●my favorite things 386-390
my favorite things 386(2022年12月21日)から390(2023年1月20日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
386. 1985年のカラーフィールド『ヴァージンズ・アンド・フィリスタインズ』(2022年12月21日)
387. 2014年のロズ・チャスト『Can't We Talk About Something More Pleasant?』(2022年12月31日)
388. 2023年の桜島(2023年1月1日)
389. 1981年のironicrecords(2023年1月19日)
390. 2005年のironicrecords(2023年1月20日)
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
390. 2005年のironicrecords(2023年1月20日)
◆ironicrecords その2◆
前回に続き、アネット・ピーコック(Annette Peacok)の個人レーベル、ironic recordsの盤を並べてみます。
ironic records のアネット・ピーコック作品は、1988年の『Abstract-Contact』(IRONIC 5)を最後に、しばらく間があくことになります。
2000年に、ドイツのECMからリリースされた『An Acrobat's Heart(アン・アクロバッツ・ハート)』 という、ひとつの到達点のような素晴らしいアルバムをはさんで、2005年に、『31:31』が、ironic recordsからリリースされます。
拠点をイギリスからアメリカに移したこともあり、レコード番号も「IRONIC 6」は使われず、新たに「ironic US1」という番号が使われました。
アナログ盤は作られず、CDのみでした。
ジャケットにはアネット・ピーコックがサインし、ナンバリングされています。
■ironic US1
Annette Peacock『31:31』(2005年)
手もとの盤の番号は「#625」で、このCDの存在自体、遅れて知ったのだと思います。
アネット・ピーコックのホームページから購入しました。
レーベルマークもリボンから長方形のものに変わっています。
ジャケットはカードボートを貼り合わせた手作りのもので、丸いマジックテープでくっつくようになっています。
アネット・ピーコックの娘さんが作ったそうです。
1000枚作られたとされていますが、娘さんが作ったものを車のトランクに入れておいたため、熱で300枚ほど駄目になってしまったという話です。
「31:31」はアルバムの収録時間。
新作ということでは、このアルバムが今のところ最後のアルバムになっています。
■ironic US2
Annette Peacock『I'm The One』(2010年)
「ironic US2」は、1972年にRCA VictorからリリースされたAnnette Peacock『I'm The One』の再発CDです。
正式のリマスター版です。
アネット・ピーコックがサインし、ナンバリングされています。
手もとにある盤は 「#61」と割と若い番号です。
アネット・ピーコックのホームページから購入しました。
そのこともあってか、2011年の東日本大震災のとき、アネット・ピーコックから、あなたのところはだいじょうぶか、とメールが届きました。
2010年の再発盤には、イギリスの音楽雑誌『MOJO』2009年10月号の旧盤発掘コーナー「Buried Treasure」で取り上げられたときの記事がそのまま轉載されています。
『I'm The One』のオリジナル盤は、まだ手にしたことはありません。
手もとにあるのは、1986年の再発盤です。
なぜオリジナル盤とジャケットデザインを変えたのか謎のレコードです。
■ironic US3
Annette Peacock『I Belong To A World That's Destroying Itself.(aka Revenge)』(2014年)
「ironic US3」は、1971年に Bley-Peacock Synthesizer Show 名義で『Revenge: The Bigger The Love The Greater The Hate』(Polydor)というタイトルでリリースされていたレコードの再発盤。
アナログ盤も、レコード番号「ironic US3」で再発。
1969年のライブ録音。アネット・ピーコックの作曲・アレンジ・プロデュース作品。
アネット・ピーコックは、この作品が自分のファースト・アルバムだとしています。
アネット・ピーコックはシンセサイザーをライブで使った最初期のミュージシャンの一人で、当時のライブ楽器としてのシンセサイザーの予測不能な不穏さも感じることができます。シンセサイザーを通して声を変化させたパイオニアでした。
ポール・ブレイとアネット・ピーコックの娘 Apache Bley(Apache Rose Peacock)も「Prepared Piano」で参加しています。
1971年盤ではクレジットされていませんでしたが、2014年盤ではクレジットされています。
アネット・ピーコックのホームページは、いつの間にかなくなっていました。
facebookやtwitterはあるようですが、わたしのようにSNSに距離を置いていると、ちょっと遠くなりました。
「ironic US4」、あるいは「IRONIC 6」を期待しています。
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
389. 1981年のironicrecords(2023年1月19日)
◆ironicrecords その1◆
雑誌などの前情報はなく、レコード店の新譜コーナーで、このアネット・ピーコックのシングル盤『Sky-skating』(1981年、ironicrecords)を見つけた時は、ほんとにうれしかった。
レコード番号は「ironic No.1」。
アネット・ピーコックが、大手レーベルとマネージメントを離れ、個人レベール「ironic records」を立ち上げ、最初に出したレコードでした。
アネット・ピーコックの存在は、1978年春にリリースされたBRUFORD『Feels Good To Me』でのヴォーカルが強烈に印象に残っていました。そのライナーノーツで知った、アネット・ピーコックのアルバム『I'm The One』(1972年、RCA Victor)も探していたのですが、なかなか見つけられないでいました。
そんなとき、アネット・ピーコックの、まったくの新譜が目の前に現れたのです。
レコードジャケットに図像には、「Image of Hologram above: at Holographic Museum, New York」と書き添えてあります。
これは、1970年代前半、サルヴァトール・ダリがニューヨークのギャラリーで開いたホログラフィック・ショーで、アネット・ピーコックがモデルとなったときのもののようです。
◆
レコードにはアネット・ピーコックの略歴も入っていました。1988年までのものですが、彼女の活動を知る上では興味深い内容だったので、それを試訳してみます。
アネット・ピーコック
ニューヨーク州ブルックリン生まれ。カリフォルニアで育つ。5歳で独学で作曲を始める。2年飛び級で高校を卒業。ユナイテッド・アーティスツ・フィルムとの契約を目前にしてLAを離れ、女優としてのキャリアを断念。
1961年 - 15歳の時、元ハーバード大学教授のティモシー《ターンオン・チューンイン・ドロップアウト》リアリーに誘われ、ジャズの伝説的人物チャーリー・ミンガスやビート詩人のアレン・ギンズバーグと一緒に、前サイケデリック・カルチャーの中心地であるミルブルックの広大な敷地の邸宅で過ごす。
彼女はドラッグ・カルチャーを拒否し、ボストンの久司マクロビオティック研究所の最初の5人の生徒の一人となる。
【注】1961年15歳とありますが、アネット・ピーコックの生年は1941年で、実際は20歳の時のようです。1960年にはジャズ・ベーシストのゲイリー・ピーコック(Gary Peacock、1935~2020)と結婚しているので、そのサークルにいたことには偽りはありません。結婚前の名前は、アネット・ダイアン・コールマン(Annette Dianne Coleman)。ティモシー・リアリー(Timothy Leary、1920~1996)のLSD実験には最初だけ関わって、相性もあったのか、その後ドラッグとは無縁だったそうです。久司道夫(1926~2014)がアメリカ・ボストンから広めたマクロビオティックスの最初期の生徒だったということで、自然食志向のほうが強かったのかもしれません。
1962年 - 正義の怒りをたぎらせることに満足したアネットは、2人の創設者と預言者と親しくなる。新しいミュージックのアルバート・アイラーと「セイ・イット・ラウド、セイ・イット・プラウド(声を大にして言え、誇りにして言え)」ブラック・フリーダム・ムーブメントの第一波のブラックパワー詩人(アミリ・バラカ)リロイ・ジョーンズである。
アルバート・アイラーのバンドとヨーロッパをツアーしたが、途中でニューヨークへもどり、自分自身の音楽(フリーなもの、歌もの)を作り始める。この音楽は今日まで誤解されたままであるけれど、多くのアーティストによって80枚以上のレコードアルバムに録音されている。
この音楽の初演は、セシル・テイラーとポール・ブレイが設立したジャズ・コンポーザーズ・オーケストラによるドイツのハンブルクでの公演であった。
【注】ゲイリー・ピーコックと別れたアネット・ピーコックは、カーラ・ブレイ(Carla Bley、1936~)と別れたポール・ブレイ(Paul Bley、1932~2016)と結婚。ややこしい人間関係です。アネット・ピーコックもカーラ・ブレイも、別れた人の姓を使い続けて、その後も活動。
1964年 - カナダの前衛映画作家、マイケル・スノウによる映画「ウォーキング・ウーマン」。
【注】マイケル・スノウ(Michael Snow、1928~2023)は、2023年1月5日に亡くなったばかりです。マイケル・スノウの造形作品「ウォーキング・ウーマン」は、カーラ・ブレイをモデルにして作られたと言われています。マイケル・スノウの1964年短編映画「New York Eye and Ear Control」には、「ウォーキング・ウーマン」と重ねられて写る女性たちが何人か登場するのですが、そのなかの1人がアネット・ピーコックかと思われます(確証はありません。ほかの映画かもしれません)。映画には、フリー・ジャズのアルバート・アイラー(Albert Ayler、1936~1970)やドン・チェリー(Don Cherry、1936~1995)、ジョン・チカイ(John Tchicai、1936~2012)、ロスウェル・ラッド(Roswell Rudd、1935~2017)、ゲイリー・ピーコック、ソニー・マレー(Sonny Murray、1936~2017)らが登場し、その音楽が使われています。YouTubeなどでも見ることができます。
1967年-モジュラーシンセサイザーの発明者R. A. ムーグからプロトタイプを譲り受ける。ホーンセクション、ドラム、そして予測不可能な自分の声をシンセイサイザーに通して音を作り出した。シンセサイザーを使って録音し、ライブで演奏したのは彼女が初めてだった。当時は長さ8フィート、高さ5フィートの大きさだった。
1968年-彼女の世代全体がサイケデリックとヒッピーと呼ばれる新しい陶酔を発見したところだった。アネットはポリドールでアルバム『REVENGE』を録音し、パンク・ラップ「I Belong To A World That's Destroying Itself」をフィーチャーした。このアルバムは71年までリリースされず、そのときには『I'M THE ONE』をRCAからリリース。その後1987年にRCAから『I'M THE ONE』は再発されている。
1972年 - BBCが『REVIEW』プログラムのためにキャプテン・ビーフハートと共に彼女を招く。ニューヨークに戻り、Town 'Bloody' Hallでトップレスのパフォーマンスを行う。
ボウイに気に入られ、彼のマネージャー、トニー《メインマン》デ・ブリースにマネージメントされる。しかし、『Aladdin Sane』のシンセサイザー演奏に誘われても断り、代わりにジュリアード音楽院に入学し、作曲を学ぶ。
【注】アネット・ピーコックの1972年作『I'M THE ONE』でピアノを弾いていたマイク・ガーソン(Mike Garson)は、デヴィッド・ボウイ(David Bowie、1947~2016)の誘いを受けて、 『アラジン・セイン(Aladdin Sane)』制作に参加、素晴らしいピアノを披露しています。そのころのボウイ・バンドのギタリスト、ミック・ロンソン(Mick Ronson、1946~1993)は、『Slaughter On 10th Avenue』(1974年)で、アネット・ピーコックの「I'm The One」をカヴァーしていて、ボウイ周辺にアネット・ピーコックが与えたインパクトを感じさせます。
1973年-ブロードウェイで上演されたサルバドール・ダリのギャラリーショーで、初のホログラフィック女優となる。
【注】ホログラム技術の発明者、ハンガリー系イギリス人ガボール・デネーシュ(Gábor Dénes、Dennis Gabor、1900~1979)と画家サルバドール・ダリ(Salvador Dalí 、1904~1989)の出会いから生まれたホログラム作品としては、アリス・クーパー(Alice Cooper)やガラ夫人(Gala Eluard Dalí、1894~1982)のものが有名ですが、アネット・ピーコックの3次元ホログラム像は未見。1981年にアネットピーコックがリリースした7インチシングル盤「Sky-Skating」のジャケットは、そのホログラム像と思われます。
1974年- ニューヨークを離れ渡英、匿名の不動産所有者の計らいでいろいろな空き物件を借り受け、4年間それらを転々としながら音楽活動を続ける。
1976年 - ソロ・ギグの一つで、ブライアン・イーノが彼女をプロデュースしたいと申し出る。実は結ばなかったものの、イーノが離れる前、ボウイとやったほうがいいとの彼女のアドバイスで、その後二人は幸せにやっていくことになる。
【注】ブライアン・イーノ(Brian Eno)はアネット・ピーコックの作品制作を願い出て、その作品はイーノのレベール、オブスキュア(obscure)レーベルの11作目「obscure 11」になる予定でしたが、アンビエントな作品を望んだイーノとの方向性の違いで頓挫。イーノは、デヴィッド・ボウイとのベルリン3部作『Low』(1977年1月)『Heroes』(1977年10月)『Lodger』(1979年5月)を作ることになります。アネット・ピーコックが考えていた「obscure 11」は、1982年のアネット・ピーコックのアルバム『Sky Skating』に近いものだったと思われます
1978年-クリス・スペディング、ミック・ロンソン、ビル・ブルーフォードとのロック・ラップ・セッションを録音したアルバム『X-DREAMS』を発表。
【注】「ラップ」という言葉が使われていますが、普通に連想されるヒップホップの男性ラップと違い、アネット・ピーコック独特の語りの魅力があります。
1978年には、「ビル・ブラッフォード」というのが一般的でしたが、最近は「ビル・ブルーフォード」と発音に近い形で表記されるようになりました。
1979年-社会的性的風刺作品『THE PERFECT RELEASE』を発表。『X-DREAMS』とととも、近親相姦、オナニー、搾取、エコロジカルなマゾヒズム、乱交に対する皮肉、そして、それが流行となる以前のドラッグについてラップしているのが特徴。
1980年-アネットはレーベルとの契約を解除し、自身のレーベル「IRONIC RECORDS」を設立し、ラフ・トレードの配給で3枚のアルバムをリリース。
1982年 - 『SKY SKATING』(空をスケート)
1983年 - 『BEEN IN THE STREETS TOO LONG』(路上に長くいすぎて)
1986年 - 『I HAVE NO FEELINGS』(私には感情がない)
1988年 - ironicrecordsの5枚目(ironic 5)、「ABSTRACT-CONTACT(抽象-接触)」は、おそらく彼女のこれまでのアルバムの中で最も親しみやすいアルバムである。このアルバムには、さしせまった変革に対する14分に及ぶ痛烈な告発である「あなた自身を選べ(Elect Yourself)」が収録されている。
早熟で、頭の回転が速く、聡明で、好奇心旺盛、我が道を先に行く、官能的な人の年譜です。
すごい履歴だなあと感心します。アネット・ピーコックが回想録を書いたら、面白いものになりそうです。
◆
1980年代、よく聴いていたのですが、アネット・ピーコックの存在の強さに疎ましさを感じて、7インチの『Sky-skating』と『Abstract-Contact』の2枚を残して、ほかのレコードは売ってしまいました。
2000年代になると、また聴きたくなって、改めて買い直してしまいました。 手放す必要はなかったのにと思います。
手もとにあるアイロニックレコーズのレコードとCDを並べてみます。
■ironic No.1
Annette Peacock『Sky-skating』(1981年)
裏ジャケットは「Sky-skating」の歌詞。アネット・ピーコックの手書き文字。
手作り感にあふれた1枚目の ironic records 作品。
1981年のある日、レコードショップのシングル盤の新譜コーナーをチェックしていて、まったく装幀していなかったので、これはなんだと驚きました。
シンセイサイザーの音は1980年を感じさせますが、アネット・ピーコックの声は時を超えています。
「Sky-skating」のもう1人の女性ヴォーカルは、A.R.Fox とクレジットされています。
ポール・ブレイとアネット・ピーコックの娘 Apache Rose Peacock(Apache Bley)と思われます。
レッド・ホット・チリ・ペッパーズ(Red Hot Chili Peppers)に「Apache Rose Peacock」(1991年)という曲もありました。
■ironic No. 2 ironicrecords No. 2
Annette Peacock『Sky-skating』(1982年)
レーベルマークのリボンが初めて登場。
ヴォーカルのほかピアノやシンセサイザーなど楽器の演奏、ジャケットの絵やデザインもすべてアネット・ピーコック。
1972~1978年にアネット・ピーコックが作詞作曲した作品を、1980・1981年に録音。
ブライアン・イーノのオブスキュア・レーベルからのアルバム・リリースは頓挫しましたが、アネットが考えていた「obscure No.11」は、このアルバムに近いものだったようです。
1989年に、ironic records からCDが出ているのですが、まだ見たことがありません。CD番号は「IRONIC 2 CD」。
■ironic No.3 ironicrecords No.3
Annette Peacock『Been In The Streets Too Long』(1983年)
1965年~1975年に作曲したものを、1974年・1975年と1982年・1983年に録音。1974年・1975年の録音を生かすために出されたレコード。
A面2曲目の「So Hard, It Hurts!」は1967年の作品で、1975年の録音。演奏者は次の面々。
Bass – Steve Cook
Drums – Bill Bruford
Guitar – Brian Godding、Chris Spedding
Piano – Annette Peacock
ビル・ブリュフォードとは、1975年には一緒に演奏していました。
『Been In The Streets Too Long』は、CDになっていません。
■IRONIC 4
Annette Peacock『I Have No Feelings』(1986年)
カヴァー・ペインティングは、アルフレーダ・ベンジ(ALFREDA BENJE)。「ALFREDA BENGE」が普通ですが、ここでは「J」になっています。
『The New Yorker』(2018年12月5日)に掲載された、アネット・ピーコックへのインタビューによれば、ロバート・ワイアット(Robert Wyatt)とアルフレーダ・ベンジ夫妻は、アネット・ピーコックの娘さん(Avalon Peacock)の名付け親だったそうです。
インタビュアーは、Galaxie 500 や Damon & Naomiのデーモン・クルコフスキ(Damon Krukowski)でした。
ラベルの表記が手書き文字でなくなっています。
1989年にCDも出ています。CD番号は、「IRONIC 4 CD」または「ironic 4 cd」。
手もとにあるのは、その1989年盤ではなく、インディーズ盤を扱っていたCD Babyのサイトで購入した正規のCD-R版。たぶん2000年ごろに入手したものです。
『I Have No Feelings』は、イギリスのロックバンド、ザ・フー(The Who)のピート・タウンシェンド(Pete Townshend)のスタジオ「イール・パイ(Eel Pie)」で録音されています。
ケン・ラッセル(Ken Russell、1927~2011)がザ・フーのロックオペラ『トミー(Tommy)』(1975年)を映画化したとき、アシッド・クイーン(Acid Queen)役は、ティナ・ターナー(Tina Turner)でしたが、企画段階でピート・タウンシェンドが、アシッド・クイーン役の第1候補に希望していたのは、アネット・ピーコックだったそうです。
■IRONIC 5
Annette Peacock『Abstract-Contact』(1988年)
1988年と1989年にCDも出ています(ジャケットが少し違います)。CD番号は、「IRONIC 5 CD」または「ironic 5 cd」。
手もとにあるのは、その1988年盤ではなく、インディーズ盤を扱っていたCD Babyのサイトで購入した正規のCD-R版。ジャケットは1989年盤と同じ。
これもたぶん2000年ごろに入手したものです。
1980年代のイギリスでリリースされた「ironic No.1」から「IRONIC 5」までの5枚は、どれも素敵な作品ですが、現在は中古盤を探すしかない状態です。サブスクなどにも入っていません。
動画サイトで非公式の音源がアップされたりしていますが、正規のものが聴きやすくなる環境を望みたいです。
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
388. 2023年の桜島(2023年1月1日)
2023年の初日を、多賀山で待ちました。
大隅半島の高隈山。
今年はじめて自分の影と向き合う。
うろこ雲がかかっていますが、青い空が広がって、新しい1年がはじまりました。
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
387. 2014年のロズ・チャスト『Can't We Talk About Something More Pleasant?』(2022年12月31日)
1980年代~2000年代の『The New Yorker』誌の顔のような存在だった、漫画家ロズ・チャスト(Roz Chast)の、コミックと写真と文章による回想録『Can’t We Talk About Something More Pleasant?』(もっと愉快な話題はないのかい?)です。
ロズ・チャストの本としては最も読まれている本のようです。スペイン語、オランダ語、ドイツ語、イタリア語、ポーランド語などにも翻訳されています。
一人っ子のロズ・チャストが、95歳と97歳で逝った両親(1912年生まれの両親は、ロシヤ系ユダヤ移民の子どもたち)を看取るまでの、愛しくも、うとましい親子関係が主筋になっていて、心に響く1冊です。
日本でも広く受け入れられる内容だと思いますし、日本語訳版があるといいな、ないことのほうがおかしいのではないかと思う本で、まず思い浮かぶものの一つです。
■Roz Chast『Can't We Talk About Something More Pleasant?』(2014年、Bloomsbury)
縦241×横199×幅24ミリ。8+228+4ページ。4色刷。
扉
刊記・献辞。
目次
ロズ・チャストの流儀で、両親が目次に注文をつけています。
本文テキストはすべて手書きの画文一致のスタイルです。
ですから、裏表紙の讃辞やバーコードに既成のフォントが使われているのが、ちょっと残念。
この画文一致のスタイルが、ロズ・チャストの日本語訳のハードルを高くしているのかもしれません。
例えば、ベルギーの漫画家エルジェ(HERGÉ、1907~1983)のタンタンの冒険シリーズの英訳版で、吹き出し部分の書き文字担当したニール・ハイスロップ(Neil Hyslop、1924~2015)や、日本語訳版で書き文字を担当した大川おさ武のようなレタリング専門の人がいないと、その作品世界が崩れてしまうからです。そうした存在が翻訳には欠かせない作家だからです。
■『レッドラッカムの宝』のフランス語初出ヴァージョンと英語版
『レッドラッカムの宝』は、1943年に『Le Soir』紙に連載。フランス語版単行本初版『Le Trésor de Rackham le Rouge』は1945年(Casterman)、英語版単行本初版『Red Rackham’s Treasure』は1959年(Methuen)。
英訳はレスリー・ロンスレイル=クーパー(Leslie Lonsdale-Cooper、1924~2021)
英語版の吹き出しの文字は、Neil Hyslop(1924~2015)のレタリング。
図版は、HERGÉ『THE MAKING OF TINTIN』(1982、Methuen)から。
■エルジェ作 川口恵子訳『レッド・ラッカムの宝』(1983年10月25日発行、福音館書店)
ベルギーの漫画家エルジェの邦訳には、大川おさ武の「書き文字」が欠かせません。
画文一致タイプの漫画の吹き出しに、既成のフォント・活字を使うと、作品世界が崩れてしまいます。
2014年のウィンザー・マッケイのリトル・ニモの翻訳では、既成のフォントが使われていたため、作品を楽しむというより資料を読んでいると感じました。
作品の線のタッチを熟知したレタリング専門の人を起用するには、予算も時間もかかるでしょうが、画文一致タイプの漫画翻訳は、作品にあった文字の書き手を見つけることに始まると思いますし、それが理想です。
■Winsor McCay『THE COMPLETE LITTLE NEMO 1905-1927』(2014、Taschen)から1910年1月2日の漫画の一部
Alexander Braun『Winsor McCay - A Life of Imaginative Genius』と2分冊。函入りで8キロを超える大冊です。
■ウィンザー・マッケイ『リトル・ニモの大冒険』(2014年2月22日初版第1刷発行、パイ・インターナショナル)から1910年1月2日の漫画の一部
翻訳=和田侑子 序文=金原瑞人
■ウィンザー・マッケイ[著] 小野耕世[訳]『リトル・ニモ 1905-1914』(2014年8月12日初版第1刷発行、小学館集英社プロダクション)から1910年1月2日の漫画の一部
考えてみると、日本の漫画において、吹き出しの文字が、書き文字でなく既成のフォント・活字であることが一般的で、それを多くの人が違和感なく読んでいるというのも、これも結構特殊なことなのかもしれません。
◆
手もとにある、ロズ・チャストの本を並べてみます。
■Roz Chast『Unscientific Americans』(1982年、Dial Press)
縦201×横203×幅10ミリ。128ページ。ノンブルなし。ペーパーバック。
手もとにあるのは、1986年のA Dolphin Book、Doubleday版第4刷。
1978~1982年発表の作品集。 既成のフォント・活字は使わず、表紙から裏表紙まで手書きスタイルです(バーコードを除く)。
ロズ・チャストの多くの本には、ノンブル(ページ)が打たれていません。落丁を起こさない手順があるのでしょう。
■Roz Chast『Parallel Universes: Cartoons』(1984年、Harper)
縦201×横203×幅10ミリ。128ページ。ノンブルなし。ペーパーバック。
1979~1984年発表の作品集。
刊記も含め本文は手書きのスタイルです。ほぼ正方形の形も好きでした。
■Roz Chast『Mondo Boxo』(1987年、Harper)
縦286×横221×幅11ミリ。96ページ。ノンブルなし。4色刷。
■Roz Chast『The Four Elements』(1988年、Harper)
縦201×横201×幅8ミリ。96ページ。ノンブルなし。
■Roz Chast『Proof of Life on Earth』(1991年、Harper)
縦201×横202×幅8ミリ。96ページ。ノンブルなし。
はじめて新刊として勝ったのは、この本でした。
今はセンテラスというスペースになった高島屋プラザですが、そこにあった春苑堂書店で洋版を通して注文したので、届くまでとても時間がかかりました。
現在のようにAmazonで簡単に洋書が買える時代からすると、その長い期待の時間も愛おしいような気もします。
■Roz Chast『Childproof』(1997年、Hyperion)
縦217×横159×幅13ミリ。126ページ。ノンブルなし。
1987~1997年発表の作品。
■Roz Chast『The Party, After You Left』(2004年、Bloomsbury)
縦242×横196×幅12ミリ。100ページ。ノンブルなし。
■Roz Chast『Theories of Everything: Selected, Collected, and Health-Inspected Cartoons, 1978-2006』(2008年、Bloomsbury)
縦285×横232×幅35ミリ。372ページ。ノンブルなし。
絵も饒舌ですが、それ以上に言葉も饒舌になりがちなロズ・チャストのカートゥーンを精選した1巻本。
ロズ・チャストが繰り出す畸人がちや架空の本や架空の商品の見本には脱力しっぱなしですが、愛おしいです。
■Roz Chast『Going Into Town: A Love Letter to New York』(2017年、Bloomsbury)
縦241×横195×幅17ミリ。6+170ページ。
作者のホームタウン・ニューヨークの私的ガイド本であり、ラブレター。
■『The Best American Comics 2016』(2016年、Houghton Mifflin Harcourt)
縦234×横182×幅33ミリ。20+380ページ。
EDITED and INTRODUCED by Roz Chast
series editor BILL KARTALOPOULOS
アメリカン・コミックスの年間アンソロジーでロズ・チャストが選者となった2016年版。
都市生活者の突拍子もないユーモアを志向するロズ・チャストの作風とは違った、疎外された孤独なものたちのストーリーが多く選ばれています。
はぐれた存在ということでは通底しています。
ロズ・チャストが挿絵を描いた本では、次の2冊が手もとにあります。
■Jane Read Martin and Patricia Marx, illustrated by Roz Chast『Now Everybody Really Hates Me』(1993年、HarperCollins)
縦285×横222×幅9ミリ。32ページ。ノンブルなし。
■Edited by Erin McKean Illustrations by Roz Chast『Weird and Wonderful Words』(2003年、Oxford)
縦216×横144×幅16ミリ。12+132ページ。
Weird で Wonderful な漫画家です。
邦訳が1冊もないのが不思議な作家の一人です。
〉〉〉今日の音楽〈〈〈
2022年、最後に購入したCDは、アンソニー・ムーア(Anthony Moore)の新作『CSound + Saz』(2022年、Touch)でした。
CSoundでプログラムされた音とトルコの伝統的な弦楽器サズ(Saz)とE-BOWによる30分の穏やかな波。そのまま眠りについてしまいそうです。
タルコフスキーのノスタルジアのような初夢が見られそうです。
♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦ ♦♦♦
386. 1985年のカラーフィールド『ヴァージンズ・アンド・フィリスタインズ』(2022年12月21日)
テリー・ホール(Terry Hall)の訃報がありました。
1959年3月19日-2022年12月19日
音楽家への追悼は音楽を聴くこと。
棚からテリー・ホールのレコードやCDを引っ張り出しました。
いちばんよく聴いていたのは、1985年のカラーフィールドのアルバム『ヴァージンズ・アンド・フィリスタインズ(Virgins And Philistines)』(Chrysalis)でした。
その当時との記憶とも結びついています。
当時は、ローチェス(The Roches)の「ハモンド・ソング(Hammond Song)」をカヴァーするような人だったのかと、その意外さに驚いたものでした。
■The Colour Field『Virgins And Philistines』(1985年、Chrysalis) のジャケット裏面とラベル
Produced by Hugh Jones
英国盤
アルバム・タイトルになっている「Virgins And Philistines」の「Virgins(処女・童貞たち、素人)」と「Philistines(ペリシテ人、俗物、芸術を解さぬ者たち)」は、誰のことをいっているのでしょう。
手もとにある、テリー・ホールの歌声が聴けるレコードやCDを並べてみます。
■Specials『Specials』(1979年、Two-Tone Records)
Produced by Elvis Costello
写真は2015年の2枚組再発CD(Two-Tone Records、Chrysalis、Made in EU)。
■Specials『More Specials』(1980年、Two-Tone Records)
Produced by Dave Jordan and Jerry Dammers
写真は2015年の2枚組再発CD(Two-Tone Records、Chrysalis、Made in EU)。
■The Colour Field『The Colour Field』(1986年、Chrysalis)
米盤。
Produced by Hugh Jones and Ian Broudie
あんまり意識していなかったのですが、クリサリス・レーベルだったのだなと改めて思いました。
■The Colourfield『Deception』(1987年、Chrysalis)
東芝EMI日本盤。
Produced by Richard Gottehrer
The Monkeesの「She」(Boyce/Hart)をカヴァー。
日本盤はミシェル・ルグランの「Windmills Of Your Mind」のカヴァーも収録。
■terry, blair and anouchka『ultra modern nursery rhymes』(1990年、Chrysalis)
東芝EMIの日本盤。
Produced by Bob Sergeant and Jeremy Green
Leiber And Stollerの『Three Cool Catz』のカヴァー。
■Terry Hall『Home』(1994年、Anxious Records)
英&欧州盤
Produced by Ian Broudie
Made in Germany
「I Drew A Lemmon」「Moon On Your Dress」はAndy Partridgeとの共作。
Nick Heywardとの共作もあって、Ian Broudie、Andy Partridge、Nick Heywardが揃っているのも壮観です。
■Terry Hall『Rainbows EP』(1995年、Anxious Records)
英&欧州盤
Produced by Ian Broudie
Made in Germany
Live音源でTelevison(Tom Verlaine作曲)の「See No Evil」と、Specials(Jerry Dammers作曲)の「Ghost Town」を収録。
■Terry Hall『Laugh』(1997年、South Sea Bubble Company)
Produced by Terry Hall, Cenzo Townshend and Craig Gannon
Todd Rundgrenの「I Saw The Light」のカヴァー。
テリー・ホールは、バスター・キートンのように笑わない人として知られていて、笑うこと自体がアルバムジャケットのネタにされていました。
並べてみると、手もとにあるアルバムのジャケットはどれも人物写真で構成されています。顔も目立つ人だったのでしょう。
長いこと聞いていなかったのだな、2000年代以降、ご無沙汰していたのだな、と思います。
懐かしい声でした。