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my favorite things 381-385

my favorite things 381(2022年9月8日)から385(2022年12月18日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

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 381. 2020年のギャヴィン・ブライアーズ『プラトニックな《HA HA》』(150年1月1日・2022年9月8日)
 382. 1986年の『黙遙』創刊号(2022年10月19日)
 383. 1936年の赤井光惠遺稿『野薊』(2022年11月4日)
 384. 2022年のHalf Cat Records(2022年11月14日)
 385. 2022年の桜島雪景色(2022年12月18日)
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385. 2022年の桜島雪景色(2022年12月18日)

桜島雪景色01

 

久し振りの桜島の雪景色に、海岸沿いを散歩してみました。

 

桜島雪景色02

桜島雪景色03

桜島雪景色04

桜島雪景色05

 

すぐ山頂に雲がかかります。

 

桜島雪景色06

桜島雪景色07

 

雲が次から次と流れていきます。

 

桜島雪景色08

桜島雪景色09

桜島雪景色10

 

天気がよければ、夕焼けで赤く染まった桜島を見ることができたのですが、みるみる曇っていきました。

 

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384. 2022年のHalf Cat Records(2022年11月14日)

1983年と2022年のHalf Cat Record

 

1983年に発表された、スラップ・ハッピー(Slapp Happy)の7インチ盤「EVERYBODY'S SLIMMIN' / EVEN MEN & WOMEN!」に続き、今年、ハーフキャットレコーズ(Half Cat Records)が、2枚目のレコードをリリースしました。
実に39年ぶりのことです。

「Records」と複数形を名のっていながら、ながらく、レコード番号「HC001」のみしかなかったレーベルですが、ようやくレコード番号「HC002」の作品が出たのです。近来の快事です。作品は、

  Anthony Moore & Peter Blegvad
   HUMAN GEOGRAPHY US
     part I - VII
   spoken texts, guitar & field recordings
 Dorn, Black, Brautigan, Crowley, Pynchon, Willeford

新譜とはいえ、今年はじめて発表する音源ではなく、2019年に、resonance.fm で放送された50分の番組をそのままアナログ盤にしたものということで、ワクワクする気持ちは少しおさまってしまいますが、それでも長年つきあってきたミュージシャンがレコードを出すというのはうれしいかぎりです。

その放送については、「第293回 1943年の『書物展望』五月號(2019年12月9日)」の《今日の音楽》でも少し書いていました。

 

野外録音の環境音やアンソニー・ムーアのギターをともなった、ピーター・ブレグヴァドが、トマス・ピンチョン(Thomas Pynchon)、ジャック・ブラック(Jack Black)、リチャード・ブローティガン(Richard Brautigan)、エドワード・ドーン(Edward Dorn)、チャールズ・ウィルフォード(Charles Willeford)、ジョン・クロウリー(John Crowley)といった20世紀アメリカの作家のアメリカを巡るテキストを朗読する作品です。
アルバムのコンセプトを考えたのは、アンソニー・ムーアだったようです。
歌曲を期待する人には向きませんが、反復する楽音とブレグヴァドの深い声の響きが、酔いどれた「路上」の世界を、どこか天上的な、神話的なものにつなげようとしているのではないかと感じます。

アナログ盤は、ウェブで公開されているmp3音源より、ふくやかな響きです。

 

1983年のスラップ・ハッピー(Slapp Happy)「EVERYBODY'S SLIMMIN' / EVEN MEN & WOMEN!」のラベルは、活字を使わず、ブレグヴァドの絵と文字のみでした。
クラインの壷のような猫だと思いました。
レコード番号は「HC 001」。

「EVERYBODY'S SLIMMIN' / EVEN MEN & WOMEN!」のラベル01「EVERYBODY'S SLIMMIN' / EVEN MEN & WOMEN!」のラベル02

 

2022年のアンソニー・ムーア&ピーター・ブレグヴァド『HUMAN GEOGRAPHY US』のラベルでは、半分猫だけがイラストです。
レコード番号は「HC 002」。
半分猫の絵の印刷は「HC 001」のほうがクリアです。「HC 002」は「HC 001」のラベルをスキャンして作成したものかもしれしません。

『HUMAN GEOGRAPHY US』のラベル01『HUMAN GEOGRAPHY US』のラベル02

 

Anthony Moore & Peter Blegvad『HUMAN GEOGRAPHY US』のアルバムジャケット裏側に、朗読テキストの出典情報があります。

Anthony Moore & Peter Blegvad『HUMAN GEOGRAPHY US』のアルバムジャケットの裏側

「91/200」とナンバリングされています。

 Two Half Cats presents
  Moore & Blegvad
     in

HUMAN GEOGRAPHY US

Featuring spoken texts taken from the prose work of six 20th century American writers: a booze-biased mapping of the US in a human geography of words, music and field recordings. The texts are read by lifelong pal, Peter Blegvad, poet, illustrator, musician. Two Half Cats drawing, and images supplied by PB. The guitar pieces, field recordings and concept by AM.

 

Running order:
1. Pynchon  2. Black  3. Brautigan  4. Dorn  5. Willeford  6. Crowley  7. Brautigan again

 

Sources:
Jack Black, ch. 10, You Can’t Win, published 1926 by Macmillan.

Richard Brautigan, “In the California Bush”, “The Shipping of Trout Fishing in America Shorty to Nelson Algren”, “The Mayor of the Twentieth Century”, Trout Fishing in America, published 1967 by Four Seasons Foundation.

John Crowley, “Bottom of a Bottle” and “Ahead and Behind”, Little Big, published 1981 by Bantam Books.

Edward Dorn, “Real Towns Have No Parking Meters (The Miles City Bucking Horse Sale and The Last Rites of the True West)” and “Of Western Newfoundland, Its Inns & Outs”, Way West, published 1993 by Black Sparrow Press.

Thomas Pynchon, “Episode 50”, Mason & Dixon, published 1997 by Henry Holt and Company / Picador.

Charles Willeford, ch. 7, I Was Looking for a Street, published 1988 by Countryman Press.

 

Produced by Anthony Moore   Mastering by Deepgrooves   Half Cat Records 002, Spring 2022

Thanks to Dirk Specht und reiheM for organising the concert HUG US LIVE KÖLN 2. OKT 2019
And special thanks to Jennifer Dunbar Dorn for being so warmly supportive
And not least to Chloë & Martine for being so Chloë & Martine

 

このアルバムの基本は「a booze-biased mapping of the US in a human geography(人文地理学における、酒に偏ったアメリカ地図作成)」ということのようです。『酒とバラの日々(Days of Wine and Roses)』というアルコールにおぼれていく映画もありましたが、微醺の想像世界の地図作成は、地図制作者の冷静さもあって、どこか醒めています。

 

「第293回 1943年の『書物展望』五月號(2019年12月9日)」の《今日の音楽》で書いたときは、朗読される本の書名までしか分かりませんでしたが、章タイトルまで掲載されています。

非英語圏の聴き手としては、そのテキストまで掲載してくれたら、ありがたかったのですが・・・・・・。

 

『HUMAN GEOGRAPHY US』のアルバムジャケットは見開きになっていて、その中面に使われている2つの図版も空想の旅へ誘います。

『HUMAN GEOGRAPHY US』中面

 

左側に、1908年ごろ、G. E. Bulaが作成した、聖書の教えから構成された架空の地図「Gospel Temperance Railroad Map(福音節制鉄道路線図)」。
「Beer Lake(ビール湖)」「ラム酒瓶湖(Rum Jug Lake)」「Gin Castle(ジン城)」「Wine Heights(ワイン丘)」「Scandal Beach(スキャンダル浜)」「コカイン公園(Cocain Park)」「虚栄州(State Of Vanity)」などアルコールにまつわる悪徳につながる地名が散りばめられている地図です。
鉄道路線は「Decisionville(決定町)」始発で、「Gambledale(賭博谷)」や「City Of Destruction(破壊市)」行きや「Celestial City(天上市)」行きに路線が別れています。
アメリカ議会図書館(Library Of Congress)所蔵のものが使われています。

右側に、おもに1930年代の大恐慌時代に、鉄道無賃乗車で各地を移動していたホーボーたちが秘密の連絡のために使っていたサインやシンボルが並べられています。

 

ハーフ・キャット・レコーズ(Half Cat Records)は、ようやく2枚目ですが、この半分猫の絵を冠したレコードの3枚目、レコード番号「HC 003」がでることを期待するばかりです。

   ハーフ・キャット・レコーズ(Half Cat Records)

 

【2022年11月30日追記】

ピーター・ブレグヴァドは、2018年9月からインスタグラムを始めています。私はSNSにアカウントを作ってこなかったので、遠目に存在を知るばかりだったのですが、この機会に、しっかり見てみようと、閲覧用にアカウントを作って、ブレグヴァドのインスタグラムを最初の投稿から見てみました。

5年間で約700枚の写真と数編の動画が投稿されていて、それをまとめて見る体験は、思っていた以上に、ブレグヴァドの創作の喜びを感じることのできる、かけがえのない時間になりました。ちゃんと見ることができて、よかったです。

音楽関連の投稿は少なく、ブレグヴァドの造形作品制作にまつわる写真が主のインスタグラムです。
今まで知ることのできなかった創作活動の現在進行形をかいま見ることができる場になっていて、700枚の写真を見ていくと、描き続け、作り続けずにはいられない人だということを納得してしまいます。

凧(kite)をモチーフにした連作が気になりました。その「もの」として材質感も魅力的なのだろうなと感じました。

SNSとは縁のない人間ですが、こんなにいい場所なら、最初から見ておけばよかったと少し後悔しています。

Covid19のロックダウンのあった2020年に投稿数がほかの年の倍以上になっていました。その時期の投稿で、造形作品に添えた「Good to have a hobby」がありました。
自分の創作を仕事でなく「趣味」といっているようにも見えますが、ブレグヴァドは「アマチュア(amateur)」という立ち位置を、1970年代から変えることがなかったのだなとも感じさせます。


ブレグヴァドの インスタグラムをしっかり見てみようと思ったのは、病気の話を聞いたからです。
2022年8月の投稿には、病院からの投稿があって、「recovering after scary relapse」というブレグヴァドの言葉もありました。その病院からの投稿も青のサスペンス劇みたくなっていて、ドラマチックです。

さいわい無事退院したようです。
11月のはじめには、パートナーのクロエ・フリーマントル(Chloe Fremantle)と二人展「Chloe Fremantle & Peter Blegvad‘Light Seeking Light’」をロンドンのRoyal Watercolour Society Gallery(RWS Gallery)で開催しています。見たかったです。

あと、『The Book of Leviathan』(2000年)の Levi と Rebecca のモデルだったブレグヴァド家の子どもたちがすっかり大きくなっていることにも、時を感じました。

 

     

秋の薔薇をいくつか。

秋の薔薇01

秋の薔薇02

秋の薔薇03

秋の薔薇04

秋の薔薇05

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

ピーター・ブレグヴァドのもうひとりの音楽パートナー、ジョン・グリーヴス(John Greaves)の新譜もでていました。
今度は、 ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire、1880~1918)の詩に、ジョン・グリーヴスが曲をつけた歌曲集『ZONES』(2022年、Signature)です。

John Greaves『ZONES』(2022年、Signature)01

John Greaves『ZONES』(2022年、Signature)02

 

サングラス姿には理由があるのでしょうか?

次の作品が収録されています。

01 Fête (祭)
 アポリネール『カリグラム ― 平和と戦争の詩篇 1913-1916』(1918)に収録。
 詩に「roses de Saadi(サアディの薔薇)」という言葉が使われています。
02 Mutation (交代)
 『カリグラム』に収録。
03 Zone 1 (地帯)
 アポリネール『アルコール(Alcools)』(1913)冒頭を飾る155行詩。40~65行部分のサミュエル・ベケット(Samuel Beckett、1906~1989)による英訳が使われています。
 『アルコール(Alcools)』には、「Cortège(行列)」「Crépuscule(たそがれ)」など、その後、音楽アルバムのタイトルや音楽レーベル名になった作品が収録されています。
04 Je Pense À Toi Mon Lou (君のことを思う、わがルウ)
 アポリネール『ルーへの詩』(1955)に収録。
05 Le Pont Mirabeau(ミラボー橋)
 『アルコール(Alcools)』に収録。
 レオ・フェレ(Léo Ferré)の歌が有名ですが、ジョン・グリーヴスが新たに曲を書いています。
06 Zone 2
 『アルコール(Alcools)』(1913)に収録。
 フランス語。1~39行から19行を抜粋。
07 Nuit Rhénane(ラインの夜)
 『アルコール(Alcools)』に収録。「ラインの歌(Rhénanes)」連作から「ラインの夜」。
08 Liens (接続)
 『カリグラム』に収録。
09 Zone 3
 『アルコール(Alcools)』に収録。
 「Zone 2」と同じ部分のサミュエル・ベケットによる英訳。
10 Au Lac De Tes Yeux (あなたの目の湖で)
 『ルーへの詩』に収録。
11 Le Cuetteur Mélancolique (メランコリックな見張番)
 アポリネール『メランコリックな見張番(Le Cuetteur Mélancolique)』(1952)に収録。
12 Zone 4
 「Zone 1」と同じ部分のフランス語。
13 La Loreley(ローレライ)
 『アルコール(Alcools)』に収録。「ラインの歌(Rhénanes)」連作から「ローレライ」

 

参加ミュージシャンのなかに、Himiko Paganottiの名前もありました。
フランスのベース奏者ベルナール・パガノッティ(Bernard Paganotti)と画家の直子パガノッティ(Naoko Paganotti、中部直子)の娘さん。
「Himiko」は漢字ではどう書くのでしょうか。

 

ヴェルレーヌ、アポリネールと続く、ジョン・グリーヴスのフランス歌曲集を聴くと、秋の深まりを感じます。

 

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383. 1936年の赤井光惠遺稿『野薊』(2022年11月4日)

1936年の赤井光惠遺稿『野薊』外函表紙

 

国会図書館のデジタル化資料送信サービス(個人送信)で、恩地孝四郎編輯の書物研究誌『書窓』(1935~1944、アオイ書房、発行人・志茂太郎)のバックナンバーを読んでいましたら、『書窓』第二巻第四号(1936年1月)の投稿欄「書窓サロン」に、次のような投稿がありました。

 故・赤井光惠
 十一月十八日 月曜 雨
終日雨が降つて寒し。「書窓」讀み終る。此
[こ]の雜誌は趣味豐かで、[そして]何處までも新鮮で、高尚である。印刷のまづい現代の雜誌界に獨り異彩を放つてゐると言[い]つても過言ではない。此[この]「書窓」を見てから如何に印刷が大事であるかを考へさせられる。内容、印刷、装幀すべての点[點]にまづい現代の雜誌を讀む人々の瞳が少しでも早く印刷重視に目覺め[、]良い雜誌を清新な氣持で讀める樣に早くしたいものだ。その点[點]に於て此の「書窓」の出現は誠に喜ばしく[、]今後の發展が益々期待される。號を重ねる毎にその見事な出來榮えに一段と驚異の瞳を見張りつゝも[、]編輯者、印刷者の日夜の苦心を思はずにはゐられない。「書窓」が益々良くなつて行くのもかうした日夜の苦心の結果の賜である。《[ ]は『野薊』テキストとの異同》

(編者記)右は本誌を愛讀されてゐた明星學園長赤井米吉氏令嬢の遺稿中から父君が抜いて送られたもの、舊臘若くして逝去された、茲に掲載すると共に心から冥福を祈る。いま慈父によつて遺稿集の上梓が企てられてゐる 非常によく文筆に親んでゐられた。

この遺稿集が実現したとすると、きっと『書窓』好みのセンスでつくられたものだろうなと思い、調べてみました。
国会図書館などネットで検索可能な図書館には所蔵されていませんでしたが、日本の古本屋サイトで調べてみると、1冊だけ売っているところがありました。
心魅かれるのものがあったので、注文してみました。

届いたのは、間違いなく、1936年の恩地孝四郎(1891~1955)の装幀本、赤井光惠遺稿『野薊』という、かわいらしい本でした。


『野薊』の「小傳」によれば、赤井光惠は、大正4年(1915)2月19日に生まれ、昭和10年(1935)12月21日に20歳で亡くなっています。
『野薊』は、16歳のときに腹膜炎で危篤になってから「歌よめる人はおほかた病めるらし病む人の心しみじみと知る」と自ら歌ったように、病とともにある日常を歌った短歌と日記から選ばれた、124ページの小さな、しかし、作り手の愛おしむ気持ちが伝わってくる本です。


本を編んだ、父親の赤井米吉は、明星学園の創設メンバー。『野薊』の「あとがき」に出版の経緯が書かれています。

   あとがき

 「歌集の出版!」果敢なくもそんなことを病床のつれづれに空想しつゝ彼女は逝きました。もとより習作に過ぎぬ歌反古、印刷に附する價もありませんが、在りし日の記念として遺れるものゝ慰めの爲かくはものした次第です。
 彼女の病床生活に慰めと希望と力とを與へたものは歌の生活でした。若しそれがなかつたら恐らく大半は空虛なものになつたでせう。それをかくも充實したものにさせられたのは全く高田浪吉、藤森朋夫兩先生の御指導御鞭撻の賜であります。その兩先生の御歌をもつて巻頭を飾られたのは感謝の極みです。
 表紙の繪は曾て彼女の病床の慰めにと石山喜世子先生がものして賜られた色紙です。彼女はいたく喜び枕頭に飾つて明暮眺めてゐたので、そのまゝ用ひさして頂いたのです。冊子の題名もそれから取つたもの、厚く御禮申上げます。
 装幀、印刷等に關する一切の勞は恩地孝四郎先生を煩はし、又アルスの中村正爾氏の御協力を乞ひました。恩地先生の御編輯になる雜誌書窓が常に彼女の病床に送られ、美しい装幀印刷に慰められてゐたえにしに便つて、かゝる御苦勞を願つたのも悲しい親の心やりからです。
 空想の出版が諸先生の御好意でかくも美しく實現したのを彼女の靈はどんなにか喜び感謝してゐることでせう。何事につけても「有難う!有難う!」といふ彼女でありました。
  昭和十一年三月彼岸の日
                父記す

 

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)表紙

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)表紙

表紙の繪は曾て彼女の病床の慰めにと石山喜世子先生がものして賜られた色紙赤井光惠が書を学んだ石山喜世(1891~1943、旧姓・野村)の野薊の色紙が使われています。
石山喜世は日本女子美術学校日本画科出身の日本画家、菱田春草に学んだ人で書にも通じています。夫は日本画家の石山太柏(1893~1961)。

手もとにある本の表紙は、局紙がだいぶ焼けていて、元の状態は想像するしかありません。
歌も石山喜世のものでしょうか。筆文字を読むのは得意ではありませんが、次のように読み解いてみました。

わけてゆく
山ちのをくさしやししに
おとすみ
とほる
秋の
そらかも

(分けてゆく 山路の小草 しやししに 音澄みとほる 秋の空かも)

きちんと正しく読める方がいらっしゃいましたら、ぜひぜひご教授ください。


【2022年11月20日追記】
最初「とりは」読んでみた部分を「とほる」としてみました。「しやししに」と読んでいる部分の意味がはっきりしません。

 

【2022年12月6日追記】
初稿では「石山喜世は、菱田春草、横山大観に学んだ人」としていましたが、石山喜世・石山太柏の娘、角圭子が書いた回想録『大正の女 ある女流画家の生涯』(1966年、弘文堂)によれば、石山喜世が弟子入りしたの菱田春草だけで、横山大観との師弟関係はなかったようです。【2022年12月24日追記】吉村幸夫編『日本婦人録』(1930年、日本婦人録刊行会 )には、「父君の御趣味で女學校時代に日本畫をお學びになり、御自分も決して滿更でないところから、上京して女子美術學校の日本畫高等科に入られ、明治四十三年御卒業後は菱田春草氏に師事されました。ところが間もなく師の君の逝去に遭はれて、失望の餘り一時新潟の御家庭へ歸られると、また大正二年に父君が世を去られて仕舞ひました。かさねがさねの悲歎の中からも、軈て大に發奮する所あられて再び御上京、横山大觀氏の門を叩かれました。併し大觀氏は、『御婦人はぢきに結婚されるから』と言つて、ちよつと二の足をふまれると、『いえ斷じて結婚はいたしません』と誓はれて、やうやく御入門が叶ひました、然るにいち早く、御同門の石山太柏氏と御結婚が成り立ち、周圍を驚かされたといふ一挿話をお持ちになつて居ります。 」という記述もありました。
角圭子の『大正の女 ある女流画家の生涯』には次のように書かれています。
菱田春草の有名な「落葉」が第三回文展で受賞したのは、明治四十二年である。女子美術の学生だった喜世は、すでに学校の、古い純四条派の勉強にあきたらず、春草の門をたたくが、春草は弟子をとらぬ画家であった(喜世は、春草から「篁園」という雅号をもらったが、これを好まず、生涯本名の落款を用いた)。それきり、誰の門にも入らなかった。当時からの親友の話では、喜世にとって心服しうる画家は、菱田春草をおいてなく、他の画家にはつけぬ、という気位の高さだったという。》また、石山太柏と横山大観について《太柏は、なぜか、横山大観にはじめから憎まれていたといわれている。どちらが悪いのかは知らないが、父の青年時代に、先輩の不興を買う人間的要素は多分にあったであろう。横山大観に圧迫されると感じている少壮画家・太柏のそうした個人的怨恨ということも太柏の制作動機にあったかも知れない。》と書いていて、石山喜世・石山太柏と横山大観のかかわりは『日本婦人録』に書かれていたようなものではないようです。


【2022年12月8日追記】
山ちのを」 の「」と読んでいる部分は「遠」ではないか、また、続く部分には繰り返し記号が使われているのではないか、という指摘をいただきました。ただ、その場合も、どう読むのか解けていません。

 

【2022年12月18日追記】

次のように読むのではないかとの指摘をいただきました。

わけてゆく
山ちのをくささやさやと
おとすみ
とほる
秋の
そらかも

(分けてゆく 山路の小草 さやさやと 音すみとほる 秋の空かも)

「しやししに」と読んでいた部分の「し」は繰り返し記号で、そこを「さやさやと」と読むのではないかというご指摘です。
山路を分け入り、野草がさやさやとすれ合う音――身体的・近接的な表現から、澄み渡った秋の空という空間への広がりへ感じるすがすがしさを歌ったものと、解釈することもできそうです。
長く病床にある少女へのお見舞いとして贈った色紙だったことを考えると、薊の小さな絵の世界と、その上に広がっている澄み渡った空を感じさせる歌の組み合わせは、病床の少女の官能と想像力を満たす贈りものだったと思います。
歌が読み取れないと、贈りものとして、また、表紙として選ばれた理由に思いが至らないことになります。
その意図をくむためにも、しっかり読み解いてみたいものです。

「を」は「遠」の字から生まれた仮名で、その元の「遠」を生かした形で歌が成り立たないかとも考えましたが、今のところ、「山路の小草 さやさやと」かなと思います。
ほかに正しい読みがあると思われる方がいらっしゃいましたら、ぜひとも、ご教授ください。

 

【2022年12月24日追記】

石山喜世が日本画家なので、赤井光惠は絵を学んだと思い込んでいましたが、『野薊』収録の「小傳」には「昭和八年六月 健康恢復せるを以て、石山喜世先生につき書を學ぶ。」 とあります。「畫」ではなく「書」でした。思い込みで文章を書いてはいけないと反省しています。絵を学んだと書いていた部分を、書を学んだに訂正しました。

 

その「いたく喜び枕頭に飾つて明暮眺めてゐた」石山喜世から贈られた色紙について、赤井光惠も歌を残しています。

 

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)歌のページから

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)歌のページから

  石山先生に薊の畫かれある色紙を頂き愛でにし花なれば見たしと思ふ心しきりなり

うす墨の色よき見つつ秋の野に咲く野あざみの花の見まほし
病床のつれづれに見し野薊は諸草かれても咲きてあるべし

 

赤井光惠の歌を、いくつか抜き出してみます。

昭和四年(1929)
鶏頭の種をついばむ雀子は秋雨にぬれて立ち去りにけり

昭和五年(1930)
久々に森の中道通りけり草はしげりてあじあいゐの咲く
母上はわれの病をうれひつつ床のへ去らず見つめゐたまふ
月の夜を啼き明すらむ蟲の聲ききつつ戸をば閉しけるかも
ふと仰ぐみ空に月のかがやきてわすれし人を思ひ出だせる
首相狙撃の號外は出でぬ街上に初冬の風もかなしく吹けり

昭和六年(1931)
うれしさに心躍りて紺青の空にひびける我の聲かも
美しきつばさの音も輕ろやかに鷗飛び舞ふ羽田の海に
遠く聞くバツトの音に耳すましわが掌かたくにぎれる
夜はふけぬカンフルはかる看護婦の注射の針の光りつめたき
聯盟はいかにとばかり思ひつつ今日も暮れたり病み床に臥し

昭和七年(1932)
とげとげしく枝をはりたる落葉樹の梢に白き霜の朝かも
砲の音きさらぎの空にとどろける上海の戰ただに思へる
枯草の上を歩みて友達と龍膽(りんどう)摘みし日のなつかしさ
どうだんの繁みの中に雀等は雨の晴るるを待ちて居るらし
一年を家にこもりて暮しけり公園の道のいたく變れる
ロサンゼルスの空にはためく日の丸を思ひて吾の胸はとどろく
皿の上にならべられたる無花果は口をあけたり眺めあかずも
箒の目正しく殘るこの庭に無花果の黄葉一つ散りくる
柿むきて皮のつらなり長々とさし上げて見て一人ほほゑむ
ひとりゐの晝の靜けさ縁側に書讀みをれば小雀(こがら)なくなり

昭和八年(1933)
隣家の塀をつたひて來る猫の眞白き背に冬の日の照る
送られし小包解けば故里の甘き香はなつ黒砂糖出づ
手あぶりの火をかきたててアララギを讀める今宵は風の音(と)つよし
日の射してぬくとき路に羽蟲の群がりて飛ぶ埃のごとく
みすずかる信濃の國のかりんをば食みつつ吾はアララギを讀む
便り來ぬ心わびしも今着きしアララギを吾はひたすらに讀む
ただならぬ無氣味さ漂ふ闇の夜空襲警報のサイレン鳴りて
プラタナスよりもるる日光(ひかげ)を背にあびてプールへ向ふ妹と吾は
讀みさしの歌集を伏せてうら寂しこの獨居をわが堪へてゐる
ゲームセツトのサイレンなりてラヂオ屋の前は俄かにさわめきにけり
扉もれて街に流るるジヤズの音を聞きつつ行ける大學生一人

昭和九年(1934)
眞夜中の二時になりてもいねがたし妹らの寝息聞けばいらだつ
ひさびさに床上げしたり室の中ひろびろとして心地よろしき
子規の歌口ずさみつつ桃の花咲くこの道の春暖かし
こほろぎはひとつところに鳴かずして今夜(こよひ)は縁の下にこもりぬ
枕べにアララギ置きて明けくれを歌にすごせる時のたぬしき
歌よめる人はおほかた病めるらし病む人の心しみじみと知る
熱去りし今宵しみじみうれしくて茶碗に立てる茶柱に笑む
やうやくに熱去りし今日の吾が心病室(へや)のなべてに一人笑みける
初雪の消えし庭邊になに焚ける白き煙は病む室(へや)にまで
病みふして使はずなりしわが机夕べは白く塵つもれり

昭和十年(1935)
あかねいろにいためられたる檜木原に山鳩來啼く寒き一日を
散藥の包紙にて鶴折りぬ千羽とならば病癒えまし
吾が病める事を笑みつつ語るまで心やすらかになりしこのごろ
歌集讀みて眼つかれぬしばらくをうつつにあれば物賣りの聲
雹降りて寒さもどりぬひるつかた硝子戸越しに庭眺めをり
大空はながめ飽ずも日一日病み床にてゐてながめくらせど
身のつかれいちじるくなりしこの頃をうみ易くして物のつづかぬ
つゆ霜にぬれつつ芝は色づきぬ吾病み臥して一年すぎたり
白雲の高くはれたり庭石に眼うごかし赤蜻蛉おりぬ
野路ゆくに夕日うすれぬかまきりの飛ぶかげ寒く草にうつろふ


赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)目次

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)目次

悼  歌・・・・・・2
 赤井光惠は、アララギの高田浪吉(1898~1962)と藤森朋夫(1898~1969)に歌を学んでいて、二人の追悼の歌が巻頭にあります。
短  歌・・・・・・7
 昭和4年(1929)から昭和10年(1935)の歌を収録。
日  記・・・・・・51
 昭和10年(1935)4月30日火曜日から、昭和10年12月9日までの日記から。
小  傳・・・・・・107
 昭和3年(1928)、明星高等女学校に入学。昭和6年(1931)発病。昭和7年アララギの会員になる。昭和8年石山喜世に書を学ぶ。
あとがき・・・・・・115

外函・縦197×横134×幅11ミリ、本体・縦190×横128×幅8ミリ。局紙、紙装、糸綴じ。

 

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)日記のページから

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)日記のページから

昭和10年11月20日の日記に、赤井光惠の「空想の出版」への思いが書かれています。

 二十日 水曜日 雨後曇
 午前中まだ雨が降つてゐたが、午後止む。
 
(沖野岩三郎の)「育児日記から」を今日又讀む。
 嶋さんからまだ返事無し。お惡いのではないか、それともお忙しいのか。この方にしては珍しく遲い。
 私が本でも出すやうなことになつたら、こんな装幀にしたい。
 私の出す本といへば歌集位なものだが、歌集らしい、柔い、優しい、上品な感じのするものにしたい。その意味で、色はクリーム又は和紙の生地の色、又は山櫻の樣な色。模樣も小さな單純なもの、ごてごてしたのは感じが出ない。
 背文字は活版の字では無く、書いて貰ふ、誰か上手な人に。駄目なら普通の背文字で我慢しやう。活版の字は固くて、嫌ひなのだが。
 まだまだ本式なものじやないが、退屈しのぎに想像してゐるのはこんなものである。考へただけでも嬉しい氣がする。

『野薊』は薄い本なので背文字はありませんが、たぶん赤井光惠が喜ぶような本に仕上がっています。

沖野岩三郎『育児日記から』(1935年8月9日発行、子供の教養社)は、国会図書館デジタルコレクションでも読むことができます。

 

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)「あとがき」

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)奥付

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)「あとがき」と奥付

昭和十一年三月二十七日印刷
昭和十一年三月三十一日發行
野薊 (非賣品)
編輯者 赤井米吉
發行者 赤井米吉
印刷者 山本英治郎
印刷所 山本源太郎印刷所

山本源太郎印刷所は、アルスの出版物を手がけているところです。

『書窓』第二巻第四号(1936年1月16日発行)の「書窓サロン」に赤井光惠の投稿が掲載された時点で、恩地孝四郎は遺稿集の準備をしていたのだと思われます。

 

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)口絵

赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)扉

▲赤井光惠遺稿『野薊』(1936年)口絵と扉

口絵のポートレイト写真には「小照」という言葉が添えられています。
小さい肖像・写真という意味のことばです。
今はあまり見かけないことばですが、太宰治を読む人は知っていそうです。

ほんとうに若い人を亡くしたのだなと思わせる肖像写真です。

口絵の歌は、昭和19年12月に詠んだもの。

来む年にのぞみをかけし吾なれば百八の鐘をつゝしみてきく
除夜の鐘ひゞき來りてこの年は雨のもなかに去り行けるかも

 

 拾い読み・抜き書き

恩地孝四郎編輯の書物研究誌『書窓』(1935~1944、アオイ書房、発行人・志茂太郎)掲載の、恩地孝四郎による装幀評「書窓書架」から、秋朱之介にかかわるものをいくつか抜き書きしていおきます。

『書窓』第三巻第三号(1936年8月5日発行、アオイ書房)

マリイ・ロオランサン詩畫集

堀口大學氏の譯になるロオランサンの詩十篇、二十五程の銅版畫、水畫、鉛筆畫ペン畫等の複製とがアポリネール、モレアス、大學の序詩などを伴つて編まれてゐる。堀口氏の解説が添へられてある、そのパリでの訪問記はこの夢のやうな情趣の世界に住む女畫人を偲ばせて甚だおもしろい。畫の複製は多分オフセツトであるが、エツチングなど弱くて力がなく、折角押版まで用いた配慮がむだになつてゐるのは殘念。限定七百、内百部局紙刷六百部木炭紙刷であつて、この特趣ある女畫人の作を盛つて手頃に親しめる。装はNFR社本の彼女の畫著に據つて作られたといふ扇形の賦色と配字を持つたしやれもの、局紙が餘白多く用ひられてゐる。局紙がもつと上質ならもつとよかつたらう。白つや紙に空色染柾を用ひた箱もいい。昭森社好みの本である。(昭森社六月刊 並3.00 特5.00)

『書窓』第四巻第五号(1937年7月15日発行、アオイ書房)


山内義雄氏の譯になるポール・クローデルの散文詩集、この東邦的志向を持つ佛詩人の、過般の東洋遊記とみるべきの、十五篇、いづれにもその神秘的な香氣が堪へられてゐる。譯文は無論美しい。之を秋朱之介氏好みに装ひ上梓したもの、淡卵色局紙にきれいに印刷され小口三方 黄染金箔ちらし、天から人の肩まで天箔でつぶしてゐる。この肩まで延ばしたことは面白い。表紙に支那画淡墨をコロタイプそこに金箔押で詩句、佛文和筆書見返は紫染塵入淡紫天花紙樣の和紙、之を疎織紺色染布の帙で蓋うてゐる。結紐は淡茶。表紙と仝じ字句を黄押してゐる。數寄な本である。 ――伸展社二月刊・86頁 3.00 他普及版1.50

 

昭森社好みの本」「秋朱之介氏好みに装ひ上梓したもの」と、恩地孝四郎が、秋朱之介の装幀の傾向を「好み」という形で認識していたことが分かります。

また、昭和12年(1937)の秋朱之介について書かれたものは少ないので、貴重な証言でもあります。

 

     ◆

【2022年12月6日追記】

石山喜世と石山太柏の娘で、ロシア文学者の角圭子(1920~2012)が、母について『大正の女 ある女流画家の生涯』(1966年、弘文堂)と『太柏の妻』(1973年、れんが書房) の2冊の本を出しています。
日本の古本屋、ヤフオク、アマゾンなどでチェックしてしてみましたが、いずれも在庫がなく、見つけにくい本のようです。

幸い、『大正の女 ある女流画家の生涯』は、国会図書館のデジタル化資料送信サービス(個人送信)でも読むことができます。

「まえがき」に、「わが母ゆえに多分のためらいを感じつつも、私はやはりあえて、この本の主人公・石山喜世(いしやまきせ)を大正デモクラシーの生んだ人間像の一つとして世に問うてみたい。」とあり、実際、石山喜世は名前を記憶されるべき存在だと思いました。
芸術家夫婦の波瀾万丈な生涯を、娘の視点で活写した、朝ドラにもなりそうな回想録です。その娘もまた「傑物」のようです。

角圭子(すみけいこ)は筆名で、ネット上の人名辞典などでは「本名・石山芳」とありますが、『大正の女 ある女流画家の生涯』では、「佳子(よしこ)」として登場しています。そういう意味では、「伝記小説」「自伝小説」といったほうがよいかもしれません。

 

『大正の女 ある女流画家の生涯』に、赤井光惠にかかわる記述もありましたので、引用しておきます。

石山喜世の「死後二十年目の追悼会」の場面です。

 また同じ席上で、明星学園創立者であり初代園長であった赤井米吉は喜世をこう回想した。
「明星学園創立の翌年であったと思いますが、尊雄さん
(角圭子の兄)が小学校の二年かで転入して来まして(これは赤井氏の記憶ちがいで、創立の年の二学期から、尊雄は一年に転入)、それからお母さんと近づきになりました。尊雄さんの身体がいくらか不自由であったために、お母さんがその教育に非常に熱心であったということが、明星学園の経営にたいしても一生懸命になられた。はじめ学園には、よい後援者があったんですが、時代の移り変りとともに、その後援者が十分なことができぬようになり、全父兄の力を借りねばならぬことになり、まず、母の会というものができました。これはおそらく日本でも、PTAのできたもっとも古いものになると思いますが、その時の中心が、お母さんと、それからここにおられるCさんとBさんの三人で、その上に、ここにおられるAさんと、亡くなられたYさんとがお年寄り役で、まずこの五人で、明星学園の母の会がスタートし、発達していったのであります。やがてこれが動いて、父の会を創り出し、明星学園後援会というものができました。そして、学園に中学校、女学校が併設されることになったんで、学園の発逹の歴史のなかで、お母さんは、消すことのできない存在として、大きな仕事をなさったわけであります。
 また、私の娘が長い間病床にあって亡くなったのですが、娘は野あざみの花を大変愛しておりまして和歌などをやっておりました。そんな関係から、お母さんには、野あざみの非常に良い色紙と歌とを贈られて、これは病床三年の生活の娘の枕もとを片時も離れることがありませんでした。娘の死後、遺稿を集めて「野あざみ」という歌集を出しましたが、その表紙に、お母さんの色紙をつかいまして、この本はあちこちから推奨されることになりました。
 うちには非常に強いものをもっておられたと思うんですが、表にあらわれる態度は実に柔かく、同情深い。そういう面がわれわれにはいつも感じられておりました。しかし、内部にはほんとに強いものをもっておられた。ご婦人としておくには惜しい。あの人が男性であったら、ずいぶん偉いことをしただろうという感じを・・・・・・。それをまあ、いくらか太柏先生にうつされた生涯ではなかったかと思うのであります」

 

赤井家と石山家のつながりは明星学園を通じてのものだったと分かります。
ご婦人としておくには惜しい。あの人が男性であったら、ずいぶん偉いことをしただろう」という発言には時代を感じます。

 

恩地小四郎も、こんな形で登場していました。

また、明星学園後援バザーをめざして、明星財政援助のために喜世は、色紙を、帯を、扇子を精力的に描いた。恩地孝四郎図案のモダンな浴衣と、喜世の筆の昼顔の浴衣が「明星ユカタ」として、売り出されたこともあった。

「明星浴衣」どこかに残っているのでしょうか。

 

石山喜世の筆文字については、「そしてこの美しい線で、喜世は行成(こうぜい)流の仮名を文机に向かって書いた。書をかくときは、喜世は人払いして、誰をも部屋に近づかせなかった。」とか「ともかく千代(石山家で働いていた宗川千代)は、喜世の教養をどんらんに吸いこんで、変体仮名の字を書くような女となって、封建の色濃い東北の故郷に帰った。 」とあったり、喜世が友人にあてた手紙について 「巻紙に、みずくきのあとまさにうるわしく、さらさらと認(したた)めてある」とあることから、その自在ぶりをうかがい知ることができます。
それにしても「ともかく千代は、喜世の教養をどんらんに吸いこんで、変体仮名の字を書くような女となって、封建の色濃い東北の故郷に帰った。 」は印象深い一文です。千代はこの物語では脇役ですが、「千代の帰郷」もそれからのことも、また別の「大正の女」の物語になっているのでしょう。

 

『大正の女 ある女流画家の生涯』では、石山喜世の歌も取り上げられています。引用してみます。

玉の緒の命ある間のたはれごとさは思へども恋ひやまぬかな
せきあへぬ早瀬の堰(せき)のいたづらに朽ちてゆくごとわれはあるかも
狭間(はざま)こめし霧は静かに立ち昇り峯の若葉にうすれ陽の射す
岩角の揺らぐと見しは黄せきれいのどかにとまり尾を叩くなり
つれづれに名もなき草を摘み居ればよりどころなき淋しさ湧くも
待ち佗びし夫(つま)が便りを手にすればただ何となく涙ながるる
すこやかにさざめきあへる看護婦の声を聞きつついつかまどろむ
やすらかに寝(い)ねしか今宵あつけれど母なく病めるわが幼子(おさなご)は
病みあげの目に先づ哀し裏木戸の桜の大樹は立ち枯れてあり
丈(たけ)あまり延びしすすきのその中に子らかくれゐて吾が名を呼ぶも
むかい居る君がまなざし親しくもわが心打つ語らはねども
さはやけさ心もちつつよき人のおとづれ待ちし去年(こぞ)の偲ばゆ
今朝みれば情(なさけ)の露にうるほひて清らに咲ける撫子の花
今朝みれば露のすがるに折れ伏して起きもあへぬおみなへしかな
ひともとの草にてもよし寂しさを寄せて生きむと今日も思へり
秋たけて寝覚め侘びじき日の続く年甲斐もなきわが心はも
盗むてふ意識なき子のいとしさや柿の実とると今朝をさやげり
慎みを破りて放つわが言葉富みて賤しき人に鋭し
油断なく育てし吾娘(あこ)にいつしかも護らる身となりて侘びしき
子らと来し心のやすさ山どよみ嵐吹けども家はおもはず
世を生きむひたむき心娘(こ)は持つや吾がかりそめの言葉とがむる
良きことを善しと信じて疑はぬ娘(こ)の姿こそ羨むべけれ
世に立たず逝くらむ吾子が深病みに疲れし寝顔生けるともなし
大いなる悪夢なりしとかへりみて過去五十年の命かなしむ
女子(おみなご)のごとく伸びたる黒髪のあはれなびきて病む児はかなし
血ににじむ思ひに得にし正信の画幅ぞ今や吾子を救はむ
他人(ひと)ならず君がみ許に安らぐか思ひ深しや室町童子
病みながら独ソ開戦に昂ぶるかニュース聞き入る子の頬赤し
雨暗き庭木つたひてうつろなるしはぶき正に病む子のしはぶき
手に余る包み抱へて汗あへる吾につれなし街頭写真師
桜咲く頃にかならむ吾が遺骨吾子(あこ)のみほねに隣する日は

 息子の尊雄は、早稲田の理工学部電気科に進学しましたが、昭和16年9月14日、結核で亡くなっています。23歳。

母が背を撫でつつひそと泣くらしき愛娘(あこ)の命の惜しまるるかな
高く清く生きぬく娘(こ)にみえてうらやすきかな今日この頃は

 

これらの歌は、変体仮名で書かれていてこそ輝くのでしょう。


     ◆

『中原中也研究27』

中原中也記念館の『中原中也研究27』をいただきました。

特集の「中也とデザイン」は、昨年開催された特別企画展「書物の在る処――中也詩集とブックデザイン」と連動するもので、石神井書林・内堀弘氏の講演「中也の時代のリトルプレスとブックデザイン」で次々と繰り出される1920年代・1930年代の本とパンフレットには眼を見はるばかりです。

「本当に熱い人」秋朱之介(西谷操、1903~1997)が手がけた本についても、『ランボオ詩集 学校時代の詩』『魔女』『馬来乙女の歌へる』『以士帖印社会員募集之書』、書林オートンヌのパンフレット「大鴉発巷に際して」などが紹介されています。

 

企画展《中也、この一編――「一つのメルヘン」》ちらし

企画展《中也、この一編――「一つのメルヘン」》ちらし


中原中也記念館の便箋には中原中也の文字がプレスされていてかっこいいです。

中原中也記念館の便箋

「秋朱之介好み」であれば、文字に網はしかず、中原中也の文字を透かした紙にすることを提案したかもしれません。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

1970年代後半に「エスケイプ《Escape (The Pina Colada Song)》」や「ヒム(Him)」といったヒット曲を出し、1980年代にもザ・ジェッツ(The Jets)のヒット曲「You Got It All」などの楽曲提供者だったルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)は、間違いなくポップ・ミュージックの匠でありながら、80年代にその現場からすうーっと離れていったような印象があります。

何かの写真で見た、憔悴し生気の無い表情のルパート・ホルムズの姿が記憶に残っています。
あとで気づいたのですが、1986年に、10歳の娘さんを病で亡くしたころの写真だったのではないかと思います。

ルパート・ホルムズの1980年代が、物語性に富んだ洒落て小気味のよい都会的な短編の作り手から、ディケンズの舞台作品や長編小説の作者へ移行した時期ということもあったのでしょうが、巧みな3分のポップ・ミュージックの世界に居続ける動機みたいなものが失われてしまったのではないか、と思ったりしました。

 

ルパート・ホルムズのCD5枚組『Cast Of Character』(2005年、HIP O SELECT)は、よくできた編集盤です。ポップ・ミュージックの宝石箱です。

ルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)『Cast Of Character』01

ルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)『Cast Of Character』02

ルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)『Cast Of Character』03

ルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)『Cast Of Character』04

ルパート・ホルムズ(Rupert Holmes)『Cast Of Character』05

ルパート・ホルムズの『Widescreen』(1974年)、『Rupert Holmes』(1975年)、『Singles』(1976年)、『Pursuit Of Happiness』(1978年)、『Partners In Crime』(1979年)、『Adventure』(1980年)、『Full Circle』(1981年)、『Scenario』(1994年) 8枚のスタジオアルバムを4枚のCDに、拾遺集1枚を加えた5枚組。
1974年~1981年に毎年のようにリリースされていたものがぱたりと止まります。
1994年の『Scenario』は日本だけでリリースされたというのも今思えば不思議です。

いちばん好きなのは『Widescreen』でしょうか。「Our National Pastime」は、ヴァン・ダイク・パークス(Van Dyke Parks)の「One Home Run」と並ぶ、ベースボール・ソングの白眉だと思っています。

『Cast Of Character』はすぐれた編集盤で、パッケージもプラスチックをできるだけ使わないことを意識したのか、ブックレットを綴じるステープル以外はすべて紙で構成されています。ただ、そのため、CD盤が直接紙にあたって傷つきやすいのが難点です。

 

ルパート・ホルムズといえば、ジェフリー・レッサー(Jeffrey Lesser)と組んだ音楽制作チーム、ワイドスクリーン・プロダクション(Widescreen Production)制作の音楽作品も大好きです。
レコードのクレジットに「Widescreen Production」とあったらワクワクしたものです。
それはまた別のお話。

 

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382. 1986年の『黙遙』創刊号(2022年10月19日)

1986年の『黙遙』創刊号表紙01

 

国会図書館のデジタル化資料送信サービス(図書館送信・個人送信)で、以前は郵送で複写依頼をしていたような本をウェブ上で読むことができるようになりました。
秋朱之介(西谷操、1903~1997)にかかわるものでは、恩地孝四郎(1891~1955)編輯の書物研究誌『書窓』(アオイ書房、発行人・志茂太郎)の1935年創刊号から1936年第10号にかけて掲載された秋朱之介の随筆や書評もウェブ上で読むことができるようになったのが有り難いです。

以前は詳細目次から著者名を見つけて複写依頼をしていたのですが、『書窓』の全ページをウェブ上で見ることができるようになって、アンケートであったり投稿であったり、ほかの細かい記事に登場する秋朱之介の記述を調べられるようになりました。
もちろん『書窓』全揃いが手もとにあってページをめくることができれば、理想的なのですが。
デジタルであれ、そうした雑誌資料にアクセスできるようになると、やはり雑誌は全ページに目を通してこそ発見があると感じました。

『書窓』の秋朱之介については、「第208回 1935年の堀内敬三『ヂンタ以来(このかた)』(2017年8月29日)」にも追記しました。

とはいえ、国会図書館はじめ、ほかの図書館にも所蔵されていないものの多いのだろうなとも感じます。

写真の『黙遙』創刊号(1986年10月5日、発行所・黙遙社、印刷所・日版印刷)は、古本屋さんで初めて存在を知った雑誌です。
鹿児島でこの雑誌が刊行されていたことに全く気づいていませんでしたので、驚きました。
記憶の糸をたどれば、どこかで見ていたような覚えもあるのですが、完全に忘却していました。
鹿児島の図書館に所蔵されているか調べてみましたが、殘念ながらありませんでした。

版元の黙遙社が上梓した本は、1984年から1991年にかけてのものが、図書館にはありました。
「黙遙社」としての活動期間は短かったのかもしれません。

黙遙社は、井上岩夫(1917~1993)のやじろべ工房、詩稿社の後を継ぐ出版所で、雑誌としては1961年~1978年の『詩稿』に次ぐものだったようです。

 

『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)表紙02

▲『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)表紙

縦251×横171×幅4ミリ。56ページ。定価200円。

 

『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)目次

▲『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)目次

大英博物館幻想・・・・・・柳井久雄
狭き門・・・・・・中川潔
知られざる名著 シマの方言“加計呂麻島を中心にして”・・・・・・田中徳夫・田中安平
記憶の中の風景(1) 鴨池動物園
時のなかで・まだずっとむこう・・・・・・大山芳晴
-連載-第1回 第八分隊・・・・・・井上岩夫
港灯残夢(1)・・・・・・宮路道雄
メッセージ・薫風・・・・・・丸田祥太郎
謄写印刷術小史
読書時間約550分 ジョン・スラデック 言語遊戯短編集
◎黙遙社の出版案内
◎編集室だより

書評に、地元・鹿児島の本でなく、ジョン・スラデック『スラデック言語遊戯短編集』(1985年、サンリオSF文庫)を取り上げているところに編集者の志向を感じます。スラデックは大好きな作家ですが、この翻訳を私は読み通すことができませんでした。原題『Keep the Giraffe Burning』(1977年)、新訳が欲しい本です。

 

『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)「謄写印刷術小史」

▲『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)「謄写印刷術小史」

やじろべ工房の謄写印刷物の写真を紹介していて貴重です。
「映画サークル」「蒼木」「旅人木」「あしあと」「たけおか」「鹿大俳句」「学校要覧1957」「ゆうかり」「いづみ」「青い帽子」「鶴丸通信」などモノクロ図版が掲載されています。

 

『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)「編集室だより」奥付

▲『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社)「編集室だより」奥付

 

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)表紙01

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)表紙02

▲『黙遙』第2号(1987年6月5日、編集・吉野二郎、発刊責任者・井上巨器、発行所・黙遙社、印刷・日版印刷)表紙
創刊号(1986年10月)には季刊とありましたが、第二号は8か月後に刊行。

縦256×横177×幅4ミリ。定価200円。

 

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)目次

▲『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)目次

表紙絵・井上巨器
記憶の中の風景-2-原っぱ
随想 わらべうた・・・・・・竹之井敏
ピクチヤレスク・・・・・・川津学
春のおとずれ・・・・・・八重尾ヒデ
夜の彫像――井上岩夫氏に 遠くからの返礼――・・・・・・安倍勉
沈黙の饒舌――その光と影――
-連載-第2回 第八分隊・・・・・・井上岩夫
港灯残夢-2-・・・・・・宮路道雄
映画見聞録 映画プラトーンを見て・・・・・・柳井久雄
◎黙遙社の出版案内
◎編集室だより

 

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「黙遙社の出版案内」01

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「黙遙社の出版案内」02

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「黙遙社の出版案内」03

▲『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「黙遙社の既刊案内」

『薩摩の国学』は、いい本でした。
気になる本がいくつもありますが、図書館にないものも多いです。
やじろべ工房、詩稿社、黙遙社の書影付き著作目録があったらいいなと思います。

 

『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「編集室だより」奥付

▲『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)「編集室だより」奥付
「編集室だより」では、創刊号へ小説家・泉大八が寄せた応援の手紙を引用しています。 こういう人脈もあったかと思いました。

 

『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社) と『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)

▲『黙遙』創刊号(1986年10月、黙遙社) と『黙遙』第2号(1987年6月、黙遙社)
創刊号と第2号で、少しサイズが違います。

『井上岩夫著作集III エッセイ他拾遺』(2008年6月30日第1刷発行、石風社)の「井上岩夫年譜」によれば、《一九八六年十月五日、『黙遙』創刊号に小説「第八分隊-1」を発表。以降続かず、雑誌も三号まで。》とあります。『黙遙』についての記述はこれだけです。

『黙遙』第三号が、ほんとうに存在するのであれば、見てみたいものです。

年譜では「以降続かず」とあります。しかし、『黙遙』第2号には「第八分隊」第2回も掲載されているので、年譜作成者は、『黙遙』の現物を見るという手間をはぶいて年譜を作成したようです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

CDになっておらず、サブスクにも入っていない音源で、アナログ盤だけでしけ聴くことがでいないものも結構あります。

セイラー(Sailor)のアルバムで、リード・ヴォーカルのジョージ・カヤナス(Georg Kajanus)在籍時のアルバムはすべてCDになっているのに、不在の1980年作『DRESSED FOR DROWNING』は、なぜか一度もCD化されていません。今でも入手しやすい盤なので、困るわけではないですが。
ほぼ全曲フィリップ・ピケット(Philip Pickett)の作詞作曲。フィリップ・ピケットは、カルチャー・クラブ(Culture Club)の「カーマは気まぐれ(Karma Chameleon)」の作曲者の1人としても知られていて、そうしたポップ・センスの持ち主でもあります。

ヴォーカルに、ほぼこのアルバムだけの謎の女性のヴァージニア・デイヴィッド(Virginia David)が加わったことも、《これは「セイラー」のアルバムではない》と思わせたのかもしれません。

「隠れた名盤」などとはいいませんが、個人的には1980年の記憶を呼び起こす「佳盤」です。

 

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)アルバムジャケット01

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)アルバムジャケット02

▲SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Caribou Records)アルバムジャケット
「溺れるためのおしゃれ」といったところでしょうか。

 

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)内袋01

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)内袋02

▲SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Caribou Records)インナースリーヴ

 

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)ラベル01

SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Calibou Records)ラベル02

▲SAILOR『DRESSED FOR DROWNING』(1980年、Caribou Records)ラベル

Caribou Recordsというと、1970年代のビーチボーイズ周りのレーベルと印象が強いです。
なぜセイラーのリリース元になったのか、ちょっと不思議に組み合わせでした。
ともに「海」のグループということでしょうか。

 

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381. 2020年のギャヴィン・ブライアーズ『プラトニックな《HA HA》』(150年1月1日・2022年9月8日)

Gavin Bryars『Le haha platonique』表紙


新年あけましておめでとうございます。

2022年9月8日は、フランスの作家・パタフィジック('pataphysics)の祖アルフレッド・ジャリ(Alfred Jarry、1873年9月8日~1907年11月1日)の生誕年を元年とするパタフィジック暦では、ちょうど150年1月(Absolu)1日ということで、新年のごあいさつを。

写真は、147年(2020年)にコレージュ・ド・パタフィジック(COLLÈGE DE 'PATAPHYSIQUE)とロンドン・パタフィジック協会(INSTITVUM PATAPHYSICVM LONDINIESE)が刊行した、Gavin Bryars『Le haha platonique』の表紙です。

手もとにあるのはロンドン・パタフィジック協会刊行のもので、協会の創立20周年記念に配布されたものです。

内容は、ギャヴィン・ブライヤーズ(Gavin Bryars)がコレージュ・ド・パタフィジックのために作曲した『Le haha platonique(プラトニックな「あ あ」)』の楽譜と、その演奏を収めたCD。 ダダ的な作品ではなく、ロココ的な憂愁を帯びた歌曲です。

縦279×213×4ミリ、32ページの本です。

この本は、ティエリ・フォーク(Thieri Foulc、1943~2020)に捧げられています。ギャビン・ブライアーズとは同い年のパタフィジシャンのアーティストです。

 

Gavin Bryars『Le haha platonique』のページから01

Gavin Bryars『Le haha platonique』のページから02

▲Gavin Bryars『Le haha platonique』のページから

「ha ha(ア ア)」は、アルフレッド・ジャリの『パタフィジシャン、フォーストロール博士言行録――新科学小説』(『Gestes et opinions du docteur Faustrool, pataphysicien / roman néo-scientifique』ジャリ没後の1911年に刊行)に由来します。

アルフレッド・ジャリ 相磯佳正訳『フォーストロール博士言行録』(フランス世紀末文学叢書⑥、国書刊行会、1985年7月10日初版第1刷発行)から、その意味するところを知ることができる部分を引用してみます。

 

10 《HA HA(ア ア)》しか人語を解さなかった犬面の大猿ボス・ド・ナージュについて

     クリスチャン・ベックに

 「いいか、てめぇ」と、ジロモンが厳かに言った。「てめえの着ているものを剝いで大支索帆にしてやる。両足はマスト、両腕は帆桁、胴体は船体ってわけだ。それから、バラスト代りにどてっ腹に五寸の匕首を突き立てて海に叩きこんでやらぁ・・・・・・ 船になったら船首飾りはてめのそのひでえ面(つら)だから、そのときは《薄汚な丸》とでも呼んでやるぜ」
     ユジェーヌ・シュー『サラマンドル』(『悪魔どもの悪ふざけ』)

 ボス・ド・ナージュは狒々であったが、犬面狒々(シノセフアール)とい[う]より脳水腫病み(イドロセフアール)であり、この欠陥のせいで同類より知能が低かった。この種の猿は尻にこれ見よがしに赤と青の硬結をつけているが、心得のあるフォーストロール博士はボス・ド・ナージュの硬結を不思議な療法によって剝ぎ取り、淡青色のを片頬に、もう片頬には緋色のそれを移植してしまった。そこで、この狒々の扁平な顔面は三色(トリコロール)であった。
 親切な博士はそれだけで満足せず、この猿に話し方を教えようと思った。ボス・デ・ナージュ(上述のような両頬の二重の突起故にこの名が付けられた)はフランス語こそ完全には理解していなかったが、ベルギー語の単語のいくつかはかなり正確に発音できた。たとえば、フォーストロールの小艇(アース)の後尾(とも)に吊されていた救命帯を指して《上面掲示文入り浮袋》と言ったりしたが、大ていの場合は一音節の同語反復で、
 「HA HA(ア ア)」とフランス語を口にし、それ以上は何も付け加えないのであった。
 本書において、この人物は長広舌の合い間の休止符代りに大いに役立つこととなろう。ヴィクトル・ユゴーが『城主たち』第一部第二場において、

  「それだけか?
         いや、さきを聞け」

という台詞を用いたように。
 プラトンもいくつかの個所に次のような言葉を挿入している。

— Αληθη λεγεις, εφη. (あなたのおっしゃる通りです、と彼は言った)
— Αληθη. (その通りです)
— Αληθεστατα. (まさにその通りです)
— Δηλα γαρ, εφη, και τυφλω. (それは盲人にも明らかなことです、と彼は言った)
— Δηλα δη. (それは明白です)
— Δηλα υη. (明らかなことです)
— Δικαιον γον. (そうです)
— Εικος. (それはそうかも知れません)
— Εμοιγε. (私も同じ意見です)
— Εοικε γαρ. (実際、そう思えます)
— Εστιν, εφη. (そうです、と彼は言った)
— Και γαρ. (私もそう確信します)
— Και μαλ, εφη. (全くです、と彼は答えた)
— Καλλιστα λεγεις. (なんと知恵の深い言葉でしょう)
— Καλως. (ええ)
— Κομιδη μεν ουν. (全く、その通りです)
— Μεμνημαι. (思い当ります)
— Ναι. (左様です)
— Ξυμβαινει γαρ ουτως. (そういうわけです)
— Οιμαι μεν, και πολυ. (心からそう思います)
— Ομολογω. (同感です)
— Ορθοτατα. (正しく仰せの通りです)
— Ορθως γ’, εφη. (それこそ間違いのないところです、と彼は言った)
— Ορθως εφη. (まことに、と彼は言った)
— Ορθως μοι δοκεις λεγειν. (まさに当然です)
— Ουκουν χρη. (そうでなくてはなりません)
— Πανταπασι. (全くです)
— Πανταπασι μεν ουν. (全くそのようです)
— Παντων μαλιστα. (全くもってたしかなことです)
— Πανυ μεν ουν. (ええ、たしかに)
— Πεισομεθα μεν ουν. (そう信じます)
— Πολλη αναγκη. (まことに当然なことです)
— Πολυ γε. (大いにそうです)
— Πολυ μεν ουν μαλιστα. (大いにその通りです)
— Πρεπει γαρ. (まことにそのようです)
— Πως γαρ αν. (どうしてそうなりましょう?)
— Πως γαρ ου. (それ以外どうありえましょうか?)
— Πως δ’ ου. (どうしてそれ以外ありえましょう?)
— Τι δαι. (それでは何でですか?)
— Τι μην. (何ですと?)
— Τουτο μην αληθες λεγεις. (あなたの仰せこそ正しいのです)
— Ως δοκει.(実にそう思えます)

ルネ=イジドール・パンミュラルの報告は続く。

 

プラトンの対話集から42の受け答えを集めていますが、それが「HAHA(あ あ)」という1つの発語にすべて還元されていくのです。

 

145年(2016年)、コレージュ・ド・パタフィジック(COLLÈGE DE 'PATAPHYSIQUE)が55年ぶりに開催した Fête du HAHA(Festival of HAHA、「ああ」祭典)で、42の「HAHA」が録音採集されました。

そのサンプリングされた42の「haha」をもとに、ギャビン・ブライアーズが作曲したのが「Le haha platonique」。

プラトンの42通りの受け答えに等しい、42の「haha(あ あ)」が2回繰り返される、10分弱の、典雅な曲です。

 

Gavin Bryars『Le haha platonique』付属CDのクレジット

▲Gavin Bryars『Le haha platonique』付属CDのクレジット

 Cosima Schmetterling, Équanime, mezzo-soprano
 Milie von Bariter, Sérénissime, baryton
 Morgan Goff, alto
 James Woodrow, guitare électrique
 Aydrey Riley, violoncelle
 Gavin Bryars, Transcendant, piano et contrebasse

パタフィジック暦146年1月(Absolu)20日(2018年9月27日)、フランス・アンジェのグランド・シアター(Grand Théâtre d'Angers)で録音。

 

Gavin Bryars『Le haha platonique』刊記

▲Gavin Bryars『Le haha platonique』刊記
147年11月(Girouille)19日(2019年7月3日)発行。4種の形で710部刊行。

ほかに、ロンドン・パタフィジック協会(INSTITVUM PATAPHYSICVM LONDINIESE)版を、1947年13月(Phalle)28日大晦日(2019年9月7日)に143部刊行。

 

Gavin Bryars『Le haha platonique』英語版さしこみ

▲Gavin Bryars『Le haha platonique』英語版さしこみ
イギリスのロンドン・パタフィジック協会(INSTITVUM PATAPHYSICVM LONDINIESE)版も本文は、フランスのCOLLÈGE DE 'PATAPHYSIQUEから刊行されたものと同じです。

ロンドン・パタフィジック協会版には、フランス語テキストを英訳したものをおさめた4ページの冊子がさしこまれています。

ロンドン・パタフィジック協会版は、協会20周年企画として、会員に配布されました。

 

     

Gavin Bryars『Le haha platonique』にはさまれていたオルネラ・ヴォルタ追悼

▲Gavin Bryars『Le haha platonique』にはさまれていたオルネラ・ヴォルタ追悼
4ページの冊子。

オルネラ・ヴォルタ(Ornella Volta、1927~2020)編のErik Satie『A MAMMAL’S NOTEBOOK(Writings of Erik Satie)』(英訳はAntony Melville)は、アトラス・プレス(Atlas Press)から出ていました。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

ギャビン・ブライアーズといえば、1969年から演奏のたびに変化していく作品「タイタニック号の沈没(The Sinking of the Titanic)」が思い浮かびます。

 

Gavin Bryars『The Sinking Of The Titanic / Jesus' Blood Never Failed Me Yet』(1998年、	Vrigin)CD

▲Gavin Bryars『The Sinking Of The Titanic / Jesus' Blood Never Failed Me Yet』(1998年、 Vrigin)CD
オリジナルは1975年のオブスキュア(Obscure Records)版。

1912年4月15日、沈没していくタイタニック号では、楽団員たちが最後まで演奏を続けていたと伝えられています。

その最後の午前午前2時15分から20分にかけて演奏されたのは、ジョン・ダイクス(John Bacchus Dykes、1823~1876)の讃美歌「Nearer my God to Thee(主よ 御許に近づかん)」 だったとされたり、F・H・バーテレモン(F. H. Barthélémon、1741~1808)によって書かれた讃美歌「Autumn」(1785年)、あるいは、W・B・ブラッドベリー(W. B. Bradbury 1816~1868)が作曲したコーラス讃美歌「オートン(Aughton)」 だったと、いろいろな説があります。

ギャビン・ブライアーズは、それらの曲もまじりあい、サンプリングされた音が行き交う、くぐもった音響空間をつくりあげています。

 

Gavin Bryars『The Sinking Of The Titanic』(1994年、Point Music)

▲Gavin Bryars『The Sinking Of The Titanic』(1994年、Point Music)

ほかにも、2005年、沈みつつある街、ヴェネチアで演奏された録音もあります。

 

     

タイタニック号にかかわる音楽をまとめたものでは、イアン・ウィットコム(Ian Whitcomb)の作品もよくできていました。

The White Star Orchesta『Music As Heard On The Fateful Voyage』01

The White Star Orchesta『Music As Heard On The Fateful Voyage』02

The White Star Orchesta『Music As Heard On The Fateful Voyage』03

The White Star Orchesta『Music As Heard On The Fateful Voyage』04

▲The White Star Orchesta『Music As Heard On The Fateful Voyage』(1997年、Rhino)
研究者タイプのポップミュージクの匠、イアン・ウィットコム(Ian Whitcomb、1941~2020)の指揮・編曲。
1912年タイタニック号最初で最後の航海中、船内で演奏されていたと考えられる曲を集めたもの。
イアン・ウィットコムによる40ページのブックレットも、書き足らない勢いです。

The White Star Orchestaと名乗っていますが、奏者は、6人。

 Terry Glenny violin
 Bobby Bruce violin
 Marston Smith cello
 David Pinto piano, organ, bass
 Ian Whitcomb piano, accordion, ukulele, recitation
 Fred Sokolow banjo, guitar, mandolin

讃美歌の「Autumn」とは別の、アーチボルト・ジョイス(Archibalt Joyce、1873~1963)作曲の「Songe d'Automns(Dream Of Autumn)」が最後の曲に選ばれています(その後に、隠しトラックのラグタイムも流れますが)。

タイタニックの悲劇が前提としてあるためか、軽音楽(Light Music)が、おのずと「影」を生み出しています。

 

今回登場した、ティエリ・フォーク(Thieri Foulc)、オルネラ・ヴォルタ(Ornella Volta)、イアン・ウィットコム(Ian Whitcomb)、みな2020年に亡くなっていたのか、「HAHA(あ あ)」と何度も繰り返します。

 

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