●my favorite things 281-290
my favorite things 281(2019年9月2日)から290(2019年11月23日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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281. 1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』(2019年9月2日)
282. 1949年の鹿児島市清水町の写真(2019年9月23日)
283. 2018年の龍星閣『澤田伊四郎 造本一路』と2019年の龍星閣『澤田伊四郎 造本一路 図録編』(2019年9月26日)
284. 1999年の鶴ヶ谷真一『書を読んで羊を失う』(2019年9月27日)
285. 1994年の渡辺外喜三郎「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙―」(2019年10月13日)
286. 1937年の『東京美術』(2019年10月23日)
287. 1939年の『東京美術』(2019年10月24日)
288. 1989年のアルフレッド・ジャリ『DAYS AND NIGHTS』(2019年11月1日)
289. 1987~1989年の『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2』(2019年11月22日)
290. 1989~1991年の『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3』(2019年11月23日)
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290. 1989~1991年の『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3』(2019年11月23日)
前回に続いて、ヘンリー・カウ(Henry Cow)のクリス・カトラー(Chris Cutler)が編集長として発行していたレコード+マガジン『RēR Records Quarterly』の写真を並べてみます。
今回は、1989年から1991年にかけての「Vol.3」。発行ペースが年1回になりました。
上の写真は、1989年の『RēR Records Quarterly Vol. 3 No.1』(1989年9月、RēR Megacorp – RēR 0301)のLPジャケット表面です。
アートワークは、EMT。
Third Step Printworks のスクリーン印刷。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 1』LP裏ジャケット
アートワークは、EMT。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 1』LPレコード・ラベル
アートワークは、CC(クリス・カトラー)。
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 1』(1989年、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)。
表紙写真Željko Vasović。
印刷Black Rose。A4サイズ60ページ。
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 1』目次
ピーター・ブレグヴァドの詩・対話・引用・絵が交錯する8ページのテキスト「Dispatches From Nod」を掲載。
「Volume 3 Number 1」の予約購読者特典は不明。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 2』(1990年9月、RēR Megacorp – RēR 0302)LP表ジャケット
アートワークは、EM Thomas。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 2』LP裏ジャケット
アートワークは、EM Thomas。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 2』LPレコード・ラベル
アートワークは、クリス・カトラー(Chris Cutler)。
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 2』(1990年、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)。
表紙は、Annick Castro & Dirk Vallonsの作品。写真はEric Vanhaeren。
印刷Black Rose。A4サイズ64ページ。
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 2』目次
「Volume 3 Number 2」の予約者特典は不明。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 3』(1991年9月、RēR Megacorp – RēR 0303)LP表ジャケット
アートワークは、EMT。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 3』LP裏ジャケット
アートワークは、EMT。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 3』LPレコード・ラベル
アートワークは、CC(クリス・カトラー)
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 3』 (1991年、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)
表紙は、J.J.Hummel。裏表紙は、Bill Ellesworth。
印刷Black Rose。A4サイズ64ページ。
▲『RēR Records Quarterly Magazine Volume 3 Number 3』目次
「Volume 3 Number 3」の予約購読者特典は不明。
『RēR RECORDS QUARTERLY Vol 3 No 3』が出た1991年、『RēR RECORDS QUARTERLY』の音源のいくつかがCD化されています。
RēR Megacorpのようなインディーズでも、音楽を発表するメディアの中心がレコードからCDに変わりました。
今では、そのCDがオールド・メディアになりつつあります。
▲『RēR Quarterly Vol.1 - Selections』(1991年、RēR Megacorp -RēR QCD1)
『The RēR QUARTERLY VOL. 1』から選曲したCD。
フロント・カヴァーのアートワークは、E.M.Thomas。
バック・カヴァーとブックレットのレイアウトは、Dirk Vallons。
▲『The RēR Quarterly - Selections From VOL.2』(1991年、RēR Megacorp -RēR QCD2)
『The RēR QUARTERLY VOL.2』から選曲したCD。
フロント・カヴァーのアートワークは、E.M.Thomas。
バック・カヴァーとブックレットのレイアウトは、Dirk Vallons。
ブックレットのテキストは、クリス・カトラー(Chris Cutler)。
▲CMCD (Six Classic Concrete, Electroacoustic And Electronic Works: 1970-1990)
(1991年、RēR Megacorp-RēR CMCD)
アートワークとブックレットのレイアウトは、Dirk Vallons。
Track 3のLutz Glandien「Es Lebe」は、『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 3 No. 2』に収録されていたもの。
Track 4のSteve Mooreの環境音もの「A Quiet Gathering」は22分の作品ですが、実際の時間以上の、長い長い時が過ぎてしまったかのように感情の時計に影響します。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
2008年のヘンリーカウ40周年ボックスを3つ並べてみます。
▲2008年の40周年にReR Megacorpから出た3つボックス『The Road: Volumes 1-5』『The Road: Volumes 6-10 with DVD』『The Studio: Volumes 1-5』
『The Studio: Volumes 1-5』には、50周年版で追加されたブックレット『HENRY COW Book 1 The Studio: Official Releases』を差し込んでいます。
さて、真っ先に何を聴きたいかと自分の感情に尋ねると、『CONCERTS』冒頭の、どんなときでも素晴らしいダグマー・クラウゼ(Dagmar Krause)が歌い出す「Beautiful as the Moon, Terrible as an Army Banners」、ロバート・ワイアット(Robert Wyatt)と一緒の「Little Red Riding Hood Hits The Road」、それとも「Ruins」でしょうか。
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289. 1987~1989年の『Rē Records Quarterly Vol. 2』(2019年11月22日)
今年は、アビーロード50周年であったり、キング・クリムゾン50周年であったり、10代の頃聴きはじめたものが、50年の年月を重ねて、その50周年記念盤がいろいろと出ています。
50年経つと、メンバーのなかに亡くなっている人もいます。
フランソワ・トリュフォー監督作品『恋のエチュード』(1971年)のエピローグで、トリュフォーのせかすような声が「15年がたった」と、時の経過を繰り返し詠嘆していたのですけど、その3倍をこえる月日が、とうに過ぎてしまっているわけです。
イギリスのグループHenry Cowも、1968年、ティム・ホジキンソン(Tim Hodgkinson)とフレッド・フリス(Fred Frith)がケンブリッジ大学でバンドを組んだことから数えて50年ということで、1年遅れですが、CD18枚+DVD1枚組ボックスの『The Henry Cow Box Redux: The Complete Henry Cow』をReR Megacorpからリリースしました。
その内容は、2008年の40周年に出た3つボックス『The Road: Volumes 1-5』『The Road: Volumes 6-10 with DVD』『The Studio: Volumes 1-5』に、新しく60ページのブックレット『HENRY COW Book 1 The Studio: Official Releases』と、新たに発掘された音源を収録したCD『HENRY COW Ex Box Collected fragments 1971-1978』を増補したものです。
ReR Megacorpのサイトでは、すでに2008年の3つの箱を持っている者のために、増補分のブックレットとCDの別売もしていて、今回はその増補分だけを入手しました。
新しいパッケージの1箱のボックスも魅力的ですが、無闇にものを増やすまいと自重するだけの自制心はまだあります。
ボックスのほかにも、アメリカのDuke University Pressから、ヘンリー・カウの本格的な評伝、Benjamin Piekut『HENRY COW: THE WORLD IS A PROBLEM』も刊行されて、今年は、ちょっとしたヘンリー・カウ祭です。
ヘンリー・カウのドラマー、クリス・カトラー(Chris Cutler)が、DIY精神で刊行していた、レコード+マガジンを以前このサイトでも取り上げました。
「第204回 1985~1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1』(2017年5月28日)」
「第205回 1985年の『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 1』の予約購読者へのおまけ(2017年6月27日)」
「第250回 1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 3』予約購入者へのおまけ(2018年12月5日)」
その続きを、ヘンリー・カウ祭に便乗して、やってみたいと思います。
もっとも、今回は『Rē RECORDS QUARTERLY』のLPと雑誌の写真を並べるだけですが。
『Vol.1 No.1』と『Vol.1 No.2』の2枚は新譜として購入しましたが、あとのものは中古で入手しました。
上の写真は、1987年の『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No.1』のLPジャケット表面です。
アートワークは、EMT。Third Step Printworksのスクリーン印刷です。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 1』(1987年3月、Rē Records – Rē 0201)LP裏ジャケット
アートワークは、Graham Keatley。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 1』LPレコード・ラベル
アートワークは、Chris Cutler。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 1』(1987年3月、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)。共同編集ティム・ホジキンソン(Tim Hodgkinson)。
印刷Black Rose Press。A4サイズ64ページ。
表紙写真は、ミュジック・コンクレートで知られる現代音楽作曲家ピエール・シェフェール(Pierre Schaeffer、1910~1995)。
巻頭に、ティム・ホジキンソンによるピエール・シェフェールのインタビュー。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 1』目次
Vol. 2 No. 1の、予約購読者へのおまけは不明。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 2』(1987年8月、Rē Records – Rē 0202)LP表ジャケット
アートワークは、EMT。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 2』LP裏ジャケット
アートワークは、Graham Keatley。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 2』LPレコード・ラベル
アートワークは、CC(クリス・カトラー)。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Numeber 2』(1987年11月、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)
印刷Black Rose Press。A4サイズ64ページ。
表紙は、AMMの1967年のアルバム『Ammmusic』に使われた、AMMのベース奏者キース・ロウ(Keith Lowe)のデザインをもとにしています。
その『Ammmusic』も1989年にRēR MegacorpからCD再発されています。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 2』目次
巻頭に、AMMの打楽器奏者エディー・プレヴォー(Eddie Prévost)によるAMMの回想。
ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)が、The Lodgeの詩のいくつかを手書きで寄稿。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 2』予約購読者特典
雑誌で特集されたAMMのベース奏者キース・ロウ(Keith Lowe)が1968年のコンサートのためにつくったポスターの複製。
1980年代にはまだ一般には普及していなかったインクジェット・プリンターで作成。
▲『Rē RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 2』予約購読者特典の冊子。A5サイズ12ページ。
John Oswaldの『PLUNDERPHONICS』(1987、November Books)
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 3』(1988年9月、RēR Megacorp – RēR 0203)LP表ジャケット
アートワークは、EMT。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
この号からレコードは「Rē RECORDS QUARTERLY」から「RēR RECORDS QUARTERLY」に。雑誌は「Rē QUARTERLY」のまま。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 3』LP裏ジャケット
アートワークは、EMT。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 3』LPレコード・ラベル
アートワークは、CC(クリス・カトラー)。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 3』(1988年、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)。
表紙絵Frank Key。
印刷Blackrose。A4サイズ52ページ。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 3』目次
「 Volume 2 Number 3」の予約購読者特典は不明。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 4』(1989年5月、RēR Megacorp – RēR 0204)LP表ジャケット
アートワークは、EMT。
Third Step Printworksのスクリーン印刷。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 4』LP裏ジャケット
アートワークは、EMT。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol. 2 No. 4』LPレコード・ラベル
アートワークは、CC(クリス・カトラー)。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 4』(1989年、November Books)表紙
編集クリス・カトラー(Chris Cutler)。
表紙絵Frank Key。裏表紙写真クリス・カトラー。
印刷Black Rose。A4サイズ52ページ。
▲『Rē Records Quarterly Magazine Volume 2 Number 4』目次
ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)の短編「Linh-Le」を、ブレグヴァドの手書きテキスト版で掲載。「Linh-Le」は、アトラス・プレスから刊行された短編集『Headcheese』(1994年)に収録されていますが、そのときは活字で。
▲『RēR RECORDS QUARTERLY Vol 2 No 4』予約購読者特典の冊子
Frank Key『HOUSE OF TURPS』(1989、Malice Aforethought Press)A5サイズ36ページ。
『Rē Records Quarterly Magazine』で現代音楽について連載していたロジャー・サザーランド(Roger Sutherland、1948~2004)旧蔵のものと思われます。
▲ロジャー・サザーランド(Roger Sutherland)の『new perspective in music』(1994、 Sun Tavern Fields)表紙・裏表紙・目次
1945年から1994年までの戦後50年の現代音楽の様々の動向についてまとめた概説書。
『RēR Records Quarterly Magazine』での連載がもとになっています。
現代の音楽は、現代の美術と密接して生まれているという考え方のもと書かれています。
ロジャー・サザーランドは小学校の教師をしながらScratch OrchestraやMorphogenesisで即興音楽をやっていた人です。
こういう存在が小学校にいると、子どもたちにとってのアートの可能性が広がっていくのではないかという気がします。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
ヘンリー・カウの50周年ボックス『The Henry Cow Box Redux: The Complete Henry Cow』で増補された、60ページのブックレット『HENRY COW Book 1 The Studio: Official Releases』と、新たに発掘された音源を収録したCD『HENRY COW Ex Box Collected fragments 1971-1978』。
ブックレットには、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)も「I (try to) Remember 'Desperate Straights'」をイラストもまじえて寄稿しています。
そのCDから、1978年の「Viva Pa Ubu」(ユビュ親父万歳)を。
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288. 1989年のアルフレッド・ジャリ『DAYS AND NIGHTS』(2019年11月1日)
イギリスに、アトラス・プレス(Atlas Press)という、小さな出版所があります。
1983年の立ち上げ以来、ダダ、シュルレアリスム、ウィーン・グループ、コレージュ・ド・パタフィジック、ウリポなど、非英語圏の前衛的な作品の英語翻訳を中心に、インテリやんちゃな「反伝統(anti-tradition)」的作品を、300部ほどの限定出版で、こつこつと出版し続けてきた、小さな出版所で、アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873~1907)のユビュ親父(Père Ubu)の第一声「くそっ!(merdre)」ではじまった、20世紀的な、「不条理な(absurd)」「変な(weird)」「おもしろい(hilarious)」といった形容詞が当てはまるテキストを発掘してきました。
アトラス・プレスのサイトをのぞいてみれば、お分かりになると思いますが、これだけ「反伝統(anti-tradition)」に偏った書目で、これまで36年続けてこられたこと、それだけで尊敬に値します。
今年の夏に、アトラス・プレスのWEBサイトが全面的にリニューアルされました。
絶版とされていた本のうち在庫整理で出てきた本を「古書」として販売しはじめて、小さな出版所がこれからどう継続していくのか、模索しているのだなと思いました。
その新しいサイトをながめて、本棚の奥にあったアトラス・プレス本を久しぶりに引っ張り出すと、本が日に焼ける経年変化は嫌いではないので構わないのですが、紙にシミが出ている本が多くて、鹿児島のような湿気の多い土地では、こまめに曝書しないといけなかったなと反省しました。
写真は、1989年に出た、アルフレッド・ジャリの『DAYS AND NIGHTS』の50部限定版の表紙です。
アルフレッド・ジャリの最初の長編小説『日々と夜々 ある脱走兵の物語(DAYS AND NIGHTS, Novel of a Deserter)』(オリジナルの『Les Jours et Les Nuits, roman d'un déserteur』は1897年刊行)のアレクシス・リキアード(Alexis Lykiard、1940~ )による英訳と、『日々と夜々』と同時期に書かれた短編「アルケスティス異聞(THE SOURCES OF OTHER ALCESTIS)」(オリジナルの「L’Autre Alceste」は1896年発表)のジョン・ハーマン(John Harman)による英訳を合わせた1冊です。
アレクシス・リキアードは、ギリシャ系のイギリスの作家で、ロートレアモン、ジャリ、アルトーの英語への翻訳者です。
序文と解説は、アトラス・プレスの編集者でアルフレッド・ジャリの研究者アラステア・ブロッチー(Alastair Brotchie)が書いています。
「アルケスティス異聞」の装画は、わたしのサイトでたびたび取り上げている、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)が描いています。
思い返せば、アトラス・プレスの存在を知ったのも、「第204回 1985~1986年の『Rē Records Quarterly Vol. 1』(2017年5月28日)」で紹介した『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 1』に掲載されていた、アトラス・プレス3冊目の本『ATLAS ANTHOLOGY THREE』(1985年)の広告で、その目次にブレグヴァドの名前があったことがきっかけでした。
▲『Rē Records Quarterly Vol. 1 No. 1』(1985年、Recommended Records)掲載の『ATLAS ANTHOLOGY THREE』(1985年、ATLAS PRESS)の広告。 アラステア・ブロッチー(Alastair Brotchie)とマルコム・グリーン(Malcolm Green)によって編集された、ロマン派からダダ、シュルレアリスム、ウィーン・グループ、コレージュ・ド・パタフィジック、ウリポを通して現代にいたる「反伝統(anti-tradition)」的作品の英語翻訳を中心としたアンソロジー。
ピーター・ブレグヴァドは「OBSERVED, IMAGINED, REMEMBERED(観察して、想像して、想い出して)」を寄稿。
内容的には「IMAGINED, OBSERVED, REMEMBERED(想像して、観察して、思い出して)」の順番になるのですが、このときのタイトルでは「OBSERVED(観察して)」が先でした。
▲アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry)『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』(1989年、ATLAS PRESS)の著者署名と扉
50部限定のハードカヴァー版。176ページ。
『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』の翻訳者アレクシス・リキアード(Alexis Lykiard)と、「アルケスティス異聞(THE SOURCES OF OTHER ALCESTIS)」の挿絵を描いたピーター・ブレグヴァドの署名があります。
▲アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry)『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』(1989年、ATLAS PRESS)のピーター・ブレグヴァドの装画から。
どういう経緯で「アルケスティス異聞(THE SOURCES OF OTHER ALCESTIS)」にブレグヴァドの絵が使われるようになったのか分かりませんが、ブレグヴァドの原画はカラーだと思われるので、単色印刷だと挿絵として今ひとつ映えないのが残念。
ブレグヴァドの1985年のアルバム 『KNIGHTS LIKE THIS』 (Virgin)のような色づかいだったのではないかと思います。
アルケスティスはギリシャ神話に登場する、死を運命づけられた夫の身代わりに命を差し出した女性で、そのことに心打たれたヘラクレスが死の国から彼女を救うという神話ですが、ジャリはその話の構造をソロモンの話に転用して、芥川龍之介の「藪の中」のように多様な視点、5つの視点から語って、副題にあるように「五つの物語より成るドラマ」を作り上げています。
▲ 『アルフレッド・ジャリ』(1969年5月15日発行、思潮社)表紙
「アルケスティス異聞」には、邦訳があり、ジャック=アンリ・レヴェスク編、宮川明子訳『アルフレッド・ジャリ』(1969年5月15日発行、思潮社)に収録されています。
▲J.H.ROSNY『THE XIPEHUZ』(2008年、ATLAS PRESS / The London Institute of ’Pataphysics)の表紙と扉
ステープル2個所綴じ32ページ。
アトラス・プレスは、2007年にアルフレッド・ジャリ全集の第2巻として、『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』を含む、Alfred Jarry『THREE EARLY NOVELS(三つの初期小説)』を刊行しています。ほかに『パタフィジシャン・フォストロール博士言行録(Exploits and Opinions of Doctor Faustroll, Pataphysician)』『絶対の愛(Absolute Love)』 を収録。
そのとき、非売品のおまけとして、配布されていた冊子です。
2007年版『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』の105ページ(1989年版では142ページ)に、フランスの作家ロニー( J.H.ROSNY、1856~1940)のSFの古典とされる中編小説「クシペウス(XIPEHUZ)」(1888年)への言及があり、そのことを補完するため、その英語訳を冊子にしたものです。
大冊の本編でなく、こうしたサプリ(supplement、補足・補遺)的な冊子づくりを得意とする版元でもあります。
入手しにくいのが難点ですが、手にできると嬉しいです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』を見ていたら、他愛のない連想ですが、カースティ・マッコール(Kirsty MacColl、1959~2000)の歌うキンクス(THE KINKS)のカヴァー「Days」が思い浮かびました。
シングル盤もアナログ盤も出ていましたが、手もとにあるのはCDのみ。
カースティ・マッコールの2枚目のアルバムに収録されています。
ちょうどアナログ盤からCDへの移行期で、そのころからCDばかり買うようになりました。
『日々と夜々(DAYS AND NIGHTS)』と同じ1989年に出たアルバムです。
その1989年が、もう30年前の話です。カースティ・マッコールがいなくなって20年になります。年をとるはずです。
▲Kirsty MacCollの2枚目のアルバム『Kite』(1989年、Virgin、ビクター)日本盤CD。
▲Kirsty MacColl『Kite』の2005年再発CD。英Virgin版CD。
▲Kirsty MacColl『Kite』の2012年再発2枚組CD。英Salvo版CD。
▲THE KINKS『THE KINKS are THE VILLAGE GREEN PRESERVATION SOCIETY』(オリジナル盤1968年PYE、写真は1998年のEssencial版CD)
「Days」のSTEREO版とMONO版を収録。
レイ・デイヴィスの声ならMONO版、メロトロンの響きならSTEREO版。
Beatlesの「A Day In The Life」とも響き合っています。
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287. 1939年の『東京美術』(2019年10月24日)
戦時下の東京美術学校校友会の会報『東京美術』の続きです。
第十六號(1939年2月21日発行、東京美術學校校友會)。
表紙の写真は「16世紀頃の英國の透細工。恐らくは酒場臺のドアならん。」
表紙が酒場の入口になっているわけで、洒落ていると思えば洒落ています。
鹿児島の古本屋さんで買い求めたのですが、太平洋戦争開戦前の『東京美術』がどういう経緯で鹿児島の古本屋さんにおさまったのか、その経緯は分かっていません。
たぶん、いろんな物語があったんだろうなと思います。
▲『東京美術 第十六號』(1939年2月21日発行、東京美術學校校友會) 目次
それまでの目次にくらべ、簡素化されましたが、Tean-Marc Campagne 庄司榮吉譯「ピカソとドランを星占ひする」、盬釜忠麿「文字を借りた二つの話」と、「戦時下」を感じさせないテクストも並んでいます。
▲『東京美術 第十六號』(1939年2月21日発行、東京美術學校校友會) 奥付
編輯兼發行人は、高村豊周。
巻末の1ページ広告は、ヨット鉛筆、美蘭社、ホルベイン洋画材料研究所、三星ゑのぐ。
▲『東京美術 第十八號』(1940年2月18日発行、東京美術學校校友會)表紙
▲『東京美術 第十八號』(1940年2月18日発行、東京美術學校校友會)目次
「岡田三郎助先生追悼」の号。
「興亜青年勤勞報告(國)隊學生隊參加記」という「戦時下」の文章がある一方、庄司榮吉(1917~2015)の「素描」では、「肉體を蔽ひ隱した貴方の聲ばかり聞いてゐると私はそれが貴方のものではなく、セツクスを持たない幻覺の樣な氣がするのです。私はうんざりする程、レコードを聞かされてゐます。」「眞紅の玉はプロステイテユエの樣な不潔な聯想を手繰らせ、無色透明な玉は冬の青空の深さを以て私の頭を蔽ふ。」といった表現で、ボードレール的退廃に近づこうとする文章もあって、ほっとします。
▲『東京美術 第十八號』(1940年2月18日発行、東京美術學校校友會)巻頭の文章
当時の校長、芝田徹心(1879~1950)の「皇紀二千六百年の新春を迎えて」と題した、美術報国の志をもって、皇道精神を中軸とした新文明新文化の完成のため、奮励努力をもとめる、という勇ましい文章。
▲ 『東京美術 第十八號』(1940年2月18日発行、東京美術學校校友會)奥付
編輯兼發行人は、高村豊周。
巻末の1ページ広告は、ヨット鉛筆、美蘭社、ホルベイン洋画材料研究所、三星ゑのぐ。
『東京美術』6冊をまとめて購入したので、『旬刊 美術新報』第一號をおまけしてくれました。
▲『旬刊 美術新報』第一號(1940年8月25日発行、日本美術新報社)表紙
▲『旬刊 美術新報』第一號(1940年8月25日発行、日本美術新報社)裏表紙
高島屋・三越・松坂屋の美術部そろいぶみ。
▲『旬刊 美術新報』第一號(1940年8月25日発行、日本美術新報社)から「我が國新文化建設の重任を擔ふ人々」グラビア
『旬刊 美術新報』は、太平洋戦争開戦前の1941年8月、美術雑誌統制で誕生した美術誌のひとつです。
美術雑誌の統制を主導したメンバーが「我が國新文化建設の重任を擔ふ人々」と、堂々とグラビアになっています。
例えば、この人たちが「表現の不自由」展のようなものを組織したら、どういうことになるのかと考えてしまいました。
軍から出向者もふくむ戦時下の文化官僚の「有能」さで、ちゃきちゃきと粛々と進行していきそうです。
そして、なんとも無自覚なグロテスクな展示になりそうです。
グラビアのキャプションには、
「我が國文化の新體制はすべて課長の頭に練られる」
「殊に文化面の再編成には筆に口に並々ならぬ努力が拂われてゐる」
「この六ケしいお顔からも時々諧謔も出れば警句も聞かれます」
「謹嚴なる態度は些の隙を見せず氏の前には社會の木鐸を以て任ずる各社々長も薩張り値打がない、殊に映畫雜誌の統制では非凡の手腕を認められた。詩人として有名である」
「これからの我が國新文化の參謀本部である情報局の中でもわれ等と最も深い接觸面を持つ第三課にあつて高邁なる理想と見るからの精力を以て今後の指導に當られる」
と臆面もないことばが連ねられています。
「映畫雜誌の統制では非凡の手腕を認められた」ことと「詩人として有名である」ことが矛盾しない世界です。
「表現の不自由」を強いる側が、グラビアに出て、自分のふるまいに一点の疑問も持っていないのが、怖いです。
太平洋戦争の前に刊行された『旬刊 美術新報』第一號ですが、「聖戦」「英霊」「新しき國防美術文化」「美術新体制」「新文化」といったことばが、それが当たり前のように使われています。
このラッパを吹く人たちはすがすがしい気持ちかも知れませんが、このラッパを聞いて心は躍りません。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
「集會所食堂」ということばに、学食のことを思い出したので、ゴドレイ&クリーム(Godley & Creme)の1978年のアルバム『L』から、
「Art School Canteen」(美術学校の学食)を。
夕暮れ時の空いた学食の、何者でもないものたちの物憂さ。
▲Godley & Creme『BODY OF WORK 1978 - 1988』(2017年、Polydor/Caroline)
ゴドレイ&クリームの1978~1988年のアルバム『L』(1978年)、『FREEZE FRAME』(1979年)、『ISMISM』(1981年)、『BIRDS OF PREY』(1983年)、『HISTORY MIX VOLUME 1』(1985年)、『GOODBYE BLUE SKY』(1988年)の6枚をまとめたCDボックス。
▲Lol Creme/Kevin Godley『CONSEQUENCES』(2019年、Caroline)
オリジナル盤は1977年Mercury。プロモ-ション用音源もふくめた5枚組CDボックス。英国盤としては、1977年リリース以来初めての全曲CD化。
「ひねくれポップ」とよばれた音楽がありました。
その名づけが正しいのか疑問でしたが、ゴドレイ&クリームやXTCを「ひねくれポップ」の代表と称する人たちもいました。
その、もっともこじらせたポップ・ミュージックを、Lol Creme/Kevin Godley『CONSEQUENCES』(2019年、Caroline)とGodley & Creme『BODY OF WORK 1978 - 1988』(2017年、Polydor/Caroline)の2つの可愛らしいボックスで、ほぼ網羅し、堪能することができます。
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286. 1937年の『東京美術』(2019年10月23日)
東京上野の美校こと、東京美術学校の校友会会報です。
昭和12年(1937)12月18日発行の第12号です。
東京や大阪の古本屋やネット古書店で見かけたとしても、たぶん食指は動かないのですが、鹿児島の古本屋さんで見かけると、手が伸びます。
どういう経緯で鹿児島まで来たのだろうと興味をひきました。
東京美術学校の後身、東京藝術大学はわたしの母校でもあるので、これも何かのご縁かと買い求めました。
1937年から1940年の号が6冊あって、まとめて購入したので、太平洋戦争開戦前の1941年8月、美術雑誌統制後に出た『旬刊 美術新報』第1号もおまけしてもらいました。
今のところ、太平洋戦争開戦前の『東京美術』が鹿児島にたどりついた経緯は分かっていません。
その書影を並べてみます。
▲『東京美術 第十二號』(1937年12月18日発行、東京美術學校校友會)扉
おもいがけず、いきなりフェルナン・レジェ(Fernand Léger、1881~1955)。1937年の美校は、こういう雰囲気だったのでしょうか。
▲『東京美術 第十二號』(1937年12月18日発行、東京美術學校校友會)目次
囲みケイの使い方が、昭和初期の美意識を受け継いでいる感じがします。
目次に卒業生戦死者の追悼記事。「戦前」ではなく、まさに「戦時下」「戦中」です。
6冊の『東京美術』誌面に通奏低音のようにあるのは「戦時下」ということで、卒業生の戦死記事があたりまえのようにあります。
▲『東京美術 第十二號』(1937年12月18日発行、東京美術學校校友會)奥付と巻末広告
編輯兼發行人は、香取秀治郎(香取秀真、1874~1954)。鋳金家・歌人。
巻末の1ページ広告は、美蘭社、トンボ鉛筆、ヨット鉛筆、三星ゑのぐ。
「集會所食堂」とあるのは、東京藝大美術学部の大浦食堂の前身なのでしょうか。
▲『東京美術 第十三號』(1938年2月16日発行、東京美術學校校友會)表紙
▲『東京美術 第十三號』(1938年2月16日発行、東京美術學校校友會)目次
▲『東京美術 第十三號』(1938年2月16日発行、東京美術學校校友會)扉
写真は、Sean Collas。
▲『東京美術 第十三號』(1938年2月16日発行、東京美術學校校友會)見出しの写真
扉や見出しの写真の配置は、まさに1930年代のインターナショナルなモダニズム様式というべきか。
▲『東京美術 第十三號』(1938年2月16日発行、東京美術學校校友會)奥付
編輯兼發行人は、高村豊周(たかむらとよちか、1890~1972)。鋳金家で、高村光太郎(1883~1956)の弟です。
編集後記に「総動員」ということばも登場。
巻末の1ページ広告は、美蘭社、トンボ鉛筆、ヨット鉛筆、三星ゑのぐ。
▲『東京美術 第十四號』(1938年7月2日発行、東京美術學校校友會)表紙
▲『東京美術 第十四號』(1938年7月2日発行、東京美術學校校友會)口絵
戦時下とはいえ、「口絵」はまだ戦争画ではありません。
「大洋州、野蕃人の藝術」「スヱーデン、10歳の少女の書いたお姫様の像」
「大洋州、野蕃人の藝術」に、南洋進出の気配はあります。
▲『東京美術 第十四號』(1938年7月2日発行、東京美術學校校友會)目次
▲『東京美術 第十四號』(1938年7月2日発行、東京美術學校校友會)奥付
編輯兼發行人は高村豊周。
▲『東京美術 第十四號』(1938年7月2日発行、東京美術學校校友會)巻末広告
巻末の1ページ広告は、美蘭社、トンボ鉛筆、ヨット鉛筆、ホルベイン洋画材料研究所、三星ゑのぐ。
「画翠」の名前もあります。
▲『東京美術 第十五號』(1938年12月19日発行、東京美術學校校友會)表紙
▲『東京美術 第十五號』(1938年12月19日発行、東京美術學校校友會)口絵
舟越保武の名前があります。
▲『東京美術 第十五號』(1938年12月19日発行、東京美術學校校友會)目次
▲『東京美術 第十五號』(1938年12月19日発行、東京美術學校校友會)奥付と巻末広告
編輯兼發行人は高村豊周。
巻末の1ページ広告は、トンボ鉛筆、香蘭社、ヨット鉛筆、ホルベイン洋画材料研究所、美蘭社、三星ゑのぐ。
写真が20枚を超えたので、次回に続きます。
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285. 1994年の渡辺外喜三郎「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙―」(2019年10月13日)
2019年10月10日の『南日本新聞』掲載の死亡記事によれば、鹿児島大学の国文学の先生で、中勘助(1885~1965)の研究者だった渡辺外喜三郎さんが、「鹿児島市の介護施設で2017年10月14日、老衰のため亡くなった」そうです。95歳。
亡くなられて2年経ってからの公表でした。 (以下敬称略)
写真の本「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙―」(1994年3月25日、勘奈庵)は、渡辺外喜三郎(1922~2017)が主宰していた鹿児島の文芸同人誌『カンナ』(1953年『薩南文学』として創刊~1997年第143号終刊)のあゆみを、その同人誌を送り続けていた牧祥三との往復書簡を通してたどった、1冊です。
牧祥三(1907~2013)は、1929年から1954年まで、第七高等学校造士館、鹿児島大学文理学部でドイツ語を教えていました。その後、京都の立命館大学にうつり、大阪外国語大学の学長を務めた人で、渡辺外喜三郎は七高生時代に牧祥三からドイツ語を学んでいます。
「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙―」は、七高時代の先生と教え子の、1954年から1993年までの約40年間にわたる、文学をめぐる交歓の記録であり、そこから『カンナ』の作品や作家の姿がかいま見えてくる構成になっています。
『カンナ』の105号(1983年5月)から137号(1994年3月)まで、「牧先生の手紙」というタイトルで連載されていました。
手もとにある本は、「第258回 1966年の『詩稿』10号(2019年2月22日)」から「第265回 1992年の『児玉達雄詩十二篇』(2019年3月3日)」で取り上げた児玉達雄(1929~2018)に、渡辺外喜三郎から贈られた献呈本です。
鹿児島の古本屋で入手しました。
▲渡辺外喜三郎「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙」(1994年3月25日、勘奈庵)扉
児玉達雄は、『カンナ』の同人でもあり、牧祥三も、渡辺外喜三郎宛の書簡で《児玉達雄氏の家伝に材を置いた小篇は、今迄のこの作家のすこし難解な、しかし又独自の魅力をもった歴史小品とちがって、彼の複雑な思いがこめられているようです。私は「カンナ」の誌上を、この有能な人がふたたび賑わすようになったことを大変よろこび期待しています》(1988年3月4日)などと感想をのべています。
こうした文章を読むと、児玉達雄に同時代の読み手がいたのだなと、ちょっと安心します。
一方で、「有能な人」という評価は、児玉達雄が、その才を生かし切れなかったことを示しているのではないかという、苦みも感じます。
▲渡辺外喜三郎「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙」(1994年3月25日、勘奈庵)奥付
『南日本新聞』の渡辺外喜三郎の死亡記事では、《55年に季刊の文芸同人誌「カンナ」を創刊》とありました。
何を典拠にしたのか分かりませんが、「『カンナ』の流れとともに ―牧祥三先生の手紙」を読むと、そう単純に言い切れないようです。
『カンナ』は、鹿児島大学文理学部の知覧出身の学生が中心になって、1953年に創刊された『薩南文学』という学生同人誌からはじまり、渡辺外喜三郎は学生からの誘いで参加します。
『薩南文学』は1954年、第6号から『文苑』と改名し、1955年3月発行の第8号で、中心になった学生たちの卒業をむかえ、存続の危機がおとずれます。
卒業生たちが戻ってこれる、よりどころにしようと、1956年5月発行の『文苑』第9号から、渡辺外喜三郎が編集の中心になり、継続されることになります。
『文苑』から『カンナ』に誌名を変えたのは、1964年4月の第35号からになります。
ですから、単純に「創刊」ということであれば1953年、渡辺外喜三郎が編集の中心になった号ということであれば1956年、『カンナ』に誌名変更ということであれば1964年ということになります。
青山毅『古書彷徨』(1989年3月27日発行、五月書房)収録の「渡辺外喜三郎氏と《カンナ》」によれば、青山毅にカンナ創刊の時期を尋ねられた渡辺外喜三郎は、次のように答えています。
「カンナ」の創刊発行年月日ですが、少々ごたごたしますが、この雑誌ははじめ学生同人誌「薩南文学」から出発、六号から「文苑」と改名――その「文苑」は三十四号までつづき、三十五号から「カンナ」となりますが――、私が責任を持ってやるようになったのは「文苑」第九号からで、「カンナ」のほんとうの創刊はそれからだと思っていますので、昭和三十一年五月三十日としてください。
ですから、渡辺外喜三郎主宰の『カンナ』の創刊は、1956年というのが妥当かと思われます。
鹿児島の古本屋で中勘助関連の本を買ったときに、ありがちなことですが、渡辺外喜三郎の署名がある本に出会うことが多い気がします。
▲渡辺外喜三郎編『中勘助随筆集』(1985年6月17日第一刷発行、岩波文庫)
ブックオフで購入。短い便りが挟まれていました。
▲渡辺外喜三郎『鶴のごとし ―中勘助の手紙―』(1993年4月5日、勘奈庵)
1947年から1965年まで、中勘助から渡辺外喜三郎に送られた手紙をまとめた本。
これも献呈本でした。
▲渡辺外喜三郎『鶴のごとし ―中勘助の手紙―』(1993年4月5日、勘奈庵)奥付
中勘助から渡辺外喜三郎に送られた手紙のなかで、鹿児島から贈られた食べ物のことが書かれていると、なんだか、おいしそうに見えます。
鹿児島から何を贈るのかの見本にもなっています。
御手紙とかるかん確に頂きました。有り難うございます。かういふ結構なかるかん実ははじめてで一同大喜びで楽しみに賞味してゐます、先刻も皆で薄茶をいれました。(1953年1月18日)
御恵送のカルカン今御存知の下の書斎の暖炉のそばで鵜の話を清書してゐるところへ届きました。厚く御礼申上げます。丁度午後の茶の時間なので家内と早速茶を入れて賞味しました。(1953年12月1日)
暮に御送りいたゞきましたお漬物とても気に入り先日「オイ櫻島大根のお漬物おいしぞ」と元気な声でベッドの上からさけびビツクリいたした程でした。(中勘助代 和子 1956年1月8日)
「文旦漬」あり難う存じました。御めづらしく、ほんとに結構にいたゞきました。病後御酒をいたゞかなくなりましたせいか殊に甘いものを喜ぶやうになりました。(中和子 1956年7月1日)
御立派な鰹節誠に有り難う存じました。お正月用につかはせていたゞきます。(中和子 1956年12月20日)
お珍しいお菓子をお送り下さいまして有り難うございます。早速賞味しました。家の者は皆もともと甘党ですが私も病気以来酒をのみません為か非常な甘党になり皆に驚かれるくらゐよく食べます。時には汁粉の注文を出したりもします。(1957年1月10日)
蜜柑を沢山御送り下さいまして有り難う存じます。(1957年12月13日)
御地名産の文旦漬を御送り下さいまして難有う存じます。(1958年12月22日)
羊羹難有く賞味しました。歯は四月八日に全治、一本とりましたから多少の不便はありますが羊羹なら何事もありません。(1959年5月23日)
あくまき有り難うございます。話にはきいてをりましたが賞味するのは今がはじめてで大層結構に頂きました。昨日届き今朝の朝食に。ちまきに似てよりうまいもの。昔からのかういふものには保存の目的でつくるうちに自然にうま味が出たかと思ふものが色々ありますね。漬物の類など。それからアクを種々に使ふのも興味があります。こんにやくをつくるなど偶然からか、あのシンラツなものをアクで処理して食物にする。アクマキは全く私好み、黄粉が家になかつたので砂糖でたべました。家の者も皆うまがつてたべました。(1959年6月7日)
名物のお菓子をお送り下さいまして有り難うございます。早速賞味しました。(1959年12月27日)
カゴマ名物のアンマクをお送り下すつて有り難うございます。大好物です。(1960年6月5日)
アクマキは皆とても好きで、殊に私はをかしいやうに食べます。(1960年6月7日)
お国名物日田の羊羹有り難うこざいます。家内はもとよりそのほかの者も皆相当の甘党なので大喜びで頂いてをります。(1960年8月23日)
御恵送の文旦漬今届きました。有り難うございます。(1960年12月30日)
アッマキ一昨日、おはがきは今届きました。アッマキは家中とても好きで大喜びで頂いてゐます、まだ一巻残つてゐます。(1961年6月6日)
御地名物の文旦漬と山川漬をお送り下すつて有り難うございます。文旦漬はいつも戴きますし知つてゐますが山川漬といふのは初めてゞ、いかにも私好みらしいので楽しみにしてゐます。(1961年12月14日)
(アクマキの)御心ざしほんとに嬉しく存じます。中も私も妹も大好物になつてしまひましたが、おこしらへになる御手間を思ふとほんとに申譯なく存じます。ほんとにほんとに有難うございました。(中和子 1962年7月2日)
只今は御便りを昨日は大好物の文旦漬をたくさん有難う存じました。(中和子 1962年12月16日)
大好物のあくまきを有り難うございます。丁度、羽島の新茶をもらひましたので毎日楽しみにして賞味してゐます。(1963年6月9日)
好物文旦漬をお送り下さいまして有り難う存じます。(1963年12月17日)
大好物のアクマキをありがとうございます。お葉書も先刻頂きました。アクマキは皆と楽しみに賞味してをります。(1964年5月27日)
御地方名物のうにをお送り下さいまして有り難うございます。厚く御礼申上げます。私は飲みませんので、家の者も一滴ものみませんが、かういふ物は皆大好物ゆゑ大喜びでをります。(1964年12月15日)
鹿児島からの「アクマキ」は、当たりの贈り物だったようです。読んでいるだけでも、アクマキに、きなこ砂糖をつけて食べたくなります。
中勘助という存在の魔法でしょうか。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
ペーター・ハントケがノーベル文学賞という報があって、むかし買った本を引っ張り出しました。
▲ペーター・ハントケ 羽白幸雄訳『不安 ペナルティキックを受けるゴールキーパーの・・・・・・』(1979年12月20日 新装第1版発行、三修社)表紙と奥付
1971年に翻訳がでた本の新装版です。
ペーター・ヴァイス 渡辺健 藤本淳雄訳『御者のからだの影・消点』(1979年12月20日 新装第1版発行、三修社)と一緒に新刊で買った記憶があります。
確か大きな帯があったのですが、どんずまりな印象のモノクロ写真の表紙が全部見えた方がいいと思って、はずしたのも覚えています。
あれから40年たってしまったのか、です。
何かペーター・ハントケ的な音楽を、と考えるのですが、ドイツ語圏のレコードは、ほとんど持っていなくて、思い浮かぶのは、ハイナー・ゲッベルス/アルフレード・ハースの作品ぐらいです。
▲HEINER GOEBBELS / ALFRED HARTH『FRANKFURT ― PEKING』(1984年、riskant)ジャケット表
▲HEINER GOEBBELS / ALFRED HARTH『FRANKFURT ― PEKING』(1984年、riskant)ジャケット裏
▲HEINER GOEBBELS / ALFRED HARTH『FRANKFURT ― PEKING』(1984年、riskant)Seite 1
▲HEINER GOEBBELS / ALFRED HARTH『FRANKFURT ― PEKING』(1984年、riskant)Seito 2
続けて、1990年代のグラウンド・ゼロ(GROUND ZERO)『革命京劇』になだれこめば、音楽で世界一周です。
世界をめぐるにも、いろんなルートがあります。
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284. 1999年の鶴ヶ谷真一『書を読んで羊を失う』(2019年9月27日)
鶴ヶ谷真一の書物エッセイ本は、新刊が出るのが楽しみな本のひとつです。一緒に並べてみました。
■鶴ヶ谷真一『書を読んで羊を失う』(1999年10月25日発行、白水社)
■鶴ヶ谷真一『猫の目に時間を読む』(2001年12月10日発行、白水社)
■鶴ヶ谷真一『古人の風貌』(2004年10月30日発行、白水社)
■鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』(2008年4月2日初版第1刷、平凡社)
■鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり』(2011年5月18日初版第1刷、平凡社)
■鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟』(2019年5月30日発行、白水社)
インターネット以前の書物の世界を、良い意味でのおじさんの蘊蓄を傾けて語る、20世紀的な読書人という印象が強かったのですが、最初の『書を読んで羊を失う』が1999年の刊行ですから、すべてWindows98 以後の本なのが、ちょっと意外な気がします。
新刊の『記憶の箱舟』は、作者がこれまで得意としてきた、「短編」を集めたものでなく、「書物=記憶の箱舟」を手がかりに、「長編」として逡巡し続けるので、「箱舟」というより「断片的な知識の浮遊する茫洋たる大海」に近い文章になっているようにも感じます。
それまでの、端正に、書物と読書の小さい宇宙を描いてきた5冊の書物エッセイに慣れ親しんだ身には、最後の「西行 月の記憶」「柳田国男 地名の記憶」のような独立した短編として読むことができる部分にほっとします。
鶴ヶ谷真一の短編に慣れ親しんだ体が、まだ長編に慣れていないというのが正直なところです。
『書を読んで羊を失う』『猫の目に時間を読む』の1ページの文字組が「40字×15行 13Q」で、『古人の風貌』『月光に書を読む』『紙背に微光あり』では「42字×16行 13Q」と、ゆるやかな随筆に向いた文字組だったものが、『記憶の箱舟』では「45字×18行 13Q」と窮屈になったことも、ある種の読みにくさの原因になっているような気もします。
▲鶴ヶ谷真一『書を読んで羊を失う』(1999年10月25日発行、白水社)
▲鶴ヶ谷真一『猫の目に時間を読む』(2001年12月10日発行、白水社)
▲鶴ヶ谷真一『古人の風貌』(2004年10月30日発行、白水社)
▲鶴ヶ谷真一『月光に書を読む』(2008年4月2日初版第1刷、平凡社)
▲鶴ヶ谷真一『紙背に微光あり』(2011年5月18日初版第1刷、平凡社)
読書と縁のうすい人にとって、鶴ヶ谷真一の文章は書物に淫しすぎているように思われるかもしれません。
鶴ヶ谷真一の書物エッセイに登場する、石川巌、岩本素白、柴田宵曲といった名前は、人によってはポルノグラフィの符丁と変わりないのではないかと思ったりします。
▲鶴ヶ谷真一『記憶の箱舟』(2019年5月30日発行、白水社)
『記憶の箱舟』で、もっとも意外だったのは、「あとがき」に「筆者はこれまでインターネットとは無縁で暮らし、その全体像の理解も、メディアとしての分析も手にあまるというほかない」とあったことです。
インターネットが前提となっているテキストがあふれかえっている現在、インターネットと無縁のまま書くことは、衰亡の方法と考える人もいるでしょうが、これは失ってはいけない方法のひとつだとも思います。
「あとがき」は、このように続いています。
インターネットの蔓延には、微量の居心地の悪さを感じることがある。最近、それが何に起因するものであるかにようやく気がついた。
索引とインターネットには決定的な違いがあるようだ。索引は一般的な知識を選別して個人化し、自身にも固有の有機的な知の体系に組み入れることを可能にする。ところがインターネットの場合、秩序と明解を求めたはずの検索作業によって、わたしたちは断片的な知識の浮遊する茫洋たる大海に投げ出される感がある。本は、そうした大洋に浮かぶ記憶の箱舟にたとえられよう。
「箱船」でなく「箱舟」であることに、一人の人間の心と身体の感覚をもとに考え、手に持った本の確かさを信頼する、作者の意図を感じます。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
ぼんやりした頭でも触発されて、「記憶」とは何だろうと考えていると、「過去は異国である。そこでは人々の生き方がまるで違う。」という、ある小説の冒頭が思い出されました。
イギリスの作家L.P.ハートレー(Leslie Poles Hartley、1895~1972)の『恋』の冒頭です。
外国映画が日本で公開されると、その原作の翻訳が文庫本になることが多いのですが、文庫本は読めても、映画自体は鹿児島で公開されない、そういった作品がたくさんありました。
地方都市あるあるの1つかもしれません。
ジョセフ・ロージー(Joseph Losey、1909~1984)監督の1971年作品『恋』が公開されたとき、角川文庫から、L.P.ハートレー原作の翻訳が角川文庫から出ていました。
冒頭部分を引用してみます。
序章
過去は異国である。そこでは人々の生き方がまるで違う。
わたしが偶然に日記帳を見つけたとき、それは子ども時代にイートン・カラーをしまっておいた、かなりいたんだ赤いボール箱の底にあった。誰か、たぶん母が、その当時からの記念品のかずかずをいれておいたのである。そこには、からからになった海栗(うに)の抜け殻が二つあった。錆びた磁石が、大きいのと小さいのとで二つあり、磁気はほとんどなくなっていた。きっちり巻きついてしまった写真のネガが数枚、封蠟が数個、三列に文字が並んだ小さな組合せ錠が一個、とても細い鞭索(むちづな)が一本、それに得体の知れないものが一つ二つあった。これはすぐには用途の明らかでない何かの部分品で、何に付属していたのか見当もつかなかった。それらの遺品は汚れているとは言えなかったが、さりとてきれいでもなかった。時代の寂(さび)がついていたのである。それらをもてあそんでいるうちに、五十年以上を経てはじめて、そのひとつひとつがわたしにとって意味していたことの記憶がよみがえってきた。あの二つの磁石の引力のように弱々しくはあったが、しかし同じ程度にははっきりと感じとれた。わたしとそれらの品々とのあいだに、何かが通い合った。旧知を認めたときの心からのよろこび、かつてこれらを所有していたときの、ほとんど神秘的な戦慄――六十歳を過ぎた身でありながらこのような感情をおぼえたことが、わたしには恥ずかしかった。
PROLOGUE
The past is a foreign country: they do things differently there.
When I came upon the dairy, it was lying at the bottom of a rather battered red cardboard collar-box, in which as a small boy I kept my Eton collars. Someone, probably my mother, had filled it with treasures dating from those days. There were two dry, empty sea-urchins; two rusty magnets, a large one and a small one, which had almost lost their magnetism; some negatives rolled up in a tight coil; some stumps of sealing-wax; a small combination lock with three rows of letters; a twist of very fine whipcord; and one or two ambiguous objects, pieces of things, of which the use was not at once apparent: I could not even tell what they had belonged to. The relics were not exactly dirty nor were they quite clean, they had the patina of age; and as I handled them, for the first time for over fifty years, a recollection of what each had meant to me came back, faint as the magnets’ power to draw, but as perceptible. Something came and went between us: the intimate pleasure of recognition, the almost mystical thrill of early ownership ― feelings of which, at sixty-odd, I felt ashamed.
記憶がよみがえるきっかけから始まる小説の出だしとして、最も記憶に残るもののひとつです。
小説全体は10代の柔らかい心には分からない部分も多かったのですが、記憶に残り続ける小説になりました。
▲L.P.ハートレー 森中昌彦訳『恋』(1971年11月30日初版発行、角川文庫)
カヴァーには、映画『恋』でマリアン役を演じたジュリー・クリスティー(Julie Christie)の写真が使われていて、好きな文庫カヴァーだったのですが、なくなってしまいました。
▲L.P.Hartley 『THE GO-BETWEEN』
神田の古書店の百均で買ったアメリカ版の裸本。
1953年のイギリスHAMISH HAMILTONの初版でもなく、1954年のアメリカKnopfの初版でもなく、アメリカのStein and Day社の1967年版の裸本です。
新潮社資料室の除籍本でした。
角川文庫版の前に、1955年に新潮社から、蕗沢忠枝訳で『恋を覗く少年』というタイトルでも出ています。
映画公開名にあわせて角川文庫版は『恋』というタイトルになっていますが、 「GO-BETWEEN」は仲介者・行き交う者といった意味です。
ジョセフ・ロージーの映画本編を見たのは、だいぶあとで、大学生になってからです。
ミシェル・ルグラン(Michel Lgrand、1932~2019)の劇伴音楽は、「恋」への幻想がくずれた傷口に塩を塗り込むようなところがあります。
魂に刻みこまれる音楽です。
▲『MICHEL LEGRAND ANTHOLOGY』(2013年、UNIVERSAL)
ミシェル・ルグランの15枚組ボックスのディスク14《JOSREPH LOSEY & MICHEL LEGRAND 1962-78》 から、
「THE GO-BETWEEM SYMPHONIC SUITE, FOR TWO PIANOS AND ORCHESTRA」を。
Robert Noble指揮、Michel Legrandピアノ、London Symphony Orchestra。
『恋(THE GO-BETWEEM)』のための映画音楽の交響組曲版です。
今では廃れた風習といっていいのか、かつて映画は、今のようなシネコンの1本立てでなく、2本立て、3本立てが当たり前でした。
映画好きの妄想で、どんな2本立てが理想的かな、と考えたりします。
まっとうなものばかりでなく、特殊な設定の2本立ても考えたりします。
甘そうなタイトルにもかかわらず、付き合い立てのカップルの気分を落ち込ませ、そのまま別れ話になりそうな、失敗が約束された2本立てがあるとしたら、実際には体験したことのない組合せですが、ジョセフ・ロージー監督作品『恋』とフランソワ・トリュフォー監督作品『恋のエチュード』の2本立てじゃないかなと考えたことがあります。
いずれも1972年に日本で公開された映画です。
1974年頃の名画座という設定で・・・、映画を見終えた2人のとげとげしい様子とか、妄想が止まらなくなりそうです。
どちらも大好きな映画ですが、絶対に孤独に1人で見るのがふさわしい映画です。
『恋』のミシェル・ルグラン、『恋のエチュード』のジョルジュ・ドルリュー(Georges Delerue、1925~1992) の映画音楽を聴くと、今でもあっという間に、思いっきり感傷的な気持ちになってしまいます。
▲アンリ=ピエール・ロシェ 大久保昭男訳『恋のエチュード』(1972年11月15日初版発行、角川文庫)
原題は『LES DEUX ANGLAISES ET LE CONTINENT(2人のイギリス女性と大陸)』です。
『恋のエチュード』という邦題は、よくぞここまで甘いものにしたものだと思いますが、苦い苦い小説です。
この本も映画公開に合わせて翻訳されました。鹿児島でも文庫本を買うことはできましたが、映画を見ることはできませんでした。
映画『恋のエチュード』の131分完全版を初めて見たのは、レーザーディスクだったと思うので、だいぶあとになります。
アンリ=ピエール・ロシェ(Henri-Pierre Roché、1879~1959)は、いわゆるディレッタントとして生涯を過ごした人で、美術史的にはマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp、1887~1968)の友人として見え隠れする人物です。
▲『恋のエチュード オリジナル・サウンドトラック』(1996年、BMGビクター)
原題『LES DEUX ANGLAISES ET LE CONTINENT(2人のイギリス女性と大陸)』、邦題『恋のエチュード』
1971年の作品。
音楽ジョルジュ・ドルリュー(Georges Delerue、1925~1992)
監督フランソワ・トリュフォー(François Truffaut、1932~1984)
撮影 ネストール・アルメンドロス(Néstor Almendros、1930~1992)
出演
ジャン=ピエール・レオ(Jean Pierre Leaud)
キカ・マーカム(Kika Markham)
ステーシー・テンデター(Stacey Tendeter、1949~2008)
ステーシー・テンデターが演じた、ミュリエルのテーマになっている旋律を思い浮かべると、胸がしくしく痛みます。
ジョルジュ・ドルリューの劇伴音楽には、人をセンチメンタルな気持ちにさせる、強い力を感じます。
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283. 2018年の龍星閣『澤田伊四郎 造本一路』と2019年の龍星閣『澤田伊四郎 造本一路 図録編』(2019年9月26日)
この2冊が、龍星閣の最後の本になるそうです。
龍星閣は、昭和8年(1933)に澤田伊四郎(1904~1988)が立ち上げた個人出版所で、大正・昭和初期の美意識に忠実な書籍を作り続けた版元です。
富安風生・山口青邨・水原秋桜子・山口誓子らの俳句関連書、松方三郎の山の本、棟方志功・竹久夢二・岸田劉生・恩地孝四郎・川上澄生・小村雪岱・田中恭吉らの美術関連書、邱永漢の『食は広州に在り』や石光真清の自伝四部作(龍星閣版ではなく、中公文庫でよんだくちです)など、多岐にわたりますが、高村光太郎の『智恵子抄』という大ロングセラーを出したことで知られています。
澤田伊四郎と、鹿児島の川内出身の出版人、秋朱之介(西谷操、1903~1997)とは、関わりがあるようなのですが、はっきりしたことは分かっていません。
最初期の龍星閣と秋朱之介との関わりについては、
第223回 1933年の富安風生『草の花』(2018年2月12日)
第224回 1934年の山口青邨『雜草園』(2018年2月12日)
第225回 1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』(2018年2月12日)
第226回 1934年の山口青邨『花のある隨筆』(2018年2月12日)
で書きましたが、龍星閣の歴史をまとめた『澤田伊四郎 造本一路』が上梓されたと知り、秋朱之介(西谷操)についての言及がないか、あるいは、秋朱之介の手紙などが残されていないかと、龍星閣に問い合わせてみました。
そうしましたら、 『澤田伊四郎 造本一路』と『澤田伊四郎 造本一路 図録編』の2冊をお送りいただきました。
残念ながら、秋朱之介と結びつく、昭和初期の資料は、ほとんど残されていないとのお返事でした。
届いた本を見て、活版印刷のピークであった、1920年代・1930年代の本づくりの美意識を守り続けた、紛うことない龍星閣の本だ、という第一印象をもちました。
図録は、ただただ眼福。外箱と一緒に撮影されているのが何より嬉しいです。
贅沢をいえば、龍星閣の本は、版が変わると装幀も変わっていたようなので、版ごとの装幀違いも書影として残してもらえたら、さらに嬉しかったのですが、それは贅沢がすぎるというものでしょうか。
同封されていた新聞記事のコピーを読むと、これが龍星閣の最後の本、ということで編集された本のようです。
私は、物事をしっかり決着させ、終わらせることができる人を尊敬しています。
ウィリアム・モリス(William Morris、 1834~1896)のケルムスコット・プレス(Kelmscott Press)が今も尊ばれているのは、モリス没後、シドニー・コッカレル(Sydney Cockerell、1867~1962)がしっかり後始末し、「ケルムスコット・プレス刊本全点の解題入りリスト」「ケルムスコット・プレス小史」を含む『ケルムスコット・プレス設立趣意書』を最後の刊本とした、引き際の鮮やかさがあったからだと思っています。
『造本一路』も、一時代を築いた龍星閣の最後を締めくくる、すばらしい本になっていると思います。
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路』と『澤田伊四郎 造本一路 図録編』の外箱と表紙の背
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路』(2018年8月31日発行)の外箱と表紙
およそ250ページの「澤田伊四郎の略年譜と著作・刊行物など」を中心に構成されています。
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路』の奥付
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路 図録編』(2019年4月19日発行)の外箱と表紙
「略年譜」の補遺、「龍星閣刊行の装幀本(写真抄)」のカラー書影を中心に構成されています。
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路 図録編』の奥付
▲龍星閣『澤田伊四郎 造本一路 図録編』から、秋朱之介とかかわりのある本の書影ページ
秋朱之介が装幀した『定型俳句陣』のキャプションは〈水原秋桜子随筆評論集『定型俳句陣』(昭和9年9月)背バンド付背革、英国製クロス装〉、『花のある随筆』のキャプションは〈山口青邨随筆集『花のある随筆』(昭和9年10月)背バンド付背革、花模様蠟引唐紙 天金〉とあるのみで、秋朱之介についての言及はありません。
▲水原秋桜子『定型俳句陣』(昭和9年9月15日発行、龍星閣)の「装幀 秋朱之介氏」と、山口青邨『花のある随筆』(昭和9年10月30日発行、龍星閣)の「秋朱之介装」
秋朱之介(西谷操)を調べている者にとって残念だったのは、『澤田伊四郎 造本一路』全編を通して、秋朱之介についての言及がなかったことです。
秋朱之介(西谷操)と澤田伊四郎は、まさに同じ時代を生きた人で、『澤田伊四郎 造本一路』には、秋朱之介の記述はありませんでしたが、秋朱之介とつながる記述は数多くありました。
そのいくつかを『澤田伊四郎 造本一路』からピックアップしてみます。
■5ページ 「貯金局」時代のことは竹内多三郎『京浜通信59号』(昭和57年7月5日)の引用。
残念ながら、秋朱之介(西谷操)についての言及はなし。
龍星閣からお送りいただいた二冊の『造本一路』のほかに、神奈川の詩人、竹内多三郎の貯金局についての文章のコピー(出典は不明ですが、たぶん横光利一についての本から)も同封されていました。
その竹内多三郎の文章に「監査室 西谷某。金沢某。尾崎某。(西谷は本人もセガレも現在ジャナリスト)」という記述がありました。
この文章は初見でした。
この「西谷某」は間違いなく、西谷操(秋朱之介)のことです。
西谷操は、文芸出版の世界から離れたあと、横浜市の記者クラブに席をおいて「みなと週報」というのを出していたそうです。残念ながら、その実態はご家族のかたもご存じありませんでしたが・・・。西谷操の息子さんも新聞社に勤めておられたので、竹内多三郎は、なんらかのルートで西谷操(秋朱之介)の消息を知っていたのだと思われます。
竹内多三郎の文章で、大正から昭和にかけての貯金局が、文学青年の溜まり場のような、不思議な職場だったことが分かりました。もうちょっと詳しく書き残してくれていたらなあ、と思うばかりです。
■11ページ 龍星閣初の書籍出版、富安風生処女句集『草の花』
澤田伊四郎が立ち上げた龍星閣が出した最初の本、富安風生の第一句集『草の花』について、秋朱之介は自分が編集していた雑誌『書物』7月号(三笠書房、1934)で、その装幀評を書いています。
■13ページ 龍星閣2冊目、山口青邨の処女句集『雑草園』
秋朱之介編集の雑誌『書物』(1934年8月、三笠書房)に掲載された龍星閣の『草の花』『雜草園』広告で、コピーを秋朱之介が書いています。
草の花については書物展望社の齋藤昌三氏が書物展望へ紹介し、小生も先月號書物で書いた。本書はほんとに落ちついた立派な美しい書物になつた。福田畫伯の装釘本書に於て實にしつくりと落ちつきを見せてゐる。俳人で隨筆家としての大家山口先生の本にふさはしい名装釘だ。(秋朱之介)
秋朱之介編集の『書物倶楽部』創刊号(裳鳥会、1934年10月)にも、龍星閣の『花のある隨筆』『草の花』『雑草園』『定型俳句陣』広告を掲載。
■14ページ 「〇同年9月15日、俳人水原秋桜子の随筆集『定型俳句陣』、同10月30日山口青邨の随筆集『花のある随筆』を刊行する。」
とだけあり、その2冊を秋朱之介が装幀したことには言及されていませんでした。
■17ページ 龍星閣は、1937年6月に松方三郎の『アルプス記』を出し、「山の本」も手掛け始めますが、昭森社時代の秋朱之介(西谷操)は、1936年6月刊の高畑棟材の『山麓通信』を手掛けていて、「山の本」の分野でもちょっと先を行っています。
■51ページ 川上澄生、55ページで五十澤二郎に言及。
秋朱之介(西谷操)は、昭和6年(1931)ごろ、横浜の五十沢二郎のやぽんな書房に居候して、川上澄生の『ゑげれすいろは』や『伊曽保絵物語』を制作していました。
■59ページ 1954年1月、龍星閣は、棟方志功版画集『板歓喜』刊行。
棟方志功と秋朱之介(西谷操)とのかかわりについては、「第256回 1934年の秋朱之介の裳鳥会刊『棟方志功画集』広告(2019年2月7日)」参照。
■134ページ 1959年の『著名限定本展覧会』についての記述
岩佐東一郎が、『書痴半代記』(1956年~1960年に『日本古書通信』連載。単行本初版は1968年・東京文献センター、2009年・ウェッジ文庫)収録の「書痴と道楽」に、次のようなことを書いていたことを思い出しました。
この間、ぶらりつと三越本店の「大正、昭和、限定版蔵書展」を見に行ったが、出品本の数々はどれも楽しく珍らしくなつかしかつたのである。書物展望社本、昭森社本、アオイ書房本、第一書房本、草木屋出版部本、白水社本、野田書房本、竜星閣本、媽祖書房(日孝山房)本、双雅房本、青園荘本、沙羅書店本、などのものは戦前からなじんだものだけに、時として涙ぐましくさえもなった。
(略)
ただこの展覧会でさびしく思つたことは、戦前、数々の道楽本を刊行した西谷操君の限定版が一冊も展示してなかつたことだつた。主催の愛書家サロン同人の諸君の手元に一冊もなかつたのは残念だつた。
1959年、秋朱之介(西谷操)が忘れられていたのは何故だったのか、不思議です。
ウェッジ文庫版『書痴半代記』の解説で、内堀弘がこの世代を「モダニズムの世代」とくくっています。
たとえば、一九〇〇年生まれが尾形亀之助、柳瀬正夢。一九〇一年が村山知義、岡本潤。一九〇二年が北園克衛、春山行夫。一九〇三年が林芙美子、瀧口修造。一九〇四年が城左門、正岡容。そして、一九〇五年に岩佐東一郎、田辺茂一。まさに、モダニズムの世代なのだ。
1903年生まれの秋朱之介(西谷操)や1904年生まれの澤田伊四郎もその中に入るのだなと思いました。
■146ページ 「サロン春」に言及
一時期銀座を拠点にしていた秋朱之介も「サロン春」に通っていたようです。秋朱之介(西谷操)は、矢野目源一と美容美術研究会というのを立ち上げて、自前で化粧品や香水をつくって、「サロン春」や「紫烟荘」の女給さんのメイキャップもしたことがあったそうです。
■151ページ 昭森社・森谷均と龍星閣・澤田伊四郎の対談
「第188回 1936年の『木香通信』6月号(2016年9月26日)」「第228回 1936年の東郷青児『手袋』(2018年3月27日)」「第233回 1936年の柳亮『巴里すうぶにいる』(2018年5月9日)」などで書いたように、森谷均が銀座で昭森社を立ち上げたとき、秋朱之介は深くかかわっていました。
■153ページ 「中村くんという製本屋」に言及
秋朱之介(西谷操)が造本のパートナーにしていた、中村重義です。
■163ページ 〈堀口大学さんの「ロオランサン詩画集」〉に言及
この昭森社の『ロオランサン詩画集』は、秋朱之介(西谷操)が長年あたためていた企画で、秋朱之介の自信作です。
「第229回 1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』(2018年4月4日)」参照。
こうして関連するような事項をたどってみると、澤田伊四郎と秋朱之介(西谷操)は、同世代の人間として、共通した美意識をもって理想の書物をめざしていたのではないかと思わずにはいられません。
澤田伊四郎が亡くなったのが、1988年10月8日。
秋朱之介の『書物游記』(書肆ひやね)が刊行されたのが、1988年9月8日。
再び、まじりあう時がなかったのかなあ、と思います。
それでも、そのタイミングに、何か魂の交歓みたいなものを感じてしまいます。
龍星閣全刊行本や龍星閣の手紙・ハガキ類(高村光太郎の未発表書簡を多数含む)は、澤田伊四郎の郷里、秋田県小坂村郷土博物館へ、竹久夢二関連の資料は、東京都千代田区日比谷文化館へ寄贈されたそうです。
昨年、大規模な竹久夢二展が開催されましたが、その龍星閣からの寄贈をもとにしたものでした。
わたしも、たまたま東京駅での待ち時間に、東京ステーションギャラリーで開催されていた竹久夢二展を見ることができ、澤田伊四郎が、ものすごい蒐集家だったことを体感することができました。
▲2018年の『夢二繚乱』展図録(千代田区/東京ステーションギャラリー/株式会社キュレイターズ)表紙
遅れてきた者の嘆きであり、繰り言になりますが、澤田伊四郎、秋朱之介(西谷操)のお二人がお元気だったときに、1920年代・1930年代の「造本」について一緒に語っていただいていたら、貴重な話をいろいろ聞くことができたのではないか、夢想するばかりです。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
押し入れの奥の段ボール箱を引っ張り出していたら、なつかしいレコード袋がいくつか出てきました。
これは、1980年代に鹿児島市にあった輸入盤屋さん「BESTTEN」のレコード袋。
あまり長続きしなかったレコード屋さんでした。
わたしの好みも偏っていて、欲しいようなレコードもあまり置いていなかったため、そんなに利用しなかったのですが、
鹿児島に輸入盤屋さんというものが根づかなかったのは残念でした。
思えば、地方都市にも当たり前のようにあちこち存在した小さなレコード屋さんは、ほんとうに街から消えてしまいました。
買った物と買った場所は、記憶として結びつくもので、Prefab Sproutの最初のアルバム『swoon』(1984年、Kitchenware Records)を、「BESTTEN」で買ったのを、今でも覚えています。
ネットでばかり物を買っていると、場所と結びつくことがないので、物の記憶も薄いものになってしまうのかもしれません。
▲Prefab Sproutの『swoon』(1984年、Kitchenware Records)のジャケット
▲Prefab Sproutの『swoon』(1984年、Kitchenware Records)ラベル Side One
▲Prefab Sproutの『swoon』(1984年、Kitchenware Records)ラベル Side Two
その『swoon』からSide One 5曲目「Cruel」を。
時は残酷です。過ぎ去ったものは取り返すことができません。
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282. 1949年の鹿児島市清水町の写真(2019年9月23日)
亡父・平田信芳のもとに残っていた写真の1枚です。
父が撮影した写真ではなく、旧制鹿児島二中・旧制七高の先輩、竹下宗夫さん(旧制七高理甲・昭和17年3月卒)からいただいた写真のようです。
裏に「昭24・6・24 清水町」と書き込まれています。
下に斜めに走っている線路は、日豊本線。
平屋が並んでいて、左手奥の、鹿児島市立清水中学校の校舎が目立ちます。
同じような画角で、多賀神社の参道から、現在の清水町を撮影してみました。
山の形は、ほとんど変わりませんが、高さ10mぐらいのビルが増えて、町の様子はだいぶ変わっています。
スーパーストアの「タイヨー」がある場所には、「みその温泉」があったのですが、調べてみると、「みその温泉」は昭和29年(1954)に建てられたので、昭和24年の写真には、まだ「みその温泉」もありません。
諏訪神社(南方神社)の鎮守の森が、昭和24年から、だいぶ小さくなったようすも分かります。
日豊本線の踏切の形が、当時の面影を残しています。昭和24年の写真を拡大すると、人影が見えます。
その白い人影は、旧制七高と新制鹿児島大学のはざまの時期にいた、父であってもおかしくありません。
今から70年前。そんな時期に撮影された写真です。
竹下宗夫さん撮影のものと思われる写真は、もう1枚あって、裏に「昭24・6・24 山形屋」とあります。
山形屋デパートの北面が写っている写真は、珍しいような気がします。
隣に「福建公司」という建物があります。
この型の市電に乗ったことはありません。
同じような画角で、現在の山形屋を撮影してみました。
現在、山形屋の北面を撮影するの難しくなっていますが、どんな様子になっているのでしょう。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
ロビン・ヒッチコック(Robyn Hitchcock)とアンディー・パートリッジ(Andy Partridge)という、2人の1953年生まれのイギリスのおじさまが組んだ『PLANET ENGLAND』(2019年、APE)。4曲収録のCD。
新譜です。アナログ盤も出ています。
この盤では、リードヴォーカルは、ロビン・ヒッチコックがとっていますので、アンディ・パートリッジの歌声を期待する向きには物足りないかも知れません。ビートルズ様式としかいいようのない音づくりで、こじんまりした地方都市のパブに似合いそうな音楽です
裏ジャケットの絵は、ヒルフィギュア(Hill Figure)とよばれる地上絵「サーンアバスの巨人(Cerne Abbas giant)」をもとにしています。
武器と思われる棍棒のかわりに酒瓶をもち、行儀良くパンツもはいています。
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281. 1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』(2019年9月2日)
本が本を引き寄せることがあります。
このところの貧書生の愉しみは、古本屋の1冊百円の古雑誌です。
児玉達雄の書き込みのある雑誌もまだ出回っていて、けっこう拾いものがあります。そうして手にした雑誌のなかから『文芸』1969年5月号(河出書房)をパラパラ読んでいると、「名著発掘」という1ページコラムが目に付きました。
そこで、詩人の吉岡実(1919~1990)が、村松嘉津(1906~1989)の『プロヷンス隨筆』(1947年8月20日発行、東京出版)を取り上げていました。
「ワ」に濁点で、「ヴァ」です。
吉岡青年の、戦後のすさんだ食生活、「すさまじい餓鬼道の午さがり。魂なき人の群」のころ、「私の肉体の飢えをあたたかく鎮めてくれた」書物として紹介していて、俄然興味がわいてきます。
さっそく、日本の古本屋サイトとアマゾン・マーケットプレイスで調べてみると、いわゆる値のついていない本で、1947年版(裸本)と1970年新版をあっさり入手することができました。
書影も見ないまま購入したのですが、届いた2冊には驚かされました。
最初の驚きは、1947年版『プロヷンス隨筆』の表紙絵が、木下杢太郎(太田正雄、1885~1945)だったことです。
「第241回 1942年の新村出『ちぎれ雲』(2018年7月23日)」で、木下杢太郎装幀の本について取り上げましたが、この本のことは知りませんでした。
本来なら木下杢太郎に装幀してもらいたかったのだと思います。すでに亡くなっていたため、その絵を表紙に使ったということだったようです。
▲『文芸』1969年5月号(河出書房)表紙
『文芸』誌が年に1回行っていた現代詩特集の号。
児玉達雄旧蔵と思われ、赤ペンや鉛筆の書き込みがありました。
思えば、今から50年前の雑誌です。
ビートルズは『アビイ・ロード』を録音中で、キング・クリムゾンがライブ・デビューしたばかりのころです。
▲『文芸』1969年5月号(河出書房)目次
「詩と小説」と題された、中村真一郎・大岡信。入沢康雄・天沢退二郎・金井美恵子の対談は、『金井美恵子全短編』や講談社文芸文庫の年譜には掲載されていません。
▲『文芸』1969年5月号(河出書房)1ページコラム「名著発掘」の吉岡実
吉岡実は冒頭「村松嘉津『プロヷンス隨筆』が出版されたのは、昭和二十二年八月二十二日である。」と書いていますが、『プロヷンス隨筆』奥付では、「昭和廿二年八月二十日發行」となっています。
▲1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』扉
入手したのはカヴァー(ダストラッパー)なしの裸本でした。
木下杢太郎の絵が使われたのは表紙だけのようです。
書影を検索しましたら、カヴァー(ダストラッパー)は、絵を使わず、文字組みでレイアウトされたもののようです。
▲1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』扉の次ページ
表紙絵の木下杢太郎について、村松嘉津は跋文で「更に自分一番の喜びは、この小著が故太田正雄先生の御筆に成る草花の圖を以て飾られたことである。長く欽慕をつづけながら、つひに親炙する日の短かかつた身の不幸は、これに依つて半ば救はれた心地である。自分にこの喜びを許された御遺族の御親切に厚く御禮申上げる。」と書いています。
「この書をわがエミイル・ガスバルドヌに捧ぐ」ということばは、村松嘉津の夫、フランスのヴェトナム史研究者エミール・ガスパルドヌ(Emile Gaspardone、1895~1982)に捧げられたものです。
▲ 1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』目次
▲1947年の村松嘉津『プロヷンス隨筆』奥付
▲1970年の村松嘉津『新版プロヴァンス隨筆』外箱と表紙
『文芸』1969年5月号で、吉岡実は「私は美しい造本の再刊を待っている」と期待していましたが、翌年、『新版 プロヴァンス随筆隨筆』が、大東出版社から刊行されます。
『新版 プロヴァンス隨筆』の「序」で村松嘉津は、次のように書いています。
著者は同書(『プロヷンス隨筆』)が出てほゞ半歳の後、一身上の都合により、進駐軍の特許を得て離國した。從つて同書に關する世の批評についてほとんど知る所がなかつたが、最近に到り、東大佛文教授井上究一郎氏が雜誌『文藝』(昭和四十三年八月號)の「名著発掘」欄に同書を「發掘」して下され、更に昨年四月二十八日の朝日新聞學藝欄「旧刊紹介」に、作家菊池重三郎氏が同書を擧げてをられる旨を他から知らされ、いづれにも意外な喜びを覺えた。
ところで、井上氏はその文末に、同書が「もう一度陽の目を見ない」理由は、「かな使い用字において、著者が嚴格な純粹國語論者だからである」と、先づは同情的に書かれたわけだが、倖ひにして著者はその後、正漢字と歴史的假名遣ひの使用を敢てして、『新版プロヴァンス隨筆』を刊行しようという大東出版社主岩野喜久代女史を知るの幸運を得た。これ亦野田宇太郎氏の斡旋に負ふ所であり、同氏への謝意は言ふを俟たないが、特に岩野女子の寛量には感佩する所大である。
村松嘉津『プロヷンス隨筆』は、『文芸』誌の「名著発掘」欄で、井上究一郎と吉岡実のふたりが、この一冊を世に知らしめたいと「発掘」していたわけです。こんな本は、なかなかないのでは、と思います。
井上究一郎は、隨筆集『水無瀬川』(1994年8月25日初版第1刷発行、筑摩書房)に収録された「味覚の散文詩」(初出は、平凡社『太陽』1967年8月~12月連載)でも、《村松嘉津夫人の名著『プロヷンス隨筆』の一篇「愛の林檎」(ポム・ダムール)のなかには、そう呼ばれるトマトがプロヴァンスの食生活にいかになくてはならない野菜であるかが、じつに美しく語られている。》と書いていて、フランス料理についての文章の書き手として、絶大の信頼をおいていたようです。
▲1970年の村松嘉津『新版プロヴァンス隨筆』表紙
1970年新版には、木下杢太郎の絵は使われていません。
見返しには自身の手になるプロヴァンス地方のスケッチが使われています。
▲1970年の村松嘉津『新版プロヴァンス隨筆』扉
木下杢太郎の表紙絵に続いて驚いたのは、アマゾンマーケットプレイスの最低価格で入手した新版が、献呈本だったことです。
きれいな本で、読まれた形跡はありません。
著者から「岡田茂様」に送られています。
たぶん、あの「女帝」ということばとともに世間を騒がせた1982年の「三越事件」で、三越社長を解任された岡田茂(1914~1995)です。
岡田茂と村松嘉津の関係を調べてみると、黛敏郎(1929~1997)らが1981年に発足させた「日本を守る国民会議」の「呼びかけ人」のなかに村松嘉津、「発起人」のなかに岡田茂の名前がありました。
古書は、有象無象いろんなものを引き寄せてしまうと、改めて思いました。
ちょっと怖いです。
▲1970年の村松嘉津『新版プロヴァンス隨筆』目次
「臓物料理」までは、1947年版と同じ並びですが、それ以降は、構成を変えています。
最後に曾根正藏の詩「ガスパルドヌ村松嘉津夫人に贈る」が収録されています。
曾根正藏は太田正雄(木下杢太郎)のもとで医学を専攻したした人で、1948年に渡仏する村松嘉津に贈られた詩です。
1970年新版には木下杢太郎の絵はつかわれませんでしたが、木下杢太郎の存在は忘れられていません。
村松嘉津にとって、良き「日本」とは、木下杢太郎のような人がいるところ、だったのかもしれません。
▲1970年の村松嘉津『新版プロヴァンス隨筆』奥付
ヴィシー政権のフランスと戦時下の日本は国交がありましたから、そういう日仏のつながりが続いていたことも、戦後のアメリカ的ものが日本にもたらしたものを嫌う心の持ちかたの根のひとつとして、あったのかなあ、と思います。
村松嘉津の「正漢字、歴史的假名遣ひ」への執着は、親仏嫌米のアメリカ嫌いみたいなところがあったのかも知れません。
以前、鹿児島のある学校の戦歿者を追悼する文集を読んでいましたら、弟さんが戦死した兄を追悼する文章のなかに、お兄さんから、仏領インドシナの大学への留学生の募集があって、留学すると兵隊にとられないと勧められて、弟さんは仏領インドシナの大学に留学した、という話を書いていて、そういう選択肢も実際にあったんだとびっくりしました。もちろん、戦後になってから日本への帰還はたいへんだったようですが。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
プロヴァンス地方の音楽盤が手もとにあれば、よかったのですが、ビゼーでもなかろうし・・・。
生活感がある、ということで思い浮かんだのが、フランスのトラッド系バンド、マリコルヌ(Malicorne)の第3作『ALMANACH』(1976年、hexagone)でした。
プロヴァンスからは、だいぶ北の音楽です。
Almanachは、歳時記・生活暦などと訳されますが、毎年繰り返される1月から12月まででの月ごとの楽曲12曲が収録されています。
8ページの歳時記ブックレットもきちんと編集されていて、一つの作品としてのアルバムづくりの見本のような作品です。
フランスの伝統的な楽曲を演奏していますが、イギリスのフェアポート・コンヴェンションやスティーライ・スパンのように、アンプで増幅する電気楽器を使うトラッド・グループです。1970年代のフランスで結構売れていたようで、入手しやすい盤ですが、マリコルヌのレコードは、とても音が良いので、オーディオのテストにも使えそうです。
▲Malicorne『Almanach』(1976年、hexagone)のアルバムジャケット
手もとにある盤は、 ヘキサゴン(hexagone)レーベルのフランス盤ですが、「Disc'Az」のロゴも加わっているので、1976年の盤ではなく、CDが出回る時代に少しの枚数作られたレコードではないかと思います。クレジットがないのではっきりしませんが。
いい音がするレコードです。
▲Malicorne『Almanach』(1976年、hexagone)ラベル Face A
▲Malicorne『Almanach』(1976年、hexagone)ラベル Face B