●my favorite things 401-405
my favorite things 401(2023年9月12日)から405(2023年11月16日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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401. 1958年~1969年の筑摩書房『世界文学大系』(2023年9月12日)
402. 1926年のニコルソン『イングランドの鳥』(2023年9月15日)
403. 1935年の佐佐木信綱・佐佐木雪子『筆のまにまに』(2023年10月17日)
404. 1941年の冨岡冬野『空は青し』(2023年10月18日)
405. 1934年の佐佐木信綱『明治文學の片影』(2023年11月16日)
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405. 1934年の佐佐木信綱『明治文學の片影』(2023年11月16日)
前回、前々回と、佐佐木信綱(1872~1963)の竹柏会がらみのものが続きましたが、もう1冊、佐佐木信綱の本『明治文學の片影』(1934年、中央公論社)も紹介します。
「手紙の時代」の本です。
佐佐木信綱宛に送られた手紙や色紙から、100人のものが選ばれています。
明治文学の一面を代表するような顔ぶれですが、点鬼簿というか、選ばれている人は、みな亡くなっていて、刊行時存命の人は選ばれていません。
100人という切りのいい数字に、誰を選び、誰をはずしたのか、選ぶことの不自然さも感じないでもありませんが、 一人の人間がどれほど多くの知友を得ることができるのかと驚きます。
選ばれた顔ぶれを見ていると、明治という時代に短歌の持っていた社会的役割の大きさというか、短歌が結んだネットワークの強さを感じます。
『筆のまにまに』(1935年、人文書院)でも、夫婦そろって『明治文學の片影』に言及しているので、引用します。
佐佐木信綱 「明治文學の片影」
昨年の夏、めづらしく箱根仙石原に暑を避けてをつた留守の間に、先輩知友の來書を未整理のまゝしまつてあつた柳行李數箇を置場所がわるかつた爲めに失うた。歸京後その事を知つて、驚いて、買ひ求めたといふ書肆を訪うたところ、すでに仲間の市に出したとの事であつたので、ちりぢりにわかれてゐる數箇所に行つて、出來るだけ買ひ戻しはしたが、つひに戻らぬものなどもあつて、それらの書簡の主に對して、まことに相すまぬことに思つてゐる。
さうしたわけで、來書の整理をはじまてのが動機となつて、この『明治文學の片影』は成つたのであるが、專らその書簡によつて、故人を傳へようとしたのであつた。
百人と限つた爲め、すでに書いたものを省いたのもあり、書きたかつた人に遺したものもあるが、それらはいづれ他の機會に發表するつもりである。また巌谷小波、新渡戸稻造、内藤湖南君の如く、最近まで世に在られた人々も錄してあるが、それは、明治時代に足跡を殘された人々であるから、歿年に拘はらず、明治文學を語る本書に載せたのである。
小村雪岱畫伯の苦心になるまことに心地よい装幀と、寫眞版の多い關係から、中央公論社が出版をはじめて以來例がないといふ良質の用紙とは、書簡を錄した先輩知友の靈も、滿足してくれられることと思つてゐる。
佐佐木雪子 「明治文學の片影」
德富先生は日々だよりに、また齋籐、小泉、盬田、福田の諸氏が、新聞や雜誌に評をかいて下さつた。書物展望には、新刊の装幀として表紙の畫が出てをる。かたちは大きくうるはしいが、内容のさゝやかな書物に對して、と恐縮しながらも、夫は喜びつゝ示してくれる。
佐佐木信綱は『筆のまにまに』では「行李數箇を置場所がわるかつた爲めに失うた」としていますが、『明治文學の片影』本文では「柳行李數箇が盗難にかゝつた」と書いていて、盗難による紛失が、この書のはじまりだったようです。
「内容のさゝやかな書物」という認識ですが、後の世のものにとって、こういう本を残してこその人だと思うのは言い過ぎでしょうか。
佐佐木信綱『明治文學の片影』(1934年、中央公論社)表紙
外函 縦235×横184×幅28ミリ
本 縦227×横158×幅25ミリ
国会図書館の読者送信サービスでも読むことができますが、国会図書館でデジタル化されたものには、小村雪岱の表紙はありませんでした。
佐佐木信綱『明治文學の片影』(1934年、中央公論社)扉
装幀 小村雪岱
佐佐木信綱『明治文學の片影』(1934年、中央公論社)奥付
昭和9年(1934)10月25日発行
佐佐木信綱『明治文學の片影』(1934年、中央公論社)のページから
鹿児島にゆかりのある人では、税所悦子、高崎正風、有島武郎らが選ばれています。
佐佐木信綱の父、佐々木弘綱(1828~1891)は、佐佐木信綱を歌人に育て上げるために、何でもしたような人です。
父親の次に、信綱が歌を学んだのは高崎正風でした。
高崎正風から佐佐木信綱につながる系譜。
竹柏会の歌誌『心の花(こころの華)』の初期には、髙崎正風や加藤雄吉もたびたび寄稿していました。
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『明治文學の片影』に手紙を残した100人を並べてみます。
明治27年(1894)から昭和9年(1934)まで、亡くなった順に掲載されています。
(1) 中野逍遙君 慶応3年2月11日(1867年3月16日)~明治27(1894)11月16日、漢詩人
(2) 小中村清矩先生 文政4年12月30日(1822年1月22日)- 明治28年(1895)10月11日、国学者
(3) 樋口一葉女史 明治5年3月25日(1872年5月2日)~ 明治29年(1896)11月23日、小説家
(4) 西周男 文政12年2月3日(1829年3月7日)~ 明治30年(1897)1月31日、啓蒙思想家
(5) 森田思軒君 文久元年7月21日(1861年8月26日)~明治30年(1897)11月14日、新聞記者
(6) 鈴木重嶺翁 文化11年6月24日(1814年8月9日)~明治31年(1898)11月26日、官僚、歌人
(7) 税所敦子刀自 文政8年3月6日(1825年4月23日)~明治33年(1900)2月4日、女官、歌人
(8) 外山正一先生 嘉永元年9月27日(1848年10月23日)~明治33年(1900)3月8日、教育者、詩人
(9) 大西祝博士 元治元年9月7日(1864年10月7日)~明治33年(1900)11月2日、哲学者
(10) 中島湘煙女史 文久3年12月5日(1864年1月13日)~明治34年(1901)5月25日、民権運動家
(11) 橘道守君 嘉永5年(1852)~明治35年(1902)4月、歌人
(12) 正岡子規君 慶応3年9月17日(1867年10月14日)~明治35年(1902)9月19日、俳人・歌人
(13) 高山樗牛博士 明治4年1月10日(1871年2月28日)~明治35年(1902)12月24日、文芸評論家
(14) 中嶋歌子刀自 弘化元年12月14日(1845年1月21日)~明治36年(1903)1月30日、歌人
(15) 尾崎紅葉君 慶応3年12月16日(1868年1月10日)~明治36年(1903)10月30日、小説家
(16) 落合直文君 文久元年11月15日(1861年12月16日)~明治36年(1903)12月16日、歌人・国文学者
(17) 齋藤緑雨君 慶応3年12月30日日(1868年1月24)~明治37年(1904)4月13日、小説家・評論家
(18) イーストレーキ先生(Frank Warrington Eastlake) 1858年1月22日~明治38年(1905)2月18日、英語学者
(19) 野口寧齋君 慶応3年3月25日(1867年4月29日)~明治38年(1905)5月12日、漢詩人
(20) 福地櫻痴居士 天保12年3月23日(1841年5月13日)~明治39年(1906)1月4日、ジャーナリスト
(21) 横井時冬博士 安政6年12月14日(1860年1月6日)~明治39年(1906)4月18日、経済史学者
(22) 松波遊山翁 天保元年12月19日(1831年2月1日)~明治39年(1906)9月13日、歌人
(23) 小杉榲邨先生 天保5年12月30日(1835年1月28日)~明治43年(1910)3月29日、国学者
(24) 福羽美靜子 天保2年7月17日(1831年8月24日)~明治40年(1907)8月14日、国学者、歌人
(25) 橋本雅邦翁 天保6年7月27日(1835年8月21日)~明治41年(1908)1月13日、日本画家
(26) 小出粲翁 天保4年8月28日(1833年10月9日)~明治41年(1908)4月15日、歌人
(27) 國木田獨歩君 明治4年7月15日(1871年8月30日)~明治41年(1908)6月23日、小説家
(28) 井關照子夫人 明治9年(1876)1月1日~明治42年(1909)4月11日、歌人
(29) 野の人齋藤君 明治11年(1878)4月14日~明治42年(1909)8月6日、評論家
(30) 伊藤春畝公 天保12年9月2日(1841年10月16日)~明治42年(1909)10月26日、伊藤󠄁博󠄁文󠄁、政治家
(31) 依田學海居士 天保4年11月24日(1834年1月3日)~明治42年(1909)12月27日、漢学者、劇作家
(32) 藤岡東圃博士 明治3年7月19日(1870年8月15日)~明治43年(1910)2月3日、藤岡作太郎、国文学者
(33) 山田美妙君 慶応4年7月8日(1868年8月25日)~明治43s年(1910)10月24日、小説家、詩人
(34) 大塚楠緒子夫人 明治8年(1875)8月9日~明治43年(1910)11月9日)、歌人
(35) 森槐南博士 文久3年11月16日(1863年12月26日)~明治44年(1911)3月7日、漢詩人
(36) 東久世竹亭伯 天保4年11月22日(1834年1月1日)~明治45年(1912)1月4日、東久世通禧、政治家、茶人
(37) 高崎正風先生 天保7年7月28日(1836年9月8日)~明治45年(1912)2月28日、薩摩藩士、官僚、歌人
(38) 石川啄木君 明治19年(1886)2月20日~明治45年(1912)4月13日、歌人
(39) 乃木希典將軍 嘉永2年11月11日(1849年12月25日)~大正元年(1912)9月13日、陸軍軍人
(40) 本居豐穎先生 天保5年4月28日(1834年6月5日)~大正2年(1913)2月15日、国学者
(41) 木村正辭博士 文政10年4月6日(1827年5月1日)~大正2年(1913)4月11日、国学者、国文学者
(42) 坪井正五郎博士 文久3年1月5日(1863年2月22日)~大正2年(1913)5月26日、人類学者
(43) 伊藤左千夫君 元治元年8月18日(1864)9月18日~大正2年(1913)7月30日、歌人、小説家
(44) 井上頼圀博士 天保10年2月18日(1839年4月1日)~大正3年(1914)7月4日、国学者
(45) 長塚節君 明治12年(1879)4月3日~大正4年(1915)2月8日、歌人、小説家
(46) 島地雷夢君 天保9年2月15日(1838年3月10日)~明治44年(1911)2月3日、本願寺派僧侶
(47) 井上世外侯 天保6年11月28日(1836年1月16日)~大正4年(1915)9月1日、井上馨、政治家
(48) 三浦守治博士 安政4年5月11日(1857年6月2日)~大正5年(1916)2月2日、病理学者
(49) 上田敏博士 明治7年(1874)10月30日~大正5年(1916)7月9日、英文学者、詩人
(50) 夏目漱石君 慶応3年1月5日(1867)2月9日~大正5年(1916)12月9日、小説家、英文学者
(51) 佐々政一博士 明治5年5月6日(1872年6月11日)~大正6年(1917)11月25日、佐々醒雪、国文学者、俳人
(52) 島村抱月君 明治4年1月10日(1871年2月28日)~大正7年(1918)11月5日、評論家、演出家
(53) 寺崎廣業君 慶応2年2月25日(1866年4月10日)~大正8年(1919)2月21日、日本画家
(54) 徳富久子刀自 文政12年4月11日(1829年5月13日)~大正8年(1919)2月18日、徳富一敬の妻、徳富蘇峰、徳冨蘆花、湯浅初子らの母
(55) 和田垣謙三博士 万延元年7月14日(1860年8月30日)~大正8年(1919)7月18日、経済学者
(56) 宗演老師 安政6年12月18日(1860年1月10日)~大正8年(1919)11月1日、釈宗演、臨済宗僧侶
(57) 田中義成博士 安政7年3月15日(1860年4月5日)~大正8年(1919)11月5日、国史学者
(58) 末松謙澄子 安政2年8月20日(1855年9月30日)~大正9年(1920)10月5日、ジャーナリスト、政治家
(59) 外山隆子孃 明治28年(1895)~大正10年(1921)11月、歌人、外山正一の娘
(60) 大隈重信侯 天保9年2月16日(1838年3月11日)~大正11年(1922年)1月10日、政治家
(61) 山縣含雪公 天保9年閏4月22日(1838年6月14日)~大正11年(1922)2月1日、山県有朋、軍人、政治家
(62) 森鷗外博士 文久2年1月19日(1862年2月17日)~大正11年(1922)7月9日、文学者、陸軍軍医
(63) 有島武郎君 明治11年(1878)3月4日~大正12年(1923)6月9日、小説家
(64) 島田沼南君 嘉永5年11月7日(1852年12月17日)~大正12年(1923)11月14日、島田三郎、ジャーナリスト、政治家
(65) 萩野由之博士 万延元年4月17日(1860年6月6日)~大正13年(1924)1月31日、歴史学者、国文学者
(66) 富岡鐵齋翁 天保7年12月19日(1837年1月25日)~大正13年(1924)12月31日、文人画家
(67) 木下利玄君 明治19年(1886)1月1日~大正14年(1925)2月15日、歌人
(68) 徳川頼倫侯 明治5年6月23日(1872年7月28日)~大正14年(1925)5月19日、政治家、実業家、紀州徳川家第15代
(69) 大町桂月君 明治2年1月24日(1869年3月6日)~大正14年(1925)6月10日、詩人、評論家
(70) 新井洸君 明治16年(1883)10月9日~大正14年(1925)10月23日、歌人
(71) 跡見花蹊刀自 天保11年4月9日(1840年5月10日)~大正15年(1926)1月10日、教育者、日本画家
(72) 小栗風葉君 明治8年(1875)2月3日~大正15年(1926)1月15日、小説家
(73) 島木赤彦君 明治9年(1876年)12月16日~大正15年(1926)3月27日、歌人
(74) 穗積陳重男 、安政2年7月11日(1855年8月23日)~大正15年(1926)4月7日、法学者
(75) 長井金風君 慶応4年1月20日(1868年2月13日)~大正15年(1926)8月23日、ジャーナリスト、歴史家、歌人、漢詩人
(76) 芳賀矢一博士 慶応3年5月14日(1867年6月16日)~昭和2年(1927)2月6日、国文学者
(77) 岡田正之博士 元治元年9月5日(1864年10月5日)~昭和2年(1927)7月28日、漢学者
(78) 芥川龍之介君 明治25年(1892)3月1日~昭和2年(1927)年7月24日、小説家
(79) 沼波瓊音君 明治10年(1877)10月1日~昭和2年(1927)7月19日、国文学者、俳人
(80) 古泉千樫君 明治19年(1886)9月26日~昭和2年(1927)8月11日、歌人
(81) 九條武子夫人 明治20年(1887)10月20日~昭和3年(1928)年2月7日、歌人
(82) 大槻文彦博士 弘化4年11月15日(1847年12月22日)~昭和3年(1928)2月17日、国語学者
(83) 大矢透博士 嘉永3年12月3日(1851年1月4日)~昭和3年(1928)3月16日、国語学者
(84) 間島弟彦君 明治4年7月7日(1871年8月22日)~昭和3年(1928)3月21日、銀行家、歌人
(85) 弘田長博士 安政6年6月15日(1859年7月14日)~昭和3年(1928)、小児科医師
(86) 小山内薫君 明治14年(1881)7月26日~昭和3年(1928)年12月25日、劇作家、演出家
(87) 後藤棲霞伯 安政4年6月4日(1857年7月24日)~昭和4年(1929)4月13日、後藤新平、医師、官僚、政治家
(88) 内田魯庵君 慶応4年閏4月5日(1868年5月26日)~昭和4年(1929)6月29日、評論家、小説家
(89) 前田慧雲博士 安政2年1月14日(1855年3月2日)~昭和5年(1930)4月29日、本願寺派僧侶、仏教学者
(90) 原田嘉朝翁 嘉永2年10月10日(1849年11月24日)~昭和5年(1930)5月5日、原田二郎、鴻池財閥経営者
(91) 田山花袋君 明治4年12月13日(1872年1月22日)~昭和5年(1930)5月13日、小説家
(92) 大槻如電翁 弘化2年8月17日(1845年9月18日)~昭和6年(1931)1月12日、漢学者
(93) 藤井健次(治)郎博士 明治5年9月10日(1872年10月12日)~昭和6年(1931)1月15日、倫理学者
(94) 大塚保治博士 明治元年12月20日(1869年2月1日)~昭和6年(1931)3月2日、美学者
(95) 關根正直博士 安政7年3月3日(1860年3月24日)~昭和7年(1932)5月26日、国文学者
(96) 松居松翁君 明治3年2月18日(1870年3月19日)~昭和8年(1933)7月14日、劇作家、演出家
(97) 巖谷小波君 明治3年6月6日(1870年7月4日)~昭和8年(1933)9月5日、児童文学者
(98) 新渡戸稻造博士 文久2年8月3日(1862年9月1日)~昭和8年(1933)年10月15日、農学者、教育者、政治家
(99) 村山香雪翁 嘉永3年4月3日(1850年5月14日)~昭和8年(1933)11月24日、村山龍平、朝日新聞経営者
(100) 内藤湖南博士 慶応2年7月18日(1866年8月27日)~昭和9年(1934)6月26日、東洋史学者
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〉〉〉今日の音楽〈〈〈
Slapp Happyのファーストアルバム『Sort Of』が、ドイツ・ポリドールからリリースされたのが1972年。
その50周年に、ドイツの新しいレーベル、Week-End Recordsから、アナログ盤が再発されました。
ラベルはポリドール盤をもじっています。
音的には、2016年のドイツTapete Records/Slowboy Recordsの再発盤と同等のもののようです。
この盤の個人的な目玉は、インナースリーヴの、ピーター・ブレグヴァドの回想文(日付は2023年6月)です。
ところで、discogsのマーケットでは、それぞれの盤の最新の最高販売価格と最低販売価格が記録されているのですが、『Sort Of』の1972年ドイツ・ポリドール盤を10ドル程度で入手した果報者がいたようです。うらやましい限りです。
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404. 1941年の冨岡冬野『空は青し』(2023年10月18日)
『空は青し』(1941年5月10日初版発行、第一書房)は冨岡冬野の遺稿集。
この本では、「冨」ですが、「富」のほうが一般的です。
国会図書館の読者送信サービスを使って閲覧した佐佐木信綱(1872~1963)主宰の短歌誌『心の花』(竹柏会)で、冨岡冬野が、西尾幹子(石邨幹子)の友人だったことを知って、入手した本です。
富岡冬野(冨岡ふゆの、1904~1940)は、『心の花』に歌と随筆を残しました。上海で客死。35歳。
画家・富岡鉄斎(1837~1924)の孫で、東洋史学者・富岡謙蔵(1873~1918)の娘。
のちにPCL(東宝の前身)や中華電影で脚本や制作に携わった松崎啓次と結婚。仲人は内藤湖南(1866~1934)。
『空は青し』のほかに、最初の歌集『微風』(1925年)があります。
西尾幹子(石邨幹子、1900~1986)は、ポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房、装幀・秋朱之介)、石邨幹子譯『つみくさ 現代フランス閨秀詩選』(1943年、櫻井書店、装幀・三岸節子)、石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(1960年、アポロン社)、石邨幹子訳編『サアディの薔薇 マルスリイヌ・デボルド=ヴァルモオルの詩と生涯』(1988年、[サアディの薔薇]の会)など、フランス詩の素敵な翻訳を残した人です。
この人の回想録があったら、と思う人です。
西尾幹子・石邨幹子については、前回403回のほかに、次の回でも書いています。
第194回 1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)
第231回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)
第232回 1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯(2018年4月30日)
第239回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)
冨岡冬野『空は青し』表紙
1941年(昭和16)の造本は弱々しいです。
装幀者名は記載されていません。
1935年の秋朱之介なら、どんな本にしただろうと想像せずにはいられません。
樹下美人または弁財天風の表紙の女性の絵は、誰の手になるものか記載はありません。
ご存じの方があれば、ご教授ください。
帯の佐佐木信綱のことばは、本文の「序」をそのまま流用しています。
序
冨岡冬野ぬしは、鐡齋先生の愛孫にして、桃華大人の愛女たり、よき母刀自とし子ぬし、よき夫君松崎啓次君ありて、その天賦の歌才を磨くこと年あり、近く上海に移り住み、その文その歌更に新味を加へ、將來に嘱望すること最も深かりしに、天は冬野ぬしに才を與へて年を假さざりき。
予、詠絮の才を惜み、薶玉の感に堪へず、片山廣子、齋藤史、二人の君に謀りて、ここにこの一集を世に公にしぬ。
冬野ぬし、その熱愛せる草花とこしへに咲き匂へる地、微風かぐはしき境にありて、喜び微笑みてあらむ。
昭和十六年三月
佐佐木信綱
「ぬし」は、女性への敬称です。
「序文」は齋藤瀏(陸軍少将・歌人、1879~1953)が書いています。
個人的には、本の編集をした片山廣子(歌人・翻訳家、1878~1957)と齋藤史(歌人、齋藤瀏の長女、1909~2002)の序文や跋文が読みたかったです。
冨岡冬野『空は青し』扉
「上海時代 昭和十四年-昭和十五年」「砧村時代 昭和十五年」「昭和三年-大正九年」の三部構成になっています。
それぞれ歌と随筆で構成されています。
「上海時代」に収録されている随筆は、「上海の子供達」(昭和14年7月)「杭州の覺え書」「上海より」(昭和14年11月5日)
「砧村時代」に収録されている随筆は、「砧村だより」(昭和9年9月)「よしなしごと」「兒童心理學挿話」(昭和10年2月)
「昭和三年-大正九年」に収録されている随筆は、「室町の家」(昭和3年春)「祖父・冨岡鐡齋」(昭和15年7月)
『心の花』誌でも、冨岡冬野の随筆は特別あつかいというか、大事にされていたような印象を持ちました。『心の花』に掲載された冨岡冬野の隨筆を集めたら面白いと思います。
冨岡冬野『空は青し』のページから
「上海時代」の歌のパートの最後に、「最終歌」として6つの歌があります。
樹樹の間は紫羅蘭の花群れ咲きて不思議にきたる支那の春なり
わが世すでにつきぬと思ふ日日をへて春よみがへる息吹(いぶき)こそすれ
はろけくも思ひ絶えせぬ人あればまたよみがへる春を信ぜむ
日の光鳥の聲樹樹の芽のみどり誰かはこれをたもたむとする
公園の白き徑(こみち)を銃もてる英兵二人ならびくる春
子等の夢を母ぞ守りて住みたまふ空かきくらし粉雪ふる町
(かな)はルビです。
春を待ちのぞみながらも、死という冷たい粉雪が降り積もっています。
冨岡冬野『空は青し』のページから
「昭和三年-大正九年」パートの冒頭の歌、
ふるさとの大き樹しげり暗き家にひねもす何もせずゐし娘
蒼白き影にまじらふ影として生きなむことは思ひもよらず
この娘さんのことを好きになりそうです。
冨岡冬野『空は青し』のページから
最期に収録されたのは昭和15年に発表された「祖父・冨岡鐡齋」
冨岡冬野『空は青し』奥付
◆
佐佐木信綱研究会が発行している『佐佐木信綱研究』に、清水あかねの富岡冬野研究が掲載されています。
『佐佐木信綱研究』第11號(2019年12月2日発行、佐佐木信綱研究会)
信綱と交流のあった同時代の人々、弟子特集
■清水あかね「富岡冬野 ~ 昭和一四、一五年の上海詠」
『佐佐木信綱研究』第12號(2021年10月1日発行、佐佐木信綱研究会)
信綱と交流のあった同時代の人々、弟子特集(その2)
この表紙の写真(1934年撮影)で、中央のおじさまが佐佐木信綱。その向かって左の洋装の女性が富野冬野、向かって右の振袖の女性が鶴見和子(1918年~2006)。
■清水あかね「砧村時代――富岡冬野、上海までの道のり」
『佐佐木信綱研究』第13號(2022年12月2日発行、佐佐木信綱研究会)
佐佐木信綱と周辺の人々/『山と水と』語彙特集
■清水あかね「京都時代の富岡冬野」
清水あかねの富岡冬野研究は、まさに現在進行形で、各号ごとに「富岡冬野略年譜」の内容が更新されています。
残念ながら、西尾幹子(石邨幹子)は、まだ登場していません。
◆拾い読み・抜き書き◆
京都の美術評論家・加藤一雄(1905~1980)の『近代日本の絵画』(1966年11月25日初版発行、河原書店)収録の「冨岡鉄斎の芸術」に、富岡冬野の名前もでていました。
しかし一度、社会の交渉を離れて、鉄斎ひとりの心象を描くとなると、これはまた非常に鮮明になってくる。岡本太郎氏もいってられるように、鉄斎は孤独の人でなく(社会との何らの関係を前提としてこそ孤独であるから)、むしろ単個の人である、という言葉はよく当たっている。そしてこの単個の姿は、彼の剛毅と大才に彩られて、実に鮮やかに浮かび上ってくるのである。この点に関しては富岡家の家族たち、ことに女性たちの筆がこの巨匠の肖像を描き出して遺憾がない。単個の人をとらえる女性たちの眼は、今更のことではないが、まことによく澄んでいるものである。これらの肖像の中で、ことに、少年時代と老年期の二肖像がわれわれの心を打ってくるようである。鉄斎は十三、四歳のころ六孫王神社の稚児をしていたことがある、六孫王とは現在国鉄京都駅のやや西方鉄路に沿うた小さな郷社である、彼が紫綸子(りんず)の大振袖に裾濃(すそご)の袴をはき、稚児輪にゆうた姿は人びとをふり返らせるほどきれいだった、と孫娘の冬野さんが書き残している。鉄斎は美少年だったのである。それも気の強い美少年であった。後年、安政から文久にかけて鉄斎の二十歳代、蓮月が保護者らしいシチュエーションのもとに鉄斎に相対する時にも、この美少年の事実を記憶しておく必要がある。幕末とは現在のように偽善的な小市民社会ではなかったはずである。
鉄斎は八十三歳の時、唯一人の子謙蔵を失った。この時の老爺の姿は非常に印象的である。謙蔵なき跡には嫁のとし子さんと三人の孫が残っている。この人たちがすべて最晩年の鉄斎の肩にかかって来た。この状はちょうど八十余年の昔、一子宗伯を失った滝沢馬琴の運命によく似ている。馬琴は傷心の暇さえなく、嫁女のお路を唯一の頼りとして、「八犬伝」を書き進めて行った。同じように鉄斎もまた、とし子さんを唯一人の助手として、批評家の言葉を借ると、「ベートーベンの交響楽」のような最晩年の傑作を次々とかいたのである。この間鉄斎の口からは一語の悲愁ももれていない。ストイックな諦念(ていねん)の言葉さえもれていないのである。そしてただ彼の絵のみが蒼勁(そうけい)の美しさをいよいよ深くして行く――この間の鉄斎の姿は、とし子さんの筆によって、優しく生々と描き出されている。これら二個の肖像に何か鉄斎の写真一葉を加えたら、あの白髪白髯(ひげ)の美しい、右眼の少し斜視の、不思議な気魄にみちた老人の顔を加えたら、この希有の大才の姿は大体遺憾なく出てくるだろうと思う――ただし、これに聾(ろう)疾もつけ加えてもらいたい。鉄斎は幼時から耳が遠かったのである。
『空は青し』を得て、はじめて、「孫娘の冬野さん」が書いた「祖父・冨岡鐡齋」を読むことができました。
蓮月は、尼僧・歌人・陶芸家の大田垣蓮月。寛政3年(1791)~明治8年(1875)。
富岡謙蔵(号・桃華、1873~1918)は、富岡鉄斎一人息子。東洋史学者。妻は富岡とし子。娘に富岡冬野。
富岡とし子と富岡冬野は、母娘で竹柏会にかかわっています。それと同じように、西尾幹子(石邨幹子)とその母親も竹柏会にかかわったようです。西尾幹子の母親のことが少しでも分かるようになればいいのですが、難しいです。
加藤一雄の書く文章には、美術評論であることを超えて、懐かしい人たちが立ち現れます。
ともかく、この鉄斎という画壇には関係なく、展覧会にもほとんど出品しなかった南画家を、明治・大正の五十年を通じて支持してきたのは、京大阪の大衆だったと思う。大衆などという漠然とした言葉を使うのは、近代の文化現象には必ず付帯する知識人の姿がそこには見られなかったという意味なのである。知識人の、それもほとんど知識人特有の絵画形式であった南画のこの変わり果てた姿を見ることは感慨無量である。もっともわたくしのこの感慨無量が間違っていたらご免こうむりたい。わたくしはわたくしの貧しい経験からいっているのだから。わたくしは大正の初期を、偶然ながら、知的な青年男女にとりまかれて育ってきた。だから彼らの思考と感受性は子供心にも多少は知っているのである。彼らは何よりも小説と詩を愛していた。「新小説」と「スバル」、そして十九世紀のロシア文学。哲学ではベルグソンを、読むというよりは彼らはしゃべっていた。美術の方では後期印象派とロダン、日本では国画創作協会と院展の一部をひいきにしていた。少し氣持ちの屈折した連中は竹久夢二をさえ愛していた。しかし、鉄斎の名はかつて彼らの話題に上ったことはなかったのである。あれはたしか関東大震災の翌年の春のことだったと思う。わたくしは彼らのうちの一人、ことに知的エリート気取りの叔母につれられて高島屋に行って、そこで鉄斎の展覧会を見たことがある。もちろん彼女は鉄斎なぞは黙殺していたから、買物に行ったら偶然そこに鉄斎展があったというのが正確な事実である。会場にはぱらぱらと人影はあったが、それは大抵分別顔なおっさんの姿であって、現在の鉄斎展につねに見られるあの知的興奮のムードはどこにも見られなかった――このことは記憶されていいと思う。叔母もわたくしももちろんさして興奮もなく見終わったのであるが、その時彼女はぽっつりといっていたものである。「この鉄斎ってお爺さん、割合面白いやないの。」この言葉は孤立して響き、そのまま反響もなく消え去った言葉である。しかし、わたくしはなぜだか妙に記憶しており、彼女をもって現代的鉄斎観賞の fore-runner だと思っている。
鉄斎が知識人たちによって、広く新しく、再評価され始めてきたのは、彼の死後数年、昭和の初年からのことである。それから長い戦争がつづくが、戦争と敗戦さえも鉄斎の評価には影響するところなく、賛嘆の声は現在にいたってほとんど最高潮に達している感がある。
富岡鉄斎受容の歴史を知る上でも、貴重な証言ですが、それ以上にここに描かれた「叔母」さんの印象が強く残ります。
〈2024年1月29日追記〉
『文體』復刊第一號(昭和22年12月20日發行、文體社) 収録の佐藤春夫「仲秋日記」に、石邨幹子と富岡冬野のことが書かれていましたので引用します。
九月二十四日 長野版戸隱の繪本早速着。午後早く野澤の和田夫人がその舊知としてこの間から話のあつた京都全國書房の齋藤夫人を同伴して訪問された。齋藤夫人彌生さんは富岡桃華氏の息女で石村幹子夫人の話によく出る友人の上海で物故した鐡齋翁の孫女の姉さんに當る人である。この人も和田夫人にそそのかされたと見えて磊庵へ行きたいといふ。好晴を幸、荊妻も同行して出かける。齋藤夫人は途中の林下の徑の秋草を喜び、なかの一つを指して何といふ花かは知らぬが茶人などの喜ぶものであると注意して示してくれた花は、後に鮎子の意見でうけらの花ではあるまきかといふので、調べて見るとさうらしい。山でうまいはうけらととときと村人の歌に聞き、その芽はこの春も食べたが花を見るのははじめてである。夕方から雨がふり出した。夜は戸隱の繪本をよみかけてそれを伏せて、藤村文庫の早春を通讀して、先日來話のあつた藤村論の腹案をノートして置く。
石邨幹子は、血はつながっていませんが、詩人の安西均(1919~1994)の親戚でした。
それについては、「第239回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)」に追記しました。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
「空は青し」からの連想ゲームみたいなものですが、「水色の空が 赤く染まる頃」と歌い始めるアルバムを。
穂高亜希子『みずいろ』(2014年、F.M.N.Sound Factory)
京都のF.M.N.Sound Factoryからのリリース。
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403. 1935年の佐佐木信綱・佐佐木雪子『筆のまにまに』(2023年10月17日)
「第201回 1928年の佐佐木信綱・佐佐木雪子『竹柏漫筆』(2017年3月17日)」で紹介した『竹柏漫筆』(1928年、実業之日本社)の続編。
佐佐木信綱(1872~1963)・佐佐木雪子(1874~1948)夫妻が、佐佐木信綱が主宰した短歌結社・竹柏会の短歌誌『心の華』にそれぞれ連載していた随筆をまとめた本です。
『竹柏漫筆』は小村雪岱(1887~1940)の装幀でしたが、『筆のまにまに』には装幀者の名前は記載されていません。
昭和10年(1935)の美意識で造られた本だと思います。
佐佐木雪子が『心の花』に連載していた「西片町より」は身辺雑記で、その時々の竹柏会会員の往来が細かく書かれています。
この本に手を出したのには、ちょっと下心があって、竹柏会の会員だったらしい西尾幹子(石邨幹子、1900~1986)の記述がないか期待したためでした。
西尾幹子・石邨幹子については、次の回で書いています。
第194回 1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)
第231回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)
第232回 1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯(2018年4月30日)
第239回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)
残念ながら、『筆のまにまに』のなかに、西尾幹子・石邨幹子の記述は見当たりませんでした。
しかし、国会図書館の読者送信サービスで『心の花』のバックナンバーの一部がWEB上でも閲覧できるようになり、試しに、佐佐木雪子の「西片町より」や「消息」欄をチェックしてみると、西尾幹子の記述も見つけることができたのです。
◆
西尾幹子の話の前に、手もとにある『筆のまにまに』を紹介しておきます。
古書店で入手したものですが、前所有者の書き込みがあって、それにも興味をひかれました。
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』(1935年9月20日発行、人文書院)外函
外函の和紙に葉が漉き込まれています。竹柏(ナギ)の葉?とも思いましたが、笹の葉のようです。
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』外函の背
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』クロス表紙
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』扉
書き込みは「服部綾足蔵書」と読めそうです。
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』目次冒頭
「服部氏」と読める印が押してあります。
佐佐木信綱「書窓詹言」パートの扉
「直」という印が押されています。
佐佐木雪子「西片町より」パートの扉
ここにも「直」という印が押されています。
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』 奥付
書き込みは次のように読めます。
九月卅日午後四時
伏見よりの帰りに■■
松阪屋にて求む
■■に余の氏
名の見ゆるハ
余の爲めの
紙碑なり
■の部分を読める方、ご教授くださいませ。
【追記】
戸田勝久さまより、名古屋の古名「浪越」と「處処」ではないかとのご指摘をいただきました。
「處■」を「處々」と読んでみました。
九月卅日午後四時
伏見よりの帰りに浪越
松阪屋にて求む
處々に余の氏
名の見ゆるハ
余の爲めの
紙碑なり
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』の289ページと363ページから
「服部綾足」の名があるページの端が折られ、犬耳になっていました。
佐佐木信綱 佐佐木雪子『筆のまにまに』見返し
「Matsuzakaya」の票が貼られています。
国会図書館の読者送信サービスで閲覧した『心の花』1935年11号(竹柏會)に、次の便りが掲載されていました。
「高須より」 服部綾足
一昨日東濃伏見へ縁づけし娘をおくりゆきて、歸りに名古屋に寄り、先生御兩所の『筆のまにまに』をもとめ候。連夜ともし火のもとにくりかへし拜讀申上居候。先生の「北美濃の一日」の篇をはじめ、吾が美濃の風光をおみとめ給はりしことの嬉しき感謝の至りに候また奥様の御筆に、此のはしたなき私の名をも御記し給はりしこと、身にあまる面目とおぼえ候。「國文學の文献學的研究」も、歌論歌話の貴篇と共に手に入れ候ことに候。
ひたぶるに斯の道をゆく四十年ことしの秋もくれなむとする
露にぬれし十葉錦の朝の彩そぞろに秋の深きを感ず
奥付の書き込みにあった「伏見」は京都の伏見でなく、東濃の伏見のようです。
この『筆のまにまに』は、娘さんをお嫁にやった遠出の帰りに、大きな町の百貨店の本屋に寄って、買い求めた本だったのでしょうか。
お父さんの一日は感慨深いものだったのでしょう。
◆
佐佐木雪子の「西片町より」が掲載されていた短歌誌
『心の花』のバックナンバーの多くが、国会図書館の読者送信サービスを使って、WEB上で閲覧できるようになっています。
全部を読破するのは大変ですから、とりあえず佐佐木雪子の「西片町より」と『心の花』の「消息」欄に、西尾幹子・石邨幹子の名前がないか、チェックしてみました。
国会図書館の読者送信サービスで、すべての『心の花』のバックナンバーが閲覧できるわけではありません。
『こころの華』 明治31年(1898)2月11日発行第1号(こゝろの華發行所) から、明治40年(1907)4月1日発行第11巻第4号(竹柏會出版部) までは閲覧できますが、1907年5月第11巻第5号から1921年12月第25巻第12号までは欠けています。
西尾幹子の7歳から21歳までの記述は知ることができません。
『心の花』大正11年(1922)1月1日発行第26巻第1号(竹柏會出版部) から平成12年(2000)12月1日発行通巻1226号(竹柏会)までも大部分閲覧できますが、戦争前後の1941年7月から1947年までは、ほとんど閲覧できません。
とりあえず戦前の『心の花』にある西尾幹子・石邨幹子の記述を抜き出してみます。
■1924年(大正13)7月 「消息」 西尾幹子23歳
◎西尾みき子ぬしの夫君西尾重氏は博士の學位を受け名古屋市愛知醫科大學外科に赴任教鞭を取らるゝ事となつた。
西尾姓が最初の結婚によるものということが分かりました。
もちろん婿入り養子という可能性もありますが。
『心の花』1907年5月第11巻第5号から1921年12月第25巻第12号まで閲覧できるのであれば、西尾幹子の旧姓や竹柏会への入会時期、西尾幹子の母親はじめ親族も竹柏会にかかわっていたと思われるので、そのあたりも調べることができるのではないかと思います。
鹿児島だと、それらにすぐ手をつけられないのがつらいところです。
『心の花』では、「ぬし」という敬称を、女性に使っています。
■1925年(大正14)9月 「消息」 西尾幹子24歳
◎西尾幹子ぬし夫君愛知醫科大學教授西尾重博士は七月二十六日病んで世を去られたまことに悼ましき至である
西尾幹子は25歳で最初の夫と死別したようです。
西尾幹子の最初の夫、西尾重は、京都帝国大学出身。1924年(大正13)5月15日、論文「痔核の注射療法に就きての実験的並に臨床的研究」で医学博士になっています。
■1929年(昭和4)8月 歌を7首。 西尾幹子29歳
十年の月日 西尾幹子
くづれゆく家の姿を四年ほどながめながめぬただやるせなく
父ゆきし後の十年は我が爲に悲しき月日苦しかりし月日
ほほゑめる片面のみおほかたの人には見せきただ樂しげに
君の眼をみつめてあればそぞろにも我がむねいたしすべあらなくに(我が友へ二首)
ながらへてゑまひ見せませ人の世に殘さるるもののさびしさをくみ
こみどりの近江路ゆくはわびしけれ野のいやはてに野のつらなりて
いつかまた昔の我のかへり來て涙する日の多くなりにし
山下陸奥氏歓迎京都歌會
ひとりゐて歌うたふ事多くなりぬ悲しき時に淋しき時に 西尾幹子
「父ゆきし後の十年」とあるので、父親を早くに亡くしたようです。
「近江路」「京都歌會」に、京都近辺の出身をうかがえます。
この京都歌会には、富岡鉄斎の孫、富岡冬野も参加しています。
思ふ人を牢獄に置きて六月の烈日の下寒きまみすも(わが友) 富岡冬野
■1930年(昭和5)5月 歌8首 西尾幹子29歳
フランスに旅立つ日近づきて 西尾幹子
うすぐもる春の夕べの疎水端しみじみとしも友の聲きく
旅にゆく我を思へば春の夜のこの一時の切に惜しまる
あてもなく夕べの街をさまよひぬ心ひとつをあつかひかねて(日記より)
はかなきはいともやくなき氣苦勞に疲れはてたる我を見る時
今日もまた同じ心の一隅をみつめつづけて日を終るらし
夕ぐれのそのひと時のはかなさは心いたみてすべ知らなくに
にび色の近江の湖をながめゆくこの夕ぐれのはかなき思ひ
冬枯の草原の色しみじみと我がむねにしむ夕ぐれの路
西尾幹子の日記があったことがわかります。
「疎水端」「近江の湖」に親しかったのでしょうか。
■1930年(昭和5)8月 「消息」
◎西尾幹子ぬしはフランスに三年留學のためシベリヤ線で出發せられた。
西尾重が亡くなって5年後、フランスに留学。
■1931年(昭和6)12月 佐佐木雪子「西片町より」
とつ國のたより
るり子さん(嘉治瑠璃子)が巴里からおくつて下さつた御文は、この十月號を讀んだ方々から、あの「祖父の寫眞」といふ文はと、よく話をきく。近く美代子さん(五島美代子)が倫敦から長い手紙を下さつた。ひとみさんのかはいい學校がよひの姿が見えるやうである。アドレスを書くのがおつくうな爲、幹子さんにも咲子さんにも其他の方々にもおたよりを怠つてゐるが、はんたうにとつ國よりのおたよりは、家にのみこもつてをる身に新しいことが知られて嬉しいものである。
最初に『筆のまにまに』を通読したときには気づかなかったのですが、「幹子さん」という記述がありました。『筆のまにまに』にも収録されています。
■1932年(昭和7)11月 「消息」 西尾幹子32歳
◎久しく佛國に留學せられた西尾まき子ぬしは十月三日神戸入港の照國丸で歸朝せられた。
3年の予定が2年で帰国したようです。「まき子」になっていますが、誤植でしょう。
■1933年(昭和8)3月
小金井素子「一月十九日小集の記」
「若きウタリに」の作者バチエラア八重子さんが、二十年振りで御上京なさつたのをお迎へするのと、二年の巴里遊學を終へてお歸りになつた西尾幹子さんをお迎へするのと、二つのよろこびを兼ねて、一月十九日夜、電氣倶樂部に竹柏會小集が催されました。
北の國、古の渡島に生れられて、英人バチエラー師の養女となり、その慈み深い薫陶のもとに人となられた八重子さんは、かつて、師たり父母たる君と共に英國の地も踏まれ、その同族(ウタリ)の中に、尊い教を説いて居られます。しかも古來、文學を持たなかつた人々の間にあつて、亡び行く同族の運命を嘆き、その再生を望み、眞情をこめて歌はれた結晶は、歌集、「若きウタリに」となりて世に輝き出でたのでした。
つゝましくうつむき勝ちに、今日のよろこびを靜かにたたへていらつしやる黑いお羽織の八重子さんのお面影に、あの若きウタリへ呼びかけた強い熱情がほのかにうかゞはれます。
西尾幹子さんは、お母様も亦、その他御一族にたくさんの竹柏會員をおもちになる方。滯佛中の大部分を、巴里で詩の勉強にお暮しになつたと仰有います。朗らかな巴里の屋根の下の夢を、時々靜かな微笑と共にお洩しになるのです。――マロンだと思つて拾つて來て一生懸命煮たらば、何かわけのわからない木の實だつたお話など。――
金田一京助氏の、大へん興味深いアイヌ古謠のお話は、遠い北海道の遠い昔の英雄の物語を、不可思議なその言葉で伺つてゐるうちに、近代味以上の感覺に引き入れられて行きます。
大へん急なお催しで、集まつた人數は少なかつたのですけれど、先生奥樣のお優しい御微笑も御見上げ出來ましたし、亦先生のお言葉を拜借すれば、まことに「思ひきや」な感じは、靜かに扉を開けて入つていらつした、新村博士の御出席でした。博士は、「若きウタリに」へ序文を寄せていらつしやいます、また西尾さんとはこの春、巴里でお逢ひになつていらつしやるんださうでございます。急のお招きだつたがと、土岐善麿氏、その他、皆さまの色々お話の伺へました事は嬉しい事でした。
記念寫眞に、寫眞やさんの電燈の失敗が却つて一つの餘興となり、「出ン氣」、「暗ブ」。などの洒落までも飛びました。
三階の窓から、夜の光と動きに輝く東京を見下し乍ら、お話は盡きませんでした。
北海道のバチェラー八重子(1884~1962)の上京と、西尾幹子のパリから帰還を迎える竹柏会の集まりについての報告記事。
「先生奥樣」の佐佐木信綱・佐佐木雪子夫妻のほか、金田一京助、新村出、土岐善麿らといった参加者も興味深いものがあります。
「西尾幹子さんは、お母様も亦、その他御一族にたくさんの竹柏會員をおもちになる方。」とあり、西尾幹子の旧姓や親族が分かれば、『心の花』を読むポイントになると思います。
■1933年(昭和8)3月 「消息」
〇歌集「若きウタリに」の作者バチェラー八重子ぬしの上京せられたると、西尾幹子ぬしの巴里の留學より歸られたのを機として、一月十九日電氣倶樂部で小集會が催され、席上新村出博士金田一京助氏土岐善麿氏の談話があつた。極めて少數のなごやかな會合であつた。悉(委)しくは小金井素子夫人の記事に譲ることゝする。
1934年(昭和9)2月、西尾幹子の訳でポオル・ジェラルデイ著『お前と私』(1934年2月20日発行、三笠書房)が刊行されます。装幀は秋朱之介(1903~1997)。『お前と私』については、次の回で書いています。
第194回 1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)
■1934年(昭和9)5月 「消息」 石邨幹子33歳
◎西尾幹子ぬしは、石村篤氏と結婚された。まことに慶賀の至である。
「石村」とありますが、「石邨」でしょう。再婚し、その後は「石邨幹子」と名のります。
『お前と私』の出版は、再婚と関わりがあったのかもしれません。
■1935年(昭和10)6月 「新刊紹介」
お前と私
曾つて丸の内電氣クラブで歸朝歡迎會を開いた同人西尾幹子さんが、仏蘭西からのお土産に譯されたポオル・ジエラルデイの詩集である。
大へん新しい、氣の利いた譯語は、西洋の戀愛詩など譯するにはどうも不適當と思はれる國語をよく使ひこなして、ほゞ原詩の情趣を傳へ得てをるのではないかと思はれる。原詩を全く知らぬから何も言へぬが、その三十二篇の譯詩は、日本の詩としても十分味ふに堪へると思ふ。
別漉きの鳥の子を使つて印刷も心地よく更紗模樣の落ついた表紙、羊皮の背、見返しから綴ぢやうまで、よく行届いた好ましい本である。少しおくれたけれど茲に紹介する。
(淀橋區戸塚町、三笠書房發行。限定五百部)
一年遅れの紹介でした。「同人西尾幹子さん」とあるので、間違いなく竹柏会の会員・同人だったようです。
秋朱之介の装幀も称賛されています。
■1938年(昭和13)5月
橘糸重「小川町の思ひ出」掲載。
後の記事で判明しますが、橘糸重は、西尾幹子(石邨幹子)の親戚です。
■1939年(昭和14)10月 橘糸重女史追悼號 石邨幹子39歳
次の人々が追悼文を寄稿し、石邨幹子も追悼文を寄せています。
「橘糸重女史」佐佐木信綱
「弔辭」乘杉嘉壽
「橘さんと母君」幸田延子
明治を代表するヴァイオリン奏者。幸田露伴の妹。
「橘糸重さん」石榑千亦
「橘糸重女史を懐ふ」小花清泉
「橘絲重ぬしの思出」印東昌綱
「(橘さんの)御親戚なる西尾さん、松浦さん、政江さん」という記述あり。
林政江は四国の竹泊会会員。松浦綠波は和歌山の竹柏会会員。
「橘女史の歌」伊藤嘉夫
「橘さん」佐佐木雪子
「亡き先生」多賀谷千賀
「橘先生を懐ふ」佐佐木治綱
「心もうつろにて」鈴木榮(橘糸重の姉)
「叔母のこと」鈴木昭(鈴木榮の息子)
「糸重叔母の思ひ出」山崎とね子
「廿年前に亡くなった私の母には大勢の兄弟がございましたが皆早世しまして、私の物心のついた頃は、母よりもずつと若い鈴木の叔母と糸重叔母の二人だけ殘つて居りました。 」という記述あり。
「五軒町の叔母さま」石邨幹子
十四の春と秋に身近な叔母と叔父とを(母の妹と弟)失つてから、「五軒町の伯母さまたち」と呼びなれた伯母と叔母とがわたくしには一番親しいものになつた。正確に言へば母の従姉妹だつたけれど。小學校を終へて東京に出ると、暫くであつたものの五軒町の家にあづけられたせいもあらう、母の兄姉妹(きょうだい)とは住む土地が隔たつてゐたせいもあらう、でもわたくしは血の濃淡と感情とは別のものだと思ふ。ことに父を失つて後の母とわたくしとの過ぎて來た道を振り返れば、七年前にパリから歸つて東京に住むやうになつてからのことを思ひ出せば、一層しみじみとそれが感じられる。C’est la vie ! とフランス人の口眞似をすればするやうなものの、亡くなつた叔母とその周圍の人々とのあたたかさが身にしみる。
あまりに近くあまりに直接なのに出會つて、思ひ出も悲しみも、今のわたくしにはとりまとめられない。一緒に育つて兄弟姉妹(きやうだい)よりも親しみ深かつた伯父(母の兄)が叔母の死を、取り殘された伯母の嘆きを、知るすべのない病床に在ることも一層わたくしの心を掻き亂す。
おどろきもかなしみも
ごつちやになつて、
思ひ出はみんなきれぎれ……。
(十日祭を終へて記す)
橘糸重(1873~1939)は、明治時代の伝説的なピアニスト。竹柏会初期を代表する歌人でもありました。
生涯独身で、姉の鈴木栄(橘榮は鈴木家に嫁ぐ)とともに暮らしました。
石邨幹子(西尾幹子)の母が鈴木榮・橘糸重姉妹のいとこということで、橘姓は石邨幹子(西尾幹子)の旧姓ではないようです。
この文章から、西尾幹子は、「小學校を終へて東京に出ると、暫くであつたものの(鈴木榮と橘糸重の)五軒町の家にあづけられた」ことや「父を失つて後の母とわたくしとの過ぎて來た」暮らしがあったことや「七年前にパリから歸つて東京に住むやうになつてからのこと」などが分かります。
「一緒に育つて兄弟姉妹(きやうだい)よりも親しみ深かつた伯父(母の兄)」は、鈴木榮の夫が幹子の母の兄ということを示しているのでしょうか。それなら、幹子の母方の旧姓は「鈴木」ということになりそうですが、確言はできません。
■1939年(昭和14)10月 「消息」
〇帝國藝術院會員橘絲重ぬしは、九月一日白玉樓中の人となられたり。女史は竹柏園の古き會員にて、まことに哀惜の至りなり。女史と本誌との長年のちなみにより本號を橘絲重女史追悼號としたるなり。
■1939年(昭和14)11月
「秋晴の日に」 石邨幹子
秋といふにはあわただしく、マロニエの葉が黄ばんで、朝毎に鋪石の上に散りしく數が多くなつても、晴れた日の午後は池(バツサン)のまはりは子供たちで一ぱい、大きいのや小さいのや玩具のヨツトの白帆が交錯してすべつてゆく。
上院(セナア)の大時計が三時を過ぎる頃になると、小鈴の音と輕い蹄のひびき、驢馬の車が子供たちの笑を載せて、臺地(テラス)と臺地(テラス)の間の花壇に沿つて進んでゆく。
花壇にダリアの盛りは過ぎてしまつたけれど、オウギユスト・コント通に近い小徑に入れば、青銅の鹿や彫像の足下を眞紅の帶でとりまく生命(いのち)の長いゼラニウム。時時テニスの球の音がここまでもこだまする。
サン・ミツシエル寄りのメディシスの泉は、樹樹の枝をもれる陽光(ひかり)がきれぎれな細い金色の網目を水面に落して、睡蓮の蔭に夏の間姿を見せた鯉も底深くひそみ、ここばかりはひつそりと靜まりかへつてゐる。
日沒と同時に、太鼓を先頭にした一隊の公園管理人(ガルデイアン)たちは小徑から小徑へと隅隅まで閉園を告げてしまふと、一人二人づつ分列式のやうに散つて、すべての入口の鐡柵のそばに配置される。制服の金モオルと赤とが夕燒を反映して眩しい。
晴れた日に描く映像(イマアジユ)はリユクサンブウル公園の午後である。しばらく住みなれた土地へのノスラルジアをともすればかきたてる風景。
わたくしの二年餘りのパリの生活は、リユクサンブウルのかたはらに終始したといつてもいい。學生町の中心、サン・ミツシエルの賑やかな大通をよこぎつて、公園(ここ)で幾時間もぼんやりと過すことが多かつた。樹陰と暖い日向と、静寂(しじま)と子供たちの聲と。
危機(クリイズ)! 危機(クリイズ)! と口ぐせのやうに言ひはじめた頃ではあつたけれど、平和な靜かなパリだつた。語學校でわたくしの級の主任は、テキストの中にあつたモオパツサンの「二人の友人」を徒らに兩國人の感情を害するおそれがあると言つて半分で止めてしまつた。大戰の砲彈の痕がまだ處處(ところどころ)に殘つてはゐたものの、リユクサンブウルの管理人(ガルデイアン)の中に片手のない傷兵を幾人かかぞへはしたものの、今になればみんな過ぎ去つた日のことであらう。
あの子供たちはどこへ避難させられたのか、雲の影ばかり映す池(バツサン)、人形芝居や貸ヨツト屋の姿もなく、閉園の太鼓がひびく頃、柵の外では夕刊賣が大聲で標題(みだし)を叫ぶやうに讀みあげてゐようと考へてみても、それはだた頭の中でつくり上げたもので、古ぼけたフィイルムのやうにぼやけてゐる。國を擧げて戰つてゐるとはいへ、遠い東半球の秋は晴れて、思ひ浮べるものはその以前(むかし)の風景。
(かな・カナ)はルビです。
■1940年(昭和15)1月 「五百號記念」
川田順(1882~1966)の「同門の故人を憶ふ」に、橘糸重についての興味深い回想がありました。
川田順は、実業や歌の仕事ではなく、「老いらくの恋」で記憶されている人です。
糸重子さんに就いて、唯一つ忘れ難い場面がある。僕が角帽を蒙つてゐた時分、小田原の海岸に避暑してゐると、糸重子さんも近所の旅館で夏を暮らしてゐた。或る夕方、散歩してゐると、路傍の小川に青い枝葉を束にして浸してあつた。「樒ですよ。いゝことねえ」と糸重子さんが注意したのを、僕は薄氣味惡く思つた。僕は直ちに墓場を聯想し、「どうして、こんな縁起の惡いものがいゝのだらう」と不審に思つた。やがて砂濱の方へ出る途中、尾を曳いて飛んだ流星を瞥見すると、「さびしくつていいぢやありませんか。死に度くなりますよ」と言つた。音樂家として當時既に有名であつた此の人も、孤獨で、内生活の寂しかつた事は僕もよく承知してゐた。けれども、血氣さかんな青年の僕には、橘さんのさびしがるのが、やはり眞に理解出來ず、從つて、慰めようともしなかつた。實際、あの頃の糸重子さんは、「さびしい」とか「死に度い」とかいふのが口癖(と言つては惡いかも知れぬが)であつたらしい。大勢の集りの中でも、時時そんな事を平氣で言つた。竹柏園集第一編及び第二編所錄の歌も、死と寂寥とを對象としたものが多い。晩年、帝國藝術院の會員に推されても、やはり寂しかつたのであらう。人間は、外見ほど不幸なものでもなく、外見ほど幸福なものでもない。
(一四・一二・二)
1939年(昭和14)、川田順は、最初の妻を亡くしています。
■1940年(昭和15)7月 「富岡ふゆの追悼號」
富岡冬野(冨岡ふゆの、1904~1940)は、『心の花』に歌と随筆を残しました。上海で客死。画家・富岡鉄斎(1837~1924)の孫で、東洋史学者・富岡謙蔵(1873~1918)の娘。
片山廣子(松村みね子、1878~1957)の富岡冬野追悼文「輕井澤と砧と」に、石村(邨)幹子が登場します。
冬野さんがK夫人と一しよに輕井澤から歸つて來られたとき、佐佐木先生も偶然同じ車にお乘りあはせになつたといふお話は、いつ伺つた事かはつきり覺えないが、そのあと西片町でお會ひした時、こんど輕井澤に入らしたら私のとこにもいらしつて下さいと言つた。そしたら翌年の夏はほんとに訪ねて下さつてゆつくりお話をした。その秋の「心の花」に輕井澤の美しい歌が澤山おできになつて、私は自分がその歌を作つたやうに樂しかつた。
それから一年ほどして初めて大森に訪ねていただいた。石村幹子さんとお二人で夏の夜だつた。紅とうす桃いろのカアネーシヨンの大きな束を頂いて、夜おそく私は冷たい井戸水を花にかけ、又翌朝もかけて銀の花びんにさして眺めたが、暑い時分で二日ばかりで枯れてしまつた。冬野さんがお亡くなりなつたと伺つた時その花の色がはつきり思い出された。
私の家の嫁となつた人は冬野さんのお姉様やよひさんにいろいろ御指導をうけた人で、縁談が極つた時も冬野さんが一ばん先に知つて悦んで下さつた。祝ひにいらした時には私たちは結婚のことでなく歌のお話をした。
昨年五月ご主人松崎氏がPCLから上海に行かれることになり、私は久しく失禮してゐた砧(きぬた)町のお家にお祝ひもお別れもかねて、幹子さんと一しよに伺つた。
石邨幹子と片山廣子につながりがあったことに、ちょっと驚きました。
片山廣子については、「第181回 1953年の片山廣子『燈火節』(2016年5月18日)」で少しだけ書いています。
石邨幹子「空しく面影を求めて」
今から十五年前、何も知らず與へられたとほりおとなしく生きてゐた最初の生活に終止符を打つて、自分自身の意志のままに新しく出直さうとした時得た友が、ふうさんであつた、
昭和五年の夏から七年の秋までのパリの二年餘りと、去年の七月ふうさんを上海に送つてから今までの一年足らず、丁度三年間を除いてわたくしの生活はふうさんを切りはなしては考へられない。さびしがりやのくせに人嫌ひで、弱蟲のくせに鼻つぱりだけは強いわたくしが、パリから歸つて以來の精神的にも物質的にも苦しい生活をどうにか切り抜けることが出來たのは周圍の少數の人たち、ことに友人たちのあたたかさ故にと言つてもいい。その中でもふうさんはお互ひの氣持に對して誤解のない氣安さから遠慮のないぐちを聽いてもらふいい相談相手で、年上のわたしの方がいつも支へられて來た。
東山仁王門の信行寺の離れと室町の富岡様とを往來(ゆきき)した京都時代、東京へ移つてからは殆ど毎日のやうに顔を合さなければ氣が濟まないやうだつた左門町の頃、それから遠過ぎるとよくわたくしがこぼした砧村、落着いてかへりみれば思ひ出にかぎりはないものの、ひとり靜かに思ひ浮べてみる勇氣が今のわたくしにはない、それに觸れるつらさをなるたけ避けやうと努力するのはわたくしの弱氣なエゴイスムのせいであらうか。ぽつかりとうつろになつた心持で、むなしく面影を求めてただぼんやりと一日一日を送り迎へするのが精一ぱいである。
世に
美(は)しき
ひと
眠る
はかなき
さだめ
あはれ
死よ
しぼみし
薔薇(さうび)
そよ風ぞ
ひとを
奪いぬ
(ジユウル・ド・レセギエ)
石邨幹子にとって、「ふうさん」と呼ぶ、大切な友人だったことが分かります。
「東山仁王門の信行寺の離れ」に住んでいたのは石邨幹子でしょうか。少なくとも京都に住んでいた時期があったことは確かです。
「今から十五年前、何も知らず與へられたとほりおとなしく生きてゐた最初の生活に終止符を打つて」は、最初の夫、西尾重と死別したときかと思われます。
「さびしがりやのくせに人嫌ひで、弱蟲のくせに鼻つぱりだけは強いわたくし」という石邨幹子の自己認識。
「東京へ移つてからは殆ど毎日のやうに顔を合せなければ氣が濟まないやうだつた」時期もあったようです。
■1941年(昭和16)6月 石邨幹子40歳
石邨幹子「ゆめの中の」
ゆめの中のあのひとは青いきもの
あたしを見ながら默つてゐた
誰か年上の女のひとに手を取られて
冷たく正面を向いて通つていつた
それから今度出て來た時は
キヤプシン僧のやうな三角頭巾を
すつぽりかぶつてきものの裾を引き
やつぱりだまつて滑るやうに通つてゆく
死んでしまつた人は
夢の中で冷淡な顔をするものかしら?
變にさむざむとして
あたしはものたりない
歌の専門誌に詩を寄稿しています。
■1941年(昭和16)6月 「消息」
◎故冨岡冬野ぬしの歌文集「空は青し」は第一書房より出版せられた。
国会図書館では、『心の花』1941年7号以降から欠けていて、きちんと毎号読めるようになるのは、1947年7号からです。
特に、『心の花』1941年8号は、富岡冬野の遺稿集『空は青し』の批評特集なので、読者送信サービスで閲覧できないのが残念というか、くやしいです。
とはいえ、「西尾」姓が父方の旧姓でないこと、ピアニスト橘糸重の親戚であったこと、富岡冬野という親友がいたことなどを知ることができただけでも収穫でした。
情報は少ないですが、西尾幹子(石邨幹子)は、親しい人に先立たれる人だったのだな、という印象をもちました。
以前、石邨幹子について書いたのは2018年のことでしたが、石邨幹子の遺稿集『残影』(1987年)も未見のままです。
『残影』を読むことができれば、すぐ分かるようなことばかり、書き並べたのかもしれません。
国会図書館蔵の『心の花』を読者送信サービスでのぞいてみて、富岡冬野(冨岡ふゆの、富岡ふゆのと表記が分かれています)に、興味がわきました。
冨岡冬野の『空は青し』は、日本の古本屋で入手することができました。
それについては次回に。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
石橋英子『car and freezer』(2014年、felicity)
2枚組で、side car と side freezer に分かれています。
同じ9曲なのですが、歌詞とアレンジが違います。
side car は日本語詞。 side freezer は英語詞。歌詞の内容も違います。
初めて聴いたとき、同じ曲? 違う曲? と、頭がこんがらがりました。
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
402. 1926年のニコルソン『イングランドの鳥』(2023年9月15日)
写真は、F. M. ニコルソン『イングランドの鳥(BIRDS IN ENGLAND)』(1926年、CHAPMAN AND HALL)の口絵と扉です。
エドワード・マックス・ニコルソン(Edward Max Nicholson、1904~2003)は、鳥類学者、環境保護活動家。
パンダのロゴで知られる世界自然保護基金(WWF)の創設者でもあります。
9歳の時からバードウォッチングを始めて、詳細な記録をとり続けてきたニコルソンが、オックスフォード大学在学中の22歳の時、野鳥保護の必要性を訴えるために書かれたイングランドの鳥類誌です。
わたしのように絵から入るものにとっては、エリック・フィッチ・ダグリッシュ(Eric Fitch Daglish、1892~1966)の、黒みの濃い木版図版のほうが魅力的な本です。
口絵の「コキンメフクロウ(THE LITTLE OWL)」を含めて、8枚の木版図版が収録されています。
▲『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL) の表紙
縦220×横145×幅35ミリ。324ページ。
初版は1926年です。初版の表紙は、薄青色のクロスにタイトルや著者名が金箔押しされているものが多く、これは表紙違いになっています。
手もとにある本は、ダストラッパーのない裸本で、背は変色し、表紙もだいぶ焼けています。
ここにはないダストラッパーには、本文にも収録されている「タゲリ(THE LAPWING)」の木版画が使われています。
◆
手もとにある『BIRDS IN ENGLAND』は、古書店のバーゲンみたいなところで入手しました。
見開きには、蔵書票(Ex Libris)が貼られ、鉛筆書きの献辞がありました。
蔵書票は、Georg Tugendhat のもの。
イギリスのJiscやTHE NATIONAL ARCHIVESのウェブサイトにあるプロフィールによると、ジョージ・トゥーゲンハット(Georg Tugendhat、1898~1973)は、ウィーン生まれ。ウイーン大学で学んだ後、第一次世界大戦後の1921年、イギリスに渡り The London School of Economics に学び、そのままイギリスに帰化し、ウィーンやベルリンの新聞雑誌のロンドン駐在員、公使館の財務顧問、経済学の専門家として活動した人のようです。
蔵書票の貼られた本ですから、ジョージ・トゥーゲンハットが亡くなって、子どもたちによって整理されたとき、古書店にでたのでしょう。
孫のトム・トゥーゲンハット(Tom Tugendhat)は、現在のイギリス保守党政権の安全保障担当大臣になっています。
見開きに貼られたジョージ・トゥーゲンハットの蔵書票(Ex Libris)
ジョージ・トゥーゲンハットは1934年に結婚しているので、蔵書票の2つの薔薇は結婚生活を象徴しているのかもしれません。
見開きに鉛筆で書かれた献辞
はっきりと読めていませんが、この本は、1933年ジョージに贈られたクリスマス・プレゼントだったようです。
Georg
with best wishes for merry
New Happy Years
in the English country side
xmas 1933 Jasper
特に、本の贈り手の名前がはっきり分かりません。
正確に読める方がいらっしゃれば、ぜひご教授ください。
1933年のクリスマスプレゼントの本に書き込まれた献辞と貼られた蔵書票から、移住100年のファミリー・ストーリーの一端がのぞけます。
◆
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年)のページから、エリック・フィッチ・ダグリッシュ(Eric Fitch Daglish、1892~1966)、1892~1966) の木版画のあるページを並べてみます。
版画は別刷りで、貼り込まれています。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「ニシコウライ(THE GOLDEN ORIOLE)」縦130×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「キンクロハジロ(THE TUFTED DUCK)」縦120×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「ツル(THE CRANE)」縦140×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「ソリハシセイタカシギ(THE AVOCET)」縦125×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「ヨーロッパコマドリ(THE ROBIN)」縦120×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「タゲリ(THE LAPWING)」縦140×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)のページから
「シジュウカラとアオガラ(GREAT AND BLUE TITMICE)」縦123×横100ミリ。
『BIRDS IN ENGLAND』(1926年、CHAPMAN AND HALL)の刊記
ホワイトフライヤーズ・プレス(The Whitefriars Press)の印刷。
◆
余談になりますが、The Whitefriars Pressは、初期のペンギンブックスの印刷所としてよく見かけました。
1950年代のペンギンブックスの刊記から。
ホワイトフライヤーズ・プレスは、1960年代に印刷業はやめたようです。
◆
もう1冊、手もとにあるエリック・フィッチ・ダグリッシュの本を。
Eric Fitch Daglish『NAME THIS BIRD』(1934年、DENT)
手もとにあるのは1936年の改訂版。これも背の焼けた裸本で、古書店のバーゲンみたいなところで入手しました。
文章も図版もダクリッシュによるもの。
鳥の色や姿形や各部位の特徴から、見分け方を知ることができる図鑑です。
ポケットサイズなので、バードウォッチングに向いています。
ランサム・サーガ(1930~1947)のオオバンクラブ(Coot Club)のメンバーも、ダクリッシュの鳥の本を持っているのではないかと妄想したりします。
『NAME THIS BIRD』の表紙
縦182×横116×幅22ミリ。xxiv+216ページ。
『NAME THIS BIRD』の刊記
『NAME THIS BIRD』の扉
『NAME THIS BIRD』ののページから
網版のカラー図版は少しボケ気味になっています。
当時の本のなかでは、ダグリッシュは、モノクロの図版のほうが生き生きとしていると感じます。
イングランドの田舎暮らしに関心のある人には、ダグリッシュの無骨で丁寧なイラスト(木版画)が入った本は、深い楽しみを与えてくれるものになるのではないかと思います。
鳥や魚や動物や虫について自著のほかにも、次のような自然誌の古典にもイラスト(木版画)を寄せています。
■Izaak Walton『釣魚大全(The Compleat Angler; or the Contemplative Man's Recreation)』(1927年、E. P. Dutton)
■Henry David Thoreau『ウォルデン 森の生活(Walden or Life in the Woods)』(1927年、CHAPMAN & HALL)
■Gilbert White『セルボーンの博物誌The Natural History of Selborne』(1929年、Thornton Butterworth)
■Viscount Grey of Fallodon『フライ・フィシング(Fly Fishing)』(1930年、J.M. Dent & Sons)
■W. H. Hudson『はるかな国・とおい昔(Far Away and Long Ago : A History of My Early Life)』(1931年、J.M. Dent & Sons)
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
鳥の歌ということで、イギリスのミュージシャン、コスモ・シェルドレイク(Cosmo Sheldrake)のアルバム『Wake Up Calls(目覚めのコール)』を。
2020年にリリースされた作品です。
フィールドレコーディングされた鳥の鳴き声をもとに、そのメロディー・リズムに合わせたコスモ・シェルドレイクの演奏を加えて作られています。
鳥の声ありきの音楽です。
もともとは、友達への毎年のクリスマスプレゼントとして作られたものなので、アルバムの形になるのに9年かかったそうです。
こんな構成になっています。
1. Nightjar(ヨタカ) 02:29
2. Nightingale(ナイチンゲール/サヨナキドリ) Part 1 02:37
3. Dawn Chorus(夜明けのコーラス) 03:06
4. Skylark(ヒバリ) 02:15
5. Cuckoo(カッコウ) 02:25
6. Marsh Warbler(ヌマヨシキリ) 02:32
7. Cuckoo Song(カッコウの歌) 03:05
8. Dunnock(ヨーロッパカヤクグリ) 01:59
9. Bittern(サンカノゴイ) 01:21
10. Evening Chorus(宵のコーラス) 01:25
11. Mistle Thrush(ヤドリギツグミ) 01:08
12. Nightingale Part 2 (ナイチンゲール 2)01:36
13. Owl Song(フクロウの歌) 03:29
「Cuckoo Song(カッコウの歌)」は、イギリスの作曲家ベンジャミン・ブリテン(Benjamin Britten、1913~1976)の曲なのですが、ブリテンのお墓の周りで鳴くカッコウの鳴き声を、フィールドレコーディングの大家バーニー・クラウゼ(Bernie Krause)が録音したものを使っているそうです。
500枚限定のLPレコード盤が存在しますが、残念ながら持っていません。
このサイトでは外部へのリンクはしないことにしていますが、「Bandcamp Cosmo Sheldrake Wake Up Calls」で検索すれば、Bandcampで、このアルバムを試聴したり、デジタルデータを購入することもできます。
英BBCのラジオ番組をチェックしていたら、『Between the Ears』というラジオ・ドラマ枠に「Jamming with Birds」
という番組があって、鳥と演奏している人コスモ・シェルドレイク(Cosmo Sheldrake)についてのラジオ・ドキュメンタリーでした。
その番組で知ったアルバムでした。
番組のなかで、ブライアン・イーノもコメントしていて、鳥の歌声が曲になっているのなら、その著作権はだれのものになるのかという疑問を投げかけていました。
その番組も、「BBC Radio - 3 Between the Ears, Jamming with Birds」で検索すれば、聴くことができます。
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401. 1958年~1969年の筑摩書房『世界文学大系』(2023年9月12日)
かつて、学校の先生の家庭の書棚には、たいがい文学全集が並んでいたものです。
うちには、筑摩書房から1958年~1969年に刊行された世界文学大系(全102冊)がありました。
もう、だいぶ痛んでいます。
外函に巻かれていたカバーや、本に巻かれていたグラシン紙、挟まれていた月報や広告、主要人物の載ったしおりもなくなっています。
今だと、本体より、そうした月報や広告ちらしの方が読みたいくらいです。
1960年代のなかばに、台風で部屋の中まで雨が打ちつけたときがあって、そのときの水染みが残っています。
さらに、凶暴な幼児たちが外函や見返しにクレヨンで落書きをしています。保存状態悪しです。
両親がなぜ定期購読する全集に、筑摩書房の世界文学大系を選んだのかは、よくわかりません。
母は日本文学全集みたいなもののほうがよかったと言ってましたし、父は歴史書は好きでしたが、小説を読むようなタイプの人ではありませんでしたから、不思議です。
父は、叢書のようなものも好きでしたから、父の個人的な楽しみは、1963年に刊行されはじめた平凡社の東洋文庫をそろえていくことでした。
東洋文庫を読んでいる父の記憶はあっても、世界文学大系を手にしている父の記憶はありません。
わたしも中学生になると、この世界文学大系に手をのばし始めます。
いろいろとお世話になってきた文学全集なのですが、今、手に取ってみると、面白い本だと分かっていても、3段組の密な活字に、これを読む気力は、もうないなと思ってしまいます。
1960年代の読者がこの文字をどう思ったか分かりませんが、この文字の大きさに対応するには、目を痛めることを辞さない無謀な若さが必要という気がします。
なつかしさもあって、10冊ほど、ピックアップしてみました。今日の気分の、とりあえずの選択です。
■4 インド集
昭和34年5月15日発行 検印・辻
訳者代表 辻直四郎
リグ・ヴェーダから近代文学までを1巻に押し込めた、カオスのような一冊。
「カーマ・スートラ」も少しまぎれこんでいました。
■43 マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボオ
昭和37年2月28日発行 検印・鈴木
訳者代表 鈴木信太郎
鈴木信太郎の翻訳と原詩との乖離がどれほどのものか量れませんが、詩の翻訳のひとつの方法ではあります。
次々と繰り出される綺語に興味津々でした。とても懐かしい本です。
■51 クローデル・ヴァレリー
昭和35年11月10日発行 検印・佐藤
訳者代表 佐藤正彰
鈴木信太郎訳の「舊詩帖」「若きパルク」
村松剛・菅野昭正・清水徹訳「テスト氏」を収録。
■54 トーマス・マン
昭和34年8月15日発行 検印・佐藤
訳者 佐藤晃一
中学校3年生のときに読んで、それ以来読みかえしていないので、内容など全く理解していないのですが、知っている人間として、ハンス・カストルプ、ゼテムブリーニ、ナフタ、ベーベルコルンといった登場人物の姿は思い浮かびます。登場人物が生身の人間のように感じられる、フィクションの力の強さでしょう。
■63 ギリシア思想家集
昭和40年9月30日発行 検印・田中
編者 田中美知太郎
プラトン・アリストテレス以外の古代ギリシアのテキストをまとめて読める選集。
ヘシオドス、クセノパネス、ヘラクレイトス、パルメニデス、エンペドクレス、イソクラテス、デモステネス、エピクロス、エピクテトス、アウレリウス、セクストス・エンペイリコス、プルタルコス、ディオゲネス・アエルティオス。
すべてのテキストがすべて残されているわけでなく「散佚せる不確実な書物からの断片」の存在が、刺激的です。
■72 中國散文選
昭和40年8月14日発行 検印・吉川
編者 吉川幸次郎
訳文・書き下し文・注の三段組みで、おいしいところを押さえた、いい構成の選集なのですが、老人の枕頭の書とするには文字が小さすぎます。
「伝記篇」(吉川幸次郎編)「書簡篇」(内田道夫訳)「雑文篇」(小尾郊一訳)
■74 ルネサンス文学集
昭和39年10月15日発行 検印・二宮
訳者代表 二宮敬
「君主論」「パニュルジュ航海記」など、16世紀のスペイン・イタリア・フランス・ドイツの作品を一冊に押し込めたもの。
■76 リチャードソン・スターン
昭和41年6月30日初版第1刷発行 検印なし
訳者 海老池俊治 朱牟田夏雄
リチャードソン『パミラ』、スターン『トリストラム・シャンディ』の二本立て。いずれも初訳。
朱牟田夏雄訳『トリストラム・シャンディ』は、高校生のころ常にそばに置いていた本でした。こっちではなく、岩波文庫版でしたが。
■82 ゲルツェン★
昭和39年2月24日発行 検印・金子
訳者 金子幸彦
『過去と思索』第一部~第四部。
長い作品が読みたくなるときもあって、高校生のときにチャレンジ。
飽きずに読み通せたので、面白い自伝だったことは間違いないと思うのですが、内容はすっかり忘れています。
■83 ゲルツェン★★
昭和41年5月30日発行 検印なし
訳者 金子幸彦
『過去と思索』第五部・第六部。
「付記」に「八部からなる全編のうち訳出したのは第六部までで、これは四〇〇字詰原稿用紙にして約三八〇〇枚、全体の約八五パーセントにあたり、のこる、第七、第八部はペーヂ数の都合で割愛せざるを得なかった。」とあって、全訳でないと知ったときはがっかりしました。
◆
世界文学大系全102冊用の書棚。
予約購読者の特典だったのか、予約購読者用に売られたものだったのか、わかりませんが、木製の丈夫な5段の本棚です。
合板を使っていない本棚は丈夫です。
現在も使っていますが、世界文学大系ではなく、別の本が並んでいます。
1965年ごろの本棚に並んだ世界文学大系。
このときにはまだ全巻完結していません。
29巻『ディケンズ』(1969年7月31日発行、最終配本)、66巻『中世文学集2』(1966年)、67巻『ローマ文学集』(1966年)、69巻『論語 孟子 大学 中庸』(1968年)、76巻『リチャードソン・スターン』(1966年)、 81巻『ホーソーン、マーク・トウェイン』(1966年)は、配本されていません。
ディケンズの『荒涼館』が収録された、薄茶色のカバーに「全102回配本 全巻完結」とある、通常より少し厚めの本が、家にやってきたときのことは、なんとなくですが、憶えています。まだ読めないのですが、箱から出したりして遊んでいました。
写真に写っている本棚は、世界文学大系102冊専用の書棚と同じスタイルのものですが、木製の4段の書棚で別物です。
この本棚も現在使用中です。
スチール製や合板の本棚は30年ぐらいで買い換えになりますが、一枚板を使った本棚は丈夫だなと、改めて感じます。
■世界文学大系(1958年~1969年、筑摩書房)
01 ホメーロス(1961年)
02 ギリシア・ローマ古典劇集(1959年)
03 プラトン(1959年)
04 インド集(1959年)
05A 史記1(1962年)
05B 史記2(1962年)
06 ダンテ(1962年)
07A 中国古典詩集1(1961年)
07B 中国古典詩集2(1963年)
08 チョーサー・ラブレー(1961年)
09A モンテーニュ1(1962年)
09B モンテーニュ2(1962年)
10 セルバンテス1(1960年)
11 セルバンテス2(1962年)
12 シェイクスピア(1959年)
13 デカルト・パスカル(1958年)
14 古典劇集(1961年)
15 デフォー・スウィフト(1959年)
16 モンテスキュー・ヴォルテール・ディドロ(1960年)
17 ルソー(1964年)
18 シラー(1959年)
19 ゲーテ1(1960年)
20 ゲーテ2(1958年)
21 スタンダール1(1958年)
22 スタンダール2(1960年)
23 バルザック1(1960年)
24 バルザック2(1963年)
25 シャトーブリアン・ヴィニー・ユゴー(1961年)
26 プーシキン・レールモントフ(1962年)
27 キルケゴール(1961年)
28 オースティン・ブロンテ(1960年)
29 ディケンズ(1969年7月31日発行、最終配本)
30 ゴンチヤロフ・レスコフ(1959年)
31 ツルゲーネフ(1962年)
32 メルヴイル(1960年)
33 ポオ・ボオドレール(1959年)
34 フロベール(1961年)
35 ドストエフスキー1(1958年)
36A ドストエフスキー2(1960年)
36B ドストエフスキー3(1960年)
37 トルストイ1(1958年)
38 トルストイ2(1959年)
39 トルストイ3(1959年)
40 サッカレー・ハーディ(1961年)
41 ゾラ(1959年)
42 ニーチェ(1962年)
43 マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボオ(1962年)
44 モーパッサン(1958年)
45 ジェイムズ(1963年)
46 チェーホフ(1958年)
47 ロマン・ロラン1(1958年)
48 ロマン・ロラン2(1958年)
49 ゴーリキー(1960年)
50 ジイド(1963年)
51 クローデル・ヴァレリー(1960年)
52 プルースト(1960年)
53 リルケ(1959年)
54 トーマス・マン(1959年)
55 ヘッセ・カロッサ(1958年)
56 ロレンス・ハックスリ(1959年)
57 ジョイス・ウルフ・エリオット(1960年)
58 カフカ(1958年)
59 デュアメル・モーリアック・マルロオ(1961年)
60 モーム・グリーン(1961年)
61 フォークナー・ヘミングウェイ(1959年)
62 魯迅・茅盾(1958年)
63 ギリシア思想家集(1965年)
64 古代文学集(1961年)
65 中世文学集(1962年)
66 中世文学集2(1966年)
67 ローマ文学集(1966年)
68 アラビア・ペルシア集(1964年)
69 論語 孟子 大学 中庸(1968年)
70 文選(1963年)
71 中国古小説集(1964年)
72 中国散文選(1965年)
73 千一夜物語(1964年)
74 ルネサンス文学集(1964年)
75 シェイクスピア2(1965年)
76 リチャードソン・スターン(1966年)
77 ドイツ=ロマン派集(1963年)
78 ハイネ(1964年)
79 メーリケ・ケラー(1964年)
80 ゴーゴリ(1963年)
81 ホーソーン、マーク・トウェイン(1966年)
82 ゲルツェン1(1964年)
83 ゲルツェン2(1966年)
84 トルストイ4(1964年)
85 ジョージ・エリオット(1965年)
86 コンラッド(1967年)
87 ドス・パソス、スタインベック(1963年)
88 サルトル(1963年)
89 古典劇集2(1963年)
90 近代劇集(1965年)
91 近代小説集(1964年)
92 近代小説集2(1964年)
93 近代小説集3(1965年)
94 現代小説集(1965年)
95 現代劇集(1965年)
96 文学論集(1965年)
別巻1 世界文学序説(1961年)
別巻2 文学と人間像(1962年)
◆
1958年~1969年の筑摩書房世界文学大系の目次を見て、改めて思うのは、女性の関与の少なさです。
全体の1割にも満たないのではないでしょうか。
女性の作家・翻訳者・解説者・年譜制作者を含む巻を並べてみます。
04 インド集(1959年)
「マハー・バーラタ」前田式子訳
14 古典劇集(1961年)
ラシーヌ「フェードル」二宮ふさ訳
28 オースティン・ブロンテ(1960年)
37 トルストイ1(1958年)
「解説」網野菊
43マラルメ・ヴェルレーヌ・ランボオ(1962年)
「ヴェルレーヌ・ランボオ年譜」中安ちか子
49 ゴーリキー(1960年)
昭和35年12月5日発行 奥付の検印は湯浅。
訳者 湯浅芳子 横田瑞穂
「解説」湯浅芳子
57 ジョイス・ウルフ・エリオット(1960年)
エリオット「劇詩についての対話」根村絢子訳
63 ギリシア思想家集(1965年)
ディオゲネス・ラエルティオン 北嶋美雪訳
66 中世文学集2(1966年)
「アーサーの死(マロリー)」厨川文夫・厨川圭子訳
74 ルネサンス文学集(1964年)
カルヴァン「教皇派の中にある、福音の真理を知った信者は何をなすべきか」久米あつみ訳
85 ジョージ・エリオット(1965年)
昭和40年12月25日発行
訳者 工藤好美・淀川郁子
「とばりの彼方」 淀川郁子訳
V・ウルフ「ジョージ・エリオット論」淀川郁子訳
「年譜」淀川郁子
86 コンラッド(1967年)
「勝利」野口啓祐・野口勝子訳
89 古典劇集2(1963年)
ウェブスター「モルフィ公爵夫人」関本まや子訳
92 近代小説集2(1964年)
マンスフィールド「浜辺で」
キャザー「ロジキー爺さん」
93 近代小説集3(1965年)
パルド・バサン「特赦」
バーリェ・インクラン「ロサリート」野々山ミナコ訳
エリン・ベリン「夏の日」直木三三子訳
94 現代小説集(1965年)
マッカラーズ「悲しきカフェのうた」
ボウエン「追いつめられて」「蔦のからむ石段」
ブリクセン「山上の墓」
96 文学論集(1965年)
スタール夫人「北方文学と南方文学」
全102巻中、女性の単独巻はジョージ・エリオット、2人巻はオースティンとブロンテのみ。3人巻の「ジョイス・ウルフ・エリオット」にヴァージニア・ウルフ。イギリスにしか女性小説家はいなかったかという選択。
訳者・著者代表として、奥付に検印を押しているのは湯浅芳子のみ。
解説を書いているのは、網野菊と湯浅芳子の2人。
若手研究者の仕事場「年譜」作成も、「ヴェルレーヌ・ランボオ年譜」の中安ちか子と、「ジョージ・エリオット年譜」の淀川郁子の2人だけのようです(無記名の年譜もあるので、確言はできません)。
今は全集みたいなものははやらない時代でしょうが、現在だったら、作者・翻訳者・解説者・年譜作成者はどんなラインナップになるのでしょうか。
94巻『現代小説集』に収録されていたカレン・ブリクセンは1巻持てるでしょうか。
湯浅芳子が担当したゴーリキーは収録されるでしょうか。
この1958年~1969年の世界文学大系は、女性もLGBTQも欠き、アジアや南半球も欠いた、かなりいびつな「世界文学」でした。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
あるメディアの最盛期につくられたものは、マーケットも大きいため、屑も多いのですが、よいものも多かったのではないかという仮説をたてることができます。
そう考えると、CDというメディアが最盛期だった1990年~2000年代に作られたものを掘りさげると、面白いものがたくさん出てくるのではないかという気がします。
もっとも、よいものは、圧倒的によいので、相対的な数の多少はそもそも意味がないのですが。
そんなことを考えながら、京浜兄弟社がらみのCDを引っ張り出しました。
▲サエキけんぞう PRESENTS『ハレはれナイト』(1989年、SOLID RECORDS)
16組のアーティストを収録したオムニバス盤。
「インド人との対話」という会話パートは、残念ながら、今も昔も面白くありません。
世界文学大系の「インド集」ぐらい壮大であればと思うのみです。
レコード・CDなど記録されたものは、掘り返されたくないような過去まで残してしまうので、軽薄さを後世まで残すという意味では潔いですが。
▲サエキけんぞう PRESENTS『ハレはれナイト』(2014年、ウルトラ・ヴァイヴ)
ボーナス曲7曲を追加した再発リマスターCD。
ヒゲの未亡人のヴァージョンも素晴らしい、もすけさん「三十路の小娘~オリジナルデモバージョン」も収録。
墨東か墨西か墨北か墨南か、土地勘はないのですが、隅田川沿いの川風を感じさせる人情噺の挿入歌のような、佳曲です。
▲京浜兄弟社オムニバス『誓い空しく』(1991年、京浜兄弟社)
2020年に『Snack-O-Tracks』(1993年/京浜兄弟社)とカップリングで2枚組CDとして再発されてます。
京浜兄弟社については、2015年にリリースされた『21世紀の京浜兄弟者 1982-1994』という10枚組CDボックスもあります。
まごうことなき20世紀遺産です。