●my favorite things 361-370
my favorite things 361(2021年10月25日)から370(2022年1月30日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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361. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その2(2021年10月25日)
362. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その3(2021年11月7日)
363. 本棚の動物園(2021年11月25日)
364. 1952年の『南日本文學』(2021年12月20日)
365. 1928年の『水甕』五月號・岩谷莫哀追悼號(2021年12月21日)
366. 1979年の平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(2021年12月25日)
367. 2022年の桜島(2022年1月1日)
368. 1972年の『鹿児島詩人選集 1972』(2022年1月22日)
369. 1978年の『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』(2022年1月23日)
370. 1989年の『Matrix 9』(2022年1月30日)
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370. 1989年の『Matrix 9』(2022年1月30日)
イギリスの活版印刷所ウィッティントン・プレス(Whittington Press)が年1回刊行する、印刷専門誌『Matrix』の第9号。
特集が、ロバート・ギビングス(Robert Gibbings、1889~1958)なので、買い求めました。
1989年は、ギビングス生誕100年の年でした。
その1989年冬に刊行。
ロバート・ギビングスについてのテキストは誌面の3分の1ほどですが、とても充実した特集です。
ウィッティントン・プレス(Whittington Press)は、ジョン&ロザリンド・ランドル(John & Rosalind Randle)が、カズロン活字とアルビオン活版印刷機、手漉き紙への愛から、1971年にグロスタシャー(Gloucestershire)コッツウォルズ (Cotswolds)のウィッティントン(Whittington)で立ち上げた活版印刷所。
1981年から「A Review For Printers & Bibliophiles(印刷者と書痴のためレヴュー)」という副題を持つ印刷専門誌『Matrix』を年1回刊行しています。
ギビングスを特集した第9号は、925部刊行。うち105部が特装版。手もとにあるのは通常版です。
本文は200ページ。ほかに別刷りの図版や印刷見本が多数差し込まれています。
縦285×横200×幅31ミリ。
本文活字は、12ポイントのモノタイプ社のカズロン活字。
雑誌で個人を特集するというのは、日本でも『ユリイカ』などでおなじみのスタイルですが、これも20世紀的なものの1つだった気がします。
紙の雑誌の減少ととも、蜜がつまった、すごい特集が組まれることが少なくなっていくのかな、と思ったりします。
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)ダストラッパー
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)表紙
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)口絵と巻頭言
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)刊記と目次
最初のテキストは、ジョン・ランドルによる、1989年2月11日に亡くなったリチャード・ケネディ(Richard Kennedy)の追悼文。
ウィッティントン・プレス(Whittington Press)が最初に刊行した本は、 リチャード・ケネディがホガース・プレスで働いていたころを回想した『A Boy at the Hogarth Press』(1972年)。活字を植字するヴァージニア・ウルフ(Virginia Woolf、1882~1941)の様子が心に残る本でした。
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)のギビングス特集ページから
ロバート・ギビングスの「川の本(River Book)」の第1冊『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(『いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ』1940年、J.M.DENT & SONS)の旅のきっかけとなった小舟「Willow」号の製作過程の写真も掲載されていて、ときめきます。
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)次号告知のしおり
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)のページから
別刷りの差し込みが楽しみな雑誌です。
▲『Matrix 9』(1989年、Whittington Press)のページから
ギビンクス特集以外のエッセイも興味深いものが多く、1988年に、ロケット・プレス(Rocket Press)によって『不思議の国のアリス』のテニエル(Tenniel)原画・ダルジエル兄弟(Brothers Dalziel)彫版のオリジナル木版から新たに刷られた図版も掲載されていました。
1989年は、スタンリー・モリソン(Stanley Morison、1889~1967)の生誕100年でもあったので、モリソンについてのテキストもありました。
年1冊刊行だと、限られた誌面に何を取り上げるの選択も難しそうです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
アンソニー・ムーア(Anthony Moore)が1971年に作曲、1972年に録音し、12枚のテストプレス盤が作れられたものの、お蔵入りになった『Reed Whistle & Sticks』という作品が、初めてCD化されたのは1998年でした。
いわゆるポップな音楽ではなく、いわば修験道場の実況録音のような作品です。
布・金属・プラスティック、木などがしかれている床に50本の竹の棒を床のうえに落としていく。
そのカランコロンと落ちる音、転がる音を録音して、コラージュして反復させている作品。
この『Reed Whistle & Sticks』の新版が、P-VINE RECORDSから、宇都宮泰のマスタリングで出ました。
2022年に最初に買い求めたCDです。
レコード盤起こしのCDというと、残念な音質と思ってしまいがちです。
宇都宮泰のやることは違います。
「今回の再発にあたり、ほぼ未使用のテスト盤LPに蒸留水を垂らしながら再生する手法で、宇都宮泰(ex. アフターディナー)がアンソニー・ムーア本人と共に決定的なリマスターを施行。1998年の再発CDとは大きく異なる生々しい音響空間を創出。」と帯文にあります。
宇都宮泰がセッティングした音響空間でないと、もしかしたら、マスタリングの美点はきちんと感じられないのかもしれません。
2022年版には、1998年版とくらべて、ふくよかな繊細さと、偶然が作り出す緊張をより感じるような気がします。
もっとも1998年版も捨てたものではなく、固いものを打ち付ける音に力強さがある盤で、それは間違いなく1998年の音だったのだなと思います。
1972年録音のマスターテープが発掘されたら、また、違う音が立ち現れるのでしょうか。
▲『Reed Whistle & Sticks』(1998年、Blueprint、ヴォイスプリント・ジャパン)
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369. 1978年の『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』(2022年1月23日)
1972年の鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』を最後に、途絶えていた鹿児島の詩人選集ですが、『現代詩アンソロジー 鹿児島』とタイトルを改めて、1978年に再開し、1988年まで6冊が刊行されています。
手もとには、そのうち3冊があります。ほかの3冊も古本屋さんに出ないかと気にかけているのですが、なかなか出てきません。
124ページ。縦210×横155×幅8ミリ。
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』(1978年4月25日、鹿児島県現代詩アンソロジー発行委員会、かわさき・ゴゴ) 目次
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』奥付
発行委員は、高木秀吉、井上岩夫、福石忍、かわさき・ゴゴの4名。
印刷は、井上岩夫のやじろべ工房。
▲ 『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』本文ページから
▲ 『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』あとがき
「あとがき」執筆は、福石忍。
▲ 『現代詩アンソロジー 鹿児島 1978』にはさまれていた「現代詩・アンソロジー鹿児島・1978 発行委員会報告」(1978年4月30日)
制作日程が分かります。
続けて、次の3冊が刊行されていますが、手もとにはありません。
鹿児島県立図書館に行けば、そろっています。鹿児島市の本館は禁帯出、奄美の分館は貸出可です。
■現代詩アンソロジー 鹿児島 1980
■現代詩アンソロジー 鹿児島 1982
■現代詩アンソロジー 鹿児島 1985
■『現代詩アンソロジー 鹿児島 一九八六』
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 一九八六』(1986年12月6日、現代詩アンソロジー鹿児島発行委員会、藏薗治己) 表紙
表紙絵・吉永ゆき、挿画・西田義篤。
144ページ。縦215×横155×幅9ミリ。
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 一九八六』目次
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 一九八六』奥付
印刷は、日版印刷/黙遙社。 やじろべ工房と電話番号は同じです。
「やじろべ工房」という名称は、いつまで使われていたのでしょうか。
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 一九八六』編集後記
「編集後記」執筆は、藏薗治己。
発行委員は、井上岩夫、川崎ゴゴ、進一男、瀬戸口武則、たつみかんぺい、中山朋之、夏目獏、浜田喜代子、福石忍の9名。
■『現代詩アンソロジー 鹿児島 1988』
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1988』(1988年11月25日、現代詩アンソロジー鹿児島発行委員会、かわさき・ゴゴ) 表紙
表紙写真・川崎孝男。
162ページ。縦213×横153×幅10ミリ。
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1988』目次
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1988』本文ページから
▲『現代詩アンソロジー 鹿児島 1988』奥付
発行委員は、井上岩夫、たつみかんぺい、福石忍、瀬戸口武則、進一男、浜田喜代子、夏目獏、藏薗治己、岡田哲也、かわさき・ゴゴの10名。
「あとがきに代えて」執筆は、かわさき・ゴゴ。
印刷は、日版印刷。
この集以降、現代詩アンソロジーは編まれなくなったようです。
1967年、児玉達雄らが鹿児島の詩の鳥瞰図を残していこうと始めたアンソロジーは、この集で途切れています。
「鹿児島の現代詩」は、井上岩夫(1917~1993)という中心がいなくなると、収縮するというか、個の営みになっていったのでしょう。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
2003年に出た、福間未紗と友沢ミミヨのグループ RISU の CD『THE BEST OF RISU >>> THE PAST FUTURE FOLK SONGS』。
1991年の録音。
ヴォーカル+ギター >>> 福間未紗
大正琴+コーラス >>> 友沢ミミヨ
キーボード >>> 斎藤哲也
オカリナ >>> 園部啓一
パーカッション >>> 若林チカ+ナカノケイタ+Hiyu Watanbabe
過去のものでもあり未来のものでもある、無国籍のフォーク・ミュージック。
空想の、演奏された瞬間にしか存在しない地元の音楽。
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368. 1972年の『鹿児島県詩人選集 1972』(2022年1月22日)
鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集』の第3集、『鹿児島県詩人選集 1972』(1972年10月25日発行、羽島さち)です。
「第260回 1971年の福石忍詩集『遠い星』(2019年2月25日)」で、児玉達雄が運営委員として編集した『鹿児島県詩人選集』2冊を紹介しました。
■鹿児島詩人集団『鹿児島県詩人選集』(1967年7月、羽島さち)
■鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)
この2冊に続く、『鹿児島県詩人選集』の第3集です。
この第3集には児玉達雄(1929~2018)の名前はなく、これ以降、関わっていないようです。
表紙絵とカットは前畑省三。
84ページ。縦210×横154×幅10ミリ。
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』見返し
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』目次
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』奥付
印刷は、井上岩夫(1917~1993)のやじろべ工房。
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』本文ページから
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 1972』編集後記
編集後記は、運営委員の越山正三、福石忍、羽島さちの連名。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
福間創(1970~2022)の訃報がありました。
お姉さんの福間未紗の5枚のアルバムを引っ張り出して、続けて聴いてみました。
福間創も、「electronics」や「programming」で参加しています。
奈良美智の世界の子どもが歌っているような福間未紗の歌声は、とても懐かしいものでした。
こうした歌唱は、戸川純以後の歌い方のような気もします。
ヴァシュティ・バニヤンやケイト・ブッシュを日本語で歌うアイデアはすばらしいと思います。
ただ、オリジナルの詞の力に、日本語の詞が届いてないのが惜しいです。
▲福間未紗『モールス』(1996年、Respect Record)
福間ハジメ programming, additional guitar, arrangement
▲福間未紗『君の友達』(1997年、Respect Record)
▲福間未紗『ダークネス・アンド・スノウ』(1999年、Midi Creative)
▲福間未紗『フェスタ マニフェスト』(1999年、Midi)
福間ハジメ composition, electronics, programming
▲福間未紗『ドロップス ウィル キス』(2000年、Midi)
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367. 2022年の桜島(2022年1月1日)
2022年元旦。
桜島の夜明け。
2022年の初日は力強い陽差しで、気分も上々です。
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366. 1979年の平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(2021年12月25日)
前回、『水甕』に収録された、岩谷莫哀(1888~1927)の平原勝郎宛の手紙を引用しましたが、『ダチュラの実』は、その平原勝郎(1902~1969)が亡くなって10年、1979年に刊行された遺稿集です。
昭和5年(1930)から昭和44年(1969)の524首と、平原勝郎が自身で見聞きしてきた20世紀前半の鹿児島の短歌界の記録「鹿児島歌壇五十年史」を収録。
献呈署名本ですが、贈った人も贈られた人も亡くなって、めぐりめぐって、手もとにあります。
前回、岩谷莫哀が死の一か月前に平原勝郎に送った手紙のことを書きました。
『ダチュラの実』を読むと、このことは、40年近くたっても、平原勝郎にとって心残りだったことが分かります。
手紙を改めて引用します。
〇鹿兒島の麥羹(ムツカン御存じかカルカンに似た色黑き蒸菓子なり)を東京で賣つてゐるところあらば御聞合せ御一報願上候子規じやないけどムツカンタベタイ(後略)
(昭和二年十月八日書簡)
〇
先程は失禮いたし候 疲勞烈しくその上咽の痛み甚しかりし爲に候不惡御宥被下度候 又其節御持參下されし鹿兒島の蒸菓子、何かの御考違ひにや あれは羊羹にて東京の方が本塲に候小生の所望せしは麥羹にて小麥粉と黑砂糖にて作りたる極めて粗末なる輕いふくれ菓子に候恰もカルカンの如くカステラの如きものに候わざわざ郷里から御取寄せ下され候御好意ありがたく感謝致候も小生の咽には通らず全く失望致候御禮旁々右迄
いづれ面語を期し候(昭和二年十月十八日書簡)
この手紙のことを悔いるように、平原勝郎は、「莫哀忌」と題して、次の歌を残していました。
昭和40年(1965) 莫哀忌
ふくれ菓子も添へて供へぬ故里の蒸羹恋ひて逝きませし師に
昭和43年(1968)莫哀忌
鹿児島の蒸羹(むつかん)頻りに欲りませし喉病める師を忘れず今も
届けられるものは、届けられるときに届けておきたいものです。
でも、そうもいかない、ままならないことを、人生とよぶのでしょう。
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)外箱の背
ダチュラ(Datura)は、インド原産の有毒植物で、ラッパのような大きな花を咲かせます。ダチュラは、サンスクリット起源の名前で、日本では曼陀羅華(まんだらげ)、チョウセンアサガオの名前で知られています。
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)表紙
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)見返しの献呈著名
手もとにはあるのは古本屋さんで入手した献呈署名本ですが、贈った人も贈られた人も亡くなっています。
ここでは、送られた先生の名前はぼかしました。
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)扉
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)目次
平原勝郎の作品として、昭和5年(1930)から昭和44年(1969)の524首と「鹿児島歌壇五十年史」を収録。
ほかに、次の寄稿があります。
序 畠中季隆
心温かい平原さん 長井正雄
歌集「ダチュラの実」に寄せて 梅崎志津
あとがき 大崎租
年譜
お礼にかえて 平原ヒメ
平原勝郎は南日本新聞の記者だった人です。
坊津の密貿易屋敷跡として知られる倉浜荘の森姫子と再婚し、後半生は坊津で暮らします。
平原姫子は倉浜荘で民宿を営み、梅崎春生(1915~1965)が倉浜荘を小説『幻化』(1965年)で主人公の泊まる宿のモデルにしたため、一時期、倉浜荘は戦後文学の宿のようになります。
『ダチュラの実』は、そうした訪問者の記録にもなっています。
『ダチュラの実』から「戦後文学」関連の歌を抜き出してみます。
昭和31年(1956)
堀田善衛氏
君が書く “祖国喪失” “孤広場の孤” 未だ読まねど語れば楽し
《注》「広場の孤独」ではないでしょうか?
昭和33年(1958)
海音寺潮五郎氏へ 湯呑み茶碗に、君揮毫の一句あり。“秋澄むや嫁ぎたる娘の部屋の冷え”
疎開中の君がたびにし霧島焼(きりしま)の湯呑もすでにひび入りにけり
朝夕べ持ちなれしわが手触りのつめたき頃は君ししぬばゆ
昭和38年(1963)
作家梅崎春生氏夫妻来坊
空の旅の疲れか少し酒のみて梅崎春生はやばやと寝る
兵として坊に駐屯の思い出を君語る夕べの磯は松風
東京はスモッグの季かわが村の海と松の美しさ夫人まづ言ふ
枕崎より自動車飛ばして朝早く“鯨神”の作家宇能氏も来る
懐旧の言葉さらさら我がために書きて君去る秋風の村
写真とることも忘れて梅崎氏朝早く発つ坊を見むため
昭和40年(1965)
憶梅崎春生氏
梅崎春生気味悪がりし鴉ども今朝も港の暗きにさわぐ
“逃亡者” 楽しみにテレビ見しといふ梅崎春生世になし今は
秋の日の光りの中に匂へればダチュラこの世の花とも見えず
梅崎春生文学碑建設について調査のため、椎名麟三・檀一雄・前田純敬・評論家埴谷雄高の四氏、十月二十九日来坊す。
檀一雄の捕鯨船記読みし記憶あり会ひて語れば若々しその顔
陽明学者伊藤潜龍を曽祖父に君隼人の血をひくかあはれ 埴谷氏
洋酒ひさぐ店一つなき町なれば椎名麟三氏に気の毒でならず
伊勢蝦の大きをつつき檀・椎名・埴谷の三氏飲み足らひしか
椎名氏の白きその手をやはくとり秋閑かなる一室に別る
十一月十二日梅崎恵津子夫人、亡夫作品縁りの地を絵にせむと来坊。十八日まで滞在。
黒髪の歎きもすててひと筋に生きむといふか君水墨に
水茎のあとうつくしく黒髪の歎きをとめて君東京に去る
黒髪もきみなきあとの寂びしぐれ 恵津子
火の山もしぐれて今日は寒からむ羽織忘れてゆきし君かも
《注》「伊藤潜龍」ではなく「伊東潜龍」(伊東祐之、伊東猛右衛門、1816~1868)。西郷や大久保らの陽明学の師。埴谷雄高(1909~1997)の母方の曽祖父。
昭和41年(1966)
梅崎文学碑
えにしありてこの町にたつ君が碑よ我等が喜びの声きこし召せ
思ひ出のあの山この浦ひと目にしうれしからむを君が文学碑
西の海ま赤にそめて沈む日はこの丘の君が碑にも映えむか
この石碑(いしぶみ)あらむ限りは梅崎文学の精神(こころ)の花は咲き匂ふべし
右四首、昭和四十一年五月二十九日、文学碑竣工式の折献詠朗吟す。
東京より遠く来ませる幾人か君よき友をもち給ひけり
椎名麟三・堀田善衛・武田泰淳・中村真一郎・塙谷雄高・浅見淵の諸氏、及び地元から島尾敏雄・椋鳩十の諸作家臨席す。
昨夜(よべ)の雨上りて松の雫落つ君が石碑(いしぶみ)撫でつつをるに
在りし日に心ひかれし我が家(やど)のダチュラの白き花も供へむ
“人生幻化に似たり” いみじくも心にしむる君が言の葉
除幕式
飲み仲間の一人か堀田善衛氏が神酒(みき)なみなみと碑面にそそぐ
胃の痛み耐へつつ碑前に朗吟す君を讃ふる拙き歌四首
わが庭のダチュラの花の名を尋ぬ武田泰淳も初めての顔
わがために “莫話竹[冫+冗]事” の五文字中村真一郎書きて立ち去る
なま酔ひの堀田善衛氏十年振りに会ひし喜びに色紙に書くも
《注》中村真一郎が書いた五文字「莫話竹[冫+冗]事」、どういう意味なのでしょう。読み解けません。
実際に書かれた文字を見てみたいものです。
崩した字と思われますから、江戸期の漢詩人・廣瀬淡窓(1782~1852)の「莫話人間事」《人間(じんかん)のこと話す莫かれ》にちなむ五文字であるとか、別の読み方もできるのではないかと思ったりします。
昭和42年(1967)
文士往来 安岡章太郎氏、ミセス編集長今井田勲氏と共に来訪す。
武市坂本中岡達の顔ならず土佐のやさ男安岡章太郎
南海に愚図つく台風あり鉄砲の島へ取材の君を阻めり
井上正蔵氏 東京都立大教授ハイネ研究家
“海には真珠空には鴉” 坊津の思ひ出ならむこの扉書き
君賜びしハイネの詩集読み終り蔦の紅葉のひとひら挟む
佐々木基一氏
鹿児島の空の明るさ刺身の美味(うま)さ佐々木基一氏坊に来て賞む
山本太郎氏 詩人・法大教授
白秋の甥これも詩人山本太郎君夜を遅くまで飲みて乱れず
煤けたる寒き二階に灯を消して一人寝につく酔後の君は
ダチュラの花
“人生幻化に似たり” と梅崎がこころひかれし花はこの花
《注》今井田勲については「第191回 1980年の今井田勲『雑誌雑書館』(2016年10月27日)」で少し書いています。
昭和44年(1969)
年改まりて
テレビ小説“あしたこそ”の森村桂さん正月八日飄然と来る
『ダチュラの実』は、読み手に負担をかけずに、その人の生涯と作品を伝える、よくまとめられた1巻本の遺稿集です。それでも、はてなと思う個所がいくつかあって、もう少し校閲に時間をかけていたらと、もったいなく思いました。
◆
梅崎春生の小説『幻化』は、今から50年前、1971年にNHKで90分のドラマになっています。
平原勝郎はそのドラマ化の取材は受けていたようですが、完成したドラマは見ることができませんでした。
脚本は早坂暁。
演出は岡崎栄。
このコンビが脚本を書き演出をした『天下御免』(1971~1972)、『天下堂々』(1973~1974)は、大好きなドラマで毎週欠かさず見ていました。
残念ながら、『幻化』は未見で、何とも言えません。
カラーフィルムで撮影されていて、2008年にDVD化もされています。
ですから、見ようと思えば見ることもできるのですが、今はなかなかのお値段になっていて、入手が難しく、気軽に見ることができません。
また、気軽に見るタイプのドラマではなさそうです。
主な出演者は、高橋幸治、伊丹十三、渡辺美佐子、三谷昇、瀬川菊之丞、太地喜和子、名古屋章、佐々木すみ江。
クレジットに、平原ひめ、鹿児島県・坊津町二才踊り保存会の名前もあります。
▲平原勝郎『歌集 ダチュラの実 付 鹿児島歌壇五十年史』(1979年)奥付
「定価二〇〇〇円」でなく「非売品」とある版もあります。
◆
「鹿児島歌壇五十年史」に、岩谷莫哀と自身のことについて、短くですが、書いています。
(岩谷)莫哀は筆者の恩師であるが後年東大に入ると尾上柴舟博士に師事、車前草に次いで大正三年同志と水甕を創刊、歌集に春の反逆、仰望の二者があり、その歿後岩谷莫哀全集が出版された。春の反逆の口絵には同郷(川内平佐)の有島生馬画伯による紅顔可憐な少年が青草の上で物思いに沈んでいる図が出ている。又その装幀はじつに凝ったハイカラなものであった。それは彼が出版社を経営していた当時であったから思い切ったものが出来たのであろう。若山牧水・前田夕暮を柴舟門下第一期の高足とすれば、莫哀と石井直三郎(岡山県出身八高教授)は第二期の代表的二歌人と称せられた。先年郷里川内の図書館前に早稲田派の詩人今井白楊と共にその文学碑が建設された。(森園)天涙は東郷の出身、熊本の九州日々新聞(現熊日)から出て中央で活躍、珊瑚礁・行人などを発行ののち戦後珊瑚礁を復刊主宰していたが先年惜しくも中風で亡くなった。その熊本時代雑誌山上の火を出し、歌集にまひるの山の春がある。(岩谷)莫哀・(万造寺)斉とともに郷土出身のすぐれた代表的歌人であった。(牧)曉村は今なお鹿児島市に健在、さきに文化功労者として南日本文化賞を受けた。歌壇の最長老として現に黒潮にあって後身の指導に努めている。郷土歌壇の至宝とも言うべき存在である。
昭和に入って筆者は上京六年まで在京したが、上京後は莫哀全集の年譜にもある通り病中の恩師莫哀のために水甕の編集を助け、作品は主として水甕のほか、当時の歌壇総合雑誌である柳田新太郎主宰の短歌雑誌と、楠田敏郎主宰の短歌月刊の諸家近詠などに発表、四(五)年には処女歌集早春を水甕叢書第二十九篇として刊行するなど、筆者にとっては甚だ愉快な時代であった。
◆
大正・昭和初期の鹿児島市について、気にかかる記述もありました。
「浩然亭」や「風景楼」があったころの鹿児島のことが書かれています。
歓迎歌会といえば筆者の主宰したものに、大正十四年十二月(若山)牧水が喜志子夫人を同伴来鹿したので歓迎会を風景楼で開いた。牧水が大正二年(三年か)一月初めて来鹿した時には城山の浩然亭で歓迎会を開いている。また橋田東声が大正十四年春来鹿の時も風景楼で歓迎会を開いた。斎藤茂吉は大正四年に来県、昭和十四年秋にも来県している、此の時の作品は改造社出版高千穂峰に収めている。牧水得意の朗吟を初めて聞いたのも風景楼であった。しかも有名な代表作幾山河越え去り行かばの歌であったので、一座しんみりとなり、列座の当時女師生であった福島辰子さんなど涙をためて聞いていたように憶えている。
だいぶ前になりますが、「第17回 1903年のジェームズ・マードック『日本史』(2012年10月26日)」で紹介した、ジェームズ・マードック(James Murdoch、1856~1921)が住んでいた辺りに、「風景楼」はあったようです。
「第137回 1917年の加藤雄吉『尾花集』(2014年6月27日)」で紹介した、加藤一雄らが田山花袋を歓待したのも、祇園之洲の料亭(三日月か山海楼か風景楼のいずれか?)でした。
鹿児島にも、祇園之洲から磯にかけての海岸沿いに、料亭が建ち並ぶ、そんな時代もあったのでした。
歴史が更新されていくのはしかたないことですが、街に、歴史のレイヤー、歴史の地層が残らない形で更新されていくのは、さびしい話です。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
レイ・ハラカミによる、映画『天然コケッコー』のサントラ。
エレクトロニカの明滅する有象無象のなかで、レイ・ハラカミの音楽は、どこを切り取っても素晴らしくて、その存在は奇跡のようです。
坊津の海沿いの小さな町を舞台にした、『天然コケッコー』のような映画を見てみたいものです。
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365. 1928年の『水甕』五月號・岩谷莫哀追悼號(2021年12月21日)
これも、鹿児島の古本屋さんで購入した雑誌です。
鹿児島の川内出身の歌人・岩谷莫哀(1888~1927)の追悼号です。
『水甕』は、尾上柴舟(1876~1957)、岩谷莫哀、石井直三郎(1890~1936)らが、1914年に創刊した短歌誌で、現在も刊行されている、100歳を超える長寿誌です。
追悼号の正しい読み方ではないとは思うのですが、そこに鹿児島にまつわる記述がないか探すのが、目的のひとつになっています。
その目的からすると、同郷の知人や川内中学・旧制七高の同級生らの回想文もあるものの、求めているような記述は少ないものでした。
例えば、七高の一年先輩の橋田東聲の「高等學校時代の岩谷君」で、はじめて二人が言葉をかわしたとき、「うまごやしのいつぱい生い繁つてゐる庭をかたりつゝしばし歩いたが、ぢきに始業のベルが鳴つて、二人はめいめいの部屋にかへつたのであつた」というときの、鶴丸城の「うまごやしのいつぱい生い繁つてゐる庭」といった描写を求めているのですが、そういう意味では少し期待外れでした。
この「うまごやし」は、ウマゴヤシなのか、もしかして、シロツメクサ(クローヴァー)なのか、鶴丸城跡には、七高の時代から続くうまごやし(クローヴァー)は、今も残っているのかと、過去の細部が気にかかります。
▲『水甕』岩谷莫哀追悼號(1928年5月1日発行、水甕社)目次
人望のあった人だったのでしょう。たくさんの人が寄稿する、追悼特集になっています。
収録された「岩谷莫哀略年譜」は「未定稿」とありますが、よく調べられています。
鹿児島での主な生活史をたどると、次のようになっています。
明治21年(1888)鹿児島県薩摩郡宮之城村湯田にて生まれる(寄留地)
明治23年(1890)原籍地 薩摩郡隈之城村向田に帰住
明治23年(1890)大火で 薩摩郡水引村大小路に引き移る
明治25年(1892)薩摩郡隈之城東手宇金剛淵へ引っ越す
明治34年(1901)薩摩郡隈之城村向田に帰住
明治34年(1901)鹿児島県立川内中学入学
明治39年(1906)鹿児島県噌唹郡志布志尋常高等小学校代用教員
明治40年(1907)第七高等学校独法文科入学
明治43年(1910)東京帝国大学法科大学経済学科入学
▲『水甕』岩谷莫哀追悼號(1928年5月1日発行、水甕社)年譜冒頭
追悼号は、次のように構成されています。
口絵寫眞版
岩谷莫哀略年譜
仰望以後短歌集
日記抄
臨終まで 岩谷とみ子
追悼錄 其一(25名)
書簡集(15通)
追悼錄 其二(32名)
追悼歌(105名)
「日記抄」は、亡くなる前年の大正15年(1926)の1月から10月までの日記を収めています。
正岡子規の『病牀六尺』のように、日々の食事の記述が目立ちます。たぶん意識していたのでしょう。
夫人の岩谷とみ子による「臨終まで」は、昭和2年(1927)11月の回想です。
「書簡集」にある、鹿児島出身の後輩・平原勝郎宛の便りで、「子規じやないけど」病人らしい癇癪をおこしています。
〇鹿兒島の麥羹(ムツカン御存じかカルカンに似た色黑き蒸菓子なり)を東京で賣つてゐるところあらば御聞合せ御一報願上候子規じやないけどムツカンタベタイ(後略)
(昭和二年十月八日書簡)
〇
先程は失禮いたし候 疲勞烈しくその上咽の痛み甚しかりし爲に候不惡御宥被下度候 又其節御持參下されし鹿兒島の蒸菓子、何かの御考違ひにや あれは羊羹にて東京の方が本塲に候小生の所望せしは麥羹にて小麥粉と黑砂糖にて作りたる極めて粗末なる輕いふくれ菓子に候恰もカルカンの如くカステラの如きものに候わざわざ郷里から御取寄せ下され候御好意ありがたく感謝致候も小生の咽には通らず全く失望致候御禮旁々右迄
いづれ面語を期し候(昭和二年十月十八日書簡)
岩谷莫哀は昭和2年(1927)11月20日に亡くなっていますから、死の一か月前の手紙です。
ただ、ふくれ菓子は日持ちしないので、これは無理難題です。
鹿児島から送ってもおいしくなくなっているでしょうし、近くに作っているところがないかぎり、岩谷莫哀がのぞんだものは食べられなかったでしょう。
鹿児島から東京風の羊羹を取り寄せてしまった平原勝郎には気の毒ですが、病牀の岩谷莫哀に、鹿児島の素朴なふくれ菓子を食べさせてあげたかったです。
▲『水甕』岩谷莫哀追悼號(1928年5月1日発行、水甕社)追悼錄のページから
冒頭は、島崎藤村(1872~1943)。
「追悼錄」の寄稿者で、鹿児島にゆかりのある人をピックアップしてみます。
■川内中學
佐多芳久(同級生)「二十一年目の奇遇」
鳥海岩松(川内中學教師)「莫哀岩谷君を悼む」
■旧制七高
橋田東聲(一学年先輩)「高等學校時代の岩谷君」
古屋芳雄(同級生)「莫哀と余」
島袋全發(同級生)「故岩谷君の七高時代」
■同郷
有島健介(従兄弟ちがひの関係)「岩谷禎次君の追憶」
山下榮藏(竹馬の友)「禎さん」
佐多國夫「莫哀先生を憶ふ」
平原勝郎「追憶二三」
牧曉村「悲痛にも美しき一生」
▲『水甕』岩谷莫哀追悼號(1928年5月1日発行、水甕社)奥付
編輯兼發行者 岩谷登美
印刷所 三浦印刷所(名古屋市)
發行所 水甕社(名古屋市)
岩谷莫哀の夫人が編輯兼發行者になっています。
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364. 1952年の『南日本文學』(2021年12月20日)
不調というか、だるい感じの日が続いていたら、帯状疱疹でした。
さいわい、罹った人から聞いていたような神経を苛む痛みはありませんでしたが、おとなしくしています。
「だるい」という感覚で思ったことがあります。
一見「DULLい」という外来語起源の形容詞風にも見える「だるい」は、「かったるい」などと同根の古い日本語ですから、外来語起源ではないですけど、「だるい」という形容詞の現在には、「dull」の意味もまじりこんでいるのでしょうか。どうなんでしょう。
しかし、外来語起源の「イ形容詞」は、意外と日本語として定着しないことばのようです。
エロい、グロい、ナウい、そして、最近の「エモい」ぐらいでしょうか。
実は、「イ形容詞」は日本語固有の言語感覚の中核に位置するもので、なかなか外来種が入りこみにくい領域だったりするのかもしれません。
しばらくは、おとなしく、鹿児島の古本屋さんで購入したものからいくつか並べるだけにしておきます。
写真は、1952年の『南日本文學』創刊号です。
▲『南日本文學 1』(1952年)裏表紙
裏表紙に広告のある「大洲堂洋服店」ですが、県庁前にあったようです。
いつまであったのでしょう。記憶にありません。
▲『南日本文學 1』(1952年)目次
「創作」「詩」「随想」の三本立てに、「La Chambre」という手紙のコーナーで構成。
縦209×横148ミリ。64ページ。
椋鳩十が「椋鳩木」と誤植になっています。
執筆者はすべて男性。男子校的文学誌です。
▲『南日本文學 1』(1952年)のページから
巻頭の小説、有馬繁雄「麗しき客」。鶴が渡来する出水が舞台。
▲『南日本文學 1』(1952年)のページから
井上岩夫(1917~1993)が、「蟇左衛門」というペンネームを使っていた時期の作品。
巻末の「会員消息」に《▽蟇左衛門氏は近く詩集「日本の屋根の下」を発刊。》とありますが、形になったのでしょうか。
▲『南日本文學 1』(1952年)のページから
巻末の「La Chambre」(部屋)というコーナーで、
椋鳩十(1905~1987)は「若い木の燃える時」を寄稿し、次のように書いています。。
ガマ君、有馬君などが中心となって「南日本文学」を出すというはなしを先日聞いた。
前にも、いろいろ雑誌の計画があつたが、鹿児島では、どういうわけか、一号か二号でつぶれてしまつた。そして私は、同人誌は一号や二号でつぶしてしもうようなら、そんな同人雑誌は出さない方がよい、というのが私の持論であつた。
こんどの同人誌は、ガマ君や有馬君の顔をうかがうと、一年でも二年でも続けるということであるし、またガマ君は良心的な詩人であるので、きつと、その通りやりとげるにちがいないと思つている。
そして又、もう、私達のような老人組を相手にせずに、若い人たちは、若い人たちなりの、モラルと思想をもつて、古きものを乗り越え、乗り越え、新しい文学の火の手をあげて貰いたいと思つている。
当時40歳代の椋鳩十は、「老人」という意識もあったようです。
▲『南日本文學 1』(1952年)奥付
昭和二十七年九月三日印刷
昭和二十七年九月三日発行
(頒価八十円)
編集人 堀 公也
発行人 有馬繁雄
印刷所 渕上印刷株式会社
ブックデザインは誰か掲載されていません。
「顧問」「賛助同人」「同人」「准同人」「友の會員」「編集同人」の名前が掲載されています。
女性の名前は少ないですが、「同人」は羽島幸の名前があります。
「顧問」は、畠中季隆、山之口獏、耕治人。
「編集同人」は、面高散生、佐藤剛、蟇左衛門、堀公也、有馬繁雄。
表3に、井上岩夫(蟇左衛門)の印刷所「やじろべえ工房」の広告があります。まだ郡元でなく下竜尾町です。
「やじろべ工房」の書誌目録があったらいいなと思うのですが、自分でつくる気力はなかなかわいてきません。
◆
なんとなく、年末だなと感じた夕景写真2枚。
垂水で撮った写真です。
垂水から見た開聞岳です。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
「プログレ」ということばに対して、深い愛も憎しみもないとは思っているのですが、なぜだか、知らず知らず近づいてしまいます。
2016年のSYN。
「清水一登、吉田達也、ナツノミツルによる即興プログレ」
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363. 本棚の動物園(2021年11月25日)
本棚にあるタイガー立石の本を見ていたら、このまま、動物の名前がタイトルや著者名に含まれている本を並べていくと、本棚が動物園みたくなるかなと、試しに並べ替えてみました。
役に立つ「分類」ではありませんが、タイトルに動物の名前があるだけで、休日のような雰囲気になります。
本棚の動物園、あと2段拡張できました。
やはり、どこかのんびりした印象です。
もうちょっと拡張できそうですが、おおごとになりそうなので、ここで止めておきます。
◆拾い読み・抜き書き◆
イギリスの作曲家のフレデリック・ディーリアス(Frederick Delius、1862~1934)は、ポール・ゴーギャン(Paul Gauguin、1848~1903)が南太平洋のタヒチに暮らしていた時期の油彩作品「Nevermore」(1897年)を所有していました。
第一次世界大戦で困窮したとき手放しましたが、亡くなるまで「Nevermore」は特別な存在だったようです。
現在「Nevermore」は、コートールド美術研究所(The Courtauld Institute of Art)が所蔵しています。
ディーリアスのCDジャケットに、その「Nevermore」が使われているものもあります。
■ディーリアス「ヴァイオリン協奏曲他」(1992年、Argo、ポリドール)
ヴァイオリン:タスミン・リトル(Tasmin Little)
ウェールズ・ナショナル・オペラ管弦楽団(Welsh National Opera Orchestra)
指揮:サー・チャールズ・マッケラス(Sir Charles Mackerras)
「Nevermore」を所有することがディーリアスにもたらしたものは何だったのだろうかと考えたとき、ジョージ・スタイナー(George Steiner、1929~2020)の一節が頭に浮かびました。
工藤政司訳『G・スタイナー自伝』(1998年、みすず書房)から。
悔いていることがある。一つは、絵を途中でやめたために、木炭やチョークや墨で自分の本に挿絵が描けなかったことである。手には、口にできない真実や喜びの表現ができる。もう一つは、ジュネーヴ大学の私の助手で友人でもあったアミー・ダイクマンがせっかく教えてくれると熱心に言ってくれたのにヘブライ語を学ばなかったことだ。ヘブライ語で読んではじめて、聖書とユダヤ人の内面にじかに触れることができるのだが惜しいことをした。精神の怠慢(アクシデイア)というしかない(今となっては遅いだろうか)。洞察力と如才のなさでは自他ともに許すケンブリッジ大学で、病理学が専門だった同僚が、俺が見てやるからLSDをやってみないか、と誘ってくれたのを断った。これも悔いていることの一つである。そうした麻薬の体験がないせいで、無秩序なわれわれの文化の核心にある破滅と、慰安と、欲望と、苦痛解消の主要な媒介物の一つを想像し、概念化することが今もってできない。しないで終った旅行への悔いもある。一九五〇年代のはじめにロンドンでサラリーマンとして出発したことのこと、シャルダンの絵のどれにも劣らず内向的で神秘的な輝きのあるベン・ニコルソンの小品を買うだけの金(たいした額ではなかった)をどうして借りなかったのだろうか。もし借りていれば、あの絵の清澄な論理をわがものにできたものを、と悔やまれてならない。「金の借り手にも貸し手にもなるな」というポローニアスの戒めを父が守っていたせいかもしれない。
最近オハイオ州を車で走っていると、土地の不動産屋の看板が目についた。通常は「売約済み」とあるところだが、それには「残念、遅すぎた」と書いてあった。言いえて妙とはまさにこのこと。希望を求める墓石があるとすれば、墓碑銘はこれにかぎるだろう。
■工藤政司訳『G・スタイナー自伝』(1998年、みすず書房)
原著は、George Steiner『ERRATA : An Examined Life』1997年、Weidenfeld & Nicolson。
表紙の絵は、シャルダン((Jean-Baptiste Siméon Chardin、1699~1779))の「読書する哲学者」 。
所有したからといって、ベン・ニコルソン(Ben Nicholson、1894~1982) の「あの絵の清澄な論理をわがものにできた」かどうかは分かりませんが、気持ちは分かります。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
JON & UTSUNOMIÄ ( )(1998年、HÖREN)
リラックスした音にひたるだけでもいいのですが、この音にふさわしい場所を見つけるために、聴き手も、心身のさびつきを落として、知恵をしぼりたいところです。
犬のジョンと宇都宮泰の共作は、本棚の動物園とは相性がよさそうです。
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362. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その3(2021年11月8日)
前回に続いて、デント(J.M.DENT & SONS)社が刊行したロバート・ギビングス(Robert Gibbings, 1889-1958)の本です。
今回は、海洋ものです。
上の写真は、『OVER THE REEFS』(1948年、J.M.DENT & SONS)のダストラッパー。
戦時統制下から平時への移行期につくられた本です。
1948年に、遠い南太平洋の島々の暮らしは、配給の暮らしからはるかに遠い、ここではないどこか、の世界です。
手もとにはギビングスの海洋ものが4冊あります。ダストラッパー付きは『Over The Reefs』だけで、ほかは裸本です。
■『A TRUE TALE OF LOVE IN TONGA』(『トンガの真実の恋物語』初版1935年、FABER & FABER)1954年 J.M.DENT & SONS版
■『JOHN GRAHAM CONVICT 1824』(『服役囚ジョン・グラハム 1824年』初版1937年、FABER AND FABER)1956年 J.M.DENT & SONS版
■『BLUE ANGELS AND WHALES』(『青い天使とクジラ』初版1938年、PEGUIN BOOKS)1946年 J.M.DENT & SONS版
■『OVER THE REEFS』(『礁のかなたに』1948年、J.M.DENT & SONS)
ギビングスの海洋ものは、ほかに、次の作品もあります。
■『IORANA』(『イオラーナ タヒチ紀行』1932年、DUCKWORTH)
■『COCONUT ISLAND』(『ココナッツの島』初版1936年、FABER AND FABER)1949年 J.M.DENT & SONS版
『IORANA』は、デントから再版が出ていませんが、ギビングス最初の紀行本。1932年のタヒチへの旅のことが書かれています。
『COCONUT ISLAND』は「The Adventures of Two Children in the South Sea(ふたりの子どもの南洋冒険)」。
いずれもギビングスの木版挿絵が入っています。
手もとにある4冊を並べてみます。デント社版が初版ということで、『OVER THE REEFS』から。
■『OVER THE REEFS』(1948年、J.M.DENT & SONS)
太平洋戦争が終わってすぐ、煩雑な手続きをものともせず、ギビングスは南太平洋の島々をめぐる18か月にわたる旅に出かけます。
その旅の記録です。
ギビングスにとって最後の南洋への旅でもありました。
背にトビウオとオール、表紙の平にハイビスカス。
この取り合わせは鹿児島でも可能ではないかと思ってしまいます。
見返しに地図のある本です。
ニュージーランドから、フィジー、トンガ、サモア、トケラウ、クック、ラロトンガ、ソサエティ、タヒチとメラネシア・ポリネシアの島々を渡っていきます。
18か月の旅の航跡です。
縦218×横145×幅20ミリ。
240ページ。
12ポイントのギャラモン(Garamond)。版面・幅102ミリ×38行(173ミリ)。
戦時統制下の「Economy Standards」の基準で作られたとの記載はなくなっていますが、組版は「Economy Standards」のスタイルが続いています。
ギビングスの木版挿絵84点。
「椰子の実」のうたが聞こえてきそうです。
思いがけない場所で思いがけない出会いがあるものです。
サモアで、ロバート・ギビングスは、水浴び場で初老の女性から英語で話しかけられます。女性は、フラハティから英語を教わったといいます。
アメリカの記録映画監督ロバート・フラハティ(Robert J. Flaherty、1884~1951)が、サモアで映画『Moana of the South Seas』(『モアナ』、1926年)を撮影したときのことで、映画に出ていたと。ギビングスが映画でタパ布(tapa)を作っていたのは君かと尋ねると、「そう、あれはわたし」と答えます。
偶然というか、ギビングスも「ボブ・フラハティはぼくの古い友人なんだ(Bob Flaherty is an old friend of mine.)」と返します。
『モアナ』は、「ドキュメンタリー」というジャンルにとって歴史的な映画です。「ドキュメンタリー(documentary)」ということばが初めて使われたのが、『モアナ』の映画評だとされているからです。
モノクロゆえの神秘性を感じます。
■『BLUE ANGELS AND WHALES』(1946年 J.M.DENT & SONS版)
1938年、Penguin Booksの「PELICAN SPECIAL」版が初版。
副題「A RECORD OF PERSONAL EXPERIENCES BELOW AND ABOVE WATER(水中と水上での個人的体験の記録)」
1937年の西インド諸島や紅海での潜水体験をもとに書かれています。
1946年にJ.M.DENT & SONSから新版。
手もとにあるのは青いクロス装の裸本です。
縦219×横144×幅12ミリ。
115ページ。
12ポイントのギャラモン(Garamond)。版面・幅105ミリ×38行(173ミリ)
66点の鉛筆のハーフトーン複製。うち19点はブルーグリーン。
1938年版の挿絵は木版画33と鉛筆画15で構成されていましたが、1946年版は特色のブルーグリーンと黒の2色が使われた、66点の鉛筆画の複製を収録。
より記録的な本にしたいというギビングスの希望で、図版が鉛筆画の複製に変更されています。
網点のあるハーフトーン印刷への変更なので、木版のベタな刷りを好む私のような者にとっては、魅力に欠ける図版の本になっています。
水中カメラではなく、水中スケッチです。
戦時統制下の「Economy Standards」に則って作られています。
■『A TRUE TALE OF LOVE IN TONGA』(1954年 J.M.DENT & SONS版)
初版は、1935年、FABER & FABERから。
タイトルに続いて「TOLD IN 23 ENGRAVINGS AND 337 WORDS」(23の木版と337語によって語られた)とあります。
1935年版では、333語で、1954年版では337語と、4語増えています。
1935年版はまだ見ていないので、それが何かは把握していません。
1954年の J.M.DENT & SONS 版。
手もとにあるのは裸本です。
縦188×横124×幅8ミリ。
53ページ。
ギビングスの木版挿絵23点。
337語の本文活字は、18ポイントのパーペチュア(Perpetua)。
デント社版のギビングス本は、本文活字がギャラモン(Garamond)なら戦時統制下の仕様、エリック・ギル(Eric Gill、1882~1940)がデザインした活字パーペチュア(Perpetua)を使っていれば、統制の終わった後ということになるようです。
■『JOHN GRAHAM CONVICT 1824』(1956年 J.M.DENT & SONS版)
1937年、FABER AND FABER から初版。
19世紀はじめ、オーストラリアへの移住者とアボリジニの「An historical narrative(歴史物語)」です。
1956年にJ.M.DENT & SONSから新版。
手もとにあるのは裸本です。
縦218×横145×幅17ミリ。
xi、129ページ
14ポイントのパーペチュア(Perpetua)。版面・幅93ミリ×32行(157ミリ)。
ギビングスの木版挿絵41点。
アイルランド生まれのジョン・グラハム(John Graham)と、スコットランドのオークニイ諸島(Orkney Islands)生まれのエリザ・アン・フレイザー(Eliza Anne Frazer)の2人の記録をもとにした歴史物語です。
ワライカワセミ(Kookaburra)は、文中でも言及されているのですが、言及のない右ページの動物が、オーストラリアに生息しないキツネザルに見えるのが謎。コアラなら、まだ分かるのですが。
歴史ものなので、実際に取材したスケッチでなく、資料から描いた図版なのでしょうか。
ジョン・グラハムは、アイルランドで麻を盗んだ罪でオーストラリアに流刑となり、さらにそこでアボリジニ(ギビングスは「aborigines」または「natives」という言葉を使用)の暮らす森へ逃亡します。そこで出会ったアボリジニの女性に「亡夫の生まれ変わり」として認められたことで、アボリジニとともに6年間過ごします。しかし、その生活をあきらめ、オーストラリア東岸のモートン湾に戻ります。そんななか、シドニーからシンガポールに向かうスターリング・キャスル号がスウェイン礁で遭難し、船長やその妻エリザ・アン・フレイザーがアボリジニに捕らえられ奴隷にされているという知らせがモートン湾に届きます。アボリジニの知識を持ち交渉する力があったジョン・グラハムが捜索隊に加わり、スターリング・キャスル号の乗組員やエリザ・アン・フレイザーを取り戻したという出来事が書いた歴史読み物です。
◆
本棚にある南洋ものを何冊か、引っ張り出してみました。
日本のものは、主に赤道以北のミクロネシアが舞台です。
■『中島敦全集 第三巻』(1974年第七版、文治堂書店)
■『中島敦全集 2』(1993年、ちくま文庫)
■中島敦『南洋通信』(2001年、中公文庫)
■阿部知二『火の島 ジャワ・バリ島の記』(1992年、中公文庫)
■『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』(1982年、草原社)
■コリン・マクフィー 大竹昭子訳『熱帯の旅人 バリ島音楽紀行』(1990年、河出書房新社)
赤道以南が主のギビングスの南洋本とはなかなか交差しませんが、混ぜたら危険です。
ゴジラが誕生するかもしれません。
◆拾い読み・抜き書き◆
土方方功(1900~1977)は、母方が薩摩出身ということもあってか、『土方久功詩集 青蜥蜴の夢』(1982年、草原社)には、「薩摩寿司譜」という作品がありました。
薩摩寿司譜 (一九六四年)
〇
寿司桶を作らせけりと
弟が呼びてふるまう
酒寿司 上々
〇
還暦を過ぎし弟と 少し酒に
薩摩寿司食いて
昔語る今宵
〇
少し早く 木の芽はなくて
粉山椒 ふりかけて食す
薩摩酒寿司
〇
木の芽萌ゆる季節となれば
さつま寿司
一度はせぬと ものたらぬ我ら
〇
木の芽萌ゆる季節となれば
さつま寿司
兄弟寄りて 食い来し幾年
〇
弟よ 君も還暦を過ぎぬ
春一夜
かくて酒寿司に 語らう幾度ぞ
〇
さつま寿司
馳走にもなり みやげにももらい
帰りし遅夜 心足らえる
〇
美知子が
はじめてつけし薩摩寿司
ほめてつかわす この寿司 この酒
〇
薩摩寿司に親しみて
まさに六十年
薩摩の国を 遂に知らぬまま
〇
お蔭さま 今年も早く
酒寿司をあぢわいて
まづ「安堵」のおもい
〇
たたきまぐろ 鯛のうしお汁
薩摩寿司と
三拍子あり 酒あり 君あり
〇
二十三時過ぎて 妹より
薩摩寿司届けり
寝る前なれど 先づは食いけり
うまし うまし
まさに微醺、ほろ酔いです。
幼いころから、薩摩独特の酒寿司の味を知っている人のことばです。
◆
あっという間に、落葉の季節です。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
コリン・マクフィー 大竹昭子訳『熱帯の旅人 バリ島音楽紀行』(1990年、河出書房新社) があったので、コリン・マックフィー(Colin McPhee、1901~1964)の作品「Tabuh-Tabuhan」を収録したアメリカン・コンポーザーズ・オーケストラのCD『HARRISON/URG/McPHEE』(1995年、Argo)を。
Dennis Russell Davies の指揮
American Composers Orchetra
ピアノは、Peter Basquin & Christopher Oldfather
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
361. 1940年以降のデント社版ロバート・ギビングス本 その2(2021年10月25日)
前回に続いて、デント(J.M.DENT & SONS)社が刊行したロバート・ギビングス(Robert Gibbings, 1889-1958)の「川の本(River Books)」です。
写真は、1953年刊行「川の本(River Book)」第5作『Coming Down The Seine』(『セーヌ川をくだって』)のダストラッパー。
今度は、フランスのセーヌ川を下ります。
次作の『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』(『モンパルナスのトランペット』1955年、J.M.DENT & SONS)と対になっています。
■『COMING DOWN THE SEINE』(『セーヌ川をくだって』1953年、J.M.DENT & SONS)
縦219×横145×幅20ミリ。
217ページ。
本文書体は、13ポイントのパーペチュア(Perpetua)。前回から繰り返しになりますが、エリック・ギル(Eric Gill、1882~1940)がデザインした活字です。
版面・幅101ミリ×33行(162ミリ)。
ギビングスの木版挿絵57点。
「川の本」第6作の『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』(『モンパルナスのトランペット』1955年、J.M.DENT & SONS)と対になっています。
本文は、濃緑の特色で印刷されています。
犬とボートで旅する、というのは旅の理想型なのかもしれません。
1940年に発見され、1948年から一時期公開されていたラスコーの洞窟を訪れています。
■『TRUMPETS FROM MONTPARNASSE』(『モンパルナスのトランペット』1955年、J.M.DENT & SONS)
縦235×横157×幅19ミリ。本のサイズが少し大きくなっています。
201ページ。
本文活字は、14ポイントのパーペチュア(Perpetua)。
版面・幅101ミリ×31行(162ミリ)。
ギビングスの油彩画8点のカラーハーフトーン複製。ギビングスの木版挿絵41点。
パリ左岸モンパルナスに暮らすギビングス。
網点分解されたカラー印刷で、ギビングスの油彩画が複製されています。
本で鉛筆画や油彩画が複製されるときは、網点のあるハーフトーン印刷なので、木版画のベタな刷りを好む私のような者にとっては魅力に欠ける図版の本になってしまいます。
1955年初版。
ワイン籠にちょっとした享楽のかおりを感じます。
レ島の塩の花(フルール・ド・セル)。
このカフェの木版挿絵は、モダンなミステリーの表紙絵になりそうです。
■『TILL I END MY SONG』(1957年、『私の歌が終わるまで』J.M.DENT & SONS)
縦219×横142×幅18ミリ。
234ページ。
本文活字は、14ポイントのパーペチュア(Perpetua)。版面・幅101ミリ×31行(162ミリ)。
ギビングスの油彩画のカラー口絵。ギビングスの木版挿絵55点。
最初の「川の本」、『SWEET THAMES RUN SOFTLY』(1940年、J.M.DENT & SONS)と、前後編のように活字・文字組はほぼ揃っていて、17年の時を感じさせないつくりになっています。
『SWEET THAMES RUN SOFTLY』にはじまり、『TILL I END MY SONG』で終わることで、「SWEET THAMES RUN SOFTLY, TILL I END MY SONG(いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ、私の歌がおわるまで)」という1行の詩句のなかに、7冊の本が含まれるという形にもなっています。
「川の本」各巻に共通して描かれる、水辺の垂直に立つ草。
ジャコメッティやブランクーシらの20世紀彫刻の造形と、共通する感覚を感じます。
1957年初版。「SWEET THAMES RUN SOFTLY, TILL I END MY SONG(いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ、私の歌がおわるまで)」というエピグラフではじまります。
道具への視線。
最後のページ。
カモは川から飛び去り、「SWEET THAMES RUN SOFTLY, TILL I END MY SONG(いとしきテムズ川よ、しずかに流れよ、私の歌がおわるまで)」
で終わります。
この項、次回に続きます。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
れいちと清水一登が中心の音楽グループ、 アレポス(Arepos)の1999年作品『青いフラスコ』。
ラテン語の回文「SATOR AREPO TENET OPERA ROTAS」がグループ名の由来になっています。
2020年の映画『TENET テネット』でも使われていました。