●my favorite things 251-260
my favorite things 251(2018年12月16日)から260(2019年2月25日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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251. 1942年の昭南書房版・石川淳『山櫻』(2018年12月16日)
252. 2019年1月1日の桜島
253. 1981年の『浮世絵志』復刻版(2019年1月21日)
254. 2018年の「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のフライヤー・リーフレット(2019年1月21日)
255. 1934年の有海久門詩集『人生を行く』(2019年2月6日)
256. 1934年の秋朱之介の裳鳥会刊『棟方志功画集』広告(2019年2月7日)
257. 1967年の『詩と批評』11月号(2019年2月21日)
258. 1966年の『詩稿』10号(2019年2月22日)
259. 1961年の『詩稿』1号(2019年2月24日)
260. 1971年の福石忍詩集『遠い星』(2019年2月25日)
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260. 1971年の福石忍詩集『遠い星』(2019年2月25日)
児玉達雄旧蔵書 その3
今回は、縁あって手もとにある児玉達雄(1929~2018)旧蔵本から、鹿児島で刊行された詩集をいくつか紹介します。
鹿児島の詩人、井上岩夫(1917~1993)が営んでいた印刷所・やじろべ工房や、版元・詩稿社には関心があります。
「第114回 1972年の島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』(2013年7月14日)」で紹介した、『東北と奄美の昔ばなし』は、詩稿社・やじろべ工房の本でした。
福石忍の詩集『遠い星』が、詩稿社という名前を冠して出た最初の詩集だと思います。
亡父、平田信芳(1930~2014)が作った旧制七高の名簿、七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』(2000年)で調べてみたら、 児玉達雄が文甲2組で、亡父が文甲1組と、七高の同級生(昭和23年入学)だったということが分かりましたが、父と同じ文甲1組には、ほかにも、のちに詩集を出した人が、少なくとも2人いました。
詩稿社から『遠い星』を出した福石忍(1930~1989)もその1人でした。
熊本の陸軍幼年学校から鹿児島一中、七高、鹿児島大学と進み、南日本新聞の編集局長を務めた人です。
ほかに詩集『照明技師』(1990年、花神社)があります。
福石忍『サクラ、サクラ 福石忍遺稿集』(1990年10月26日、花神社)に収録された、「鹿児島のイメージ」(初出は、『南日本文学』復刊号、1966年8月) という短いエッセイがあり、もう1人の「詩人K君」が登場します。
わが旧友の詩人K君は、郷里鹿児島のことを「劣悪僻陬の地」と呼んだ。反発と愛着が、奇妙に入りまじった表現だと、私は解している。 K君の思い出に、いまも強く印象に残っているのは、七高時代、バンカラな連中がストームを始めた時、彼だけはついに円陣に加わらず、青白い神経質そうな顔のうえに、メガネを光らせ、黙って立ちつくしていた情景である。鹿児島人の、多血質な情熱に、戸惑いと抵抗を感じているらしかった。
鹿児島では、仲のよい友人のことを「ヂタクソ友だち」という。いっしょにしゃがんで地面にクソをたれるほどの親しい仲という意味である。外地育ちの彼はそうした無神経ともいえる親密感に、ついていけないものを感じていたのだろう。
しかし、数年たって、東京の出版者につとめた彼が帰郷したとき「鹿児島はいいね。とくに女がいいよ」と言った時には、びっくりさせられた。神経質そうな顔は相変らずだったが、「K君も大人になったな」としみじみ思った。都会の冷たい人間関係の中にもまれ、あわただしい毎日を送ってきた彼が、鹿児島の、とくに女性の、原始的ともいえる情熱にふれると、やはり先祖伝来の鹿児島人の血がよみがえるのだろう。
「劣悪僻陬の地」。この断言的な口ぶりの中に、彼の心のゆれ動きを、私はなつかしく感じ取った。
今どきの新聞記者だと、このような文章は書かない気もします。それはともかく、ここに登場する「詩人K君」は、児玉達雄かと思いましたが、違いました。
『遠い星』の跋で、井上岩夫が次のように書いていました。
思えば彼(福石忍)くらい二十年の昔から一貫して変わらない詩人も珍しい。
彼が児玉惇君に伴われて私の前に現れたのは終戦後間もなくであった、二人とも七高の制帽をかぶり、まだおとなになりきらない澄んだ眼と赤いほっぺたをしていた。児玉君は既にFOUの同人であり、言うことも生意気で、私などいつもやりこめられてばかりいたが、福石君は当時から万事鷹揚(茫洋かな)で、少しく謙虚であり、詩などというケチなものはいじらず、専ら外国文学特にフォークナーに傾倒して、それが、どんなきっかけで詩を書くようになったか、もう二昔前のことであるからそこらはおぼろげであるが、当時私が「レジスタンス」の特集号として出した「九州詩人集」に奨められて出したのが処女作ではなかったかと思う。
亡父が、福石忍と同じクラスだったことは知っていましたが、児玉惇(1930~1979)も同じクラスだったことは知りませんでした。
児玉惇は台湾の台北一中から、鹿児島二中、七高を経て、東京の大学に(同窓会名簿的なものを嫌うタイプだったのか、進路・連絡先は空欄です)。
詩人の飯島耕一(1930~2013)とともに、『詩行動』(1951~1953、詩行動社)、『今日』(1954~1958、書肆ユリイカ) の同人となり、『今日』の終刊とともに飯島耕一と袂を分かちます。
平凡社に勤め、月刊誌『太陽』の編集をしていました。
遺稿集として、『井戸の下の国のうた』(1980年、芳林社)という詩集が残されていますが、まだ見たことはありません。
児玉達雄旧蔵の雑誌の中には、昭和20年代の詩誌『詩學』(岩谷書店)もあったのですが、そこに掲載された詩の中に児玉惇の名前もありました。
余談になりますが、戦後すぐの時期に、城左門編集の『詩學』と江戸川乱歩編集の『宝石』を出していた出版社・岩谷書店の社長、岩谷満は、鹿児島の川内出身のたばこ王「岩谷天狗」こと岩谷松平の孫にあたります。
【2019年3月6日追記】
岩谷満は、岩谷松平の孫でなく、岩谷松平の弟の孫という話もあって、調査が必要のようです。岩谷書店が1947年に出した「現代詩叢書」には、岩谷健司『哀しき渉猟者』(装幀・脇田和)も含まれていたり、江戸川乱歩の写真を撮っているのが岩谷吉二という人だったり、戦後すぐの時期における、詩とミステリーの出版において、岩谷一族が果たした役割というのは、掘り甲斐のあるテーマかも知れません。
【2020年5月10日追記】
森銑三『思い出すことども』(1990年11月10日発行、中公文庫)を読んでいましたら、思いがけず児玉惇の名前が出てきたので、引用しておきます。
森銑三が古い雑誌記事をもとに東京における世相風俗の変遷をたどった原稿を拵えていたのですが、あてにしていた出版社から断られたところに登場します。
それで私自身も、少々持てあまし気味でいたところ、一日平凡社の児玉惇君の訪問を受けた。同君とは、その時初めて逢ったのだったが、同君は率直に物をいう人なので、序でだと思って原稿を出して見せたら、『東洋文庫』の一篇として出しましょう、とのことで、話は簡単に極まってしまった。私は初めてほっとした。
依って改めて原稿の整理をし直して、小ぢんまりと二段に組んで、二冊にして貰うことにして、原稿を渡した。書名はまだ極めてなかったが、児玉君の案で、『明治東京逸聞史』ということに落ちついた、しかしそれは、少し重々し過ぎる書名で、私としては、『古い雑誌から』式に、軽く行きたいのだったが、改まって反対することもないので、児玉君の命名通りにした。
児玉惇は『明治東京逸聞史』という書名の命名者でした。
その東洋文庫『明治東京逸聞史』は、亡父・平田信芳の蔵書中にもあったのですが、人に貸したのか、外箱だけが残っています。
▲1971年の福石忍詩集『遠い星』背
▲1971年の福石忍詩集『遠い星』奥付
▲夏目漠詩集『含羞曠野』(1977年、詩稿社)の背
見返しに、夏目漠(1910~1993)から児玉達雄への献呈署名。
夏目獏から児玉達雄への葉書、児玉達雄から夏目獏への手紙の下書き、1977年11月29日南日本新聞掲載の井上岩夫による『含羞曠野』書評がはさみこまれていました。本文に児玉達雄の書き込みが少しあります。
▲夏目漠詩集『含羞曠野』(1977年、発行・詩稿社)の奥付
▲夏目漠詩集『火の中の眼』(1961年、南日本新聞印刷局)表紙
児玉達雄から夏目獏への手紙の下書き2枚がはさみこまれていました。本文に児玉達雄の書き込みが少しあります。
▲夏目漠詩集『火の中の眼』(1961年、南日本新聞印刷局)奥付
▲井上岩夫詩集『荒天用意』(1974年、詩稿社)背
本文に児玉達雄の書き込みが少しあります。
井上岩夫の詩の「どろどろと」「さらさらと」「ゲラゲラ」「メソメソ」といった反復する語を抜き書きした、児玉達雄のメモがはさみこまれていました。
▲井上岩夫詩集『荒天用意』(1974年、詩稿社)の島尾敏雄の帯文
▲井上岩夫詩集『荒天用意』(1974年、詩稿社)奥付
▲鹿児島詩人集団『鹿児島県詩人選集』(1967年7月、羽島さち)表紙
▲鹿児島詩人集団『鹿児島県詩人選集』(1967年7月、羽島さち)目次
▲鹿児島詩人集団『鹿児島県詩人選集』(1967年7月、羽島さち)奥付
運営委員を、児玉達雄、羽島さち、杢田瑛二の3人がつとめています。
児玉達雄に対して「単独者」という第一印象をもったのですが、1960年代には、集団を引っ張っていこうという意志もあったようです。
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)表紙
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)見返しとカバーの折り
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)目次
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)巻頭の浜田遺太郎の詩
巻頭に、1968年の不慮の事故で亡くなった、浜田遺太郎(浜田到、1918~1968)の詩「動物園にて」を掲載。
昨年2018年は、詩人・浜田遺太郎/歌人・浜田到の生誕100年・没後50年の年でした。
▲鹿児島県詩人集団『鹿児島県詩人選集 II 1969』(1969年8月20日発行、羽島さち)奥付
運営委員を、児玉達雄、越山正三、羽島さちの3人がつとめています。
1967年に「鹿児島詩人集団」だったものが「県」がついて「鹿児島県詩人集団」に。
印刷は、やじろべ工房。
次回に続きます。
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259. 1961年の『詩稿』1号(2019年2月24日)
児玉達雄旧蔵書 その2
今回は、縁あって手もとにある児玉達雄(1929~2018)旧蔵本から、鹿児島で刊行された詩誌をいくつか紹介します。
鹿児島の詩人、井上岩夫(1917~1993)が編集発行人だった詩誌『詩稿』は、11冊あり、ほとんどの号に児玉達雄の書き込みがあります。
『詩稿』は1961年から1978年にかけて、37号刊行されています。
児玉達雄は、本に書き込みをする一方、ものもちがとてもいい、本を捨てない人だったようです。『詩稿』は、間違いなく全号そろいで持っていたと思われるので、ばらけてしまったのが残念です。
ほかにも、井上岩夫の昭和20年代のガリ版の詩誌『抒情精神』『怒濤』『レジスタンス』『感情外科』『不眠街』『青い帽子』なども揃っていたのではないでしょうか。
井上岩夫・やじろべ工房・詩稿社関連の本は、児玉達雄氏が網羅していたのではないかと思います。
■『詩稿』No 1 1961年12月31日発行 編集発行人 井上岩夫 21ページ
執筆者は、山口由志子、福石忍、中西睦郎、竹元隆洋、井上岩夫、夏目漠
児玉達雄が、鉛筆・赤インク・青インクで批評書き込み。
■『詩稿』No 2 1962年2月28日発行 編集発行人 井上岩夫 20ページ
執筆者は、夏目漠、中西睦郎、竹元隆洋、福石忍、山口由志子、井上岩夫、稲田尹
児玉達雄が、鉛筆・赤インク・青インクで批評書き込み。
井上岩夫の編集後記は、広島の詩人、山田迪孝氏への私信のかたちをとっています。
広島県立文書館が所蔵する「山田廸孝文書」には、鹿児島関連の詩誌として『詩稿』1号~24号(3・7号欠)、『作品』1・2号が含まれていました。
■『詩稿』No 3 1962年7月10日発行 編集発行人 井上岩夫 20ページ
執筆者は、酒井学、夏目漠、中西睦郎、福石忍、井上岩夫、稲田尹
児玉達雄が、赤インクで批評書き込み。
3号には、井上岩夫が、児玉達雄にエッセイの完成を尋ねるメモが挟まれていました。
児玉達雄の『詩稿』への最初の寄稿は、1963年5月20日発行の6号の詩論「内在律の原理」です。
その6号があれば、と思います。訂正原本のようなかたちになっていたのではないかと思われます。
【2019年3月21日追記】
児玉達雄の「詩的因果律」という作品が、第4回(昭和39年/1964年度)新日本文学賞の評論部門候補になっていました。
■『詩稿』No 10 1966年4月発行 発行 井上岩夫 40ページ
執筆者は、中西睦郎、羽島さち、夏目漠、酒井学、児玉達雄、稲田尹、井上岩夫
児玉達雄は、詩4編「マドロスとエビフライ」「れんぼながし」「小夜曲」「花の島」、55枚のエッセイ「詩的質量」を寄稿。赤インクで書き込み。
■『詩稿』No 11 1966年7月30日発行 編集発行人 井上岩夫 26ページ
執筆者は、夏目漠、児玉達雄、巽寒平、稲田尹、井上岩夫、酒井学、島尾敏雄
児玉達雄は、詩「岩」と詩誌評「不実にして未熟な者の場から」。青インクで誤植修正。
島尾敏雄はエッセイ「ニュー・ヨークの日本人」
■『詩稿』No 13 1967年7月26日発行 編集発行人 井上岩夫 40ページ
執筆者は、夏目漠、羽島さち、小城国仁、巽寒平、児玉達雄、福石忍、上村盛雄
児玉達雄は、「満洲詩篇」と題して詩3編「天地は」「その 仲秋節」「奉天城外同善堂」。赤インクで書き込み。
■『詩稿』14 1967年10月15日発行 編集発行人 井上岩夫 32ページ
執筆者は、小城国仁、児玉達雄、巽寒平、井上岩夫、夏目漠
児玉達雄は詩「炎」。赤インクで書き込み。
■『詩稿』No 17 浜田遺太郎遺作特集 1968年8月25日発行 編集 児玉達雄 印刷・発行 井上岩夫 114ページ
不慮の事故で亡くなった浜田遺太郎(浜田到、1918~1968)の詩作品の最初の集成。
執筆者は、青山恵真、田中仁彦、東田喜隆、岡元健一郎、夏目漠、児玉達雄、井上岩夫
井上岩夫の「あとがき」に「編集の一切を児玉達雄君にやってもらった」とあり、児玉達雄が浜田遺太郎の詩作品の集成・編集者だったことがわかります。鉛筆・赤インクは傍線ぐらい。
田中仁彦の「ある詩人の工房」は数年前の『青い帽子』7号(編集発行人 井上岩夫)からの転載。
■『詩稿』No 20 詩と批評 1970年8月4日発行 井上岩夫 40ページ
杢田瑛二詩集出版記念号
執筆者は、福石忍、島尾敏雄、夏目漠、真木登代子、児玉達雄、大山芳晴、井上岩夫、酒井学
児玉達雄は、詩4篇「春の祭典」「春暁」「翔」「6/8」
島尾敏雄は、エッセイ「事故」
■『詩稿』No 22 詩と批評 1971年9月18日発行 編集・発行 やじろべ工房 100ページ
児玉達雄特集号
井上岩夫の「後記」以外は、すべて児玉達雄作品。詩「瞳」、小説「馬庫力山」。鉛筆・赤インクの書き込み少し。
■『詩稿』No 23 詩と批評 1972年10月10日発行 井上岩夫方 詩稿社 40ページ
執筆者は、酒井学、児玉達雄、福石忍、夏目漠、久井稔子、河添行一郎、吉野二郎、真木登代子、中山朋之、大山芳晴、井上岩夫、島尾敏雄
児玉達雄は散文詩「日本の剣客」。鉛筆・赤インクの書き込み少し。
島尾敏雄は「壺の宝――東北昔ばなしのうち――」。
島尾敏雄『東北と奄美の昔ばなし』(詩稿社)の広告もありました。
■『季節』3 鹿兒島大学文芸部 1952年2月10日印刷発行 54ページ
編集代表 福石忍
印刷人 やじろべ工房
ガリ版。執筆者は、福石忍(フォークナーの試訳「あの夕陽」と詩「敗戦の翌年に死んだ妹」)、作田雅志、井田輝敏、江夏敏男、牧伊知郎
『低唱』を改題して『季節』に。
表紙絵のアブストラクトはやじろべ工房提供のものとあるので、井上岩夫の作品でしょうか。
表紙に書き込まれた詩は、児玉達雄のものと思われます。
■『青い帽子』No 3 詩・批評・散文 青い帽子編集発行所 井上岩夫 12ページ
ガリ版。刊行の日付はありませんが、1957年12月28日の日付の井上岩夫の詩があります。1958年初頭の刊行か。
執筆者は、夏目漠、箕輪昭文、上畑敏夫、井上岩夫、小城国仁
■『作品』 1 1960年12月10日発行 編集兼発行人 田中仁彦(鹿児島大学文理学部研究室内) 26ページ
印刷所 日進印刷株式会社
執筆者は、福石忍、夏目漠、田中仁彦(文学の端緒をつかむための序説)、井上岩夫(ラジオドラマ「小さい灯」)
表紙絵は、岩下三四「噴煙」。
『作品』の同人は、椋鳩十、潮田武雄、島尾敏雄、夏目漠、井上岩夫、浜田到、初鹿野一郎、福石忍、田中仁彦。
鹿児島県立図書館蔵の『作品』2号を見ると、編集兼発行人は福石忍、発行所がやじろべ工房。
執筆者は、中西睦郎、福石忍、椋鳩十、夏目漠、井上岩夫、田中仁彦、佐藤剛、島尾敏雄。
■『カンナ』 第64号 1971年11月25日発行 発行者 渡辺外喜三郎 25ページ
印刷所 県教員互助会印刷部
巻頭は、島尾ミホの「旅の人たち 親子連れの旅芸人」。単行本『海辺の生と死』(1974年7月25日発行、創樹社)に収録されたときは、「旅の人たち――親子連れの踊り子」と変わっていました。
映画監督の澤井信一郎が監督デビューしたころのインタビューで、映画化したい作品として島尾ミホの「旅の人たち」をあげていて、ずっと期待したのですが、それはもうかなわないのでしょうか。
児玉達雄は、小説「関帝廟への草の道」を寄稿。
ほかにも、児玉達雄が小説作品を寄稿した61号(1971年2月25日発行、児玉達雄「王者窩棚」)、114号(1986年5月20日発行、児玉達雄「早春」)、119号(1988年2月10日発行、児玉達雄「ある晴れた日に」)もありました。
■『文学匪賊』 第10号 1981年12月20日発行 編集発行 夏目漠 文学匪賊社 80ページ
印刷製本 日版印刷
執筆者は、北原智恵子、岩下豊、夏目漠(小説「おもろうて、やがてなかしき――嗚呼・第七高等学校造士館」)
児玉達雄宛ての夏目漠の短い手紙(岩夫さんから唾棄されそうな小説。あなたなら、旧制高校が何であったかお分かりいただけるだろう)と、児玉達雄の夏目漠宛ての手紙の下書きがはさみこまれていました。
■『帆』第5号 1988年7月1日発行 編集者 吉野二郎 54ページ
印刷 日版印刷
執筆者は、松崎俊一、吉野二郎、井上岩夫(詩17編「どうなってるんだ」ほか)
■『野路』第49号 1995年7月15日発行 発行人 藏薗治己 55ページ
印刷所 梅木印刷
千葉在住の詩人、やまぐち・けいによる、『児玉達雄詩十二篇第二収』評「華麗なる傍観者」を掲載。
次回に続きます。
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258. 1966年の『詩稿』10号(2019年2月22日)
前回取り上げた昭森社の雑誌『詩と批評』は、予兆だったのかもしれません。
先日、古本屋さんに立ち寄ると、見なれない詩書と詩誌の山がありました。
写真は、その中の1冊で、鹿児島で活動した詩人、井上岩夫(1917~1993)が編集兼発行していた詩誌『詩稿』第10号(1966年4月、井上岩夫)の表紙です。
去年の10月ごろ亡くなられた、アパートに一人暮らしだった老人の旧蔵書という話でした。
ずっと一人暮らしをされていた方だったようで、家賃の関係もあって、故人のアパートを引き払わないといけないので、ご遺族の方が、遺品処理を急がれていて、整理するにも費用がかかるから、膨大な量の本の一部だけでもどうにかしてもらえないかと、古本屋さんに声をかけたようです。
その亡くなった老人のアパートの部屋は、本と本の間にわずかなスペースがあるだけで、膨大な量の詩書とミステリーでいっぱいだったそうです。
古本屋さんのほうでも時間がないため処理しきれず、目についた鹿児島関係の書籍を少しもらうだけで引き上げたそうです。
残された本がどこかで管理されていればいいのですが、どうやら、きれいさっぱり廃棄処分されたようです。
故人は、本に黒や赤インクで書き込みをする人で、古本屋さんは売り物にならないとぼやいていましたが、初めて手に取るような雑誌がいっぱいありましたので、興味がわいて、段ボール1箱分ぐらい分けてもらいました。
調べてみると、児玉達雄という人の蔵書と分かりました。
児玉達雄旧蔵書 その1
ネット上には、児玉達雄についての情報がほとんどありませんでしたが、鹿児島で刊行されていた文芸誌
■詩人・井上岩夫(1917~1993)の『詩稿』(1961~1978)
■中勘助研究の渡辺外喜三郎の『カンナ』(1953~1997)【2019年3月12日追記】渡辺外喜三郎編集になったのは1956年から。
■羽島さち(1917~2015)の『みなみの手帖』(1971~2002)
などの常連で、鹿児島で、詩論・詩・小説を結構な数、発表していた人でした。
そういえば、片岡吾庵堂さんが『みなみの手帖』に「石亀日記」を連載していたころ、満洲ものの小説を書いていた人だと記憶がよみがえりました。
こういう時、役に立つのが、わたしの父、平田信芳(1930~2014)が作った旧制七高の名簿、七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』(2000年)です。それで調べてみたら、 児玉達雄氏、わが亡父と七高の同級生だったということが分かりました。
父が文甲1組、児玉氏は文甲2組。クラスは違いましたが。
俄然、児玉氏への興味が湧いてきます。
児玉達雄氏は、1929年生まれ。枕崎の人。満洲の奉天二中から引き揚げて、鹿児島二中、七高、そして、昭和31年に京都大学文学部の美学を卒業していました。
京大時代は、高橋和巳や小松実(左京)とつるんでいた気配があります。
今回一緒に入手した雑誌の中には、高橋和巳や小松実(左京)が中心になって刊行された同人誌『対話』の創刊号(1956年)から第4号(1959年)があり、その『対話』誌にはさまれていた京都の友人からの手紙には、編集会議での高橋和巳や小松実のようすが書かれていました。
どういう生き方をされた方なのか、今のところ全く分からないのですが、鹿児島では、自ら雑誌を主宰するとかはせず、組織に属さない「単独者」だったという印象があります。千葉で生活されていた時期もあったようです。
今回入手した児玉達雄旧蔵の『詩稿』10号ですが、修正や追補、批評など、たくさんの書き込みがありました。
▲『詩稿』10号の投稿者
『詩稿』10号の目玉は、児玉達雄の詩論「詩的質量」55枚で、児玉達雄の詩4編も加えて、井上岩夫も「後記」で書いていますが、「児玉達雄特集号」になっています。
▲『詩稿』10号の1ページ(児玉達雄旧蔵本)
児玉達雄は、自身の作品に、赤ペンで修正を書き込んでいます。
▲『詩稿』10号の14~15ページ(児玉達雄旧蔵本)
児玉達雄は、右ページの井上岩夫の作品の感想・批評を赤ペンで書き込むと同時に、自身の詩論「詩的質量――現代詩学序説」の冒頭に、「幸福なるかな、悲しむ者。――マタイ伝第五章」というエピグラフを加えています。
▲『詩稿』10号の28ページ(児玉達雄旧蔵本)
将来の改訂にそなえてでしょうか、引用する詩として田中冬二「山鴫」、村野四郎「鹿」に加えて、村次郎「彷徨」を加えるよう指示しています。
▲『詩稿』10号(児玉達雄旧蔵本)にはさまれていた詩論の原稿
児玉達雄旧蔵の『詩稿』第10号には、書き込みだけでなく、詩論の原稿の一部が挟み込まれていました。
原稿の番号は、30から45まで。『詩稿』第10号に収録された「詩的質量」のものではありませんが、吉岡実の詩集『僧侶』(1958年)などに言及した興味深い原稿です。
▲圓子哲雄編『村 次郎先生のお話(文学篇)』(1999年、朔社)(児玉達雄旧蔵本)
『詩稿』第10号に収録された「詩的質量」の28ページで、児玉達雄は、村次郎の詩を挿入したいと書き込んでいましたが、今回、古本屋さんで分けていただいた児玉達雄旧蔵本の中には、青森県八戸の詩人、村 次郎(1916~1997)関連の本も含まれていました。
八戸で詩誌『朔』を主宰する圓子哲雄が、村 次郎からの聞き書きをまとめた『村 次郎先生のお話(文学篇)』で、村 次郎が児玉達雄について語っていて、児玉達雄がどんな人物か知る手がかりになります。その部分を引用します。
児玉達雄
詩もうまいが、評論の方がもっとうまい。京大の哲学科時代、同室に三人がいて、俺のファンの一人が自殺したのに大分ショックを受け、それから俺に手紙を寄越して友人となった。俺もショックを受けた。彼の友人の自殺の原因を聞いて、もう一人の同室の友人が高橋和巳で、彼は俺の詩を「四季」で読んで、好きだと云っていたという。俺えの評論「『風の歌』の方へ」は、あれは村 次郎の方法論だ。俺の方法論は画期的だと自分でも思うが、彼も一つの方法論をしっかり持っている人だ。彼とは戦後からの付き合いだが、彼は作品を批評しているのではなく、現実を批評しているのだ。「風の歌」や「鴎の歌」の中の「お前」を追求せねばならないと、そのような「お前」に目をつけたのは嬉しい。「お前」の解説は非常によくやってくれた。俺は誰が一番最初に気がつくかと思っていた。詩人であり評論家である人からの批評は最も聞きたいのだ。彼の村論は村 次郎の内部に入って来ている。他の人は外部の情景だけに逃げている。彼の批評には俺の作品を超えるものがある。彼の「パリ記、プレザント」はしっかりしている。彼と圓子君の論理は似ている所がある。彼の作品評は仲々手厳しいからな。今度の「解纜」(註。鹿児島から出ている詩誌)の解説はいいな。児玉さんが千葉に暫く居たのはマイナスではなかっただろうか。彼から時折りリルケに対する意見を言はれているが、リルケには、それは確かに風景は有るが、俺はそれ程好きになれない。反って圓子君の方が適っていると思うな。カフカは最も好きだし、ヴァレリー、プルーストも好いな。カフカの本は兵隊に行く時持参し、よく読んだ。境遇もよく似ているんだ。「審判」なんか最後の外国文学と思って読んだ。児玉さんが「俺と圓子君との対話」を「朔」に書けと言っているようだが、駄目だよ。俺は現役でないから。物を書いている時には目付きから違うんだよ。人間には変わりないかも知れないけど、兎に角、書いていたり、書けなくなったり、山を歩いている時でも詩のことの他何も考えない、そのようなときでないと駄目だよ。しかし「石田 實との対話」ならよいよ。中身は大したことは無いと言っても、裏腹のこと、白を黒とは喋言っていないが、俺にはもうかっての、一発を食わせるようなものは無いからな。現役時代はいつも考えているものなのだ。他から省り見られないものの生き方をしている間は、児玉さんには答は掛書けないな。プルーストは恐れ多い人物、大作家で、ああいう人だったとは思わなかった。ブランショは好い批評家だな。今はガリッと七転八倒して読んでいないから。児玉さんが詩は言語の使用法が違う、言語が表現すると言っているのはいい。言語で表現するのは対象があってするから散文ならばいいと考えている所もいい。対象はあくまでも俺であり人間なんだから。
村 次郎と圓子哲雄の会話から書き起こされた聞書なので、話題が跳んで話の脈絡が分かりにくいところもありますが、村 次郎が児玉達雄という書き手を買っていたことは分かります。
「パリ記、プレザント」には、「?」という児玉達雄の書き込みがありました。児玉達雄の作品でなく、村の勘違いなのかもしれません。
「石田 實」は村 次郎の本名です。
ここで言及されている、児玉達雄の村 次郎論「『風の歌』の方へ」が、どこで発表されたものか、わかりません。
ご教授いただければ、ありがたいです。
▲圓子哲雄編『村 次郎先生のお話(文学篇)』(1999年、朔社)の127ページ書き込み(児玉達雄旧蔵本)
村 次郎の児玉達雄についての発言について、児玉達雄本人が、その冒頭部分を「さっぱり不明」と書き込んでいます。さらに「(村 次郎は)高橋たか子にあっているから、たかこがいったのか?」と付け加えています。
どこが「さっぱり不明」だったのか、ご本人から聞いてみたかったものです。
処分されたと思われる児玉氏の蔵書には、鹿児島の戦後の詩の世界を見渡せるような、詩の雑誌・同人誌・詩集の膨大なコレクションがあったのではないかと推測されます。
去年の暮れに、知られないまま、その大半が消えてしまったと思うと、時間を巻き戻したい気持ちになります。
ところで、ネットの世界では存在しないも同然の児玉達雄氏ですが、 調べていて、意外なところで名前を残していることに気づきました。
京都大学柔道部のアンセムとなって、今も歌い継がれている「京都大学柔道部遠征歌」という歌があるですが、 その作詞者が、児玉達雄でした。少なくとも京都大学柔道部が存続する限り、児玉達雄の名前を記憶する人はいそうです。
今回からしばらく、縁あって手もとにある児玉達雄旧蔵本について、書いていきたいと考えています。
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257. 1967年の『詩と批評』11月号(2019年2月21日)
古本屋さんで、古い雑誌を手にするのが好きです。
古い雑誌を手に取ると、時代という巨魚から引きはがされた鱗片を、ためすすがめつして見ているような気持ちになります。
写真は、昭森社の森谷均(1897~1969)が最晩年に出していた詩誌『詩と批評』の1967年11月号。
1巻1号(1966年5月)から3巻12号(1968年12月)まで出た雑誌です。
表紙絵は野中ユリ。
小田久郎の『戦後詩壇私史』(1995年、新潮社)では、森谷均編集兼発行の『本の手帖』は高く評価する一方、同じく森谷均編集兼発行の『詩と批評』は、問題意識の希薄な、ごく当たりまえの中央主義と敬老主義の見えるだけの雑誌とこきおろされていました。
「詩と批評」ということばは、詩の雑誌の副題によく使われますが、それを誌名にした『詩と批評』が1968年12月で終刊になった翌年、1969年、青土社から『ユリイカ 詩と批評』が創刊されます。
伊達得夫(1920~1961)の『ユリイカ』(1956~1961、書肆ユリイカ)と森谷均の『詩と批評』(1966~1968)を引き継いだ誌名だったのかなと思ったりします。
『詩と批評』1967年11月号の目次をみると、莊原照子の名前がありました。
▲『詩と批評』1967年11月号の目次
昨年亡くなった入沢康夫と菅谷規矩雄の間に莊原照子の名前があります。
▲『詩と批評』1967年11月号掲載の莊原照子の詩「バルハンの朝の禱歌」冒頭
「バルハン(barchan)」は聞き慣れないことばですが、三日月型の風紋ができる砂丘のことです。
莊原照子については、「第188回 1936年の『木香通信』6月号(2016年9月26日)」でも少し取り上げましたが、戦後、消息が分からなくなって、病死したとも思われていました。
それが、1967年8月の毎日新聞に「不死鳥の女流詩人 莊原照子は生きていた」という、莊原照子が鳥取で暮らしているという記事がでて、それにすぐ反応する形での原稿依頼だったのでしょう。
昭森社は、1936年、秋朱之介(1903~1997)の編集・装幀で、莊原照子の唯一の詩集『マルスの薔薇』を出した版元です。いろいろ問題のあった出版だったので、莊原照子には借りがあると感じていたのかもしれません。
この作品依頼のすばやさは、「敬老主義」と批判されようが、見習うべきです。
莊原照子の「バルハンの朝の禱歌」は「だからわたしは もいちど歌わねばならなかった」という、強いことばで終わっています。
〉〉〉今日のお酒〈〈〈
去年の暮れ、友人が日本酒を贈ってくれました。
「可惜夜(atarayo)」という、艶っぽい名前のお酒です。
▲2018年『可惜夜』(菊正宗)ラベル
ラベルには、北野恒富(1880~1947)が大正4年(1915)、菊正宗のために描いた美人画が使われています。
うちは鹿児島なので、日本酒はまず飲みません。どうしようかと眺めるだけでしたが、弟が帰省したので、あけることにしました。
このお酒のあてには何がいいのか、全く見当が付かないのですが、錦江湾の魚の刺身、ひらめ、たい、カンパチなどを用意します。
今の時期のひらめの刺身は、抜群です。
弟が、今、大河ドラマの『いだてん』に出ている嘉納治五郎(1860~1938)は、菊正宗の一族だよなと蘊蓄を述べます。
さて、『可惜夜』の封を切ります。
乾杯して、香りをかぎ、口にふくんで、兄弟して、顔を見合わせます。
これは、女性を口説くためのお酒だな。
野郎二人が酌み交わすには、もったいない酒だな、と笑いだしてしまいます。
この、ちょっと鈍重な甘さは、刺身などのあてを必要としない、お酒だけで成り立つ世界。
ほんとうに「色恋」のような、いいお酒でした。
ラベルの北野恒富の絵のような、かいらしさもあるのですが、甲斐庄楠音(1894~1978)が描く女性たちの姿も見え隠れしている――そんな印象を持ちました。
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256. 1934年の秋朱之介の裳鳥会刊『棟方志功画集』広告(2019年2月7日)
前回の有海久門『人生を行く』で、昭和9年(1934)に秋朱之介(西谷操、1903~1997)と棟方志功(1903~1975)が蜜月のような状態にあったと書きましたが、今回はその、秋朱之介と棟方志功が密接な関係にあった昭和9年(1934)を、当時の雑誌の記事をもとに振り返ってみたいと思います。
冒頭に掲げた「裳鳥会刊 棟方志功画集 刊行縁起」の広告は、秋朱之介が三笠書房をやめたあとに創刊した書物雑誌『書物倶楽部』第1号(1934年10月)と第2号(1934年11月)に掲載された、4ページにわたる広告をつなげたものです。今回の『書物倶楽部』からの図版やテキストは、『書物関係雑誌叢書』第20巻(1993年、ゆまに書房)収録の「書物倶楽部」復刻版のものを使っています。
この刊行縁起は、一目惚れで感情が高ぶっている男が書いた、一種の恋文です。
『書物倶楽部』に掲載されただけでなく、実際に、こういう一枚物のパンフレットも配布されたのではないかと思います。
ちなみに、『棟方志功全集 第12巻 雑華の柵』(1979年11月30日第一刷発行、講談社)に収録された、精細な年譜「棟方暦」の昭和9年(1934)の項では、
7月 版画荘及び三笠書店(ママ)より版画集を出す企画があり、作品制作の毎日を過す。
とだけしか書かれておらず、昭和9年(1934)、秋朱之介という存在が、棟方志功に深く関わっていたことは微塵も感じることはできません。
昭和9年(1934)の、秋朱之介の熱烈な「棟方志功」推しぶりを、まずは、この「裳鳥会刊 棟方志功画集 刊行縁起」テキスト全編で感じ取ってほしいです。誤植と思われる個所の多い文章ですので読みにくいとは思いますが、その意気込みだけでもくみ取ってほしいです。
裳鳥會刊 棟方志功畫集 刊行緣起
「私の繪畫は(主として油繪に於いて)何々的とか、何々ズムか、世に謂はれる性質の物では無い。私は、繪畫性質への完全把握を、私の繪畫道への信念としてゐる。私の繪畫には繪畫以外な餘念を絶對に不必要とする。繪畫は繪畫精神、丈けに依る繪畫即ち繪畫で有るべき事を宣言する。繪畫は色彩の連絡に依る巾の藝術、所謂、平面こそ繪畫の領分なのだ。永遠に續く平面からなる「巾」の藝術、繪畫ある事を私は新らたに、見、新らためた。平面に布せられたる他の餘地、いらない藝術、それは、眞の繪畫である事だ。私は私の全精力の永遠を願がつて此の仕事に冒頭する」
棟方志功畫伯、第三回個人展覧會が、神田、東京堂、樓上に開催されて、招待狀に接し乍らも、未知だつた私は、右の言葉を最初のあいさつとされた畫伯を知つた。
繪畫に對する、最も純眞な、最も正確な指適を、明らかにせる、此の言葉と言ふよりも宜言が、未だ世界のどの畫家中にも爲されずに、たゞ天下、棟方志功畫伯に依つて宣言せられた。
繪畫史上、未だしたゝめられ無かつた、此の最初の一行なる、黄金活字は、棟方畫伯に依つて記述せられ得たかの、偉大な完成を私は知つたのであつた。
「自然を鞭韃してゐる」と或る評者の言はれたとあった、數多くの「温室」の繪は、前述の畫伯の言葉通りな、繪畫の純眞を解いて、自然美への抗議となるべきの繪畫美の世界を創り、そこには全繪畫性への恐ろしい程の畫伯の描道本能が如實に表現されて物を餘す事なく、出來されて居た。
棟方志功畫伯は、帝展出品、作家中の異才豪放な作意の人として有名、その直情からなる、色彩感覺は啻に棟方畫伯あるのみとされ、嚴粛な繪畫精神に基づく自然への追求は、新らたなる美の世界を畫伯に依つて完全に把握されるとしても過言ではないであろう。
此の仕事は、リアリズムから可成り遠い世界へ入つてゐると云ふ氣がした、殊に「温室」を描いたものには「創造の意思」と言ふ様なものに貫かれてゐて、自然はその意思を強き鞭を揮ふ御者として現れてゐて――ぢつと繪を見てゐると「こいつは自然を鞭韃してゐる」
此んな大きな批評を受けた繪畫がどの世界にあつた事か、開闢以来、私は知らない。前の評者がさう云つた樣に、新らたなる、創造意思に立つて鞭を振りかぶつた、棟方畫伯の信念は正しく偉大な畫業の創じまりとして差支えない。
日本にもこんな、創意の強い立派な畫家が居るのかと思ふと實に私は喜こび躍つた。私の見た油繪の多くは(個展會場にての)、いや總てといつていゝ程それは同じ様な「温室」の繪ばかりだつた。私は展覧會場にはいるが早いか、不意に棟方といふ人に頭をいやといふ程どやしつけられたやうな驚きを感じた。そして髪の毛を引きづられ乍らその同じ「温室」の繪の前を歩るかせて居られる樣な気がした。私はその時、おそるべき畫家だと思つた。そして、これこそ、私のすべてを投じても刊行して多くの人々に紹介すべき作品だと思つた。
私は已むにやまれぬ欲求によつて棟方畫伯の畫集を刊行する事を發表した。全々賣る事や製作の費用など考へずに、私は此の畫集を刊行せねばならなぬ義務がある様に感じられてならなかつた。さうして他の出版物は全部中止しても之丈けは完成せねばならぬといつた大きな責任を感じた。
私は此の大畫集を刊行することを決心したのである。
棟方畫伯も亦、自分の生涯への贈物なる此の大畫集の作品の自選とその製作に對して献身努力する事を約束して下ださつた。折角、此の上に諸氏の協賛が得られるならば之れまた望外の幸甚と云はねばならぬ。
裳鳥會 秋朱之介
棟方志功畫集
一、體裁天地二尺五寸位、横二尺一寸位
二、装釘、背皮、平板に棟方氏自身で彫刻したるもの、着色
三、畫数、約二十點、手彩色數點 巴里で開かれた現代日本版畫展へ出品され金碑を得られ、プチ・パレ館長に「高雅繊細な描出」と激賞された、數點を含む。
四、部數限定五十部
五、定價壹百圓「拂込方法、五十圓宛二回拂込、二十五圓宛四回拂込、または一時拂金額着金を侯つて出來次第送附す」
六、申込、裳鳥會「振替東京三〇七六〇番」
「裳鳥会刊 棟方志功画集 刊行縁起」から、少し、時間をさかのぼります。
昭和9年(1934)のはじめ、秋朱之介は、前年の秋に創業したばかりの三笠書房の編集者・装釘者として、次々と刊行される三笠書房の単行本の編集・装釘をし、昭和8年(1933)10月に創刊された書物に関する月刊誌『書物』の 編集長をつとめ、また、日本限定版倶楽部を設立して、その限定本も制作するなど、本づくりが好きとはいえ、多忙な状態にありました。
そんななか、昭和9年(1934)のはじめ、秋朱之介は、日本限定版倶楽部とは別に、「裳鳥会(しょうちょうかい)」という、堀口大學の本をつくるための限定版倶楽部を、新たに立ち上げます。
■1934年2月1日発行の『書物』花月号(三笠書房)に「裳鳥会」の最初の広告記事
▲『書物』花月号(1934年2月1日発行、三笠書房)に掲載された「裳鳥会」の最初の広告記事
この文章の一人称は「妾」となっていて、三笠書房の名義上の編輯兼發售印刷人であった竹内富子が書いている形になっていますが、間違いなく秋朱之介が書いています。
竹内富子は、名前を表に出せないけれど、実質上の三笠書房の社長であった竹内道之助の夫人です。竹内富子の実家は、三笠書房の印刷をしている堀内印刷所で、のちに、堀内印刷所の堀内文治郎は、昭和15年(1940)、二見書房を創業します。
日本限定版倶楽部の住所は、三笠書房と同じ「東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九」でしたが、裳鳥会の住所は「東京市牛込區早稻田町六〇瀧上内」となっていて、これは当時の秋朱之介(西谷操)個人の住所だと思われます。
秋朱之介は、この裳鳥会から棟方志功の画集・版画集を出そうと試みることになります。
■1934年2月1日発行 アルチユウル・ラムボオ 堀口大學譯『醉ひどれ船』(日本限定版倶楽部) 装釘・秋朱之介
■1934年2月20日発行 ポオル・ジユラルディ 西尾幹子訳・佐藤春夫序『お前と私』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年2月20日発行 大内秀麿『白月歌集』(三笠書房) 装幀・秋朱之介
■1934年3月1日発行の『書物』桐月号(三笠書房)にも「裳鳥会」の広告記事
▲『書物』桐月号(1934年3月1日発行、三笠書房)に掲載された「裳鳥会」の広告記事
これらの文章を書いているのも秋朱之介と思われます。この号以降、「裳鳥会」の記事は、『書物』誌に掲載されなくなります。秋朱之介の個人的活動の色が強かったからかもしれません。
裳鳥会の会報『裳鳥』はまだ見たことがありません。見てみたい冊子のひとつです。
「裳鳥」という名前は、「裳(も)」「鳥(と)」から、名付けられています。「モト子」は、当時の秋朱之介の恋人で、後の夫人の名前です。『裳鳥』の内容にある「瀧上裳鳥子」が何を意味するのか気になっています。
■1934年3月18日 堀口大學、同夫人、岩佐東一郎、城左門、菱山修三、秋朱之介らで、水戸から大洗へ小旅行。
■1934年3月20日発行 片岡良一『現代作家論叢』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年4月5日発行 城左門『槿花戯書』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年4月20日発行 アントン・チエーホフ 梅田寛譯『可愛い人』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年4月20日発行 ゲエテ 中島清譯『ヸルヘルム・マイステル 遍歴時代』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年5月1日発行『書物』蒲月号(三笠書房)に「棟方志功版畫頒布会」の広告記事
▲『書物』蒲月号(1934年5月1日発行、三笠書房)に掲載された「棟方志功版畫頒布会」の広告記事
秋朱之介がどういう経緯で、棟方志功と知り合ったかはっきりと分かっていませんが、『書物』誌に、棟方志功の版画頒布会の企画者として告知を出しています。すでに相当惚れこんで、入れ込んでいます。
1934年10月の「裳鳥会刊 棟方志功画集 刊行縁起」では、5月に開催された棟方志功第三回個人展覧会の衝撃を語っていますが、この広告が掲載されたのは、5月1日発行の雑誌なので、秋朱之介は4月以前にはすでに棟方志功を知っており、絵を依頼できる關係だったと考えられます。
棟方志功氏は日本版畫協會の會員として、その異色ある作風は夙に識者の認むるところである。最近では、パリに開かれた日本現代版畫展に出品して、かの地の美術批評家として名ある文學者エスコリエ氏(プチ・パレ館長)によつて、「高雅繊巧な描出」を激賞された。
棟方氏はロマンチツクな作風から出發して、今日ではレアリステイツクな方向へ進みつつある。同氏は操守あまりにも嚴にして、つねに版畫の美點ともいふべき「同一作品の共有」をすら顧みずに精進をつづけ、一枚乃至二枚の手摺を殘して版木を一刀のもとに兩斷することも屢々である。私たちは、あまりにも愛惜すべき作品の埋もれることをおそれ、こゝに同氏に懇請して、その作品の頒布を快諾して貰ふことゝなった。諸氏の協賛を得れば幸甚の至りである。 秋朱之介述
規定
版種 創作版畫(木版)
題材 風景・動物・植物・人物・靜物(申込の際希望のものを記入のこと)
會費 A十圓(約菊倍版)B五圓(約菊版)C二圓(約四六版)
(申込と同時に拂込のこと)
口數 A…五口 B…十口 C…十五口
送料 當方にて負擔す。
発送 申込を受けし日より二週間以内。
申込所 東京市淀橋區戸塚町一ノ四四九 三笠書房内 棟方志功版畫頒布會
▲『書物』蒲月号(1934年5月1日発行、三笠書房)の表紙は、小村雪岱の絵を岩田泰治が木版にしたもの
■1934年5月15日~5月17日 東京神田の東京堂画廊で、「棟方志功第三回個人展覧会」を開催。
■1934年5月20日発行 内田百閒『續百鬼園隨筆』(三笠書房) 装釘・秋朱之介 口絵・谷中安規
■1934年6月10日発行 有海久門『人生を行く』(文藝汎論社) 装釘・秋朱之介
装画に棟方志功作と思われる版画が使われています。
■1934年6月10日発行 ルミイ・ド・グウルモン 堀口大學譯『田園詩 シモオヌ』(裳鳥會) 装釘・秋朱之介
■1934年6月25日発行 内田百閒『百鬼園俳句帖』(三笠書房) 装釘・秋朱之介
■1934年7月 ルミイ・ド・グウルモン 堀口大學譯『彼女には肉體がある』(裳鳥会) 装釘・秋朱之介
■1934年7月1日発行『書物』七月号(三笠書房)に「棟方志功版畫頒布会」の広告記事再掲
▲『書物』七月号(1934年7月1日発行、三笠書房)に、蒲月号と同文面の「棟方志功版畫頒布会」の広告記事
残念ながら、「諸氏の協賛」は得られなかったようです。
1934年7月1日発行『書物』七月号では、三笠書房の住所は、「東京市牛込區戸塚町一ノ四四九」
■1934年8月1日発行『書物』八月号では、三笠書房の住所は、「東京市神田區三崎町二ノ二二」
三笠書房の事務所移転も、秋朱之介が三笠書房をやめる要因の1つだったのかもしれません。
■1934年8月5日発行 『西山文雄遺稿集』(文藝汎論社) 秋朱之介装釘。
■1934年8月15日発行 大内白月『支那随筆 魚目集』(三笠書房) 装幀・秋朱之介
刊行月日ははっきりしませんが、1934年には、秋朱之介は、ほかにも、次の本の装釘をしています。
・レオン・ピエール・カン 吉村道夫・小田善一譯『ジイド研究』(三笠書房)
・レフ・シェストフ 本寺黎二・安土礼二郎・福島豊譯『無からの創造』(三笠書房)
・秦豊吉『僕の弥次喜多』(三笠書房)
・フェッグ・マーレー 小野金二郎譯編『柊林を描く』(三笠書房)
・アンドレ・ジイド 淀野隆三譯・辰野隆序『モンテェニュ論』(日本限定版倶楽部、三笠書房)
■1934年9月1日発行の『書物』9月号(三笠書房)で、『書物』誌は廃刊となる。
秋朱之介は、三笠書房を離れ、秋朱之介の企画であった日本限定版倶楽部を続けるつもりでいたようですが、三笠書房は日本限定版倶楽部の名簿を譲らず、秋朱之介は個人で裳鳥会だけを続けることになります。
■1934年9月1日発行 『文藝汎論』第4巻9号(文藝汎論社、編輯兼發行者・岩佐東一郎)に、秋朱之介は「カイエ(装釘について)」を寄稿。
その文中で、裳鳥会の住所を「牛込區早稻田六〇」と記載。
■1934年9月15日発行 水原秋櫻子『定型俳句陣』(龍星閣) 装釘・秋朱之介
■1934年9月20日発行 堀口大學『ヴェニュス生誕』(裳鳥会)
本冊装画・佐野繁次郎
別冊圖譜・棟方志功
■1934年10月5日発行 秋朱之介は編輯兼発行人として、裳鳥会から、書物誌『書物倶楽部』を創刊。
4ページにわたる「裳鳥会刊 棟方志功画集 刊行縁起」を掲載。
急あつらえだったためか、『書物倶楽部』は、誤植の多い雑誌です。
▲『書物倶楽部』第1号(1934年10月、裳鳥会)目次
このメンバーが、編集兼発行人の秋朱之介が、書物雑誌を急あつらえして創刊するとなったとき、集めることができたメンバー。
カット(目次では「トカツ」と誤植)は棟方志功。表紙は芹澤銈介 。
棟方志功は、「蔵書票とその意義に就て」という文章も寄稿。
この号には、裳鳥会の会員名簿も掲載されてます。前払い制の限定版配布組織の維持のためには、日本限定版倶楽部同様300名の会員がほしいところですが、100名の名前しかありません。裳鳥会限定版倶楽部の会員には、禿徹、南江二郎、蕪木淳、山内義雄、鈴木梅子、齋藤昌三、三浦逸雄、長谷川巳之吉、中山省三郎、城左門、村上菊一郎、岩佐東一郎、堀口大學といったなじみのある名前のほかに、有海久門の名前もありました。
▲『書物倶楽部』第1号(1934年10月、裳鳥会) 掲載の棟方志功蔵書票の広告
裳鳥会では、棟方志功作の蔵書票制作の仲介もしています。
裳鳥会の住所が、「牛込區早稻田六〇」から「淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート」に変わっています。
▲『書物倶楽部』第1号(1934年10月、裳鳥会)掲載の堀口大學詩集『ヴェニュス生誕』(裳鳥会)の広告
秋朱之介にとって、詩の父である堀口大學と、自分が今いちばん推していて世に出さなければと思っている画家・棟方志功とを結びつける夢のような企画でしたが、堀口大學が棟方志功の画風を嫌ったために、企画としては失敗に終わり、裳鳥会を短命に終わらせることになった詩集です。
堀口大學の装画の好みから想像すると、長谷川潔がいちばんよくて、川上澄生であれば許容範囲、棟方志功は外道だったのではないかと思います。棟方志功に夢中だった1934年の秋朱之介には、師の絵心が見えなかったようです。
【2019年2月18日追記】
縁あって、青森県八戸の詩人、村 次郎(1916~1997)関連の本が、手もとに何冊かあります。
文学放談として読んでも、めっぽう面白い、圓子哲雄編『村 次郎先生のお話(文学篇)』(1999年10月1日初版1刷、朔社)で、堀口大學の詩集『ヴェニュス生誕』のことを語っていて、昭和10年代に、確かな魅力を放っていた本だったことの証言になっています。
堀口大学とは一度逢ったことがある。第一書房の社長の息子の長谷川とは仲間だったので、彼の家に行くと、大学様が来ていた。当時俺は堀口何者ぞと言うのがあったから、先生扱いせず失礼なことをしてしまった。(中略)棟方志功装幀の本があって、その装幀に惚れて買おうとしたら堀口大学の本だし、五十銭だったから。それで買わなかったが、装幀が気に入って何回も古書店に通った。限定本で、表紙は手摺りとかで高価だった。とうとう買わなかったのは今でも残念。今では古書価格でも、相当してると思う。その頃、苦学生でもあったしな。
そして堀口大学様の詩集の装幀が棟方さんだったのを知らなくて、その装画が余り良くて、手刷りで、あれは今は貴重本だよ。当時二十円、五十銭だったか忘れたが、俺は苦学生だったから、それに大学様は先輩だし、絵が良くて買ったと言われても名折れだし、それで何回もその古本屋へ行く、五十部限定だったかな。とうとう買わなかった。当時は堀口大学だなんてと思っていた頃だから、でも絵だけにはのぼせていた。和紙を折っている本だった。
五十部の特装本のことだと思いますから、「五十銭」とあるのは、「五十円」かもしれません。
堀口大學が棟方志功を嫌ったので、棟方志功がかかわった唯一の堀口大學本は、『ヴェニュス生誕』だけです。堀口の詩でなく、棟方の絵にひかれて何度も本屋に通った慶應ボーイがいたことを知ったら、秋朱之介も喜んだのではないかと思います。
▲『書物倶楽部』第1号(1934年10月、裳鳥会)奥付
「淀橋區角筈一ノ一」にあるエルテル・アパートは、現在の新宿の一等地にあったのではないかと思われます。
資金力に富んでいるとはいえない秋朱之介にとって、その家賃だけでも大変だったのではないでしょうか。
このときは紀伊國屋書店と組んでいます。
■1934年10月30日発行 山口青邨『花のある隨筆』(龍星閣) 装釘・秋朱之介
■1934年11月25日 秋朱之介は編輯兼発行人として、裳鳥会から、書物誌『書物倶楽部』第2号を刊行。
▲『書物倶楽部』第2号(1934年11月、裳鳥会)目次
カットは棟方志功。表紙は芹澤銈介 。
棟方志功は、「浮世繪時代と新版畫への道程」という文章も寄稿。
秋朱之介が横浜で居候したやぽんな書房の五十澤二郎も寄稿。棟方志功は五十澤二郎の本の装幀もしています。
『書物倶楽部』は、この第2号で終刊となります。
▲『書物倶楽部』第2号(1934年11月、裳鳥会)掲載の「棟方志功畫室建設後援頒布會」広告
棟方志功の画室建設まで援助しようという企画です。
しかし、援助は集まらなかったようです。
▲『書物倶楽部』第2号(1934年11月、裳鳥会)掲載の棟方志功版畫集・手彩色畫集『季節の花籠』広告
『季節の花籠』のために、棟方志功の作品は準備され、見本もつくられましたが、この画集は刊行されることはありませんでした。
『書物游記』(1988年、書肆ひやね)収録の荻生孝「秋朱之介とその時代」には、「未刊本『季節の花籠』の出現」という章があり、未刊本の『季節の花籠』が古書市場に出現し、「知人のM氏」が入手したエピソードが書かれています。
「M氏」は峯村幸造氏。富岡多恵子の『壺中庵異聞』(1974年)の登場人物のモデルだった人です。
その一度現れた未刊本『季節の花籠』は、また行方が分からなくなっています。
■1935年2月20日発行 マリイ・ロオランサン 堀口大學訳『動物小詩集』(裳鳥会)を最後に、裳鳥会は閉じられます。
後に、この『動物小詩集』の紙型を使って、秋朱之介は、昭森社版の『マリイ・ロオランサン詩画集』(1936年6月1日発行)をつくることになります。
1934年、多忙を極めていた秋朱之介は、1935年には、出版に関わった形跡がうすく、その足跡をたどることも難しくなってしまいます。
【2019年2月11日追記】
多忙状態から一気に仕事がなくなる、そういう時期に、『書窓』誌(編輯・恩地孝四郎)への定期的な原稿依頼や、堀内敬三『ヂンタ以來』(1935年1月20日発行)の装釘を依頼してきたアオイ書房の志茂太郎は、ほんとうに「いい人」だったのだろうなという気がします。
■1935年10月10日発行 『書窓』7 第2巻第1号(アオイ書房、編輯・恩地孝四郎、發行・志茂太郎)に、秋朱之介による堀口大學の隨筆集『季節と詩心』(1934年8月、第一書房)の書評掲載。そのなかで「今日私は新宿のアパートの屋上に立つて澄みきつた武藏野の果を眺めてゐた。」という記述。
堀口大學の『季節と詩心』が刊行された8月ごろに書かれた文章と思われるので、この「新宿のアパート」が裳鳥会のあったエルテルアパートかどうかは分かりませんが、1935年8月は、まだ新宿ともつながっていたようです。
■1935年11月10日発行 『書窓』8 第2巻第2号(アオイ書房)に秋朱之介「秋風調」掲載。その文中に、「堀口大學先生より葉書くる。ひまな時に一度やつて來給へ。僕も君に會ひたくなつた、と認めてある。」とあり、このころ、裳鳥会で棟方志功と堀口大學を結びつけようして失敗したことなどへの、堀口大學からの「お許し」がでたのではないかと推測されます。
このころには、秋朱之介は、「京橋區銀座二ノ四」に、拠点を移していたようです。
■1936年1月16日発行 『書窓』10 第2巻第4号(アオイ書房)に、秋朱之介「木枯の街」掲載。この文章では、「人生の投機」といえた裳鳥会の失敗のあとの、落ち込んで捨てばちになった気持ちと暮らしぶりを書いています。
一、木枯の街
白骨のやうな街路樹が並んで街はさびしい。アスファルトが黑く凍つて、冬空の星は金のびやう、ではない、それは刺客の短劍のやうに冷たくするどい光りをはなつてゐる。人生の敗殘者が白鳥の歌を演ずるにはもつてこいの舞台だ。そこで私はマントを、いや私はマントをもつてゐない。ほころびた羽織を骸骨の杖に引つかけて演技をはじめる―秋よ、と、人生の投機はどうだつたかね。いけない、こんな調子ぢやお客さんは拍手してくれやしない。かうして胸をはつて、ドンキホーテのやうに、出版界の情勢はとやるか。あゝだめだなあ、私にはもう力もない、夢もない、大きくふくらむ肺臓も、なつかしい友達も戀も地位も名誉も失つて了つた。今こゝに立つてゐるのは、小さなあまりにも小さな人間の影だ。人間、宇宙に對して何と小さな存在だ、その人間が一體この世で、これまで何をなし得たか、おゝ輝かしい人生、偉大な人格、名誉も、其等の何とはかなきことよ、うつろなことよ、大笑ひだ、私は詩を作つた。それは人の心を、自分の心をやさしくしてくれた。しかし一文にもならなかつた。私は空腹だつた。私は愛した、私は花を愛した。花を、花を愛することの出來る人を私は尊敬する。私が一番愛した花はあの温室咲きのベゴニアだつた。私はここ數ヶ月その好きな花さへ買へなかつた。私はある貧しい女達から小使ひを惠まれて、莨を買ひ、映畫など見せてもらつてこのなつかしい秋から初冬を過して來た。私は彼女たちのために、彼女達の名入りの美しい詩を作らうと思つた。詩を、しかし私はしなびる、サフランの樣に、劇藥をあふらうと云つてくれたやさしい看護婦もあつたつけ、人生、それは皆さんが思つておいでの樣に重要な價値のあるものでない。人生、それは株券の樣なものぢやないか。――
なあんだ、お客さまは一人もゐないのか。街路樹の白骨が兩手をひろげて伴奏をしてくれる。木枯の曲を、あゝこれは名曲だ、すばらしい、ドビュッシーなぞ足元へもよりつけないぞ、子供が夜泣きしてゐるな、不幸な奴め、これから、意味ない苦しい人生のスタートをしようといふ奴か、私はさようならだ。
堀口大學と棟方志功を結びつけて本をつくるという企画が実を結ぶことなく、「私はさようならだ」と、すさんだ気持ちでいるところへ、森谷均(1897~1969)が訪ねてきて、銀座で新しい出版社、昭森社を起こす手伝いをすることになり、秋朱之介も息を吹き返したようです。
『本の手帖』別冊・森谷均追悼文集(1970年、昭森社)によれば、森谷均が「銀座二ノ四」に昭森社の事務所を構えたのは、1935年10月のこととあるので、それ以前に、秋朱之介は新宿から銀座に移っていたのではないかと考えられます。
■昭和11年(1936年)、棟方志功は、佐藤一英(1899~1979)の詩「大和し美し」をもとにした連作が、「民藝」の柳宗悦(1889~1961)、河井寛次郎(1890~1966)らに高く評価され、版画(板画)家の代名詞的存在になっていきます。その後の、いわば出世話に秋朱之介が関わることはありませんでした。
秋朱之介の力不足といえば、それまでですが、棟方志功の伝記で、秋朱之介の存在が無視され、語られることがないのは、なんだかな、という気持ちになります。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
大きくぶっぱなしたにもかかわらず、尻すぼみ終わった話ということで、
Portsmouth Sinfoniaの『Plays The Popular Classics』(1973年)から「 "Also Sprach Zarathustra" Op. 31 (Excerpt) 」を。
楽器を弾けようが弾けまいが構わず入団できたイギリスのオーケストラのスタジオ録音盤。うまくなったら無理やり退団させられるという話もありましたが、それがほんとうかどうか、分かりません。
英Transatlantic Records盤が欲しかったのですが、このレコードを購入したころ、なかなか見つからない盤で、1974年に出たアメリカのColumbiaレーベルの見本盤が手ごろな値段だったので、それを入手しました。
ラジオ局用の見本盤なので、ジャケットに曲目シートが貼り込まれています。
でも、このポーツマス・シンフォニアのレコードに、メジャーレーベルのコロンビアのロゴがちゃんとついていること自体、ありえない話で、ほんとうに不思議です。
▲Portsmouth Sinfoniaの『Plays The Popular Classics』アメリカ盤ジャケット裏面
▲Portsmouth Sinfoniaの『Plays The Popular Classics』アメリカのColumbia盤ラベル Side 1
▲Portsmouth Sinfoniaの『Plays The Popular Classics』アメリカのColumbia盤ラベル Side 2
▲『The Transatlantic Story』(1998年、Essential Records)のジャケット
イギリスのTransatlantic Recordsのレーベル・コンピ。CD4枚組。
Portsmouth Sinfoniaの『Plays The Popular Classics』は、CDになる予定が聞かれないアルバムですが、このレーベル・コンピには、「William Tell Overture」 と「 "Also Sprach Zarathustra" Op. 31 (Excerpt) 」の2曲が収録されています。
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255. 1934年の有海久門詩集『人生を行く』(2019年2月6日)
今まで把握していなかった、秋朱之介(西谷操、1903~1997)装幀の詩集を見つけました。
奥付に、ちゃんと「装釘 秋朱之介」と記載されているので、単に今まで気付かなかっただけの話なのですが、それでも、今まで知らなかったものを見つけた喜びはあります。
昭和9年(1934)6月10日に、岩佐東一郎(1905~1974)と城左門(1904~1976)の文藝汎論社から刊行された有海久門の第一詩集『人生を行く』です。
序文は堀口大學(1892~1981)が書いており、その序文は、『堀口大學全集』第8巻(1986年、小沢書店)にも収録されています。
確言はできないですが、表紙の木版画は、棟方志功(1903~1975)の作品のようです。
1934年当時の雑誌を調べていて、見つけました。
本当は、雑誌の実物を手にとって、隅から隅まで調べたいのですが、戦前の雑誌を鹿児島で調べるのはなかなか難しく、岩佐東一郎と城左門の『文藝汎論』(文藝汎論社)、恩地孝四郎(1891~1955)と志茂太郎(1900~1980)の『書窓』(アオイ書房)、西川満の『愛書』(臺灣愛書會)といった雑誌に掲載された秋朱之介(西谷操)の文章を、国会図書館、日本近代文学館、神奈川近代文学館の郵送複写サービスを使って取り寄せてみました。
その中で、1934年9月発行の『文藝汎論』(文藝汎論社)第4巻9号に掲載された、秋朱之介「カイエ(装釘について)」で、自分の装釘作品として、見本となる6冊の本を挙げていました。その部分を引用します。
その装釘を見てやらうといふ親切な心がけの人がおありなら、左記の書物を見て批判して下さい。
1、文藝汎論社刊
有海久門著、二百部限定「人生を行く」詩集、一部一圓五十錢。
「西山文雄遺稿集」百五十部限定、二種類のうち特装局紙本一部五圓。
2、三笠書房刊
内田百閒著隨筆集「百鬼園隨筆」四、五版、一部二圓五十錢。
3、日本限定版倶樂部刊
堀口大學譯アルチュル・ラムボオ著「醉ひどれ船」百五十部限定、非賣。
4、以士帖印社刊
佐藤春夫詩集「魔女」別装本一部、蕪木淳氏所蔵本
5、裳鳥会(牛込區早稻田六〇)刊
堀口大學譯、ルミイ・ド・グウルモン著、詩集「シモオヌ」三百部限定、一部特に三圓。
以上何れも既刊。
内田百閒『百鬼園隨筆』(三笠書房)の第4版と第5版を挙げていることも注目されますが、 何より、一番目に挙げている、有海久門の『人生を行く』の存在に驚きました。
有海久門の『人生を行く』については、秋朱之介の基本文献である『書物游記』(1988年、書肆ひやね)の「書目一覧」に掲載されていません。
有海久門『人生を行く』の書名自体は、『書物游記』に収録されている「水無月襍記(書物十号)」のなかで言及されています。
しかし、秋朱之介が装釘した本、しかも自信作だとは把握されていなかったようです。
▲有海久門『人生を行く』(1934年、文藝汎論社)奥付
「装釘 秋朱之介」と奥付にあります。ただ箱の鳥の絵や表紙の樹木の絵をだれが描いたのかの記載はありません。
有海久門は、後に梅村久門と名のるようになり、堀口大學門下として生涯詩をつくりつづけた人です。
梅村久門の著書を参考に、略歴を紹介します。
明治35年(1902)6月6日 山形市生れ
小樽高商(現・小樽商科大)卒
小樽・神戸――英語教師
山形女子商高・米沢商高――校長
山形大学工業短期大学部講師。米沢文化懇話会初代会長・米沢児童文学協会会長。
1966年、米沢市から、神奈川県川崎市に移住して老後を過ごす。
1988年没。
詩歴――堀口大學門下
著書――有海久門名で
詩集・人生を行く(1934年、文芸汎論社)
英詩の研究(1938年、有朋堂)
詩集・百花譜(1939年、書物展望社)
詩集・六月の歌(1941年、鈴木崧)
梅村久門名で、
詩集・みちのくの雪(1949年、山形タイガー堂)
英詩教授法(1952年、開隆堂)
詩集・燃える雪(1962年、グループ・ピエレット)
写真詩集・雪に描く幻想(1962年、写真・山中三平、私家版)
詩集・黄昏心象(1966年、私家版)
詩集・鎮魂歌譜(1977年、木犀書房)
よねざわ豆本で、
米沢慕情(1972年、よねざわ豆本の会)
百花賦(1981年、よねざわ豆本の会)
続百花賦(1983年、よねざわ豆本の会)
英語教師として、校長として、詩人として、穏やかな人生を送られた方のようです。
没年を調べるのが難しかったですが、1988年に亡くなられたようです。
有海久門や梅村久門の名前では、生没年を記した資料がなかなか見つかりません。『人物レファレンス事典 郷土人物編』(2008年、日外アソシエーツ)に、山形の教育者で詩人の梅村久右衛門という人物の生没年が「1902~1988」とあり、堀口大學が梅村久門の詩集『鎮魂花賦』(1977年、木犀書房)の「序」〈『堀口大學全集 第8巻』(1986年、小澤書店)に収録〉で、「久右衛門」という名前のことも書き残していますので、梅村久右衛門=有海久門=梅村久門で間違いないと思います。その部分を引用します。
梅村久門君、君は最古の僕の門人のひとりだ。そして現存者としては唯一人、僕が君を大切にする所以だ。入門は君が小樽高等商業学校在学の当時、すでに半世紀以前のいにしえだ。
小樽高商、北辺のこの学校が、当時、東京の一橋高商と肩を並べるほど、全国的に有名だったのは、専ら英語教育の程度の高さの故だった。わけても学生有海久右衛門(これが当時の君の名乗りだった)は、あとさきに比類がないほど英語に優れていた。卒業時、学校当局は、君を英語の教師として、そのまま母校に引きとどめ度い意向だった。
だが然し、それには一つの条件があった。曰く、詩作のわざくれと、堀口大學の二つと、いさぎよく絶縁すること。当時、北辺の高等教育者たちにとっては、詩作と堀口大學とは、ひたすら堕落への道だったのだろう。学生として、言わば最高の栄誉へのこの招待を、弊履の如く捨て去って、君は遠く瀬戸内沿岸の垂水所在、県立第一神戸商業高へ英語教師として赴任した。
君にとって、安全な一生の栄達の未来と、取り替えた君の詩の道だった、それだけの熱中の度合いも高く、上達も目に見えて早かった。
梅村久門が亡くなった1988年は、秋朱之介が『書物游記』を出した年です。
梅村久門は晩年、神奈川県川崎市に暮らしていたようですので、間に立つ人がいれば、横浜本牧に暮らす秋朱之介と、堀口大學門下生同士の旧交を温める機会が組めたのではないか、と思ったりします。
▲有海久門『人生を行く』(1934年、文藝汎論社)外箱の背
外箱の表と背のタイトル部分に使われた木目模様のある紙は、第203回 (2017年4月27日)で紹介した、池田圭『詩集技巧』(1932年、以士帖印社)でも秋朱之介が表紙に使っていたものです。
齋藤昌三が、佐藤春夫編輯の芥川龍之介の遺稿詩集『澄江堂遺珠』(1933年、岩波書店)の装釘評で「表紙にしても、昨年出版された無名詩人の『技巧』をそのまゝの転用であるのは遺憾とする」と、皮肉ったこともあります。
▲有海久門『人生を行く』(1934年、文藝汎論社)表紙
梅村久門は、『続百花賦』(1983年、よねざわ豆本の会)の「あとがき」で、第一詩集『人生を行く』について言及していて、その表紙の版画の作者について書き残しています。
私はうるさいと思われるほど、これぞと思う詩作を(堀口大學)先生に送っては校閲をお願いした。多分久世山に先生をお訪ねした時、〈君の詩もだいぶ溜った。一つ詩集をだそう〉と仰られた。ほんとに出して下さるのかなあと思っていたところ、それがほんとにほんとだった。先生御自ら三十五篇を選択なされて、詩集「人生を行く」を出して下さったのである。これが私の処女詩集。(昭和九年六月私の誕生日のこと)。刊行者は文芸汎論社の岩佐東一郎氏。氏は大學門下生で私の兄弟子。その岩佐兄から「大學先生は貴君を非常に期待されている。『人生を行く』の表紙も先生の御依頼で棟方志功の版畫で飾られたもの。有海君は羨ましい幸福な方。今後の精進を祈る……」のお手紙を戴いた。
岩佐東一郎の「『人生を行く』の表紙も先生の御依頼で棟方志功の版畫で飾られたもの」という言葉を、文字通り信じれば、表紙の木版は棟方志功の初期作品の1つということになります。
しかし、秋朱之介の伝記を知るものからすると、昭和9年(1934)、秋朱之介は、裳鳥会という自ら主宰する限定版倶楽部で、堀口大学と棟方志功を組み合わせて本を作ろうとしたものの、堀口大學が棟方志功の絵を嫌ったため、裳鳥会のプランが思うようにいかず頓挫したという事実があるだけに、堀口大學が棟方志功に依頼したということは、どうにも信じ難い記述です。
堀口大學が自分の好みでない画風の棟方志功に依頼するとは考えにくく、これは、装釘は秋朱之介に依頼したものの、装画については秋朱之介が独自に棟方志功に依頼したということではないか、という気がします。
確かなのは、昭和9年(1934)、秋朱之介と棟方志功は、ある種の蜜月状態にあって、秋朱之介は、棟方志功のための企画を次々とたてており、棟方志功も、秋朱之介からのカット・版画・文章の依頼にすぐに応えていたということです。
貧乏だった棟方志功にとって、昭和9年の秋朱之介は、数少ない確かな収入源になる存在で、そういう意味では、昭和9年の秋朱之介が装釘する有海久門『人生を行く』の装画に棟方志功が使われるのは、ありそうなことです。
ただ、秋朱之介の力では、昭和9年(1934)の棟方志功を「有名人」にすることはできず、棟方志功が世に知られるようになるのは、昭和11年(1936)、柳宗悦(1889~1961)や河井寛次郎(1890~1966)ら「民藝」の人達から賞賛を受けるようになってからのことです。
昭和9年(1934)の、いわば失敗に終わった秋朱之介と棟方志功の蜜月については長くなりそうなので、次の第256回で、改めて書くことにします。
正直に言うと、この、有海久門『人生を行く』表紙の木の根の版画には、いまひとつピンとくるものありません。
この木の根は、有海の詩作品から選ばれた主題とも思えず、有海の詩作品を読んで描かれたとも思えないのです。
収録された35の詩に、樹木主題のものがないわけではありません。小籔のうろに眠る六人兄弟と母親が首を縊れる唐松林が出てくる、イギリス古謡(バラッド)風の「林の出來ごと」と、石狩の平原に立つ一本の「ポプラの樹」を歌った詩があります。しかし、表紙の絵は、有海久門の詩と有機的に結びついているように見えません。
絵も、モノとして木の根や切り株を描いたというより、何かの寓意として描いたような作品です。その寓意が有海久門の詩と結びついているようにもみえず、 もしかしたら、ありものの作品から選ばれたもののような気さえします。
この絵をどう読んでいいのか、今のところ、分かっていません。
もうひとつもやもやするのは、この絵に既視感があることです。物忘れの度が強くなっているので、いろんなことを、すぐに思い出せなくなっていて、既視感があるのに、それをどこで見たのかなかなか思い出せない、そのための、もやもやが生じています。
木の根・切り株・雲といった見知った要素が複合しているため起こる、にせの既視感なのかもしれませんが、特に3つの小さなXXXが、どこかで見たという感覚を起こしています。
似た絵を見たことがあるという方がいらしゃいましたら、教えて頂ければ幸いです。
しかし、秋朱之介は、自分の装釘した本の見本として、『人生を行く』を選んでいるからには、この本のつくりには自信があったはずです。和紙を使った本文を見てくれということだったのでしょうか。
▲梅村久門『続百花賦』(1983年、よねざわ豆本の会)
▲有海久門『人生を行く』(1934年、文藝汎論社)扉
棟方志功の作品に詳しくないということもあって、表紙の木の根の木版画が棟方志功の作品だと断言することはできないのですが、外箱と扉に使われている鳥(ハゲタカか?)の図は、当時の棟方志功の作風と一致するので、間違いなく棟方志功が描いたものだと思います。
▲『西山文雄遺稿集』(1934年、文藝汎論社)扉
この鳥の絵は、同じく秋朱之介が装釘した『西山文雄遺稿集』(1934年8月5日刊行、文藝汎論社)の扉でも使われていて、文藝汎論社のロゴとして、棟方志功に描いてもらったものではないか、と思います。
これもまた、文芸汎論社の本に詳しい方がいらしたら、教えて頂ければ幸いです。
この『西山文雄遺稿集』も、秋朱之介装釘本の見本6冊に選ばれています。
第198回(2017年1月31日)「 1934年の『西山文雄遺稿集』」でも、少し詳しく紹介しています。
『人生を行く』も『西山文雄遺稿集』も、本文用紙にぜいたくをしている本です。
▲有海久門『人生を行く』(1934年、文藝汎論社)見開き例
伊藤整(1905~1969)に捧げた「忍路」という詩もありました。
有海久門が通っていたころの小樽高商には、伊藤整や小林多喜二(1903~1933)らもいたようです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
若さということで、Aztec Cameraの1枚目のアルバム『high land, high rain』(1983年、rough trade)から、「the boy wonders」を。
つんのめるようなビートに、旅立ちの高揚感があります。
今も変わらず、隅から隅までエヴァーグリーンなアルバムです。
写真は、2014年のDominoレーベルからの再発リマスター版。2012年のedsel再発盤のような音飛びはありません。
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254. 2018年の「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のフライヤー・リーフレット(2019年1月21日)
行きたかったけど、行けなかった展覧会のフライヤーやリーフレットを、友人が送ってくれました。
2018年10月6日から2019年1月14日まで、千葉県佐倉市のDIC川村記念美術館で開催されていた「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のものです。
展覧会カタログは、書店でも扱われていたので入手することができたのですが、会場に置かれた、こうしたフライヤーやリーフレットは、カタログとはまた別物です。
ドナルド・エヴァンスの作品も展示されていたので、宅急便などではなく、切手の貼られた郵便で送られてきたのもうれしいところです。
首都圏在住ながら往復5時間かけて出かけた「見者」の友人曰く、「比類ない展覧会」だったとのこと。
やはり、なんとかやりくりして行くべきだったかと後悔しきり。
▲「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のガイドマップ・リーフレット
ガイドマップによれば、次のような展示構成だったようです。
特設会場110 X モーリス・ブランショと3人の美術家――終わりなき対話
本会場Y
Y 第1室 ジョセフ・コーネル/瀧口修造
Y 第2室 加納光於/中西夏之
Y 第3室 ドナルド・エヴァンス/河原温
Y 第4室 岡崎和郎/奈良原一高
Y 第0室 「空中の本」へ
本会場202 若林奮
「空中の本」への書架
常設会場 DIC川村記念美術館コレクションから
▲ 「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のフライヤーには、ドナルド・エヴァンスの刻印がおされています。
「言語と美術――平出隆と美術家たち」のカタログをながめながら、この刻印、市販のカタログにもおしてあったらな、と思ってしまいました。
▲ 「言語と美術――平出隆と美術家たち」展のカタログ
2018年12月17日初版発行
編著:平出隆
執筆:青木淳、三松幸雄、澤直哉
写真:今井智己、高橋健治、山本糾、KARIN、takaramahaya、平出隆、市川勝弘
編集:井上有紀、赤松祐樹
デザイン:須山悠里
DTPオペレーション:宮浦杏一
発行:DIC川村記念美術館
発売:港の人
印刷製本:図書印刷
▲DICの2019年カレンダーが、「ジョセフ・コーネルの世界」というのも、エフェメラ好きには、ありがたい話です。
それと、遅まきながら、『ジョセフ・コーネルのポップアップブック』という本が、2017年に東京パブリッシングハウスから出ていたことを知りました。
いつか見てみたいものです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
naomi & goro & 菊地成孔『calendula』(2011年、commmons)から、アルバム1曲目の「The King of Rock'n Roll」を。
オリジナル・ヴァージョンも、Prefab Sproutのアルバム『From Langley Park to Memphis』(1988年、Kitchenware)の冒頭を飾っていました。
プリファブ・スプラウトの、このアルバムから、もう30年経ったのかと思うと、くらくらします。
そういえば、プリファブ・スプラウトのパディ・マクァルーン(Paddy McAloon)の風貌も、30年ですごく変わりました。
1980年代は、LPとCDが混在していて、個人的には、このアルバムあたりから、CDを優先するようになった記憶があります。
それから30年。CDがいちばんの音楽メディアだった時代も終わったようです。
終わりといえば、東日本大震災直後の2011年4月にはじまった菊地成孔のラジオ番組『菊地成孔の粋な夜電波』も、2018年12月、第396回を最後に、終わってしまいました。
いろいろなものが終わっていく一方で、なにかが始まっているのでしょうか。
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253. 1981年の『浮世絵志』復刻版(2019年1月21日)
ブックオフに寄ってみたら、浮世絵志会『浮世絵志』〈昭和4年(1929)1月~昭和6年(1931)9月、全32号、芸艸堂〉の 合本8冊の復刻版(1981年、飯塚書店)が鎮座していて、とてもとてもお安い値段でしたので、えっちらおっちら持ち帰ることにしました。
▲『浮世絵志』第1号表紙(復刻版)
表紙は浮世絵師・版画家の山村耕花(1885~1942)。
▲浮世絵志会『浮世絵志』第1号に掲載された編輯同人(復刻版)
田中喜作(1885~1945)美術史研究。京都出身。
永見徳太郎(1890~1950)劇作家、美術研究。長崎出身。
井上和雄(1889~1946)浮世絵研究。鹿児島出身。
大曲駒村(1882~1943)浮世絵・川柳研究。福島出身。
山村耕花(1885~1942)浮世絵師・版画家。東京出身。
小島烏水(1873~1948)登山家、浮世絵・西洋版画研究。香川出身。
七戸吉三 浮世絵研究。
『浮世絵志』は、鹿児島とまったく無縁の雑誌というわけではなく、 大正から昭和初期にかけて浮世絵のために働き続けた井上和雄の存在を、鹿児島でもきちんと評価すべきではないかと思います。
【2019年1月25日追記】
図書館に寄ったついでに、七戸吉三の生没年と出身地が分からないか調べてみましたが、見つけることができませんでした。逍遙協会編『坪内逍遙書簡集』第六巻(2013年、早稲田大学出版部)に掲載された簡単なプロフィールに「しちのへ よしみつ」と名前にルビが振ってあるのは見つけました。七戸が本名なら、岩手か青森にゆかりのある人かもしれません。
どなたか七戸吉三の生没年と出身地だけでも教えてくださる方があれば幸いです。
▲『浮世絵志』第1号〈昭和4年(1929)1月1日発行、芸艸堂〉の編集後記「浮世繪多與里」と奥付(復刻版)
編集後記「浮世繪多與里」冒頭に、
▶浮世繪志の創刊 浮世繪同好會編輯「浮世繪」は、種々の事情に妨げられ、漸く第四號を發行したまゝ遂に廢刊となりましたので、私共は新たに浮世繪志會と云ふを起し、茲に月刊雜誌「浮世繪志」を創刊しました。是非同好諸氏の御援助を仰ぎます。
とあるので、福永書店から井上和雄編輯で刊行された「浮世絵」誌〈創刊號(昭和3年1月1日発行)~第四號(昭和3年5月1日発行)〉を受け継ぐかたちで創刊されたと分かります。
「編輯兼發行人」の大曲省三は、大曲駒村の本名。
編輯所の住所も大曲の住所なので、『浮世絵志』編輯の中心は大曲駒村だったと分かります。
大曲駒村・富士崎放江編著『定本末摘花通解』(1958年、有光書房)の序で、斎藤昌三(1887~1961)が次のようなことを書いています。
顧れば、末摘花の解剖は明治末期から五十年、輪講に廻覧に幾多の研究会は興亡を重ねて来たのだが、印行は依然遠慮せざるを得なかった。その一グループとして、東北の地方新聞社に在つて江戸風俗史に専念した富士崎放江は、久しい俳友だつた大曲駒村と自然とこの方面にも接触してゆき、余閑を末摘花の検討に熱を挙げ出し、同志にも呼びかけたのを、偶々駒村が本務の関係上、東京に移つたころから、居住の近くに幸い近親の印刷所もあつたといふので、敢然印行を決意して会員を限定公募し、配本を開始したのは昭和三年春以降七年十二月まで、この間、時の内務省から再三中止の内命があつたが、彼の研究心は何等挫折さるゝところなく、合本にして九冊を卒業するに至った。
「浮世絵志」の印刷人・大曲武助は、ここにある「近親の印刷所」と思われます。
大曲駒村は、『浮世絵志』と『末摘花通解』を同時進行でやっていたわけです。
ほかにも、書物誌『あかほんや』〈阿伽梵書屋、1号(昭和5年1月)~4号(昭和6年5月)〉も同じ時期に刊行しています。
大曲駒村は、関東大震災後の大正末から昭和10年ぐらいまでの出版熱の高さを体現する人物の一人です。
その熱は、秋朱之介(1903~1997)などにも通じるものを感じます。
時代の熱だったのでしょうか。
【2019年1月24日追記】
後藤憲二編『斎藤昌三著作集』第五巻 書物随筆三(八潮書店、昭和56年11月10日編集発行)に収録された「新富町多与里」は、斎藤昌三が1931年から1951年にかけて編集発行した『書物展望』の編集後記をもとにしたもので、斎藤昌三の日誌的メモワールにもなっています、
その昭和18年(1943年)の項に、大曲駒村が亡くなったあとの、そのコレクションの行方について、次のような記述がありました。
○〔書物〕展望誌の五月号は〔大曲〕駒村の追悼記に割愛したが、期日が迫り過ぎてゐた故か、三十余名の依頼状に対し、三分の一の寄稿とはいさゝか物淋しい感がなくもない。今少し時間があったら旧知の矢田挿雲、酒井三良、井上和雄、石井研堂の諸氏、少し近くでは尾佐竹博士、荷風翁その他俳友でも相当集った筈だが、惜いことをした。然し之れだけでも、吾々の気分は充分通じてゐると思ふ。
○兎に角蒐った原稿や断り状を見るにつけ、君の毀誉の相半ばしてゐるのは、正直な所、君の個人主義的な性格の現れでもあって、誉められる許りではないところが故人らしくもある。今にして数へて見ると、知己だけでも卯木、幻怪坊、柳雨、五猫庵、駒村と、古川柳研究の一流大家を次ぎ次ぎに亡くしたことは、広義には学界の為めにも淋しいことだ。
○駒村の死に就いて見ても、研究家ならざる蒐集家の浅間しさに呆れた。前月の余白で君の訃を伝へて置いたら、日頃は面識もない連中迄、ワンさと押掛けて、某の著書某の作を割愛して呉れと迫り、遺族を当惑させたとは、さても怖しい世の中である。
○蔵書処分は当然に起る問題とは、初めから僕にも気付かぬ事はなかったが、親しいだけに却って注意を遠慮してゐたのに、其後にかくの如き餓鬼連の強要があらうとは。而もその結果は落膽すべきの報告で、小島〔烏水〕さんなども曽ての割愛者だけに、同じ失望が見へるようにも思ふ。
○大曲君の場合、特殊の研究家だけに彼の蔵書の行方は慎重を要するのに、帝大生の某に一括して処分を迫られ、それに応じて了ったとか、三七忌の日に聞かされたが、恐らく希求の文芸書一部の為めに、その他を方便として遺族のスキを狙ひ落したものであらうがこの種の蒐集家のことでは、目的物だけを手に入れば、その他は直ち右から左に、四散させるのは明かで、かくて故人の多年の心血も無意義に散佚するものと思ふ。彼の霊も地下に安んじて眠れまい。
○それにつけても思ふことは、自分の場合だ。いつ死んでも一週間や十日で、蔵書を処分することはさせたくない。僕には誇るべき稀本はなくも、文献的に貴重なものがなくもないから、万一の折は柳田〔泉〕君にでも立合って貰へと云って置くが、それよりも生前の元気の時に、奇麗さっぱりと無一物になって、愛児の行方を見極めて置く方が、書物その物の生命を、意義あらしめると思ふから、出来る限りはさうしたいと念願してゐる。大曲君歿後の結果を見るにつけ、「蒐集家の悲哀」を痛感した。(五月)
痛ましい話です。しかし、この「帝大生の某」とは何者だったのでしょうか。
そして、そののち、この帝大生に向けられた斎藤昌三の呪詛が解かれることはあったのでしょうか。
こういう話を読むと、自分のもとにあるのはガラクタばかりですが、人によっては使いようもあるだろうから、元気なうちに、ガレージセールでも開いた方がいいのかなと考えたりします。
▲『浮世絵志』第32号終刊号〈昭和6年(1931)9月1日発行、芸艸堂〉の編集後記「浮世繪多與里」と奥付(復刻版)
▲ 『浮世絵志』第32号終刊号〈昭和6年(1931)9月1日発行、芸艸堂〉掲載の廃刊の会告(復刻版)
冒頭に「昭和三年一月、本誌創刊以来」とありますが、『浮世絵志』の創刊は、昭和4年1月ですので、先行する『浮世繪』(福永書店)を含めているのかもしれません。
「殺人的不景氣」ということばが生々しいです。
ところで、『浮世絵志』のページをめくっていて、まず目をひいたのが、アーサー・ウェイリー(Arthur Waley、1889~1966)への同時代評があったことです。
▲『浮世絵志』第8号〈昭和4年(1929)8月1日発行〉掲載の野中退蔵による「ウェレー氏の司馬江漢論に就いて」のページ
批評の対象は、ウェイリーが、1927年『Ostasiatische Zeitschrift』誌に寄稿した司馬江漢小伝「Shiba Kōkan」と、 それを短くまとめて『Burlington Magazine』1928年4月号に掲載した「Shiba Kokan and Harushige not identical」
というエッセイ。
「四月號」とあるので、野中退蔵(1895~1986)は、『Burlington Magazine』のほうだけを読んで批評しているようです。
この内容については、改めて別の機会に書きたいと思います。
ウェイリーの同時代評が、『浮世絵志』で読めるとは予想していなくて、うれしい驚きでした。
ウェイリーといえば、『源氏物語』の英訳者として有名です。
今もウェイリーの英語版源氏からの日本語版新訳が順調なペースで進行中です。
新訳が出ることにはわくわくしているのですが、その表紙カヴァーにギュスタフ・クリムト(Gustav Klimt、1862~1918)の絵が使われていることには、なんだかもやもやしています。
▲紫式部『源氏物語』1 A・ウェイリー版 毬矢まりえ+森山恵姉妹訳(左右社、2017年12月31日発行)カヴァーと表紙
カヴァーの絵は、Gustav Klimt, The Kiss, 1908
▲紫式部『源氏物語』2 A・ウェイリー版 毬矢まりえ+森山恵姉妹訳(左右社、2018年7月14日発行)カヴァーと表紙
カヴァーの絵は、Gustav Klimt, Portrait of Mada Primavesi, 1912
▲紫式部『源氏物語』3 A・ウェイリー版 毬矢まりえ+森山恵姉妹訳(左右社、2018年12月25日発行)カヴァーと表紙
カヴァーの絵は、Gustav Klimt, Water Serpents II, 1904-07
▲紫式部『源氏物語』4 A・ウェイリー版 毬矢まりえ+森山恵姉妹訳(左右社、2019年7月30日発行)カヴァーと表紙
カヴァーの絵は、Gustav Klimt, Water Serpents I, 1904-07。箔の部分は、 Gustav Klimt, The Virgins, 1913。【2019年12月9日追記】
個人的には、ミスマッチという印象が先にきてしまいます。
クリムトが表紙であることのもやもやは、第一次大戦は、大きな歴史的断層をつくっていて、クリムトは前の世界、1925年から1933年にかけて刊行されたウェイリー訳源氏は後の世界に属すると感じるからかもしれません。
もうひとつ、これがいちばん大きいのかも知れないのですが、日本の本で、カヴァーにクリムトの絵を使ったモノを 調べてみると、
■天童荒太『ペインレス』
■森雅裕『歩くと星がこわれる』
■西加奈子『漁港の肉子ちゃん』
■馳星周『楽園の眠り』
■アルトゥル・シュニッツラー 池田香代子訳『夢奇譚』
といった本が並んでいて、独立峰のような作品であるウェイリー訳源氏が、これらの本と同類のような印象をもたれそうで、なんだか違うよなあと思ってしまいます。
ウェイリーの本の表紙やカヴァーには、両大戦間的なシンプルでモダンな文字組がいちばん似合うと思ってしまいますが、
Tony Bradshawの『The Bloomsbury Artists: Prints and Book Design』(1999年、Scolar Press)を引っ張り出して眺めていると、ブルームズベリー系の美術家の作品のほうが、まだクリムトより親和性が高い気がします。
▲Tony Bradshaw『The Bloomsbury Artists: Prints and Book Design』(1999年、Scolar Press)
▲Tony Bradshaw『The Bloomsbury Artists: Prints and Book Design』のページから。
Roger Fry、Duncun Grant、Vanessa Bell、Dora Carringtonらのブックデザイン。
▲Tony Bradshaw『The Bloomsbury Artists: Prints and Book Design』のページから。
Duncun Grantのブックデザイン。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
▲John Greaves『Life Size』(2018年、Manticore)
今年最初に届いたCDは、John Greavesの新譜「Life Size」でした。
レーベルが、ELPのレーベルだったManticoreであることに驚きました。
どうやら、Greg Lake Estateの援助で、イタリアで、再び立ち上げられた、ということのようです。
レーベルのロゴもそのまま。
もっとも、リリースされたCDはまだ3作だけ。そして、レーベル3作目のJohn Greavesの「Life Size」型番は、MAN003。
ELPゆかりのレーベルから、ジョン・グリーヴスのアルバムが出る、というのは不思議な感じです。
バックのミュージシャンは、Zeena ParkinsやJakko Jakszyk、Sophia Domancichといった懐かしい名前もありますけど、イタリアの若い人が主体。好好爺と若人のアンサンブルです。
「How Beautiful You Are」の再演や、マッチングモールの「God Song」のカヴァー、「Rose C'est La Vie」のイタリア語ヴァージョン「In Te」、ディラン・トマス、ジェイムズ・ジョイス、ヴェルレーヌ、アポリネールの詩に曲をつけたものと、もりだくさん。
「Kew Rhone is Real」という曲があるのですが、これは1977年の『KEW RHONE』の収録曲ではなくて、『KEW RHONE』の歌い手Lisa Hermanが、2014年に刊行された『KEW RHONE』(Uniform Books)に寄稿した詩に、John Greavesが曲をつけた新曲でした。
その曲を歌っているのは、Himiko Paganottiという日仏ハーフの女性。
お父さんは、1970年代後半のマグマ(Magma)のベーシストだった人です。
このアルバムは、イタリアのPiacenzaという10万都市の人脈でつくられたようです。
ジャケットの写真作品も、Piacenza在住の美術作家Lino Budanoによるもの。
地方都市で、こうした、重層的で、ふくよかな音楽アルバムが作られるということに、可能性を感じます。
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252. 2019年1月1日の桜島
2019年1月1日朝の桜島は、曇り空におおわれて、山裾から日が昇る姿を見ることはできませんでした。
前日の2018年12月31日の夕方は、良く晴れていたのですが。
2018年12月31日桜島夕景
2018年12月31日 夕暮れ時の長い影
2018年12月31日 鹿児島港の日没
2019年1月1日早朝の桜島フェリー
2019年1月1日早朝の桜島
初日の出は拝めませんでしたが、雲間から、いくつもの天使のはしごが降りて来ていました。
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251. 1942年の昭南書房版・石川淳『山櫻』(2018年12月16日)
西谷操(秋朱之介、1903~1997)は、中村重義と佐藤俊雄とともに、戦争中の昭和17年(1942)11月に、昭南書房を立ちあげます。
その、井伏鱒二『星空』(1942年11月5日発行)、太宰治『信天翁』(1942年11月15日発行)に続く3冊めの本、石川淳(1899~1987)の『山櫻』(1942年12月10日発行)の表紙です。
太宰治『信天翁』と同じく、装釘は宮村十吉です。
「山櫻」「一休咄」「曽呂利咄」「鐵枴」「張柏端」「千羽鶴」「蓮酒」「祕佛」「貧窮問答」「履霜」の10編を収録する短編小説集。石川淳については、戦後の焼跡世界の人という思い込みがあったのですが、戦前の作品で、すでにその小説世界は出来上がっています。
秋朱之介(西谷操)の回想によれば、昭和10年(1935)以降の秋朱之介の銀座(銀座二丁目四)時代、石川淳は飲み仲間で、城左門(城昌幸、1904~1976)らといっしょにつるんでいたようです。
▲石川淳『山櫻』(昭和17年12月10日発行、昭南書房)表紙カヴァー
補修にセロテープを使うと、その場しのぎにはなるのでしょうが、何十年か経つと、痛ましいことになります。
▲石川淳『山櫻』(昭和17年12月10日発行、昭南書房)扉
なぜ「昭南書房」という名前にしたのか定かではありませんが、昭南書房の最初の本『星空』の井伏鱒二は、1942年当時、昭南(シンガポール)に滞在して活動していたので、そのことに便乗したのかもしれません。
▲石川淳『山櫻』(昭和17年12月10日発行、昭南書房)奥付
昭南書房の発行者住所は、最初は「東京市豊島区雑司ヶ谷町六ノ八一一」、昭和18年(1943)8月ぐらいに「東京都芝区新橋三丁目二番地四」、昭和18年11月ぐらいに「東京都神田区西神田一ノ九」とかわり、昭和19年の夏ごろ、昭南書房の活動は終わっています。
約2年、続きました。
西谷操は、横浜の本牧に移り、戦後は、「操書房」と名前をかえて、昭和24年(1949)まで出版を続けます。
▲石川淳『山櫻』(昭和17年12月10日発行、昭南書房)への「西谷操」の署名
間違いなく西谷操の自筆ですが、刊行当時のものではなく、1988年の『書物游記』(書肆ひやね)刊行で再評価されたころのサインではないかと思われます。
▲石川淳『山櫻』(昭和17年12月10日発行、昭南書房)巻末の昭南書房刊行書目
ここにある書目はすべて、刊行されています。
昭南書房版の城左門訳『夜のガスパアル』はまだ手に取ったことはありません。戦後の操書房でも城左門訳『夜のガスパアル』を刊行しています。
『一政歌集』は、『歌集 向ふ山』というタイトルになります。
▲秋朱之介『書物游記』付録別冊(1988年、書肆ひやね)
16ページの小冊子『書物游記』別冊付録の「座談・秋朱之介を囲んで」では、次の「優游の会」のメンバーが、本牧の西谷邸を訪ねて、秋朱之介(西谷操)から貴重な証言を引き出しています。
伊藤滿雄(収集家、鹿鳴荘)
岡澤貞行(収集家)
佐々木桔梗(プレス・ビブリオマーヌ主宰)
峯村幸造(「書痴往来」社主。富岡多恵子『壺中庵異聞』の「橘村好造」のモデル。)
齋藤専一郎(収集家。『木香往来』〈書肆ひやね〉創刊準備號に「秋朱之介本の魅力」を寄稿。)
森孝一(『書物游記』『木香往来』では荻生孝)
比屋根英夫(書肆ひやね)
もう少し時間をかけて掘り下げてもらえればと思うところもあるのですが、晩年の秋朱之介(西谷操)の聞き書きを残してくれたことだけでも、ありがたいです。
『書物游記』別冊付録の最後のページには、写真のように書肆ひやねの新刊案内があります。そこに、今年の私にとって関わりの深かった、2人の人物の本、秋朱之介の『書物游記 〈特装版〉』と高橋輝雄の『高橋輝雄木版蔵書票集 遊ぶ蔵書票集』の2冊が並んでいることに、なんだか縁としか言いようのないものを感じます。
秋朱之介だけでなく高橋輝雄も、鹿児島と縁があったと知った今年でした。
『書物游記』別冊付録の「座談・秋朱之介を囲んで」で、昭和10年(1935)以降の銀座(銀座二ノ四)時代を語った部分に、石川淳の話題も出てきます。
秋〔朱之介〕 あの頃は、第一書房から日夏〔耿之介〕さんとか、佐藤春夫の本が出ていた。それに「パンテオン」には、私も詩を書いていた。その頃は、みんな名前だけは有名でね、本当は貧乏していたんだね。
岡澤〔貞行〕 秋さんも貧乏でしたか。
秋 とくに貧乏でしたよ。あと、一番貧乏していたのは佐藤春夫ですよ。
岡澤 よっぽど、印税が入ってこなかった。
秋 いや、あの人の本は、売れないですよ。僕はね、佐藤春夫と喧嘩しちゃった。森谷均君がね、私を訪ねて銀座に来たんですよ。そこで、昭森社を始めたんです。一番最初に、彼が出したのが・・・・・・。
齋藤〔専一郎〕 〔小出楢重の〕『大切な雰囲気』ですね。
秋 そう、そう。それからね、里見勝蔵だとか、柳亮とかね。私の関係では、堀口大學、佐藤春夫ね。それで、『霧社』を出した。東郷青児とか、海老原喜之助、林芙美子もね、私と同県人〔鹿児島出身〕なんですよ。その頃、林の家が落合にあったんです。行ったことありますよ。
荻生〔孝〕 それから、秋さん、美容科学研究会と言うところから、矢野目源一さんの本が出ていますね。
伊藤〔滿雄〕 そう、そう。『美貌處方書』と言う不思議な本を装釘されていますね。
秋 矢野目さんが。
伊藤 いや、矢野目さんの本を秋さんが装釘されて出されているでしょう。
比屋根〔英夫〕 そう、赤い布表紙のね。特製は紅白の紐綴で平の下にエジプト風の絵のある金紙を貼って。
秋 あれは、中村重義君のところで丁寧に製本したんです。築地のね。
荻生 伸展社版の『酔ひどれ船』と装釘が似ていますね。伸展社は、中村さん名義だけど、実際は秋さんですね。
秋 そう、中村君と始めた。僕が銀座に住んでいた頃、矢野目と二人でね、シエンソウだとか、サロン春なんかのね、女給さんたちの化粧をメーキャップしたんですよ。その頃はね、また、しゃーしゃーと手をつないでね、そう言うことが、矢野目さんは、またうまいんだ。
荻生 矢野目さんは、戦後、艶笑文学で有名になってますが、こんなところに秘密があったんですね。
峯村〔幸造〕 有名な女優さんが、サロン春から随分と出ましたね。
秋 そうね、そう言うことをね、あの石川淳が小説に書いている。『山桜』の中に入っていますよ。僕も書いた、昔ね。矢野目とか、城左門とか、みんな友達だから。
峯村 『山桜』の話をすると、結局、あれですか、版画荘の平井博さんとは。
秋 友達ですよ、だから、石川が、あの最初のものを出しましたから。
荻生 『普賢』ですね。第四回芥川賞の。
秋 そう。あそこが出した本では、やっぱし僕の紹介で出した、村上菊一郎君がいますよ。僕のところからも出版しようと思ったけど。村上君は非常に翻訳がうまいんですよ。
佐々木〔桔梗〕 恩地〔孝四郎〕さんが装釘した『悪の華』ですね。ブブノワの全頁挿絵のプーシキン『葬儀屋』も大判で出ましたね。
峯村 そうですね。話は別になりますけど、村上菊一郎は早稲田ですね。野田書房の野田誠三とは。
秋 野田とは関係ない。村上君とは、早稲田の方でね、その頃から、ずっと友達でね。
齋藤 なるほど。不思議なもんだな。版画荘も銀座でしたね。
秋 だから、私なんかのグループはね、全部同じになっているんですよ。
▲秋朱之介への聞き書き「装丁ががよくっても中味がないとね・・・・・・」が掲載された『太陽』330号(1989年2月、平凡社)
連載「ダンディズム頌」全12回の第8回。
取り上げられた12人は、古沢岩美、福田勝治、永田耕衣、黒田長久、南部忠平、土浦亀城、マキノ雅裕、秋朱之介、平林作蔵、榊莫山、中川幸夫、埴谷雄高と、1980年代後半のダンディなおじさまが並んでいます。
この聞き書きのなかで、秋朱之介は、銀座(銀座二ノ四)時代の回想も語っているのですが、そのなかで、石川淳の「山桜」について注目すべき発言をしています。
その頃は、全部、私の思いどおりのことをやっていたんですよ、好き放題ね、勝手なものを作っておれたんです(笑)。そのかわり、金はかけましたよ。
いつも銀座で飲んで歩いた、毎晩ね(笑)。ちょうど僕は銀座に住んでたから、いやでも呼ばれちゃうんだ。岡崎って、堀口さんの専属の店があって、堀口さんが来ると、女給さんが家まで呼びにくるんですよ。文士ってみんな遊ぶ人ばっかりだからね。
城左門と石川淳と私の三人でよく通ったのがスリーシスターズ。二・二六事件の時、雪の降る中、朝早くね、城君が僕のところに知らせに飛び込んできた。あれも家に帰ってないのだ、どこかで遊んでいて軍隊を目撃したんだな(笑)。
その頃、矢野〔目〕源一と美容科学研究会というの始めて、銀座のサロン春とか紫煙荘〔紫烟荘〕の女給さんたちのメーキャップやったんですよ。矢野〔目〕源一の香水の作り方の本は僕が出したんです。真っ赤なちりめんの表紙の本でね。僕もマリーロランサンなんていう香水、作ったことがある(笑)。
石川君が、その頃の僕を『山桜』に書いたんだ。
石川淳の側で、秋朱之介(西谷操)について、何か書き残しているのか、調べていませんので、山桜のモデルが秋朱之介(西谷操)だったということが双方ともに認めるものだったのかは分かりませんが、少なくとも、秋朱之介(西谷操)は、「山桜」のモデルは、自分だと思っていたわけです。
「モデル」といっても、どこからどこまでかというと、幅があります。キャラクターなのか設定なのか。
「山桜」の主人公「わたし」は貧乏な画家です。その貧乏さだけがモデルになったということもあります。
そこを深掘りして聞いてもらえれば、深い話が引き出せたのじゃないかと思います。
「山桜」は、「神田の片隅にある貸間、天井の低い二階の四畳半」に住む貧乏な画家の「わたし」が、昔の恋人「京子」の嫁ぎ先で 「遠縁にあたる吉波善作」(予備の騎兵大佐で、某肥料会社の重役)の「武蔵野の國分寺の別荘」に金を借りに行ったときに起こったできごとのの話です。
武蔵野の原で、私は「十一二歳」の少年と出会います。吉波善作と京子の子ども「善太郎」です。
その少年「善太郎」の存在が「わたし」を驚かします。
今眼のあたりに見る〔善太郎の〕顔はわたしの顔よりほかのものではないのだ。時々鏡の裡に見かける顔、まがふ方ないわたし自身の相好なのだ。實はさきほど原の中で善太郎の顔を見た際、故知らず胸をとどろかし、いや、これは京子の幻に脅かされたか、とんだ通俗小説の一場面を演じたものかなと苦笑したのであつたが、今はもう苦笑どころではなく、わたしは瘧やみのごとくがたがた慄へ出す全身を抑へやうもなかつた。
かうした善太郎とわたしと並んだところを眺めては善作の眼が呪咀に輝き出すのも無理ではないか。
これはわたす一人にとつての不意打でしかなく、吉波一家にあつてはもはや疑惑嫉妬などといふ生やさしい漣を越えた命取りの渦潮なのだ。
まさに「とんだ通俗小説の一場面」みたいな設定ですが、昔の恋人の遺児が、自分にうりふたつだったという話です。
そして、京子は「去年のくれ肺炎で確かに死んで」いたことは、小説の最後まで伏せられています。
石川淳の「山桜」は、秋朱之介が親しかった岩佐東一郎と城左門が編集していた文芸誌『文藝汎論』6巻1号(1936年1月)が初出。
単行本初収録は、版画荘の『山桜』(1937年)で、「山桜」のほかに「一休咄」「祕佛」を収録しています。
石川淳が、秋朱之介と銀座を飲み歩いていた時期に書かれた小説です。
【2019年1月23日追記】
石川淳の短編小説「山桜」の初出は、『文藝汎論』6巻1号(1936年1月)でした。調べてみると、その同じ号で、秋朱之介も「各人各説」に書いていました。
当時の秋朱之介と石川淳の接点は、酒の席と『文藝汎論』誌だったのでしょう。
和田博文監修『現代詩 1920―1944』(2006年、日外アソシエーツ)によると、秋朱之介(西谷操)は、岩佐東一郎編集の『文藝汎論』(文藝汎論社)や百田宗治編集の『椎の木』(椎の木社)に寄稿しています。 『書物』(1933~1934年、三笠書房)・『書物倶楽部』(1934年、裳鳥会)の編集長をやめて、銀座に拠点を移す時期です。
『文藝汎論』(文藝汎論社)
■第4巻9号(1934年9月)秋朱之介「カイエ装釘について」
■第5巻11号(1935年11月)秋朱之介「各人各説」
■第6巻1号(1936年1月)秋朱之介「各人各説」
■第6巻5号(1936年5月)秋朱之介「各人各説」
■第6巻6号(1936年6月)秋朱之介「各人各説」
■第6巻8号(1936年8月)秋朱之介「各人各説」
■第6巻9号(1936年9月)秋朱之介「涙の念珠」
■第8巻6号(1938年6月)西谷操「各人各説」
■第9巻5号(1939年5月)西谷操「各人各説」
『椎の木』(椎の木社)
■第4巻1号(1935年2月)秋朱之介「梨花一枝の感じ」
■第4巻2号(1935年3月)秋朱之介「梨花一枝の感じ」
■第4巻3号(1935年4月)秋朱之介「梨花一枝の感じ」
『文藝汎論』も『椎の木』も、鹿児島ではまずお目にかかれない雑誌ですので、いずれの文章もまだ見たことがありません。 ほかにも、1935年ごろは、恩地孝四郎と志茂太郎が編集していた『書窓』(アオイ書房)にも寄稿していますし、『書物』(三笠書房)・『書物倶楽部』(裳鳥会)の元編集長・秋朱之介には、原稿依頼が結構あったようです。
当時の雑誌を探すと、秋朱之介の文章や秋朱之介にかかわる文章がもっと発掘できるような気がします。
近くに、これらの雑誌を所蔵するアーカイヴがあれば、今すぐ手に取ってチェックしてみたいところです。
【追記ここまで】
興味深いのは、「山桜」の前に、堀口大學の詩誌『パンテオン』『オルフェオン』に、女性の死を主題にした詩作品を西谷操が寄稿していることです。
それらが、石川淳の「山桜」に登場する主人公の、亡くなった昔の愛人・京子とむすびつくのかどうかは、何の証言も残っていないので、何も分からない、と言うしかありません。
▲『パンテオン(Pnathéon)』第9号(1928年12月3日発行、第一書房)表紙
堀口大學、日夏耿之介、西條八十の3人が、編集責任者となって始まった、詩を中心とした文芸誌ですが、第10号のとき、堀口大學と日夏耿之介が決定的な仲違いをし、廃刊。
堀口大學は、同じ第一書房から『オルフェオン』という詩誌を続けて刊行します。
▲『パンテオン(Pnathéon)』第9号(1928年12月3日発行、第一書房)に掲載された西谷操の詩「鎌倉の秋」
鎌倉の秋 西谷操
1
一人の女が死んでゆく
絹の蒲団の上で鉛のやうに冷く
一人の男がその上にのしかかつて
世界中の不仕合せを一人で背負つたやうに
2
火葬場への山徑
老いた櫻の木がやせた手に秋の花束をささげ
黄櫨が棺の上に枯葉の名刺を一枚のせる、
3
夫は まだあたたかさの殘る
灰の中によこたわりたいのだ
夫は まだあたたかさの殘る
灰をかいいだき度いのだ。
4
骨を拾ふ身うち四人
母
夫
妹
看護婦
バサリと桐の落葉
秋が深い。
▲『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日発行、第一書房)表紙
『パンテオン(Pnathéon)』廃刊後、堀口大學編集で創刊された詩誌。
表紙には、堀口大學の詩集『新しき小径』(1922年、書肆アルス)に使われた長谷川潔(1891~1980)の木口木版画が流用されています。目がある紙のため、しっかりと刷られておらず、残念な仕上がり。
▲『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日発行、第一書房)扉
人魚の図は、堀口大學の詩集『砂の枕』(1926年、第一書房)に使われた長谷川潔の木口木版画が流用されています。
▲『オルフェオン』創刊号(1929年4月3日発行、第一書房)に掲載された西谷操の詩「ミヤよ」
ミヤよ 西谷操
病床の島津みさをに
ミヤよ 雪空に木立は白い
ミヤよ 木立には山鳩がゐる
ミヤよ 向うの家の牕でカアテンが動いてゐる
お前は白いベッドの上で眼をつむつて息の音をきいてゐる
カアネエシヨンの傍で手袋はしをれる
ミヤよ 葩のやうな雪が落ちてくる
ミヤよ 山鳩は木立の中にゐる
ミヤよ 山鳩は雪の布団の中に眠るであらう
白いベツドの上でお前のひたひが明るい
カアネエシヨンの傍で手袋がしをれる
ミヤよ クリスマスが過ぎればやがて春だ
ミヤよ 私にはもう山鳩が見えない
ミヤよ 暗い中で雪が思ひ出のやうに降つてゐる
「ミヤ」が何者なのか、詩を捧げた「病床の島津みさを」が何者か、いずれも分かりません。
西谷操の「みさを」は本名でなく、ペンネームです。本名は「西谷小助」で、「みさを」というペンネームを選んだ理由に「島津みさを」の存在があったのかもしれないと考えたりするのですが、まったく手がかりがありません。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
お別れの歌ということで、浜田真理子の『夜も昼も』(2006年、美音堂)から「胸の小箱」を。
表紙絵は林静一。意匠は佐々木暁。
「胸の小箱」の歌声に、「サヨナラダケガ人生ダ」という言葉が浮かびます。
「サヨナラダケガ人生ダ」は、井伏鱒二が『厄除け詩集』で、于武陵の詩「勸酒」で「花發多風雨 人生足別離」の句を〈ハナニアラシノタトヘモアルゾ 「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉と訳したことで知られるようになった言葉です。
この、漢詩を七五調に訳す井伏鱒二の流儀にならって、漢詩を訳していく松下緑の『漢詩に遊ぶ』という本があります。
▲松下緑著・柳川創造編『漢詩に遊ぶ』(2006年7月25日第1刷、集英社文庫)
単行本初版のときは、『「サヨナラ」ダケガ人生カ』(2003年、集英社)というタイトルでした。
その文庫版解説を、フレディ松川というお医者さんが書いているのですが、その文章を次のような一節で締めくくっています。
ちなみに、この本には書かれていないが、〈「サヨナラ」ダケガ人生ダ〉という井伏鱒二の名訳が生まれたのは、鹿児島の錦江湾だという。当時、新人作家だった井伏が、林芙美子といっしょに桜島に文芸講演会に行った帰りの船の甲板で、海を見ながら、林に井伏にこう声をかけた。
「井伏君、さよならだけが人生よね」と。
歌手のさだまさしが、井伏鱒二から直接聞いた話だそうだ。
この「鹿児島の錦江湾」で、という話がほんとうなら、鹿児島在住者としては、「鹿児島文芸ミニ知識」になる、面白い話です。
残念ながら、これは事実誤認で、この挿話は、広島の因島での出来事です。
文庫版の担当者や校閲者は、こういう文章の要になる部分の事実確認を怠ってはいけません。
『井伏鱒二全集 第20巻』(1998年、筑摩書房)収録の「因島半歳記」という隨筆があります。
1958年に発表された隨筆で、昭和6年(1931)、井伏鱒二が、林芙美子とともに、広島の因島へ講演と知り合いの墓参にいったことが書かれています。その一節に次のようにあります。
その後十年ちかくたつて、私は林芙美子にすすめられて尾道へ行き、やはり林さんにすすめられて一緒に〔因島の〕三ノ庄に行つた。私の泊つてゐたうちの後とり息子が亡くなつたので、展墓の意味もあつた。岡の上のお墓に花を供へ線香に火をつけてゐると、岬の突端で汽笛を鳴らす音も聞えて来た。やがて島に左様ならして帰るとき、林さんを見送る人や私を見送る人が十人たらず岸壁に来て、その人たちは船が出発の汽笛を鳴らすと「左様なら左様なら」と手を振つた。林さんも頻りに手を振つてゐたが、いきなり船室に駆けこんで、『人生は左様ならだけね』と云ふと同時に泣き伏した。そのせりふと云ひ挙動と云ひ、見てゐて照れくさくなつて来た。何とも嫌だと思つた。しかし後になつて私は于武陵の『勧酒』といふ漢詩を訳す際、「人生足別離」を「サヨナラダケガ人生ダ」と和訳した。無論、林さんのせりふを意識してゐたわけである。
『井伏鱒二全集 別巻二』(2000年、筑摩書房)の詳細な「年譜」でも、1931年の広島の因島行きのことは詳述されているので、「サヨナラダケガ人生ダ」誕生に、「鹿児島の錦江湾」が入り込むすきはありません。
なぜ「鹿児島の錦江湾」という記憶違いが生まれたかと考えると、桜島にある林芙美子の文学碑の、
花のいのちは短くて、苦しきことのみ多かりき
という句と対になったような言葉なので、それとの混同から生じた間違いではないかと思われます。
酒の席なら、粋な間違いですが、 文庫本の解説としては、お粗末な失態です。