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my favorite things 41 - 50

 my favorite things 41(2013年1月13日)から50(2013年1月22日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

50. 1958年の小沼丹『黒いハンカチ』(2013年1月22日)

1958OnumaTan_BlackHandkerchief

英文学者・小説家小沼丹が1950年代後半に書いた連作短編集です。A女学院の英語教師ニシ・アヅマが,身の回りで起きる事件を解いていく探偵小説です。
この小説が持つ雰囲気に近いものというと,時期的には若干のずれがありますが,小津安二郎の『麦秋』(1951年)の場面を連想してしまいます。『麦秋』で,同級生の披露宴後,未婚の間宮紀子(原節子)と田村アヤ(淡島千景)と,既婚の安田高子(井川邦子)と高梨マリ(志賀真津子)とに分かれて,かつての同級生たちが仲良くやり合う場面があるのですが,そうした女学校的な言葉遣いや振る舞いと地続きの世界が舞台になっています。また,『麦秋』では,紀子とアヤが「ねえ」と言葉を合わせるところや,紀子の「いやあねえ」というつぶやきが耳に残るのですが,小沼丹の小説にもそうしたところがあります。小沼丹を読んだあとは「かしらん」で文章を終わらせたくなってしかたありません。『黒いハンカチ』収録の「スクェア・ダンス」の登場人物には,「マミヤ君」「ミヤケ君」「ナカムラ先生」もいますので,実は小沼的世界は小津的世界と地続きだったのかもしれません。
小沼丹の『黒いハンカチ』や『不思議なソオダ水』に収録された短編小説が書かれたのは1950年代後半ですが,その多くで登場人物の名前が「ニシ・アヅマ」のようにカタカナ表記が使われていて,そのときを直接知っているわけではないのにもかかわらず,とても懐かしい感じがします。星新一の「エヌ氏」や「エフ氏」に通じるものもあります。日本人に「ジョニー」などのような欧米人風の渾名をつけることとはまた別のカタカナ感覚です。
現実の世界には,同時代的な想像力世界も帯同していて,想像力も時代性や地域性に規定されているようなところがあります。1950年代から1960年代の想像力世界の登場人物たちには,「ニシ・アヅマ」や「エヌ氏」のようなカタカナ表記の名前のキャラクターが結構いて,それが似合っていました。

1970OnumaTan_StrangeSodaWater

▲小沼丹『不思議なソオダ水』三笠書房,昭和45年(1970年)11月15日第1版発行。
帯に「読売文学賞受賞後初の小説集」とありますが,新作でなく,すべて『黒いハンカチ』と同時期の1950年代後半の短編で,それが逆に嬉しい作品集です。登場人物名が「マノ・マモル氏」や「タンノ氏」とカタカナ表記の時代です。

小沼丹『黒いハンカチ』は,版ごとに表記が揺れている本です。「新字新仮名遣い」や「新字体歴史的仮名遣ひ」だったりで,どういう表記がよいのか,考えてしまいます。
 1958年の三笠書房『黒いハンカチ』
 2003年の創元推理文庫『黒いハンカチ』
 2004年の未知谷の小沼丹全集
の3つの版から文章をサンプル的に抜き出してみて,1958年の三笠書房版をもとに,その後の版との異同を赤字で表してみました。

▼小沼丹『黒いハンカチ』(三笠書房,1958年8月5日 第1版発行)「赤い自転車」より。
三笠書房版の著者の「あとがき」で,「なお、本書に収めるにあたって、各作品とも多少手を加えたことを附記しておく。」とあって,昭和32年4月から33年3月まで雑誌『新婦人』で連載したものに加筆したことを断っています。
★★★
――どうなんだい、と伯母は老眼鏡ごしにニシ・アヅマの顔を見た。お勤めは面白いのかい?
――ええ、割合い面白いわ。
――ふうん……。そりゃまあ結構だね。でも、女だからね、いつまでもお勤めしてるってわけにも行かないだろうしね……。
――何故?
――何故って、お前、やっぱりお嫁に行くことも考えなくちゃ……。
ニシ・アヅマは笑った。この伯母は十人ばかりの婆さん連中で妙な会をつくっている。妙な会というと伯母は怒るかもしれぬが、お互いに花嫁花婿の候補者の情報をもち寄って一組の夫婦をつくりあげては嬉しがる会である。既にこの伯母の手だけで九組の夫婦をつくった。前に何度かニシ・アヅマもこの伯母の勧誘を受けたことがある。ニシ・アヅマには内密に彼女の写真を彼女の母から持って行ったこともある。が、ニシ・アヅマは一向にそんな話に乗らなかった。しかし、伯母の方は十番目の夫婦をつくり上げるには是非自分の姪のニシ・アヅマに一役買わせたいと思っているらしかった。のみならず,候補者なるものも四、五人はいるらしかった。
――そうそう、写真が届いてたっけ。
――いやよ。伯母さん。
――いやじゃありません。
伯母は編物をテエブルの上に置くと立って行った。二分ばかりガタガタさせていたと思うと写真を七八枚持って来た。そのうち、三枚は男で残りが女であった。尤も、花嫁候補の写真の方はついでに持ち出したらしい。あるいは、お前も早くこんな写真を撮りなさい、とそそのかすつもりだったかもしれない。
ニシ・アヅマはその写真を見た。女性の方は美人が揃っていた。男性の方も何れもハンサムといってよかった。何れも、至極真面目臭った顔をしていた。しかし、ニシ・アヅマが驚いたことには、男に一人、女に一人、彼女の知人がいたのである。

▼小沼丹『黒いハンカチ』(創元推理文庫,2003年7月11日 初版発行)「赤い自転車」より。
「編集部注」で「小澤書店版『小沼丹作品集II』(昭和五十五年二月刊)を定本とし,適宜初出誌に当たった。」「本書では「著者の判断を仰」いだという小澤書店版に拠ったが、その際、ご遺族の意向もあって表記を新字新仮名遣いとさせていただいた。また、ルビを適宜振ったが、その際、連載寺の仮名書きを参考にした。」としています。以下の引用で、赤字は、1958年の三笠書房版と表記上の異同がある部分です。
★★★
 ――どうなんだい、と伯母は老眼鏡しにニシ・アマの顔を見た。お勤めは面白いのかい?
 ――ええ、割合面白いわ。
 ――ふうん……。そりゃまあ結構だね。でも、女だからね、いつもお勤めしてるってにも行かないだろうしね……。
 ――何故?
 ――何故って、お前、りお嫁に行くことも考えなくちゃ……。
 ニシ・アマは笑った。この伯母は十人ばかりの婆さん連中で妙な会をっている。妙な会とうと伯母は怒るかもしれぬが、に花嫁花婿の候補者の情報を寄って一組の夫婦をげては嬉しがる会である。既にこの伯母の手だけで、九組の夫婦をった。前に何度か、ニシ・アマもこの伯母の勧誘を受けたことがある。ニシ・アマには内密に彼女の写真を彼女の母から持って行ったこともある、ニシ・アマは一向にそんな話に乗らなかった。しかし、伯母の方は十番目の夫婦をり上げるには、是非自分の姪のニシ・アマに一役買わせたいと思っているらしかった。のみならず,候補者なるものも四、五人はいるらしかった。
 ――そうそう、写真が届いてたっけ。
 ――よ。伯母さん。
 ――じゃありません。
 伯母は編物をテエブルの上に置くと立って行った。二分ばかりがたがたさせていたと思うと写真を七八枚持って来た。その、三枚は男で残りが女であった。尤も、花嫁候補の写真の方は序[ルビ:ついで]持出したらしい。は、お前も早くこんな写真を撮りなさい、と心算だったかもしれない。
 ニシ・アマはその写真を見た。女性の方は美人が揃っていた。男性の方も何れもハンサムとってかった。何れも、至極真面目臭った顔をしてい。しかし、ニシ・アマが驚いたことには、男に一人、女に一人、彼女の知人がいたのである。

▼『小沼丹全集 第一巻』(未知谷,2004年6月25日 初版発行)「赤い自転車」より。
「解題」に「作品収録に際し、本文の表記は新字体歴史的仮名遣ひを採用」し,底本に関しては『小沼丹作品集』(全五巻、小沢書店、昭和五十五年九月完結)を底本としたとあります。以下の引用で、赤字は、1958年の三笠書房版と表記上の異同がある部分です。
★★★
 ――どうなんだい、と伯母は老眼鏡しにニシ・アヅマの顔を見た。お勤めは面白いのかい?
 ――ええ、割合面白いわ。
 ――ふうん……。そり結構だね。でも、女だからね、いつもお勤めしてるにも行かないだろうしね……。
 ――何故?
 ――何故て、お前、矢つ張りお嫁に行くことも考なくち……。
 ニシ・アヅマは笑た。この伯母は十人ばかりの婆さん連中で妙な会を作つる。妙な会と云ふと伯母は怒るかもしれぬが、に花嫁花婿の候補者の情報をて一組の夫婦をげては嬉しがる会である。既にこの伯母の手だけで、九組の夫婦を作つた。前に何度か、ニシ・アヅマもこの伯母の勧誘を受けたことがある。ニシ・アヅマには内緒で、彼女の写真を彼女の母から持て行たこともある、ニシ・アヅマは一向にそんな話に乗らなかた。しかし、伯母の方は十番目の夫婦をり上げるには、是非自分の姪のニシ・アヅマに一役買せたいと思るらしかた。のみならず,候補者なるものも四、五人はるらしかた。
 ――うさ、写真が届いてたけ。
 ――よ。伯母さん。
 ――厭ぢやありません。
 伯母は編物をテエブルの上に置くと立て行た。二分ばかりがたがたさせてたと思と写真を七、八枚持て来た。その、三枚は男で残りが女であつた。尤も、花嫁候補の写真の方は出したらしい。は、お前も早くこんな写真を撮りなさい、と心算たかもしれない。
 ニシ・アヅマはその写真を見た。女性の方は美人が揃た。男性の方も何れもハンサムと云つて良かた。何れも、至極真面目臭た顔をしてゐる。しかし、ニシ・アヅマが驚いたことには、男に一人、女に一人、彼女の知人がたのである。

★★★
文意に関しては大きな変更はありませんが,句読点の位置や表現も変わっている部分もあります。基本的には同じテキストなのにもかかわらず,版ごとに印象がかなり違います。登場人物の名前がカタカナですから,「ニシ・アヅマ」と「ニシ・アマ」の差は大きい気がします。
小津安二郎の『麦秋』も,公開当時の表記では『麥秋』ですし,タイトルバックは今でも『麥秋』ですから,新字の『麦秋』を見て,違和感がないということは良いことなのか,何かを失っているのではないかと,考えてしまいます。とはいえ,『麥秋』が正しいと書くのも嫌みになるのかしらん。

 

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49. 1902年のゴードン・ボトムレイ『夜さけぶもの 一幕劇』(2013年1月21日)

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ゴードン・ボトムレイ(Gordon Bottomley,1874~1948)の『夜さけぶもの 一幕劇(THE CRIER BY NIGHT・A PLAY IN ONE ACT)』は,1902年に,ロンドンのユニコーン・プレス(この版では「AT THE SIGN OF THE UNICORN(ユニコーンのしるしのもとに)」とあります)から出版されました。人里離れた家に暮らすHialtiとThorgerdという北方神話的な名前をもつ夫婦とアイルランド人の端女Blanidとの関係が危うくなっていく一夜を描く詩劇です。32ページの「薄く,真四角に近い本」で,確かにポール・ナッシュが登場人物の姿を描き込みたくなるような余白もあちこちあります。表紙でもタイトルと著者名を上に,版元・出版年を下に,思い切って寄せていて,まだ世紀末の名残が感じられます。
文藝出版社ユニコーン・プレスは,アーネスト・オールドメドウ(Ernest Oldmeadow,1867~1949)が経営していたのですが,薄氷を踏むような危うい経営だったようです。『夜さけぶもの 一幕劇』が出版されたころ,ユニコーン・プレスで働いていたのが,若き日のアーサー・ランサム(Arthur Ransome,1884~1967)です。
神宮輝夫訳『アーサー・ランサム自伝』(白水社,1984年)によれば,ランサムはラグビー高を出た後,リーズのヨークシャー・カレッジに進むのですが,図書館でJ. W. マッケイルの『ウィリアム・モリスの生涯』に出会ってしまい,藝術的な生活への憧れがとまらなくなり,中退して出版社のグラント・リチャーズに入ります。いちばん下っ端の「ボーイ」として出版のイロハを身につけていくのですが,昼休みにセシル・コートの本屋巡りを欠かしません。自伝から引用すると,
《そこから数軒離れてユニコーン・プレスがあり,ここの飾り窓には,有名画家,彫刻家の作品を解説した本と詩集が五,六冊ならべてあった。ここは,いとこのビンヨンの『頌歌』を出版していた。》
とユニコーン・プレスの存在を知ります。「いとこのビンヨン」は,日本をはじめ東洋美術史研究でも知られる詩人のローレンス・ビンニョン(Laurence Binyon,1869~1943)です。そこで「助手募集」のはり紙を見たランサムは,安定した出版社グラント・リチャーズを辞めて,1901年ごろ,弱小出版社ユニコーン・プレスへ移ってしまいます。ゴードン・ボトムレイの『夜さけぶもの 一幕劇』も原稿段階から読んでいて,編集に関わっているようです。1903年のある日,突然ユニコーン・プレスは終焉を迎えてしまいますが,その時代から,ランサムは日刊紙,週刊誌に記事を載せて原稿料をかせぎはじめます。また,このころに,詩人ヨネ・ノグチ(Yone Noguchi,野口米次郎,1875~1947)と画家ヨシオ・マキノ(Yoshio Markino,牧野義雄,1870~1956)ら日本人や,詩人エドワード・トーマス(Edward Thomas,1878~1917)とも知り合い,友達になっています。ロンドンのボヘミアン時代のはじまりです。

1902Bottomley_Crier_spine

▲背はパーチメント紙に箔押しです。

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神宮輝夫訳『アーサー・ランサム自伝』(白水社,1984年)の1905年の記述に,ゴードン・ボトムレイとその父親のことを書いた部分があって,その人となりがよく出ているので,引用します。
《野道を五分足らず歩いたところの(湖水地方のカートメル周辺にある古い家)ウェル・ノウには,目がやさしくて,ゆっくりと口をきく,まるで大僧正のような身のこなしのゴードン・ボトムレイが,両親とおばといっしょに住んでいた。この三人にとって,ゴードンは人生のかなめだった。当時(1905年ごろ)ゴードンはロセッティとペイターとリケッツとアーサー・シモンズの熱烈な崇拝者だったが,ケイリイの町で会計士をやっていた父親の方は,もっとずっとスポーツマン的な好みの持主で,ぴりっとした感じのあるハズリットやランダーの方を好んでいた。私はこのボトムリイ氏が自慢そうに息子とならんで立っている写真を一枚もっている。「私はつねづね詩人の息子を持ちたいと思っていたんだよ!」と一度彼は私にいったことがある。「あの子が生まれた日,私は本屋へ行ってね。カンタベリー詩人集の全冊ぞろいを買いこんできて,あの子の小さなベッドの上の本棚にずらりとならべたんだ。」彼はまことに愛すべき老人であり,ゴードン・ボトムレイは彼の夢をすべて実現したわけだった。ゴードンは胸が弱いので田舍の空気が必要だった。そして,毎年,短期間のロンドン行きを待ちこがれ,その思い出と,ロンドンでの交友を大切に思って暮らしていた。「田舍に暮らしていても中心的でありえる。」が,彼の好んだ言葉の一つである。私がはじめて出会った頃,彼のハンカチにはしばしば血がついていて早死にするだろうと考えられていた。彼の父母,おば,そして後に彼の妻になった人の,彼に対する態度も,そのためだと納得できた。しかし,彼は,彼らのだれよりも長く生き七十歳をこえた。年をとるにつれて,青年時代に愛好したものにあきたらなくなり,多くのすぐれた劇と,例えば「カートメルの鐘」のような美しい詩をいくつかつくった。この詩の簡潔さは,初期の詩がもっていたランの温室的な感じとはきわだって対照的である。》

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▲手もとにある『夜さけぶもの 一幕劇』の見返しには,献辞が書かれていました。ゴードン・ボトムレイのものではなく,父親のアルフレッド・ボトムレイが,ブラッドフォード在住のドクター・ゴイダーにあてたものです。「まことに愛すべき老人」であるお父さんは,いろんな知り合いに息子の本を贈ったのではないかと思います。その中の1冊は偶然,画学生ポール・ナッシュのもとへ行って,ポール・ナッシュとゴードン・ボトムレイの生涯の友情に結びついたわけです。詩の本というものは売り買いするものでなく,贈られたり配られたりするのが基本的な姿なのかもしれません。

 

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48. 1955年の『詩人と画家 ゴードン・ボトムレイとポール・ナッシュの往復書簡』(2013年1月20日)

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CLAUDE COLLEER ABBOTTとANTHONY BERTRAMが編集した『詩人と画家 ゴードン・ボトムレイとポール・ナッシュの往復書簡 1910-1946(POET AND PAINTER BEING THE CORRESPONDENCE BETWEEN GORDON BOTTOMLEY AND PAUL NASH 1910-1946)』(OXFORD UNIVERSITY PRESS,1955)は,ほんとうに大好きな本です。これはイギリスの詩人ゴードン・ボトムレイ(Gordon Bottomley,1874年2月20日~1948年8月25日)と画家ポール・ナッシュ(Paul Nash,1889年5月11日~1946年7月11日)の間で,1910年から1946年まで交わされた往復書簡集です。
ゴードン・ボトムレイとポール・ナッシュの往復書簡で残っている最初の手紙は,1910年4月9日付のナッシュからボトムレイ宛のものです。スレイド美術学校の画学生ナッシュが,近所の女性(Mrs Goldsworthy)の持っていた本,彼女の北国に住む家族の知り合いが書いた本だという「薄く,真四角に近い本」を借りたことから始まります。ゴードン・ボトムレイの『夜さけぶ者(The Crier by Night)』(1902年)という詩劇です。その詩劇に魅せられたナッシュは,思わずその本の余白に登場人物の挿絵を描き込んでしまいます。女性は,ポール・ナッシュが挿絵を描いてしまった本をボトムレイ本人にどう思うかと送り届けます。そこからナッシュとボトムレイの生涯にわたる文通が始まります。ポール・ナッシュ20歳,ゴードン・ボトムレイ36歳のときです。
最初は,先輩ボトムレイが画学生ナッシュを励ますかたちで,ナッシュが『夜さけぶ者』につけた挿画を見て,『テニスン詩集』のロセッティやオスカー・ワイルド『スフィンクス』のC. S. リケッツの挿絵を薦めたりしています。ボトムレイは,ラファエル前派やラスキン,モリスを同時代で体験し,信奉した最後の世代にあたります。
一方,ナッシュは,ボトムレイ世代の19世紀的なものから離れていく20世紀の子です。ボトムレイがそういったものにとらわれ続けないで,20世紀的なものへ引きつけようとします。その時期の二人の手紙は,ラファエル前派的な美意識から離れられないボトムレイをナッシュがからかうようなところもあります。ナッシュは,両大戦間のイギリスにおいてモダニズム,シュルレアリスムにかかわる代表的な画家になっていきます。
ナッシュが1946年に先に亡くなってしまったため,ボトムレイは年少者を見送ることになってしまいます。1946年8月17日付のゴードン・ボトムレイから,ポール・ナッシュの妻マーガレットへのお悔やみの手紙で書簡集は閉じられています。
ボトムレイは,ラファエル前派だけでなく,20世紀前半のイギリス美術のコレクションを残しています。

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生涯にわたる往復書簡は,友情や愛情というものを目に見える形にした結晶のようなものになることがあります。特に手紙の書き手が,画家であると,当然,絵手紙になり,それが残っているということは後世の者にとって貴重な贈り物です。私は,藝術家の作品より,その手紙の方を好む傾向があるようです。ドローイングと書き文字の混じった表現が,表現形態として好きなのです。画文一致・書画一如の東洋的なものかもしれません。

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▲『詩人と画家』の共編者である,Anthony Bertramは,同じ1955年,『ポール・ナッシュ ある藝術家の肖像(PAUL NASH The Portrait of an Artist)』(FABER AND FABER,1955)を出しています。
古書で購入したのですが,そのカヴァー(ダストラッパー)の破れを前所有者がセロテープで補修していたため,その部分がシミになっています。本の補修にセロテープは厳禁です。30年後にかわいそうなことになります。補修するなら,せめて紙(できれば和紙)と天然素材の糊でお願いします。化学系の糊は,ひどいことになる可能性があります。軽い糊の付箋も,貼りっぱなしにしておくと,数十年後には,紙の表面に食い込み,剥がせなくなることもあります。

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▲『ポール・ナッシュ ある藝術家の肖像』の表紙。表紙に配されたポール・ナッシュの鳥が好きです。カヴァー(ダストラッパー)を取ったあと,あるいは捨てたあと,きちんと個体として存在している表紙の本が好きです。最近は,カヴァーを取ると,みすぼらしい裸すがたの本が多くて,惜しいなと思うことが多いです。

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▲『ポール・ナッシュ ある藝術家の肖像』の見返しには,ポール・ナッシュが1925年にCurwen Pressのためにデザインしたパターン紙が使われています。こういう配慮はうれしいです。1955年頃のイギリスで一般の出版社が出した活版印刷本の完成度は高く,本づくりの出来がとても良い本が多いという印象があります。 もちろん,問題は内容なのでしょうが。

 

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47. 1945年のトム・ジェントルマン『ブラエ農場』(2013年1月19日)

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トム・ジェントルマン (Tom Gentleman,1882~1966)が絵を描き文を書いた『ブラエ農場(Brae Farm)』は,1945年にTransatlantic Arts Co. Ltd.から出版されました。トム・ジェントルマン唯一の絵本です。絵本の系譜でいえば,ウィリアム・ニコルソンやエドワード・アーティゾーニの系譜に連なる人かと思いますが,なかなか他と結びつかないため,孤独な印象のある本です。
戦争中の出版は,統制経済だった日本でも日本出版配給株式会社が一手に担っていましたが,イギリスでもいろいろと制限が多く,「war economy standard」という仕様の,材料などで平時に劣る版が戦後までつくられます。そういう時代の1945年に,Curwen Pressで印刷された絵本です。美しくしっかりした本を得意とするCurwen Pressには厳しい時代でしたが,世の中に戦争など存在していないような,おおらかな気分にあふれている,ある意味では逃避的ではありますが,気分のよい絵本になっています。テキストに関しては,別の筆者を立てた方が,より親しまれるような作品に化けたのではないかとも思うのですが,それでも,じゅうぶん愉快な1冊です。
絵と文をかいたトム・ジェントルマンは,両大戦間のグラフィック・デザインの分野で働いていた人です。この絵本は多色石版で刷られています。トム・ジェントルマンは,多色石版を扱うのは初めてだったようで,その手探りの感じが逆に味わいになっています。カラーの図版を写真に撮って色分解するという方法でなく,スミ版,赤版,青版,黄版の4つの石版をそれぞれ別々に描いて作った4色版石版だと思います。
紙質には最良の選択とは言えず戦争の影響を感じますが,内容には戦争の影がまったくない,コリン少年の1か月にわたるバカンスのお話です。親元を離れてスコットランドのクライド川近くに住むアリソンおばさんとニールおじさんのブラエ農園で,お手伝いをしながら,1か月を過ごす,それだけのお話です。むく犬,いとこたち,友達になった姉弟,少年たち,海辺,乳搾り,馬の市,牛乳の配達,倉庫のブランコ,牛と馬と豚たち,犬と猫たち,ニワトリとアヒルたち,田舍の教会,干し草作りといった,農家のふつうの暮らしが,48ページと少し急ぎ足ですが,たんたんと描かれます。
ページ番号(ノンブル)が打たれていない本です。製本するとき間違えないようにする工夫が何かあったのでしょうか。ちょっと不思議です。

息子のデイヴィッド・ジェントルマン(David Gentleman)も,イギリスの切手デザインやペンギン版のシェイクスピアのブックデザインやら山ほど仕事をしている人です。

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▲コリン少年がいとこのファーガスの馬車に乗って,ブラエ農場の乳製品をふもとの港町に運んでいったとき見た街。良い眺めです。

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▲ジェントルマンは,前景と後景に人や物を配置する構図が好きなようです。1930~40年代の映画カメラマン,グレッグ・トーランドが撮影した奥行きのある画面のようで,1940年代様式なのかもしれません。

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▲戦中戦後のイギリスの本には,この印がつきものです。J.W.Dunneの『AN EXPERIMENT WITH TIME』(THE SCIENTIFIC BOOK CLUB)の1944年版。
第2次世界大戦がはじまってイギリスでも出版業界に対して紙の供給が大きく削減され,1942年,政府と出版業界の間で「Book Production War Economy Agreement」という戦時下の本の仕様についての協定が結ばれて,紙などの質を落とした「war economy standard」という仕様で作られるようになります。児童書はその範囲から除外されてはいましたが,この時期は本の挿絵画家たちにとっても冬の時代になります。

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▲戦後になっても「war economy standard」仕様の本が作られていた例。Richard Jeffriesの『The Spring of the Year』(LUTTERWORTH PRESS)の1946年版第2刷。この時期,資材不足はひどかったようで,木版挿画でも刷りの状態が思わしくないものが多いのですが,Agnes Miller Parkerの流麗な木版挿絵の入ったこの版は,ちょっと例外的な部類になります。

 

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46. 1957年の岩波書店版『漱石全集 書簡集一~五』(2013年1月18日)

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1956年から1957年にかけて刊行された新書判サイズの岩波版漱石全集です。三上延『ビブリア古書堂の事件手帖』でも題材となっていたものと同じ版です。第27巻~第31巻の5冊が書簡集になっています。漱石の書簡集からは,いろんな引き出し線や動線が導き出せそうです。
漱石は,なぜか鹿児島の知り合い率が高い人です。一高・東大時代の教え子で,七高の教師になった野間眞綱あての,明治41年(1908年)6月14日の手紙です。
「皆川には其後二遍逢つた。畔柳は喉頭結核にかかつた。君も身體を大事にせんといけない。野村は気楽らしい。あの男はからだ丈は大丈夫らしい。マードックさんは僕の先生だ。近頃でも運動に薪を割つてるかしらん。英國人もあんな人許だと結構だが,英國紳士抔といふ名前にだまされて飛んだものに引かかる。櫻島の温泉に這入つて見たい。此間橋口の弟が歸省したが君には逢へなかつたさうだ。人吉迄汽車がかかつたさうだ。」
鹿児島からの野間の手紙への返事ということもあるのでしょうが,ここに登場する名前は,一高の漱石の同僚で山形出身の畔柳都太郎以外は,皆川正禧,ジェームズ・マードック,野村傳四,橋口貢とその弟,橋口清ら,鹿児島の漱石人脈が出そろっています。
橋口貢は鹿児島出身で,熊本の五高に進学し,そこで漱石の教え子となって,それ以来,漱石と生涯の付き合いをした人です。外交官として中国に駐在しました。橋口清は橋口貢の弟で,東京に出て貢と一緒に暮らし,東京美術學校に通っているときに漱石と知り合いました。橋口五葉として,漱石の本の装釘者となります。五葉装釘のものは『吾輩ハ猫デアル』『漾虚集』『鶉籠』『草枕』『虞美人草』『草合』『文学評論』『三四郎』『それから』『門』『彼岸過迄』『行人』などがあります。皆川正禧,野間眞綱,野村傳四は一高・東大の教師時代の教え子です。
岩波版の漱石全集の表紙装釘には,漱石が『こころ』を自装したときに使った中国古代の石鼓文の拓本が使われていますが,それを漱石に贈ったのは中国駐在中の橋口貢でした。大正3年(1914年)8月9日に中国の橋口貢にあてた手紙で,「御恵贈の拓本は頗る珍らしく拝見しました あれは古いのではないでせうが面白い字です愉快です,私は今度の小説の箱表紙見返し扉一切合切自分の考案で自分の手を下してやりました其内の表紙にあれを応用致しました出来上つたら御目にかけませう」と書き送っています。
明治37年(1904年)頃を中心に,夏目漱石,橋口貢,橋口清(五葉),野村傳四,野間眞綱らの間で,互いに絵はがきを送り合うことが盛り上がるのですが,細かな書き文字も判読可能な精度で,その全貌を1冊の本にすれば,とても愉快な本になりそうです。

書簡集には,手紙を送った相手の住所も掲載されていて,住所の移り変わりを見るだけで,何か人生を感じます。鹿児島関連のいくつかをピックアップしてみました。

●橋口貢
 下谷區谷中清水町五
 清國湖北省沙市日本領事館
●橋口清(五葉)
 下谷區谷中清水町五
 赤坂區仲町一九
 牛込區市谷左内坂町
●野村傳四
 本郷區臺町三六同學舎内
 本郷區本郷六丁目二五藪中方
 神奈川縣大磯町北本町田村屋(岩崎男爵様御別邸傍)
 鹿兒島縣肝属郡高山村
 本郷區本郷四丁目四一喜多方
 神田區錦町三丁目錦城中學校
 麹町區下二番町三〇
 岡山市二番町五
 山口縣山口町山口國學院
 山口縣山口町金古曾九〇
 佐賀縣鹿島町高津原
●野間眞綱
 麻布區三河臺町島津男爵邸内
 芝區琴平町二朝陽館
 赤坂區新坂町六〇永井方
 赤坂區青山南一丁目五五板尾内
 群馬縣伊香保温泉蓬莱館
 鹿兒島縣重富村平松
 芝區三田三丁目八七番地海方
 芝區白金臺町一丁目八一番地
 芝區白金志田町一五
 鹿兒島市山下町四四〇上村清延方
 鹿兒島市下龍尾町一九一
 鹿兒島市下龍尾町九三
 c/o Mrs. Grant, 5811 Maryland Ave., Chicago
●皆川正禧
 本郷區駒込追分町三〇奥井館
 芝區三田君塚町一〇行村方
 芝區高輪車町四八
 芝區伊皿子町三五
 鹿兒島市山下町三六五番地佐藤平蔵方
 鹿兒島市春日町三九濱崎方
 鹿兒島市春日町八七
 新潟縣東蒲原郡川村
 鹿兒島市春日町一二六

野間眞綱は,七高では「三四郎」のモデルといわれていたそうです。書簡集では,明治38年(1905)1月4日の書簡で,手紙での宛名の作法をたしなめられていることで記憶に残る人です。また,野村傳四の住所の移り変わりを見ていると,だいじょうぶかと,ちょっと心配になります。野村傳四が「三四郎」のモデルだという人もいます。

そのほか,漱石の書簡集で手紙を送られている鹿児島関係者に次のような人たちもいます。
●落合為誠(東郭) 漱石が熊本市外大江村に住んでいた時の家主。大正天皇の侍従。漢詩人。七高教授。
 鹿兒島市下龍尾町一七六
●山縣五十雄 ジェームズ・マードックの『日本史』執筆の資料協力者。
 小石川區小日向臺町三丁目七一
●行徳二郎
 鹿兒島市第七高等學校寄宿舎
●林久男 七高のドイツ語教授
 鹿兒島市長田町城ヶ谷一二一
●有島生馬
 麹町區下六番町一〇
 麹町區三番町一二

Noma_Shimotatuo_Sakurajima

野間眞綱が七高で英語の先生だったときに暮らしていた場所のひとつは,鹿児島市下竜尾町にありました。西郷隆盛の墓がある南洲墓地近くで,見上げると浄光明寺が見えるところです。その番地があった場所には,現在は新築の家が建ち並び,当時の面影を残すものは何もありません。この場所の郵便受けに,かつて夏目漱石からの手紙が届いていたのだなと思うと不思議な感じです。写真は,その近くの浄光明寺前から見た桜島です。
大正3年(1914年)の桜島大噴火の時,1月24日,漱石は野間眞綱の「下龍尾町九三」宛に「今度の爆發では實際びつくりした」と見舞いの手紙を送っています。
「そんな事に出會ふのも生涯の經験としては再度とないといふ意味で面白い氣が大分ある 出來れば其時に鹿兒島にゐてあとから其時の様子を書いて見たいと思ふ マードックさんも無事だらうと思ふ もしあつたら宜敷いつてくれ玉へ 皆川君も無事でよかつた」

夏目漱石が,桜島を舞台にした小説を書く可能性もあったわけです。

 

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45. 1980年のノエル・キャリントン『キャリントン 絵・素描・装飾』(2013年1月17日)

1980Noel Carrington

カヴァーの裏表紙側は,写真のようにドーラ・キャリントンの手紙です。この小さな画集は,83歳になる弟が,46年前になくなった姉のことについて書いた本でもあります。そのことを考えると,それだけで胸がゆさぶられます。
原題は,Noel Carrington,Foreword by Sir John Rothenstein『CARRINGTON Paintings, Drawings and Decorations』(Thames and Hudson,1980)。初版は1978年のOxford Polytechnic Press版です。
ドーラ・キャリントン関連の本を何冊かひっくり返してみたのですが,やはり手書きの手紙がキャリントンの魅力の中心だと思います。
写真の手紙で見ると,ドーラ・キャリントンの手書き文字では,特に「t」の横棒の「-」の身軽さがすばらしいと思います。印刷書体たちが嫉妬で身を焦がすような,身軽さです。「t」の横棒の「-」がリズミカルに遅れてくる手書きの息せき切った感じの,なんと魅力的なことか。
ドーラ・キャリントンは,彼女の手書き文字に慣れていないものにとっても読みやすい字を書く人です。ドーラの絵手紙が,絵やスケッチだけでなく文字も手書きのまま,ファクシミリ版のような形で書籍化されたら,とてもよいものができる予感があります。

1980Noel Carrington_cover

▲『キャリントン 絵・素描・装飾』のカヴァーの表側。

1995Carrington_GERZINA_HILL

▲ドーラ・キャリントンのモノグラフ2冊。
GRETCHEN GERZINA『Carrington: A LIFE OF DORA CARRINGTON 1893-1932』(PIMLICO,1995)初版は1989年のJohn Murray版。
JANE HILL,FOREWORD BY MICHAEL HOLROYD『THE ART OF DORA CARRINGTON』(Herbert Press,1995)のペーパーバック版。初版は1994年のHerbert Press版。

手紙は,その性格上,遅れて届くことばという面もあります。息づかいが目の前にあることばではありません。やっかいな面もあって,手紙での存在は素晴らしいのに,生身での存在は疎ましいといったことが往往にしてありがちです。手紙のそうした面で思い浮かぶのはフランソワ・トリュフォー監督作品『突然炎のごとく(JULES ET JIM)』(1962年)です。第一次世界大戦で東部戦線に送られたジュールの手紙について,カトリーヌの台詞があって,うろ覚えですが,戦場から送られるジュールの愛の手紙は素晴らしくて,気持ちも高まるのだけれど,実際にジュールが帰ってくると赤の他人に感じるといった内容でした。確かに手紙は「美化」し「美化」されてしまうものなのかもしれません。その部分を,小説の翻訳版で読み返してみると,
「大戦が勃発した。ジュールは東部戦線に向かった。彼はそれでも彼女に手紙する時間はあった。カートは彼が遠くに行ってしまうと以前より愛するようになり,再び彼を美化して見るようになった。最後の誤解,ほんとうのもめごとが始まったのは戦争開始二年後の休暇以来のことなのだ。久しぶりに彼に抱かれた彼女は見知らぬ他人の胸の内にいるようだったのだ。」(アンリ・ピエール・ロシェ作,伊東守男訳『突然炎のごとく』ハヤカワNV文庫,1972年)
とありますが,山田宏一の映画字幕はもうちょっと簡潔で,それでもきついものになっていたと思います。

 

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44. 1970年の『キャリントン 手紙と日記抜粋』(2013年1月16日)

1970Carrington

原題は『CARRINGTON Letters and Extracts from her Diaries』(Jonathan Cape)。イギリスの画家ドーラ・キャリントン(Dora Carrington,1893年3月29日~1932年3月11日)の手紙と日記を編年で構成し,その存在を生き生きと立ち上がらせた1冊です。初版は1970年。これは1975年のリプリントです。
日本では『狐になった婦人(Lady into Fox)』(1922)などの作品で知られる作家デイヴィッド・ガーネット(David Garnett,1892~1981)が手紙と日記を編集して,序文を書き,ドーラの弟ノエル・キャリントン(Noel Carrington,1895~1989)が小伝を添えています。ノエル・キャリントンは,ペンギン・ブックスの児童版パフィン・ブックスを立ち上げた編集者・デザイナーで,晶文社から『英国のインダストリアル・デザイン』(中山修一・織田芳人訳,1983年)の翻訳も出ています。1978年には,ドーラ・キャリントンの小さな画集『CARRINGTON』(Oxford Polytechnic Press)も出しています。
他人の手紙や日記を読むというのは,「盗み見」「のぞき」といったことから後ろめたい感情と結びつきがちですが,過去の人の書簡や日記は,人が未来に残してくれた,手に負えないくらいの大きな贈り物でもあります。
ドーラ・キャリントンは,ロンドンのスレイド美術学校(Slade School of Fine Art)の出身で,スタンレー・スペンサーやポール・ナッシュらと一緒に学んでいます。ブルームズベリーグループの中心的批評家リットン・ストレイチー(Lytton Strachey,1880年3月1日~1932年1月21日)のパートナーとして知られています。ブルームズベリーの風変わりな人たちが住んでいるアパートメントみたいなものがあるとして,そこでのドーラ・キャリントンの立ち位置は「屋根裏部屋に暮らしている直感にすぐれた娘さん」といったところでしょうか。リットン・ストレイチーが長い病を経て亡くなってから二月後,そのあとを追うように,猟銃で自ら命を絶っています。39歳でした。
『キャリントン 手紙と日記抜粋』のカヴァーは,ドーラ・キャリントンの絵で,ドーラとリットンが暮らした家Mill Houseの絵(1918年作)と寝床のリットンのスケッチ(1920年作)です。
マイケル・ホルロイド(Michael Holroyd,1935~)が1967~68年に出した伝記『リットン・ストレイチー(LYTTON STRACHEY)』と,1970年の『キャリントン 手紙と日記抜粋』は,それまで,どちらかというと,後景にいたドーラ・キャリントンという存在を,間違いなく20世紀を生きた人として浮かび上がらせ,ドーラは,痛々しいくらいに素晴らしい手紙の書き手として知られるようになりました。あと,猫好きの方も,好きになってしまう本だと思います。

1970Carrington_letter

キャリントンの手紙は,スケッチが入ることで,生き生きします。活字でなく,ドーラの手書き文字のほうが,より魅力的なのでしょう。そこに生身の存在がいると感じられる書簡集です。ドーラ・キャリントンの絵画作品は正直言って,まだ何者でもないまま終わっているという印象です。しかし,ドーラの「手紙」のスケッチを見ていると,この方向へ行っていたら,小さいながらも深く愛されるクラシックが生まれたのではないかなと思ってしまいます。とはいえ,この1冊の『キャリントン 手紙と日記抜粋』だけでも,じゅうぶんヘヴィーです。

1994HOLROYD_LYTTON STRACHEY

▲MICHAEL HOLROYD『LYTTON STRACHEY: The New Biography』(Chatto & Windus,1994年)
マイケル・ホルロイド(1935~)は,イギリスの伝記作家です。1967年と1968年に2巻本の『LYTTON STRACHEY: A Critical Biography』(Heinemann)を出していますが,1994年版は,それを増補改訂した新版です。批評家リットン・ストレイチーの生涯を描くということは,後半生はドーラ・キャリントンとの関係を描くということでもあり,ドーラへの関心を改めて高めた本です。ほかにオーガスタス・ジョン(Augustus John)やバーナード・ショウ(Bernard Shaw)など,19世紀から20世紀にかけて生きた人物の「決定版」的な伝記を出しています。小説家・伝記作家マーガレット・ドラブル(Margaret Drabble)のだんなさんです。

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▲20世紀から始まった特異な現象といえることに,藝術家や知識人の生涯がドキュメンタリー映画になったり,場合によっては劇映画になったりして,映像化されるようになったということです。キャリントンとストレイチーの関係も,劇映画化されました。エマ・トンプソン(Emma Thompson)がドーラ・キャリントンを,ジョナサン・プライス(Jonathan Pryce)がリットン・ストレイチーを演じた,クリストファー・ハンプトン監督・脚本作品『キャリントン(Carrington)』が1995年に制作されています。
映画化され,日本で映画公開されると,原作本が翻訳されるというのも20世紀に誕生した風習です。キャリントンの映画公開に会わせ,いきなり文庫版で,
 マイケル・ホルロイド著,中井京子訳『キャリントン』(新潮文庫,1996年)
が出版されました。長大な原作なので,翻訳されたのは,『LYTTON STRACHEY』の,ドーラが登場する後半部分だけでした。1994年版の325ページから694ページの部分です。映画音楽を担当したのはマイケル・ナイマン(Michael Nyman)でした。

余談になりますが,2012年にミランダ・シーモア(Miranda Seymour)の『オットリン・モレル 破天荒な生涯: ある英国貴婦人の肖像』(蛭川久康訳,彩流社)が翻訳出版されていて,そのなかにもドーラ・キャリントンが登場しています。ドーラ・キャリントンたち,髪を少年っぽく短く切ったスレイドの女子美術学生たちを「crop heads」と呼んでいたのですが,翻訳では,それを「いがぐり頭」と翻訳していて、さすがに、それはかわいそう,と思いました。

 

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43. 1892年のマードック,バートン,小川『アヤメさん』(2013年1月15日)

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タイトルページでは『Ayame-San, A Japanese Romance of the 23rd Year of Meiji (1890)』とあります。マードック(James Murdoch,1856~1921)が文章を,バートン(W. K. Burton,1859~1899)が写真を,小川一眞(1860~1929)が製版印刷を担当しています。このトリオで何冊か日本を題材にした本を作っていて,『アヤメさん』もその一冊です。文章担当のマードックは,この当時一高の先生。写真担当のバートンは帝大で衛生工学を教えていたお雇い外国人ですが,イギリス本国でもロングセラーになった写真の入門書を何冊か書いています。写真製版担当の小川一眞は,ボストン帰り。日本での写真製版のパイオニアの1人で,アーネスト・フェノロサの美術品写真を担当したり,日本の美術誌『国華』創刊からその図版印刷を担当しコロタイプ版をつくったりしていた人です。当時の大出版社,東京博文館から出ていた『日清戦争実記』の写真図版も担当しています。このころから網点分解のモノクロ写真印刷が一気に広がり,報道のグラフィック化が進んだのではないでしょうか。日本の写真印刷初期の重要人物です。1900年前後の尾崎紅葉とか夏目漱石とか文学者の肖像写真も小川一眞撮影・製版のものが多く見られます。
『アヤメさん』は,明治23年(1890年)の東京や神奈川の三崎,箱根を舞台にした,アイルランド人オラファティ(O'Rafferty)と,スコットランド系アメリカ人で,コダックを操作する画家ギフォード(Gifford)の二人組の,のんきな道中ものです。三崎で,英語を習っている女性アヤメさん(Ayame-san)と出会い,ひかれるのですが,アヤメさんの見合い相手イシダタロウ(Ishida Taro)がからんでお話は進行します。基本的には,東京およびその近郊案内のような本です。77点の写真図版が掲載されています。サイズ的には最大で幅9センチ程度,裁ち落としなどもない小さいもので,写真が書籍に掲載される初期の形です。プロットや写真構成を厳密にしぼりこんだとは思われず,何かとてもゆるい造りの本です。とはいえ,当時は木箱に入れられ販売されていたようで,写真入り小説という新機軸で自信作だったのかもしれません。「小説が先で写真が後」か「写真が先で小説が後」だったのか,分からないゆるさです。

『アヤメさん』の序文で、バートンは自信満々に、自分が見聞したかぎり,この本はハーフトーンの写真製版を活版と一緒に印刷したほんとうの意味で最初の本なのだと書いています。実際のところ世界規模で何が最初の本だったのか分からない1860年代からの印刷戦国時代なのですが、日本からも、その先陣争いに声を上げていたわけです

普通よく見られる版は,1892年刊行のYOKOHAMAのKELLY & WALSH, LIMITED.版ですが,手元にある版は,ロンドンの「SAMPSON LOW, MARSTON & COMPANY」が版元になっていて,タイトルページの記載などで横浜版とは若干違いがあります。横浜版にあった1892年発行の記載がなく,また,印刷について「PRINTED BY THE YOKOHAMA PRINTING AND PUBLISHING COMPANY, LIMITED.」の記載もなく,それから,マードックの名前が「M.A.」と仮名になっています。それでも,装釘・本文印刷は横浜版と同じく小川一眞が印刷したものですので,同時期にロンドン版として別に作られた版でしょう。

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▲バートン(W. K. Burton)が書いた写真製版印刷についての概説書『PRATICAL GUIDE TO PHOTOGRAPHIC & PHOTO-MRCHANICAL PRINTING』(MARION AND CO.)の1892年増補改訂版の表紙です。版元のMARION AND CO.は,当時のイギリスの乾板カメラメーカーです。『アヤメさん』と同年に出版されています。この本の中で解説されている写真製版技法を見てみると,現在では使われていないのだろうなと思われる技法が多数あって,興味深いです。
 Woodbury-type Process
 Stannotype
 Photo-Lithography
 Photo-Zincography
 Collotype
 Husnick's Collotype Process
 Albert's Collotype(Albert-type)
 Heliotype Process
 Etching Transfers on Zinc to Produce Relief Blocks
 Asphalt Process
 Line Relief Blocks
 Gelatine Process
 Process of Casting from Gelatine Reliefs
 Husnick's "Leimtypie”
 Process for Producing Entaglio or Engraved Line Plates
 Half-tone Process
 Husband's Papyrotint Process
 Phototype Blocks
 Half-tone Type Block
 Ives and Analogous Process
 Talbot's Process
 Clic's Process
 Waterhouse Process
 Sawyer's Process
 Obernetter's Process
 Transparent Positives

この1892年に出された増補改訂版の序文で,バートンは次のように書いています。
「I must, on the whole, declare more indebtedness to Mr. K. Ogawa of this city than to any one else. It has been my pleasure, and has certainly been to my profit, to be associated with him in much experimental work in connection with various photographic processes, mechanical amongst others. Mr. Ogawa has put in operation the greater number of the photo-mechanical processes described at the end of this book on more than an experimental scale, and he has made me free to publish all results whether of our joint work or of his own. 」
(【試訳】私は、この著作のすべてにおいて、他のだれかよりも、東京の小川一眞氏に負うところが大きかったことを言っておかねばなりません。多様な写真製版の方法について,とくに機械的なものについて多くの実験的な作業で彼と協力できたことは、私の喜びでもあり,間違いなく私の利益にもなりました。小川氏は,この本の最後のパートで説明している多種多彩な写真製版の印刷法について単なる実験を超えた規模で作業を実施し,我々の共同作業のみならず彼独自の作業についても,その成果を自由に公開・出版することを許してくれました。)
バートンの小川一眞への感謝の気持ちは強かったことが分かります。
製版がルーティン作業でなく,毎日が光学的,化学的実験だった時代だったのです。そういう観点から当時の印刷物を読み解くと面白くなりそうです。それにしても,このマードック,バートン,小川のトリオで鹿児島漫遊記みたいなものを作ってくれていたなら,鹿児島にとって楽しみ多い置き土産になったと思うのですが,残念です。

1892Ayame-san02

▲『アヤメさん』収録の写真図版。小川一眞が『アヤメさん』で採用したのは,小川やバートンの写真印刷について詳しいGeorge C. Baxleyのサイトの情報によれば,ハーフトーンとコロタイプの中間の「Meisenbach Process Halftones」という方法だったようです。その仕上がりは,コロタイプ印刷の仕上がりに近いものになって,拡大しても網点は目立ちません。

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▲当時の網点印刷写真の例として,明治27年(1894年)の東京博文館『日清戦争実記』第1号掲載の野津道貫の写真図版。野津道貫は鹿児島城下高麗町出身の陸軍中将(日清戦争当時)です。キャプションに「小川一眞寫眞彫刻銅版及印刷」とあります。銅版ということは,輪転機にかけられるグラヴィア印刷だと思いますが,この版では短期で納める大量印刷用の版のため網点が目立ちます。『日清戦争実記』本文の印刷は秀英舎です。
19世紀後半から20世紀の初めにかけて,写真を書籍印刷物に入れるにあたって,様々な試行錯誤がなされていて,結果として網点分解が支配的な写真印刷方法になっていくのですが,19世紀後半から20世紀の初めには,創世記の試行錯誤ゆえの面白い印刷物が誕生します。コロタイプとは,おおざっぱに言うと,写真の現像をガラス版面上で行い,それを直接印刷版にできるようにする方法で,写真同様のなめらかな階調を表現できる印刷方法です。写真も極細レベルでは点の集積ですが,網点に比較すれば,なめらかな階調を表現しています。普通の写真印刷物は,写真を網点に分解して,網点の集積として表現します。拡大すると点で構成されていることがよくわかります。

1894nisshinsensoujikki

▲『日清戦争実記』の裏表紙広告に「小川一眞氏製版寫眞銅版」と大きく掲載されているようすを見ると,小川一眞の写真印刷は1890年代において,本の「看板」になっていたようです。日清戦争は日本において写真印刷物で報道された最初期の戦争でした。当時の最大の関心事だったこともあって,『日清戦争実記』は大部数が印刷され,月3回発行されていました。

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▲『アヤメさん』には,浅草十二階が写っている写真が3点収録されています。1890年当時の東京のランドマークだったのでしょう。このころになると,露光を短くして,動いている対象を写したような写真も目立ちます。

 

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42. 1910年のポンティング『この世の楽園・日本』(2013年1月14日)

1910Ponting_ LOTUS-LAND JAPAN

『この世の楽園・日本(IN LOTUS-LAND JAPAN)』は,1902年ごろから1906年にかけての,イギリス人写真家ハーバート・G・ポンティング(HERBERT G. PONTING)による日本見聞録で,ロンドンのマクミラン社(MACMILLAN)から1910年に出版されています。1910年版には,カラー処理した写真図版が8点,モノクロ写真図版が96点収録されています。当時の印刷物写真は,網点分解したものかコロタイプかで細部の出来が分かれますが,これは網点分解した図版を使ったものなので,残念ながらコロタイプ写真図版を拡大して細部を見るといった楽しみはありません。それでも明治日本の空気がつまっている本です。

2005Ponting_LotusLandJapan

▲ハーバート・G・ポンティング著,長岡祥三訳『英国写真家の見た明治日本 この世の楽園・日本』(講談社学術文庫,2005年)
講談社学術文庫版は抄訳です。平成17年の「学術文庫版あとがき」で訳者の長岡祥三は,
「本書は私が今まで翻訳した本の中でも最もおもしろいものの一つである,特に著者の素晴らしい写真が今回全部収録されたことは誠に喜ばしいことである。」
と書いているのですが,1910年のマクミラン版に収録されている写真で講談社学術文庫版に入っていないものが20枚ほどあり,また,1910年のマクミラン版に収録されていない写真も何枚か学術文庫版に入っているので,1922年のデント社(Dent)版ほかの版をもとにしたのだと思います。

講談社学術文庫版に収録されていない写真で,鹿児島に関係する写真を1枚紹介します。

1905Kamimura_Ponting

日露戦争の蔚山沖海戦や日本海海戦で有名な,鹿児島出身の海軍軍人上村彦之丞とその娘さんの写真です。ポンティングによれば,日露戦争中,東京に戻った上村の邸を訪ねたとき,上村が思い立ったように正装に着替え,12歳になる娘と一緒の写真を撮ってほしいと頼んだのだそうです。この写真では,上村彦之丞と娘さんとの間の,つながれた手がとても印象的です。娘さんがかわいくて仕方なかったのでしょう。写真キャプションには「VICE-ADMIRAL KAMIMURA AND HIS DAUGHTER HOSHIKO」とありますが,「HOSHIKO」でなく,養女の「利子(としこ)」でしょう。上村には実子がなく,養子の従義(西郷従道の四男)と養女の利子を迎えています。
この写真は,ほかの『この世の楽園・日本(IN LOTUS-LAND JAPAN)』収録写真と違って,下部に「Copyright by H.C.White Co.」とあります。「H.C.White Co.」は当時の会社で,ステレオスコープ(stereoscope)――双眼でのぞくと写真を立体的に見せる装置――の製造販売で知られていたアメリカの会社です。「日露戦争」を題材とした企画のために使われた写真だったのかもしれません。

 

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41. 1987年のデヴィッド・マッキッタリック『カーウェン・パターン紙の新見本帖』(2013年1月13日)

1987_A New Specimen Book of Curwen Pattern Papers

1920年代から1950年代にかけて,魅力的な本を制作したイギリスのカーウェン・プレス(Curwen Press)は,書籍の印刷会社としては1984年に廃業します。それは,確かにある時代が終わったことを感じさせるできごとでした。
David McKitterickの『A New Specimen Book of Curwen Pattern Papers』(The Whittington Press,1987)は,カーウェン・プレスで作られ使われた書籍用パターン紙を集めた本です。表紙にはクロード・ローヴァット・フレイザー(Claud Lovat Fraser,1890~1921)がデザインしたパターン紙が使われています。印刷・発行のWhittington Pressは,活版印刷に関する魅力的な年誌『Matrix』を刊行している印刷所です。
この1987年刊行の本は,1928年に作られたカーウェン・プレスのパターン紙見本帖
『A Specimen Book of Pattern Papers Designed for and in use at The Curwen Press』(With an Introduction by PAUL NASH. Published for The Curwen Press by The Fleuron.)
をもとに,ケンブリッジ大学図書館のDavid McKitterickが再構成したものです。『The Fleuron』は1920年代のタイポグラフィの専門誌で,7号しか出ていませんが,20世紀のタイポグラフィにとって重要な雑誌です。1~4号はカーウェン・プレスが,5~7号はケンブリッジ・ユニヴァーシティ・プレスが印刷を担当しています。
1928年版には,見本として31枚のパターン紙が全紙で折り込まれて入っていましたが,1987年のWhittington Press版では,その後1960年代までにつくられたものも加え,52種類のパターン紙の見本が,サイズ的には小さくなりましたが,現物で貼り込まれています。ちなみに,1928年のオリジナル版の表紙にはポール・ナッシュ(Paul Nash,1889~1946)のパターン紙が使われていました。

Enid Marx_1987

やはり見本帖は,現物がいちばんです。写真複製だと使い物になりません。ということで,この見本帖は1928年版も1987年版も,カーウェン・プレスで刷られたパターン紙の現物が使われていて,見ていて楽しい本です。ページをめくる手が喜ぶ本です。

カーウェン・プレスのパターン紙にデザインを提供したのは次の16人です。両大戦間的な顔ぶれがそろっています。
 Edward Bawden
 Harry Carter
 Claud Lovat Fraser
 Elizabeth Friedlander
 E. O. Hoppé
 Margaret James
 Thomas Lowinsky
 Enid Marx
 Paul Nash
 Sarah Nechamkin
 Eric Ravilious
 Michael Rothenstein
 Albert Rutherston
 Graham Sutherland
 Diana Wilbraham
 Althea Willoughby

1926Dobson_1927Nash

実際にカーウェン・プレスのパターン紙が表紙に使われている例として,THE FLEURONが出版していた小さなモノクロ印刷の美術書シリーズ「BRITISH ARTISTS OF TO-DAY」から,そのナンバー4『FRANK DOBSON』(1926年)とそのナンバー5『PAUL NASH』(1927年)です。この表紙のパターンはEnid Marxがデザインしたもの。パターンは同じですが,インク色を変えています。 Enid Marxは,カール・マルクスの遠縁にあたる画家です。