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my favorite things 321-330

 

 my favorite things 321(2020年9月26日)から330(2020年12月12日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

 

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 321. 1897年の『ペイジェント(The Pageant)』(2020年9月26日)
 322. 1931年の『談奇黨(党)』第3号とその異版(2020年10月11日)
 323. 1987年の『ROBERT WYATT』(2020年11月2日)
 324. 2009年の『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2020年11月2日)
 325. 2020年のRobert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』(2020年11月3日)
 326. 1958年の『佐藤春夫詩集』と『堀口大學詩集』(2020年11月18日)
 327. 1913年の『The Imprint』その1(2020年12月12日)
 328. 1913年の『The Imprint』その2(2020年12月12日)
 329. 1913年の『The Imprint』その3(2020年12月12日)
 330. 1913年の『The Imprint』その4(2020年12月12日)
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330. 1913年の『The Imprint』その4(2020年12月12日)

▲『The Imprint』7月号表紙

 

前回からの続きです。
『The Imprint』誌は、1913年7月号から、第2巻(Vol.2)になり、ノンブル(ページ)も、1から改まります。

残念ながら、7月号、8月号、そして、少し間を置いて、11月号で休刊となります。

翌年の1914年には、第一次世界大戦がはじまり、ウィリアム・モリスの次世代の本づくりは、1920年代まで先延ばしにされます。

第2巻(Vol.2)7月号、8月号、11月号の表紙や誌面をいくつか並べてみます。

 

『The Imprint』July 17, 1913 第2巻第1号

『The Imprint』7月号のページから

▲『The Imprint』7月号のページから
創刊号から募集していた、セルフリッジ百貨店の便箋デザインの誌上コンペの受賞者は、「Muries Ltd.」に決まったという告知。
8月号で作品を紹介すると予告。

 

『The Imprint』のページから

▲『The Imprint』7月号のページから
ゴードン・クレイグ(Edward Gordon Craig、1872~1966)の木版が埋め草的に使われています。

 

『The Imprint』7月号のページから

▲『The Imprint』7月号のページから
オフセット印刷についての考察。
『The Imprint』誌の図版を見ていると、20世紀の印刷技術に必要なものがが出そろっていて、写真製版や図版制作の試行錯誤が変化に富んでいて、見ていて楽しいです。

 

『The Imprint』7月号のページから

▲『The Imprint』7月号のページから
1月号から6月号までの「Vol.1(第1巻)」の合冊を、「The Imprint」でも制作するという告知。
公式の合冊は、各号の表紙や広告、そして付録のテキストを、どのように処理したのか、知りたいところです。

手もとにある、2冊の合冊は、個人が合冊したもののようです。

 

『The Imprint』August 27, 1913 第2巻第2号

▲『The Imprint』8月号の表紙

 

『The Imprint』8月号の表紙

▲『The Imprint』8月号のページから
1920年代以降のイギリスのタイポグラフィーを担うことになるスタンリー・モリソン(Stanley A. Morison、1889~1967)――当時24歳――が、巻頭の記事「Notes on Some Liturgical Books」(いくつかの典礼書の音符)を書いています。
タイトルの「Notes」は、「研究ノート」と「音符」の2つの意味をかけているのかもしれません。

 

『The Imprint』8月号のページから

▲『The Imprint』8月号のページから
一枚ものの絵入り刷りもの「ブロードサイド」を新しい表現手段として利用する、クロード・ローヴァット・フレイザー(Claud Lovad Frazer、1890~1921)らの「The Flying Fame」や、イェーツ姉弟のキュアラ・プレス(Cuala Press)について紹介していることにワクワクします。

 

『The Imprint』8月号のページから

▲『The Imprint』8月号のページから

 

『The Imprint』8月号のページから

▲『The Imprint』8月号のページから
8月号で行うと告知していた、セルフリッジ百貨店の便箋デザインコンペの入賞者紹介を、9月号に延期するという告知。

実際には、8月号の次の号は11月号になり、そこで入賞作品が披露されます。
高い志をもって作られた『The Imprint』誌は、理由は定かではありませんが、11月号で休刊となります。

 

『The Imprint』November 27, 1913 第2巻第3号

『The Imprint』11月号の表紙

▲『The Imprint』11月号の表紙
休刊や終刊のことばはありませんから、唐突な終わりでした。

 

『The Imprint』11月号のページから

▲『The Imprint』11月号のページから
セルフリッジ百貨店の便箋デザインコンペの入選作。
入選した図版だけでなく、デザイナーが選んだ便箋用紙を使った、10種類の入選作の印刷見本が綴じ込まれていて、「もの」として楽しいです。

 

『The Imprint』11月号のページから

▲『The Imprint』11月号の広告ページから

上は、印刷用金属会社のFRY'S METAL FOUNDARYの広告。この会社のロゴデザインも公募されていたのですが、休刊で、決まらないまま。

下の「MUTRIES, Ltd.」はセルフリッジ百貨店の便箋デザインコンペで最優秀作品「SELFRIDGE PRIZE」に選ばれた会社です。

 

     

ちょっと長くなってしまいました。
要は、『The Imprint』は百年以上前の印刷物ですが、今、手にしても見飽きない、ということです。

1913年の『The Imprint』と鹿児島は結びつく要素はないのですが、1903年に鹿児島の田舎に生まれた秋朱之介(西谷操)が、1934年(昭和9年)に「一生かかってもいいから、ケルムスコット・プレス刊本におとらない美しい立派な書物をこさえてみたい」と書いたり、人から「ナンサッチ・プレスを目ざす秋氏の事業」と評されたことを考えると、まったくつながっていないわけではないとも思えます。

しかし、秋朱之介は、ナンサッチ・プレスなどイギリスのプライヴェート・プレスの、どんな本を実際に手にとっていたのでしょう。
『The Imprint』も手にしていたのでしょうか。

世界は不思議なところで地続きになっています。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

all lovely things are also necessary(あらゆるラブリーなものもまた必要である)」というラスキンのことばを共有する者たちがつくった『The Imprint』という雑誌の話の最後に、ラブリーサマーちゃんの2015年のアルバム『#ラブリーミュージック』から「私の好きなもの」を。

2015年のラブリーサマーちゃん

 

 

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329. 1913年の『The Imprint』その3(2020年12月12日)

『The Imprint』March 17, 1913 第1巻第3号表紙

 

『The Imprint』3月号の表紙です。

ここからは、ちょっと駆け足で、『The Imprint』を振り返ります。
前回からの続きで、『The Imprint』誌の第1巻、3月号、4月号、5月号、6月号の表紙や誌面をいくつか並べてみます。

 

『The Imprint』March 17, 1913 第1巻第3号

3月号では、リソグラフィー(石版)が小特集されています。

 

『The Imprint』3月号の裏表紙

▲『The Imprint』3月号の裏表紙
ウェストミンスター・プレス(The Westminster Press)の広告。
『The Imprint』は、ウェストミンスター・プレスで印刷しています。

 

『The Imprint』3月号の口絵・本文冒頭

▲『The Imprint』3月号の本文口絵と冒頭の本文
口絵は、D. McLarenの「BEDTIME」。4色オフセット印刷は、The Abglo Engraving Co.によるもの。
冒頭の本文は、フランク・リンダー(FRANK RINDER)の「オノレ・ドーミエ(HONORÉ DAUMIER)」。

 

『The Imprint』3月号のページから

▲『The Imprint』3月号のページから
リソグラフ版で印刷。

 

『The Imprint』3月号のページから

▲『The Imprint』3月号のページから
出版社マクミラン社のフレデリック・マクミラン(Frederick Macmillan、1851~1936)の肖像。
『The Imprint』編集同人F. E. ジャクソン(Francis Ernest Jackson、1872~1945)によるリソグラフ。

 

『The Imprint』April 17, 1913 第1巻第4号

4月号では、木版画が小特集されています。

『The Imprint』4月号表紙

▲『The Imprint』4月号表紙

 

『The Imprint』4月号付録

▲『The Imprint』4月号のページから
付録として4ページの、ジェーン・アンド・アン・タイラー(JANE AND ANNE TAYLOR)による詩「The Vulgar Little Lady」。
挿絵は、レイチェル・マーシャル(RACHEL MARSHALL)。
多色木版は、エドモンド・エヴァンスの工房(EDMUND EVANS, Ltd)。

 

『The Imprint』4月号のページから

▲『The Imprint』4月号の本文口絵と本文の冒頭
オランダの画家ヤン・リーフェンス(JAN LIEVENS、1607~1674)とディルク・デ・ブライ(DIRK DE BRAY、1635~1694)の木版肖像画。

 

『The Imprint』4月号のページから

▲『The Imprint』4月号のページから
J. B. マンソン(J. B. Manson)による、ルシエン・ピサロ(Lucien Pissarro、1863~1944)の木版画についての考察。

 

『The Imprint』4月号のページから

▲『The Imprint』4月号のページから
木版図版。左ページはJacques Beltrand。右ページは、F. Ernest Jackson。

 

『The Imprint』May 17, 1913 第1巻第5号

『The Imprint』May 17, 1913 第1巻第5号表紙

▲『The Imprint』5月号表紙

 

『The Imprint』5月号のページから

▲『The Imprint』5月号のページから
口絵と冒頭の本文。
編集同人のJ. H. メイソン(J. H. Mason)による「木版画史の略述」。

 

『The Imprint』5月号のページから

▲『The Imprint』5月号のページから
手もとにある合冊は、このように破られているページが多々あります。

 

『The Imprint』June 17, 1913 第1巻第6号

6月号は、フォトグラビア印刷の小特集になっています。

『The Imprint』June 17, 1913 第1巻第6号表紙

▲『The Imprint』6月号表紙

 

『The Imprint』6月号のページから

▲『The Imprint』6月号のページから
タルボット(1800~1877)の肖像写真。
グラビア印刷。

 

『The Imprint』6月号のページから

▲『The Imprint』6月号のページから
フォトグラビア印刷の専門家、ジョセフ・ウィルソン・スワン(Joseph Wilson Swan)の肖像写真。
グラビア印刷。

 

『The Imprint』6月号のページから

▲『The Imprint』6月号のページから
フォトグラビア印刷のパイオニア、カール・クリック(Karl Klic、1841~1926)の肖像写真。プラハで学びウィーンで活動。1889年にイギリスに移り、最初にフォトグラビア印刷専門の印刷所The Rembrandt Intaglio Printing Co., Ltd.を起業。
この肖像写真も、The Rembrandt Intaglio Printing Co., Ltd.によるグラビア印刷。

 

『The Imprint』6月号のページから

▲『The Imprint』6月号のページから
The Rembrandt Intaglio Printing Co., Ltd.によるグラビア印刷。

 

The Rembrandt Intaglio Printing Co., Ltd.によるグラビア印刷。

▲『The Imprint』6月号のページから
The Rembrandt Intaglio Printing Co., Ltd.によるカラーグラビア印刷。

6月号の最後で、印刷活字用金属の会社「FRY'S METAL FOUNDRY」のトレードマークの誌上デザインコンペも告知されているのですが、これは、11月号での急な休刊のため、受賞作が決まらないままだったようです。

 

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328. 1913年の『The Imprint』その2(2020年12月12日)

『The Imprint』2月号表紙

 

前回からの続きで、『The Imprint』誌の第1巻、2月号の表紙や誌面をいくつか並べてみます。

上の写真は、元の形の2月号の表紙と裏表紙。合冊になると、背の文字は分からなくなります。

この号は、子供の本を小特集していて、子供の本を本づくりの視点で最初期の資料にもなっています。

図版には、エドモンド・エヴァンス(Edmund Evans、1826~1905)の工房(Edmund Evans, Ltd.)の多色木版がそのまま使われているのも、今から考えると贅沢です。

 

『The Imprint』2月号の表紙02

▲『The Imprint』2月号の表紙
表紙は、合冊の方が状態はよいです。

 

『The Imprint』2月号の目次です。

『The Imprint』February 17th, 1913 第1巻第2号 1シリング

【表1】
【表2】 「The Imprint」1月号の表紙
p.i John Banister Tabbの詩「TO A STAR」
p.ii Editors, Notices
p.iii CONTENTS, INDEX TO ADVERTISERS
 本文目次と広告索引
p.iv-vii NOTES
p.viii 1909年に開業した「Selfridge’s」百貨店用の便箋のデザイン・コンペ応募の告知とその募集用クーポン。

p.17-32 REV. T. F. DIBDIN: PRINTERS DEVICES, PART II", SUPPLEMENT, PAGES
 付録。ディブディンの『出版所の商標』の連載第2回。
 ディブディンのテキストのページ(ノンブル)は独立していて、『The Imprint』本文とは別になっています。

 ランドルフ・コルデコット(Randolph Caldecott)の絵本から多色木版図版(2ページ)。エドモンド・エヴァンスの版。

p.81-86 WALTER CRANE: MY BOOKS FOR CHILDREN
 ウォルター・クレインが作ってきた児童書・絵本について語る。
 埋め草モノクロ図版1点。
 ページ(ノンブル)は、創刊第1号に続く形で、Vol.1の通しノンブルとしてうたれています。
p.87-94 J. H. MASON: PRINTING OF CHILDREN'S BOOKS
 児童書の印刷設計。年齢にあわせた文字の大きさ。
p.95-104 ALICE MEYNELL, H. BELLOC, CLARENCE ROOK, ARTHUR WAUGH, BARRY PAIN, J. P. COLLINS, EDWARD JOHNSTON: LLUSTRATION OF CHILDREN'S BOOKS
 児童書の挿絵についてのエッセイ。
 児童画モノクロ図版3点。
 埋め草モノクロ図版1点。
 カラー図版 ウォルター・クレインとケイト・クリーナウエィの絵本から。エドモンド・エヴァンスの多色木版2点。
p.105-108 WILLIAM FOSTER: DRAWING BY BIRKET FOSTER
 バーケット・フォスターが子供のために描いたえについて。
 コート紙にカラー図版2点。
 埋め草モノクロ図版1点。
p.109-116 CAMMERON-SWAN, F.R.P.S.: LACK AND WHITE DRAWING FOR REPRODUCTION
 複製のためのモノクロ図版について。
 モノクロ図版5点。
 埋め草モノクロ図版1点。
 カラー図版 詩「THE FROG WHO WOULD A-WOOING GO.」H.G.Owenの挿絵。The Anglo Engraving Co.の4色版。カーウェン・プレスの印刷。
p.117-120 C. D. MEDLEY: COMPULSORY AMERICAN PRINTING
 イギリスの作家がアメリカで本を出す場合、アメリカの本をイギリスで印刷する場合などに関連する法律。
p.121-124 B. NEWDIGATE: THE ARTS & CRAFTS EXHIBITION
 アーツ&クラフト展評。
 埋め草モノクロ図版1点。
 カラー図版 Ruth Vaughn-Stevens「ARKWARDS」。The Anglo Engraving Co.の4色版。カーウェン・プレスの印刷。
p.125-127 F. ERNEST JACKSON: LITHOGRAPHY, II. THEORY
 連載第2回
p.128-133 EDWARD JOHNSTON: DECORATION AND ITS USES, II
 連載第2回
p.134-136 EVERARD MEYNELL: THE PLAIN DEALER
 連載第2回。子供の本。
 埋め草モノクロ図版1点。
p.137-138 広告
p.139-143 REVIEWS
Morte D’ARTHUR. A POEM BY ALFRED LORD TENNYSON. ILLUMINATED BY ALBERTO SANGORSKI. Chatto and Windus.
MEDIÆVAL ART FROM THE PEACE OF THE CHURCH TO THE EVE OF THE RENAISSANCE By W.R.LETHABY. Duckworth and Co.
A POPULAR HANDBOOK TO THE NATIONAL GALLERY. Vol.I. Foreign Schools. Compiled by E.T.Cook, with Preface by John Ruskin. Macmillan and Co., Ltd.
THE HISTORY OF ENGRAVING, FROM ITS INCEPTION TO THE TIME OF THOMAS BEWICK. By STANLEY AUSTIN. T. Werner Laurie.

p.141-142 広告
p.144-148 CECIL. B. JOHNSON: SOME NOTES ON THE COST REFERENCE
p.145-146 広告
p.149-150 広告
p.151-154 DANIEL T. POWELL: AN UP-TO-DATE PLATEN
 最新の印刷機圧盤。
 埋め草モノクロ図版1点。
p.155-159 CORRESPONDENCE", M. E. SADLER, W. H. FAIRBAIRNS, G. G. SCOTSON-CLARK
 3通の投稿。
p.160 THE PRAISE OF THE PRESS
 『The Imprint』創刊号の書評抜粋。
【表3】 活字鋳造のモノタイプ社の広告。
【表4】 『The Imprint』を印刷したウエストミンスター・プレスの広告。

 

『The Imprint』2月号のページから、誌面をいくつか並べてみます。

『The Imprint』2月号の表紙2と巻頭の詩

▲『The Imprint』2月号の表2と巻頭の詩
表2は、1月号の表紙。
右ページは、アメリカの詩人ジョン・バニスター・タブ(John Banister Tabb、1845~1909)の詩「TO A STAR」。

『The Imprint』2月号のページから付録と挿絵

▲『The Imprint』2月号のページから
左ページは、T. F. DIBDINの『PRINTER'S DEVICES』 p.32。
右ページは本文口絵。ランドルフ・コールデコット(Randolph Caldecott)の絵本から「JACKNAPES」。エドモンド・エヴァンスの多色木版が使われています。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから
左ページは本文口絵。ランドルフ・コールデコット(Randolph Caldecott)の絵本『The Three Jovial Huntsmen』から。エドモンド・エヴァンスの多色木版が使われています。
右ページは、本文最初のページ。ウォルター・クレーンの「NOTES ON MY OWN BOOKS FOR CHILDREN(わたしがつくった子どもの本についてのノート)」。2月号は、子どもの本の特集になっています。
1月号の「p.80」に続く「p.81」から始まります。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから
右ページの図版は、ウォルーター・クレーンの『The Baby's Opera』から。エドモンド・エヴァンスの多色木版が使われています。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから
エドワード・ジョンストン(Edward Johnston、1872~1944)は、娘のブリジェット(Bridget)が描いた絵について考察しています。
児童画を複製するということも、1913年だと画期的だったのではないでしょうか。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから
画家バーケット・フォスター(Birket Foster)が息子のために描いた絵。ウィリアム・フォスター(William Foster)による回想。
3色カラー図版は、The Graphic Photo Engraving Co.によるもの。印刷はカーウェン・プレス(Curwen Press)。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから
右ページは、ルース・ヴォーン=スティーブンス(Ruth Vaughn-Stevens)の絵。
4色カラー図版は、The Graphic Photo Engraving Co.によるもの。印刷はカーウェン・プレス(Curwen Press)。

 

『The Imprint』2月号のページから

▲『The Imprint』2月号のページから

エドワード・ジョンストンの連載「DECORATION AND ITS USES(装飾とその使い方)」のページから。

 

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327. 1913年の『The Imprint』その1(2020年12月12日)

『The Imprint』1月号(創刊号)の表紙01

 

「Imprint(インプリント)」という、アルファベットの活字書体があります。
1989年の「オックスフォード英語辞典(OED)第2版」全20巻、2万ページを超える本文書体に使われている活字です。
イギリスのペーパーバック、ペンギン・ブックスもその創始期、基本になる本文活字書体は、11ポイントの「Imprint(インプリント)」でした。
20世紀につくられた、信頼感のおける活字書体の1つです。もともとの意味は「刻印・出版者名・奥付」です。

この活字がつくられたのは、1912年のことです。

19世紀末のウィリアム・モリス(William Morris、 1834~1896)やT. J. コブデン=サンダスン(T. J. Cobden-Sanderson、1840~1922)の本づくりを受け継ぐ形で、その子どもの世代の

F. E. ジャクソン(Francis Ernest Jackson、1872~1945)石版画家。 「Central School of Arts and Crafts」でリソグラフを教えています。
J. H. メイソン(John Henry Mason、1875~1951)印刷者。「Central School of Arts and Crafts」でタイポグラフィを教えています。
エドワード・ジョンストン(Edward Johnston、1872~1944)書家。1906年の『Writing & Illuminating, & Lettering』は、レタリングについての名著です。
ジェラード・メイネル(Gerard Tuke Maynell、1877~1942)印刷者。

らが、ジェラード・メイネルのウェストミンスター・プレス(Westminster Press)で、アーツ&クラフツ運動の職業意識を軸にした新しい印刷専門誌の『The Imprint』創刊準備をしているとき、新しい雑誌を作るのであれば、それにふさわしい新しい活字を作ることからはじめようと誕生した活字です。

この活字の成り立ちの特徴は、従来の元型手彫りの作業をはぶき、機械で自動化できるところは自動化して製作された活字だ、ということです。

編集同人のエドワード・ジョンストンとJ. H. メイソンが、カズロンの書体をもとにデザインし、自動活字鋳植機メーカー、モノタイプ(Monotype)社の協力のもと、モノタイプ社の技術者フランク・ヒンマン・ピアポン(Frank Hinman Pierpont)とフリッツ・ステルツァー(Fritz Stelzer)が制作し、雑誌の創刊に合わせるため、記号など一部の活字が準備できないないまま、1912年12月末に納品されました。

ですから、創刊号の印刷はバタバタだったのではないかと思います。


上の写真は、その印刷専門誌『The Imprint』の1月号(創刊号)の表紙。
「Imprint(インプリント)」という活字が、最初に使われた雑誌です。

表紙の「The Imprint」という題字は、エドワード・ジョンストンが書いたものです。

 

1970年ごろのMONOTYPE社の活字見本帖の「Imprint(インプリント)」に、その活字の由来が、簡単に説明されています。

1970年ごろのMONOTYPE社の活字見本帖の「Imprint」

▲ 1970年ごろのMONOTYPE社の活字見本帖の「Imprint 101」

見本帖の説明を書き出してみます。

The cutting of IMPRINT in 1912 was an event of great typographical importance for, amidst so much duplication of old style and modern faces, this was the first original book type to be designed specially for mechanical composition. Its success proved not only that it was possible to draw and cut new type designs pantographically by engraving machines, but also that mechanically-set type could rival in appearance the best examples of hand composition, Gerard Meynell, founder-editor of The Imprint, persuaded the Corporation to cut this face for use in his magazine. In collaboration with Edward Johnston and J. H. Mason, Series 101 was redrawn from an old face of the late 18th century. Findamentally a smoother and rounder version of Caslon’s old face, it is somewhat larger on the body than most old faces.

【試訳】
1912年の活字「インプリント(IMPRINT)」の制作は、活字の歴史にとって非常に重要なできごとでした。オールドスタイルの活字とモダンフェイスの活字の複製ばかりが非常に盛んだったなかで、モノタイプ社の自動活字鋳植機のために特別に設計された、最初のオリジナルの書籍本文用活字だったからです。その成功は、パンタグラフ式の彫刻機を使って、新しい活字をデザインしたり彫刻したりすることが可能であることを証明しただけでなく、機械を使って新しく制作された活字が、人の手で制作された最良のものに遜色ないことも証明しました。モノタイプ社は、ジェラード・メイネルからの依頼を受けて、彼が創刊し編集する新しい雑誌『The Imprint』で使用するため、この活字を鋳造しました。エドワード・ジョンストンとJ. H. メイソンが協力して、モノタイプ社の活字番号101「Imprint」は、18世紀後半のオールド・フェイスをもとに新たに描かれました。基本的に、カズロン・オールド・フェイスの、滑らかで丸みを帯びたバージョンで、ほとんどのオールド・フェイス活字よりも、活字のボディが少し大きくなっています。

 

完全に新たなデザインというわけでなく、先行するカズロンを洗練した活字書体です。
モノタイプ社の機械を使った、実用に足る新しい書体を作る最初の試みが、20世紀を通して使われる書体を生み出した、ビギナーズ・ラックのようなところもある書体です。

活字をデザインしたエドワード・ジョンストン(Edward Johnston)とJ. H. メイソン(J. H. Mason)は、2人とも『The Imprint』 誌の編集同人です。
エドワード・ジョンストンは、20世紀イギリスを代表する書家(カリグラファー)、書体デザイナー。
J. H. メイソンは、コブデン・サンダスン(T. J. Cobden-Sanderson、1840~1922)のダヴス・プレス(Doves Press)にいた人で、印刷史の研究者でもあります。

 

ところで、 1970年ごろのMONOTYPE社の活字見本帖の説明を誰が書いたかクレジットはありませんが、スタンリー・モリソンで間違いないと思います。
モノタイプ社のアドヴァイザーであり、ケンブリッジ・ユニヴァーシティー・プレス(CUP)のアドヴァイーザーでもあった、タイポグラフィの専門家です。モリソンの著書に『The Tally Of Type』(1953年、CUP)という本があるのですが、そこでの「Imprint」についての言及が、見本帖との記述と共通する部分があるので、モリソン自身の記述と思われます。

 

『The Tally Of Type』(1953年、CUP)表紙

『The Tally Of Type』(1953年、CUP)扉

▲『A Tally Of Type』(1953年、CUP)クロス表紙と扉
ケンブリッジ・ユニヴァーシティー・プレスは、1930年から、University Printerのウォルター・ルイス(Walter Lewis)とCUPのアドヴァイザーだったスタンリー・モリソン(Stanley Morison)発案で、クリスマスに印刷に関する本をつくり、印刷関係者に配布していました。
『A Tally Of Type』(「活字の束」)は、その1953年のクリスマス・ブック。1922年から1932年にかけて、スタンリー・モリソンの監修で、モノタイプ社で新たに作られ、CUPに導入された新活字を紹介している本です。
各活字の章は、説明されている活字で組まれているので、みごとな組見本にもなっています。

扉のオーナメントは、レイノルズ・ストーン(Reynolds Stone,1909~1979)の木版。

活字好きなら、見てて飽きない本だと思います。

 

『The Tally Of Type』(1973年、CUP)カヴァー

『The Tally Of Type』(1973年、CUP)扉

▲『A Tally Of Type』(1973年、CUP)カヴァーと扉
1953年版は非売品でしたが、1973年に、活字書体を少し増補して、販売されました。復刊のリクエストが多かったようです。

1953年版も1973年版も魅力的な本ですが、これらについては、別の機会に取り上げた方がよさそうです。

 

話を1913年の『The Imprint』に戻します。

今、手もとにある『The Imprint』の写真です。

手もとにある『The Imprint』

その内訳は、次のようになっています。

元の雑誌のままの、1月号(創刊号)、2月号、4月号、7月号、8月号、11月号。

バラで9冊そろえば、言うことないのですが、3月号、5月号、6月号が欠けています。
さらに、古雑誌にありがちなことなのですが、1月号(創刊号)は55・56ページの書評ページが破り取られており、4月号には、表紙・裏表紙がなく、11月号は、本来は糸かがりのものをステープルで綴じ直されています。

また、100年以上たった本なので仕方ありませんが、表紙が日に浴び外気にふれてきたぶん、パルプ紙なので、割れやすくなっています。

第1巻(Vol.1)は、1月号から6月号の6冊。
第2巻(Vol.2)は、7月号から11月号の3冊。

 

『The Imprint』第1巻と第2巻の合冊

『The Imprint』第1巻と第2巻の合冊

全9冊の合冊なので、これが完本ならば、すべてそろうということになるのですが、これも雑誌の合冊にありがちなことで、破り取られた個所が多く、この合冊の場合、100ページほど、破り取られていました。

表紙も広告も捨てていない、よいつくりの合冊なのに、とても残念なことになっている本です。

 

『The Imprint』第1巻の合冊

『The Imprint』第1巻の合冊

第1巻(Vol.1)は、1月号から6月号までの6冊の合冊のはずですが、なぜか5月号が欠け、7月号が入った合冊でした。
さらに、この合冊は各号の表紙や広告は省いてあります。

そのため、手もとにこれだけ、『The Imprint』がありながら、いまだに5月号に大きな欠けがあるため、本文全部がそろっていません。


鹿児島で『The Imprint』を探すとなると、通販に頼らざるをえず、通販の安価な本でうまく揃えられるのではないかと考えたりもしたのですが、なかなかうまく行かず、愚者の買い物になってしまいました。
特に合冊本を現物を見ずに購入するのは、難しい。
それでも、誌面の隅々から、1913年の勢いを感じられますから、道楽としては十分です。

 

『The Imprint』1月号(創刊号)の表紙02

▲『The Imprint』1月号(創刊号)の表紙
合冊中の表紙で、日にあたらないぶん、状態はよいです。

「Vol.1」だけの合冊のほうは、表紙をすべて省いて綴じていました。
古雑誌の魅力は、表紙と広告であったりするので、不見転は失敗のもとです。

 

1913年の『The Imprint』1月号(創刊号)の表紙をめくると、表2にのJOHN HOGGの出版広告、そして最初のページにジョン・ラスキンのことばの引用があります。

『The Imprint』1月号(創刊号)の最初のページ、ラスキンの引用

▲『The Imprint』1月号(創刊号)の表2の広告と、最初のページ、ラスキンの引用
手もとにある2冊の合冊本では、このラスキンのことばは、一方では破り取られ、一方では省かれていました。
残念な話です。ボロボロですが、もとの形の1冊があって、よかったです。

この単独の1月号も55・56ページの書評が破り取られていたのですが、そこで紹介されていたのは、第54回で紹介した「1912年のチャールズ・T・ジャコビの『本と印刷についての覚書』(2013年1月27日)」でした。
このページは、合冊のほうにはありましたので、補うことができました。

 

ラスキンからの引用は、この雑誌のよって立つところの宣言のように思われます。

As the art of life is learned, it will be found at last that all lovely things are also necessary: the wild flower by the wayside, as well as the tended corn; and the wild birds and creatures of the forest, as well as the tended cattle; because man doth not live by bread only, but also by the desert manna; by every wondrous word and unknowable work of God. Happy, in that he knew them not, nor did his fathers know, and that round about him reaches yet into the infinite, the amazement of his existence. Ruskin

【飯塚一郎訳、1971年、中央公論社】
生活の術(すべ)が学ばれるにつれて、あらゆる美しいものもまた必要であることが、ついには理解されるであろう。路傍の野草の花も、栽培された穀物と同様、野鳥も森の獣も、飼いならした家畜と同じように必要である。それは人間がただパンだけにたよって生きるものではなく、荒野のマナによっても生き、神のすべての不思議なことは、不可知のわざによっても生きるからである。このようにして、かれはこれまで知らなかったこと、かれらの祖先も知らなかったことを知って喜び、かれのまわりにその生存の驚異が無限にひろがっているのを知って喜ぶであろう。

ラスキン『この最後の者にも――ポリティカル・エコノミーの基本原理にかんする四論文――』 の一節が、新しく創刊される印刷雑誌の冒頭を飾っています。

この「all lovely things are also necessary(あらゆる美しいものもまた必要である)」という意識は、『The Imprint』の同人たちに共有されていたのだと思います。

ところで、飯塚訳では「lovely」が「美しい」と訳されていますが、そのことで意味をせばめているかもしれません。

イギリス英語では「lovely」は使い勝手のよいことばのようで、男女の性差を問わず「美しい・おいしい・優しい・楽しい・かわいい・素敵・きれい」 などの意味で使われます。いい気持ち、肯定的な心地よさを表すことばです。

だから、「あらゆるラブリーなものもまた必要である」としてもよいかもしれません

しかし「ラブリー」というと、日本だと「かわいい」という意味にとられるので、これもまた意味をせばめてしまいそうです。
「あらゆるかわいいものもまた必要である」は、これはこれでマニフェストとして成り立ちそうですが。

小沢健二の「ラブリー」という歌もありましたし、『マイ・フェア・レディ』の「wouldn’t it be lovely(素敵じゃない)」という歌もありました。そういえば、ビーチボーイズの「素敵じゃないか」は「Wouldn't It Be Nice」でした。

 

『The Imprint』は、本も印刷物も、人間にとって必要不可欠な「all lovely things」であると信じ、よいものをつくり、それで生計を立つように考えた、ラスキンやモリスの次世代がつくった雑誌でした。

 

『The Imprint』1月号(創刊号)の目次は、次のようなものです。

『The Imprint』January 1913 第1巻第1号 1シリング

【表1】
【表2】 ロンドンの出版社JHON HOGGの「The ARTSTIC CRAFT SERIES of TECHNICAL HANDBOOK」の広告。

p.i ラスキンの引用
p.ii Editors, Notices
p.iii CONTENTS, INDEX TO ADVERTISERS
 本文目次と広告索引
p.iv-vii NOTES
p.vii ERRATA
p.viii 1909年に開業した「Selfridge’s」百貨店用の便箋のデザイン・コンペ応募の告知とその募集用クーポン。

p.1-16 Rev. T. F. DIBDIN: PRINTERS DEVICES
 付録として、書誌学者Thomas Frognall Dibdin (1776~1847)による印刷所の商標についての研究を、毎号少しずつ掲載。切り分けて製本することを前提としているので、このテキスト単独のページ(ノンブル)になっています。
  p.16のあとにp.1になるので、最初は混乱します。

口絵 ブレイクの「GLAD DAWN」モノクロ。
p. 1-3 Professor W. R. LETHABY: ART AND WORKMANSHIP"
 「ART IS THOUGHTFUL WORKMANSHIP.」と締めます。
p. 4-6 C. D. MEDLY: THE LAW OF THE IMPRINT
 印刷物の刊記(奥付)で法に基づいて記載すべきものについて。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)の虎のモノクロ木版。
p. 7-14 EDWARD JOHNSTON: DECORATION AND ITS USES
 イギリスの書家エドワード・ジョンストンによる連載「装飾とその用法」の第1回。図版8点。
p. 15-17 R. A. AUSTEN-LEIGH: THE AMERICAN WAY
 アメリカでの印刷の流儀。その先進的な部分にはイギリスも学ぶべき。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)の鹿のモノクロ木版。
p. 18-23 F. ERNEST JACKSON: LITHOGRAPHY: I. HISTORY
 石版印刷(リソグラフィ)についての連載。モノクロ図版3点。
p. 24 JOSEPH PENNEL: THE COMING ILLUSTRATION
 ジョセフ・ペンネルによる、これからのイラスト論。モノクロ図版3点。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)のハイエナのモノクロ木版。
 アート紙(4ページ)の別紙にモノクロ図版4点(本文ノンブルに含まず)。
p. 33-38 J. H. MASON: TRADE TEACHING AND EDUCATION
 印刷・出版を目ざす若者への教育について。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)の豹のモノクロ木版。
p. 39-44 W. HOWARD HAZELL: COST FINDING AND KEEPING
 現在の印刷にかかる「コスト」について。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)のコウモリのモノクロ木版。
p. 45-50 HARRY A. MADDOX: PAPER SELECTION FOR OFFSET & INTAGLIO PRINTING
 オフセット印刷とグラビア印刷の紙の選択。
 埋め草にトマス・ビュイック(Thomas Bewick)の狼のモノクロ木版。
p. 51-54 EVERARD MEYNELL: THE PLAIN DEALER: I. AUTOGRAPHS
 自筆原稿を取り扱う古書店について。MAGGS BROTHERSなど取扱店の広告。
P. 55-60 BOOK NOTICES
 書評
SOME NOTES ON BOOKS AND PRINTING. By C. T. JACOBI. Fourth Edition. London: The Chiswick Press.
GULLIVER’S VOYAGES TO LILLIPUT AND BROBDINGNAG. By JONATHAN SWIFT. Illustrated by P. A. Staynes. London: Sidgwick and Jackson, Ltd.
THE FOLK-TALES OF BENGAL. By THE REV. LAL BEHARI DAY. With thirty-two illustrations in colour by Warwick Goble.
THE ENGRAVINGS OF WILLIAM BLAKE. BY ARCHIBALD G. B. RUSSELL, B. A. Grant Richards.
A LIST OF NEW GIFT BOOKS. T. Werner Laurie, Ltd.
THE EVOLUTIN OF “FOURACRES.” Heal and Son, Ltd.
STRONG’S REMINDER, December 1912. H. O. Strong and Sons, Ltd. Engineers to the Printing and Allied Trades.
 広告「The COLLECTED WORKS of WILLIAM MORRIS」24巻。LONGMANS, GREEN & CO.

p.61-69 広告
P. 70 THE MAKING OF THE IMPRINT
 『THE IMPRINT』創刊号の図版印刷の印刷者、製本者、紙・インクの入手先のクレジット。
 「THE TYPE is Imprint Old Face set on the Monotype.」
p.71-80 広告 出版社・印刷・印刷機械・活字・紙・インク・保険
【表3】 活字活字鋳植機のモノタイプ社の広告
【表4】 『THE IMPRINT』の編集者であり印刷者であるジェラード・メイネルの(Gerard Meynell)ウエストミンスター・プレスの広告。

 

『The Imprint』1月号のページから

▲『The Imprint』1月号のページから、デザイン公募と付録
左ページの告知は、1909年に開業した「Selfridge’s」百貨店用の便箋のデザイン・コンペ応募の告知とその募集用クーポン。
この入賞作品は、11月号で発表されます。
左ページは、書誌学者Thomas Frognall Dibdin (1776~1847)による印刷所の商標についての研究『PRINTER'S DEVICES』で、雑誌本文とは独立したページだてになっており、この部分だけを綴じ直しができるようになっています。付録あつかいのテキストです。

『The Imprint』のページ構成はちょっと変則的です。

【i, ii, iii, iv,...】では、編集同人名、目次、編集記、告知など。このページは、各月ごとに「i」からはじまります。
【1, 2, 3, 4,...】は、2種類あって、本文と付録がそれぞれ独立したページ(ノンブル)になっています。
付録のThomas Frognall Dibdin『PRINTER'S DEVICES』は、1月号から11月号まで全9号に連載され、p.1~88のページが打たれています。
本文は、「Vol.1」と「Vol.2」で、それぞれ「1」から始まります。1月号から6月号の「Vol.1(第1巻)」はp.1~446のページが打たれ、7月号から11月号の「Vol.2(第2巻)」はp.1~142のページが打たれています。
【1a, 2a, 3a, 4a,...】は、7月号から11月号の「Vol.2(第2巻)」の巻末で使われるノンブルで、各月ごとに「1a」からはじまります。

 

『The Imprint』1月号の「PRINTER'S DEVICES」のページから

▲『The Imprint』1月号の「PRINTER'S DEVICES」のページから

 

『The Imprint』1月号の本文口絵と本文最初のページ

▲『The Imprint』1月号の本文口絵と本文最初のページ
ウィリアム・ブレイクの作品「GRAD DAWN」の複製で始まります。
図版は、Rembrandt Intaglio Printing Co. Ltd.によるグラビア印刷。
夜明けは印刷の新時代ということ意識しています。

本文p.1は、アーツ&クラフツ運動の学校「Central School of Arts and Crafts」の創始者、W. R. レサビー(William Richard Lethaby、1857~1931)の文章で始まります。

 

『The Imprint』1月号の広告ページから

▲『The Imprint』1月号の広告ページから
カーウェン・プレス(CURWEN PRESS)らしい文字組みの広告。
この広告に使われている活字書体はカズロン(Caslon)です。

ハロルド・カーウェン(Harold Curwen、1885~1949)は、この雑誌の編集者のひとりのもとで学んだとありますが、エドワード・ジョンストンのことです。

 

『The Imprint』1月号のページからクレジットと広告

▲『The Imprint』1月号のページからクレジットと広告
左ページの「THE MAKING OF THE IMPRINT」では、図版の制作会社、紙の仕入れ先など詳しくクレジットされています。ただ、このように詳しく書かれたのは1月号だけです。
最後に「THE TYPE is Imprint Old Face set on the Monotype.」(活字はモノタイプで組まれたインプリント・オールド・フェイスです)とあります。
「Imprint Old Face」が正式名称です。
自前の活字を持つと言うことは、やはり誇らしいことです。独立のあかしです。

右ページのアーデン・プレス(ARDEN PRESS)の広告では「At the Arden Press an effort is made to apply to the conditions of modern industry at their best those principles and traditions of craftmanship which were established or revived by William Morris.」(アーデン・プレスでは、ウィリアム・モリスによって確立あるいは復活された職人仕事の原則と伝統を、最高の状態で現代の産業のありかたに適用するための努力が払われています。)と、モリスの本づくり系譜に連なるものであることを宣言しています。

 

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326. 1958年の『佐藤春夫詩集』と『堀口大學詩集』(2020年11月18日)

1958年の『佐藤春夫詩集』と『堀口大學詩集』

 

1958年(昭和33年)の角川文庫。
佐藤春夫編『堀口大学詩集』と、堀口大学編『佐藤春夫詩集』です。

50年来の友人、佐藤春夫(1892~1964)と堀口大学(1892~1981)が、お互いの詩集を編むという趣向です。

それぞれ200ページほどの、文庫本らしい本です。
双子の詩集です。

考えてみると、今、お互いの作品を選んで、文庫本の詩集を編める詩人の組合せというのは、あるのでしょうか。
個々の選集なら、いくらでも思い浮かびますが、互選となると、なかなか思い浮かびません。

今が、詩人にとって友愛の時代でなく、孤立の時代ということなのでしょうか。

手もとにあるものは、古本屋さんで購入したもので、佐藤春夫編『堀口大學詩集』が1964年の4版、堀口大學編『佐藤春夫詩集』が1971年の21版。いずれも版を重ねていたようですが、今は絶版です。

 

刊行されたのは堀口大學選『佐藤春夫詩集』が先で、この互選詩集の企画に熱心だったのは、堀口大學のほうだったようです。

 

堀口大学編『佐藤春夫詩集』奥付

▲佐藤春夫編『堀口大学詩集』奥付
昭和33年10月30日初版発行
昭和39年1月10日4版発行
4版には、まだ検印が押されています。

佐藤春夫による「解説」冒頭部分を引用しておきます。
日付は昭和33年6月17日で、堀口大學編『佐藤春夫詩集』の刊行後です。
たぶん同時に刊行予定だったのが、遅れたのでしょう。

 堀口大學は同門の詩友で、少年の日から老年の今日まで五十年の友情を保つてゐる。僕にとつてはまるで分身のやうな氣のする彼である。
 分身であつて同一身ではない。彼は詩とともに酒を愛するが僕は酒は愛しない。彼は雷を爽快と稱するが、僕は雷は大のにが手である。彼には見かけによらぬ豪快なところがある。相似たところを要として友情を結んでゐるが似ないところの方が多いらしい。そこがかへつて友情を持續してゐる理由なのかも知れない。
 角川氏が僕と彼との選詩集を編ませようといふ理由も互に相似たやうな相似ないやうな點に興味を持つたからでもあらうか。ともかく言に訥に行に敏な彼は夙(つと)に事を成就してゐるのに、僕は今やつとこれを書いてゐるわけである。自分の事は自分でわかりにくいやうに分身のこともあまりわかりやすくない。あんまり近すぎては全體が視野に入らないわけである。その困難が、僕をして今までこの仕事をためらはせてゐたのである。さて追ひつめられてこれに立向ふ。
 五十年間、あまりに近くにあつた彼を適當な視野にまで追ひ退けることも容易ではない。そのままもとの近さまで歸つてこないのではないかといふ心配も伴ふし、それよりもどれくらゐ遠ざけたら、適當なのかその見界(みさかひ)がつきにくいのである。
 そこで見慣れてゐる隣人を行きずりの人と見做して彼の全詩集をひととほり目をさらしてみた。
 彼の初期の詩は彼の詩に對する稀有(けう)の愛好を示してゐるが決して稀有の才能を示したものではないやうに思はれる。回顧すれば五十年前、僕は今よりももつと無遠慮に彼の詩稿を見る毎に、一口に甘い甘い。(うまいうまいではないアマイアマイ)とまるでアマ酒屋の賣り聲のやうに云ひけなしたものであつた。それに對して彼は、
 「サトウ、甘いのも味だよ」
 と警句一番、にこやかに受け流したのもなかなか見上げたものであつた。
(後略)

 

堀口大学編『佐藤春夫詩集』奥付

▲堀口大学編『佐藤春夫詩集』奥付
昭和33年6月10日初版発行
昭和46年10月30日21版発行

堀口大學による「解説」冒頭を引用しておきます。日付は昭和33年4月。

 角川文庫の求めに応じ、佐藤春夫君と僕とで、互選の詩集を出そうではないかと話合ってからすでに三年ほどの歳月がすぎた。途中条件の点で文庫側との折衝に手まどり、お互にすぐには着手出来なかった事情もあったりして、ついに今日までおくれてしまった。それに文庫側担当者の退社による交替があり、僅かにそれに先んじて渡して置いた僕の選に成る『佐藤春夫詩集』の原稿が、そのどさくさまぎれに紛失、行方をくらますという挿話まであったりした。これには僕もいささかあわてた。それというのが、先きに選んだ春夫君の詩の表題のコッピーをとっておかなかったからだ。たださえもの忘れの激しい昨今、すでに一年以上も過ぎた今日、明確な記憶があるはずもない。一つだけ覚えているのは、各詩集の巻首をかざっている春夫君の自序の類を全部原文のまま再録したことだった。もともと春夫君の詩集には、殆んど例外なく、そのすべてに自序の類が添えられていて、文藻の極致を行く独得の趣き深い雅文で、その集の内容を説き、これを発表する当時の心境を伝えており、読者にとっては、これが有難い解説の役割もしてくれる一方、序そのものが独立のものとしても無二の名文章、集の内容をなす詩の作品と呼応して、いずれ劣らぬ高度の芸術品なのである。
 文庫版の『佐藤春夫詩抄』は今日まですでに五種以上を数えるのでないかと思う。だが詩人の原序の全文を一々採録しているのは、今度のこの角川文庫本が初めてではないか。いささか手前味噌の嫌いはあるが、読者にはよろこんでいただけるものと期待している所以だ。
 先きの失われた原稿の場合もそうであったが、今度やりなおしに際しても、二百頁を予定して春夫君の詩の拾捨に当った。文庫本としてはこの程度の厚さが最適、読者にも歓ばれると聞知するからである。この点は正に予定どおりに行ったと思ってよろこんでいる。
 内容の選択に当っては、専ら自分の好みに従った。これがなければ角川文庫がこの選を、僕に委託した意義がなくなると思うからだ。僕は自分が友の詩に対する場合、公平なそして冷静な批評家ではあり得ないと知っている。交友今や五十年になんなんとし、同じ時代に生き、同じ師につき、或る時は同じ大学に学び、また或る時期には同じ区内の街路ひと筋をへだてて向い合う二つの丘の中腹に、五百メートルの空気をすかし、阿(あ)と呼べば吽(うん)と答える近きに住み、さてはお互に終生詩を忘れずにやって来た仲合(なかあい)だ、折りにふれ時に発しての思い出や愛着が、或る詩篇に純粋批判による絶対価値とは別な比重を与えるのもまた理の当然、僕は怖れずにこれに従ったばかりか、却ってこれにおもねった位のものだ。だからこの選集にあふれる堀口好みの強い香気(決して臭気とは言わない)が気になる読者には、いささかお気の毒だが、我慢していただくよりほかに手はないと思っている。
(後略)

 

互選の詩集を出そうではないかと話合ってからすでに三年ほどの歳月がすぎた」とありますから、1955年には企画は始まっていたのでしょう。

佐藤春夫は「僕」と「彼」、堀口大學は「僕」と「春夫君」を使っています。

 

この堀口大學編の選集には、佐藤春夫の英詩訳が含まれていないのが残念。「解説」で、

先に二人で、互選詩集を出そうではないかと語り合った時、春夫君と僕はお互の訳詩も忘れずに容れようと約した。すでに吉田精一氏も言っていられるように、春夫君は訳詩家としても極めて秀抜、第一流の存在だ。今この集には彼の英詩の訳を悉く逸したが、これは僕の大きな手落(ミス)だった。真に名訳の名にふさわしいものが多数あるのだから、せめて一、二篇は加えたかった。

と、堀口大學は言い訳していました。

 

この、どこか珍しい生きもののようなところもある、互選詩集を続けて読んでみて、気づいたことを、いくつかメモしておきます。

 

     ◆◆◆

堀口大學編『佐藤春夫詩集』中の「未刊行詩集(抄)」に、原民喜(1905~1951)を追悼した「三月十三日夜ノ事」が選ばれています。
手もとにある21版では、

 結襟ノ服ヲマトヒ
 ヨキ服ハ壁ニカケ
 友ノタメ殘シ置キシハ
 ヌケガラニ似テ

とありますが、「結襟」はネクタイのこと、「詰襟」の誤植かと思われます。21版まで残っていたのでしょうか?


     ◆◆◆

2人の互選詩集を2冊続けて読んで素朴に思ったのは、堀口大學は「ああ」「おお」といった感嘆詞を平気で使いますが、佐藤春夫はなかなか使わないということです。

ちょっと気になったのは、もとは堀口大學詩集『新しき小径』(1922年、アルス)に収録されていた「私」という詩にでてくる「それなのにそれなのにああそれなのに」という一節。
堀口大學『白い花束』(1948年、草原書房)に収録の「心がはり」でも「それなのに それなのに ああ それなのに」と繰り返されていますが、その間の1937年、美ち奴(みちやっこ、1917~1996)の大ヒット曲に「ああそれなのに」があります。
作曲は古賀政男、作詞は星野貞志。星野貞志はサトウハチロー(1903~1973)のペンネームのひとつ。
サトウハチローと堀口大學の間で、「ああそれなのに」をめぐって、なにか交渉はあったのでしょうか?

 

     ◆◆◆

佐藤春夫が谷崎潤一郎夫妻との関係に煮詰まっていた時期に書かれ、『我が一九二二年』(1923年、新潮社)に収録された「浴泉消息」の一節。

   3 よほど快方に向ひました

 秋になつたら
 小さな家を持たう、
 小榻一椽書百巻
 さうして、
 煙草とお茶とのいいのが飲みたい、
 そこには花畑がいる、
 妻はもういらない
 童子を置いて住まう、
 童女でも悪くはない、
 さうだ、それよりさきに
 一度、上海に行つて
 支那の童女を買つて來よう、
 おもちやのやうに、着飾つた
 十三ぐらゐのがいい、
 木芙蓉の荅(つぼみ)のやうな奴はいくらぐらゐするだらう?

大正11年(1922)8月の日付のあるこの詩は、今なら、どんな風に書かれるのでしょう。
あるいは、書かれないのでしょう。
十三ぐらゐ」が「十四ぐらゐ」となっている版もあります。
これも大正の美的想像力の一面です。

 

     ◆◆◆

佐藤春夫や堀口大學の詩は、俳句や短歌の七五調に親しんでいる人には、読みやすい詩かとも思われますが、私は七五調がしみこんだ身体を持っていないので、ことばにつんのめってしまいます。

それでも、2人の互選詩集を読んでいると、見かけなくなったことばたちの響きに、心魅かれます。

例えば、堀口大學であれば、次のようなことば。

圓(まろ)み 見ね ほこりかに微笑 女(をみな) 牧歌(イツヂール) 正午(まひる) しつつこい 黙せしめよ やるせなの心 實(げ)に 戰(そよ)がせる風 氤氳(いんうん) 顔(かんばせ) しやつきりして 醉(ゑひ) 勞苦(いたつき) 氣(け)うとさ 輕(かろ)らかに 黝(くろ)ずめる 皓(しろ)い 半巾(はんけち) なりけらし 昨日(きそ) 蛇(くちなは) 色彩(あいろ)

例えば、佐藤春夫であれば、次のようなことば。

夕づつ 聞説(きくならく) 食(た)うべて 無才(むざえ) をみな 荒磯(ありそ) 沾(ひ)ぢて 昨日(きぞ) さしぐまる かぐろなる おぼすらめども 長息(なげ)けども 消(け)なば消(け)ぬべき 哂(わら)ひ 魯(おろか) 深切な おどろ髪 蹠(あなうら) とよもして啼く 狭霧(さぎ)らふ 海(わだ)の原 山樵(やまがつ) 鯨(いさな) 千種百種(ちぐさももぐさ) 魚狗(しょうびん) くわくこう 冰(こお)る 息(いこひ) 互(かたみ)に 汝(いまし) かかはら 鞦韆(ふららこ)の索(つな) おばしま さびしらに 麗日(うつひ)さす こなしやまぶき 朝にけに 地震(なゐ) 眸(ひとみ) 大人(うし) おもひすずろぐ客人(まらうど) 間(ひま) 珍重(うづ) 腕(ただむき) たまきはる 詩人(うたびと) 細乳(ほそぢ) つかさびと 塵土(ちりひぢ) 罵(のの)めき 旦暮(あけくれ) 朝夕(あさよひ) 大海(わたつみ) 道(い)ふ 肉(ししむら) 壊(く)えただれる

これらのことばが詩語としてある世界は、ここではない、とも感じます。

 

     ◆◆◆

この互選の『堀口大學詩集』と『佐藤春夫詩集』を、そこに収録されてる、佐藤春夫『魔女』を刊行し、堀口大學訳のグウルモン『シモオヌ』を出した、二人に縁の深い秋朱之介(西谷操、1903~1997)なら、どんなふうに装幀しただろうかと、想像します。

佐藤春夫編『堀口大學詩集』にも選ばれている堀口大學の詩「梨甫(リオ)」 「驪人」――いずれも『新しき小径』(1922年、アルス)に収録――は、秋朱之介が最初に立ち上げ個人出版所・書局梨甫(1929年に『イヴォンヌ』を刊行)、そして、1937年(昭和12年)に堀口大學訳・イヴァン・ゴル詩集『馬來乙女の歌へる』を刊行した驪人荘の名前のもとになっています。
秋朱之介にとって、堀口大學という存在の大きさを感じさせます。

ある時期の秋朱之介は、堀口大學の本を「芸術作品」として作るために、自分の持つすべての力を傾けたといっても過言ではありません。

 

秋朱之介が、1934年(昭和9年)、個人の限定出版所として立ち上げた「裳鳥会」最初の詩集に、堀口大學訳・グウルモン『シモオヌ』を選んだのは、慧眼だったと思います。

『月下の一群』(1925年、第一書房)に収録された詩のなかで、堀口大學が最初に翻訳したのがグウルモンの「シモオヌに呼びかける一聯の詩」でした。
堀口大學にとって最初の訳詩のこころみであり、堀口大學を「詩人」たらしめた詩ともいえます。

ただ、堀口大學の「Simone」の訳語は、「シモオン」「シモオヌ」「シモーヌ」「シモーン」と揺れ続けています。

その揺れを、小澤書店版『堀口大學全集』などから分類してみると、次のようになります。

【シモオン】
『グウルモン詩抄』(1928年、第一書房) 11編
『グウルモン詩集』(1951年、新潮文庫) 11編
『月下の一群』(1981年、小澤書店版『堀口大學全集』第2巻) 2人称が「お前」。
 堀口大學訳詩集『月下の一群』(1925年、第一書房)には、
 「毛」「柊」「霧」「雪」「落葉」「果樹園」「庭」「水車」「寺」の9篇。
 堀口大學訳詩集『空しき花束』(1926年、第一書房)には、
 「野ばら(野うばら)」「川」の2篇。

【シモオヌ】
『シモオヌ』(1934年、裳鳥会) 11編

【シモーヌ】
『堀口大學全詩集』(1970年、筑摩書房)11編
『グールモン詩集』(1974年、彌生書房) 11編
『グールモン詩集』(1982年、小澤書店版『堀口大學全集』第3巻)11編。2人称が「君」。

【シモーン】
『月下の一群』(1955年、新潮文庫)

最終的には、「シモーヌ」で落ちついたようです。

佐藤春夫編『堀口大學詩集』は、『月下の一群』からの訳詩がほぼ半分を占め、「シモオヌ」連作からは、「毛」と「霧」の二編が選ばれています。よびかけは「シモーン」です。

 

残念ながら、秋朱之介の裳鳥会版『シモオヌ』(1934年)は手もとにないので、新潮文庫の『グウルモン詩集』を引っ張り出します。
これも古本屋さんで購入したもの。

 

堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)表紙堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)裏表紙

▲堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)表紙
昭和26年7月31日発行
昭和37年6月30日8刷


堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)目次01

堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)目次02

堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)目次03

▲堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)目次

ルミイ・ド・グールモン(Remy de Gourmont、1858~1915)の「シモオヌ(Simone)」連作のほかに、散文詩「かの女には肉體がある」も、秋朱之介は、裳鳥会から刊行しています。おそろしいことに、意に満たない仕上がりだったため、大部分を裁断しています。
ほかにも、裳鳥会では「邪なる禱」や「アマゾオヌへの歌」の刊行も準備していましたが、未刊に終わっています。

秋朱之介は、堀口大學訳のグールモンに惚れこんでいたようです。

 

堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)奥付

▲堀口大學譯『グウルモン詩集』(新潮文庫)奥付
堀口大學の文庫本解説「ルミイ・ド・グウルモン小傳」に「グウルモンは猫を愛した。彼の仕事机の上には何時もその愛猫がのどを鳴らして眠つてゐた」とあります。
猫好きの独身者にして詩人批評家という点では、ボードレールに連なる存在です。

岩波でも新潮でもちくまでも、現行の文庫本に、グールモンが1冊もないのは、とても寂しい話です。

 

     ◆◆◆

ところで、2020年11月6日の朝日新聞の天声人語で、堀口大學訳のグールモンの詩「落葉」を引用していました。

▼フランスの詩人ルミ・ド・グールモンに、恋人に呼びかける連作がある。「落葉」と題した一編は、〈シモオン、木の葉の散つた森へ行かう〉と始まる。そして〈シモオン、お前は好きか、落葉ふむ足音を?〉の言葉を何度も繰り返す▼〈夕べ、落葉のすがたはさびしい/風に吹き散らされる時落葉はやさしく叫ぶ!〉(堀口大学訳)。ひとりで歩くのも、誰かと歩くのもいい。朝に冬を感じ、昼に暖かさを楽しむ。そんな贅沢な季節である。

手近にある堀口大學訳「落葉」を比較すると、本ごとに少しずつ異同があります。天声人語は、「シモオン」「シモーン」「シモオヌ」「シモーヌ」のなかでは、「シモオン」訳で、小澤書店版『堀口大學全集』第2巻の『月下の一群』から引用しているようです。

『グウルモン詩集』(1951年、新潮文庫)
シモオン 木の葉の散つた森へ行かう。
シモオン お前は好きか 落葉ふむ足音を?
夕べ落葉のすがたはさびしい
 風に吹き散らされる時 落葉はやさしく叫ぶ!

『月下の一群』(1955年、新潮文庫)
シモーン、木の葉の散つた森へ行かう。
シモーン、お前は好きか、落葉ふむ足音を?
夕べ、落葉のすがたはさびしい
 風に吹き散らされると、落葉はやさしく叫ぶ
!〉

『月下の一群』(1981年、小澤書店版『堀口大學全集』第2巻)
シモオン、木の葉の散つた森へ行かう。
シモオン、お前は好きか、落葉ふむ足音を?
夕べ、落葉のすがたはさびしい、
 風に吹き散らされる時落葉はやさしく叫ぶ!

『グールモン詩集』(1982年、小澤書店版『堀口大學全集』第3巻)
シモーヌ 木の葉の散った森へ行こう。
シモーヌ 君は好きか 落葉ふむ足音を?
暮れ方 落葉のすがたはわびしい、
 風が吹き散らすと 落葉はやさしく叫ぶ
!」

 

「シモオヌ」が現実の恋人なのなのか、夢の恋人なのか、分かりません。
夢のなかの猫、のような気もします。

 

     ◆◆◆

秋朱之介(西谷操、1903~1997)が、1934年(昭和9年)、恋人「モト子」さんの名前をもじって「裳(モ)」と「鳥(ト)」で、個人出版の「裳鳥会」を立ち上げ、最初に企画・編集・装幀した本が、堀口大學訳・グールモンの「シモオヌ」連作11篇を収めた訳詩集『シモオヌ』です。

ちなみに、秋朱之介が「裳鳥会」の名を冠して、実際に刊行した本は、次の3冊。

ルミイ・ド・グールモン 堀口大學訳 田園詩『シモオヌ』(1934年6月)

ルミイ・ド・グールモン 堀口大學訳『かの女には肉體がある』(1934年7月、意に満たず、ほとんどを裁断)

堀口大學著 詩集『ヴェニュス生誕』(1934年9月)

いずれも艶っぽい「恋愛」詩集です。

恋人の名を冠した出版所で、恋愛詩集を刊行する。
そんな人は、日本で、ほかに聞いたことがありません。
しかも、そのことに、だれも気づいていない。
なんというか、「超」がつくほど、ロマンテッィクな男性ではありませんか、秋朱之介は。

自分の名前をもじった「裳鳥会」の名を冠して刊行された恋愛詩集のことを、当のモト子さん(秋朱之介の恋人、のちの夫人)は、どう思っていたのでしょうか。
届いていたのでしょうか。

話では、秋朱之介の本づくりに関心のうすい人だったそうです……。

 

残念ながら、裳鳥会の『シモオヌ』『かの女には肉體がある』は、実際に手に取ったことがありません。
『裳鳥』というちらし(広報紙)も作っていたようで、それがはさまった完本を、いつか手に取ってみたいものです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

第314回(2020年6月21日)で、DEAF SCHOOLの「TAXI!」(1977年、Warner)を紹介しましたが、日本のアイドルがソロデビューシングルとして、「TAXI」をカヴァーしました。すごい企画力だなと感心するばかり。

プログレ的楽曲を歌い踊るアイドルグループ、XOXO EXTREME(キスエク)の一色萌の、両A面の7インチアナログ盤です。
「TAXI」の日本語カヴァーで、演奏もDEAF SCHOOLという、夢のような盤でした。

オリジナルで故エリック・シャーク(ERIC SHARK)のナレーション・パートだった部分は、一色進(あ、シネマの人だ!)のナレーションになっているのですが、「馬車道」など舞台を横浜に置き換えているところはさすがと思いつつ、よりクラシカルな美声の人を起用してもよかったのではないかという感想も持ちました。
なりすレコードの制作です。

 

MOE HIIRO「Hammer & Bikkle」ジャケ

MOE HIIRO「Hammer & Bikkle」ラベル

▲A side MOE HIIRO「Hammer & Bikkle」

 

A' side MOE Feat. DEAF SCHOOL「TAXI」ジャケ

A' side MOE Feat. DEAF SCHOOL「TAXI」ラベル

▲A' side MOE Feat. DEAF SCHOOL「TAXI」
一色萌「TAXI」のジャケットデザインは小田島等、イラストはスージー甘金。
ラベルのデザインは、スティッフ・レーベル(Stiff Records)など英盤を連想します。

 

Deaf Schoolのファーストアルバムのジャケット表

Deaf Schoolのファーストアルバムのジャケット裏

言わずもがなですが、Deaf Schoolのファーストアルバム『2ND HONEYMOON』(1976年、Warner Bros. Records)のジャケットがもとになっています。
デフスクールのアルバムジャケットでは、裏面が楽屋落ち的なメンバー写真になっているので、 一色萌の盤でも、そこまでフォローしていれば、言うことなかったのですが。

 

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325. 2020年のRobert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』(2020年11月3日)

2020年のRobert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』箱表紙

 

ロバート・ワイアット(Robert Wyatt)の歌詞本、その3です。

2020年9月に出たばかりの、Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』の限定版です。
版元は、Faber & Faber。

ナンバリングされ、2人のサインが入っています。
クロス装、クロス函入り。

アルフレーダ・ベンジ作品の、4枚のアートプリント付き。
高品質インクジェットによるもの。ジークレー(Giclée)というやつです。

210部限定。
i~xは、作者用。1~200を販売。
届いたのは、42番でした。
日本にもファンが少なからずいるので、かなりの数、入るのではと予想。

本文はスミ1色。図版をカラーにできなかったのかと思います。
序文はジャーヴィス・コッカー(Jarvis Cocker)。一般の読者も対象としたいという選択でしょうか。

「Side by Side」(並んで、いっしょに)というタイトル通り、ロバート・ワイアットのパートが1~90ページ、アルフレーダ・ベンジのパートが91~188ページと、半分ずつ分かち合っています。

 

本を買うのは控えよう、片付けることを考えようと意識しているのですが、この本は、ほしかった。

rough trade のサイトで購入しました。

 

ラフ・トレードの段ボールパッケージ01

ラフ・トレード印のガムテープに巻かれた段ボールパッケージ

 

ラフ・トレードの段ボールパッケージ

ラフ・トレードの段ボールパッケージは、二重になっていました。

 

縞模様のクラフト紙

本は、縞模様のクラフト紙に包まれています。

 

そして、Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』。
青い箱、青い本。

「Sea Song」が頭の中で鳴り出します。
海に通じている本だと思いました。

 

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』01

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』02

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』03

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』04

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』05

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』06

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』07

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』08

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』09

 

Robert Wyatt & Alfie Benge『Side by Side』10

Robert WyattとAlfreda Bengeのサイン。

 

Marcus O’dair『Different Every Time: The Authorised Biography of Robert Wyatt』表紙

Marcus O’dair『Different Every Time: The Authorised Biography of Robert Wyatt』サイン

2014年に刊行されたワイアットの伝記、Marcus O’Dair『Different Every Time: The Authorised Biography of Robert Wyatt』(Serpent's Tail)もサイン本でしたが、本に直接書き込むのでなく、カードを貼り込むタイプでした。

 

『SHOOTING AT MOON: THE COLLECTED LYRICS OF KEVIN AYERS』

ワイアットの旧友、ケヴィン・エアーズ(Kevin Ayers、1944~2013)の歌詞を集めた『SHOOTING AT MOON: THE COLLECTED LYRICS OF KEVIN AYERS』も、2019年に出ていました。
こちらはフルカラーの本でした。
版元は、Faber & Faberの姉妹会社、Faber Music。

娘さんのGalen Ayersの編集で、ケヴィン・エアーズの手稿も積極的に掲載していました。
娘さんから見た一面というか、これでケヴィン・エアーズのすべて分かるというわけではありませんが、丁寧につくられた、好ましい本でした。

『Side by Side』も、アルフレーダ・ベンジという色彩にあふれた存在の特徴をもっと活かせばよかったのに、と思うのですが、でも、こうした形で本を残してくれただけでも、喜ばしいです。

 

締めくくりの、まとめの本が出る時期なのかなと、寂しさも感じます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Marcus O’dair『Different Every Time』(2014年)のときは、2枚組のベスト盤『Different Every Time』(domino)が出ました。

今回も、本の上梓に合わせるように、2004年に日本で編集されたアルバム『Robert Wyatt - His Greatest Misses』が、英dominoから再発され、始めてアナログ盤が作られました。2016年に休刊した音楽誌『ストレンジデイズ』の編集で、ワイアットの歌に重点をおいた、声がしみわたる好盤です。

今回の英dominoの再発盤は、2004年日本盤の編集デザインをそのまま踏襲しています。

ジャケットに使われている絵は、ワイアットが6歳頃に描いたもの。
こうした絵を残しておくような家庭に育った少年だったのだなと思います。

 

2004年盤CD 『Robert Wyatt - His Greatest Misses』01

2004年盤CD 『Robert Wyatt - His Greatest Misses』02

▲2004年盤CD 『Robert Wyatt - His Greatest Misses』
紙ジャケです。

 

2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』ジャケット

2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』裏ジャケット

▲2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』ジャケット

CD1枚で75分収録でしたので、アナログ盤では2枚組になっています。
深緑色のヴァイナル盤です。

 

2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』Side A

2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』Side D

▲2020年アナログ盤『Robert Wyatt - His Greatest Misses』Side A と Side D

声の魅力。
ロバート・ワイアットの声が、音楽と結びついてくれて、よかった。

日本編集ということもあって、ワイアットが「ヒロシマ、ナガサキ」「こんにちは、ありがとう」ということばを繰り返す「Foreign Accents」がアルバム最後の曲に選ばれています。


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324. 2009年の『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2020年11月2日)

2009年の『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』表紙

 

ロバート・ワイアット(Robert Wyatt)の歌詞本、その2です。

1987年イタリアの『ROBERT WYATT』(Stampa Alternativa)に続いて、2009年フランスの『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(『ロバート・ワイアット MWプロジェクト集成』)です。
版元は、フランス北東部のボワ・ド・シャン(Bois-de-Champ)にある、詩と現代美術を専門とする活版印刷所 Æncrages & Co です。

フランスのアーティスト、ジャン・ミシェル・マルケッティ(Jean-Michel Marchetti)の企画で、ロバート・ワイアットと、ワイアットのパートナー、アルフレーダ・ベンジ(Alfreda Benge)の詩と、ワイアットの歌に触発されたマルケッティのグラフィック作品と、マルケッティによる詩のフランス語訳で構成されています。

『MW』(1997年、300部)、『M2W』(1998年、300部)、『M3W』(2000年、310部)、『M4W』(2003年、330部)、『MBW』(2008年、1000部)の5冊が出ています。『M2W』『M3W』『M4W』にはCDも付属していて、詩と美術と音楽を、本のかたちにしたシリーズです。

言わずもがなですが、MはMarchettiのM、WはWyattのW、BはBengeのBです。

揃っていれば、言うことないのですが、この5冊のなかで手もとにあるのは「MBW」(2008年)1冊だけです。

Æncrages & Coは、2007年5月に火災に遭い、印刷機や版、そして本の在庫が失われています。

そのこともあって、この、『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』は、この5作品をオフセット印刷で1冊にまとめることになったのではないかと思われます。『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』も、表紙だけは活版印刷で刷られています。
本の表紙にある「Phoenix」(フェニックス)というシリーズ名は、火事からの復活を意味しているのだと思います、

このアンソロジーには、「MW6」が追加されて、合わせて80編の詩が集められています。

判型は1987年の『ROBERT WYATT』(Stampa Alternativa)とほぼ同じサイズで、 7インチシングル盤より少し大きいサイズになっています。

この本にも、ワイアットのインタビューやパスカル・コムラードによるワイアットのカヴァーを収めたCDが付いてます。

初版では色つきだったページもすべてモノクロのスミ一色になっているのが残念ですが、テキスト的には、これ1冊で十分で、ほんとうによく出来た1冊です。
ただ、 アート作品としての「本」と考えたら、初版を手に取ってみたいものです。

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』の付属CD

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』の付属CD

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』の外函つき01

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』の外函つき02

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』の外函つき
2010年には、索引を印刷した外函をつけたものも出ています。

 

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『MW』(1997年)の表紙/扉

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『MW』(1997年)の表紙/扉

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『MW2』(1998年)の表紙/扉

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『M2W』(1998年)の表紙/扉

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された「MW3」(2000年)の表紙/扉

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『M3W』(2000年)の表紙/扉

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『MW4』(2003年)の表紙/扉

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』収録された『M4W』(2003年)の表紙/扉

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』が初出の「MW6」の扉

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』が初出の「MW6」の扉

 

手もとにある『MBW』(2008年)と、オフセット印刷の『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』に収録されたものを比較すると、初版をお持ちの方は、幸せ者だと思います。

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)収録の表紙/扉

『MBW』(2008年)の表紙

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)収録の表紙/扉(上)と、『MBW』(2008年)の表紙(下)
『MBW』(2008年2月)は、2007年5月の火災後、Æncrages & Coが最初に出した本です。
「Phoenix」(不死鳥)というシリーズの最初の本です。

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)の図版01

『MBW』(2008年)の図版01

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティの図版(上)と、『MBW』(2008年)のマルケッティの図版(下)

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティによるベンジ像

『MBW』(2008年)のベンジ像

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティによるベンジ像(上)と、『MBW』(2008年)のベンジ像(下)

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティの図版02

『MBW』(2008年)のマルケッティの図版

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティの図版(上)と、『MBW』(2008年)のマルケッティの図版(下)
『MBW』では、透ける紙に図版を刷っています。

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のワイアット手稿

『MBW』(2008年)のワイアット手稿

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のワイアット「Costa」手稿(上)と、『MBW』(2008年)のワイアット手稿(下)

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティの図版

『MBW』(2008年)のマルケッティの図版

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)のマルケッティの図版(上)と、『MBW』(2008年)のマルケッティの図版(下)
『MBW』では、透ける紙に図版を刷っています。

 

『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)の3人の写真

『MBW』(2008年)の3人の写真

▲『Robert Wyatt Anthologie du projet MW』(2009年)の3人の写真(上)と、『MBW』(2008年)の3人の写真(下)

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

2001年『MW pour Robert Wyatt』

2001年にリリースされた、ワイアット・トリビュートのアンソロジーCD『MW pour Robert Wyatt』(Æncrages & Co、In Poly Sons)。
『M2W』『M3W』に付属していたCDの音源などをもとに作られています。

 

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323. 1987年の『ROBERT WYATT』(2020年11月2日)

1987年の『ROBERT WYATT』表紙

 

ロバート・ワイアット(Robert Wyatt)の歌詞を集めた、ロバート・ワイアット&アルフィー・ベンジ(Robert Wyatt & Alfie Benge)『Side by Side』(いっしょに)が、9月に刊行されたのを記念して、ワイアットの歌詞本を並べてみます。

最初の本は、イタリアのマルチェロ・バラギーニ(Marcello Baraghini)が起こしたStampa Alternativa(その名のとおり「オルタナティブ印刷」)の一冊、『Robert Wyatt』で、これはイタリア語対訳付き。1987年の本です。

ジジ・マリノリ(Gigi Marinori)編集で、イタリア語によるインタビューと、1972年のマッチング・モール(Matching Mole)の「Signed Curtain」から1986年のニュース・フロム・バベル(News From Babel)の「Justice」までの歌詞が、英語とイタリア語訳で収録されています。

ワイアット作詞曲だけでだけでなく、「At Last I Am Free」などのカバー曲や「Shipbuilding」などの他者から提供曲も歌詞も収録されています。

判型は20×20センチで、7インチシングル盤より少し大きいサイズ。
歌詞の本ということでシングル盤を意識したのでしょうか。
96ページ。
紙は、ざら紙のようなもので、だいぶ焼けています。

Robert Wyatt「Chairman Mao」の7インチアナログ盤ついています。

 

『ROBERT WYATT』(1987、Stampa Alternativa)表紙

▲『ROBERT WYATT』(1987、Stampa Alternativa)表紙

 

『ROBERT WYATT』(1987、Stampa Alternativa)見開き

▲『ROBERT WYATT』(1987、Stampa Alternativa)見開き
マッチング・モールのアルバムには、歌詞カードが付いていなかったので、「God song」の歌詞が掲載されているこの本は嬉しかったです。

 

obert Wyatt「Chairman Mao」の片面盤のラベルSide A

Robert Wyatt「Chairman Mao」の片面盤のラベルSide B

▲付属の7インチアナログ盤のRobert Wyatt「Chairman Mao」の片面盤のラベル
なんというか、毛沢東手帳の赤色のレコード盤です。

B面には曲が収録されていません。つるつるです。

 

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322. 1931年の『談奇黨(党)』第3号とその異版(2020年10月11日)

1931年の『談奇党』第3号とその異版表紙


梅原北明(1901~1946)の『デカメロン』(大正14年・1925年)翻訳にはじまる、エロ・グロ・ナンセンスの時代は、当時の言葉で「エロ・グロ」「エロ出版」「好色文學」「エロ本屋」「稀書」「艶本」「エロ本」「珍書屋」「軟派出版」など形容される出版物を生み出し、その流行は昭和7年(1932)ぐらいまで続きますが、左翼とエロの出版物を発禁弾圧する流れで急速にしぼんでいきます。

そのブーム末期の昭和6年12月に、『談奇黨(党)』(以下「談奇党」で統一、發行所は洛成館)という雑誌が、その第3号で、「あれ程全盛を極めたエロ出版も、昭和五年の下半期からすつかり下火になつた」という認識のもと、「好色文學受難錄」(以下「好色文学受難録」で統一)という、「珍書屋」の裏事情を振り返る特集を組みます。

このサイトでは、西谷操(秋朱之介、1903~1997)について、いろいろ書いてきましたが、この『談奇党』第3号は、昭和2~4年(1927~1929)ごろの西谷操の「珍書屋」時代を知る上で貴重な資料です。

刊行された8号中、7号が発禁になった、いわゆる当時の「エロ雑誌」で、西谷操が在籍していた現代資料研究會編輯部、発藻堂書院、南柯書院などの、西谷操をよく知る関係者がかかわっていたと思われます。

唯一発禁にならなかった号が、「エロ記事」のない「特殊研究号」として、「エロ出版」に関わる人物たちの内幕を特集した、この第3号「好色文学受難録」でした。

 

この『談奇党』は、昭和初期の出版文化を知る上でも、貴重な資料になっているので、何度か復刻もされています。

2009年12月《文圃文献類従17》金沢文圃閣
谷永永一編・解題『性・風俗・軟派文献書誌解題集成―近代編』[編集復刻版]
第1巻 「特集好色文学受難録」『談奇党』第3号(洛成館編刊、1931年12月)、「特集現代軟派文献大年表」『匂へる園』第2輯(竹内道之助編・日本愛書家協会刊、1932年8月)

2017年12月《叢書エログロナンセンス 第Ⅲ期》ゆまに書房
『談奇党』『猟奇資料』全5巻
第2巻 『談奇党』第3号(昭和6年12月) 『談奇党』第4号(昭和7年1月) 『談奇党』新春特集号(昭和7年2月)

これらの復刻版は高価で、近くの図書館にそろっていればありがたいのですが、鹿児島県立図書館・鹿児島市立図書館には架蔵されていません。
1931年に刊行された元版の方が、入手しやすいです。

 

これら近年復刻されたものの外に、写真のような、緑の表紙のものも、手もとにあります。
出所が分からない、謎の版です。
この緑の表紙の版は、昭和6年(1931)12月発行のものと同じ版が使われているので、紙型の所有者が海賊版のようなかたちで出したものかも知れません。
昭和6年12月版と緑表紙版の違いは、 次のものが挙げられます。

 〇緑表紙には、表紙の「昭和六年十一月二十九日印刷 昭和六年十二月一日發行」の文字がない。
 〇緑表紙には、表紙の「第三號」の文字がない。
 〇昭和六年十二月版で、アリニン染料色の題簽だった「好色文學受難錄」が、緑表紙版では新組のゴチック体になっている。
 〇奥付のページの編集後記「編輯局だより」が、緑表紙版では削除されている。
 〇裏表紙のイラストが違う。

 

『談奇党』昭和6年12月版と緑表紙版の裏表紙

▲『談奇党』昭和6年12月版と緑表紙版の裏表紙

 

『談奇党』緑表紙版裏表紙の装画

▲『談奇党』緑表紙版裏表紙の装画
緑表紙版独自のものは、この装画だけで、唯一の手がかりです。
この装画には、記憶がある気がするのですが、思い出せません。
この『談奇党』緑表紙版が、どういう経緯でつくられたものか、ご存じの方、どうぞご教授ください。

【2022年9月22日】
読者の方より、この絵は、フランスの画家ポール・ドラローシュ(Paul Delaroche, 1797~1856)の「幼きイングランド王エドワード5世とその弟ヨーク公リチャード」(仏題「Edouard V, roi mineur d'Angleterre, et Richard, duc d'York, son frere puine」、英題「Edward V and the Duke of York in the Tower」、ルーブル美術館蔵)をもとにしたものではないか、というご指摘をいだだきました。ありがとうございました。

ロンドン塔に消えた2人の王子のように、時代に消された珍書屋たちもまた、「高貴」な存在だったということを表していたのかもしれません。

こうなると、だれが模写したものなのか、ますます気になります。

 

『談奇党』第3号目次

▲『談奇党』第3号目次

 珍書屋征伐 耽好同人 3
 最近軟派出版史 志摩房之助 19
 エロ出版捕物帖 談奇黨編輯部 32 (本文では「エロ出版捕物綺談」)
 珍書手帖覚書 59
 現代談奇作家版元人名錄 談奇黨調査部 71

目次のイラストには、発禁になった『グロテスク』『奇書』『變態資料』『稀漁』といった「エロ雑誌」がさらし首になって様が描かれています。
耽好同人は、「耽好洞人」と名乗り『談奇党』の執筆者であった平井通(平井蒼太、1900~1971)かと思われます。江戸川乱歩の弟で、再評価されるべき存在です。
志摩房之助については、不明。
「談奇党編輯部」「談奇党調査部」と、執筆者はほとんど匿名ですが、珍書出版の内情に通じた人物と思われます。

貴重な資料ではありますが、いなくなった人間について好き勝手語っていて、意見に偏りのあることも前提としなければならない、そういうタイプの資料です。

 

『談奇党』第3号に掲載された「談奇作家見立番附」

▲『談奇党』第3号に掲載された「談奇作家見立番附」
西谷操は、「イヴオンヌ」で、上段の東方前頭。

出版物の発禁で、累計4年収監された宮武外骨(1867~1955)のような猛者は別格として、ここに名前が挙げられている作家たちは、ほとんど「発禁」になった作品とかかわりがあると思われます。

 

『談奇党』第3号に掲載された「エロ◇グロ發禁書見立番附」

▲『談奇党』第3号に掲載された「エロ◇グロ發禁書見立番附」
西谷操がかかわった本は、みな西方で、「イヴオンヌ」「ダス・フュンフェック」「ガミヤニ伯夫人」「ウヰンの裸體倶樂部」が入っています。

 

『談奇党』第3号奥付

▲『談奇党』第3号奥付
鈴木辰雄については不明で、発禁処分対策の名目上の名義人かと思われます。
『談奇党』を実際に動かしていたのは、文藝資料研究會編輯部から枝分かれしてきた、中野正人や大木黎二らと考えられています。
書局「洛成館」という発行所名も『談奇党』だけに使われて、『談奇党』休刊後は使われなかったようです。

この種の雑誌は、書店で売られず、通信販売が基本でした。見本ちらしで予約をとり、前払いの会員に頒布されました。会員名簿をもとにした出版です。
この方法は、秋朱之介の文芸美術書の限定本出版でも、踏襲されます。

「発禁」になるからこそ興味を引くというか、「発禁」になることが前提のようになっていて、留置場要員の発行名義人もいたのではないかと推測しています。

 

『談奇党』第3号にはさまれていたちらし「談奇党第三回通信」

▲『談奇党』第3号にはさまれていたちらし「談奇党第三回通信」
この種の雑誌は、はさみこまれたちらし類も重要で、本体だけでは、分からない情報も含んでいます。

検閲で伏せ字になった部分だけを、別便で郵送する仕組みもあったようです。
秘密を守る読者の名簿があって、個人宅へ郵送できる信頼関係がないと、成り立ちません。

 

『談奇党』第3号 談奇党編輯部「エロ出版捕物綺談」のページから

▲『談奇党』第3号 談奇党編輯部「エロ出版捕物綺談」のページから

「談奇党編輯部」による「エロ出版捕物綺談」は、登場人物の名前を仮の名前にして、くだけた口調で当時の珍書出版の裏舞台を面白おかしく書いたもので、10編の小話で構成されています。

その中に「その八 上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話」という文章があります。この話のモデルは、西谷操と思われます。
その冒頭部分を引用します。

 どの話も假名で恐れ入るが、何しろ四方八方にお差觸りが出て來るので、筆者にしたところで當人に何の恩も怨みもあるのぢやないから、かうしておくのが私の便利である。
 ――と前から謝つておいて、さて、これから話し出さうとする一席は、「上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話」といふので、當にニユース・ヴアリユウ百パーセントの代物である。
 東京に近い或る港町の山の手に一人の珍書屋が住んでゐた。彼れの名は仁田小助と云つて三十前の若い青年であつた。はじめ彼は某生命保険會社の社員として永い間辛抱してゐたのだが、ふとした機會から珍書屋佐左木金太郎を知るよやうになつて、遂ひに珍書屋を志し、轉々として二三の珍書屋に雇はれ、スツカリと商賣のコツを飲み込んだところで、彼は獨立した。
 ところが、彼れは運がよかつたと見えて、第一回のプランは豫想の三倍以上も収益を見た。彼れは昨日までピイ〳〵してゐたのだが、今日ではジヤン〳〵金がフトコロで唸つてゐるのである。

ここには、西谷操のことと思われる記述が、次のように多く見られます。

〇「東京に近い或る港町」→ 横浜
〇「仁田小助」→ 西谷操本人が知らないところで、西谷操がおおやけにしていない本名「小助」を知らぬ顔で出しているところは、綱渡りというか悪のりというか、筆者の意図せぬ悪意を感じます。
〇「三十前の若い青年」→ 西谷操は明治36年(1903)2月12日生まれ。昭和4年(1929)当時、26歳。
〇「某生命保険會社の社員」→ 西谷操は逓信省貯金局に勤めていました。少しぼやかしています。
〇「珍書屋佐左木金太郎」→ 西谷操を珍書出版の世界に引き入れた上森健太郎の仮の名前でしょう。
〇「二三の珍書屋に雇はれ」→ 西谷操は、少なくとも、上森健太郎の文藝資料研究會編輯部、宮本良の發藻堂・南柯書院などに所属していました。
〇「彼は独立した」→ 昭和4年、横浜で書局梨甫を立ち上げます。
〇「第一回のプラン」→ 書局梨甫の『イヴォンヌ』は評判となり、西谷操の名を高めました。 この「第一回のプラン」は、横浜の書局梨甫の『イヴオンヌ』でなく、『ウインの裸體倶樂部』とも考えられます。『ウインの裸體倶樂部』は、昭和4年3月5日發行、發售所は文藝資料研究會編輯部ですが、譯者・西谷操、發售兼印刷者・西谷操と名義上は西谷操の本になっています。

「上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話」の登場人物は、まちがいなく「西谷操」を「仁田小助」の仮名にして書いた文章です。
もっとも、名前だけ伏せて書かれた、実際におこった出来事の実録というより、話を面白くするために、かなり脚色が入っている読み物と思われます。
そのまま事実と受け取らないほうがよさそうですが、当時の西谷操を知る貴重な資料であることには変わりありません。

 

手もとにある『談奇党』は、第3号と昭和7年2月29日納本の『談奇党』新春特輯號の2冊だけなのですが、新春特輯號に収録された萩原寛「シヤワー・ルーム」という短篇小説は、横浜が舞台で、フランス帰りのタクシー運転手「西谷」という人物が登場します。目配せというか匂わせと思われます。この種の雑誌を調べていけば、もっと何か出てくるかもしれません。

とはいえ、『談奇党』が刊行された昭和6~7年(1931~1932)ごろ、『談奇党』の執筆陣にとって、西谷操の存在は「その後の消息は杳としてわからない」という認識だったようです。

 

以下に、「上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話」全編を、改めて冒頭部分も含めて掲載しておきます。(『談奇党』第3号 42~48ページ)

 

  上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話

 どの話も假名で恐れ入るが、何しろ四方八方にお差觸りが出て來るので、筆者にしたところで當人に何の恩も怨みもあるのぢやないから、かうしておくのが私の便利である。
 ――と前から謝つておいて、さて、これから話し出さうとする一席は、「上には上・珍書屋をペテンにかけた女の話」といふので、當にニユース・ヴアリユウ百パーセントの代物である。
 東京に近い或る港町の山の手に一人の珍書屋が住んでゐた。彼れの名は仁田小助と云つて三十前の若い青年であつた。はじめ彼は某生命保険會社の社員として永い間辛抱してゐたのだが、ふとした機會から珍書屋佐左木金太郎を知るやうになつて、遂ひに珍書屋を志し、轉々として二三の珍書屋に雇はれ、スツカリと商賣のコツを飲み込んだところで、彼は獨立した。
 ところが、彼れは運がよかつたと見えて、第一回のプランは豫想の三倍以上も収益を見た。彼れは昨日までピイピイしてゐたのだが、今日ではジヤンジヤン金がフトコロで唸つてゐるのである。
 一軒の主になつてみれば、いつまでも獨身でもあるまいといふので、彼れはかねて想思の仲である波止場近くの或るカフエー・ランデヴウのウエイトレスを引き入れて、妻としたのである。二人は幸福であつた。殊に、仁田君の恐悦は一と通りではなかつた。金は出來るし、思ふ女とは添ひ遂げる、これで不平があつたら、馬鹿か氣違ひだ!
 ところが、或る日のこと、妻は仁田君に云つた。
「あなた」
「何んだい?」
「あたしに、指環買つてくれない?」
「あゝ、よし、よし」
「ダイヤよ」
「それは困る! 何か外のものにしておいてくれ。この間もオニツキスを買つたぢやないか」
「でも、あんな松脂みたいな玉、あたし、キラヒ」
「でも、困るよ。そんなに指環ばかり買つて。僕等はまだそんな身分ぢやないからね」
「あら、あたし、ツマンないわ」
「仕方がない人だねエ。ぢや、こんど限りだよ」
「まあ、うれしいわ、あなた」
 ウフツ! 誰れだ? 笑ふのは! この頗るナンセンシカルな會話は、筆者がフザケて拵らへたものと疑ふ勿れ、世間の男女はどうあらうと、この仁田君夫婦にあつては、この會話は地のまゝで、事實はもつと甘いものと御承知ありたい。
 かうして、二人は喋々喃々と新しい生活に感激し合つてゐましたところ、三ケ月四ケ月經つうちに、妻の外出がだんだんひどくなつて來たのである。
「一體、この頃、僕の留守によく出かけるが、どこへ行くの?」
 仁田君にしたところで少し不安になつて來た。
「ごめんなさい! あなたにまだお話してなかつたけれど、親戚のところよ」
 妻君は少しテレ氣味だ。
「親戚つて、どこ? お前は親戚は東京に一人もないつていつか云つたっぢやないか」
「實は一人だけ親戚がありますの」
「何處に? 誰れだ?」
「東京に、あたしの兄さん!」
「兄さん? 初耳だ。お前は何故それを初めから云はなかつたのだ」
「だつて」彼女はからだをくの字に曲げた。
「あたしの兄さん、とても今貧乏してゐるんですもの。だから、あたし、恥しかつたのよ」
「ほお、そんなに貧乏してゐるのかい?」
「えゝ、とても」
「で、今、どこに、どうしてゐるの?」
「三等郵便局の事務員をしてゐますの。本郷春木町の染物屋の二階に間借りしてゐますわ。年は二十五」
「さうか! それは知らなかつた。それはよかつた。お前にもいゝ話相手が出來てよかつたねエ。」
 仁田君は妻を少しも疑らなかつた。
 それから間もなく、この新夫婦が別れなければならなくなつた。といふのは、仁田君が最近出した珍書のお灸で、東京の警視廳へ拘留を言渡されて半月の間家を留守にせねばならなくなつたからであつた。
 仁田君は留置場に這入るのは覺悟の前だが、心殘りなのはさびしい山の手の自宅へ一人彼れを待つてゐるであらう妻のことであつた。眞逆子供ぢやないから鼠に引かれることはないだらうが、何しても心配で溜らない。彼れは留置場の檻房で毎晩々々泣き明かした。
 やがて、苦悶轉々の十五日は過ぎて、仁田君は漸くにして放免になり、久し振りで東京驛からヨレヨレの着物で省線に乗つたが、内心不安はいや増すばかりであつた。何故ならば、妻が何事もなく家にゐるものであるなら、假りにも妻であつてみれば着替への衣類ぐらひこの日に持つて迎へに來てくれるはずである。それが來ないところを見ると、どうも何か變つたことが家にあるに違ひない。さう考へて仁田君は櫻木町へ着くが早いか、圓タクを飛ばしてわが家へ歸つて、玄關を見ると錠が降りてゐる。ハゝア、妻は何處か買物にでも出たらしい。彼れは錠を開けて玄關へ這入ると、これはどうしたことだ! 足元が踏み込めないほど手紙や新聞で一杯になつてゐる。
「して見ると、妻は、疾うにこの家にゐないのだな」
 さう呟くと、仁田君は溜らなくさびしくなつて來た。
 兎に角、座敷へ上つて、そこらをしらべたが、家財道具、簞笥の中の妻の衣類、すべてに異狀がない。仁田君はホツとして頬笑んだ次の瞬間、妻は、いつぞや話したところの本郷の兄のところへ行つてゐるにちがひないと氣がつくと、安心した。それ以上考へる必要がなくなつた。
 そこで、すつかり朝湯を使って、さつぱりした着物に着替へると、仁田君は妻戀ひしのあまりに、またぞろ省線電車に揺られて東京の彼女の兄の家といふのを訪づれたのであつた。
 ガタピシ云ふ染物屋の二階を上つてゆくと、妻と一人の若い男とが晝食の途中であつた。
「まあ、いつお帰りになつたの?」
 妻はびつくりして訊いた。
「今朝。家から出直して來たのだ。さびしかつたらう」
 仁田君の聲はなつかしさに震えてゐた。
 そこで、妻は仁田と兄とを引き合はせた。
「あなた、御飯は?」
「まだだよ」
「ぢや、この通り、汚いお膳ですけど、一膳いかゞ?」
「さうか! ぢや、御馳走になるかな」
 で、仁田君と妻の兄とは初對面に似合はず、いろいろと話を彈ませながら晝飯をすませた。
 仁田君は改めて部屋中を見廻した。成る程、妻がいつか云つた通り、妻の兄は隨分貧しいらしい。部屋には壁に袴が一つと帽子、机が一箇ある切りで、アトは何んにもなかつた。妻の兄は自炊のつらさを幾度も嘆いた。それを聞いて、仁田君はよろこばせるのはこの時とばかりに、
「ぢや、どうです? 一つそのこと、僕の家へ來てしまつたらどうです? その代り、出勤がちと辛いけれど、省線だから時間にしたら大してかゝりやしませんよ。どうです? さうすりや、飯はこの人が炊いてくれるし、僕だつていゝ話相手が出來ていゝといふもんだから」
 と、大いに親分を氣取つて、渡りに船のやうな話を持出した。
 しかし、兄は遠慮深かつた。妻も喜ぶと思ひの外、あんまり氣が進まないらしかつたが、さりとて惡い氣持のする筈がないのだつた。
「ねエ、さうしやうぢやないですか! そして、兄弟水入らずで、これから大いに働かうぢやないですか」
「さうですか。それほど仰有つてくださるのを無にするのも失禮ですから、ぢや、仁田さんの家へ同居させて戴きますかな」
「さあ、ぢや、善は急げといふことがある。明日にでも越したらどうです?」
「それもあんまり性急ですから、こゝへは今月一杯居ることにして、來月からおねがひしませう」
「それは御隨意に」
 といふわけで、それから間もなく、港町の山の手仁田君の家へ、妻君の兄は小やかな荷物を持つて引越して來た。
で、仁田君の家はこれまで夫婦水入らずの時とちがつて、兄貴が寝起きしてゐるのだが、義理と肉親とこそちがへ、かりにも彼女の兄といふのだから、少しもわだかまりなく三人仲よくくらしてゐたのである。
 ところが、(よく、ところが、を連發するが)實際、ところが、である!
 仁田君は又もや珍書を發行して巨利を博した。少くとも二十五六日間の回収豫定帰還に××圓は現金が飛び込んで來たから溜らない。妻君は又ぞろ「ねえ、あなた、買つて頂戴よヲ」が初まる。仁田君は盛大なるフエミニストでありサイノロジストであるところから、これ亦「うん、よし、よし」とばかりに、兄貴同伴で明日は野澤屋、今日は松屋と、やれ錦紗、やれお召と買ひ廻つてゐるうちに、縣警察部から「一寸來い」とやつて來た。
「なーに、直きかへつて來るよ。それに、兄さんがゐるから、こんどこそ僕は心配しないで行つてくるよ」
 仁田君は笑ひながら刑事と家を出て行つてしまつたまゝ、こんどは永い、二十九日留置とおいでなすつた。大體、留置処分はこの種のものに對しては一番×××が輕く、取調べも簡明にして容量を得てゐるが、縣でやられるとどこでも重い。
 それから、三十日目の朝、檻房から出されて、また久し振りで市電に乗つて、
「只今!」
 と威勢よく玄關外で聲をかけたが返事がない。よく見ると、またいつかのやうに錠が降りてゐる。やがて、錠を外づして玄關敷石の中へ這入ると、いつかのやうに手紙や新聞で足元が踏み込めなかつた―ということがない代りには、掃き清めた靴脱ぎ石の上に水莖の跡もいと危しげな一通の手紙が乗せられてあつたのである。
 仁田君、とり上げてよんで見ると、
 仁田小助様
 あたしは兄と一緒にこゝを出ます。二度とお目にはかゝ
 りません。お留守中五百圓ばかり現金が這入つて來まし
 たが、これは私が戴いてゆきます。それから、振替口座
 の方をしらべましたら、五百三十四圓七十五錢の帳尻に
 になつてゐましたから、とり敢へず四百三十四圓七十五錢
 也を引き出して、これは兄に持たせてやりました。百圓
 は殘してありますから、當分のお小遣ひにはお困りにな
 ることはないでせう。
 最後に、私の兄といふのは眞つ赤な僞りで、實は私の夫
 でございます。しかし、あなたにだつて私の純情を捧げ
 たことは、あなただけは知つてゐて下さるでせう。それ
 だけでも、あたしは何んだか罪が輕いやうな氣がします。
 では、左様なら。今後益々お仕事に精をお出しなさいま
 せ。たゞあんまり留置場などへ這入らないやうにお氣を
 附け下さい。
 女は、やつぱり、さびしいものですから。
                   貴 美 子 
「畜生ツ」
 仁田君ははじめて知る彼女の不埒に齒嚙みをして口惜しがつたが、もう追ひつくことぢやない。
 それから仁田君は四方八方、心當りはすべて訊ねてみたが、兩人の姿は杳としていまだに現はれないといふ話である。
世にもガツチリした女ではありませんか。
 兎に角、酢でも蒟蒻でも食へたものぢやないと云ふ珍書屋をペロリと一と口で喰つてしまつた手際なんか、とても駈け出しのそんぢよそこらのヤクザ女にや出來ない藝當である。

 

サイノロジストというと中国学者(シノロジスト)のことですが、ここでは「サイ(妻)ノロジスト(のろける人)」で愛妻家のことでしょうか。
また、西谷操は、新橋の逓信省貯金局に務めていたとき、本郷の二階家に下宿していたので、「兄さん」に西谷操の経歴をかぶせている可能性もあります。

「又もや珍書を發行して巨利を博した」本では、神奈川県警に留置されているので、横浜の書局梨甫で出した本と思われます。
一方、「×××」の伏せ字は「警視廳」でしょうか。東京だと、出版の発禁処分手続きもスムーズに処理されたようです。

 

文中の会話が陳腐で、題材に書き手の技量が追いついていないのが残念です。

このような事件が、ほんとうにこの文章の通り起こったとは思えませんが、西谷操が「珍書」の世界から離れた理由の一端が推測されます。

横浜に書局梨甫があった昭和4年(1929)の後、西谷操は、珍書の世界から離れ、その消息が分からなくなります。
その理由が売上げの持ち逃げ事件だとすれば、話は分かりやすくなります。
昭和4年の秋、『イヴオンヌ』の発禁拘留中に、収益1000円(現在の500万円ほど)を持ち逃げされ、 書局梨甫はにっちもさっちもいかなくなって、1年ほど姿を消すことになったということでしょうか。

昭和6年(1931)になると、横浜の立町の五十澤二郎のやぽんな書房に居候し、川上澄生『ゑげれすいろは』などの制作を手伝っていたようです。
そこで、新たに以士帖印社を立ち上げ、佐藤春夫の詩集『魔女』の制作を準備していたことは、佐藤春夫からの秋朱之介あて書簡で分かっています。

 

『談奇党』第3号 「珍書手帖覚書」のページから

▲『談奇党』第3号 「珍書手帖覚書」のページから

 書局梨甫發行

 事務所は横濱の本牧にあつた。上森(健一郎)の所に半歳程食客をして、直ちに上森の後援で「ウインの裸體クラブ」を出したときは無難だつたが、獨立してからは殆んど滿足に刊行したものはなく、そのまゝ潰滅した。
「ウインの裸體クラブ」昭和三年十二月、ジベリウス著(これも宮本〈良〉の出たらめの名前)西谷操譯(ほんとうの飜訳者は不明)發藻堂書院時代に上森後援の下に刊行。
「イヴオンヌ」昭和四年八月。フランスの珍書。メリイ・サツクイツト作。西谷操譯。
「ガミアニ伯夫人」昭和四年十月。アルフレ・ド・ミユツセ作。羽塚高成譯、中絶未刊。
その他二三發表したらしいがいづれも未刊。

殆んど滿足に刊行したものはなく、そのまゝ潰滅した」と、情け容赦ない描写です。

 

▲『談奇党』第3号 談奇党調査部「現代談奇作家版元人名録」から「西谷操」

▲『談奇党』第3号 談奇党調査部「現代談奇作家版元人名録」から「西谷操」
談奇党調査部「現代談奇作家版元人名録」から、西谷操の項目と、西谷操とかかわりのあった竹内道之助と神波勇藏の項目を引用します。

 西谷操

 彼れがこの方面へ實際的に關心を持ち出したのは、「變態資料」發刊に依つてゞある。彼れは「或るマソキストの詩」といふ一連の詩を編輯部に投書した。これがそのチヤンスである。不幸にしてその詩は掲載にならなかつたけれども、彼れはそれ以来、徐々に上森に近づいて行つた。
 彼れはその頃までは逓信省某課の吏員として實直に働いてゐたが、當時擡頭した獵奇界の隆成に幻惑されたものと見えて、暫くして上森の事務所へ起居するやうになり、間もなく吏員を止めて、専心この方面で活動することになり、そのスタートを上森後援の下に「ウイーンの裸體クラブ」で切つたのである。
 偶々、上森から山中直吉へ經營が移り、更に山中から宮本良にその經營が移つてからも、「南柯書院」其他で大いに活躍したが、後同書院から袖にされたのを機會に、神波勇藏と共に横濱本牧に書局「梨甫」を設立して、『イヴオンヌ』他數篇の刊行を企畫して相當に動いたが、神波との間に疎隔を生じて分れ、以後獨自でやつて見たがうまく行かず、遂に、罰金未納に依つて、横濱刑務所へ収容され服役、出所後は極めて元氣なく、その後の消息は杳としてわからない。彼れも亦宮本などと同じやうに、もう少し自分を知つて行動すべきではなかつたらうか?

昭和6年ごろ、「その後の消息は杳としてわからない」と、『談奇党』の執筆陣がいる「珍書屋」の世界から、西谷操は離れたことが分かります。

 

 竹内道之助

  彼れは元、藤澤衛彦氏の下に雜誌「傳説」の編輯をしてゐたことがある。偶々、藤澤氏が梅原の「文藝資料研究會編輯部」同人となつた關係から、福山福太郎氏を知り、この福山氏が「編輯部」の三字を除いた「文藝資料研究會」を設立して、上森の手に移つた「編輯部」と分離するや、同會に招かれて機關雜誌「奇書」の編輯に關與し大いに活躍した。
學歷は詳にすることが出來ないが、性頗る重厚で寡言、ちよつと取ツつきにくい男であるが、頭も相當よく、なかなかの活動家である。
その後、福山氏が同研究會を解散するや、血縁の力強い後援を得て「風俗資料刊行會」を起して、酒井潔、原比露志、佐藤紅霞などの大物を同情者に迎えて、雜誌「デカメロン」を月刊し、傍ら、秀れた各種出版物を刊行してゐる。

竹内道之助(1902~1980)は、昭和8年(1933)、三笠書房を立ち上げるとき、編集者・装釘者として秋朱之介(西谷操)を招き、『書物』誌編集をまかせます。三笠書房の創立当初、発行名義人が、竹内富子になっているのは、竹内道之助の珍書出版の前歴のためと思われます。

 

 神波勇藏

 この人は元山中直吉が西洋家具商をしてゐた時の事務員であつた。山中が「文藝資料研究會編輯部」他二社を上森から引き繼いだ後も、彼れは出版の方へは手を入れなかつた。ところが、偶々、大彈壓のために山中が出版事業を宮本君に引き繼いだ時、宮本は彼れの座胸の好さと机帳面さとに惚れて入社を勸誘した。彼れの軟派出版界のスタートはこの時切らしたのである。以來、宮本は彼れの事務的才能に惚れ抜いてゐたが、青山倭文二のために内部的統率を失ひかけた宮本が、突如として解散を宣したので、これを機會に西谷操とゝもに獨立して書局「梨甫」を起して、まづ「イヴオンヌ」を刊行した。後、西谷と別れて現在では弟の彬君と水入らずで營業してゐるやうだが、大分以前とは方針を變へたらしいやうである。未だ無妻の好男子。母や弟妹を抱へて一生懸命に働いてゐるところ、流石に越後人の氣質に背かない。

西谷操とともに、横浜で書局梨甫を立ち上げた神波勇藏のその後については不明です。

 

    

神波勇藏については、ひとつ、珍品が手もとにあります。

『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』01

『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』02

『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』03

▲『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』(1930年)

「INTINE」は、誤植というか、「INTIMEN」ではないかと思われます。

『SITTENGESCHICHTE』というと、光文社や角川文庫に安田徳太郎(1898~1983)の翻訳があったエドゥアルト・フックス(Eduard Fuchs、1870~1940)の『風俗の歴史(Illustrierte Sittengeschichte)』(1909~1912)が思い起こされますが、これは、レオ・シドロヴィッツ(Leo Schidrowitz、1894~1956)の『Sittengeschichte』(全8巻)から、特に『Sittengeschichte des Intimen』(閨房風俗史)の巻の、女性の下着やコルセット、寝室の図版を無断借用して、複写し印刷し、一枚一枚貼り込みにして帙におさめ、通販の「珍書」として販売したものではないかと思われます。
モノクロの図版が27枚おさめられていました。これがすべて揃ったものなのかどうか分かりません。

戦前はフックスの『風俗の歴史』も発禁書でしたので、こうしたものでも、ドキドキして購入する人がいたのでしょう。

 

『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』奥付

▲『SITTENGESCHICHTE DES INTINE』奥付
詩泉社には、ほかの刊行書目が存在するのでしょうか。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

『Coxhill / Miller. Miller / Coxhill.』(1973年、Caroline)01

『Coxhill / Miller. Miller / Coxhill.』(1973年、Caroline)02

今日は、刺激の強い本だったので、心が落ちつく音楽が聴きたくなります。

英Virgin傘下の廉価版レーベルCarolineから出た、『Coxhill / Miller. Miller / Coxhill.』(1973年、Caroline)。
キーボード奏者のスティーヴ・ミラー(Steve Miller、1943~1998)とサックス奏者ロル・コックスヒル(Lol Coxhill、1932~2012)の2人アルバム。
2人とも鬼籍に入りました。

廉価版レーベルなので予算も少なく、ジャケットはモノクロ、ラベル2色刷ですが、2人のポートレイト写真も文字組みも素敵です。
幸い、ジャケットに英国盤らしいコーティングをする予算はあったようです。

 

一度お金が足りないとき、カセットテープに録音して、中古レコード屋さんに売ったのですが、そのカセットテープは繰り返し聴きました。

結局、アナログ盤を買い直すことになりました。

 

Side 1ラベル Miller / Coxhill

▲Side 1ラベル Miller / Coxhill
「Chocolate Field」、お葬式で、かけてほしいくらいです。

 

Side 1ラベル Miller / Coxhill02

▲Side 2ラベル Coxhill / Miller

2007年に、2枚目のアルバム『The STORY SO FAR..... / .....OH REALLY?』とカップリングで、Cuneiformレーベルから、CD再発もされています。

 

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321. 1897年の『ペイジェント(The Pageant)』(2020年9月26日)

1897年の『ペイジェント(The Pageant)』表紙


『ペイジェント(The Pageant)』は、出版社が表紙を装幀しています。サーモン色というかラヴェンダー色(薄紫色)のクロスに6つの「鳩とオリーブ」が箔押しされたものが一般的のようです。
前回
紹介した、茶色クロスの『ペイジェント(The Pageant)1896』が作られた時期は、はっきり分かりません。本文自体は同じものです。

そして、その『ペイジェント(The Pageant)1896』に続き、翌年のクリスマス前に『ペイジェント(The Pageant)1897』が刊行されました。
版元は、ロンドンのヘンリー(Henry & Co.)。
印刷は、T. & A. コンスタブル(T. And A. Constable)。
最後のページでは、ハーフトーン図版制作のThe Swan Electric Engraving Companyの名が、前面に出されています。

『ペイジェント(The Pageant)1897』の最初に刊行されものの表紙は、1896年版と同じく、チャールズ・リケッツ(Charles Ricketts、1866~1931)がデザインした「鳩とオリーブ」が6つ箔押しされていて、写真のものとは違います。
これは、表紙を差し替えた版のようです。天地と小口は裁ち落とされ、赤く染められています。
どういう経緯で表紙が異なる版がつくられたのか、分からないのですが、『ペイジェント(The Pageant)』は、この2号で終わりました。

表紙は差し替えられていますが、本文の内容は「鳩とオリーブ」表紙のものと同じです。
ただし、この版では、最初の版にあった「序文(FOREWORD)」がなくなっています。

そこには、次のように、最初の版にあった表紙カヴァーや、表紙のデザイナーの名前が書かれていたため、はぶかれたようです。

THE OUTER WRAPPER IS DESIGNED BY GLEESON WHITE, THE CLOTH BINDING BY CHARLES RICKETTS, THE END-PAPERS BY LUCIEN PISSARRO.〈表紙カヴァー(THE OUTER WRAPPER)のデザインは、グリーソン・ホワイト、クロス表紙のデザインは、チャールズ・リケッツ、見返しのデザインは、ルシエン・ピサロ。〉

カヴァー付きのものは稀少で、実物を見たことはありませんが、表紙カヴァー(ダストラッパー)のデザインは、文芸編集担当のJ・W・グリーソン・ホワイト(Joseph William Gleeson White、1851~1898)がデザインしたものです。クリスマスを意識したのか、赤と緑を使って「ペイジェント(旗の行列)」を見え隠れさせている多色木版で、エドモンド・エヴァンス(Edmund Evans、1826~1905)制作とされます。本の世界の導入になる、魅力的な表紙カヴァーです。

この表紙カヴァー(THE OUTER WRAPPER)は、「YELLOW NINETIES 2.0」のサイトや、Paul van Capelleveenのブログ「Charles Ricketts & Charles Shannon」で見ることができます。

表紙カヴァー(ダストラッパー)・表紙・見返しのデザイナー名が記載されているのは、だれの作か分からないものが多い19世紀の本として、画期的でもあります。
表紙カヴァー・表紙・見返し・本文全体を見通した全体的な「ブック・デザイン」がなされていたと思われます。
そういう面では、20世紀的な本なのかもしれません。

残念ながら、この差し替え版のアールヌーヴォー的な草の曲線が特徴的な絵を、だれが描いたのか、記載はありません。
19世紀の無名へ一歩後退です。

 

『ペイジェント(The Pageant)1897』見返し

▲『ペイジェント(The Pageant)1897』見返し
『ペイジェント(The Pageant)1896』と同じ、ルシエン・ピサロ(Lucien Pissarro、1863~1944)によるデザイン。

 

『ペイジェント(The Pageant)1897』の口絵とタイトルページ

▲『ペイジェント(The Pageant)1897』の口絵とタイトルページ
口絵は、フランスの画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau、1826~1898)の「ヘラクレスとヒュドラ」。
モノクロのハーフトーン印刷。カラー図版に慣れた目を、わくわくさせる図版ではありません。
この号では、グリーソン・ホワイトが「ギュスターヴ・モローの絵画」を寄稿していています。

 

『ペイジェント(The Pageant)1897』目次

『ペイジェント(The Pageant)1897』目次

▲『ペイジェント(The Pageant)1897』目次
この時代の流儀なのか、「LITERARY CONTENTS」と「ART CONTENTS」の2つに分かれています。
ほとんどの図版を制作したThe Swan Electric Engraving Companyの、絵画複製技術の見本のような面もあったようです。

美術の本に写真図版が使われるのが当たり前になってきたのは、このころです。

 

『ペイジェント(The Pageant)1897』の本文見開き

▲『ペイジェント(The Pageant)1897』の本文見開き
右ページは、マックス・ビアボーム(Max Beerbohm、1872~1856)のファンタジー「YAI AND THE MOON」の冒頭。
「日本」を舞台にしたジャポニズム小説です。
舞台は「江戸湾(The Bay of Yedo)」にある「Hoakami」という村、そこの村長「Umanosuké」の娘「Yai」の恋物語です。「Yai」には、「Oiyâro」の息子で、大学を優秀な成績で出て科学的思考の持ち主の許嫁・求婚者「Umanosuke」がいるのですが、結婚の前日、「Yai」は、ほんとうに恋するもののもとへ行こうとして……、というお話です。
マックス・ビアボームは、これらの名前をどこから仕込んだのでしょうか。

 

『ペイジェント(The Pageant)1897』に収録された、ルシアン・ピサロの木版

▲『ペイジェント(The Pageant)1897』に収録された、ルシエン・ピサロの木版
ハーフトーン印刷の複製図版が続くなか、5色の多色木版で刷られた図版は新鮮です。
エドモンド・エヴァンス(Edmund Evans、1826~1905)制作とされます。

 

『ペイジェント(The Pageant)1896』『ペイジェント(The Pageant)1897』2冊を手にして、気になったのが本の重さです。
試しに測ってみたら、1128gと1206g、2冊とも1kgを超えていました。ちょっと重すぎます。

この本には、「軽さ」も必要だったと感じたので、日本製の紙が使えていたらな、と思ってしまいます。


 拾い読み・抜き書き

 

THE STEVENS-NELSON PAPER CORPORATION Price List

第56回 1953年ごろの『スティーヴンス=ネルソン社の紙見本帖』(2013年1月31日)」で簡単に紹介した、スティーヴンス=ネルソン社(THE STEVENS-NELSON PAPER CORPORATION)日本紙など高級紙を輸入していた会社で、戦前は、「Japan Paper Company」という名前で、「日本紙」を名乗っていました。
『見本帖』には、1953年7月の「Price List」も挟まっていました。第56回で紹介したリストと重なりますが、「Price List」に載っている日本紙と思われるものもリストアップしてみます。

 Goyu
 Hanakurabe
 Hosho
 Inomachi
 Kinwashi
 Kitakata
 Kochi
 Mokuroku
 Moriki White Laid
 Natsume No.4002 no.4007 No.5000 No.5000A No.5001 No.5002 No.5003 No.5004 No.5017 No.5019 No.5020 No.5023 No.5024
 Okawara
 Omi
 Sekishu
 Shizuoka Vellum No.0 No.1 No.2 No.3
 Shogun
 Tokugawa
 Toyogami
 Tsuyuko
 Unryu

これらの紙のことを追っていくことができたら、別の本の歴史の扉が開けるような気がします。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

小川美潮「おかしな午後/窓」(2020年、Sony Music Direct)ジャケット

小川美潮「おかしな午後/窓」(2020年、Sony Music Direct)A面

小川美潮「おかしな午後/窓」(2020年、Sony Music Direct)B面

小川美潮「おかしな午後/窓」(2020年、Sony Music Direct)

1990年の素晴らしいアルバム、小川美潮『4 to 3』(Epic Sony)から、「おかしな午後」「窓」が選ばれて、7インチのドーナツ盤になりました。

1990年ぐらいになると、アルバムは、CDとアナログ盤の両方で出されることなく、CDだけ出ることが多くなり、『4 to 3』に収録された曲がアナログ盤になるのは、はじめてです。

せっかくアナログ盤を出すのなら、アルバム『4to3』すべてをアナログ盤にしてもらいたかったのですが、無理だったのでしょうか。
『4 to 3』は、10曲収録されて、収録時間は、52分11秒。
「デンキ」「Four to Three」「夜店の男」「野ばら」「On the Road」5曲で、25分47秒。
「記憶」「ほほえみ」「天国と地獄」「窓」「おかしな午後」5曲で、26分22秒。
LP1枚におさめるには、ちょっと窮屈でしょうか。

アルバムの収録時間も、アナログ盤LPだと、A面B面で合わせて40分、CDだと60分という感じになったのも、1990年ごろからでしょうか。

 

『4 to 3』は、まちがいなくアナログ盤があったほうがいいアルバムですが、CDというフォーマットでも、パッケージを含めて、ひとつの完成形でした。

 

小川美潮『4 to 3』(1990年、Epic Sony)

小川美潮『4 to 3』(1990年、Epic Sony)

 

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