●my favorite things 141-150
my favorite things 141(2014年8月29日)から150(2015年1月18日)までの分です。 【最新ページへ戻る】
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141. 1977年の辻邦生『夏の海の色』(2014年8月29日)
142. 1985年のエドワード・リア回顧展カタログ(2014年10月7日)
143. 1980年の岩元紀彦監修『追悼文集 伯父 岩元禎』(2014年12月1日)
144. 2001年の岩田宏『渡り歩き』(2014年12月26日)
145. 1974年の天澤退二郎詩集『譚海』(2014年12月29日)
146. 1984年のジョージ・オーウェル『1984年』ファクシミリ版(2014年12月30日)
147. 2015年1月1日の桜島
148. 1937年のダグラス・コッカレル『製本』(2015年1月5日)
149. 1995年ごろの片岡吾庵堂さん作「翔び鶴」(2015年1月10日)
150. 1949年の七高文藝部『啓明』最終刊号(2015年1月18日)
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150. 1949年の七高文藝部『啓明』最終刊号(2015年1月18日)
鹿児島市のレトロフトで1月17日~25日の期間限定で開店した郷土史専門古書店「ナリアキラ書店」をのぞいてみました。
そのなかで、平成25年(2013)に亡くなった海江田卓さんの印が押された旧蔵書が売りに出されていて、何点か買い求めました。
海江田卓さんは、旧制七高最後の卒業者であり、鹿児島高校の校長であり、MBCラジオ「さつまお笑い劇場」の鹿児島弁コントの台本作家でもあった人です。
『啓明』は七高文藝部の機関誌で、これは、学制改革による七高の廃校で、その歴史を閉じた号です。この最終刊号には、裏表紙に「海江田卓」の青印が押され、海江田卓の詩「酒の味」もおさめられていました。理6組の海江田卓さんが七高文藝部員だったのか、駆り出されたのかは分かりません。
▲七高文藝部『啓明』最終刊号目次
こういう目次を見たとき役に立つのが、亡父・平田信芳が編集した七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』(2000年)です。これで調べると、最終刊号目次の面々は、「七高の音楽生活」を寄稿した山根銀五郎教授(植物学・生物学。音楽評論家・山根銀二の弟)をのぞけば、すべて昭和25年(1950)第47回卒業生、七高最後の卒業生たちと分かりました。
フルネームを記していないF・福島は福島普徳、ハヤシヒサヲは林尚男です。
執筆者のなかで、わたしでもピンとくるのは、岩波新書の『誤報―新聞報道の死角』(1996年)を書いた後藤文康でしょうか。
父は『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』の誤植修正や2012年ぐらいまでの情報を赤ペンでこまめに追加した、訂正本も残していました。最初に出したとき、予算も限られ、校正に時間をかけられなかったということもあるのでしょうが、正直言って『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』の誤植はかなり多く、父も内心忸怩たるものがあったのではないかと思います。名簿作りは難しいものだと思うばかりです。
▲七高文藝部『啓明』最終刊号奥付
謄写版による印刷です。
▲『一高時代』ならぬ『七高時代』
これも海江田卓旧蔵本。草島時雨『一高時代』の第8版(1948年、新世界文化社)の表紙に、一筆書き足して『七高時代』になっています。七高生・海江田卓の稚戯でしょうか。
しかし、こうした本を古書店で手に取ることで、「七高」も、ほんとうに遠い昔になったと感じます。
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149. 1995年ごろの片岡吾庵堂さん作「翔び鶴」(2015年1月10日)
父の遺品を整理していましたら、折り鶴が出てきました。
父・平田信芳が『石の鹿児島』〔平成7年(1995)〕を上梓したころ、片岡吾庵堂こと片岡八郎さん〔大正5年(1916)10月3日生~平成10年(1998)9月5日没〕から父へ送られた手紙に添えられていた、片岡吾庵堂さんオリジナルの折り鶴です。「翔び鶴」と名づけられていました。
手紙の方は、今、どこかに紛れてしまっていて、正確な日付は分からないのですが、手紙にこうした折り紙を添えるなんて、やはり粋な人だなと感心します。片岡さんは地名研究会の会員で、面白い図版や懐かしい音楽を見つけたといっては手紙やカセットテープを父に送っていたようです。
片岡さんは折り紙講座の講師もされていましたから、鹿児島では片岡さんから折り紙をもらった人も多いのかもしれません。
▲翔び鶴(片岡吾庵堂作)
「羽根を水平になるように折り曲げて吊して下さい」と添え書きされていました。
▲御所鶴(片岡吾庵堂作)
▲二羽の白鶴(片岡吾庵堂作)
▲片岡吾庵堂『横目で見た郷土史』(1996年、高城書房出版)
鹿児島の郷土史を横目で見、斜めから見た、片岡吾庵堂流の鹿児島郷土史です。内容の当否を超えて、鹿児島の歴史を知ろうとするときの基本図書の1つだと思います。
「官」に従い「議を言うな」という風潮があると言われる鹿児島ですが、「議を言う」人の系譜があって、片岡さんは間違いなくその1人です。
目が血走った批判者というのではなく、真面目な顔をして孫にホラ話をするおじいさんような、笑いのある、ユーモラスな批判者でした。これもまた鹿児島人のある典型のような気がします。こういう「おじいさん」的存在が懐かしいです。
吾庵堂というペンネームは、「郷土史についてこんなぶ遠慮な批判をするのは誰か、ハイ片岡ごあんどー(ござい申す)といった軽い意味」だそうですが、「片岡八郎」という名前も源義経に平泉で殉じた郎党と同じ名前ですので、生まれついての、主流派に与せぬ精神の持ち主だったのかもしれません。
▲北山易美・片岡八郎『かごしま今昔』(1987年、南日本放送)
南日本放送でテレビ放送されていたミニドラマ『鹿児島今昔』採録本。生きた鹿児島ことばで書かれた本というのは、貴重な存在です。
片岡吾庵堂さんというと、ベレー帽にサンダル履き姿という印象もあります。正史の人でなく、街歩きの達人で口碑の人でした。
ですから、吾庵堂さんには,鹿児島ことばで、艶っぽいものも書き残してほしかったなと思います。
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148. 1937年のダグラス・コッカレル『製本』(2015年1月5日)
アーツ・アンド・クラフツ運動の中心人物の1人、建築家ウィリアム・レサビー(William Richard Lethaby, 1857~1931)が編集した工藝技法のハンドブックシリーズ「The Artistic Crafts Series of Technical Handbooks」の1冊。イギリスの製本家のダグラス・コッカレル(Douglas Cockerell, 1870~1945)が、製本を志す人や本の修理法を身につけなければならない図書館員らに向けて書いた入門書です。
初版は1901年John Hoggから出ていますが、これはSir Isaac Pitman & Sons Ltdから出た1925年第4版の、1937年に出た第5刷にあたります。本づくりとその手入れについての手堅い内容の技法書として、100年を超えてロングセラーとなっています。
手もとにあるのは、1937年の裸本ですが、この本自体の堅牢さと使いやすさが気に入っています。
▲ダグラス・コッカレル『製本』第4版表紙
日焼けしていますが、丈夫な紙とクロスでできたシンプルな表紙で、堅牢です。手に持った感じも扱いやすく、実用的です。
▲ダグラス・コッカレル『製本』第4版のタイトルページ
本文装画を描いているノエル・ルーク(Noel Rooke, 1881~1953)は、20世紀イギリスの木版画復興で教師的存在にあたる人です。
本文書体も20世紀前半のイギリスらしく、カズロン(Caslon)が使われていて、これも実直な職人の感じがします。
このSir Isaac Pitman & Sons Ltd版のよさは、技法書が実際に使われる場面――道具などを持って手がふさがれている場面――に対応して、どのページを開いても、文鎮など重しを載せて押さえつけずに、見開きのページが読めるということです。単純なことですが、こんな当たり前のことができている本が少ないのです。そのまま置いてもページがめくれて本が閉じてしまうようなこともなく、実用的な技法書の開き具合として――ただの本の開き具合としても――文句がありません。
すべての本にこの性質を、と願いたいところです。
▲コッカレル『製本』の前半のページを開いたとき
▲コッカレル『製本』の中盤のページを開いたとき
▲コッカレル『製本』の後半のページを開いたとき
本を綴じている部分のクロスの貼り方や、綴じた部分と背の間の遊びのつくりかたがよくできているということなのでしょうか。もう80歳近くになる本ですし、綴じ部分に負荷がかかっているように見えますが、今でもとても頑丈です。
▲最近、楽しみにしていたサミュエル・R・ディレーニーの『ドリフトグラス』(国書刊行会)が出たのですが、表紙が反り返っていました。重しを使わず本を開いておくことも無理です。
同じ角背仲間ですが、ぴったり閉じ、しっかり開くことのできるコッカレル『製本』と比べると、ちょっとがっかりしてしまいます。
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147. 2015年1月1日の桜島
2015年1月1日の桜島は、雪でした。
桜島夕景
月と桜島
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146. 1984年のジョージ・オーウェル『1984年』ファクシミリ版(2014年12月30日)
2014年は、1974年からの40周年でしたが、1984年からの30周年でもありました。
1984年といえば、やはりジョージ・オーウェル(George Orwell,1903~1950)です。
オーウェルのディストピア近未来小説『1984年(Nineteen Eighty-Four)』の初版は、1949年、ロンドンのSecker & Warburg社から出版されました。これは、1984年に、そのSecker & Warburg社から出版された草稿ファクシミリ版のカバーです。デザインはDavid Quayです。
2014年は、初版の1949年から65周年、タイトルになった1984年から30周年にあたるわけです。まだ2014年のうちに書いておかなくちゃ、ということで、駆け込みアニヴァーサリーです。
そういえば、1984年を10年後に控えた1974年、デヴィッド・ボウイのアルバム『ダイアモンド・ドッグス(Diamond Dogs)』に「1984」という曲が収録されていて、好きな曲だったのですが、今年、デヴィッド・ボウイが出した3枚組のベスト盤『Nothing has changed』に選ばれていませんでした。1984年は忘れられたかな、という感じです。
1949年や1974年には未来だった1984年は、もう30年昔のことになってしまったわけです。
オーウェルは、草稿・原稿を残して保存しておくタイプの作家でなかったようなので、一部とはいえ『1984年』の草稿が残っていたのは幸運としかいいようがありません。
▲背
▲裏表紙
▲タイトルページ
▲刊記
▲見開き
残っていた草稿の量は、出版されたものの約44%だったそうです。
見開きの右ページに草稿を原寸大で草稿を複製したもの、左ページには、その草稿をPeter Davisonが読み解いたものを配置しています。
こうしたファクシミリ版を見ていると、活字とは違った、手書きのテキストの力を改めて感じます。活字の時代からの流れで、デジタルの世界でもデザインされたフォントが標準として幅をきかしていますが、表現の分野では、デジタル環境でも手書き文字の力を再発見していくのではないかと思います。
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2014年は、父を亡くした年として、胸に刻まれました。
父を亡くした年が終わろうとしています。
父をものさしとして、いろいろ考えることの多かった一年でした。
父たちのみたまが安らかでありますように。
残されたものに、安らぎが、幸せがありますように。
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145. 1974年の天澤退二郎詩集『譚海』(2014年12月29日)
天澤退二郎詩集『譚海』(1974年8月25日発行、青土社)の外箱です。装幀は美術家の中西夏之です。
2000年以降の天澤退二郎詩集のカバー装画は黒田アキで決まりになっているようですが、それ以前は、詩集ごとに、加納光於、桑山弥三郎、宇佐見圭司、金井久美子、林マリ、中島かほる、吉岡実、勝井三雄、横尾忠則、合田佐和子、平出隆、高麗隆彦といった面々が装幀・装画に関わっていて、次はどんな本になるか楽しみでした。
今年もっとも勢いのあったBABYMETALの曲に「ヘドバンギャー!!」という曲があるのですが、
「15(いちご)の夜を忘れない」
「もう二度と戻らない わずかな時を この胸に刻むんだ 15(いちご)の夜を」
と、15歳の夜を、決定的な通過点として歌っています。
振り返れば、わたしが「15の夜」を迎えたのは、1974年でした。なんということでしょう。今から40年前です。
もう、その40周年にあたる2014年という年は、終わりが近づいています。
遅ればせながら、つい見過ごされて40周年を祝いそこねてしまいそうな1974年という年の本といったら何だろうと考えて、『譚海』を選びました。『譚海』40周年です。
『譚海』の世界は、「いちごのよる」から遠く離れた、それを忘れ去ったような、 けっして若いと言えぬ男の彽徊というか、華々しくないさすらいの世界ではありますが。
▲天澤退二郎詩集『譚海』の表紙。装幀・中西夏之。
私の父は、昭和5年(1930年)生まれなので、父の「いちごのよる」は、昭和20年(1945年)になります。作家の野坂昭如は父と同い年なので、例えば、『火垂るの墓』の清太と同じような境遇であってもおかしくないわけです。父の世代の「いちごのよる」からすると、1974年の「いちごのよる」は、ぬるいものにしか見えなかったのかもしれません。
世代というと、長山靖生『「世代」の正体――なぜ日本人は世代論が好きなのか』(2014年、河出書房新社)を読んでいて、世代を家族関係に割り当てると、大まかな関係が読めるのかなと思いました。
わたしは「シラケ世代(1950~1964年生まれ)」にあたります。父は「昭和一桁世代(1926~1934年生まれ)」です。
その伝で行くと、「大正生まれ世代(1912~1926年生まれ) 」は伯父、「焼け跡世代(1935~1946年生まれ)」は叔父、「団塊の世代(1947~1949年生まれ)・全共闘世代(1941~1949年生まれ)」は兄といったところでしょうか。
一種のへりくつですが、1936年生まれの天澤退二郎は、「叔父さん」みたいな存在だったのかと思い到りました。
1974年は、例えば1968年のようなメルクマールになるスター年ではないので、「1974年特集」をした雑誌はなかなか見かけませんでしたが、イギリスのプログレ専門誌『PROG』で、1974年特集をしていました。特集といいながら、その表紙には、「1974 was an in-between time. You couldn't see where things would go.(1974年は過渡の年だった。どこに進むのか誰にも分からなかった。)」とあって、1974年が単独で輝く年ではなかったことを宣言していました。
▲1974年を特集した『PROG』誌(2014年)
1974年は、客観的に見ても、確かに「in-between」な狭間の年だったかもしれませんが、ロバート・ワイアットの『ロック・ボトム』のような、一生もののアルバムが出たのもこの年です。はっきりしない曇り空のような「いちごのよる」の年ではありましたが、それでも、捨てたものではないと思いたいところです。
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144. 2001年の岩田宏『渡り歩き』(2014年12月26日)
2014年12月2日に亡くなった詩人・翻訳家が20世紀末に書いた、本についての本です。2001年1月30日発行、草思社から出た本です。
取り上げられている本はほぼ知らないもので、容易に入手できるとも思えない本が並んでいます。それが好奇心をかきたてるかというと、個人的にはそれほどでもなく、岩田宏がいなくなると、その本と本のつながりが次の世代に持ち越されることなく消えてしまうのではないか、ここでの読書は孤独な営みだと感じさせる本でした。それでも、何か気にかかる本です。豊かな知識の蜜を持ったおじいさんの散歩に付き合って、その蜜を味わえなかったことが口惜しいだけなのかもしれません。
家族構成的な比喩で語ると、本には「おじいさん」的な本や「父親」的な本、あるいは、「伯父さん」「叔父さん」「おじさん」的な本や、おばあさん、母親、おばさんとか、兄弟姉妹など家族関係で語る事ができるような本が存在するような気がします。そういう例えで考えると、『渡り歩き』には、年が離れた「おじいさん」という印象があります。岩田宏が自分の先行者世代の本について書いているということもあるかもしれません。
個人的な基準でいうと、今年亡くなったわたしの父は、昭和5年(1930年)生まれなので、1930年という年は、過去を見返すときの基準の一つになってきています。岩田宏は1932年生まれなので、父とほぼ同世代です。その本は「父親」的「叔父さん」的な性格をおびそうですが、 『渡り歩き』が持つ性格は、年老いた父親というものとも、また違うのです。そもそも肉親の比喩で語るのは筋違いなのでしょう。孤立していて、自分はこの場所を引きつぐものではないのだろうなと感じさせる本でもありました。
思えば父親と同世代の人だった、ドナルド・バーセルミ(Donald Barthelme, 1931~1989)の作品集『口に出せない習慣、不自然な行為(Unspeakable Practices, Unnatural Acts)』と『罪深き愉しみ(Guilty Pleasures )』を組み合わせたような『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』(2003年)というタイトルの高橋源一郎の書評集に『渡り歩き』の書評が収録されていて、どこか突き放したような、ちょっと冷たいトーンがなぜだか記憶に残っています。その「亡霊たちが消えてゆく」と題した書評に次のようにあります。
『渡り歩き』を開く。ぼくを(というかぼくたちを)驚かすのは、そこで論じられている本(あるいは著者)が、知らないものばかりということだ(というか翻訳されていないものばかり)。
(略)その大半は、作者にとっても切実であった二〇年代、三〇年代の刻印が色濃く刻みこまれたものばかりだ。
けれども、作者が深い愛情をこめて描きだす本と著者の数々は、いまでは現実とは遠い世界のものになろうとしている。
スペイン市民戦争、三〇年代、マルクス主義、政治と文学、詩と革命、モダニズムと前衛――作者より二十歳若いぼくにとって、ここでとりあげられている作品の背後にひそむ言葉とイデオロギーの影はずっと薄くなってしまった。ぼくはまだ心のどこかで痛みのようなものを感じるけれど作者のような哀惜の念を持てず、ぼくよりさらに若い世代は、ついになんの感情も抱かないだろう。おそらく、ほぼ純粋な好奇心以外には。亡霊はただ消え去るだけなのだ。そして、著者はそのことを誰よりも理解しているのである。
(略)ぼくもまたぼくの時代の亡霊と生き、その亡霊と共に消え去るかもしれない。そして、続く世代もまた。嘆くまい。亡霊たちは、本の中で静かに誰かの訪れを待っているのだ。 (「週刊朝日」2001年3月9日号)
「ぼくよりさらに若い世代は、ついになんの感情も抱かないだろう」という無関心は、しかたがないことかもしれません。面白そうなのに、どこか自分のこととして響かないテキスト、他人事のような感じが付きまとうのも否定できません。
周りはどんどん忘れて新しいものに飛びついていくのをよそに、若いころに持った関心を失わずにい続けた読者の孤独を感じさせる本でもあります。その忠誠といってもいいような生涯にわたる関心にしたがって、本から本へ渡り歩くことの「孤独」は、幸せなことでもあると思いたいところです。
▲高橋源一郎『人に言えない習慣、罪深い愉しみ』(2003年,朝日文庫)
『渡り歩き』には、忘れられた本や知らないものばかり登場するのですが、個人的にはイギリスの挿絵画家に関心があるので、ビクトリア期の挿絵画家ジョージ・デュモーリア(George du Maurier, 1834~1896)を扱った章「夢の領域」では、ジョージ・デュモーリアの小説からうまれた「スヴェンガリ」などのキャラクターが、岩田宏のような人にとっても一般常識的知識ではなかったのだなと意外に思いました。
スヴェンガリは、ジョージ・デュモーリアの小説『トリルビー(Trilby)』(1894年)の登場人物で、催眠術で音痴な洗濯女を一流歌手にしてしまう人物です。悪意をもって、アーティストを支配し、こき使うような存在の代名詞になっています。スヴェンガリに関しては、1980年代にOrange Juice、Josef KやAztec Cameraといったバンドを世に出したグラスゴーのインディーズレーベルPostcard Recordsの創始者Alan Horneについて、その人となりを「スヴェンガリ」と評したものを読んだ記憶がありますし、最近でもDerren Brownの舞台作品『Svengali』(2012)や音楽業界を舞台にした映画『Svengali』(2013)といった作品が作られていますので、今でも生き続けている言葉ではあります。
▲1894年版の『Ingoldsby Legends』(Richard Bentley & Son 刊)からジョージ・デュモーリアの挿絵。
クルイクシャック、テニエルやリーチら『パンチ』誌の画家たちを揃えた1870年版を増補した1894年版の1ページ。濃い眉の、彫りの深い顔立ちで、「感情」の見えない女性の顔がデュモーリエの特徴のひとつです。
▲ナボコフ『ロシア文学講義』(TBSブリタニカ、1992年版)
岩田宏が、本名の小笠原豊樹として翻訳していた本も、いろいろ手にしてきました。ソルジェニーツィンからロス・マクドナルド、レイ・ブラッドベリーまでいろいろな本がありました。思い返すと、小笠原豊樹経由では、心底好きになった書き手とは出会わなかったような気がします。小笠原豊樹の翻訳から一冊を選ぶとすると、ナボコフの『ロシア文学講義』でしょうか。
▲『岩田宏詩集成』(2014年11月、書肆山田)
今年の11月に本屋で『岩田宏詩集成』を見たとき、予感のようなものがありました。12月になって新聞で訃報を知りました。この最後の本を、自身の手で触れることができたのでしょうか。
帯に言葉を寄せている池澤夏樹も、岩田宏同様、翻訳者の顔を持っていました。池澤夏樹訳というと、集英社文庫から出ていたジェラルド・ダレル(Gerald Durrell, 1925~1995)のコルフ島3部作が、まず浮かびます。
『虫とけものと家族たち(My Family and Other Animals)』 (集英社文庫版、1983年)
『鳥とけものと親類たち(Birds, Beasts and Relatives)』 (集英社文庫版、1985年)
『風とけものと友人たち(Garden of the Gods)』 (集英社、1984年)
永らく絶版となっていましたが、今年の6月、「『虫とけものと家族たち』が中公文庫から復刊されました。残り2冊も、ぜひ復刊してほしいところです。
▲池澤夏樹訳のジェラルド・ダレル文庫本。長いお休みに最高の本です。
2014年中公文庫版で「この文庫のために訳者が付け加えること」と題したあとがきで、訳者の池澤夏樹は、次のように書いています。
ジェリーことジェラルド・ダレルは一九九五年に七十歳で亡くなった。ラリーことロレンス・ダレルはその五年前に七十八歳で亡くなっている。それでも彼らの本は今も世界中で広く読まれている。たとえばこの文庫がこうして日本でまた世に出たように。
さすがにマーゴのことには触れていません。ジェラルド・ダレルが亡くなって12年後に87歳で亡くなったマーゴことマーガレット・ダレル(Margaret Durrell, 1920~2007)も『一体全体マーゴに何が起こったの?(Whatever Happened to Margo ?)』という回想録を書いていますが、これは、コルフ島3部作に登場する、あのマーゴが書いたのだから面白い本に違いないという期待に応えられなかった、というしかないのかもしれません。
▲Margaret Durrell『Whatever Happened to Margo ?』(1995年のハードカヴァー版はAlfred Deutschから。これは1996年のWarner Books版ペーパーバック)
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143. 1980年の岩元紀彦監修『追悼文集 伯父 岩元禎』(2014年12月1日)
旧制一高の名物教授として記憶されるドイツ語教師・哲学者、岩元禎(1869~1941、鹿児島市出身)の追悼文集で、岩元禎の甥にあたる岩元紀彦が編んだ本文20ページの小冊子です。編者の岩元紀彦は、岩元禎の弟で沖縄県知事や鹿児島市長をつとめた岩元禧(1879~1944)の次男にあたります。発行日は、昭和55年(1980)11月3日。私家版です。古本屋さんで見つけて、うれしかった1冊です。
『追悼文集 伯父 岩元禎』の目次は次のようになっています。
「第八賢人」 亀井高孝
「岩元先生の憶い出」 下田弘
「岩元先生」 立澤剛
「故岩元先生の病歴」 荒井恒雄
「岩元先生を憶ふ」 三谷隆正
「思ひ出の一端」 児島喜久雄
「純粋の人 岩元先生を憶ふ」 佐藤得二
「先生」(週刊朝日抜粋)
「岩元先生のこと」安倍能成
「岩元禎先生の哲学碑」前尾繁三郎
「奇人」岩元紀彦
夏目漱石の『三四郎』に登場する広田先生のモデルともいわれる、岩元禎の生涯については、高橋英夫『偉大なる暗闇――師 岩元禎と弟子たち』に詳しいのですが、『追悼文集 伯父 岩元禎』を手にとってうれしかったのは、目次の最初に「亀井高孝」の名前を目にした、ということもあります。
▲高橋英夫『偉大なる暗闇――師 岩元禎と弟子たち』(1993年1月、講談社文芸文庫、新潮社刊の初版は1984年4月刊)
岩元禎は、一高で、明治32年(1899)から昭和16年(1941)まで42年間、ドイツ語を教えています。
亀井高孝(かめいたかよし、1886~1977)は、明治36年(1903)一高に入学していているので、初期の教え子にあたります。 亀井高孝は、大正12年(1923)から終戦まで一高の教授をつとめたので、教え子にして同僚ということもあって、追悼文集巻頭に選ばれたのでしょうか。
亀井高孝は歴史学者で、現在ふつうに手にとることのできる本では、岩波文庫の亀井高孝校訂の大黒屋光太夫『北槎聞略(ほくさぶんりゃく)』などがありますが、高校世界史の副読本『世界史年表・地図』(吉川弘文館)の編著者の一人として、今でもその名前を目にする人です。
その亀井高孝が、大正14年(1925)、ちょっと変わった本を出しています。
▲亀井孝『松と杉』(発行者・龜井高孝、大正14年[1925]9月1日) 『杉と松』でなく『松と杉』です。
収録されているのは、亀井高孝の息子、亀井孝の詩です。慶應幼稚舎在学中に書いた詩です。
大正9年(1920) 9歳 23編 (歳は数え年)
大正10年(1921) 10歳 37編
大正11年(1922) 11歳 12編
大正12年(1923) 12歳 60編
大正13年(1924) 13歳 56編
大正14年(1925) 14歳 2編
計190の詩です。表紙の多色木版は山根八春(1886~1973)が彫刻して刷りもしており、見返しや本文の装画は河野通勢(1895~1950)が描いています。巻末に父・龜井高孝「序に代えて 父より」(大正14年7月)と慶應幼稚舎の恩師・菊池知勇「孝君の詩について」 を配した、天金クロス装の上製本です。たぶん箱入りの本だと思うのですが、箱入りのものは手にしたことはありません。立派な詩集です。例えば、大正13年(1924)に自費出版された宮沢賢治『春と修羅』などより立派な造本かもしれません。いってみれば、これほどの「親ばか」は見た事がない、といった体の本とも言えそうです。
この詩が書かれた日々の中には、関東大震災がおこった1923年(大正12年)9月1日がはさまれています。本の発行日が9月1日であることも、ちょっと気になります。亀井高孝の「序に代えて 父より」には震災のことも書かれていますが、亀井孝の詩に、関東大震災はあらわな題材として登場しません。それでも、大正12年と大正13年に、その作品の数がもっとも多くなっているのは、何かの気持ちのあらわれだったのかもしれません。
▲亀井孝『松と杉』扉 河野通勢の絵です。
▲亀井孝『松と杉』奥付
▲亀井孝『松と杉』見返し 「菊花」「桃花」「牡丹」「芙蓉」河野通勢の絵です。この絵は、亀井孝の遺著でも使われています。
本のタイトルになっている「松と杉」は、次のような詩です。
松と杉
大杉小杉
松杉林
林の中にはいつて見たら
松は針
杉は針
杉のお針はさびついてる
松のお針は光つてた
口語自由詩で「さびついてる」「光つてた」という表現が目立ちますが、ごく素直な少年の詩です。
こうした詩を集めて、装幀や装画を名のある画家に依頼し、天金クロス装の上製本で出版する、というのは、人によっては「親ばか」と言い切ってしまいそうですし、音楽の世界と違って、詩の世界で「神童」みたいなものの存在は意味があるのか分からず、その子の将来を考えると、大丈夫なのかと考えないではないのですが、これも大正ならではの教育パパの姿勢のひとつ、という気もしますし、大正という時代を表現しようとするとき、この少年詩人・亀井孝は、時代を映す鏡のようなキャラクターとして存在しうるのではないかと思います。
大正9年(1920)~大正14年(1925)を舞台にした物語なら、亀井孝少年は、面白い役どころで使えるのではないでしょうか。
その少年詩人・亀井孝(1912~1995)はどう育ったか――、これも大事な話です。
結果からいえば、詩人ではなく、国語学者・言語学者になりました。平凡社の『日本語の歴史』、三省堂の『言語学大辞典』の編著者であり、亀井孝の文体としかいいようない、力を持った文章の書き手になりました。
日々うつろな言葉ばかり読んでいると、どこかのどが渇くのと似た症状が出てきて、そういうときに読みたくなるのが、亀井孝の文章です。 「詩の力」のようなものが、その文章には働いているのではないかと思います。
「かァごめ かごめ」などの、仮名を多く使った、分かち書きが目をひきますが、亀井孝の文章を読むことで、読むということの時間がリセットされるような感じがして、正直なところ気持ちが良いのです。こうした学問的側面に重きを置かず、文体に注目する読み方は邪道の読み方なのでしょうが、亀井孝の文章は、20世紀の日本語が残した贈り物のひとつだと思います。
いじましいところがない、本質的に育ちの良い文章の書き手でもあります。
「亀井孝」的存在がちゃんと育ったということを考えると、亀井高孝は単なる「親ばか」ではなかったようです。
▲亀井孝論文集 全6巻(1971年~1992年、吉川弘文館)
▲かめい たかし『ことばの森』(1995年7月10日、吉川弘文館)
6巻論文集未収録の35編の選集 。
「各編の中扉には、先生の慶應義塾幼稚舎ご卒業記念に刊行された、私家版の詩集『松と杉』(1925年)より、河野通勢画伯の挿絵を転載」(吉川弘文館 編集部)とあります。亀井孝の生涯最初の本と生涯最後の本は、70年の歳月をこえて、同じ装画で飾られているわけです。
▲亀井孝著、小出昌洋編『お馬ひんひん 語源を探る愉しみ』(1998年12月、朝日選書)
亀井孝論文集の3巻と4巻『日本語のすがたとこころ』から「かァごめ かごめ」など、編者の小出昌洋ごのみのテキストを選んだものです。とてもいい本です。
▲亀井孝論文集1『日本語学のために』(昭和46年[1971]6月10日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
『亀井孝論文集』は第1巻が 昭和46年(1971)、最終巻の第6巻が平成4年(1992)と、30年がかりで刊行されたため、巻末の刊行案内で、書名や巻数が巻ごとにかわっています。時間を感じます。
▲亀井孝論文集2『日本語系統論のみち』(昭和48年[1973]10月15日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
▲亀井孝論文集3『日本語のすがたとこころ―(一)音韻―』(昭和59年[1984]12月20日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
▲亀井孝論文集4『日本語のすがたとこころ―(二)訓詁と語彙―』(昭和60年[1985]10月10日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
▲亀井孝論文集5『言語文化くさぐさ―日本語の歴史の諸断面―』(昭和61年[1986]8月10日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
▲亀井孝論文集6『言語 諸言語 倭族語』(平成4年[1992]11月10日、吉川弘文館)巻末の刊行案内
▲龜井孝/H. チースリク/小島幸枝『キリシタン要理』(1983年11月4日、岩波書店)
『キリシタン要理』では「龜井孝」という表記が使われています。「亀井孝/龜井孝/かめい たかし」と複数の存在がいるような印象があります。
▲小島幸枝『圏外の精神――ユマニスト亀井孝の物語』(平成11年[1999]6月1日、武蔵野書院)
『日本イエズス会版 キリシタン要理――その翻案および翻訳の実態』共著者による、亀井孝の回想。
「圏外」というと、今だと、携帯電話の電波が届かない「圏外」ということになってしまいますが、この書名の「圏外の精神」は「孤高の精神」を表しています。
そういえば、岩元禎もまた「圏外の精神」の人でした。
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142. 1985年のエドワード・リア回顧展カタログ(2014年10月7日)
1985年、イギリスのTHE ROYAL ACADEMY OF ARTSが主催したエドワード・リア(Edward Lear, 1812~1888)回顧展のカタログです。エドワード・リアはノンセンス詩人として記憶されていますが、地中海周辺各地の風景やオウムやペリカンなどの鳥獣を描く水彩画家と呼んだほうが、本人は喜びそうです。生涯を旅暮らしの独身で通し、猫を愛した、この画家は、今でもいろいろな角度から人を引きつける力を持ち続けています。
このカタログは、実際、よくできていて、ゲスト・キュレーターにエドワード・リア研究者ヴィヴィアン・ノークス(Vivien Noakes, 1937~2011)を迎えて、その生涯をノンセンス分野などに偏ることなく1冊の本に閉じ込めた、軽すぎもせず重すぎもせず、伝記タイプのお手本のようなカタログです。現在の指向だと、図版やカラーページをもっと多くしろとか、デザイン先行とか、情報をオーヴァーフロウ気味にとか、要求されるのでしょうが、このくらいがちょうどいいです。
展覧会カタログの多くは、分冊や多数の巻に分かれるということはなく、1冊の本という形、1巻本でだされるので、出来によっては、みごとに1冊で完結した世界を作ります。このカタログは、表紙にもう一工夫あればとも思いますが、1人の生涯を取り扱ったカタログの見本のような1冊です。ヴィヴィアン・ノークスにとっても、この展覧会は、一生に1度と言っていいくらいの晴れ舞台だったのでしょう。 生涯に1冊のカタログというのは、やっぱりいいじゃないですか。
現在でも中古で手軽なお値段で入手できるカタログだということも、ありがたいところです。
▲1985年の展覧会カタログの展示番号1はエドワード・リアの出生証明書です。最後の展示番号118はイタリアのサンレモにあるエドワード・リアのお墓の写真です。ちなみに展示番号117は、リアの晩年の伴侶、愛猫フォス(Foss)のお墓の写真です。 ゆりかごから墓場までのカタログになっています。
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ヴィヴィアン・ノークスによるエドワード・リア関連本を並べてみます。
▲エドワード・リアの伝記VIVIEN NOALES『EDWARD LEAR The Life of a Wanderer』(1968年, COLLINS)の背とタイトルページ です。 ヴィヴィアン・ノークス『エドワード・リア:旅人の生涯』 は1968年時点での伝記決定版。手もとにあるのはダストラッパー無しの裸本 です。
▲Edited by VIVIEN NOAKES『EDWARD LEAR: SELECTED LETTERS』(1988年, OXFORD)
エドワード・リアの書簡選集。「書簡集」というのは、絶滅危惧種のようなジャンルなのかもしれません。手書きの手紙を活字化したものです。手書きの手紙を判読し、活字にする作業は手間がかかり、ありがたいかぎりなのですが、リアのようにグラフィックにすぐれた人の手紙、書画一如タイプの絵と文をよくする人の書簡は、活字化することで失われるものが大きいのも事実です。手紙そのものを高精細コピーしたものと、それを読みやすく活字化したものを組み合わせるのが理想のような気がします。しかし、手書きの文章と絵が同じ筆致で渾然としているところに絵手紙のおもしろさがあるわけですから、そもそも活字化や注釈は余計なお世話なのかもしれません。
一方で、大河ドラマなどで、巻紙の書状をパッと開いて読み、「何ッ!」などと 呟く場面がありますが、古い手書きの文章を読むのは難しくて、 実際に達筆の書状を送られても、判読不能になっている、活字頼りというか、活字ぼけの自分のような読者という問題もあります。
▲VIVIEN NOAKES『THE PAINTER EDWARD LEAR』(1991年, DAVID & CHARLES)
エドワード・リアの鳥獣画・風景画に焦点をあてた画集。イギリスのウィリアム皇太子が序文を寄せています。ウィリアム皇太子は水彩の描き手ですが、エドワード・リアの水彩を理想としているようです。
▲VIVIEN NOAKESが編集したノンセンス詩集2冊。2002年と2006年のPenguin版。2006年版には「最近発見されたリメリック(Recently discovered limericks)」8編が追加されています。リメリックはリアが発案した4行詩の短詩形です。
エドワード・リアに対するヴィヴィアン・ノークスの立場は、忘れられたアーティストに対する献身的な遺産管理者的女性研究者みたいな構図で、例えば、エリック・サティ(Erik Satie、1866~1925)の再評価にオルネラ・ヴォルタ(Ornella Volta)が果たした役割に近いのかも知れません。 この献身は、愛の問題に行き着くのでしょうか。
▲エドワード・リアに生涯をささげたVIVIEN NOAKESですが、最後の著作は第1次世界大戦で亡くなった詩人・画家アイザック・ローゼンバーグ(Isaac Rosenberg, 1890~1918)の著作集(2008年、Oxford)でした。スタンリー・スペンサー(Stanley Spencer, 1889~1959)と同世代の人です。これもよくできた1巻本選集です。
▲VIVIEN NOAKESのペンギン版以前は、リアのノンセンス詩集と言えば、Holbrook Jacksonが編集した選集でした。これは1947年のFaber and Faber版をリプリントしたDover版。高橋康也の『ノンセンス大全』を読んで、探しました。
▲エドワード・リアという存在を、まとまった形で教えてくれたのは、高橋康也の『ノンセンス大全』(晶文社、1977年)でした。『道化の文学』(中公新書、1977年)とペアで懐かしい本です。 リアの伝記にかんしては、ヴィヴィアン・ノークス『エドワード・リア:旅人の生涯』によっています。
▲E・リア 柳瀬尚紀訳『ナンセンスの絵本』(1988年、ちくま文庫)、エドワード・リア作 柳瀬尚紀訳『完訳ナンセンスの絵本』(2003年、岩波文庫) 。リアのノンセンス詩の翻訳といえば、ほかにも新倉俊一『リアさんて、どんなひと?―― ノンセンスの贈物』(みすず書房)などがありますが、佐々木マキがリアの「フクロウと仔猫ちゃん」(The Owl and the Pussy-cat)を訳したものもあります。
I
フクロウと
仔猫ちゃんは
海へ出た
The Owl and the Pussy-cat went to sea
うつくしい
サヤエンドウ色の
ボートに乗って
In a beautiful pea-green boat,
いくらかの
蜜と
たっぷりのお金
They took some honey, and plenty of money,
5ポンド札
一枚で
夢中になって
Wrapped up in a five-pound note.
フクロウは
星を仰いで
小さな
ギターに
あわせて
唄った
The Owl looked up to the stars above,
And sang to a small guitar,
おお
かわいい
仔猫
おお 仔猫
'O lovely Pussy! O Pussy, my love,
ぼくの
恋人
何て
美しいのだろう
きみは きみは!
What a beautiful Pussy you are,
You are,
You are!
何て
美しいの
だろう
仔猫ちゃん!
What a beautiful Pussy you are!'
II
すると
仔猫は
フクロウに
ああ
あなた
エレガントな
鳥類!
何て魅惑的で
あまい唄声!
Pussy said to the Owl, 'You elegant fowl!
How charmingly sweet you sing!
おお
ケッコン式を
挙げましょう!
あんまり永く
待ちすぎたわ
O let us be married! too long we have tarried:
でも
指輪をどうした
ものでしょう?
But what shall we do for a ring?'
二人が
一年と一日
航海して
They sailed away, for a year and a day,
ボンの木の
しげる所に
上陸すると
To the land where the Bong-tree grows
木の中に
子豚が
立っていた
And there in a wood a Piggy-wig stood
鼻の先に
輪(リング)をつけて
鼻の
鼻の先に
輪(リング)をつけて
With a ring at the end of his nose,
His nose,
His nose,
With a ring at the end of his nose.
III
ブタさん
きみのリングを
一シリングで
売る気は
ないかね?
あるよ
'Dear pig, are you willing to sell for one shilling
Your ring?' Said the Piggy, 'I will.'
そこで二人は
そいつを
持って行って
次の日
So they took it away, and were married next day
丘の上に
住んでいる
七面鳥に
式を挙げて
もらった
By the Turkey who lives on the hill.
二人は
ヒキ肉と
マルメロの
うす切りで
晩さんをした
They dined on mince, and slices of quince,
二人は一本の
鋸歯状スプーンで
それを食べた
Which they ate with a runcible spoon;
そして
手に手をとりあって
砂丘のはしっこで
And hand in hand, on the edge of the sand,
月の光で
二人は踊った
月の
月の光で
二人は踊った
They danced by the light of the moon,
The moon,
The moon,
They danced by the light of the moon.
▲この佐々木マキによる、リアの「フクロウと仔猫ちゃん」訳は、6ページの漫画として、『ガロ』1972年4月号に掲載されたものです。詩の翻訳として、とても素敵なやり方です。写真は自選マンガ集『うみべのまち 佐々木マキのマンガ 1967―81』(2011年、太田出版) から。2013年から日本各地を巡回している佐々木マキの原画展『佐々木マキ見本市』では、『ガロ』1972年4月号の「フクロウと仔猫ちゃん」のページも展示されていました。
▲「フクロウと仔猫ちゃん」も収録する、自選マンガ集『うみべのまち 佐々木マキのマンガ 1967―81』(2011年、太田出版)
この本を含め、ここ数年、 佐々木マキの仕事を振り返る本の刊行が続いています。
▲佐々木マキはノンセンス詩に関心があって、佐々木マキ編・訳『あべこべ世界の住人たち ナンセンス・ヴァース・アンソロジー』(筑摩書房、1991年)も出しています。
エドワード・リアのほかに、スパイク・ミリガン、ヒレア・ベロック、ロアルド・ダール、トム・フッド、A・A・ミルン、ルイス・キャロルら英国勢のノンセンス詩を集めていますが、それを佐々木マキ流にグラフィック化したものを見たいものです。
▲小原央明編『佐々木マキ アナーキーなナンセンス詩人』(2013年、河出書房新社)
▲『佐々木マキ見本帖』(2013年、発行・メディアリンクス・ジャパン、発売・絵本館)
2013年から日本各地を巡回している佐々木マキの原画展カタログです。
鹿児島でも、かごしまメルヘン館で2014年9月26日~11月10日開催。
▲佐々木マキといえば、『やっぱりおおかみ』です。福音館書店のこどものとも版。1973年10月号です。
▲ささき まき さく・え『やっぱりおおかみ』《こどものとも》傑作集(1977年4月1日第1刷、2006年1月20日第26刷、福音館書店)、ハードカヴァー版です。
マンガのような吹き出しをもった、おおかみ唯一のことばは「け」だけです。 ほかの、かな1文字では表現できない「け」は、一文字である気分を表していました。日本におけるパンクの表明だったのではないかと、思ったものです。ただ、パンクな姿勢には切り貼りの「粗雑さ」も欠かせないとすれば、佐々木マキの原画の丁寧さは、パンクの野放図さとは無縁の、修正のない緻密なものでした。
2013年から日本各地を巡回している『佐々木マキ見本帖』展で、『やっぱりおおかみ』の原画もすべて展示されていましたが、そこには「け」の文字はありませんでした。「け」の文字も手書きだと思い込んでいたことに気付きました。
▲『やっぱりおおかみ』は精興社のオフセット印刷で、吹き出しの「け」は写植の書体です。写研の見出し用の明朝かなだと思いますが、写植書体の見本がてもとにないので正確な型番はわかりません。どなたかお教え下さい。『やっぱりおおかみ』では、表紙タイトル文字は石井のナール、本文は石井の丸ゴシックなど、写植の書体が使われています。
▲『ガロ』1968年9月号掲載の「まちのうま」に登場するおおかみの放つ「け」は手書きです。
絵も吹き出しのことばもすべて手書きです。これもまた書画一如のひとつの形です。すべて手書きなのでより作品の統一性は強まるのですが、一方で、この「け」は活字書体をまねた手書き文字になっていて、活字への憧れを示しています。
「け」と発するおおかみの初登場は、『ガロ』1968年8月号「セブンティーン」でしょうか。ただ「け!」「け・・・・」のように「!」「・・・・」 がついています。「け」1文字は、
『ガロ』1968年9月号の「まちのうま」でしょうか。「まちのうま」に登場するおおかみは「け」だけでなく、一方でとても饒舌です。
マンガというと、吹き出し内は活字と思い込みがちですが、「書画一如」の理想から考えると、最も適切な文字を自ら書くとか、新しい活字を自らつくるとか、選択肢はほかにもあります。理想を追求すると時間がいくらあっても足りませんが、活字は次善の選択ということは押さえておかなければいけないところだと思います。
わたしにとってはパンクムーブメントと同期するような1977年の「け」のインパクトでしたが、1968年には1968年の「け」、1973年には1973年の「け」、それぞれのインパクトがあったのだと思います。
例えば、佐々木マキを本の表紙に使うことになる村上春樹は、1968年の「け」も1973年の「け」も聴いていたのだと思います。
▲「書画一如」などと書いてしまったので、唐突ですが、小林勇『随筆書畫一如』(求龍堂、1972年)のタイトルページ。
文(テキスト)と絵(グラフィック)が融合している「書画一如」は、やはり理想です。印刷物においては「書画不一致」を感じることがあります。
▲浜田義一郞・鈴木勝忠・水野稔校注『黄表紙 川柳 狂歌』(小学館・日本古典文学全集、1971年)から朋誠堂喜三次・作/恋川春町・画『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』の敵討ち場面。
「書画一如」のものを印刷物にまとめるとき、どんなやり方がいちばんいいのか、考えます。これは、黄表紙の縮小複製の上部に注、下部に本文を活字化したものを添えたかたち。図版の複製から直接本文を読み取るのは、大きさの点からも少し難しいですが、絵入りの古典の刊行で、定型的なスタイルです。
『親敵討腹鞁』は、かちかち山の後日譚。子ダヌキが親の敵ウサギを討って、ウサギを胴切りにするのですが、切られたウサギは黒い「ウ」と白い「サギ」になって飛び立っていくという、とんでもない展開場面です。
▲大正15年の日本名著全集『黄表紙廿五種』(山口剛・解題校訂)から『親敵討腹鞁(おやのかたきうてやはらつづみ)』の敵討ち場面。オリジナルのテキスト部分を、活字に置き換えていています。オリジナルの文字が絵と分かちがたく合っていたため、絵と新たな活字の組み合わせは、やはり変で、「書画不一致」を感じます。
植字作業も手間のかかるものだったと思われるのですが、それが成果に結びつかず、徒労を感じます。
本の装幀は、木村荘八・小杉未醒・渡邊新三郎・近藤雪竹らの書画を使用していて、かわいい本です。
▲『佐々木マキ見本市』では、いろんなグッズもあって、「け」のトートバッグまでありました。よく見ると、トートバックのおおかみと吹き出しは絵本『やっぱりおおかみ』そのままでなく、吹き出しの向きを変え反転させて再構成したものなので、ちょっと変な感じで、にせものの「け」のような気もします。
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141. 1977年の辻邦生『夏の海の色』(2014年8月29日)
眩しかった夏の海の色に、鈍い色が混じるようになってきました。こどもたちの夏休みもそろそろお終いです。
小説家・辻邦生(1925~1999)が中央公論社の文藝誌『海』『中央公論文芸特集』、そして『マリ・クレール』に、昭和49年(1974年)から昭和63年(1988年)にかけて連載した短編連作「ある生涯の七つの場所」の単行本第二集『夏の海の色』です。中央公論社から昭和50年(1975年)から昭和63年(1988年)にかけて出された単行本版では全部で8冊、中島かほるによる濃紺の箱入りの装釘で、全冊統一されています。平成4年~5年(1992年~1993年)の中公文庫版だと全7冊になり、松本竣介の作品がカバー画に使われています。
短編連作「ある生涯の七つの場所」は、赤、橙、黄、緑、青、藍、菫という七つの色の場所で、それぞれ14の短編、そこにプロローグ(序章)とエピローグ(終章)を加えて、合わせて100の短編から構成されています。また、赤のⅠ、橙のⅠ・・・と、それぞれの色の番号を横に並べると、また別のストーリーが浮かび上がるように工夫されていて、20世紀の日欧米を舞台に、3世代にまたがる「ある人生」が文字通りタペストリーのように織り込まれた連作になっています。
単行本版で1冊に12の作品だったものを、文庫版では1冊に14の作品と構成を改めたため、中公文庫版では、
『霧の聖マリ』
『夏の海の色』
『雪崩のくる日』
『人形クリニック』
『国境の白い山』
『椎の木のほとり』
『神々の愛でし海』
の7冊になり、単行本版の第三集『雷鳴の聞える午後』と第五集『雨季の終り』が書名として無くなり、文庫版では『人形クリニック』が新たに書名として登場しています。
この連作には、「橙いろの場所」や「赤い場所」連作の主人公である「私」の母親の故郷として「鹿児島」が少し登場します。
▲平成4年~5年(1992年~1993年)の中公文庫版
単行本版『夏の海の色』に収録された、赤い場所からの挿話VII「風雪」(中公文庫版では『霧の聖マリ』に収録)に、満洲で一旗あげようとしている「川上源太郎」という人物が登場します。主人公の「私」が子どもの頃、1930年代の東京に主人公の両親を訪ねてきます。主人公の「私」は「むしろ南九州の強いアクセントを響かす男の喋り方が好きになれ」ません。
川上さんが帰ってから、よく両親の間で話が出ていた。母の話では川上さんは母の遠縁に当り、子供の頃、よく遊んでくれた人だというのだった。
「竹細工が上手でね」母は縫物をしながら私に話した。「竹とんぼも源太郎さんのが一番よく飛んだし、それで、お母さまが飛ばすと、みんながからかってね。田舍だから、そんなことを、とても、からかうのよ。お母さまは口惜しくて、いつも自分でつくったって言ったものよ」
「でも、つくれたの?」私は畳に寝そべって母の白い手が信じられぬ早さで針を動かしているのを見ていた。「竹とんぼは?」
「駄目だったわ」母は笑った。「飛びはしないのよ。自分でつくったのは。一メートルも」
「あの人のがよかったわけだね」
「それは竹とんぼだけでじゃなくて、竹でね、大きな鳥籠も拵(こさ)えてくれたわ」
「鳥籠って、鳥を入れる?」
「そうよ」母は畳から四十センチほどの高さに手をやって言った。「この位の大きさの鳥籠をね」
私はなぜか母が川上さんの話をすると、ふだんの母と違ってくるような気がした。何ともうまく言えなかったが、そんなとき母は眩しいような、娘々とした感じになるのであった。私はそれがなんとなく気にくわなかった。時々、子供らしからぬ、ひどく苛々した気持を感じた。その癖、母の子供時代に川上さんが遊んでくれたことを根ほり葉ほり訊ねた。
「ねえ、それから? それから?」
私はそんな言葉を何度繰り返したかわからない。しかし母はそんな〈それから〉にはいささかも困る様子はなく、峠を越えて隣町の祭に出かけ、夜、暗くなって、一緒に峠道を駆け下りてきた話、海岸に泳ぎにいって、川上さんの赤褌につかまって沖まで出た話、蕨を取りにいって山で迷った話。狐火を見に川原に出た話、女の先生が晩のおかずの油揚げをそっくり狐にとられた話など、いくらでも話をつづけてくれるのであった。
「さ、またつづきを明日話してあげますから、少し外で遊んでいらっしゃい」
母は象牙のへらで着物にすじをつけながら、最後には、そんなふうに言うのだった。
「でも、どうしてお父さまとはそんなふうにして遊ばなかったの?」
私はそれが不思議でならずに訊ねた。
「そりゃね」母は笑って言った。「お父さまと会ったのは、ずっと後になってからですもの。子供のときは知らなかったのよ」
私は母の説明がうまく理解できなかった。川上さんとはあんな面白い遊びを沢山したのに、父とは全然そんな経験もないとは、ずいぶん父が可哀そうだ、と私は考えた。
それだけに、夕食のときなどに父が川上さんのことを時々ひどく言うと、私は内容は全くわからなかったくせに、父に意見に賛成したいような気持になっているのだった。
「ともかくあいつの大言壮語は昔と変らんよ」
父は吐きすてるように言った。
「昔に較べたら、よくなったと思います」母は父を恨めしそうに見て言った。「昔も私もいやでした。大陸にいって馬賊の頭目になるんだとか、アジアの目覚めを促すんだとか、わけのわからないことを言っていた時期もありました。でも、この前なんか、私、本当に立派になったと思いましたわ」
「しかし相変わらず勉強も何もしておらんじゃないか」父は不機嫌そうに箸を動かしていた。「この前の前のときだって、むこうから言ってくるから満鉄にも紹介状を書いたし、故郷(くに)の先輩にも頼んだのに、言い草がいいじゃないか。〈小生、官署の部局に跼蹐するには広袤千里満蒙の風に馴致せし身を痛感致し候〉とくるんだからな。何が広袤千里だ」
「人にはむきむきがありますもの。源太郎さんは源太郎さんよ。それはそれで成功なさったからいいじゃありませんか」
「成功したかどうか、わかったものか。満鉄にも入らず、素性のわかった会社にも背を向けて、いったい何ができると思う。舌先三寸で世渡りをする詐欺師同然の仕事しかないんだ。あんなのを信用したら、こちらだって身ぐるみ剥がされるぞ」
母は眼で私がいることを父に注意した。父も言い過ぎたことに気付いたらしく、黙って食事をつづけていた。
この「川上源太郎」のような、根はいい奴なのだろうけど、大言壮語をするわりに甲斐性無しの、何となく遠ざけられる人。外側から見る「鹿児島人」像の、一つの典型のような気がします。
赤い場所からの挿話XII「彩られた雲」(単行本版・中公文庫版ともに『夏の海の色』収録)には、鹿児島での夏休みが簡単に登場します。
それからしばらく私は金屋たちと野球をすることができなかった。剣道の稽古と、受験勉強が私の時間を奪っていた。
「この頃は遊びに出なくて偉いわね」
母が夜十一時に、盆に茶と菓子を持って顔を出す。
「ああ、高等学校だけはどうしても入りたいからね」
「叔父さまの話だと、あなた、鹿児島の高等学校にゆきたいそうね」
「四修じゃ、東京近辺の高等学校は無理だから。お母さまの故郷にちょっと敬意を表そうというんだよ」
「それは嬉しいわ。きっと受かるでしょ。それだけやっていれば」
「どうかな、何しろどの学校もすごい倍率だからね」
私は夏休みに鹿児島にいって、向うで親戚に会ってこようと思ったのは、遊びのためというより、土地柄とか、学校の雰囲気を見たほうがいいと思ったからである。
冴の学校は夏休みがふつうの学校より早かった。私が鹿児島にたつ日には、鬼塚の家はすでにひっそりしていた。信州の家に出かけたのは間違いなかった。
私が一夏鹿児島で暮らし、勉強でも下検分でもなく、従兄弟たちと海で泳いだり、馬に乗ったりして東京に戻ってみると、金屋が来て、冴の家が引越していった、と告げた。
この短編では「お母さまの故郷」として鹿児島が明示されています。残念ながら、現実の辻邦生は鹿児島の七高には進まず、信州の松本高校に進んで、そこで北杜夫らと一緒になるのですが、それは別の話です。
橙いろの場所からの挿話VII「落日のなかで」(単行本版・中公文庫版ともに『雪崩のくる日』に収録)では、鹿児島から上京してきた「川上康夫」が登場します。
私と同年に[大学に]入学したのは五人で、もちろん募集人員に満たないので試験はなかった。はじめて新入生が顔を合わせたとき、川上康夫が「全国でも変り者は五人はいたんだなあ」とつぶやいたので、私たちは笑った。
「こんな時代だし、兵隊にゃいかなければならんし、まあいいとこ二人だと踏んでいたんだがね」
川上は無精髭をはやした、顔色の悪い、飄々とした感じの学生で、鹿児島の高等学校からきていた。幾らか窪んだ眼は、柔和に澄んでいて、私は最初から好感を持った。彼は浪人していたので、年齢は一つ二つ私より上で、その分だけ落着いた感じだった。薩摩弁の名残りであろう、強い独特の調子で話したが、それは、のっぺりした標準語よりはるかに魅力があった。私たちはすぐ友達となった。
「東京は見るもの聞くもの、みな心をしめつける。目下、俺は東京に凝っているって感じだな」
「どんなところが気に入っているんだい?」
私たちは青く芽を出しはじめた銀杏並木を通って図書館の前へ出て、そこから池のほうへ、藪に覆われた斜面を下った。
「昨日は墨田川をはじめて見てきた。これが大川端かと思って、ちょっと感慨があったな。それから浅草界隈を歩きまわった。俺は高見順が好きでね。それにこの前の日曜は無縁坂を通って不忍池に出てみた。こどは龍泉寺町までいってみるつもりだ」
私は高等学校では哲学書を多く読んでいたので、いきなりこういう話題にぶつかると、かって戸惑いに似た、新鮮な驚きを感じた。
川上は彼の下宿のある森川町も菊坂も文学上の舞台として感じていた。私が小説家の叔父と住んだことのある界隈は、川上にしたがえば「一葉女子の匂いがする」一帯であるというのだった。
「それにこの池だって、君、三四郎が美禰子に会ったところだ。俺の見当ではね、美禰子はあの辺に立って、こう、夕日を浴びていたと思うんだ」
・・・・・・
そんなある日、母から川上という学生を知っているか、と訊ねられた。
「ドイツ文学科にも川上はいるけど、何という名前?」
「川上康夫さんという方だけれど」
「川上康夫ならまさしく独文だよ。入学当初よく話した。いつか酔って帰ったことがあったでしょう。あれ、川上と飲んだんだよ」
母はしばらく絶句して私の顔を見ていた。
「なんで、そんな驚いた顔をするの?」
「だって、川上康夫さんはね、源太郎さんの甥ですもの」
「源太郎さんって、親戚の?」
「ええ、私と従兄弟の・・・・・・。昔、うちにいらしたことがあったでしょ。ロシアの人形芝居を下さった・・・・・・」
「ああ、よく覚えている」
「お春さんから――源太郎さんの姉さんから手紙があったのよ。康夫さんのことをよろしくって。でも、あなたがもうお友だちになっていたなんて、やはり血なのね」
「いや、ただ気が合っただけだよ」
「だから、それは血のせいよ。同じ家系のせいよ」
私は母が言う言葉は多少誇張されていると思った。
・・・・・・
川上が鹿児島の城山に近い屋敷町で人力車から下りてくる若い女と出会ったのは、高等学校二年の秋の頃であった。その道は彼が散歩をする折、よく通る道だったので、そのうち、女が、その界隈に妾宅を構えたある商人に囲われていることがわかってきた。その家は、三尺ほどの苔むした石垣の上にあって、背の低い竹垣がめぐらされていた。川上が家の前を通るとき、玄関の石段を二段ほどのぼると、庭から家のなかまで見渡せたというのだった。
間もなく、二人は顔が合えば微笑を交すようになり、その翌年には、商人のこないような日、二人で磯に遊びに行ったり、城山を散歩したりするまでになっていた。
「ところが、いよいよ俺が東京にゆくことに決ると、弓子は――その女のことだ――ぜひ一緒に連れていってほしいというんだ。自分は女中でも何でもして住み込みで働くから、東京にゆきたいと言うんだ。鹿児島と東京では生き別れも同じだと言って泣くのだ。俺も弓子と別れたくなかったし、こんな男の囲い者にしておくわけにもゆかなかった。弓子は別に芸者として売られているのではなく、父親が気が弱くて、借金をしていて、ずるずる娘を男に引き渡したらしいのだ。それがわかると、俺も弓子を連れてゆく気になった。しかしただ連れてゆくわけにはゆかない。何とか働き口を見つけなければならない。そこで思いついたのが乾先生だった」
「どうしてとくに乾先生が・・・・・・?」
「乾先生は鹿児島出身の女流歌人だし、川上家とはたしか遠縁に当っているんだ」
「それで、母もそこへ弟子入りしたのか」
「おそらくそうだろう。故郷(くに)のやつは誰だって短歌と言えば乾先生を思い浮かべるからね。つまりそんなわけで弓子を乾先生に頼んだのだ」
「じゃあのひとは君の細君(フラウ)ってわけなのか」
「まだ正式じゃないが、そうするつもりだ」
「鹿児島出身の女流歌人」などモデル問題を考えると、いろいろ興味深い個所です。
川上康夫はあっさり大学をやめ、新天地を求めて奥さんと北海道へ移住てしまいます。川上康夫も、おじさんの川上源太郎のように、危うい人生を歩みそうです。主人公母子は川上を上野駅まで見送ります。そのあとの場面です。
「久々に上野の山にでも登ろうか」
「そうね、西郷さんを見たのも、あなたが小学校の頃ね」
私たちは駅を出て、物売りの並ぶ階段を上った。銅像の前には鳩が群れていた。銅像を仰いでから、私たちは山の上からしばらく落日の都会を眺めていた。
氷屋がチリンチリン鐘を鳴らしていた。
「汽車は何時に青森に着くの?」
「明日の昼ごろじゃないかな、正確には知らないけど」
「北海道って遠いのね」
「鹿児島だって遠いよ」
「そうね、西郷さんも寂しそうな顔をしているわけね」
私たちはなおしばらく落日の都会から立ち上る潮騒のような音に耳を傾けていた。
辻邦生の小説の登場人物たちの多くは故郷を失った人たちですが、ここではまだ故郷と繋がっています。
「ある生涯の七つの場所」連作では、ほかにも、橙色の場所からの挿話XIII「夜の入口」では、南九州の聯隊から6年ぶりで除隊して東京に帰ってきた叔父さんも登場して、鹿児島との関連が示されています。
『辻邦生全集』第20巻収録の「辻邦生年譜」(井上明久編)には、辻邦生の出生について次のようにあります。
大正十四年(一九二五年)
九月二十四日、東京市本郷区駒込西片町十番地はノ十三号で、辻三壽吉(靖剛)、キミの三男として誕生。九(ク)月二(ニ)四(ヨ)日生まれなので、邦生(くにお)と名づけられる。原籍地は山梨県東山梨郡春日居村(現笛吹町)国府(こう)三七四。辻家は代々、春日居村国府の医家であり、母方の湯田家も鹿児島の医家である。父の靖剛はジャーナリスト、薩摩琵琶の弾奏家。長男の守彌(もりや)はすでに死亡。次兄の春生(はるお)は昭和三年に六歳で死亡。妹の三枝子(みえこ)は昭和四年に一歳で死亡。昭和四年に末妹の禮子(れいこ)が、昭和六年に末弟の愛也(よしや)が誕生。
辻邦生と鹿児島の結びつきは、まず語られることはありませんが、辻邦生の母方の実家は鹿児島ということで、辻邦生もまた東京に出て行って戻ってこなかった鹿児島人、出郷者の子どもだったわけです。その小説に鹿児島の影があってもおかしくありません。 さらに、山梨出身の父親も薩摩琵琶の弾奏家ということで、また別の鹿児島との結びつきがあります。
母方の故郷ということで、辻邦生の「鹿児島」は、その作品に色濃く跡を残す可能性もあったと思うのですが、作品中には意外とあっさりした形でしか残っていません。父方の実家、山梨の辻家の家系をめぐっては『銀杏散りやまず』(1989年、新潮社)という長編作品を残していますので、辻邦生の晩年がもう少し長ければ、大きな「母もの」を書く機会も訪れたのかもしれません。そうすると、書くことによって、新たな事実や未知の古文書など、いろんなものを招き寄せる可能性もあったのですが、その機会は訪れないままでした。今考えると、ものすごいチャンスを失ったのだ、という気がします。
清冽な女性と故郷喪失者を特徴とする、辻邦生の小説世界が、鹿児島を舞台に展開され、ヒロインが凜と立つわけですから、ちょっと興味深いではありませんか。――たぶん鹿児島ことばは、話さないでしょうが。
『時刻のなかの肖像』(1991年、新潮社)に収録された「幼年期の自画像」(原題「幼児期の自画像」、1978年の『作家の世界 辻邦生』)から引用します。
私たちがこの町に住んでいたのは、祖母が孟母三遷の教えにしたがって、子供たちを育てるには、こうした学者町の雰囲気に若(し)くはないと考えたからであったらしい。事実、その頃、この界隈の、明治以来の落着いた気分を愛する文学者も多く、漱石も一時ここにいたし、太田正雄(木下杢太郎)の表札は戦後も残っていた。和辻哲郎も戦中に住んでいたし、その他調べてみれば、かなりの名前を見いだせるはずである。私の記憶に間違いなければ、武田泰淳氏も誠之小学校を出ているし、中村光夫氏も西片町だったと思う。亡くなった柏原兵三氏も最後までこの町に住んでいた。
・・・・・・
ともあれ、こうして東京で苦闘した一家にとって、多少息がつけたのは、上の叔母が、鹿児島でも一、二と言われる財産家と結婚したことであった。この家が西片町に屋敷を持っていたことも、私の家が本郷に住む遠因であったであろう。
・・・・・・
もう一つの鮮明な記憶は、馬の上から真っ逆さまに落ちて、頭をごつんと打ったことだ。私は自分が泣き、「そんなことじゃ死にゃしない」と私をなぐさめた叔父の顔や声をよく憶えている。また地面の固かったことも。鹿児島の大地主であった親戚は、競馬用の馬を霧島山の麓の農場で飼育していた。兄と私が母に連れられて、その故郷である鹿児島に行ったのは昭和三年の夏である。兄は満五歳、私は満三歳であった。母は二十八歳になったばかりである。
この霧島農場で憶えているもう一つの情景は、裸馬が群をなして、山の斜面から馬柵のなかへ走りこんでくるところである。馬のたてがみが風になびいているのがはっきりいまも見える。都会しか知らない(もっとも三歳では都会どころか、何もかも知らないわけだが)私にとって、裸馬の群がなだれるように走り下りてくる姿は、驚きとおそれを感じさせたにちがいない。蹄の轟くようなどっどっどという音も耳にある。
父親の妹が東京の西片町に屋敷を持っている「鹿児島でも一、二と言われる財産家と結婚」していることも、鹿児島の結びつきの強さを感じさせます。
辻邦生『時刻のなかの肖像』(新潮社、1991年) の「霧島山麓の風の中で」(初出「日本経済新聞」1988年12月4日)に書かれているのは、その叔母さんのことでしょうか。
先日、霧島山の斜面に広がる広大な農場に、九十三歳になる叔母(父の妹)を訪ねた。はからずも八十四歳になる叔母(母の妹)もはるばる鹿屋から車で来てくれた。私が初めてこの農場にいったのは、何と六十年前、三歳の時であり、それ以後、二度鹿児島を訪ねたことがあるが、霧島山麓にはついに行けなかった。
むかしは競馬用の馬を飼育していた農場で、私は、山の斜面を、群れをなした褐色の裸馬が、たてがみをなびかせて駆け下りてく情景をはっきり憶えている。もう一つは、馬に乗せて貰ったのに、まっ逆様に落ちて、わあわあ泣いた記憶である。その時、私を慰めてくれた叔父の柔和な声もなまなましく残っている。
こんど農場にいってみて、馬が駆け下りてきた斜面が、三歳の記憶の映像そのままの角度だったので、それにも感動した。九十三歳の叔母は、頭がしっかりしていて、今でも、私の書く本を読んでくれる。その叔母が「あなたがここで転がって遊んでいたのをよく憶えていますよ」と言った。農場の家は、私の生年と同じ一九二五年に建てられたから、幼児の私が遊んでいたのは、新築間もない家だったわけだ。
『銀杏散りやまず』(1989年)に、父・辻靖剛の妹、辻邦生の叔母の、結婚相手についての記述があります。
[父の下の妹]夏子が細っそりした、寂しげな美しさを持っているのに対して、[父の上の妹]万須子は豊かな、柔和な、無限のやさしさを持った人であった。鹿児島の素封家池田家に嫁した彼女は、[山梨を離れ]東京に移住して背水の陣を敷いていた[辻]一家にとって、いわば希望の星といった趣を持っていたにちがいない。それは単に経済的な問題だけではなく、故郷を捨てた一家にとって鹿児島という新しい魂の拠りどころが得られたことだった。
私も実は池田家と辻家の結びつきの副産物として生まれているのである。というのは、万須子の良人池田政徳と私の母はいとこ同士であり、母が東京の池田家に遊びにきているとき、父と知り合うようになったからだ。
現在も池田家は霧島山麓に広大な牧場を持ち、池田政徳の三男政春と四男の靖が酪農を経営している。戦前はずっと競馬用の馬を飼育していた。現在も桜島を遠望するこの牧場は草地や放牧場や畑や森が拡がっているが、かつては池田家の土地を一周するのに歩いて三日かかると噂されたほどであった。この池田家の家系のなかへ迷いこむと、戦後の農地解放などを含めた一大ドラマがあって、このささやかな物語はとても終りそうもないので、池田家の厖大な資産を引きついだ池田政徳とは、スペイン風邪のため全滅した家系のなかで、ただ一人残るという非運を経験した人物である、とだけ記しておこう。池田家は一夜にして当主一人の家になった。あとは家令やら何やら資産を管理する人々が本邸やあちこちの別邸に住んでいた。池田政徳は生活のためというより、社会勉強のつもりで、大学を卒業するとすぐ日本興業銀行へ勤務した。
豊かで柔和な辻万須子が当時ごく稀な女子行員として働いていたのはこの興業銀行であった。二人はそこで恋愛したのである。
他方、池田政徳は鹿児島の琵琶の名人児玉天南の弟子としても高名だった。その微妙な弾法と渋い幽玄の呟きに似た歌は、大正中期の薩摩琵琶の熱狂的なファンを魅了したと伝えられている。大正十年、読売新聞が行った全国愛好者の人気投票で、池田天舟こと池田政徳は百五十八万票のうち十万票を獲得して第三位になっている。現在の歌謡曲界の人気に勝るとも劣らぬ熱狂であったことが察せられる。
「池田政徳は鹿児島の琵琶の名人児玉天南の弟子としても高名だった」と書いてあったことに改めて気付いて、ちょっと驚きました。第138回で興国寺墓地のお墓参りをして、児玉利純〔天南、弘化3年(1846)~大正6年(1917)〕のお墓もお参りしたばかりでした。
同じく『時刻のなかの肖像』収録の、母キミ(1901~1986)を亡くした後に書かれた「“悲しめる母”の記憶」(初出「婦人之友」1987年2月号)に、母方の祖父のことが少し出てきます。
戦争が終って、東京に戻り、昔住んだ西方町に間借りした。母は、その頃から、日本人形を習いはじめ、もともと器用な人なので、みるみる上手になり、師匠の代りに人形を専門店に納めるようになった。何年か後には、独立し、人形店の人がきたり、材料店の人が人形のボディや小道具などを納めにきた。
母の父(医者、湯田吉太郎、鹿児島県大根占で死去)が煙草好きな人だと聞いていたが、急にその頃から煙草を吸うようになり、人形を一つ仕上げると、おいしそうに一服する姿に、私は、戦後の女性の変り方を感じた。その好きな煙草も、医者に言われて、最晩年はやめていた。
・・・・・・
母キミが生れたのは一九〇一年(明治三十四年)だから、西暦年号が母の年齢だった。それは日本が近代化していく歴史を、自分たちの事件として、体験した世代だった。鹿児島で送った娘時代の母は、まだ自分の着物を機で織り、自分で縫って着たという。
天保山でスミスの曲芸飛行を見たのは、小学校に入る頃だった。
大根占に住む知り合いに尋ねてみると、大根占の麓に「湯田どん」の家が何軒かあったそうなので、辻邦生の母親の実家は、その一軒だったのかもしれません。
ところで、アメリカの飛行家アート・スミス(Art Smith, 1890?~1926)が、鹿児島市の天保山で飛行大会を催し、宙返り・横転・逆落としなど曲芸飛行を披露したのは、大正6年(1917年)8月7日火曜日のことなので、「小学校に入る頃」というのは記憶違いかもしれません。
しかし、母親が1901年に生まれ、息子が1999年に亡くなる。見事に20世紀におさまっています。 そういう意味でも20世紀的なテキストです。
▲手塚治虫の『バンパイヤ』(講談社『手塚治虫全集』、2010年)
辻邦生の小説に出て来た鹿児島人は、憎めない人なのですが、どこか頼りないところがあります。
それでふと思い出したのが、手塚治虫が1966年から1969年にかけて描いた『バンパイヤ』の登場する、サツマ中学合気道部出身の西郷風介です。この西郷風介は情誼にあつい、いい奴なのですが、鹿児島から上京して、悪に染まる幼なじみの主人公・間久部緑郞(マクベスからとられたネーミングです)をいさめたあと、間久部にあっさり殺されてしまいます。
わが家は漫画を買ってもらえる家ではなく、漫画は床屋で読むものでしたが、この『バンパイヤ』は、1960年代の子供のころ、なぜか単行本で読んだ記憶があります。そのなかで、いい奴の、しかも鹿児島出身の奴が、幼なじみにあっさり理不尽に殺されてしまったことに、子どもながら深く胸を痛めました。
この西郷風介もまた外側から見た「鹿児島人」像の典型の一つかもしれません。そうなると、西郷と幼なじみということは間久部緑郞もまた、鹿児島人ということになるのでしょうが、これは特殊な存在で、典型とはいえそうにありません。
西郷風介は「むらさきけぶるゥ桜島ァ南斗の星をォあおぎみてェわがまなびやのォ」と校歌らしきものを歌っているのですが、これは、まったく架空の校歌なのでしょうか?
▲中村光夫・清岡卓行・橋本一明・中村稔 他 『死人覚え書 追憶の原口統三』(1976年、青土社版)
辻邦生の「ある生涯の七つの場所」連作に描きだされている20世紀は、20世紀の歴史に強く結びついた作品ではありますが、どこかおとぎ話のような印象があります。それは舞台が日本とアメリカ・ヨーロッパに限られているからかもしれません。アジアの色彩が欠けているのです。確かに満州に行った川上源太郎も登場するのですが、例えば「黒いろの場所」として満洲や植民地そのものを舞台にした作品も、この作品世界を強いものにするためには必要だったのではないかと思ったりします。
辻邦生と同世代で満洲育ちというと、時代の申し子的存在であったということで、戦後ながらくロングセラーを続けた『二十歳のエチュード』(1948年初版)の原口統三(1927~1946)が思い浮かびます。原口統三は一高に入学するまで満洲で育っていますが、自殺前に残した「死人覚え書」に次のように書いています。
・原籍 鹿児島県鹿児島市上竜尾町五番地
・戸主 原口統太郎三男
原口統三
(昭和二年一月十四日生)
・住所 東京都目黒区駒場一高寄宿中寮二十六番室
・昭和二十一年十月二十五日夜、神奈川県逗子海岸に於て投身、
・遺品はすべて、一高寄宿寮南寮二番室、(又は中寮二十六番室)に居住の都留晃君にお渡し乞ふ、
右 原口統三記す
昭和二十一年十月二十五日
本籍は鹿児島です。原口統三もまた、鹿児島から出郷し、大陸に渡った家族の子弟だったわけです。
▲原口統三の本籍地近辺。奥に見える階段は、浄光明寺や、西郷隆盛ら西南戦争戦没者が眠る南洲墓地、南洲神社に続いています。
幼い原口統三も、この階段を登り下りしたのでしょうか。
▲清岡卓行の〈原口統三〉小説のタイトルが『海の瞳』(文藝春秋、1971年)ということであれば、これもまた夏の終わりにふさわしい本なのかもしれません。