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my favorite things 121 - 130

 my favorite things 121(2013年10月8日)から130(2014年1月5日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 121. 1929年のアーサー・ウェイリー訳『虫愛づる姫君』(2013年10月8日)
 122. 1912年ごろのスレイド美術学校のピクニック集合写真(2013年10月17日)
 123. 1924年の箱入りの志賀直哉『眞鶴』と木村荘八『猫』(2013年11月9日)
 124. 1974年の講談社文庫版『復興期の精神』(2013年11月17日)
 125. 1924年の第七高等学校造士館旅行部『南溟』創刊号(2013年11月26日)
 126. 1926年の南九州山岳會編『楠郷山誌』(2013年11月27日)
 127. 1934年の『藝術家たちによる説教集』(2013年12月1日)
 128. 2010年の『クラシック・アルバム・カヴァー』(2013年12月11日)
 129. 2014年1月1日の日の出(2014年1月1日)
 130. 1978年の雅陶堂ギャラリー「JOSEPH CORNELL展」カタログ(2014年1月5日)
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130. 1978年の雅陶堂ギャラリー「JOSEPH CORNELL展」カタログ(2014年1月5日)

1978Cornell_雅陶堂_cover

 

世の中には「青い鳥」のように,「青い本」が,確かに存在します。
これは,まぎれもなく,その「青い本」の1冊です。

雅陶堂ギャラリー(現在の横田茂ギャラリー)で,1978年3月22日から4月8日にかけて開かれたジョセフ・コーネル(JOSEPH CORNELL,1903~1972)の展覧会カタログです。奥付に,
「カタログ製作については貴重な時間をさいて多くの助言や資料を提供して下さいました瀧口修造氏,また米国にあって資料蒐集等に尽力下さいましたMiss Elizabeth Richebourgに深く感謝します。」
とあって,コーネルと同い年の瀧口修造(1903~1979)の手がかかっているカタログです。コーネルはアメリカの作家ですが,フランス的な書体Garamondを選択しているところも,粋です。

瀧口修造のテキストについては,正直言って,それをすべて受け入れる感覚がわが身に備わっていないのですが,たぶん,テキストよりもその存在の方がはるかに面白いというタイプの人ではなかったと想像しています。その眼差し,その手の仕草,その声の肌理を知らないと,分からない存在。そんな気がします。

雅陶堂ギャラリーのコーネル展のカタログは,他に1982年と1987年のものが手もとにあります。小さな展覧会のカタログとしては,どれもとても魅力的なのですが,経年変化を考えると,紙にもっと奮発してもらいたかったです。

 

1978Cornell_雅陶堂_title

▲1978年の雅陶堂ギャラリー「JOSEPH CORNELL展」カタログのタイトルページ。
瀧口修造とロバート・マザウェルのテキスト(星野実枝子訳),瀧口修造訳によるコーネルのテキスト。

 

1982Cornell_雅陶堂_cover

▲1982年の雅陶堂ギャラリー「Box Construction & Collage JOSEPH CORNELL」展(1982年5月24日~6月5日)カタログ。

 

1982Cornell_雅陶堂_title

▲1982年の雅陶堂ギャラリー「Box Construction & Collage JOSEPH CORNELL」展カタログのタイトルページ。
鍵谷幸信訳のフランク・オハラの詩と,岡田隆彦訳によるコーネルのテキスト。


1987Cornell_雅陶堂_cover

▲1987年の雅陶堂ギャラリー「JOSEPH CORNELL The Crystal Cage [portrait of Berenice] 」展(1987年6月22日~7月18日)カタログ。
岡田隆彦とSandra Leonard Starrのテキスト(松岡和子とスーザン・パルバース訳)。

 

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129. 2014年1月1日の日の出(2014年1月1日)

2014年1月1日桜島の日の出01

 

多賀山で日の出を待ちました。
2014年1月1日早朝の桜島はかすんでいて,新年の日の出も雲間からのぞくかたちでした。

 

2014年1月1日桜島の日の出02

2014年1月1日桜島の日の出03


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128. 2010年の『クラシック・アルバム・カヴァー』(2013年12月11日)

2010Classic Album Cover_Royal Mail

 

イギリスからの郵便物に,Royal Mailが2010年1月に発行したClassic Album Coverの切手が10枚すべて貼られていました。
左上から,
 ・ザ・クラッシュ(The Clash)『London Calling』(1979年)
 ・プライマル・スクリーム(Primal Scream)『Screamadelica』(1991年)
 ・デヴィッド・ボウイ(David Bowie)『The Rise And Fall Of Ziggy Stardust And The Spiders From Mars』(1972年)
 ・ピンク・フロイド(Pink Floyd)『The Division Bell』(1994年)
 ・マイク・オールドフィールド(Mike Oldfield)『Tubular Bells』(1973年)
次の段も左から
 ・ブラー(Blur)『Parklife』(1994年)
 ・コールドプレイ(Coldplay)『A Rush Of Blood To The Head』(2002年)
 ・ザ・ローリング・ストーンズ(The Rolling Stones)『Let It Bleed』(1969年)
 ・レッド・ツェッペリン(Led Zeppelin)『IV』(1971年)
 ・ニュー・オーダー(New Order)『Power, Corruption And Lies』(1983年)

この10枚を選出した選択が妥当なものか疑問ですが,お祝い事のようなものでしょうから,マイク・オールドフィールドの『チューブラーベルズ』のころから同時代の音楽としてブリティッシュものを聴き続けてきた者としては,思いがけず嬉しい便りで,気持ちが弾みました。
消印が押され,配達された郵便物というところも,いいです。消印が押された切手は,はざまを行き交ったものです。それが見知らぬ土地を通り過ぎてきたものであれば,より想像をかきたてられます。

そうした間を行き交ったものが,本の形に結びつけられたものとして思い浮かぶ1冊が,平出隆『葉書でドナルド・エヴァンスに』です。

 

2001平出隆_葉書でドナルド・エヴァンスに

▲平出隆『葉書でドナルド・エヴァンスに』(2001年,作品社)
 2001年4月25日 初版第1刷印刷
 2001年4年29日 初版第1刷発行
架空の土地の切手を描き続けた画家ドナルド・エヴァンス(Donald Evans,1945~1977)へ,1985年から1988年の4年間に平出隆が葉書を書き続けるというかたちで生まれた本です。装丁は横田茂です。
3部構成になっています。
 「1985年11月25日アイオワシティ」から「1986年1月21日ノースウェスト二七便にて」
 「1987年1月31日東京」から「1988年8月16日東京」
 「1988年9月28日アムステルダム」から「1988年10年19日オルテンバーグ号にて」
最後に2001年3月の「ノート」が添えられています。
登場するベルタという名の猫が愛おしいです。

 

2003POSTCARDS TO DONALD EVANS

▲TAKASHI HIRAIDE,translated by TOMOYUKI IINO『POSTCARDS TO DONALD EVANS』(2003,TIDOR DE NAGY EDITIONS)
2003年の『葉書でドナルド・エヴァンスに』英語版。翻訳者の飯野友幸は,ジョン・アシュベリーの詩を日本語に訳し,平出隆のテキストを英語に訳しています。

 

2013葉書でドナルド・エヴァンスに

▲平出隆『葉書でドナルド・エヴァンスに I』(2013年,Tokyo Publishing Press)
 2013年4月19日初版第1刷
 2013年9月22日初版第2刷
鹿児島で暮らしていると,たいがい出遅れるので,第1刷は買い損ねました。
横田茂が主宰するTokyo Publishing Pressの [叢書crystal cage] の1冊として再刊されました。叢書の「crystal cage」という名前は,ジョセフ・コーネル(Joseph Cornell,1903~1972)の箱作品のタイトルからとられています。今度の版は,3分冊で刊行される予定で,この「I」には「1985年11月25日アイオワシティ」から「1986年1月21日ノースウェスト二七便にて」までの葉書が収められています。
これまでの版でも,葉書に書かれたテキストという性格を尊重して,1頁に1枚の葉書というかたちで構成されていましたが,この [叢書crystal cage] 版では,葉書の裏・表という性格に寄り添う形で,図版や写真が新たに付け加えられています。本として綴じずに葉書として1枚1枚別々の版を期待して,紛れ込んだり見失ったりすることまで想像していたのですが,今回は綴じられた本でした。
とても美しい1冊なのですが,将来,例えば50年後,100年後,ふさわしい古びかたをして未来に届くことができる本なのか,想像できない造りで,不安をかきたてる危うさも感じます。

 

2012伊藤ゴロー_GLASHAUS

▲伊藤ゴロー『GLASHAUS』(2012年,spiral records)
ギタリスト伊藤ゴローのソロアルバム『GLASHAUS』の装丁は平出隆です。収録曲に「A Stamp」という曲もあって,ドナルド・エヴァンスの世界と通じ合っています。

『葉書でドナルド・エヴァンスに』を読み,『GLASHAUS』を聴く。
逃げ出したくなるくらい美しい世界です。その世界にとどまると,そのまま,はざまの世界に消え入ってしまい,遺失物となって戻れなくなってしまいそうです。

 

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127. 1934年の『藝術家たちによる説教集』(2013年12月1日)

1934Sermons by Artists_表紙

 

1934年にイギリスのゴールデン・コッカレル・プレス(GOLDEN COCKEREL PRESS)から出版された『藝術家たちによる説教集(SERMONS BY ARTISTS)』です。当時の10人の「藝術家」が「説教」をしています。

ゴールデン・コッカレル・プレス(GOLDEN COCKEREL PRESS,1920~1961)は,20世紀,特に両大戦間の英国で,プライヴェート・プレスの代表格として名前を挙げられる印刷所・版元で,特に木版挿画を使った本で知られています。危機を知らせる金鶏(GOLDEN COCKEREL)ということで名づけられたのでしょうか。版画家のロバート・ギビングス(Robert Gibbings,1889~1958)が主宰していた1924~1933年の時期が最も有名ですが,これはロバート・ギビングスが経営から手を引いて,Christopher Sanford,Francis J. Newbery,Owen Rutterの3人が引き継いでから出された本です。もっとも,筆者の1人としてロバート・ギビングスの名前も含まれています。ギビングスが経営していた時期に,企画が進行していた本なのかもしれません。

この本を手にしたのは,画家のスタンレー・スペンサー(Stanley Spencer,1891~1959)が生前に寄稿した本を一冊欲しかったからです。スタンレー・スペンサーは生涯一画家で通して,雑誌などに寄稿するでもなく,教師をするでもなく,公の場に文章をほとんど発表していません。この『藝術家たちによる説教集』への寄稿は,その生前に発表された数少ない文章のうちの一つです。もっとも,スタンレー・スペンサーは話すことや書くことが嫌いだったわけでなく,死後には膨大な量の手記が残されたのですが,その「意識の流れ」の錯綜するテキスト群は,まだその全貌を明らかにしていません。その絵画作品と組み合わせれば,壮大かつ卑近なパノラマが浮かび上がる,未完のテキスト群がテイト・ギャラリーの書庫に眠っているわけです。

 

1934Sermons by Artists_背タイトル

▲背には「SERMONS BY ARTISTS」の文字だけです。

 

1934Sermons by Artists_天金

▲新しい本の天金ほど趣味の悪いものはありませんが,年経ると天金にも味が出てきます。

 

1934Sermons by Artists_タイトルページ

▲『藝術家たちによる説教集』のタイトルページ
口絵は,Elizabeth Corsellisによるもの。本文は男ばかりだったので,口絵は女性に任せたのでしょうか。

SERMONは「聖職者の説教」という意味なので,宗教色が濃いことばです。この本では10人の藝術家が聖書のことばを冒頭に引用して,そこから藝術を語る「説教」を行っています。おもしろい顔ぶれですが,10人とも男性というのは,何か均衡を欠く気がします。次のような面々が,自分の気になる聖書のことばから,自らの藝術を語っています。それぞれのSERMONにはタイトルはありません。

ポール・ナッシュ(Paul Nash, 1889~1946)
イギリスの画家。第1次世界大戦の最前線での心象を表現した風景画で知られる画家です。シュルレアリスム,ロンドングループにかかわります。

デヴィッド・ロウ(David Low,1891~1963)
ニュージランド出身。イギリスの新聞雑誌等で活動した一コマ漫画家。ヒトラーの戯画で知られ,ゲッペルスは,ロウの描く政治漫画が独英関係を険悪にしたと語ったとされます。

ロバート・ギビングス(Robert Gibbings,1889~1958)
イギリスの木版画家。『SERMONS BY ARTISTS』出版の前年1933年まで,版元であるプライヴェート・プレス,ゴールデン・コッカレル・プレス(GOLDEN COCKEREL PRESS)の経営者でもありました。

エリック・ケニントン(Eric Kennington,1888~1960)
イギリスの画家・彫刻家。2つの大戦の戦争画で知られています。

レオン・アンダーウッド(Leon Underwood,1890~1975)
イギリスの彫刻家・画家。彫刻家ヘンリー・ムーア(Henry Moore,1898~1986)の先生です。

スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer,1891~1959)
イギリスの画家。宗教性を帯びた具象画を描いた画家です。日常に現れる聖性,日常生活が神聖なドラマに変容するさまを見続けた画家です。

エドモンド・サリヴァン(Edmund Sullivan,1869~1933)
イギリスのイラストレーター。12回(2012年10月23日)で紹介したカーライル(Thomas Carlyle)の『衣装哲学(Sartor Resartus)』の挿絵を描いていた人です。たぶん,このテキストが遺稿になります。

ロジャー・フライ(Roger Fry,1866~1934)
イギリスの画家・批評家。ブルームズベリー・グループの美術批評の顔,20世紀の美術批評で欠かすことのできない人です。これも最晩年のテキストになります。

第七高等學校『學友會雑誌』29号〔大正3年(1914)5月〕は「櫻島噴火紀年號」で,桜島を特集しているのですが,桜島関連以外の寄稿もあって,
 「美術上の新傾向」(評論)………中山雅吉訳
では,「クライヴ、ベル」や「ローガー、フライ」の名前も言及されています。少なくとも1914年に鹿児島でも「ローガー、フライ」を知る人はいたわけです。「美術上の新傾向」文末に1914年2月7日の日付があります。桜島が大隅半島と陸続きになったのは1914年1月29日のことですから,その直後に書かれていたわけです。

ウィル・ダイソン(William Dyson,1880~1938)
オーストラリア出身の政治漫画家。

パーシー・スミス(Percy Smith,1882~1948)
イギリスの書家・画家。カリグラフィーをエドワード・ジョンストン(Edward Johnston,1872~1944)に学んでいます。

 

1934Sermons by Artists_Leon Underwood

▲『藝術家たちによる説教集』に差し挟まれていたエフェメラ(ephemera)
この本には,LEON UNDERWOODの個展の案内が差し挟まれていました。しみだらけになっていますが,活字は『藝術家たちによる説教集』の本文と同じものが使われています。活字はエリック・ギル(Eric Gill,1882~1940)がデザインしたパーペチュア(Perpetua type)です。モノタイプ社が1927年にギルに制作を依頼し,1930年に最終ヴァージョンが完成した,20世紀生まれの活字です。


1934Sermons by Artists_Stanley Spencer

▲スタンレー・スペンサーのページ冒頭

スタンレー・スペンサーは,7ページの短いSermonのなかで,自分が絵を描く動機となる「宗教的体験」を語っています。20世紀に宗教画は流行らないのかも知れませんが,スタンレー・スペンサーは,晴れ着の聖性ではなく,普段着の聖性を見出して,それを絵画として表現していった画家です。おおざっぱに言えば,世のあらゆるものは聖なるものであり,そうであるとすれば,静物であろうと人物であろうと,ゴミ箱であろうと雑草であろうと,描くすべてものが聖なる絵画になるといった考え方をした人です。スペンサーの言い方に倣えば,自分の暮らす田舎町クッカム(Coockham)のあれこれに「燃え尽きることのない柴(burning bushes)」を見ることができたのです。すべてのものに聖性を見出すという姿勢は,八百万の神のまします国の人々の心性とも近いものがあるのかもしれません。
作家のJ.G.バラードは,スタンレー・スペンサーがTVメディアの時代に生きていたら,引っ張りだこになっていたのではないかと書いていましたが,喧噪の60年代を前に1959年に亡くなり,そうしたこともなくクッカムの生まれ育った一軒家で絵画三昧の暮らしでした。スタンレー・スペンサーが夢想した「愛の国」は絵画作品のなかでしか実現せず,生活者としては,一人暮らしの老人として生涯を終えました。

スタンレー・スペンサーが『藝術家たちによる説教集』に寄稿したテキストとその訳文を掲載しておきます。

「SERMONS BY ARTISTS」p47 - 53
STANLEY SPENCER
  He that loveth not knoweth not God; for God is love.―― I John iv. 8.

THE WORD 'LOVE' IS USED TO DESCRIBE SO MANY STATES OR LEVELS OF HUMAN FEELING AND HAS BECOME SO ASSOCIATED WITH THESE STATES THAT TO describe God as Love seems almost an anachronism. The degree of divorce from God, for which so many of us are suffering, has conducted our capacity to love into a sort of secular cul-de-sac. The love of God includes all our instincts and desires. Secular love gets very little respect from those who should be its champions; they don't mind a little bit of it now and again on bank holidays or at cinemas, but seldom allow this feeling to actuate them in the more serious and productive activities of life. As a rule, it never even occurs to them that it could.

The divorce from God produces a general divorce between all the varied capacities and desires of our nature. The confusion that has resulted in attempts made to induce one capacity or instinct, or desire, to fuse and assist another has led the secular mind to the false conclusion that the cause of confusion and imperfections due to these 'fusing' attempts is that the proper state of our feelings is that of a classified state, where each feeling or series of feelings is in a separate water-tight compartment entirely disconnected and dissociated from any other series, and that it is therefore wrong that these varying feelings should fuse or that one should expect them to fuse. The mere idea of any interaction of apparently utterly unconnected states or species of feelings would fill the secular mind with a dread of impurity. Impurity will certainly ensue if the 'marriage' is brought about by this secular brand of love. As any secular attempt at fusion of these numerous species of human endeavour has led only to confusion and impurity; it has been found necessary, not merely to keep each classified species of feeling in a separate cell, and forbid all prison wall tapping of one series of species to another, but also to set as a guard over each cell a tyrant God-like 'Art for Art's sake', in order to keep the desire in its proper place and compartment.

Some of the greatest works of art were carried out at a time when the idea of art or artists was unknown. It is not necessary to know of the existence of such a thing as art in order to produce a great work of art. To the Scientist and Artist, a thing's identity must be preserved and established clear and obvious as a work of nature, such as a tree or a rabbit. The fear of any confusion, say, between Art and Science is too terrible to be contemplated. The intellect and imagination move continually towards the closer and more accurate identification of their objects. Love, even in its lowest or most secular form, does the same thing in another manner. If there is the desire to love anything, the first instinct will be for the lover to establish and be clear as to the exact nature and identity of the thing loved. There must be no vagueness. The Love of God is the true form of this natures. It seems to me that nothing can ever identify to the same perfect degree of exactitude. In the worship and love of God there is no fear of culs-de-sac, no fear of overstating or exaggerating one's feelings, and it is in the nature of this fact that the creative faculties are quickened. The identity of a thing in nature, such as a rabbit or a turkey, is that although it may have points of similarity there will never be any confusion or vagueness as to its identity. A creative work, the result of human expression, should have the same degree of certainty and identification as a thing in nature. The reason why the qualities that go to make a tree are inscrutable, and can only be seen or felt collectively in the one comprehension and appreciation of the fact of a tree, is because it contains particles of everything so perfectly proportioned as to make themselves unrecognizable as anything other than a tree. They become, as chemicals combine to form a new chemical, a new thing called a tree.

As almost all human feelings to the secular mind become meaningless emotions and as, being human, one is nevertheless committed up to a point to experience these emotions, a hatred and detestation of them (because they cannot be sincerely experienced) tends towards trying to crush and annihilate them. It is easy to see why one's feelings and emotions and desires, when divorced from God (and consequently secular in origin) assume the nature of a species of mental disease or a disgusting obsession of which we are ashamed and would be glad to be rid. The thoughts of love, desire, passion, feeling, are to the secular minds associated with an unbalanced state of mind, lacking in self-control. They cannot bear to experience these species of feelings, because they cannot be sincerely felt. And why can they not be sincerely felt? They are there, and must be felt and experienced, no matter how many efforts are made to crush and destroy them. How is it that when Roman Catholics, Mohammedans, or Buddhists, are indulging in whole orgies of experiences of this kind, rather than feel disgust, one is nearly blinded with the magnificence of the result? The secular mind is perfectly aware that the faintest flicker of insincerity or disbelief in any feeling he has will at once kill the vitality necessary to express it.

When I lived in Cookham I was disturbed by a feeling of everything being meaningless. But quite suddenly I became aware that everything was full of special meaning. And this made everything holy. The instinct of Moses to take his shoes off when he saw the burning bush was very similar to my feelings. I saw many burning bushes in Cookham. I observed this sacred quality in most unexpected quarters.

What I saw was to me miraculous;compared to what I had seen previously,it was full of unexpected and surprising meaning and fullness. Ever since these Cookham experiences every to-morrow has seemed as the world to come. What new and glorious experience was I to have to-day? All people vary as the day varies; there is the morning look and the sunset look. In the early morning, after the sun had risen,I noticed the street was full of crows and rooks strutting about and casting long shadows――no other signs of life. With this ever-increasing delight in the miraculousness of sacred life, I acquired great and greater ability to define God,or,as others might put it,identify art. But this power of artistic creativeness did not come through any special interest in art as it is usually understood,any more than a baby is interested in the English language when it has learnt how to ask for a lump of sugar. When I have reached a certain degree of awareness of the‘touch me not' quality of things,I am filled with a desire to establish this thing revealing quite clearly this quality.

Love is the essential power in the creation of art and love is not at a talent. Love reveals and more accurately describes the nature and meaning of things than any mere lecture on technique can do. And it establishes once and for all time the final and perfect identity of every created thing. Love appears the therefore to be the most necessary acquirement. I was starving and lonely when I could find no meaning in things,and that meaninglessness made me feel unable to express my feelings of love. Because I did not believe or know they were lovable,i.e., had some special significance for me; but I was not Pessimistic. After steeping myself in the Bible I began to realize certain things,which gave me a greater capacity to love,until at last I was able to see things equally inspiring to love, outside the Bible. This was the point when the holiness of things began to strike me,the first of the thousands of celebrations of matrimony that were to take place between me and everything else. At last I could see that. That which had some time previously seemed too far removed,now became gloriously possible. I became extremely busy, first at the front door and then at the side and back entrance of the Kingdom of Heaven, a place long familiar to me, but not in this new and significant way. I had no special feelings for art, but art seemed the only thing which revealed Heaven. But hitherto I had made no discoveries at all in what might be termed the realm of art. It was the consciousness of the fact, that the true substance and nature of things were perfect happiness and bliss which encouraged and bred in me a desire to establish and ratify the truth.

An artist is not used to having to put a name to his feelings, but for myself this truth seems inseparable from such experiences as love, desire, faith, passion, intimacy, God, spiritual consciousness, curiosity, adventure, ingenuity. An artist wishes to absorb everything into himself: to commit a kind of spiritual rape on everything because this converts all things into being or revealing themselves as lovable, worshipful things, snugly tucked up in the artist and his own special glory and delight. Distortion arises from the effort to see something in a way that will enable him to love it. It is unbearable for an artist to be continually seeing things in and through a film of apparent utter meaninglessness; he is engaged in a continual effort to remove this barrier.

All species of desires for the expression of love will, if rightly understood and believed in, lead to imaginative and intellectual development. I know of only three definite desires or feelings in myself: to become conscious of, and to feel myself established in, a particular spiritual atmosphere known and extant, but not fully realized; to love and be loved; and to be able to express my experience. Every thing or person other than myself is a future potential part of myself, or a revealer of and an agent in revealing unknown parts of myself: unknown husbands, wives, lovers, worshippers, never before seen and only known by a persistent desire and passionate longing, supported by a kind of consciousness of their existence. A celebration of marriage or spiritual union occurs between what in me has been revealed and what outside myself has revealed it.

The fear of the cul-de-sac, the doubt that may waylay one in the development of some idea, is what at length produces a state of limitation. Love can exist only when all doubt is removed and certainty of unlimitedness is clearly and consciously felt at the beginning. The clear realization of the certainty and unlimitedness of some idea that begins to develop, in destroying the limited sense, which has had the dulling effect of being in prison, produces in me a state of inward gratitude, and this is produced not so much for what one is going to receive, but in finding one's self completely facilitated in one's capacity to give. That seems to be the final reward of the search. Giving and receiving are the epitome of my desires, and, I should think, the two main faculties of our nature. As soon as we obtain real spiritual pleasure from anything, we know at once that we are capable of obtaining a greater and more perfect desire of this experience, which brings about a more perfect fusion of these giving and receiving capacities, until at last the giving and the receiving seem almost simultaneous: the sense of gratitude brings about so immediate a response. This response is the substance of which love, or the state of spiritual experience, is created.

 

おおざっぱな拙速ものですが,試訳もとりあえず掲載しておきます。

『藝術家による説教』(1934,ゴールデン・コッカレル・プレス)

スタンレー・スペンサー

愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり。
―― ヨハネの第一の手紙 第四章第八節

 「愛」という言葉は、人間の感情のさまざまな状態や局面を表すのに使われ、あまりにもこれら数々の状態と結びついているため、神を愛であると語るのは、もはや時代錯誤めいているかもしれません。神との離婚はどんどん進み、わたしたちの多くはこのことに苦しんでいるわけですが、わたしたちの愛する力を、いわば神と無縁の世界の袋小路に追い込んでしまいました。神の愛はわたしたちすべての本能と欲望をも含みます。今の俗世の愛は、その獲得者であるべきである人々から極めてわずかの敬意しか得ていません。時折、祝日や映画館で感じるぶんにはかまわないようですが、日々の生活のより重大な、そして生産的な営みで愛の感情に突き動かされることを認められていません。概して、自ら愛することができるということさえ心に浮かばなくなっているのです。

 神からの離婚は、人間性のありとあらゆる受け入れる能力と求める欲望との間に、別離を作り出します。ばらばらの能力、本能、欲望をひとつに融合し互いに支えあうものにしようとした試みが,結果的に導いた混乱は、世俗的な精神を誤った結論に導きました。そもそも,ひとつにまとめようとするのが混乱や不完全の原因で、自分たちの感情の本来のありようはばらばらで、それぞれの感情あるいは感情のつながりは,いわば防水の部屋みたいに別の感情とかかわりなく分かれ切り離されているのが当たり前であって、ばらばらの感情をひとつにすべきだの、そうするのを望むべきだというが間違いだ、というわけです。見たところではまったくつながっていない感情の状態や種類にも相互作用が働いているという思いつきですら,世俗的な精神をおぞましさで満たすことになるのです。「結婚」がこの世俗的な愛の名によって引き起こされるなら、間違いなく不純が後に続くでしょう。無数の種類にわたる人間の努力を結びつけようといういかなる世俗的な試みも、混乱と不純に行き着くだけだとされたからです。分類された個々の感覚を独房に分離し、個々の感覚が結びつかないようにするだけでなく、欲望を適当な場所・区画に置くため、専制神のような「藝術のための藝術」という番人を隔離の仕切りに置くことすら必要とされてきました。

 藝術の最も素晴らしい仕事のいくつかは、藝術あるいは藝術家という考えそのものがなかった時代につくられました。素晴らしい藝術作品を作り出すために、概念としての藝術について知る必要はありません。科学者と藝術家にとって、一つのものがそのものであることは、一本の木や一羽のうさぎのように、一つの自然のはたらきとして保たれ,明確に意識され、確かなものでなければなりません。いってみれば,藝術と科学と間の混同といったものを恐れる気持ちが強すぎて熟考されないのです。知性と想像力は、その対象により近づき、いっそう正確に見極めようと絶えず向かってきます。愛も、その最も低いレベルあるいは最も世俗的な形においても、別のしかたで同じことをしています。もし何ものかを愛する欲望があるのなら、第一に働く本能は、愛するものの正しい本性と独自性について確かにし明らかにすることでしょう。曖昧さがあってはなりません。神の愛は、この性質のほんとうの形なのです。これと同じくらい正確な完ぺきさで同一化することができるものは他にはないように思われます。神の崇拝と愛に、袋小路の恐れはありません。自分の感情をおおげさに言ったり誇張したりしてもだいじょうぶです。そして,神の崇拝と愛で創造力が活気づくというのは、当たり前のことなのです。うさぎや七面鳥のような、自然の中のものの同一性について、それらがいくつか類似点を持っているとしても、それらが混乱したり曖昧になったりすることはまずないでしょう。創造的な仕事、つまり人間の表現の結果は、自然の中のものと同様のレベルで,その存在の確かさと明らかさがあるべきなのです。木を作りあげるものの特質が計り知れない理由、そして、木という事実の理解と認識をとおして集合的にしか見たり感じたりすることしかできない理由は、木であるとしか,それら自身を識別するほかないような、完璧に構成された分子を含んでいるからです。化学薬品が連結して新しい化学薬品を構成するように、それらの分子は木と呼ばれる新しいものになるのです。

 ほとんどすべての世俗的精神の人間感情が意味のない情動になるにつれて、そして、人として、無意味な情動に駆り立てられるところまで行き着いてしまうにつれ、それら情動への憎しみと嫌悪は(それらは心から経験されたものではありえないので)その感情を砕き消滅させようとしてしまいがちです。神から切れ離された感情・情動・欲望(したがって,もともと非宗教的です)が、精神病の様相,あるいは自ら恥じ入り禁じてしまいたくなるような汚らわしい強迫観念を呈する理由は明らかなのです。愛、欲望、情熱、感情について、世俗的精神は、自制に欠ける片寄った精神状態と結び付けてしまいます。彼らはこれらの感情の種類を経験することに耐えることができません。なぜなら世俗的精神というのは心から感じられることができないからです。なぜ彼らは心から感じられることができないのでしょうか? それらはそこにあり、そして感じられて、経験されなくてはなりません。それらを破壊しようとするどんな試みがなされようと、経験されなくてはならないのです。カトリック教徒、イスラム教徒あるいは仏教徒が,この種の経験に嫌悪を感じるよりむしろ、その経験の祝祭全体に没入して、結果の壮大さにほとんど目をくらまされているという見方はどうでしょう? 世俗的な精神は、感覚のなかに不誠実や疑いがかすかにきらめくことすら警戒して、それを表現するために必要な気力を,すぐに消しさってしまいます。

 わたしがクッカムに住んでいた時、すべてが無意味だという感覚に悩まされていました。けれどもまったく突然、すべてが特別な意味で満ちていることに気づくようになったのです。そして、このことがすべてのものを神聖にしました。「燃え尽きることのない柴」を見て、くつを脱いだときのモーゼの本能は、わたしの感情にとても似ていました。わたしはクッカムで多くの「燃え尽きることのない柴」を見たのです。わたしはもっともありふれた街のあちこちで,この神聖な姿を知ったのです。

 わたしが見たものは,わたしにとって奇跡でした。それまで見ていたものと比べて、思いがけない、そして驚くべき意味と豊かさで満ちていました。この体験をクッカムでしてからは、毎日が,来るべき神聖な世界のように思われました。今日、わたしは,どんな新たな輝かしい一日の体験を得たのでしょうか? すべての人々は、一日一日がそれぞれ違うように違います。朝の姿と日没の姿があるのです。早い朝、太陽が昇った後、わたしは、街の道路が気どってふうに歩いて長い影を投げるカラスとミヤマガラスでいっぱいだと気付きました。ほかには生命の兆候もありませんでした。奇蹟のような神聖な生活のなかで、この常に日々増え続ける喜びとともに、わたしは、神を定義づける、より大きく膨らんでいく能力を身につけました。あるいは,他の人たちなら、その能力を藝術と結びつけるかもしれません。けれども、この藝術的な創造の能力は、普通理解されているように藝術を通して学んだものではなかったのです。それは,赤ん坊が、砂糖のかたまりを求め方を学んだ時、ことばに興味を持つ程度のものにすぎませんでした。わたしは、いわば、ホウセンカがはじける瞬間のような認識の水準に達して、この聖なるものの特色を明らかに示している、世界の姿を確かなものにしたいという気持ちで満たされたのです。

 愛は藝術の創造で不可欠な力です。そして愛は才能のあるなしにかかわりありません。愛は、どんな技法講義よりも、自然とものの意味を明らかにして、より正確に記述します。そして、またたくまに、すべての創造されたものの最終形の、完ぺきな姿を立ち上げるのです。愛は、従って、最も必要とされる技能と思われます。すべてのものごとに意味を見出せなかった時、わたしは飢えて孤独でした。そして、その無意味さが、わたしに愛の感情を表現することを不可能だと感じさせていました。なぜなら、それらが愛することができるものか、すなわち、わたしにとって特別な重要性を持っているのか信じられなかったり分からなかったりしたのです。しかしわたしは悲観的ではありませんでした。聖書に没頭したことで、わたしは、ある特定のものが,愛そうとする強い力をわたしに与えることに気づくようになりました。ついには、聖書を離れても、同様に愛を鼓吹している物事があることに気づくようになりました。これが、物事の神聖さがわたしに衝撃を与えた瞬間だったのです。わたしと他のすべてものの間に起きるはずである、数え切れない結婚の祝祭のはじまりだったのです。ついに、わたしは見ることができたのです。遠い過去に取り除かれていたと思われていたものが、今、壮大に目の前にあるのです。わたしは,最初は玄関,次は家の側面と後方の入口の形をした天上の王国で途方もなく忙しくなりました。そこはわたし自身が見知ってはいた場所でしたが、この新しい、そして意味深い視線で見たことはありませんでした。わたしは藝術に特別な感情を持っていませんが、藝術が天国を現す唯一のものに思われました。けれども,それまで、わたしは藝術の領域と呼ばれるようなもののなかでは、まったく発見することができませんでした。わたしが自覚したことは、ものごとの実質と性質は完全な幸福と喜びだということで、そのことが,真実を不動のものにし、是認したいというわたしの気持ちを勇気づけ育んだということでした。

 藝術家は、自らの感情を名づけることに慣れていません。しかし、わたし自身としては、この真実は、愛、願望、信頼、激しい感情、親密さ、神、霊的な意識、好奇心、冒険、巧みさのような数々の経験から分かつことはできないように思われます。藝術家は自分の中にすべてを吸収することを望みます。すべてのものに対し一種の精神的な交接を犯すのです。なぜなら、これがすべてのものを、愛すべき尊敬すべき存在や現れに変えるからです。しかも,できあがるものは居心地よく藝術家自身の特別な栄光と喜びにくるまれています。形を変えることは、それを愛することができるような何かを見つけようとする努力から生まれます。藝術家にとって我慢できないのは、明らかにまったく無意味であるフィルムを通り過ぎるもののように、ものを見続けることです。藝術家は、この障壁を取り去ろうと、いつも努力しています。

 すべての愛を表現するための願望の種は、もし正確に理解され信じられるなら、想像力豊かで知的な成長を導くでしょう。わたしは、三つだけ、自分のなかにある明らかな望みあるいは気持ちについて知っています。一つはしっかり実感されたのではないにしても、明らかな特定の霊的な雰囲気の意識を持つようになり、そこに自分自身があるように感じること,一つは愛し愛されること,そしてもう一つは自分の経験を表現できること,この三つです。わたし以外のすべてのものや人は、可能性として私自身の未来の一部分なのです。あるいは、まだ知ることのできないわたしを明らかにするもの、または、それを手助けするものなのです。見知らぬ夫、妻、愛人たち、礼拝者。一度も会ったことがなく、ただ止むことのない望みと熱いあこがれによってのみ知られるもの、それらの存在の意識のようなもので支えられるものたちです。結婚あるいは霊的結合の祝祭は、わたしの内側と外側で明らかにされたこととの間で催されるのです。

 袋小路を恐れることや、ある考えを発展させるとき何か待ち伏せているのではという疑いは、結局は限りがあるという状態に行き着きます。愛は、そうしたすべての疑いが取り除かれ、そして限りないことの確かさが始めから明らかに意識して感じられる時にだけ、存在することができます。ある考えが確かで無限であるという明らかな認識が生まれ、その認識が広がりはじめ、今まで牢獄に閉じ込められたような沈滞した気分にさせてきた、限界にあるという感覚を打ち砕き、わたしの中に内面への感謝を生まれます。そして、これは、自分自身が受け取ろうとしているもののためではなく、与える力を完全に見いだそうとすることから生み出されたのでした。それは探し求めることで得られる最終の報いなのだと思います。与えること、そして,受け取ることは、わたしたちの欲望の縮図であり、わたしたちのもっとも大切な二つの能力なのです。わたしたちは、どんなものからでもほんとうの精神的な喜びを得るとすぐに、この経験より大きくし、そしてより完ぺきなものを得たいと思うようになります。そして、これらの与え受け取る役割のいっそう完ぺきな混じり合いをつくり出し、ついには与えること、と受け取ることがほとんど同時に思われるまでになります。感謝の感覚には、すぐさま見返りが生まれます。この見返りこそ、愛の、あるいは霊的な経験がつくられることの本質なのです。

 

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126. 1926年の南九州山岳會編『楠郷山誌』(2013年11月27日)

1926楠郷山誌_箱表紙

 

木へんに南と書く楠(クス)の木は,鹿児島という土地に古くから根づいた木です。実際,鹿児島は楠の木の,春に楠の若葉で染まる街です。その楠の名を冠した『楠郷山誌』は,七高を卒業した帝大生たちが中心になって作った鹿児島の山岳誌です。

大正13年(1924),七高で『南溟』創刊號を編集した赤塚正朝(東京帝大法学部へ進学)や太田喜久雄(京都帝大文学部へ進学)ら,七高を卒業した旅行部(山岳部)の面々は南九州山岳會を結成し,大正15年(1926)『楠郷山誌』を東京の白鳳社(東京市神田区通神保町六)から出版します。発行者は岩塚源也で,帝大生たちが執筆者の中心ですが,とても立派な造本で,その企画力・実行力はたいしたものだと思います。巻末に「鹿兒島朝日新聞」「鹿兒島新聞」「硫黄谷温泉 霧島館」「榮之尾温泉 榮之尾館」「明礬温泉 高千穂館」「霧島温泉 丸尾旅館」「林田自動車商會」「林自動車商會」「史蹟名勝天然記念物調査報告(白鳳社出版部)」の広告が掲載されています。

『楠郷山誌』自体,『南溟』創刊號と同じ頃に準備されていたようで,『楠郷山誌』序文に3年前から企画されていたとあり,南九州山岳會の會員赤塚正朝,太田喜久雄の2人が中心になって編集されたとあります。

執筆陣は,『南溟』創刊號の赤塚正朝,太田喜久雄,正宗嚴敬らに加えて,中野治房,市來政兼,田中阿歌麿,川添英治,池田了らが新たに執筆陣に加わっています。

中野治房(1883~1973)植物学者
七高旅行部は大正8年に創立され,そのときから大正10年(1921)年度まで部長。七高の植物の教授で理学博士。昭和9年(1934)に東京帝大の教授。

市來政兼 大正10年(1921)4月~大正13年(1924)3月まで七高理科甲類。東京帝大工学部。「東京帝国大学地震研究所彙報」に掲載した英文の「Volcano Kayagatake(茅ヶ岳火山)」が遺作。その「東京帝国大学地震研究所彙報」の執筆者の中に寺田寅彦の名前もあります。昭和4年(1929)に若くして亡くなっています。
 大正10年造士館一覧 理科1年甲一ノ組 第一鹿児島 市来政兼 鹿児島
 大正11年造士館一覧 理科2年甲一ノ組 第一鹿児島 市来政兼 鹿児島
 大正12年造士館一覧 理科3年甲一ノ組 第一鹿児島 市来政兼 鹿児島
 大正13年造士館一覧 大正13年卒業生 理科甲類 東工 市来政兼 鹿児島

田中阿歌麿(1869~1944) 子爵。地理学者。陸水学(湖沼学)専門。

川添英治 不明です。

池田了 大正12年(1923)4月~大正14年(1925)まで七高文科甲類。東京帝大法学部。
 大正12年造士館一覧 文科1年甲二ノ組 第二鹿児島 池田了 鹿児島
 大正13年造士館一覧 文科2年甲二ノ組 第二鹿児島 池田了 鹿児島
 大正14年造士館一覧 文科3年甲二ノ組 第二鹿児島 池田了 鹿児島
 大正15年造士館一覧 文科甲類 東法 池田了 鹿児島

 

1926楠郷山誌_天金

▲『楠郷山誌』本体は天金になっています。

 

1926楠郷山誌_霧島登山

▲『楠郷山誌』収録の霧島登山コース地図

 

1926楠郷山誌_南九州山岳會印

▲『楠郷山誌』見返しに押された南九州山岳會の印。

 

1926楠郷山誌_見返し

▲『楠郷山誌』の見返し。デザインは赤塚正朝。

 

1926楠郷山誌_扉絵

▲『楠郷山誌』の扉。デザインは赤塚正朝。奥へ誘う構図は才気を感じさせます。同時代のたくさんの本を見て,本の構成を考えたのだと思います。

 

1926楠郷山誌_表紙模様

▲『楠郷山誌』表紙の模様。デザインは赤塚正朝。

 

1926楠郷山誌_図版写真作者

▲図版・写真の作者。「表紙・扉紙・見返し……赤塚正朝」とあります。『楠郷山誌』の夏目漱石の造本などに通じるデザインは,赤塚正朝のテイストなのでしょう。杉本代吉が写真を提供している点も興味深いところです。

『楠郷山誌』に写真を提供している杉本代吉(鹿児島市山下町)は,桜島の大正大噴火があった大正3年(1914)に『桜島爆発記念写真帖』(1914年3月20日発行、杉本寫眞館)を出版しています(国会図書館のデジタルコレクションでも閲覧可能です)。その印刷は,なんと,小川一眞(東京市京橋区)です。

 

1926楠郷山誌_奥付

▲『楠郷山誌』の奥付
 大正15年10月10日印刷
 大正15年10月15日発行
 編纂者 南九州山岳會
 発行者 岩塚源也 東京市神田区通神保町六
 印刷者 溝口榮 東京市牛込区西五軒町二九
 発行所 白鳳社 東京市神田区通神保町六
 定価は3円50銭

 

     

『楠郷山誌』の目次を,順を追って見てみます。

」大正15年10月 南九州山岳會
 論語,ロダン,ラスキンに言及しています。

凡例」 大正15年10月 南九州山岳會

南九州の山岳に就いて」赤塚正朝 p1~30
・南九州の山岳分布
 南九州とラピリー・地質構造より見たる山岳分布
  第一群 (1)霧島火山 (2)櫻島火山 (3)開聞火山
 霧島火山帯に屬する新しき火山群
  第二群 (4)高隈山彙 (5)紫尾山彙
 花崗岩によつて貫かれたる中生層の山群
  第三群 (6)南薩諸山 (7)囎唹・姶良郡境の山
 灰砂層より挺出したる中生層の山群
  第四群 (8)南大隅山脈 (9)屋久島
 全花崗岩山群
  第五群 (10)薩日郡境山脈 (11)吉野臺 (12)薩隅國境山脈 (13)肥薩國境山脈
 輝石安山岩及其集塊岩よりなる解析された火山群
・高度から見た南九州の山岳
 絶對高度と相對高度・九州山岳の高度的概観・氣温と雨量との影響・霧島帯の影響・南九州山岳に對する特別な態度・山岳と丘陵
・山水餘話
 山名地名の一斑
 御嶽樣(otakesā´)
 山岳崇拜
 南九州の印象(櫻島側面觀・薩摩富士小論・霧島の印象・植物其他)

ラスキン「土地の眞實(The truth of earth)」(J. Ruskin: Modern Painters Part II Sec IVより)を引用しています。当時の旅行部(のちの山岳部)で活動する青年の美意識の典拠を感じさせます。周囲から「鹿兒島には先づ霧島か櫻島,ソイヤナカ,開聞位で他に登ロソナ山は無カでせう」と言われています。霧島・櫻島・開聞以外の山巡りに関心は薄かったようです。赤塚は「私が初めて鹿兒島の土地を踏んだのは今から十數年前だつた」と書いていますから,育ちは鹿児島でも,鹿児島の生まれではないようです。

紅葉に就いて」中野治房 p31~40
 紅葉の定義
 紅葉と楓葉
 紅葉の原因
 紅葉成生の條件
 紅葉植物の分布
 紅葉の生態的意義

霧島の植物」正宗嚴敬(1925年7月) P41~58
 まへがき
 烏帽子嶽
 大浪火山(山麓植物相・山頂部の植物・大浪火口壁植物相及霧島山彙火口壁の植物に就いて)
 甑岳,御池,白紫池
 霧島山彙の池沼について
 温泉地帯植物
 大幡山,大幡池,丸岡山
 大浪,韓國,赤崩,新燃,中之岳,高千穂
 赤崩(獅子戸嶽)
 新燃火山
 中之岳
 高千穂峯
 山麓帯
 總括
 附録(霧島に縁故ある名をもつて居る植物)

南九州の火山及火山地域」市來政兼 p59~90
・緒論
 はしがき
 序論(吾人の自然觀・此地方の研究史)
・概論
 水成岩(中生層・第三紀層・第四紀洪積層・第四紀沖積層)
 火成岩(花崗岩・栃斑岩・諸種の噴出岩類・灰砂層)
 櫻島及霧島地方第三紀以後の地殻變動
・各論
 霧島火山彙(概觀・高千穂峯・二つ石・御池及小池・御鉢火山・中岳・新燃鉢・韓國岳・大浪池・白鳥山及其附近・栗野岳)
 櫻島火山(概觀・北岳・中岳・南岳・櫻島の岩石・噴出口の位置に就いて・櫻島附近の島嶼及寄生火山)
 開聞火山(概觀・清見岳・矢嶽・池底岳・鰻岳・鍋島・池田湖・鰻池・山川灣・鏡池・開聞火山)

霧島山誌」赤塚正朝 p91~158
・個々の山峰
 概觀
 山峯(大浪山・韓國岳・獅子戸岳・新燃・中之岳・高千穂・御鉢・二ツ石・霧島神宮・天の逆鉾・霧島東神社・王子原・狹野神社・硫黄山・不動山・甑岳・白鳥山・蝦野岳・夷守岳・夷守神社・丸岡山・大幡山・矢岳・龍王岳・飯盛山・栗野岳・佐賀利山・烏帽子岳・高岡)
・湖沼瞥見
 大浪池・琵琶池・大幡池・不動池・白鳥池・六觀音池・甑岳池・湯之地・新燃池・御鉢池・御池・小池
・河川概記
 水系・谿谷美
・温泉のぞき
 各温泉概記
・霧島躑躅
 ミヤマキリシマ禮讃・甑岳と蝦野附近・大浪池及韓國附近・新燃と中之岳・其他・ミヤマキリシマに就いて
・登山案内(大正11年より大正14年6月まで前後5回3週間の山旅の見聞に基いて)
 はしがき・登山期・登山口・登山路(1韓國・高千穂縦走路,2新湯から夷守岳まで,3霧島温泉から高千穂を経て高原まで,4霧島神宮から高千穂まで,5霧島温泉から大浪池・韓國岳を經て栗野驛又は加久藤驛まで,7山之城川探勝並に湯之池訪問,8個々の山峯の登路)・結尾
・附記
 霧島・襲山・槵日二上峯

赤塚正朝が「雄渾」というテーマで選んだ霧島山中の雄勝は次の4つです。
 (一)蝦野より高原を抱いて立つ韓國の山容
 (二)甑岳火口壁より鎔岩原野を距てて見たる韓國の眺望
 (三)新燃三角點より笈掛を距てて見たる高千穂の遠望
 (四)中之岳よりの高千穂の全容

南九州の湖沼に就いて」田中阿歌麿 p159~178
 はしがき・開聞岳方面(池田湖と鰻池)・藺牟田火山方面(住吉池・藺牟田の池)・霧島火山群(大浪池・霧島御池)・甑島列島(上甑島の湖沼)

櫻島」太田喜久雄 p179~210
 櫻島論・概記(地勢・天産・櫻島の植物に就いて〔正宗附記〕・温泉・生成。島名・神社・傳説・詩歌・登路について)・附錄(櫻島登山リレー・櫻島噴火史・櫻島噴火習性)

山と宗教の一斑」川添英治 p211~222
・生活
 自覺・智識・自我・價値・義務・意志・實行・信仰・意志と健康・登山
・山と信仰
 諾冊二神及諸神に就いて・西哲二人の大悟。・修験道に就いての引用・山伏・山容に就いての傳説・富士山中心の宗派・結尾(大正15年6月23日)

大隅半島の山水」赤塚正朝 p223~253
・高隈山
 位置・山名・地形(附 Pot hole)・植物。植物(正宗附記)・登路
・南大隅山脈
 總説・地形・山岳總説(第一群・第二群・第三群)山岳各説(國見岳・母養子岳・黒園嶽・叶嶽・内之浦・甫與志岳・六郎館岳・荒西岳・花瀬・枯木岳・稻尾岳・辻岳・御嶽)植物(枯木岳の植物・内之浦附近の植物-正宗附記・火崎の鳳尾松と蒲葵)
・佐多岬紀行(大正15年4月友人太田君と行ったときの紀行)
〔附記〕佐多岬の植物(正宗嚴敬)

屋久島と宮之浦嶽」正宗嚴敬 p255~263(大正11年7月の旅)
 登山路・まへがき・植物に就いて・屋久島の植物の地理的分布について・動物に就いて(哺乳類・鳥類・爬蟲類・兩善類・魚類・両棲類)・總括・附錄(羅馬國人シロテの事蹟)

南薩の山々」池田了 p265~283
 總説・金峯山(登山路・山の神・吹上濱・伊作温泉)・長屋山(登山路・山の傳説・竹田神社・皇居遺趾・別府城遺趾)・烏帽子岳(登山路・山の神・御所原)・熊ケ岳(登山路・山の傳説)・牧神岳(登山路・山の神)・尾巡山・大野岳(登山路・山の神)・開聞岳(登山路・山の神・山の傳説・枚聞神社・池田湖・鰻池・川尻温泉・竹山・指宿一帯の温泉地)・開聞岳の植物(正宗嚴敬)・野間岳(登山路・山の神・山の傳説・野間池・坊之津)

紫尾と矢筈〔附國分及び川内付近〕」太田喜久雄 p285~299
・まへがき
・紫尾山
 位置・地質・山名の由來・上宮と下宮・登路・紫尾山の植物について(正宗嚴敬)・紫尾山祁答院神興寺趾・紫尾温泉・湯川内温泉
・矢筈岳
 位置・山容・山名の由来・傳説・山上祠・登路・附近の名勝舊蹟
・國分附近の名勝史蹟
 まへがき・隼人塚・官幣大社鹿兒島神社・大隅國分寺跡・日當山温泉・和氣公之遺跡・犬飼瀧・安樂及其附近の温泉・高屋山陵
・川内町を中心として
 まへがき・國幣中社新田神社・可愛山陵・泰平寺趾・薩摩國分寺跡

吹上之濱の植物に就いて」正宗嚴敬 p301~304
 まへがき・位置・構造・本論(砂丘植物・海濱植物群落・砂地植物群落・松林地植物群落)

吉野・外五篇」赤塚正朝 p305~336
一 吉野臺
 總説・地形・牟禮ケ岡・赤崩・花尾山・附記(つくしとねりこ・きいれつちとりもち)
二 眞黒岳と蒲生の大樟
 眞黒岳・蒲生の大樟・蒲生村のこと・加治木の名の起りに就いて
三 藺牟田池と片城山
 總説・地形・山岳(片城山・山王岳・龍石峰・船見岳・愛宕山・飯盛山)・藺牟田池(總説・傳説・池の水・浮島)・砂石温泉
四 阿久根の鶴
 まへがき・我國に渡來する鶴の種類・我國の鶴の渡來地・阿久根の渡來地と鶴の種類・各種の鶴の特徴。附記
五 砂丘上の天幕生活
 紀行・感想・南薩海岸線の美・南薩巡りの記錄
六 横川の奥・薩日郡境・囎唹の山々
 はしがき・間根ケ平・横川の奥(國見嶽・安良嶽・烏帽子岳・長尾山・貝吹岡・中之岳・茶屋岡)・薩日郡境(八重山・重平山・上宮嶽・冠岳・辯財天山・平原野)・囎唹(御在所岳・宮田山・瓶臺山・白鹿岳・荒磯岳)

東岸の史蹟を訪ねて」太田喜久雄 p337~350
 鹿兒島・古江・鹿屋・笠野原・吾平山陵・高山・東串良唐仁附近の古墳。大崎の古墳・志布志・枇榔島(蒲葵島の植物・蒲葵神社・傳説)・都井岬の蘇鐵・福島・飫肥・油津・鵜戸神社・内海・青島(植物)・宮崎神宮・高鍋・新しい村・西都原の古墳

市房山より五ヶ庄へ 〔附〕球磨川下り」池田了 p351~357
 市房山・五ケ庄・球磨川下り・市房山の植物(正宗嚴敬)

 

     

大正13年(1924)の『南溟』と大正15年(1926)の『楠郷山誌』の中心的存在だった赤塚正朝と太田喜久雄は,その後,満鉄の調査部に勤めることになります。
20歳代の赤塚正朝の名前は,大連で出版されていた日本語総合誌『新天地』の論客として登場します。国会図書館で検索すると,赤塚正朝の名は,次のような論文を次々と発表する論客として現れます。
「在滿鮮人壓迫と史的概觀」(『新天地』1928年6月号,新天地社,大連)
「楊門歿落と其の影響」(『新天地』1929年2月号,新天地社,大連)
「間島に於ける日本警察撤廢要求問題」(『新天地』1929年7月号,新天地社,大連)
「論説 在滿鮮人論策」(『新天地』1930年1月号,新天地社,大連)
「論説 在滿鮮人論策」(『新天地』1930年2月号,新天地社,大連)
「論説 在滿鮮人論策」(『新天地』1930年3月号,新天地社,大連)
「滿蒙國際關係の推移」(『新天地』1930年6月号,新天地社,大連)
「滿蒙國際關係の推移」(『滿蒙事情十六講』,1930年6月発行,新天地社,大連)
「主張及批判 支那新鑛業法所感」(『新天地』1930年9月号,新天地社,大連)
「支那新鑛業法批判」(『新天地』1930年10月号,新天地社,大連)
「日支鐵道交渉問題に就て / 黑白學會」(『新天地』1931年6月号,新天地社,大連)
「日滿通商條約論」(『新天地』1933年1月号,新天地社,大連)

ほんの数年前,1921~1924年の七高生時代に,鹿児島の山歩きを謳歌していたころの文章とはまた違った熱意で,満州事変前後の国際情勢にリンクしたタイトルが並んでいて,正直,異様です。

NHK取材班『幻の外務省報告書~中国人強制連行の記録』(1994年5月25日第1刷発行,日本放送協会)に,赤塚正朝と太田喜久雄の2人の名前が,第2次世界大戦後すぐ外務省が中国人強制連行の記録をまとめた報告書――永年存在しないと云われてきた外務省報告書の作成者として,登場します。2人の名前が登場する部分を引用します。

 東亜研究所の取りまとめ役であった大友さん〔大友福夫,1913年(大正2)生まれ。専修大学教授〕さえ,外務省報告書そのものの作成には参加していない。外務省報告書の作成の最終段階について知るためには,東亜研究所以外の調査員に当たる必要があった。
 調査員16人のうち,私が調べた限りでは2人が満鉄調査部の出身であった。関係者に取材を続けるうちに,そのうちの1人,太田喜久雄さんに会うことができた。太田さんは,1993年当時89歳,戦後は東京で会社を経営してこられた。太田さんは調査団の団長を務めた赤塚正朝さんをよく知っていた。赤塚さんは満鉄調査部の2年先輩で,満鉄を退職したあと,興亜院[後の大東亜省]に勤務したという。太田さんも満鉄から興亜院に出向していた。2人はともに,石炭や鉄鉱石を中心に物資動員計画を担当していた。戦後,大東亜省が廃止され,満鉄もなくなって,2人とも失業していたところ,外務省から中国人の連行問題の調査を命じられた。太田さんは,三井三池炭鉱をはじめ九州と山口県の炭鉱を中心に現地調査に入った。現地の関係者は,びくびくしており,昼間から酒を出すなど,とにかく最大級の待遇をして,戦犯にならないようにごまかそうとしていたのが印象的だったという。
 しかし,何といっても半世紀も前のことで,外務省報告書の取りまとめについては,太田さんの記憶もあいまいになっていた。
 一方,赤塚さんは戦後,事業を手がけたが,10年ぐらいしてそれに失敗し,親友だった太田さんに「探してくれるな」という手紙を残したまま,行方がわからなくなってしまったという。赤塚さんを見つけるのはかなりむずかしそうだった。

絵心もあり、筆も立った赤塚正朝は,「画文一致」で鹿児島を記録する人にもなりえた存在でしたが,時代がそれを許しませんでした。
地方都市が育てたい人材のひとつの典型に,木村荘八のような,絵と文で,地域の隅々まで記録する存在が必要ではないかと思うことがあります。「木村荘八」的存在がいる都市や地域はそれだけで天恵という気がするのです。
赤塚正朝はそうなりえた存在でしたが,優秀だった赤塚正朝は,優秀な人材を求めていた満洲に新天地を求め,別の場所に消えていってしまいました。

 

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125. 1924年の第七高等学校造士館旅行部『南溟』創刊号(2013年11月26日)

1924南溟_表紙

 

鹿児島県立図書館が所蔵する第七高等學校造士館旅行部『南溟』創刊號の表紙です。表紙には大正13年(1924)10月発行とありますが,奥付では9月発行になっています。鹿児島県立図書館が所蔵する珍しい本の1冊です。他では見た事がありません。「昭和57年4月22日 安藤維夫氏寄贈」とあります。こういう珍しいものを公の場所に残して下さって感謝です。館外貸出不可ですが,コピーでなく実物を閲覧できます。

表紙の絵は,だれが描いたか記載はありません。たぶん,この七高旅行部(後の山岳部)部誌編集の中心であった赤塚正朝という生徒さんが描いたものではないかと思われます。

この号に続いて第2号が出された様子はありませんが,大正15年(1926)に『楠郷山誌』という立派な本が,『南溟』創刊號と重なる執筆陣で出版されています。

1924南溟_目次

▲『南溟』創刊號の目次
七高に四元義隆や花田清輝らが在籍していた時期より少し前の世代の出した校内誌です。
大正14年(1925)の『第七高等學校造士館一覧』を見ると,
 文科3年甲 一ノ組 平戸 大田喜久雄 静岡
 文科1年甲 二ノ組 第二鹿児島 四元義隆 鹿児島
 文科1年甲 二ノ組 都城 池袋釟八郞 宮崎
 文科1年甲 二ノ組 宇佐 辛島紅葉 大分
とあるので,『南溟』執筆者でいちばん学年が若い太田喜久雄が3年生の時,四元義隆・池袋釟八郞・辛島紅葉らが1年生だったようです。

『南溟』執筆者の七高在籍時と進学先を,各年度の『第七高等學校造士館一覧』で調べてみました。

山田準(1867~1952,山田済斎) 明治34年(1901)七高創設時からの漢文の教授。舎監も務めていました。鹿児島の石碑には山田準が碑文を書いたものが残っています。昭和2年(1927)より二松学舎の学長。

赤塚正朝 大正10年(1921)4月~大正13年(1924)3月まで七高文科甲類。東京帝大法学部。その後,満鉄調査部。
 大正10年造士館一覧 文科1年甲一ノ組 明治 赤塚正朝 鹿児島
 大正11年造士館一覧 文科2年甲一ノ組 明治 赤塚正朝 鹿児島
 大正12年造士館一覧 文科3年甲一ノ組 明治 赤塚正朝 鹿児島
 大正13年造士館一覧 大正13年卒業生 文科甲類 東法 赤塚正朝 鹿児島

太田喜久雄 大正12年(1923)4月~大正15年(1926)3月まで七高文科甲類。京都帝大文学部。その後,満鉄調査部。赤塚正朝の2年後輩になります。偶然ですが,太田喜久雄という名前は,詩人・木下杢太郎の本名・太田正雄と,木下杢太郎の友人で美術史家・児島喜久雄の2人の姓と名の組み合わせになっていて,とても大正的な名前に思えます。
 大正12年造士館一覧 文科1年甲一ノ組 松山 大田喜久雄 静岡
 大正13年造士館一覧 文科2年甲一ノ組 松山 大田喜久雄 静岡
 大正14年造士館一覧 文科3年甲一ノ組 平戸 大田喜久雄 静岡
 大正15年造士館一覧 大正15年卒業生 文科甲類 京文 太田喜久雄 静岡

志水秀男 大正10年(1921)4月~大正13年(1924)3月まで七高文科甲類。京都帝大法学部。
 大正10年造士館一覧 文科1年甲一ノ組 龍野 志水秀男 兵庫
 大正11年造士館一覧 文科2年甲一ノ組 龍野 志水秀男 兵庫
 大正12年造士館一覧 文科3年甲一ノ組 龍野 志水秀男 兵庫
 大正13年造士館一覧 大正13年卒業生 文科甲類 京法 志水秀男 兵庫

島崎庸一 大正9年(1920)4月~大正12年(1923)3月まで七高文科乙類。東京帝大法学部。
 大正9年造士館一覧 文科3年乙 第一鹿児島 島崎庸一 大分
 大正10年造士館一覧 文科3年乙 第一鹿児島 島崎庸一 大分
 大正11年造士館一覧 文科3年乙 第一鹿児島 島崎庸一 大分
 大正12年造士館一覧 大正12年卒業 文科乙類 東法 島崎庸一 大分

正宗嚴敬 大正11年(1922)4月~大正14年(1925)3月まで七高理科甲類。東京帝大理学部。植物学者。小説家・正宗白鳥の弟。
 大正11年造士館一覧 理科1年甲二ノ組 岡山第一 正宗厳敬 岡山
 大正12年造士館一覧 理科2年甲二ノ組 岡山第一 正宗厳敬 岡山
 大正13年造士館一覧 理科3年甲二ノ組 岡山第一 正宗厳敬 岡山
 大正14年造士館一覧 大正14年卒業生 理科甲類 正宗厳敬 岡山

 

1924南溟_奥付

▲『南溟』創刊號の奥付

『南溟』創刊號は,おおよそ次のような内容になっています。

登櫻嶽」 山田準 p1 [1ページ]
大正12年(1923)11月7日,七高教授陣が桜島登山した時の感想詩です。

琉球のぞき」 赤塚正朝 p2~28 [27ページ]
大正12年(1923)か?
3月12日~3月23日に実施された沖縄旅行の見聞記です。赤塚正朝は絵心もあり,筆も立つ青年だったようです。大正12年(1923)第22回開校紀念祭歌「秋南國は」は,赤塚正朝の作詞です。

3月12日 安平丸で午後3時鹿児島港出帆。14名。
3月13日 午前11時名瀬入港。3時間停泊。1名下船。
3月14日 午前7時半着。常深さん,魚住さん出迎えで,宿になる二中(沖縄県立第二中学校)へ。沖縄県立図書館へ行って伊波普猷(1876~1947)館長訪問。琉球関連の著作や「おもろそおさうし」などを見せてもらう。伊波氏「むかしはじめからのふし」を歌う。4時頃,糸満に。二中で魚住さんと歓談。
3月15日 雨。二中泊まり。
3月16日 晴れ。首里へ。一中訪問。中城御堂。圓覺寺。金武良仁採集の貝。阿富祖流の唄。首里城。午後4時魚住さんの案内で那覇を出発し名護へ。琉球松。為朝伝説。午後7時,岸本旅館。泡盛。一樂亭宿泊。
3月17日 本部半島。為朝の碑。大井川。名護へ。那覇へ。二中へ午後7時20分着。
3月18日 識名園。与那原。ハブ。中城城跡。バリアリーフ。普天間権現。夜8時に那覇帰着。
3月19日 自由行動。魚住さん宅でご馳走になる。
3月20日 自由行動。
3月21日 午後3時那覇から安平丸出港。
3月22日 諏訪瀬の噴煙。
3月23日 払暁,鹿児島湾に入り,午前8時鹿児島港へ。

意外なところで,夏目漱石がらみのエピソードが出てきました。引用します。

話變つて僕等四人は一夜色々我事の樣に奔走して下さつた二中の校長魚住さんのとこえ敬意を表しに行つた。―むしろ馳走になつたといつた方がフランクに事の眞想を傳へるかも知れぬ?―。魚住先生とは名からして何んだか氣持がいゝ。所謂先生氣質なんて一風變つたかたくなゝ所もなく角のとれた先生である。まして御趣味は英文學の他芝居(演藝畫報?を創刊號から持つて居られる)謠曲(觀世流)と聞いては誠に誠にである。浴衣姿で我々相手に泡盛すゝめられつゝ沖縄の側面觀や其他を語られるところ誠に感じのいゝ先生でしかも締りある所に人格が躍如としてゐた。當時當地の新聞に出てゐた先生のエピソードを書いて見れば。『例の夏目漱石氏が常に片手を懐にしてゐる君(魚住先生)に向ひ,僕も無い精力を出して講義してゐるから君も無い手を出して聞きたまへ,と面白い塲面を演じたといふエピソードは落第した次の年であつたといふ。「新聞等にあゝおゝ袈裟に書かれてたが實際は一寸した話だつた。それは吾輩は猫が一巻位終つた頃だつたね,それは或る日例の話があつたあとから夏目さんを訪問したら猫が主人の前で戯れてゐる繪を葉書に書いて其の傍に▲無い手が出ますか▲といふ文句を書いて寄越してあつたのを見せてね,知つて居ないか,等と云つて居た」そうだ。落第物語の序にその手の話を尋ねたところこの手は中學四年頃弾丸を弄つてゐたのが爆發して失つてしまつたとは簡単な悪戯』。

漱石と懐手する学生のエピソードの当人が沖縄にいたわけです。文中の「二中」は現在の沖縄県立那覇高等学校です。魚住先生は,魚住惇吉といいます。日本エッセイスト・クラブ編『思いがけない涙』(1988年,文藝春秋)に,魚住惇吉の息子,魚住速人の「漱石と隻腕の父」というエッセイが収録されていて,エピソードのモデルであったことや「子どもの頃,遊んでいた不発弾が暴発し,それで左手が吹き飛んでしまったという」ことが書かれていますが,二中の魚住校長がその当人であったことが,1923年ごろの沖縄では新聞記事になっていたようです。懐手事件の後,魚住氏本人が漱石宅を訪問した話は知られていません。

温泉を越して長崎へ」 太田喜久雄 p29~37 [9ページ]
大正12年(1923)12月25日 晴
 午前9時10分鹿児島駅発。朝鮮の方から数十の野鶴の下りる阿久根。12時過ぎ終点の米之津。米之津港から佐敷,水俣経由で三角行きの船。日奈久で途中下船。日奈久温泉の金波樓に宿泊。明礬泉。
12月26日 曇
 島原町へ。金波樓への不満。日奈久駅。八代駅。宇土。夏目さんの「坊ちやん」に出て來る様なマツチ箱の汽車にゆられて三角港へ出た。三角港から鉄道省の琴平丸で島原へ。火夫が誤って海に落ちる事件。島原町の米屋旅館。午後10時床に入る。
12月27日 曇―雨
 普賢岳を越えて。8時半出発。12時鳩穴。1時半普賢岳頂上。温泉公園。地獄巡り。新湯の富貴屋ホテル。上海のロシア人。硫黄泉。
12月28日 雨―晴
 8時出発。小浜温泉で千々岩行きの乗合自動車に乗換。島原軽便鉄道。日本最初の東京・横浜間を走った機関車。2時長崎着。3年のI君宅へ。支那人町。出島。
12月29日 雪
 旅の終わりの日。I君の知り合いの技師の世話で三菱造船所見学。午後11時長崎発の終列車。

これら七高の紀行エッセイの書き手たちが,文学者を連想するとき,まず夏目漱石というところが,1920年代という感じです。

南薩巡り その二 野間岳天幕旅行」 志水秀男 p38~44 [7ページ]
大正12年(1923)か?
9月22日
 土曜日午後1時半出発。自動車の便。鴨池でI君を乗せ,計6名。テント旅行。指宿街道。谷山から知覧街道。川辺。5時過ぎに枕崎。坊津でテントを張る。
I君がスケッチを始める。K君。N君。O君。
9月23日
 8時出発。泊浦の海岸。泊。今代鼻。久志浦。久志。午後3時,秋目。舟を雇い,5時半に野間池。野間神社で野営。
9月24日
 野間岳に登る。神社から30分。下山20分。椎木,赤生木,小濱,大浦まで歩き,大崎まで馬車。4時半に大崎。7時半,大崎駅発,南薩線で伊集院まで,省線に乗換,午後11時に鹿児島着。

九州を横断して」 島崎庸一 p45~49 [6ページ]
大正11年(1922)7月13日
 1時半,水前寺駅発。阿蘇。4時,立野で下車。栃木温泉・戸下温泉。栃木荒牧温泉に宿泊。七高・五高の野球応援の帰り。
7月14日
 7時半出発。湯の谷温泉。千里ケ濱。夏目さんの「二百十日」。先阿蘇神社。
7月15日
 坂上。笹倉にて昼食。久住平原。4時半久住着。郵便局長・(九州)アルプス研究會會長の工藤氏宅を訪ねる。
7月16日
 久住の種馬所。久住山。1時に登頂。3時下山。法華温泉。
7月17日
 9時出発。三俟山中腹。九重山の硫黄精錬所。千町無田。湯の平。大正館。行程6里。
7月18日
 由布岳山腹。鶴見岳麓,別府公園。海岸通りの若松屋。別府まで9里。

第七高等学校造士館創立25周年『記念誌』(大正15年10月18日印刷 大正15年10月25日発行)の野球部の項に次のようにありますが,この九州横断の旅は大正11年(1922)7月の五高での七高対五高定期戦の後だと思われます。
 大正11年7月 対五高定期戦 於五高 2-0 勝
 大正12年7月 対五高定期戦 於七高 2-0 勝
 大正13年7月 対五高 福岡遠征 8-7 勝
 大正13年7月 対五高定期戦 於七高 10-8 勝

余談ですが,25周年『記念誌』には,七高の『學友會雑誌』は第26号(大正2年3月27日発行)から「始めて鹿児島の印刷所で印刷されて居る。本号以前は東京の秀英舎で印刷されてゐる」という記述がありました。明治37年(1904)の創刊號から大正2年(1913)まで,校内誌の印刷を鹿児島でなく東京の印刷会社に依頼していたという事実は,七高の特殊性を表しているのかも知れません。

 

1914學友會雑誌29号_奥付

▲『學友會雑誌』第29号「櫻島噴火紀年號」の奥付
大正2年(1913)の第26号は鹿児島で印刷されたとありましたが,大正3年(1914)5月発行の第29号「櫻島噴火紀年號」は,東京の三秀舎が印刷しています。
七高造士館の『學友會雑誌』は,現在,鹿児島県立図書館では,1号,2号,29号の3部しか見ることができません。こうしたものを揃いで見ることができるアーカイブが存在していればいいのですが。

南薩巡り その一 開聞岳を中心として」 志水秀男 p50~57 [8ページ]
大正13年(1924)10月28日
 天長節を加えて休日が3日続く。A君,M君,F君と自分の4人で,28日午後1時半出帆の山川行き汽船に落ち合う。船上で一同記念撮影(カメラ所持)。午後4時,汽船照國丸は宮之濱に接近,艀船に乗換,砂浜へ。柴立温泉に泊まる。自慢の県営温泉に電灯無し。
10月29日
 永峰,石嶺,假屋。大迫村より池田湖畔。中濱,小濱。仙田の峠。午後1時,開聞嶽の西の登山口の脇浦。頂上に1時間。東の登山道より登頂したM君と会う。午後5時に下山。唐芋飴。頴娃の麓。K君,T君,M君等に会う。ガタ馬車で石垣へ。石垣から徒歩で枕崎へ。南別府の入江。枕崎の迫野旅館。午前1時就寝。歩行距離15里。
10月30日
 7時起床。12時発の自動車で加世田へ。1時加世田着。加世田から汽車。5時前に伊作着。温泉場の緑屋(現在のみどり荘)に泊まる。月が出ると,池に舟を浮かべて遊ぶ。
10月31日
 10時起床。釣り。7時の汽車。8時半伊集院。省線に乗り換て武駅に午後9時半着。

南九州の高地植物 南九州の山」 正宗嚴敬 p58~66 [9ページ]
高地植物の由来,霧島山彙と其の植物,八重嶽,高隈,櫻島,紫尾山,開聞岳,結論

大正15年(1926)の25周年『記念誌』には,『學友會雑誌』の目次が掲載されていて『學友會雑誌』第54号(大正12年7月3日発行)に,
 「生態學上より見たる城山の植物」正宗嚴敬
というエッセイが掲載されているようです。

南日向を巡りて」島崎庸一 p67~72 [6ページ]
大正10年(1921)か?
3月13日
 一行五人,午前8時第二桟橋集合。高須行きの小蒸気に乗船。暴風雨前兆のしけで動揺。垂水,古江。艀で古江に。K君とI君はそのまま乗船。高須まで2里走る。高須から鹿屋まで軽鐵。鹿屋から馬車で志布志まで,大正旅館に5時着。
3月14日
 晴天。海岸。福島の小林区署で昼食。小田原旅館。
3月15日
 6時出発。11里の行程。下駄履き。御岬神社。蘇鉄。宮の浦。瀧山峠,外の浦より汽船。梅ヶ濱。油津。
3月16日
 「旅行癖」7時の汽車で飫肥へ。城址の小學校。鴉戸神社。汽船で内海。松屋旅館。
3月17日
 5時50分發の汽車。青島で下車。青島神社。10時乗車。大淀で下車。宮崎神宮。徴古館。K君とI君はここで帰鹿。高鍋まで乗車。駅から高城までヘビつた。ヘバル。高城で武者小路さんの定宿に泊まる。
3月18日
 午前8時半,新しい村に向け出発。新しい村。高城に4時。宿屋で武者小路さんに会う。5時に別れて,解散地の妻へ。大阪屋。
3月19日
 西都原の古墳。妻駅から帰還。

七高生が宮崎の「新しい村(新しき村)」を訪ねて,武者小路実篤に会っているのは注目です。その部分を引用します。

 三月十八日
 愈々最後の日となつた。一行元氣旺盛八時半
(高城から)新しい村に向け出發した。一面耕された平原に黄櫨が配合よく並んで居る。道は谷川に沿ふて山道となる。此邊既に新しい村の入口らしい感がして,昔武陵の漁夫が桃花源の洞門に到り,時もかくやと思はれた。途中村の人達に遭つた。面白い様子をして居た。役者見たいな人,飜譯でもし相な人,行商の旅人の如き人,大本教の樣に長髪の人等樣々である。峠から眼下に目的の新しい村が見えた。小丸川の上流,蓋し別天地である。川が馬蹄形に新しい村を廻つて流れ,瀬あり淵あり碧瑠璃の水は澄んで居て,夏の涼しさを偲ばしめた。渡しを渡つて事務所に行く。(武者小路実篤)先生は上京中の由,途中で會つた人達は今日先生が高城につかれるので迎ひに行く所であつたのだそうだ。留守の人達が集つて仲々歡待して呉れた。村は廣き三町歩で,三十人位村の人がある。五六軒の西洋風の土間が建ててあつて三四人宛分居して居る。未だよく耕してない,麥が植えてあつた。丁度正午だつたので炊事場の鐘がなつた。露天の食卓で一同海苔三板澤庵に麥飯の中食をした。炊事場には黑板に日課が提示してあつた,分業で万事やるらしい。此處をバツクに村の人と寫眞を撮つて,往路を引還して高城に着いたのが四時,宿屋で今着かれたと云ふ武者小路さんに會つた。色々な質問によく答へられて嬉しかつた。先生は入村希望者が多いが今満員なので第二,第三の村を作りたい大抱負を述べられた。五時別れて旅行の解散地妻に向つた。途中日本一の孤兒院茶臼原を訪ふた明治二十六年の創立で現今三百町歩の高原を有し立派に開墾してゐる。三百の孤児を収容し,純基督教の教育をなつて居る。此所ではとつぷり暮れて日向の大自然は刻々沈黙の世界となつて行つた。一行月光を頼りに妻まで一里半を四十分でヘビつた。大阪屋に着いたのが八時,一週間の南向巡禮の最後の晩なので,ビールの栓を抜いて慰安の宴を張つた。

大正15年(1926)刊行の『楠郷山誌』で,太田喜久雄も同じようなコースを旅した「東岸の史蹟を訪ねて」を寄稿していますが,「嬉しかつた」と書く島崎庸一に比べると,太田喜久雄は新しい村について「要するに仲のいい兄弟のやうな互に助け合ふ生活をしやうと云ふのだらう」と冷ややかな感想を述べています。

鹿児島縣下の温泉(赤塚) p73~77 [5ページ]
 霧島温泉 硫黄谷温泉,明礬温泉,栄之尾温泉
 安楽温泉
 日当山温泉
 指宿温泉
 伊作温泉
 市來温泉
 薩摩郡の温泉 湯田温泉,入來温泉,市比野温泉,紫尾温泉,砂石温泉

第七高等学造士館旅行部創立記及其旅行 p78~83 [6ページ]

1924年の『南溟』創刊號は,1920年代に旅歩きする空気を伝えてくれる1冊です。

 

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124. 1974年の講談社文庫版『復興期の精神』(2013年11月17日)

1974年_花田清輝_復興期の精神

 

花田清輝は日本のアヴァンギャルドを語るとき,良くも悪くも外すことのできない存在です。花田清輝の『復興期の精神』ということなら,昭和21年(1946)の我観社版や昭和22年(1947)の真善美社版を語ることのほうが正統なふるまいなのでしょうが,個人的には,この1974年の講談社文庫版『復興期の精神』です。奥付を見ると,
 昭和49年6月15日第1刷発行
 昭和49年12月4日第3刷発行
とあります。本には2種類の本があります。著者生前に出された本と著者没後に出された本の2種類です。花田清輝は昭和49年(1974)9月23日に亡くなっていますので,この講談社文庫版『復興期の精神』は,そのどちらでもある,はざまの本とも言えそうです。

1974年の新刊の時に買い求めた本ではありません。高校生のころ,鹿児島市のいづろ通にあった古本屋さん,センバ書房で購入したのではないかと思います。高校生の背伸びみたいなもので,その書かれている内容に追いついたとは思いませんが,ヴィヨンについての「楕円幻想」や,ポーについての「終末観」「球面三角」といったテキストに魅かれました。
文庫本のカバーデザインが高松次郎(1936~1998)というのも,ポイントが高かったのかもしれません。講談社文庫は活版印刷でなく写植文字によるオフセット印刷だったことも特徴で,何か違う感じがする文庫でした。

この文庫版の巻末に,昭和49年5月に島田昭男が作成した花田清輝の年譜が付いています。
 明治42年 1909年
 3月29日,福岡市に生まれる。
 昭和6年 1931年 22歳
 5月,小説「七」を,「サンデー毎日」に発表。
とあって,この年譜には,花田清輝の10代のことは記載されていませんでしたが,花田清輝は,1926年(大正15年,昭和元年)4月から1928年(昭和3年)3月までの2年間,17歳から19歳まで,鹿児島の鶴丸城跡にあった旧制の第七高等学校造士館に在籍して,鹿児島で暮らしていました。

 

1981年_花田清輝の世界

▲『花田清輝の世界』(1981年,新評社) 昭和52年(1977)に刊行された別冊新評『花田清輝の世界』の新版です。
七高時代の花田清輝について,七高で一緒だった小嶋信之が「若き日の花田清輝」,羽田竜馬が「出会」を寄稿しています。1920年代の鹿児島のある側面を感じることができるテキストになっています。

小嶋信之「若き日の花田清輝」に登場する青年花田のようすを,一部引用します。

 花田(二人はお互の名前を呼び棄てにしていた)とわたしが初めて出会ったのは,大正15年4月に鹿児島の第七高等学校の文科甲類に入学した時であった。年齢は同じ十七歳,寮も同じ南寮に入った。

 花田はさっそく活動を開始し,南寮の雑誌「白光」を編集した。その誌名は仏教の経典から取ったものであり,また南寮の旗の白色であったことにも通じるものであった。
 これにかれは「樹下石上」と題する長詩を発表した。これは題名の示すように,釈迦の解脱を歌ったものである。大小とりどりの活字を駆使した雄渾な一代叙事詩であった。
 わたしも乞われるままに「感想」と題する駄文を寄稿した。その内容は取るに足らないものであった。しかし花田は内容はともかく,文章が良いといって褒めてくれた。
 翌年(昭和2年)第二号が二人の共通の友達である深田寿の編集によって発刊された。これに花田は「あおやぎのはなし」という短編小説を発表した。これはラフカディオ・ハーンを下敷にしたものであり,その限りでは翻訳みたいなものであるが,末尾に誰かの俳句,「木の股のあでやかなりし柳かな」が結びになっており,それが作品をぐっと引き締め,その照射によって全体が別様な創作になってくるところが興味深かった。
 これにわたしは「根強く生き抜こう」という詩を出した。原稿が出来上って花田に見せると,かれは激賞し,深田に指示して,印刷を特別扱いにしてくれた。

 昭和3年(昭和2年か?)4月,鹿児島に戻り,学校に出てみると,最前列の端の机が花田の机と並んでいた。七高ではクラスの机の順位は成績順に後から前の方へと並んでいた。花田もまた落第したのだった。
 花田はわたしに向かって,「授業がすんだらベルグを附き合わないか,話しがあるんだ」と言った。ベルグというのは山形屋百貨店のことで,その「山」がドイツ語のベルグなのであった。ベルグの喫茶室でコーヒーをすすりながら,かれはわたしと共同生活をしないか,と提案した。わたしも一も二もなく賛成した。
 翌日わたし達は学校をサボって,朝から夕方まで足を棒にして探し廻り,岩崎谷の少し先に,新築の二階家を見つけ出した。百メートル程手前に,牧という管理人の家があった。家賃は驚くほど安かった。どうしてあんな良い家が空いているのかと尋ねると,かれは,どういうものか借り手が長く続かないので,といって言葉を濁した。わたし達は,これは怪しいぞと思ったが,貧乏な高校生にとってこれほど好条件の家が他にあろう筈もない。わたし達はさっそくその日の夕方引っ越していった。
 その家に花田は「空谷山房」と名づけ,板切れに毛筆で書いた額を掲げた。これは荘子の「空谷之跫音」から採ったものである。その意味は「人がいない谷間にひびく足音。転じて,さびしく暮らしている時に受ける,人のおとずれ(うれしい便り)」ということである。
 かれは階下に,わたしは二階に陣取った。かれは岩波の哲学大辞典を座右に置き,西田幾多郎の前著作,多くの哲学書,文学書を並べて,次から次へと読んでいった。

 山房には一年先輩の辛島紅葉(実名。「悲劇について」の中にKとして出てくる人)さんも加わった。かれも哲学青年であった。花田とかれとの間の認識や形而上学についての果てしない論争にわたしは黙って耳を傾けた。
 山房生活は約半年続いて終わった。そして花田は寮に戻り,わたしは下宿に移った。

 昭和3年の3月の初め頃,花田と深田とわたしと三人でベルグでコーヒーを飲んだとき,花田は誰に言うともなく「今度も駄目らしい」と呟いた。その通りになり,彼は退学になった。このばあい,恐らく欠席回数の多すぎるころが致命傷になったのであろう。その欠席の大きな理由は,「旗」で見られるように,一方では西田哲学の魅力にがんじがらめに縛られ,他方では,その桎梏から逃れようがために,ベルグの女の子にプラトニックな恋愛をし,その象徴であるベルグの旗をいつも眺めていた,ということなのであろう。
 この年,共産党のいわゆる三・一五事件が起こり,合宿にいた何人かが放校処分になった。そのうちに岩永七郎という快男児がいた。彼は夜な夜なハンティングをかぶって何処かへ実践運動のために出かけていった。後に新聞でかれが懲役七年の刑に処せられたことを知り,わたしの胸はいたんだ。

 昭和5年4月,わたしは七高を卒業して京大の哲学科へ入学した。花田をはじめ,深田,辛島さん,羽田さん等の友達がわたしを暖く迎えてくれた。

 

2013年_山形屋_BERG

「授業がすんだらベルグを附き合わないか,話しがあるんだ」 現在,鹿児島市の山形屋デパートに隣接するアーケード通りは,七高生たちの「ベルグ」という愛称から「NAKAMACHI BERG(中町ベルグ)」と名づけられています。

 

2013年_岩崎谷

「わたし達は学校をサボって,朝から夕方まで足を棒にして探し廻り,岩崎谷の少し先に,新築の二階家を見つけ出した。」「その家に花田は「空谷山房」と名づけ,板切れに毛筆で書いた額を掲げた。」 岩崎谷のバス停 奥が鶴丸城跡・旧制第七高等学校跡です。花田清輝,小嶋信之,辛島紅葉らが共同生活をした「空谷山房」が岩崎谷のどの辺にあったのか,「足を棒にして探し廻り」たいところです。

花田清輝が七高の南寮の寮誌『白光』に寄稿した作品は次のようなものです。

 「樹下石上」(『白光』創刊号 1927年7月刊行)
 「あいろにい」(『白光』創刊号 1927年7月刊行)
 「アプリオシズムスと宗教の本質に就いて」(『白光』第2号 1928年2月刊)
 「ひとつの習作とそのはかないひとりごとの話」(『白光』第3号 1928年12月刊)
 「窓」(『白光』第4号 1929年10月刊)
 「無構成の哲学――エドガア・ポオ瞥見」(『白光』第5号 1930年6月刊)

小嶋信之のいう「あおやぎのはなし」は,第3号に掲載された「ひとつの習作とそのはかないひとりごとの話」のことで,少し記憶が錯綜しているようです。

これらの『白光』掲載作品は講談社版花田清輝全集にも収録されていますので,『白光』創刊号~第5号は間違いなく存在していると思われますが,現物を見たことはありません。こうしたものこそデジタルアーカイブ化されれば,ありがたいと思うのですが。

「樹下石上」の
 思いつめたる若者の目にうつりたる風景は七色に分れはてたる すぺくとら
 直線曲線とは乱れ飛び形を取らぬ不思議な調和を見せて男の顔は若者の心臓を通り過ぎた。
 木の葉 緑の激しい呼吸だ

「ひとつの習作とそのはかないひとりごとの話」の
 G―U―U―N G―U―U―N G―U―U―N G―U―U―N
 何処からともなく響いて来る連続的な音とともに彼は前方に螺旋形の白い震盪を見ました。見ると同時に彼ははげしい恐怖を感じました。それは恐ろしい旋風だったのです。

といったテキストを見ていると,この『白光』に収録された花田清輝の作品を1冊の本にまとめると,「七高アヴァンギャルド」みたいなものも成り立つのではないかという気がしてきます。

「無構成の哲学――エドガア・ポオ瞥見」はポーの『構成の哲学』と『言葉の力』を論じて,『復興期の精神』中の「終末観」「球面三角」を準備しています。個人的に面白かったのは,「アアサア・ランサムは言葉をkinetic wordとpotential wordとに分類している。是は勿論,物理学上のkinetic energyとpotential energyから取ったものであるが,前者の純粋なるものは只事物を語るに止まり,後者の純粋なるものは音楽となると言っている。若し彼の命名に従えばわれわれが「言葉を見る」際に是等二種類を見るのである」と,アーサー・ランサム(Arthur Ransome,1884~1967)を参照していることです。たぶん1910年にランサムが出版した『Edgar Allan Poe』を読んでいたのでしょう。批評家としては成功した存在とは言えなかったランサムが,のちに『アマゾン号とツバメ号』の作家として成功したことを,花田清輝はどのように思っていたのでしょうか。

『花田清輝の世界』収録の羽田竜馬「出会」には,次のような記述があります。

 寮は一室四人で,学期末の組み替えで,二学期は花田と同室になった,三学期も二階に変っただけで,二人はまた一緒だった。

  雪がわたしを霧島に駆った。金曜日の授業がすむと,その足で駅に駆けつけ,(霧島の)栄尾に着いたのは夜だった。
 (次の日,雪中行の散策から)帰ると宿の人が「お友だちの方がみえました」と取りついだ。聞き慣れた声に,オヤと思って振り向くと花田の目にぶつかった。相好をくずして突っ立っている。その背後からもう一人,「かぎつけられましたね」と顔を出したのは深田だった。「ヤレ,ヤレ,これはまだ一体どうしたことなの」と,口では無愛想に言ったものの,心の中ではまるで別だった。霧島行その時はじめとは別のものに変っていた。そろって満々と湛えた浴槽に首まで浸った。「いいものを見せて上げますよ」と,大事そうに抱えてきた包みを解くと,出てきたのはカンデンスキーの大版の画集だった。外はどうなっていたか,表ひとかわいくらか色の変った刺身をつまんで冬の山宿を感じただけで,前にひろげた画集を一枚一枚繰りながら,寮をそのまま移したにぎわいで,夜がふけた。

青年たちは,翌日,カラクニ岳に登って,寮に戻ります。絵に描いたような学生時代のエピソードで,花田らのエドガー・アラン・ポーばりの推理力もさえていますが,「カンデンスキーの大版の画集」を持っていくというのが花田清輝らしいところです。
花田清輝「ぱとろぎい・です・めるへん」(1939年,昭和14)では,エルンスト(Max Ernst,1891~1976)作品との出会いを書いています。

僕は少年時代に,はじめてエルンストの作品を見た時の感激を決して一生涯忘れはしないだろう。それは『森林』と『花』と題された二つの作品であった。就中,前者からは僕は完全に圧倒された。それは恐ろしい緊迫感をたたえていた。しかも形而上学的な建築が――そうだ,ラスクの哲学にみるような,複雑な形而上学的建築の美しさが窺われた。そうして,それは僕にむかって,カテドラルのようにそびえたっていたのである。正しくその寺院の屋上には,気味の悪い笑いを洩しながら下界を眺めている,怪鬼(シメール)の姿があったのだが,しかし寺院の窓からはバッハのフウゲを思わせる抒情的な音楽が,絶えずながれ出しているのだった。

花田清輝がエルンストの絵と出会ったのは,全集の年譜では1927年とされ,これも七高時代のことのようです。何を通してエルンストを知ったかも気になるところです。

1927年,鹿児島で触れるカンディンスキー(Wassily Kandinsky,1866~1944)とエルンスト。
鹿児島にも,そうしたモダーンな風が,たしかに吹いていたわけです。

 

ところで,花田清輝周辺の回想には登場しませんが,花田清輝と同じころに七高に在籍した人物に,昭和史の流れを変えたとも言える血盟団事件の関係者がいます。
血盟団事件関連の著書は数多くありますが,2013年8月に刊行された中島岳志『血盟団事件』(文藝春秋)の「第3部 革命へ」では,七高の血盟団事件関係者,四元義隆,池袋正釟郞,久木田祐弘,田倉利之について,かなりくわしく書かれています。

 

2013年_中島岳志_血盟団事件

▲中島岳志『血盟団事件』(2013年,文藝春秋)

中島岳志の『血盟団事件』に,次のような箇所があります。

 (昭和2年,四元義隆・池袋正釟郞らが3年生の)秋に学友会の総務選挙が行なわれ,応援していた候補者が惨敗した。二人はこれを機会に「日本主義的な修養団体」を作ろうと話し合い,仲間を募った。そして,会合を繰り返し,綱領や会則を決め,1928年(昭和3年)2月11日の紀元節に発会式を行なった。
 会の名称は「敬天会」。綱領は以下の4つを掲げた。
 一,日本精神の発揚
 一,東洋思想の研究
 一,相互の切磋琢磨
 一,校風の刷新〉
 会員は,15名ほどで始まり,毎週一回例会を開いた,そこでは『南洲翁遺訓』や『伝習録』などを読み,研鑽に励んだ。四元と池袋は発会式から間もなく卒業したが,敬天会は継続され,彼らとともに入れ替わり,新メンバーが入ってきた。その中に,後に
(四元と池袋らとともに)血盟団事件に加わる久木田祐弘や田倉利之がいた。七高・敬天会は期せずして,血盟団事件のもうひとつの震源地になっていったのである。

一方,小嶋信之の「若き日の花田清輝」に,次のような箇所があります。

 南寮から広重茂君が,総務(今で言えば自治委員長)の選挙に出馬したとき,花田は率先して選挙運動を展開した。広重君が余り熱心なので,座視するに忍びないというのであった。
 いよいよ終盤戦に入ったとき,花田は大きな板に紙を張りつけさせ,その上に対立候補者の肉体的弱点を痛烈に諷刺した声明文を書かせて,生徒達の最も眼に付き易いところに掲げた。これは敵の陣営にかなりの衝撃を与えたようであった。これは敵の選挙参謀が,わたしにそれの撤回を頼みに来たことでも分る。ついに広重君は勝った。

中島岳志と小嶋信之の文章を読み合わせると,どうやら,のちに血盟団事件にかかわる四元義隆・池袋正釟郞と,日本のアヴァンギャルド花田清輝が,七高の選挙で対立していたようなのです。そして,その選挙では花田側は勝つことができましたが,四元・池袋らの土着的勢いが切り開いてしまった大東亜戦争へと続く歴史の動きには,前衛=アヴァンギャルド花田は,後追いの人になってしまったような印象を受けます。

中島岳志の『血盟団事件』によれば,「三年生の二学期になると,部活の試合が終わり,生活に余裕ができた。そのため,(四元義隆と池袋正釟郞の)二人は一緒に家を借り,自炊生活を始めることにした,場所は西郷が自決した場所のすぐ近くで,七高まで歩いていくことができる場所だった。彼らは,借りた一軒家に「敬天庵」と名づけ,西郷の生き方を目指した」とあります。

西郷隆盛が自決した場所も岩崎谷にあります。四元義隆と池袋正釟郞の「敬天庵」と,花田清輝,小嶋信之,辛島紅葉らが共同生活をした「空谷山房」は近所だったわけです。花田清輝は福岡中学時代は柔道少年でしたが,四元義隆は七高柔道部でした。もしかしたら,二人は乱取りで組んだこともあったのかもしれません。

各年度の『第七高等学校造士館一覧』で在学生名簿から抜き書きしてみると,次のようになっています。

大正15年(1926)4月~大正16年(昭和2年,1927)3月
 文科2年甲 二ノ組 宇佐 辛島紅葉 大分
 文科2年甲 二ノ組 第二鹿児島 四元義隆 鹿児島
 文科2年甲 二ノ組 都城 池袋正釟郞 宮崎
 文科2年乙 神戸第一 津村秀夫 兵庫
 理科2年甲 明治學院 羽田龍馬 新潟
 文科1年甲 一ノ組 豊津 小島信之 福岡
 文科1年甲 二ノ組 福岡 花田清輝 福岡
 文科1年甲 二ノ組 小倉 深田寿 福岡
 文科1年甲 二ノ組 鹿児島第一 ウィリアム・イングロット 英國

昭和2年(1927)4月~昭和3年(1928)3月
 文科3年甲 二ノ組 第二鹿児島 四元義隆 鹿児島
 文科3年甲 二ノ組 宇佐 辛島紅葉 大分
 文科3年甲 二ノ組 都城 池袋正釟郞 宮崎
 文科3年乙 神戸第一 津村秀夫 兵庫
 理科3年甲 明治學院 羽田龍馬 新潟
 文科2年甲 二ノ組 小倉 深田寿 福岡
 文科2年甲 二ノ組 鹿児島第一 ウィリアム・イングロット 英國
 文科1年甲 二ノ組 福岡 花田清輝 福岡
 文科1年甲 二ノ組 豊津 小島信之 福岡
 文科1年甲 二ノ組 浮羽 田倉利之 福井

昭和3年(1928)4月~昭和4年(1929)3月
 文科3年甲 二ノ組 小倉 深田寿 福岡
 文科3年甲 二ノ組 鹿児島第一 ウィリアム・イングロット 英國
 文科2年甲 二ノ組 豊津 小島信之 福岡
 文科1年甲 二ノ組 浮羽 田倉利之 福井
 文科1年甲 二ノ組 伊集院 久木田祐弘 鹿児島

総務の選挙は四元義隆・池袋正釟郞が3年生のときで,ダブった花田清輝は1年のクラスにいますので,小嶋信之の「若き日の花田清輝」にある選挙の記述は,四元義隆・池袋正釟郞が応援していて落選した候補者のことで間違いないようです。昭和2年(1927)花田清輝と小島信之は,田倉利之と同じクラスでした。昭和3年(1928)4月には花田の名前はありません。

中島岳志の『血盟団事件』では,四元義隆・池袋正釟郞らと同時代の存在としての花田清輝らへの言及はありませんが,その要素を加えると,よりダイナミックな群像劇に広がったのではないかとも思います。

1927年の鶴丸城もまた,日本の1930年代の歴史に直結する思想闘争の現場だったことは確かです。

ちなみに,津村秀夫は後に映画批評で知られるようになる存在です。また,花田清輝のクラスメートにウィリアム・イングロット(William Inglott)という英國人がいますが,七高の英語教師ロジャー・ジュリアス・イングロット(Roger Julius Inglott)の息子で,鹿児島一中・七高・京大文学部と進んで,後に日本に帰化して緒方英穂と名乗ります。著作もあるようなのですが,現物を全く見かけません。ウィリアム・イングロット(緒方英穂)の回想があれば,それもまた,貴重な鹿児島の記録になるような気がします。ロジャー・ジュリアス・イングロットの孫にあたる緒方登摩は,イギリスの詩人ホプキンス(Gerard Manley Hopkins,1844~1889)の研究者です。

 

【2015年10月2日追記】
NHKで放送された『ファミリーヒストリー』で、タレントの中山エミリがロジャー・ジュリアス・イングロットの曾孫にあたることを知りました。

【2021年7月18日追記】
絵本作家、八島太郎(岩松淳、1908~1994)のことを少し調べていて、鹿児島二中の同窓会名簿を見ていたら、岩松淳の同級生のなかに、エドワード・イングロットの名前がありました。ロジャー・ジュリアス・イングロットの二男で、ウィリアムの弟です。

 

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123. 1924年の箱入りの志賀直哉『眞鶴』と木村荘八『猫』(2013年11月9日)

1924志賀直哉_真鶴_木村荘八_猫_箱と表紙

 

珍しいといえば珍しい本です。
特に箱が珍しいといえるかもしれません。本来は別々に出されていた本を1つの箱におさめています。東京の新しき村出版部が刊行していた「人類の本」シリーズの,志賀直哉(1883~1971)の『眞鶴』と,木村荘八(1893~1958)の『猫』2冊を,1つの箱に収めています。この変則的な箱は珍しいと思います。
図書館に架蔵されているとしても,図書館の蔵書では基本的に箱や帯は処分されますから,図書館では箱付きのものにお目にかかることはありません。

これは武者小路実篤と「新しき村」運動で試みられた,商業出版社を頼らない直営方式の出版事業から生まれた本の1つです。「新しき村叢書」「曠野叢書」「人類の本」「村の本」など次々シリーズが作られましたが,「曠野叢書」「人類の本」は,自ら運営する東京の曠野社で印刷されています。
同時代イギリスのノンサッチプレスなどのプライヴェートプレス運動と照応するものだったのかもしれません。20世紀は理想的な「共同体」をつくろうとする試みが世界各地で行われた世紀でした。「新しき村」もその試みのひとつでした。ただ,「曠野社争議」などで東京での印刷所経営は失敗し,曠野社は昭和2年ごろには解散しています。

曠野社・新しき村出版部「新しき村叢書」は大正9年から大正13年にかけて15冊ほど,曠野社「曠野叢書」は大正9年から大正11年にかけて10冊ほど,新しき村出版部「人類の本」は大正13年に15冊ほど, 日向新しき村版「村の本」は,大正14年から昭和3年にかけて15冊ほど刊行されています。

 

1924真鶴_猫_裏表紙

▲新しき村出版部刊行『猫』(左)『眞鶴』(右)の裏表紙


1924真鶴_扉

▲新しき村出版部刊行『眞鶴(まなづる)』の扉
新しき村出版部「人類の本」の扉には,法隆寺の玉虫厨子の仏像が使われています。扉では漢字の『眞鶴』でなく平仮名の『まなづる』になっています。

「人類の本」の第1巻目を飾った志賀直哉『眞鶴』(短編選集)は,関東大震災の翌年,大正13年(1924)2月18日印刷,大正13年3月15日発行。発行兼印刷者は長島豊太郎(東京府北豊島郡長崎村一六二), 発行所は新しき村出版部(東京府北豊島郡長崎村一六二)です。

『眞鶴』(短編選集)の目次は,次のようになっています。

 眞鶴(大正9年8月)
 雪の日(大正9年2月)
 不幸なる戀の話(明治44年8月)
 焚火(大正9年3月)
 速夫の妹(明治41年9月)
 十一月三日午後の事(大正7年11月)
 彼と六つ上の女(明治43年8月)
 小僧の神様(大正8年12月)
 寓居(大正3年10月)
 剃刀(明治43年4月)
 小品五つ
  蜻蛉(大正3年7月23日,松江にて)
  家守(大正3年7月31日,松江にて)
  宿かりの死(大正3年9月。京都にて)
  嵐の日(大正4年8月嵐の日。赤城山にて)
  山の木と大鋸(大正4年8月31日。赤城山にて)
 赤西蠣太(大正6年8月)

鹿児島に関連のある作品も収録されています。志賀直哉25歳,明治41年(1908)の作品「速夫の妹」は,当時東京の薩摩藩出身者の家庭をモデルにしています。志賀直哉がモデルの「自分(河村)」の「速夫の妹」=「お鶴さん」への淡い恋心のようなものが主題の小説です。「お鶴さん」という名前は,書名の『眞鶴』とも連携しているのかもしれません。白樺派のテキストには,薩摩からの上京2世ものが多いので,薩摩視点で読むこともできます。「速夫の妹」から一部引用すると,

「當時速夫の父は東京府の知事で芝の山内に其官舎があつた。」
「此二年の間に速夫の父は知事をやめて,官舎の直ぐ下の元は寺だつたと云ふ大きな家を買つて,其所へ引き移つた。」
「速夫の父は此所へ引き移ると間もなく,食道癌で亡くなつた。」
「これは後で聞いたのだが,食物が喉を通らぬと云つて癇癪を起し焼おむすびをグイグイ呑み込むだとふ話がある。かうすれば,イカナ癌でも潰れて下りるだらうと云ふ考へなのだ,薩州藩で維新の時も東奔西走,随分烈しい働をした我武者羅だから醫者の言葉も諾かずに色々亂暴な事をした,それが餘程死を早めたらしかつた。」

もちろんフィクションとして脚色されていますが,小説中の「淺香家」モデルは,薩摩出身の東京府知事・高崎五六(1836~1896)の家庭です。高崎正風(1836~1912)のいとこにあたる人です。高崎五六は桜田門外の変,寺田屋事件にかかわった薩摩藩士。維新後,新政府の官僚となって,明治8年(1875)から明治17年(1884)まで岡山県令,明治19年(1886)から明治23年(1890)まで東京府知事を務めています。東京大学に博言学科(のちの言語学科)が設置されたときには、民間有志による国語研究機関「言語取調所」が設立されるのですが,伊達宗城が会長、高崎五六が副会長となっていて,「共通語・標準語」形成にも関わっていた人です。

「速夫」は,高崎五六の息子・高崎弓彦をモデルにしています。志賀直哉の短編「自転車」では,自転車仲間の「高崎弓彦といふ年上の友達」と実名で登場しています。明治時代,自転車は高級品で,自分の自転車を持っているのはお金持ちのボンボン以外の何者でもないということです。

「速夫の妹」中の「自分(河村)」は「速夫」から「浪六」の小説を借りるのですが,明治の人気小説家・村上浪六(1865~1944)は高崎五六の書生だった時期もあったようです。

書生といえば,「速夫の妹」中の「淺香家」には画学生が書生として同居していて,「速夫の部屋の向ふにも一ト部屋あつて其所には大村と云ふ美術學校の洋畫科の生徒が居た」とあり,「白馬會へ四枚だした」とか,その展覧会の「長原止水のデザインの招待券」といった記述があります。モデル探しは,あまり上等な趣味ではありませんが,この美術學校に通う「大村」のモデルは誰か気になるところです。

志賀直哉がモデルの「自分(河村)」は,速夫の姉を次のように書いています。

「自分は其時分お徳さんを何となく尊敬してゐた。お徳さんの話は面白かつた。よく清少納言――お徳さんは此人が大好きだつた――の話を聞いた。又自分が光琳や抱一の名を知つて此趣味を吹き込まれたのもお徳さんからであつた。それからお徳さんは生田流の琴の名人だつた」

上京した薩摩出身者子女の教養の一面がうかがえます。現在は琳派の評価が定まっているので読み過ごしてしまいそうですが,光琳や抱一ら琳派の再評価は,意外と新しいもので,大正時代に入ってからのことなので,明治の「お徳さん」の光琳や抱一好みは,時代の流行とは別の美意識だったのかもしれません。

 

1924真鶴_奥付

▲新しき村出版部刊行『眞鶴(まなづる)』の奥付
検印の名前は,はっきり分かりません。

『眞鶴(まなづる)』収録の「雪の日」(大正9年2月)には,志賀直哉,橋本基,柳宗悦(1889~1961)の3人がかわす他愛ない会話があります。橋本基は橋本雅邦の息子で,千葉の我孫子時代の志賀家の離れに住んでいました。

 橋本君の原稿にある,「英國人フエノロサ」は少しく疑はしいと云ふ話から
「伊太利亞臭い名ぢやないか」と云ふと,
「たしか,スヰスの人だと覺えて居るがなと」柳が云つた。
「藤岡さんの繪畫史には,たしか英國人とあつたやうに思ひますけど」と橋本君は云ふ。
「いや,そんな事はない。調べれば直ぐ解る」かういつて柳は橋本君の出して來た,東洋美術に關するフエノロサの遺稿について居る細君の書いた小傳を調べ出した。
藤岡さんの本を調べて居た橋本君が,
「ありました。米國,ボストンの人,フエノロサ……」かういふと柳は
「いや,それはうそだ。スペインだ……」,人差指で字を追ひながら急いで讀みつつ云つた。「確かに左うだ。スペイン人だ」
皆は笑つた。橋本君の原稿が少し短過ぎるやうだといふ話のあつた時なので「それを皆な書くといゝ。余は英國人と思ひ,柳氏はスヰス人と思ひ,藤岡作太郎氏は米國ボストンの人と思ふ,といふ風に……」こんな事をいつて笑つた。

大正ともなると、フェノロサ・岡倉天心の明治は遠くになりにけり,です。こう書かれると,個人的に関心のあるフェノロサや「細君」メアリ・フェノロサも形無しです。

 

1924真鶴_近刊予定

▲新しき村出版部刊行『眞鶴(まなづる)』巻末にある「人類の本」刊行予定
「近刊」とあるもののなかで,園池公致短編選集や長島豊太郎短編選集などは刊行されませんでした。曠野社の発行兼印刷者であった長島豊太郎は,曠野社解散後は,その名前を見ることはなくなります。
実際に刊行された「人類の本」は,紅野敏郎『大正期の文芸叢書』(1999年,雄松堂出版)によれば,次のようなものでした。

 1 志賀直哉『眞鶴』(短編選集)
  大正13年2月18日印刷
  大正13年3月15日発行
 2 長与善郞『或る社会主義者』(短編選集)
  大正13年2月20日
 3 武者小路実篤『女の人の為に』(評論感想集)
  大正13年3月15日
 4 千家元麿『冬晴れ』(短編脚本選集)
  大正13年3月18日
 5 木村荘八『猫』(小品選集)
  大正13年4月20日印刷
  大正13年4月25日発行
 6・7 ストリンドベリイ作,外山楢夫・外山完二訳『三部曲』
  大正13年5月25日
 8 木村荘太訳編『創造的芸術家(一)シエイクスピア』
  大正13年5月25日
 9 武者小路実篤『建設の時代』(評論感想集)
  大正13年6月15日
 10 アナトオル・フランス作 竹友藻風訳『丸太』(近代仏蘭西短編小集)
  大正13年6月18日
 11 木村荘太訳編『創造的芸術家(二)バルザック』
  大正13年7月18日
 12 長与善郞『波』(詩,感想,評論,紀行集)
  大正13年8月18日
 13 千家元麿『日常の戦』
  (未刊行?)
 14 武者小路実篤『耶蘇』(評伝)
  大正13年9月25日
 15 倉田百三『静思』(感想評論集)
  (?)
 16 武者小路実篤『三方面』(感想評論集)
  大正13年9月25日

印刷所の曠野社解散後,「新しき村」の出版事業は,宮崎県の日向新しき村(宮崎県児湯郡木城局区内新しき村)に移り,日向新しき村版「村の本」が大正14年から刊行されます。その中には,評論家・小林秀雄の最初の単行本,ボードレール・小林秀雄訳『エドガー・ポー』(昭和2年5月15日)も含まれています。地方出版の新たな可能性の芽もあったのではないかと思われますが,うまく続かなかったようです。

 

1924木村荘八_猫_扉

▲新しき村出版部刊行『猫』の扉
木村荘八『猫』(小品選集)は, 大正13年4月20日印刷,大正13年4月25日発行。
内容は次のようなもので,猫,古本,街歩きなどと「読み物」エッセイで現在も好まれる主題が並んでいます。いわゆる「エッセイ集」の初期型のような気がします。「人類の本」という大仰な看板からすると,だいぶ肩の力が抜けたエッセイ集です。木村荘八の場合,自ら描くイラストを合わせると都市型エッセイストとして理想的な存在となりますが,残念ながら,この小品集『猫』ではイラストは使われていません。

  猫
  「上」渠の生活
  「下」猫三代(大正十年八月記す)
  附録 思ひ出(大正九年記す)
  玉
  VIE
  チャン
 病中記、三稿
  或る醫師(五月五日。赤塚醫院階上室」にて認む)
  矢田部さん
 要らぬ買もの
 或る町筋(十一月下旬稿)
 愉快な旅行と當てなき散歩
  愉快な小旅行――だがあの馬車馬は気の毒だ――(大正八年一月二日の稿を用ゆ)
  ペン軸と古本(大正八年七月十三日午後の稿を用ゆ)
 遊ぶ會
  一、はじめ
  二、中ごろ
  三、をわり
  蛇足――會の由來、など(十一年二月號「中央公論」所載)
 奉天小觀
  上
  下(以上,大正十一年四月三十日、稿了)

 

1924木村荘八_猫_奥付

▲新しき村出版部刊行『猫』の奥付
独自の検印紙が作られていて,検印は「木村」です。

この箱入りの志賀直哉『真鶴』と木村荘八『猫』は,掘り出し物といえば,掘り出し物の本です。鹿児島の古本屋さんで購入しました。どういうところから仕入れたのか尋ねてみましたら,福岡や東京の市場で仕入れたものでなく,鹿児島のかたからの店買いだったそうです。こうした本を所有している方が,鹿児島にもいるのだなと思いました。

鹿児島の古本屋さんで見つけた本ですが,私が見つけたわけではありません。
都会育ちの友人を案内して,鹿児島の古本屋さんを何軒かはしごしたとき,そのときは残念ながら彼の探求分野に合う本はなかったようですが,彼がざっと古本屋さんの本棚を一周するなかで,これはちょっと珍しいかもと,わたしに勧めてくれた何冊かの1つです。古書店のひしめく街に住んで,そこに日参している人は,目の利きかたが違うなと,素直に感心してしまいました。珍しい物に対する動体視力・触覚みたいのものが,鍛えられているのでしょう。鹿児島に住んでいると,現状では,古いものに対する感覚が育ちにくいのかもしれません。

 

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122. 1912年ごろのスレイド美術学校のピクニック集合写真(2013年10月17日)

1912 Slade picnic

 

1912年ごろ,ロンドンのスレイド美術学校のピクニックでの集合写真です。この写真を初めて見たのは,1980年のスタンレー・スペンサー回顧展カタログです。この若い人たちの未来に何があるのか,想像したり調べたりするのが楽しみでした。これは,19世紀末生まれのイギリスの画家たちの伝記によく収録されている集合写真で,テイト・ギャラリーが所蔵しています。スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer,1891~1959)をはじめとする1890年前後生まれの画家の卵たちがそろっている貴重な写真です。この写真には写っていませんが,同じころスレイド美術学校には,ポール・ナッシュ(Paul Nash,1889~1946)やベン・ニコルソン(Ben Nicholson,1894~1982),ウィリアム・ロバーツ(William Roberts,1895~1980),グウェン・ラヴェラ(1885~1957)らも在籍していましたから,いわば当たり年の世代でした。

この写真を巻頭にかかげた,デヴィッド・ボイド・ヘイコック(DAVID BOYD HAYCOCK)『A CRISIS OF BRILLIANCE: FIVE YOUNG BRITISH ARTISTS AND THE GREAT WAR』(2009年,Old Street Publishing)という本が,少し評判になっています。1908年~1914年ごろ,スレイド美術学校に在学したスタンレー・スペンサー,ポール・ナッシュ,マーク・ガートラー(Mark Gertler,1892~1939),C.R.W.ネヴィンソン(C.R.W.Nevinson,1889~1946),ドーラ・キャリントン(Dora Carrington,1893~1932)ら5人の集団的伝記です。ここでの「A CRISIS OF BRILLIANCE」は「才能の危機」という意味ではなく,「才能の山場,才能の当たり年」のような意味でスレイドの名物教授が使った言葉で,1908年~1914年ごろ,スレイド美術学校にすぐれた才能が連れ立って現れたことを意味しています。ただ,この世代は1914~1918年の第1次世界大戦の前線に駆り出された世代でもあるので,「CRISIS」は文字通り「危機」も含んでいます。

この写真を掲載している手もとにある本で,写真のどの人物を紹介しているのか,その濃淡を調べてみました。

まず本を列挙して,その後で,この写真に写っている23人と1匹を1人ずつ拡大して紹介してみます。この写真を掲載した【A】【K】の本で,人物名を明示しているものを,それぞれの写真の下に【A】【K】で表すことにします。

【A】 1980年のスタンレー・スペンサー回顧展カタログ

1980Stanley Spencer RA

ROYAL ACADEMY OF ARTS LONDON『Stanley Spencer RA』(1980, WEDNFIELD AND NICOLSON)
カタログ・レゾネ『STANLEY SPENCER』(1992,PHAIDON)の編者でもあるキース・ベル(Keith Bell)による展覧会カタログ。この回顧展があったので,ロバート・ワイアットの曲「Shipbuilding」も誕生したのだと思います。
Richard Carline「Stanley Spencer: his personality and mode of life」p10。
写真キャプションは「A Slade picnic party, c.1912.」

【B】 1987年のリチャード・コーク『デヴィッド・ボンバーグ』

1987Bomberg_Cork

Richard Cork『David Bomberg』(1987,YALE UNIVERSITY PRESS)
リチャード・コークによるボンバーグ再評価の力業です。
写真キャプションは「Photograph of the Slade picnic, c.1912」

【C】 1989年のグレッチェン・ガージナ『キャリントン』

1989GERZINA_Carrington

GRETCHEN GERZINA『Carrington: A LIFE OF DORA CARRINGTON 1893 - 1932』(1989,John Murray)
書影は1995年のPimlico版ペーパーバック。
写真キャプションは「Slade School picnic with Carrington in the front row at left」

【D】 1991年のケネス・ポプル『スタンレー・スペンサー:伝記』

1991Spencer_Pople

KENNETH POPLE『STANLEY SPENCER: A BIOGRAPHY』(1991,COLLINS)
写真キャプションは「Slade group on a summer outing, 1912」

【E】 1994年のジェイン・ヒル『ドーラ・キャリントンの藝術』

1994Carrington_Hill

JANE HILL『THE ART OF DORA CARRINGTON』(1994,The Herbert Press)
書影は1995年のペーパーバック版。写真キャプションは「Group of Slade students and staff c.1911」

【F】 1997年のフィオナ・マッカーシー『スタンレー・スペンサー:英国のヴィジョン』

1997Spencer_MACCARTHY

FIONA MACCARTHY『STANLEY SPENCER: An English Vision』(1997,Yale University Press)
写真キャプションは「Slade summer outing. c.1912」

【G】 2001年のテイト・ギャラリー『スタンレー・スペンサー』展カタログ

2001Spencer_Tate

Edited by Timothy Hyman and Patrick Wright『STANLEY SPENCER』(2001,Tate Publishing)
写真キャプションは「Slade Students and teachers on a summer outing in 1912」

【H】 2001年の『スタンレー・スペンサー:手紙と手稿』

2001Spencer_Letters

Selected and edited by Adrian Glew『Stanley Spencer: LETTERS AND WRITINGS』(2001,Tate Publishing)
写真キャプションは「The Slade School picnic, 1911 or 1912」

【J】 2009年のデヴィド・ボイド・ヘイコック『輝ける世代』

2009HAYCOCK A CRISIS OF BRILLIANCE

DAVID BOYD HAYCOCK『A CRISIS OF BRILLIANCE: FIVE YOUNG BRITISH ARTISTS AND THE GREAT WAR』(2009,DAVID BOYD HAYCOCK)
1908年~1914年ごろ,スレイド美術学校に在学したStanley Spencer,Paul Nash,Mark Gertler,Richard Nevinson,Dora Carringtonら5人の集団的伝記。「1912年ごろのスレイド美術学校のピクニック集合写真」を口絵にしていて,そこから着想された伝記だと思います。
写真キャプションは「The Slade Picnic, 1912」

【K】 2013年の『ナッシュ・ネヴィンソン・スペンサー・ガートラー・キャリントン・ボンバーグ:1908-1922』展の展覧会カタログ

2013Nash Nevinson Spencer Gertler Carrington Bomberg

DAVID BOYD HAYCOCK『Nash Nevinson Spencer Gertler Carrington Bomberg: A CRISIS OF BRILLIANCE 1908 - 1922』(2013,SCALA)
2009年のヘイコック『輝ける世代』をもとにして,スペンサーら5人に加え,David Bombergも加えた展覧会のカタログです。カタログの表紙はボンバーグの作品が選ばれています。ロンドンのDulwich Picture Galleryで開催。
写真キャプションは「Slade School of Art Picnic, c.1912」

 

「スレイド美術学校のピクニック写真」の23人と1匹

1912Slade Picnic_A1_Dora Carrington

【A】【B】【C】【D】【E】【F】【G】【H】・【J】・【K】
Dora Carrington(1893~1932)
スレイド美術学校の女子学生キャリントン,ハイルズ,ブレットは,短く切った髪から「cropheads」と呼ばれていました。「cropheads」を「いがぐり頭」と翻訳してている例がありましたが、写真のようなショートカットです。

 

1912Slade Picnic_A2_Barbara Hiles

【D】では,Ruth HumphriesかBarbara Hilesと推測。
【J】【K】では,Barbara Hiles
「cropheads」の1人。

 

1912Slade Picnic_A3_C R W Nevinson

【A】【B】【C】【D】【E】【F】【G】【H】・【J】・【K】
【G】では,左から「ガートラー,ネヴィンソン」の順になっていますが,間違いでしょう。
Christopher Richard Wynne Nevinson(1889~1946)
画家。

ネヴィンソンについては,1920年代初頭,内田魯庵がコラム『貘の舌』などで「子ビンソン」と紹介しています。モダニズムについての内田魯庵の文章は威勢が良くて面白いです。イギリスの『スタジオ』誌などを経由したモダニズム理解があったのではないかと推測します。参考までに内田魯庵を少し引用。

「……ネビンソンの咄は打切りとして、扨て日本の美術家だが、一体何をしてゐるんだ。世界の動揺を一番早く感じたのは美術家だと云ったが、それは西洋の咄で、日本の美術家は感じる処か、丸で木像だ。新画新画といふ日本画が黴臭い旧画であるは論外だが、新らしそうな事を云ふ洋画家に新らしい画がある乎知らん。小手先の器用な男がゴホやセザンヌは魯かマチスやマリネッチの真似までするが、皆新らしい死骸だ。イクラ新らしくて死骸は死骸だ。作者の息が通ってゐない。町では普選運動者が威勢よく宣伝ビラを振撒いてるが、展覧会の中は丸で別世界だ。尤も其方が心身の圧迫を忘れさせる美術の目的に協ってるかも解らんがネ」

「何故ポスターを作らんのだ。ポスターは宣伝の馬印だ。千成瓢箪や五本骨の扇が敵の肝を冷やし味方の士気を鼓舞したようにポスターの振うと振はないとは宣伝の威力に大関係がある。ブランギンのポスター一枚が一軍団以上に威力を発揮したのは英国人が感謝し且誇る処だ。(略)ポスターは必ず金が掛るといふものでは無い。ケバケバしい呉服屋のポスターと図案の巧妙印刷の精美を争ふようなものは普選のポスターとしては寧ろ大禁物だ。差向き一案を授けやうなら酒薦か職工服の青木綿にカンヂンスキー流か乃至はマリネッチ張の放射線の混錯したやうなエタイの分らないものを刺戟の強い絵具で塗り散らせば立派な宣伝になる。由来三角派や未来派は展覧会の画よりは動揺や改革を暗示するポスターとして威力を発揮する事が出来る」

魯庵のいう「三角派」はキュビズムのことです。

そういえば,このスレイド美術学校のピクニックと同じ頃,1913年,木下杢太郎は,「博士と悪魔と」というモダンな戯れ歌を作っていました。[ ]内はルビです。

  フワン・ゴオホ、セザンヌ、グレコにピカソ、
  麭包種[ぱんだね]は舶来[はくらい]、安[やす]くて本物[ほんもの]と違[ちが]はぬ立體派[きゆびずむ]
  アンリイ・ルツソオの新柄[しんがら]、内田魯庵[うちだろあん]の皮肉[ひにく]、
  メエゾン・コオノスはエスキヤルゴにグレヌイユ、
  ホテルでは先[さき]を越[こ]して薄茶入[うすちゃい]れのアイスクリーム
  全體日本人[ぜんたいにほんじん]は手藝[手芸]が巧[たくみ]で、機関[からくり]だけを取[と]り寄[よ]せ、
  仕上[しあ]げはこちらでしやす、巴里仕込[パリじこみ]の髪へ
  宗十郎頭巾[そうじふらうづきん]などは乙[おつ]でげせう、一寸[ちよつと]目立[めだ]たぬほどに
  江戸[えど]、長崎[ながさき]などあしらつて新柄[しんがら]で𧶠[う]り出しやす
  先生一[せんせいひと]つどうでげす、山口[やまぐち]へ電話[でんわ]をかけて、
  自動車[じどうしや]で帝劇見物[ていげきけんぶつ]としやれようぢやごわせんか。
  バツクストの背景[はいけい]でドビシイの作曲[さくきよく]、
  喜熨斗[きのし]に高橋[たかはし]に波野[なみの]さん、外題[げだい]はシヤア・ノワアル。
  ちよつと六代目[ろくだいめ]がメエテルランク張[ば]りでいきやす。
  序幕[じよまく]には爲朝[ためとも]がだまつてしつ込[こ]むんですとさ。

パリ指向・モダニズム・地方主義・皮肉が入り交じった作品が,イギリスでも日本でも,誕生しようとしていました。

 

1912Slade Picnic_A4_Mark Gertler

【A】【B】【C】【D】【E】【F】【G】【H】・【J】・【K】
Mark Gertler(1892~1939)
画家。キャリントンに恋していました。

 

1912Slade Picnic_A5_Edward Wadsworth

【A】【J】【K】では,Edward Wadsworth(1889~1949)。【G】【H】ではEdward Wadsworthかと推定。
【B】では,William Roberts(1895~1980)
ワズワースもロバーツも画家。

 

1912Slade Picnic_A6_Adrian Allinson

【A】【B】【D】【G】【H】・【J】・【K】
Adrian Allinson(1890~1959)
美術教師。商業美術・舞台美術家。

 

1912Slade Picnic_A7_dog

dog
この犬の一生の物語も面白いものになりそうです。

 

1912Slade Picnic_A8_Stanley Spencer

【A】【B】【C】【D】【E】【F】【G】・【H】・【J】・【K】
Stanley Spencer(1891~1959)
20世紀イギリスを代表する画家。クッカム(Cookham)という田舎町で生涯を過ごします。スレイド時代も,あだ名は「クッカム」でした。

 

1912Slade Picnic_A9_unknown

unknown
名前が記載されていない人でも,別の視点からすると面白いキャラクターだったりすることが往々にしてあります。

 

1912Slade Picnic_B1_Isaac Rosenberg

【B】【C】【D】【F】【H】・【J】・【K】
Isaac Rosenberg(1891~1918)
第1次世界大戦で亡くなった詩人。この写真の7年後には亡くなります。
ローゼンバーグの詩集は,ゴードン・ボトムレイが編集しました。ローゼンバーグは,スタンレー・スペンサーのことを「わたしの世代で最良の存在」と高く評価していました。

 

1912Slade Picnic_B2_unknown

unknown
集合写真で「1人おいて」とか書かれるのは,残念な話ですが,魅かれもします。別の人生があったと想像するきっかけにもなります。

 

1912Slade Picnic_B3_unknown

【D】
Dorothy Meyer
ロンドングループの画家Harold Gilman(1876~1919)の二番目の妻。

 

1912Slade Picnic_B4_Dorothy Brett

【D】【E】【J】【K】
Dorothy Brett(1883~1977)
貴族出身。難聴で大きな耳ラッパでも知られていました。1924年,作家のD.H.LawrenceとFriedaの夫妻に付き従い,藝術家の共同体をめざしてアメリカのニューメキシコのタオス(Taos)に移住し,生涯をそこで過ごします。

 

1912Slade Picnic_B5_unknown

【D】では,Ka Cox(1887~1938)ではないかと推測しています。
ケイ・コックスはグウェン・ラヴェラの友人で,詩人のルパート・ブルックが失恋した相手です。

 

1912Slade Picnic_B6_unknown

unknown
100年以上前の写真ですから,ここに写っている人たちは皆亡くなっています。

 

1912Slade Picnic_B7_unknown

unknown
顔を類型的にとらえて,この「無名」の人がどんな人生を送ったのか,考えたりします。

 

1912Slade Picnic_B8_unknown

unknown
彼女はどんな作品を描いたのでしょうか。

 

1912Slade Picnic_B9_unknown

unknown
この時代,スレイドのように男女共学というのも例外的な場所でした。

 

1912Slade Picnic_C1_unknown

unknown
後列に並んでいるのは教師陣と事務方でしょうか。スレイドの教師陣には,素描のヘンリー・トンクス(Henry Tonks),油彩のフィリップ・スティア(Philip Wilson Steer)やウォルター・ラッセル(Walter Russell),批評家のD.S.マッコール(D.S.MacColl)やロジャー・フライ(Roger Fry)らもいて,彼らがピクニックに参加していてもおかしくありません。

 

1912Slade Picnic_C2_unknown

unknown
名前が分かれば,ああ,あの人か,というような人のような気がします。

 

1912Slade Picnic_C3_David Bomberg

【B】【C】【D】【F】【G】【H】・【J】・【K】
David Bomberg(1890~1957)
画家。

 

1912Slade Picnic_C4_Frederick Brown

【B】【C】【D】【H】・【J】・【K】
Professor Frederick Brown(1851~1941)
フレデリック・ブラウンがスレイドの教授に就任した1892年に,オーガスタス・ジョン(Augustus John),アンブローズ・マカヴォイ(Ambrose McEvoy),ウィリアム・オーペン(William Orpen),ウィンダム・ルイス(Wyndham Lewis)ら,すぐれた藝術家の卵たちが集まって,最初のスレイドの才能の当たり年(Crisis)があったとされます。いわば「オーガスタス・ジョン世代」です。1918年スレイドの教授となったヘンリー・トンクスによれば,スレイドに起こった2度目で最後の「才能の当たり年(Crisis of Brilliance)」は1908~1914年に在学した世代で,いわば「スタンレー・スペンサー世代」です。この集合写真の世代です。

 

1912Slade Picnic_C5_unknown

【B】【D】・【H】
Charles Koe Child(1867~1935), Slade Secretary
【E】ではProfessor Frederick Brown

 

1912Slade Picnic_C6_unknown

unknown

 

スペンサー関連の書目ばかりですが,手もとの10冊すべてで言及されていたのは,写真の23人のなかで,スタンリー・スペンサー,ドーラ・キャリントン,C.R.W.ネヴィンソン,マーク・ガートラーの4人でした。一方で,まったく言及されていない人も9人いました。いろんな人生を想像してしまいます。

しかし,なぜ,このような,石を投げれば才能にぶつかるような情況が生まれたのか,謎です。スレイド美術学校がすぐれた教育機関だったから,というわけでもなさそうです。卒業生・中退者の回想では怨嗟の声も多く,才能が集まってしまったのは,たまたまだったとしか言いようがありません。
歴史の中で,時々そういうことが起こります。そういう,人が集まる流れを演出できれば,面白いことになるのでしょうが。

 

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121. 1929年のアーサー・ウェイリー訳『虫愛づる姫君』(2013年10月8日)

1929Wale_The Lady Who Loved Insects_cover

 

『虫愛づる姫君(THE LADY WHO LOVED INSECTS)』は『堤中納言物語』に収められている短編ですが,それをアーサー・ウェイリー(Arthur Waley,1889~1966)が翻訳した,1929年にしか生まれないような,美しいモダンな1冊になっています。絹のクロス装。シンプルな箱いりの本です。

パリのロシア系ユダヤ人J. E. Poutermanが創設したThe Blackamore Pressの本です。
J. E. Poutermanは1929年に出版事業をやめているようなので,ほぼ最後のThe Blackamore Pressの本です。印刷は,イギリスのカーウェン・プレス(Curwen Press)。アーサー・ウェイリーとカーウェン・プレスの組み合わせは珍しくて,うれしい組み合わせです。
挿絵のドライポイントは,フランスの画家エルミヌ・ダヴィット(Hermine David,1886~1970)によるもの。アーモリーショーで有名な画家のジュール・パスキン(Jules Pascin,1885~1935)の奥さんです。

『虫愛づる姫君』は,平安時代のお話ですが,当時,女性の眉毛抜き・お歯黒が当たり前の姿であったとき,眉毛を抜いたり歯を黒く染めるのは不自然と言い放ち,白い歯でにかっと笑う女の子が主人公の物語なので,思いがけず主人公が20世紀の少女のようになっています。1000年の時を超えて,期せずしてモダンな反抗者の物語になってしまったわけです。

その期せずして生まれたモダンな物語世界を足がかりにして,いわばイギリス的感性とフランス的感性とロシア的感性が協同して,ここでないどこかであった「日本」を夢想して作られた本です。


1929Waley_Insects Box

▲外箱の右下に小さく「Blackamore」と書かれています。The Blackamore Pressの関係者が書いたのか,前所有者が書いたのか,分かりません。

 

1929Waley_Insects_title page

▲アーサー・ウェイリー訳『虫愛づる姫君』のタイトルページ。口絵はエルミヌ・ダヴィットのドライポイント。

 

1929Waley_Insects_frontispiece

▲エルミヌ・ダヴィットのドライポイントによる口絵。ここにあるのは平安時代の日本でなく,1929年のイギリス・フランスで夢想された,ここでないどこかです。それは,例えば,1906年のメアリ・フェノロッサ(Mary McNeil Fenollasa)『龍の画家(THE DRAGON PAINTER)』の日本へ寄り添おうとした挿画より,どこでもないことで,かえって成り立っています。日本から見ても,これは夢の空間なのです。窓の猫も良いです。この猫はどこの帰属するのでしょうか。

 

1906Mary McNeil Fenollasa_Dragon Painter_Illust

▲メアリ・フェノロッサ『龍の画家(THE DRAGON PAINTER)』のGertrude McDanielによる挿絵。奥に座るKano Indara(狩野インダラ)とTatsu(龍)とUme-ko(梅子)。Tatsu(龍)の履き物だけで,「変」な感じになってしまっています。日本からの視線だと,夢の空間になりそこねてしまいます。

 

1929Wale_Insects_HERMINE DAVID_title

▲エルミヌ・ダヴィットのドライポイントによる『虫愛づる姫君(THE LADY WHO LOVED INSECTS)』タイトル。この図像ではつぶれていますが,実際のドライポイントでは,手のひらの毛虫のけばだった感じがよく出ています。

次は1929年版のウェイリー訳『虫愛づる姫君(THE LADY WHO LOVED INSECTS)』冒頭部分です。赤字は1952年版(『The Real Tripitaka AND OTHER PIECES』収録のもの)との異同です。

 THE LADY WHO LOVED INSECTS

Next door to the lady who loved butterflies was the house of a certain Provincial Inspector. He had an only daughter, to whose upbringing he and his wife devoted endless care. She was a strange girl, and used to say: ‘Why do people make so much fuss about butterflies, and never give a thought to the creatures out of which butterflies grow? It is the Natural Form of things that is always the most important.’ She collected all kinds of reptiles and insects such as most people are frightened to touch, and watched them day by day to see what they would turn into, keeping them in various sorts of little boxes and cages. Among all these creatures her favorite was the common caterpillar. Hour after hour, her hair pushed back from her eyes, she would sit gazing at the furry black form that nestled in the palm of her hand. She found that other girls were frightened of these pets, and her only companions were a number of rather rough little boys, who were not in the least afraid. She got them to carry about the insect-boxes, find out the names of the insects, or if this could not to be done, help her to give them new names. She hated everything that was not natural. Consequently she would not pluck a single hair from her eyebrows, nor would she blacken her teeth, saying it was a dirty and disagreeable custom. So morning, noon and night she tended her insects, bending over them with a strange, whitely-gleaming smile. People on the whole were frightened of her and kept away: the few who ventured to approach her came back with the strangest reports. If anyone showed the slightest distaste for her pets, she would ask him indignantly how he could give way to so silly and vulgar a prejudice, and as she said this she would stare at the visitor under her black, bushy brows in a way that made him feel extremely uncomfortable.

次はARTHUR WALEY『The Real Tripitaka AND OTHER PIECES』(GEORGE ALLEN AND UNWIN LTD,1952)収録の「虫愛づる姫君(THE LADY WHO LOVED INSECTS)」の冒頭部分です。赤字は1929年版との異同がある部分です。

 THE LADY WHO LOVED INSECTS

NEXT door to the lady who loved butterflies was the house of a certain Provincial Inspector. He had an only daughter, to whose upbringing he and his wife devoted endless care. She was a strange girl, and used to say: ‘Why do people make so much fuss about butterflies and never give a thought to the creatures out of which butterflies grow? It is the Natural Form of things that is always the most important.’ She collected all kinds of reptiles and insects such as most people are frightened to touch, and watched them day by day to see what they would turn into, keeping them in various sorts of little boxes and cages. Among all these creatures her favorite was the common caterpillar. Hour after hour, her hair pushed back from her eyes, she would sit gazing at the furry black form that nestled in the palm of her hand. She found that other girls were frightened of these pets, and her only companions were a number of rather rough little boys, who were not in the least afraid. She got them to carry about the insect-boxes, find out the names of the insects or, if this could not to be done, help her to give them new names. She hated anything that was not natural. Consequently she would not pluck a single hair from her eyebrows nor would she blacken her teeth, saying it was a dirty and disagreeable custom. So morning, noon and night she tended her insects, bending over them with a strange, white gleaming-smile. People on the whole were frightened of her and kept away; the few who ventured to approach her came back with the strangest reports. If anyone showed the slightest distaste for her pets, she would ask him indignantly how he could give way to so silly and vulgar a prejudice, and as she said this she would stare at the visitor under her black, bushy eyebrows in away that made him feel extremely uncomfortable.

「虫愛づる姫君」は,お歯黒もしない変わり者なので, 白い歯を見せて笑うと周囲から気味悪がられています。原文で「いと白らかに笑みつつ」の部分――国会図書館蔵の旧榊原家蔵『堤中納言物語』の変体仮名の漢字に寄せた表記だと「以止之呂良可尓恵三川ゝ (いとしろらかにゑみつゝ)」―― ですが,1929年訳では「whitely-gleaming smile」,1952年訳では「 white gleaming-smile」と表現を変えています。 気になる部分だったのでしょう。

 

1929Wale_caterpillar

▲アーサー・ウェイリー訳『虫愛づる姫君』からエルミヌ・ダヴィットのドライポイント。

 

次の引用は,国会図書館蔵の旧榊原家蔵『堤中納言物語』10巻から「むしめつるひめ君」の冒頭部分を,変体仮名を元の漢字に寄せて書き写したものです。
( )内は,変体仮名を平仮名に改めたものです。

赤字はもともと本文のなかで,変体仮名でなく漢字を使っているものです。行替えは旧榊原家蔵『堤中納言物語』に倣ってみました。

 武之女川留比女
 (むしめつるひめ君)

  天婦女津留比女幾三能春三
  (てふめつるひめきみすみ給ふ)

  加多八良尓安世知乃大納言
  (かたはらにあせちの大納言の御む)

  春女尓久ゝ奈部天奈良奴左満尓
  (すめ心にくくなへてならぬさまに)

  於也多知可之徒支不古止加幾利
  (おやたちかしつき給ふことかきり)

  奈之古之飛女幾三乃之事人〻
  (なしこのひめきみのの給ふ事人〻)

  乃曽礼天不也止女川留己曽者可
  (のそれてふやとめつるこそはか)

  奈久安也之計礼八末古止安利本无
  (なくあやしけれ人はまことありほん)

  知多川年堂留己曽者部遠可之計礼
  (ちたつねたるこそ心はへをかしけれ)

  止天与呂川乃武之乃於曽呂之
  (とてよろつのむしのおそろし)

  遣奈留遠安川女天古礼可奈良无
  (けなるを取あつめてこれかならん)

  左満遠三武止天佐末/\奈留己者
  (さまをみむとてさま/\なるこは)

  古止毛仁以礼左世給中仁毛加者部之
  (こともにいれさせ給中にもかはむし)

  乃婦可支左満之堂留己曽尓久
  (の心ふかきさましたるこそ心にく)

  遣礼止天安遣久礼八美見者左三遠
  (けれとてあけくれはみみはさみを)

  之天能宇知仁曽部婦世天末本
  (して手のうちにそへふせてまほ)

  利不宇幾〻八於知満止比个礼
  (り給ふうき人〻はおちまとひけれ)

  八遠乃和良遍能毛乃於知世春以不
  (はをのわらへのものおちせすいふ)

  可比奈支遠女之与世手乃武之
  (かひなきをめしよせて箱のむし)

  止毛遠止良世遠止比幾ゝ天以末安
  (ともをとらせ名をとひきゝていまあ)

  多良之支尓八奈遠□希天幾宇之
  (たらしきにはなを〔つ〕けてきうし給)

  部類春部天川久呂不止古呂安留八
  (へるすへてつくろふところあるは)

  王呂之止天末由左良仁奴幾
  (わろしとてまゆさらにぬき給は)

  春者久呂女佐良尓宇留左之幾多奈之
  (すはくろめさらにうるさしきたなし)

  止天川遣八春以止之呂良可尓恵三
  (とてつけ給はすいとしろらかにゑみ)

  川ゝ己乃武之止毛遠安之多由不部尓
  (つゝこのむしともをあしたゆふへに)

  安以之[給人]〻於知王比天尓久礼者
  (あいし給人〻おちわひてにくれは)

  曽乃可多八以止安也之久奈无能ゝ
  (その御かたはいとあやしくなんのゝ)

  之里个留可久於川留遠者个之
  (しりけるかくおつる人をはけし)

  加良春八宇楚久奈利止天以止末由
  (からすはうそくなりとていとまゆ)

  久呂尓天奈无仁良三个留仁以止ゝ
  (くろにてなんみらみ給けるにいとゝ)

  心知奈无末止比遣留於也堂知八
  (心ちなんまとひけるおやたちは)

あらためて近代以前の変体仮名で書かれたテキストを見ると,現代,あるいは近代で当たり前になっている句読点・括弧などの約物がなかったり,濁点・半濁点や拗音・撥音の表記がない表記は,日本語表記の基本形でもあるので,近代に凝り固まった頭をときほぐすような効果もあるような気がします。

変体仮名を仮名でなく漢字に寄せて表すとちょっと堅苦しくなってしまいますが,「天婦女津留比女(てふめつるひめ)」と「武之女川留比女(むしめつるひめ)」は字面からして性格が違うのも面白いところです。同じ「つ」を表記するにも「津」と「川」と違うところも,1対1対応でない,ゆるさがあります。

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