざまじい戦後があったのだと垣間見ることができます。
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)のページから
▲藤井令一『詩集 シルエットの島』(1976年、思潮社)奥付
40歳代で最初の詩集です。
「然し何と言われようとも、此の島を私なりの受感でどうしても書かずにおれないものがあった」(「あとがき」)
そうした第一詩集です。
だいぶ肩に力がはいっているように感じますが、この1970年代のことばの響きには、好き嫌いを超えて、覚えがあります。
1960年代の闘争の時代から、個の「夢」の世界にひきこもりはじめたことばの気配もあります。
■藤井令一詩集『白い闇』
1976年の『シルエットの島』に続いて、1978年に、福岡の葦書房から詩集『白い闇』を上梓しています。
『シルエットの島』にくらべると、
『白い闇』の「後記」に次のようにあります。
「シルエットの島」が、南島奄美を剔抉したもので、島との限りない絡み合いだとすれば、そこに滲み出てくるのは南島の翳りの部分である、といえるだろう。反面この詩集はその南島の中に生きる自分自身の内なるものを抉り出そうとする手だてなので、そこにはむしろ自嘲自虐に屈折された南島の明るさが出てくる、といえるかも知れない。
南島奄美の土俗に生きる砂くずにひとしい存在の私のこころの表と裏だと云えるが、同時にネガとポジが重なり合って南島を投影するものであってほしいと思っている。
『シルエットの島』と1978年の『白い闇』は、「翳り/明るさ」「表/裏」「ネガ/ポジ」対の書として読まれることを期待されています。
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房) カヴァー
『白い闇』というタイトルにふさわしい白いカヴァーです。
年を経て汚れや焼けが目立つのも白の特徴です。
年を経た詩集の美しさを体現できたか、どうか。
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房)表紙
縦194×横134×幅18ミリ。148ページ。
藤井令一のほかの詩集では表紙にシミが出ているものが多いので、この表紙の選択はよかったようです。
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房)見返しの献呈署名
たぶん、あいさつの手紙もあったと思うのですが、はさみこまれてはいませんでした。
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房)目次
三部構成で、
■I ソネット(14行詩)6作品
■II 散文詩6作品
■III 自由詩32作品
この詩集『白い闇』にも、「孤舟夢」に、
逃亡の汐路に
またしとしとと女神の降りしきる
Ambarvaliaの空模様
「追憶のコンチェルト」に、
=風の夜の狂詩曲=や
=アンバルワリヤ=のリズムに酔っても
永劫の道連れは影だけである
と、西脇順三郎の『Ambarvalia』やT・S・エリオットの『風の夜の狂詩曲』(Rhapsody on a Windy Night)への言及があります。
奄美という場所で、西脇順三郎やT・S・エリオットのような詩作品をつむぎあげようとしていたのだと思います。
ただ、西洋風モダニズムの意匠をこえた「影」が、藤井令一のことばにつきまとっていたようです。
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房)のページから
▲藤井令一『白い闇』(1978年、葦書房)奥付
限定三百部。
1972年から1978年にかけて、 『詩稿』『詩と真実』『日本詩人』『南の手帖』『九州文学』『地点』『南海日日新聞』に発表された作品が集められています。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
『シルエットの島』「I 白日夢」の「一月」に、「ブリジット・フォンテーヌがイワ加那の蛇皮線でシャンソンを歌うのに苦しみ口をぱくつかせているモノクロームのモノローグ」という詩句がありました。
「イワ加那、蛇皮線」と「ブリジット・フォンテーヌ、シャンソン、モノクローム、モノローグ」が同居する藤井令一の詩世界。
1970年代の奄美でも、ブリジット・フォンテーヌの音楽が、ラジオからでしょうか、ステレオからでしょうか、流れていたわけです。
ここでブリジット・フォンテーヌのアナログ盤を引っぱり出せれば素敵なのですが、手もとにはCD3枚だけありました。
ほかにステレオラブと作ったシングル盤も探せば
ひさしぶりに「ラジオのように」を聞きましたが、色あせないアルバムです。
藤井令一の詩世界を、蘇生させ色づかせることのできる読み手は、これからの世界にどのくらい現れるのでしょう。
▲ブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine)『comme à la radio(ラジオのように)』(1969年)の日本盤CD(1996年、SARAVAH、オーマガトキ)
今は、CDではなく、サブスクや動画サイトで聞くことになるのでしょうか。
サブスクでいちばん聴かれているブリジット・フォンテーヌの曲が、1969年のシングル曲「Le Goudron(やに)」だったのは、ちょっと意外でした。
▲ブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine)『Brigitte Fontaine est ...(ブリジット・フォンテーヌは・・・)』(1968年)の日本盤CD(2003年、SARAVAH、オーマガトキ)
▲ブリジット・フォンテーヌ(Brigitte Fontaine)の『III(ブリジットIII)』(1972年)日本盤CD(2003年、SARAVAH、オーマガトキ)
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372. 1960年の『ジョアン・ハッサルの木版画』(2022年2月27日)
前回とりあげた2020年の『Matrix 36』に、John Randle(ジョン・ランドル)は「Please Tell me What to Like(好きなものを教えてください)」という7ページの短い文章を寄稿しています。
ジョン・ランドルは、自分の印刷人生を振り返る形で、その重要な軸となったWood Engraving(木口木版)とのかわわりを書いています。
学生時代、学校のゴミ箱に捨てられていた古い木版画の版木で、木口木版に関心をもったジョン・ランドル青年が、最初に買い求めた木版画本が、今回取り上げる、
『ジョアン・ハッサルの木版画(The Wood Engravings of Joan Hassall)』(1960年、Oxford University Press)
だったそうです。
縦190×横142×幅12ミリ、120ページの、画集としては小さな本ですが、最初に選ぶ本としては、大正解だったのではないでしょうか。
1931年から1958年にかけて彫られた木版画作品が収録されています。
その意味では、この本も戦争の時代をくぐり抜けた本でした。
序文(解説)は、スコットランドのタイポグラファー、ルアリ・マクリーン(Ruari McLean、1917~2006)。
26ページの短いテキストですが、イギリスにおける木版画の歴史を概観しながら、ジョアン・ハッセル(Joan Hassall、1906~1988)の経歴と作品の特徴をおさえた、解説の鏡のような素晴らしい文章です。
ルアリ・マクリーンの序文が、1952年にジョアン・ハッセルの家に滞在したときの描写からはじまるのも、いいです。
イギリスでポスターというジャンルの黎明期を代表する画家だった父親のジョン・ハッサル(John Hassall、1868~1948)から受け継ぎ、父親が集めた珍奇な品々が残っていた家です。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)ダストラッパー
そでの価格部分は切り取られています。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)表紙
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)見返しの署名
手もとにある本には、ルアリ&アントニア・マクリーン夫妻による書き込みがあります。
日付は「1993年2月4日」。
宛名はぼかしました。
あるカップルのもとをルアリ&アントニア・マクリーン夫妻が訪れたとき、その家にあった本に署名したものか、プレゼントとして持っていったか、どちらでしょう。
その家で大切にされていた本も、時が経って、古本屋さんに出たようです。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)扉
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)刊記と目次
PRINTED IN GREAT BRITAIN
AT THE UNIVERSITY PRESS, OXFORD
BY VIVIAN RIDLER
PRINTER TO THE UNIVERSITY
ヴィヴィアン・リドラー(1913~2009)は、1958~1978年のOxford University Pressの「Printer」、大学印刷局の責任者。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年) 序文冒頭
本文活字は、11ポイントのベル(Bell)。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)書誌冒頭
▲1960年の『ジョアン・ハッサルの木版画』は、黒がみごとです。
左が、『ジョアン・ハッサルの木版画(Wood Engravings of Joan Hassall)』(1960年、Oxford University Press)
右が、デヴィッド・チェンバース(David Chambers)編『Joan Hassall: engravings and drawings』(1985年)
第351回でとりあげた1985年のチェンバース編の作品集もよい本ですが、1960年の『ジョアン・ハッサルの木版画』は、黒がよりあざやかで、どちらを選ぶかと聞かれたら、1960年の版を選びます。
1960年の『ジョアン・ハッサルの木版画』は、縦185×横135ミリのスペースに数点おさまるような小品がほとんどですが、191の図版が収録されています。
そのすべてが、細かいところまで行き届いた、小さきものの楽園です。
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)の図版ページから
▲『ジョアン・ハッサルの木版画』(1960年)最後のページ
最後のページにふさわしい作品があるのも、本とかかわる作家ならではです。
◆拾い読み・抜き書き◆
『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)収録の「Please Tell me What to Like(好きなものを教えてください)」で、ジョン・ランドル(John Randle)は、『Matrix』誌を特徴づけていたものとして、Wood Engraving(木口木版)とカズロン活字をあげて、Wood Engraving(木口木版)について、自分に影響を与えたもの、好みのものなどについて、終刊号の振り返りの視点で書いています。
その中で、イギリスの画家・版画家ウィリアム・ニコルソン(William Nicholson、1872~1949)にまつわる記述にびっくりしました。
WILLIAM NICHOLSON and EDWARD GORDON CRAIG were surely among the first to become fascinated by the possibilities and disciplines of engraving.
I had long been an admirer of Nicholson’s images of London Types and Almanac of Sports, and so imagine my amazement when I went to work for Heinemanns in 1970 and was told that Nicholson’s blocks were still in the warehouse at Kingswood, left there since William Heinemann had published them in the 1890s. I rushed them back to the embryonic Whittington Press before anyone could change their mind. They were still in their original paper wrappings, and to my surprise I saw that in spite of their size and the fact that they are more cuts than engravings, they were engraved on endgrain boxwood supplied by Lawrences, whose name was stamped into the wood. They were generally in good shape, but I took one back to Bleeding Heart Yard and complained to Mr Lawrence that, though only made in 1898, the block was badly split. thank goodness he took may remark in the spirit in which it was intended, and repaired it most beautifully at no charge. We printed all the blocks and issued them as portfolios of single sheets, including several images from the reverse of the blocks which had never seen before. Presumably, because of the cost of the blocks, Nicholson just turned the block over if he was not happy with his first effort. Heinemann then generously gave the blocks to the V & A, who rang me some time later to ask me if I knew where they are. I hope they have since reappeared.
【試訳】
ウィリアム・ニコルソンとエドワード・ゴードン・クレイグは、木版の可能性と技術に魅入らせてくれた最初の存在でした。
私はずっと、ニコルソンが描く『ロンドンタイプ』や『スポーツ年鑑』の図版の賛美者だったので、1970年にハイネマン社で働くことになって、ニコルソンの版木がキングスウッドの倉庫に残っていると言われたときの驚きを想像してみてください。ウィリアム・ハイネマンが1890年代に本を発行してからずっとそのままだったのです。
誰かの気が変わる前に、私はその版木を生まれたばかりのウィッティントン印刷所(Whittington Press)に急いで引き取りました。
まだ元の紙の包装のままでした。驚いたことに、それら版木の大きさや、技法的にウッド・エングレイヴィングよりウッドカットが多いという事実にもかかわらず、ニコルソンの版木は画材店ローレンスとスタンプされたボックスウッド(ツゲ)の木口に刻まれていました。
版木はほとんど良好な状態でしたが、私は一つの版木をローレンスのあるブリーディング・ハート・ヤード(Bleeding Heart Yard)に戻し、たかだか70年前の1898年に作成されたものにもかかわらず、版木がひどく割れていると不平を言いました。
感謝すべきことに、ローレンス氏はわたしの言葉を意図どおりに受け取り、その版木をとてもみごとに修理してくれました。しかも無料で。
ウィッティントン印刷所では、それらすべての版木を使って印刷し、ポートフォリオとして発行しました。それぞれのシートには、これまで発表されたことのない版木の裏側から刷った画像を含んでいました。おそらく、版木のコストを抑えるために、ニコルソンは最初に刻んだ作品に満足しなかった場合、版木の裏側も使っていたのでした。
その後、ハイネマンはヴィクトリア&アルバート博物館に版木を惜しみなく寄贈しました。ヴィクトリア&アルバート博物館はしばらくして私に電話をかけて、どこにあるか知っているかどうか尋ねてきました。それ以来、それらの版木が再び現れることを願っています。
ジョン・ランドルのウィッティントン印刷所が、ウィリアム・ニコルソンのポートフォリオを上梓したのは1978~1980年だったので、「1970」を文字通り1970年とよんでいいのか、ヴィクトリア&アルバート博物館の件はどうなったのか、など引っかかるの部分が多い記述ですが、「70年前の版木が割れていたとクレームをいれたら、無償で修理してくれた」という話に、いちばん驚きました。
この話をどう受け取るかで、仕事、芸術、技術、報酬などについての考え方や人の性格を明らかにすることができるのかもしれません。
◆
「Please Tell me What to Like(好きなものを教えてください)」は、ジョン・ランドルが自分の好きな木版画本を紹介するガイドにもなっていて、とても参考になります。
第358回で紹介した、1959年の『ロバート・ギビングスの木版画』についても、次のように語っています。
I must have bought The Wood Engravings of Robert Gibbings not long after the Joan Hassall book. It is a superbly printed quarto of 360 pages, and cost 10/- then, and is still absurdly cheap.
【試訳】ジョアン・ハッサルの本から間をおかず、私は『ロバート・ギビングスの木版画』を購入したに違いありません。それは360ページの見事に印刷された四折本でした。当時の値段で10ポンドで、現在の書価も途方もなく安いままです。
ちなみに、『ロバート・ギビングスの木版画』の1959年の売価は5ポンド5シリングでした。
初めて手にする人にとっても、知識のある人にとっても、スタンダードになる良い本ですが、古書価のつかないタイプの本だったようです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
キング・クリムゾン(King Crimson)の創設メンバーだったイアン・マクドナルド(Ian McDonald)2月9日に亡くなったとの訃報がありました。
1968年6月、ジャイルス・ジャイルス&フリップ(Giles Giles & Fripp)に、イアン・マクドナルドが当時のガールフレンド、ジュディ・ダイブル(Judy Dyble)とともに加わろうとしたことから、キング・クリムゾンという新たなグループが生まれたことなどを思い起こしながら、久しぶりにジュディ・ダイブルのことも検索してみたら、そのジュディ・ダイブルも2020年に亡くなっていたことを、今になって知りました。(1949年2月13日~ 2020年7月12日)
第243回の「今日の音楽」で、ジュディ・ダイブルについてちょっと書いています。
気に留めていないと、知らせは届かないのだなと、思いました。
ジュディ・ダイブルの歌声を初めて聴いたのは、『The Young Persons' Guide To King Crimson』(1975年)収録の「I TALK TO THE WIND」(1968年録音)でした。
キング・クリムゾンは女性の気配のない男子校的グループと思っていましたから、「誰?」――女性メンバーも考えていた時があったのか、と驚きました。
▲『The Young Persons' Guide To King Crimson』(1975年)ジャケット
手もとにあるのは英Island盤ではなく、再発英Polydor盤です。ブックレットには「1976」とあります。
はじめて購入したキング・クリムゾンのレコードでした。
レコードジャケットがすれてできたリングウェアに、もう40年以上経ったのだなと、時を感じます。
▲『The Young Persons' Guide To King Crimson』(1975年)レコード・ラベル
▲『The Young Persons' Guide To King Crimson』「I TALK TO THE WIND」
▲『The Young Persons' Guide To King Crimson』ブックレット収録の日誌冒頭
1968年、ジャイルス・ジャイルス&フリップからキング・クリムゾンに変わる時期の6月と7月に、ジュディ・ダイブルは登場します。
そのときの音源が、『The Young Persons' Guide To King Crimson』に収録された「I TALK TO THE WIND」でした。
▲Judy Dyble『Earth Is Sleeping』(2018年)
この2018年の親密な作品が、ジュディ・ダイブルの最後のスタジオ録音アルバムになってしまいました。
ジャケットの月は、『The Young Persons' Guide To King Crimson』のジャケットの月ともつながっているようです。
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371. 2020年の『Matrix 36』(2022年1月31日)
イギリス、コッツウォルズの活版印刷所、ウィッティントン・プレス(Whittington Press)が年1回刊行する、印刷専門誌『Matrix』の第36号。
2020年の刊行。
そして、1981年の創刊以来、40年続いた雑誌の終刊号です。
紙の雑誌が休刊・終刊を迎えるニュースを毎日のように聞きますが、この活版印刷の牙城のような雑誌も終刊を迎えたのかと、心が沈むものがありました。
オーデンの詩句「From gardens where we feel secure(私たちが安心と感じる庭から)」でうたわれた閉じた世界でつくられた本という印象もあって、魅力的なのは分かっていても、ふだんは敷居が高く、手をだせなかったのですが、終刊号ということで入手しました。
660部刊行。うち60部が特装版。手もとにあるのは通常版です。
縦283×横197×幅33 ミリ。
本文は200ページ。ほかに別刷りの図版や印刷見本が多数差し込まれています。
『Matrix』は、手にとってページをめくることが楽しい本ですが、1号~36号がそろったものを見ることが難しい本で、また見たことがありません。
1号の最初のページから、36号の最後のページまで、1ページずつめくっていくことができたら、印刷の精霊が身に宿って、よいものを見極める眼力がつくのではないか、と妄想したりします。
輪蔵とよばれる回転するものが置いてあるお寺があります。
周りの柄を握って輪蔵を一周すると、一切経(全部の仏教経典)を読んだのと同じ功徳があると言われます。
それと同じように、『Matrix』のページをめくっていくだけで、よいものを知る力が得られるのではないでしょうか。
それが単なる妄想でなく、それがほんとうのように感じられる本です。
日本でも『Matrix』を定期購読されている方がいて、資生堂にゆかりのある方だと聞いたことがあります。
タイポグラフィに重きを置く会社だから、そこはきちんと押さえているのだなと思いました。
日本で『Matrix』1号~36号(1981~2020)を所蔵する図書館があるのか、検索してみたら、大東文化大学の図書館が1号から34号までを、2017年から所蔵していました。
ちょっと意外でした。どなたかが寄贈したのでしょうか。
その図書館にアクセスできて、1号から34号を閲覧できる人は果報者です。
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)のダストラッパーそで裏
『Matrix』1号~36号が並んだ図版が貼り込まれています。
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)表紙
Whittington Pressの間取りが描かれています。
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)しおり
表紙の地図の続きになっています。
掉尾を飾る『Index to Matrix 1-36』の刊行予告。
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)に挟み込まれた書評
1981年の『Matrix 1』へのVivian Ridlerの書評記事が挟み込まれています。
そのタイトル「A testimonial to Caslon」 (カズロンへの感謝)からも、本文書体のカズロン活字がいちばんの特徴と伝わります。
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)口絵と巻頭言
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)刊記と目次
▲『Matrix 36』(2020年、Whittington Press)のページから
日本とつながる経路もいくつかあったようです。
▲終刊号の最後を飾る見開き図版
1968年、ジョン・ランドル(John Randle)が陸づたいにインドへ行ったのときの写真から。
場所はドナウ・デルタ。
この舟は、これから先、『Matrix』という冒険にこぎだすことになるのでしょう。
1968年にインドに行って帰ってきた青年が立ち上げた印刷所なので、当時のアンダーグラウンドカルチャーとつながらなかったのだろうかと思ったりします。プライヴェート・プレスの独自性とポスターやレコード・ジャケットなどが結びつけば、面白いものが生まれたに違いないと思うのですが、少部数のプライヴェート・プレスということもあってか、そうした世界との結びつきは、はっきり分かりません。
好きなミュージシャンのアルバム・ジャケットの印刷が、例えばウィッティントン・プレス(Whittington Press)だったりしたら、それだけでときめいてしまいそうです。
【2022年3月9日追記】
終刊号である『Matrix 36』の巻末に、「~の思い出に」という献辞があります。
IN MEM.: L. T. M., BOCHALT, 31 v 1942
& J. N. R., KOHIMA, 6 v 1944
だれのイニシャルだろうと調べてみたら、ウィッティントン・プレス(Whittington Press)のジョン・ランドル(John Randle)のお父さんと叔父さん(母の弟)、第二次世界大戦で戦死した2人への献辞でした。
ジョン・ランドル(John Randle)のお父さんジョン・ニール・ランドル(John Niel Randle)は、インパール戦の激戦地コヒマで26歳で戦死、叔父さんのレスリー・トマス・マンサー(Leslie Thomas Manser)は、ドイツのボホルトで21歳で戦死していました。
若くして亡くなった父と叔父に、76年後そして78年後に捧げられた本でもありました。
◆
『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)というアンソロジーがあります。
『Matrix』創刊20年の記念に刊行されたアンソロジー。
『Matrix』1号~21号に掲載されたテキストから35編を収録した、とても好ましい1巻本です。
ブック・イラストレーションについてのテキストを集めた続編も予定されていましたが、それは刊行されなかったようです。
活版印刷ではなく、オフセット印刷。
376ページ。縦285×横200×幅35ミリ。
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)ダストラッパー
副題は「Highlights from Matrix, the review for printers & bibliophiles」
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)表紙
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)扉
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)刊記と目次
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)序文
▲『Type & Typography』(2003年、Mark Batty Publisher)コロフォン(奥付)
使用フォントについて、丁寧な説明がされています。
『Matrix』誌を特徴付ける本文書体モノタイプ社のカズロン(Caslon)活字でなく、ヘルマン・ツァップ(Hermann Zapf、1918~2015)がBerthold Types Limitedのために1976年に制作したComeniusフォントを本文書体として使っています。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
エレクトロニック・ミュージックのなかで、レイ・ハラカミ(1970~2011)の作品は古びないなと感じます。
もっとも、私の感じる「古びる」「新しい」は、だいぶ、ずれているのでしょうが。
1月に亡くなった福間創(1970~2022)と同い年だったのかと気付きました。
▲レイ・ハラカミのファースト・アルバム『Unrest』(1997年、Sublime Records)の2015年版CD(Rings)。
レイ・ハラカミのアルバムジャケットのイラストは、tomoko iwata(岩田知子、tomokochin-pro)。
▲レイ・ハラカミのセカンド・アルバム『Opa*q』(1999年、Sublime Records)の2015年版CD(Rings)。
アルバムジャケットに写る「tomoko iwata」は、レイ・ハラカミの映像作品のヒロインでした。
初期アルバムは、発表当時、カンタベリー系の音楽と結びつけて語られることも多かったように思います。
実際につながることも可能な時代になっていましたから、例えば、ロバート・ワイアットとつながってアルバムをつくるようなことも夢物語ではなく、めぐりあわせでとんとん拍子に何かが生まれそうな予感もありました。
そうした想像の可能性が消えていった、可能性の音楽が失われたのは、とても残念なことです。