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my favorite things 31 - 40

 my favorite things 31(2013年1月3日)から40(2013年1月12日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

40. 1969年の『岩下壮一 一巻選集』(2013年1月12日)

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岩下壮一(1889~1940)は,カトリックの司祭で哲学する人です。東京出身で,大正から昭和初期にかけて日本のカトリック教会の思想的支柱だった存在です。世の中には,いろいろな立場を超えて尊敬され信頼に値する存在が時に現れますが,岩下もそうした存在の一人だと思います。
岩下のカトリック者としての思想は,私のような享楽者には手の届かないテキストですが,『岩下壮一 一巻選集』(春秋社,1969年)に収録されている「チェスタトン管見」のような随筆は,気持ちのよい読み物になっていて,そこから推しはかると,鹿児島の第七高等学校で英語教師をしていた時代の岩下壮一は,才気あふれる青年教師だったのだろうと想像することができます。
暁星中学,第一高等学校,東京帝国大学文学部哲学科を卒業。秀才です。同級生の友人に『いきの構造』の九鬼周造,西洋美術史の児島喜久雄らがいます。根っからの東京育ちですが,一高時代の恩師,岩元禎の「大学を卒業したら地方の高等学校へ行って,黙って十年間勉強しろ」という助言をいれて,大正4年(1915年)9月,鹿児島の第七高等学校に英語教師として赴任します。それから,大正8年(1919年)8月,文部省在外研究留学生として神戸港からフランスへ出発するまで,鹿児島で暮らしています。
『七高思出集後篇』(1963年)に収録された中村四郎「岩下壮一先生の想い出」によれば,「先生は,鹿児島市の清水町に平屋を一軒借りて,飯炊きのおばさんを置いてここに住まつておられた」といいます。中村四郎青年と散歩した岩下壮一先生は「清水町の奥にある渓流に出たとき」に,その場所を「鹿児島のローレライと名づけている」と語ったとあります。稲荷川上流を「鹿児島のローレライ」とよぶのは,さすがにちょっと大げさで,笑ってしまいます。

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▲鹿児島市の稲荷川上流。岩下壮一が住んでいた清水町の家や「鹿児島のローレライ」とよんだ場所がどこかは,はっきりしませんが,稲荷川上流は私にとっても少年時代の大事な遊び場でした。現在,稲荷川上流は,何かと工事中で入りにくくなっていますが,特に夏の記憶がよみがえる場所です。

岩下壮一の鹿児島時代は,教師の顔の影で,どの道を歩むか悩んだ時代でもあったようです。フランス留学に向かうときの文章です。

「私の脳裡には,日本の隅の平和な天地がうかんだ。私はそこで麗しい自然の懐に抱かれ,愛読の書と愛する青年等にかこまれて,過去五年に近い閑静な生活を営んだのであった。私はそこで,平穏な生活を包み隠す人生の苦しい戦いを,心の中でひとり戦った。私はたしかに幾度もつまずいたに相違ない。しかし蹉跌は私をして神に近づけせしめた。私はとにかく苦しい幸福を味っていた。そうして鏡のような青い海の上に桜島が朝な夕な紫に匂い,紅に燃ゆる土地に,私の骸骨を埋めても決して不服はなかった。その潤いのある月日は,正に終ったのである。そこもついに安住の地ではなかった。私の前途には一万哩の航程が横たわっていた。その万里の波濤の彼方に展開すべき将来は,まったく想像がつかなかった。私は八千トンの巨船が煙突から吐きだす団々たる黒煙の流れが銀河を斜に横切るのを仰ぎながら,よきところに漂泊の児を導き給わんことを神に祈った。」(『導かるゝまゝに』)

この「そうして鏡のような青い海の上に桜島が朝な夕な紫に匂い,紅に燃ゆる土地に,私の骸骨を埋めても決して不服はなかった。その潤いのある月日は,正に終ったのである。そこもついに安住の地ではなかった。」は胸にせまる部分です。岩下の鹿児島時代,マードック先生は七高を辞めていましたが,まだ鹿児島に暮らしていて『日本史』を書いていました。岩下の回想にもマードック先生が登場します。

「五年近く鹿児島にいた間,磯の山上にマードック先生が住んでいた。夏目漱石に一高で英語を教えたことがあるそうで,(漱石の)博士号返上問題の際に,先生がはるばる漱石に書を寄せてその硬骨を称へたのが縁で,随筆集のどこかに出てくる人である。……とにかく先生との交際に刺戟されて,私はこの時分ヴィルギリウスやホラチウスなどを片づけることができたし,聖書を原語で読むことも覚えた。そのうちに欧州大戦はますます酣になる。豪州の大学ではドイツ語を廃して,その代りに日本語を教えることになり,シドニーから招聘状が先生のところへ舞込んできた。私も誘はれて,危く先生のお伴をしてゆくところだった。それを諫止してくれたのが当時七高の先輩かつ同僚で,私を鹿児島によんでくれた天野貞祐君だった。私はまだあの島津家の菩提寺(昌福寺とかいったと思う)の墓地で,石垣か何かに腰かけて天野君から諄々と説かれた時のことを,まざまざと再現することができる。『君の取ろうとするのは奇道である。奇道は正道へすすめぬ時にとるものだ。君は正道をすすむ資格において欠くるところがないのだから,そんなことはよせ』と。」(『私の敬慕する先生』)

島津家の菩提寺は正確には福昌寺です。「昌福寺」と間違って記憶しているところが,ほんとうの記憶らしい記述です。マードックとともにオーストラリアに渡るという選択も,別の可能性を開いたのではないかとも思いますが,どうしようもない話です。

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福昌寺跡には,第6代島津師久から第28代島津斉彬までの墓所があります。「跡」がついているのは,明治維新後の廃仏毀釈で廃寺になったからです。藩主代々の菩提寺である福昌寺も完全に廃してしまったのですから,鹿児島の廃仏毀釈は猛烈です。寺社というのは,その地域の歴史や知識,あるいは技藝が集積する場所でしたから,そうした場所を失ったツケは実は鹿児島の残った者にとってものすごく大きかったのだと思います。蓄積された歴史を完全に無にした御一新が,愚直なまでに実践されたわけです。そんな福昌寺跡のどこかで,岩下壮一と天野貞祐という強いキャラクターを持つ2人の青年が,自分たちの未来について語り合っていたんだなと思うと,やはりここは,ある時代精神のドラマの場所なのだとも思います。

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島津重豪の墓所にある亀趺碑の前でたたずむ岩下壮一と天野貞祐を想像したくなります。

さらに余談になりますが,木々康子『林忠正とその時代』(筑摩書房,1987)は,明治期に浮世絵など日本美術品を欧米に輸出した美術商・林忠正の伝記ですが,その中に,岩下壮一がちょこっと登場します。フランスで美術商として成功した林忠正は,印象派を中心とした500点を超える西洋美術品を集め,明治38年(1905年)に帰国する際,そのコレクションを日本に持ち帰ります。自分の手で日本に西洋美術館を建設することをもくろんでいたのですが,帰国の翌年,明治39年(1906年),50歳で急死してしまいます。その西洋美術館計画は宙に浮き,1913年(大正2年)のニューヨークで行われた売り立てなどで,林忠正コレクションは散り散りになってしまいます。しかし,その売り立てがあるまでの数年間,コレクションは日本に置かれていました。『林忠正とその時代』からの孫引きになりますが,児島喜久雄の回想によると,

「林忠正は自分で小美術館を作ろうと思って居たのだそうだが実現しないうちに亡くなって了った。僕があのコレクションを見たのは親友の岩下壮一がいつも僕のことを心にかけて居てくれたので林のところであのコレクションを手離そうとして居るから見て置いたらと言って連れて行ってくれたのだ。里見弴を誘って一緒に行ったが何しろ初めて十五,六点のドガのパステルやモネの海景などを見たのだから無茶苦茶に喜んで了った。二人共有頂天になって居るので岩下もそんなに喜んで呉れるんだったらもっと早くから度々来りゃあよかったねと言って嬉しそうに笑って居た。今でもそんな事を思い出すと無際限な岩下の友情を感じて涙が浮んで来る。あの教養の深い稀世の宗教家を失ったことは日本の為に非常な損失だった。……林コレクションを見た僕と里見は是非これを白樺の仲間に見せ度いと思って岩下に頼んで武者や志賀其他大勢で又見に行った。数日後其日行かなかった細川が譲って貰ってもいいから一度見度いと申込んだ時にはもうアメリカの人に売ることにしたからとのことで何と頼んでも見せて貰えなかった。後から非常に安い其価格を聞かされた時は皆あきらめきれない気持だった。今ある目録以外のものも大分あった。ドガのパステルは故人が特に大切にして居たという話だった。」(「ショパンの肖像」)

白樺派というと,複製による西洋美術の受容ということで語られることが多々ありますが,岩下が媒介となって,里見弴,志賀直哉,武者小路実篤らは,初めて実物に触れているわけです。

 

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39. 1860年のモクソン版『アルフレッド・テニスン詩集』(2013年1月11日)

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1857年にEDWARD MOXON AND CO.が出版した『アルフレッド・テニスン詩集(POEMS BY ALFRED TENNYSON)』ではないのかという疑問もあるかと思いますが,1857年版と1860年版の関係は,なかなかややこしいのです。54点の木版挿画の入った,桂冠詩人アルフレッド・テニスン(1809~1892)の1857年の詩集は,出版としては失敗でした。
1858年には企画者で創業者のエドワード・モクソン(Edward Moxon,1801~1858)が亡くなり,売れ残った『アルフレッド・テニスン詩集』の在庫はラウトレッジ社(Routledge)に売られて,表紙を換え,価格も安くして販売されました。上の写真は,表紙の背にはRoutledge社の名前があり,本文タイトルページには「EDWARD MOXON AND CO., DOVER STREET」とある,モクソン版でもラウトレッジ版でもある1860年版です。本文自体は1857年初版のままです。赤のクロス装と青のクロス装のものが手元にあって,ともに「BOUND BY LEIGHTON SON AND HODGE」というシールが見返しに貼られています。ほかの色のクロス装もあるのかもしれません。

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「EDWARD MOXON AND CO.」は,19世紀イギリスを代表する詩人出版社のひとつです。エドワード・モクソン(Edward Moxon,1801~1858)は,自身も詩人で,文学志向が強い出版者でした。モクソンが出版した作家には,Browning,Campbell,Cornwall,Hood,Hunt,Lamb,Landor,Milnes,Rogers,Shelly,Southey,Tennyson,Wordsworthらがいます。出版社のLongman社で働いていましたが,詩人で銀行家のSamuel Rogersからの出資を得て,1830年に自らの名前の出版社をおこしました。最初に出版した本はCharles Lambの『Album Verses』でした。作家たちの友人としても知られ,作家たちとの良好で緊密な関係は1858年にモクソンが亡くなるまで崩れませんでした。会社自体は,モクソンの没後も続きましたが,会社の後継者と作家との関係が悪化し,1870年ごろにWard & Lock社に吸収され,会社としては無くなってしまいます。

19世紀中盤から,イラスト入りの本をクリスマスのプレゼントにすることが一種の年中行事の定番になって,多くのイラスト本が企画されました。モクソンも,自社の作家たちの作品にイラストを添えた版を刊行することで,業績を上げようと試みます。1857年の『アルフレッド・テニスン詩集』もそのひとつです。1853年ごろから企画されたこの挿絵本の冒険的なところは,原画制作にCreswick(1811~1869),Mulready(1786~1863),Stanfield(1793~1967),Maclise(1806~1870),Horsley(1817~1903)ら評価の定まった画家たちだけでなく,海のものとも山のものとも知れぬラファエル前派とよばれる20歳代の画家たちMillais(1829~1896),Holman Hunt(1827~1910),Rossetti(1828~1882)らを起用したところです。54図の挿絵のうち,24図が評価の定まった画家たち,30図がミレー,ホルマン・ハント,ロセッティらラファエル前派の画家たちの原画で,木版彫版はダルジール(Dalziel)兄弟を中心に,W.J.Linton,J.Thompson,T.Williams,W.T.Greenらが担当しています。その異種混合がうまくいけばよかったのですが,残念ながら本としても中途半端なものになってしまいました。また,著者のテニスンもそれらの挿絵を気に入らなかったようです。タイトルページには「ILLUSTRATED BY T. CRESWICK, J.K.MILLAIS, W.MULREADY, D.MACLISE, CLARKSON STANFIELD, J.C.HORSLEY, &c」とあって,現在なら表看板に置きたいホルマン・ハントとロセッティの2人がタイトルページで「&c」扱いなのはご愛敬です。
挿絵入りの『アルフレッド・テニスン詩集』は,ダンテ・ゲイブリエル・ロセッティの入稿遅れなどから,1856年のクリスマスシーズン前の発行に間に合わず,1857年5月に発行されました。時期を逸したことや「31s. 6d」と高めの価格設定で販売されたこともあって,初版1万部のうち,その4分の1も売り上げることができませんでした。在庫を引き取ったRoutledge社は,表紙を換え,価格も安くして販売しましたが,そちらのほうの売れ行きはよく,すぐさばけたというのは皮肉な話です。

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▲モクソン版『アルフレッド・テニスン詩集』に収録された詩「St. Agnes' Eve」につけられたジョン・エヴァレット・ミレイ(John Everett Millais,1829~1896)の木版挿画。彫版はダルジール(Dalziel)兄弟。
この挿画は,少女の吐く小さな息の表現がかなめになっています。映画などでは,白い息は珍しくありませんが,静止した絵では,息の表現は難しいものです。もっとも,漫画の吹き出しも「息」の表現とも考えられますし,息の扱いは静止した人物画表現でも実は重要な要素のような気がします。寒い夜に吐く息は,思った以上に大きく,絵のような小ささにおさまることはありません。それでも,少女の吐く息の小ささがこの挿画の魅力の中心になっています。詩のタイトルになっている聖アグネスは,ローマ帝国の時代に,純潔を守って13歳で殉教した少女です。殉教した1月21日の前夜が「St. Agnes' Eve」です。少女があるおまじないをすると,その夜に未来の伴侶と夢で会うことができるという言い伝えがあります。

 

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38. 1980年のヤング・マーブル・ジャイアンツ『言葉と絵』(2013年1月10日)

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ヤング・マーブル・ジャイアンツ(YOUNG MARBLE GIANTS)は,ウェールズのカーディフ出身のバンドです。1979年から1981年の約2年,ポストパンクといわれた時期に活動したバンドです。女性1人,男性2人という編成で,メンバーは,
 ヴォーカルのアリソン・スタットン(Alison Statton)
 ギター&オルガンのスチュアート・モクサム(Stuart Moxham)
 ベースのフィリップ・モクサム(Philip Moxham)
チープなリズムマシーンもバンドの特徴でした。およそ2年の活動期間中,1枚のアルバムと2枚のシングルを出しています。
 LP『Colossal Youth』(Rough Trade,1980年2月)
 EP『Final Day』(Rough Trade,1980年6月)
 EP『Testcard E.P.』(Rough Trade,1981年3月)
アルバムの英国盤では,歌詞カードは封入されていませんでしたが,その歌詞を収録した『言葉と絵(WORDS AND PICTURES)』という 24ページの小冊子を作っていました。刊行年は記載されていませんが,1980年ごろの冊子です。最初のページに,
 WORDS BY STUART MOXHAM
 DRAWINGS BY WENDY SMITH
とクレジットされていて,見開きの左側がウェンディ・スミスの絵,右側がスチュアート・モクサムの詩という構成になっています。「POEM」という作品を除けば,すべてヤング・マーブル・ジャイアンツの曲の歌詞として使われている詩です。特徴的なロゴもウェンディ・スミスです。いかにも自主制作なつくりですが,こうした画文一致の小冊子というのは魅力的な存在です。

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ウェンディ・スミスがジャケットに水彩画を提供しているWeekendやMagnetic Fieldsといったバンドのアルバムも出来が良くて,ウェンディ・スミス・ジャケットのアルバムにはずれなしです。LP『Colossal Youth』のジャケット写真もウェンディ・スミスが撮ったものです。
この小冊子の印刷をしているのは,ロンドンのBetter Badgesです。パンクやポストパンクのアイテムとして缶バッジは欠かせないものでしたが,そのパンクやポストパンクシーンで,缶バッジの製造を請け負っていた,伝説のバッジ屋さんです。ファンジンなど自費出版物の印刷も扱っていて,後にストリートファッションの発信源となった『i-D』誌の1980年創刊号も,Better Badgesが印刷しています。
1976年から1984年ぐらいまでのパンクとポストパンクのシーンが,自主制作・インディーズのDIY(Do It Yourself)の精神を音楽の世界に定着させました。もちろん,それ以前も自主制作・インディーズ流れは存在していたのですが,「インディーズ」という言い方を定着させ一般化したのは,パンクとポストパンクのムーブメントだったと思います。

ヤング・マーブル・ジャイアンツも,ポストパンクの代名詞のような英国インディーズレーベル,ラフ・トレード(Rough Trade)から,レコードをリリースしたバンドです。そのパンクとは違った,すかすかの音空間に「ひりひり」した感情がのっています。アリソン・スタットンの語りのような,決して張らない声は,1980年の「魂」に寄り添う声でした。その音は,どこか苛立っていた1980年と世界とシンクロしてしまい,あらがいようもなく1980年の音になってしまったのだと思います。世界とシンクロすれば良いのかというのは別問題です。その後のメンバーの活動は,世界とシンクロする息苦しさから,自分の息を整え直す活動だったのかもしれません。
今ヤング・マーブル・ジャイアンツを聴くと,「過去の亡霊」みたいなものに聞こえるかもしれませんが,パンクの勢いがおさまって,それさえもどこか白々しく感じられた1980年にはふさわしい,清々とした音楽でした。

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シングル『Final Day』は,3人そろったヤング・マーブル・ジャイアンツとしての最後のスタジオ録音になってしまいました。A面1曲目の「Final Day」は,人類の滅亡の日を歌っていたのだと思います。1分39秒のあっけないくらい短い曲です。普通におしゃべりしながら,自覚のないまま,ぷっつり途絶えて絶滅してしまう,そんな人類最後の歌です。壮大な大曲ですらならないところが1980年の「気分」を表しているようです。

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▲EP『Final Day』のジャケット裏面にバンド名とアルバムタイトルの由来となった,Gisela Richter,Irma Richterの『Kouroi: Archaic Greek Youths』(Oxford University Press, 1942, 3rd edition, Phaidon, 1970.)からの引用が記載されています。

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アリソンが抜けた後に作られた『Testcard E.P.』はモクサム兄弟のインストゥルメンタルですが,そのジャケットは,『Final Day』の人類滅亡の後,テレビ画面だけが明滅しているような印象です。2000年代になると,3人は時々集まってライブをするようになっています。少なくとも1980年の白々とした「気分」からは抜け出したのでしょう。

 

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37. 1927年の『七高さん』(2013年1月9日)

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旧制第七高等学校造士館,略称は「七高」は,明治34年(1901年)4月,鹿児島市に設立された官立旧制高等学校です。戦後の学制改革で昭和25年(1950年)3月に廃校になっています。ちょうど20世紀前半だけに存在した,鹿児島の最高学府でした。鶴丸城址に校舎があって,その跡地は現在,鹿児島県歴史資料センター黎明館と県立図書館になっています。
写真の破れカヴァーの本は,第七高等学校造士館同窓会が刊行した『七高思出集前篇』(昭和35年)と『七高思出集後篇』(昭和38年)です。印刷はともに福岡県の秀巧社印刷です。この『七高思出集後篇』に,七高生が描いた2つの漫画冊子の複製が掲載されています。
大正12年(1923年)10月の日付のあるユイチレアン・アミトノフ著『仰げば尊し吾が師の恩』と,発行年月日の記載はないのですが,『七高さん』(理科三甲一発行)という「創立貳拾六週年記念七高生活漫画雑誌」の2冊です。昭和2年(1927年)は西郷隆盛没後50年にあたっていて,10月24~31日に五十年祭が実施されているのですが,この『七高さん』には,その行事についての漫画もあるので,昭和2年(1927)ごろにつくられたものだと思います。

例えば,20世紀前半の鹿児島に,どんな「モダニズム」的なものがあったのだろうかと考えるとき,「七高」という場所が手がかりになるのだろうなと思っていました。予想どおりと言ってはなんですが,1927年の『七高さん』には「モダンボーイ」が1920年代の鹿児島にも存在したのだなと感じさせます。基本は,学生さんが描いた教師の戯画と学生生活のあれこれなのですが,その漫画表現がいかにも20世紀モダニズム的で,読んでいて,うれしくなります。1927年の『七高さん』の序文を,中心人物らしい「ひさを」氏が高らかに書いているのですが,その冒頭の一節も,学生さんらしく気負っていて,良い感じなのです。

《トリスタン・ツアラは「藝術とはココア色の遊戯なり。」と喝破している。然らば人生とは何か? 思いここに到れば頭脳の悪い俺等は一寸首をひねらざるを得ない。しかし諸君!! 何もそんなに考える必要はないじやありませんか,人生なんて賽の河原の石積みごつこと同じですよ,石を積むことの上手な奴が,うまいことをするんですね。だからジヤンコクトオは云つているんですよ。「青年は安全なる株を買つてはならない。」と,つまりやまけの多い奴が得をするんですね。そこで俺等仲間は,学校に行つても,石積みの練習ばかりしているんですよ。往来を歩く時は逆立をして澄渡つた空をながめ流れ行く白雲に哲学を思索するんですよ。素敵でしょう。(後略)》

「素敵」です。ダダイストのトリスタン・ツアラ(Tristan Tzara,1896~1963)の名前が出てきただけでも,素晴らしい。この漫画冊子を制作し編集した青年たちが誰だったが,はっきりしていないのですが,1927年の鹿児島で書かれた文章としては,想像の斜め上をいっていました。 そのころの七高には,花田清輝(1909~1974)らがいたわけですから,モダンで「尖端」的であってもおかしくありません。

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▲『七高思出集後篇』(昭和38年)掲載の1927年版『七高さん』表紙

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1927年の『七高さん』中の見開き「ヒチコーゼツケイ」を見ると,現在,磯にある異人館が本館(右奥に見える)として使われていたことが分かります。磯の異人館は1882年から1936年まで鶴丸城内にあって,七高の校舎の一部として使われていました。

この『七高さん』という漫画雑誌は,いつ始まりいつ終わったのか分かっていませんが,継続して作られていたのは確かなようです。鹿児島大学理学部同窓会のホームページにも,『七高思出集後篇』に収録されたものとは別の,後藤弘毅旧蔵『漫画 七高さん 昭和五年版』が公開されています。これもまた鹿児島の昭和五年(1930年)に,「ナンセンスとスポーツと単純な朗らかすぎる人生」を謳歌する「モダン」な心性が間違いなく存在したのだと感じさせる,とても楽しい漫画冊子です。もし『漫画 七高さん』の全貌が分かれば,20世紀前半の鹿児島のモダンな一面を知る上で重要な資料になると思います。どこかに残っていないものでしょうか。

薩摩藩の藩校「造士館」の名前を持つ学校は,旧制第七高等学校で絶えてしまいました。鹿児島の教育の大看板「造士館」という,由緒あるブランドネームを使えないままなのは,もったいないと思いますが,男女共学の世の中になった現在,「造士」という名称は使いにくいのも確かです。

 

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36. 1936年のグウェン・ラヴェラ『逃亡』(2013年1月8日)

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グウェン・ラヴェラ『逃亡』と書きましたが,『The Runaway A Victorian Story for the Young』(Macmillan,1936年)で,グウェン・ラヴェラ(Gwen Raverat,1885~1957)は木版挿画を制作してはいるものの,本文を書いたわけではありません。しかし,カヴァー(ダストラッパー)や表紙,タイトルページに作者の名前はなく,ラヴェラの名前しかありません。
このオルガ(Olga)とクラリス(Clarice)という2人の少女の小さな冒険物語は,グウェンをはじめダーウィン家の子どもたちのお気に入りだったようで,それを懐かしんだラヴェラが復刊を企画し,自ら挿画を添えて1936年に刊行したのがこの本です。
原作は1872年に同じMacmillan社から出ていて,その時も作者名は匿名で,「by the Author of Mrs Jerningham's Journal」とクレジットされていました。『Mrs Jerningham's Journal』は1869年に出版された戯詩で,この本にも作者名はクレジットされていません。作者の本名はElizabeth Anna Hart(1822~90)といって,子ども向けの本などを書いていた人のようです。『不思議の国のアリス』のルイス・キャロルの遠縁に当たるそうです。
印刷は,グウェン・ラヴェラの木版挿画が入った本ということで,
 CAMBRIDGE: PRINTED BY
  W. LEWIS, M.A.
 AT THE UNIVERSITY PRESS
W. LEWISは,木版からステロ版を用意するのでなく,オリジナルの版木を活字と組み合わせたまま印刷する方を好んだといいます。

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『The Runaway(逃亡)』の本の見返しには,登場人物たちが並んでいて,こういう見返しの使い方は好きです。物語を読み終えた後,改めてこの見返しを見ると,登場人物たちがカーテンコールをしてくれているような味わいがあります。
見返しは,書物という場の中で,空き地の開放感がある場所という気もします。見返しは,基本的に表紙と本の中身を張りつけて書の強度を高めるための場所なので,何もなくてもいいのですが,そういう場所に遊びがあると楽しいです。特に子どもの本では,カヴァー・表紙でも本文でもない,この場所で,いかに遊べるかは,本の作り手のセンスを問う部分にもなるような気もします。
冒険物語では地図の場所です。

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アーサー・ランサム(Arthur Ransome,1884~1967)の『ツバメ号とアマゾン号(SWALLOWS & AMAZONS)』(Cape,1930)の見返し。1932年のイラストがまだクリフォード・ウェブ(Clifford Webb)だったころの版の見返しですが,後に,中のイラストがランサム本人のものに変わっても,この見返しは基本的に変わっていません。ランサム・サガに,見返しの地図は欠かせないものです。
『アマゾン号とツバメ号』や『ツバメの谷』の本文を改めて見てみると,本文主体はモノタイプ社の活字で,書体はカズロン(CASLON),大きさは11ptで,行間空き1pt leadedという,両大戦間イギリスの「中庸」の見本のような文字組ですが,そのどこか垢抜けなさがもたらす安心感もあります。

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リチャード・ジェフリーズ(Richard Jefferies,1848~1887)の『Bevis: THE STORY OF A BOY』(1882)に,アーネスト・シェパード(Ernest Shepard, 1879~1976)がイラストを付けたCape社版の見返し。シェパードによるイラスト版の初版は1932年。この写真は1955年の第5刷から。『Bevis: THE STORY OF A BOY』は,どちらかというと,ゆるい構成の小説ですが,冒頭のBevis少年が思いつくままの遊びに夢中になっていく姿の描写は,子ども時代特有の夢中になりつつも飽きっぽい好奇心のありようがそのまま書かれているようで,わくわくする部分です。

 

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35. 1899年のメアリ・フェノロサ『巣立ち』(2013年1月7日)

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『巣立ち(OUT OF THE NEST)』メアリ・マックニール・フェノロサ(Mary McNeil Fenollosa,1865~1954)の最初の書物,処女詩集です。ボストンのLittle, Brown社から1899年に出版されました。
二部構成になっていて,「EAST」と「WEST」に分かれて,「EAST」では1890~1891年ごろの鹿児島,1896~1901年の東京や京都滞在時の体験から生まれた詩,「WEST」は生まれ故郷のモービルやボストンでの体験から生まれた詩です。
「ジャポニズム」は,長編小説や映画になると,日本人にとって粗ばかりが目立っていけないのですが,詩や美術作品の小品だと,なんとか成り立ってしまいます。メアリの魅力を現在も生かすとしたら,この詩集という気がします。「EAST」に収められた日本の詩はかわいらしくて魅力的です。「薩摩の丘の日の出(SUNRISE IN THE HILLS OF SATSUMA)」とタイトルに薩摩の名を織り込んだ詩も収録されています。

SUNRISE IN THE HILLS OF SATSUMA

SUNRISE IN THE HILLS OF SATSUMA

THE day unfolds a lotos-blooms,
Pink at the tip and gold at the core,
Rising up swiftly through waters of gloom
That lave night's shore.

Down bamboo stalks the sunbeams slide,
Darting like glittering elves at play,
To the thin arched grass where crickets hide
And sing all day.

The old crows caw from the camphor boughs,
They have builded there for a thousand years.
Their nestlings stir in a huddled drowse
To pipe shrill fears.

A white fox creeps to his home in the hill,
A small gray ape peers up at the sun;
Crickets and sunbeams are quarrelling still;
Day has begun.

【試訳】薩摩の丘の日の出

日が始まります,咲き広がる蓮の花のように
先はうす赤く,芯はこがね色
ものうい流れから日はすばやく昇り,
夜の岸を洗い流します

きらめくもののけたちが遊びながら飛び交うように
日の光が竹の林に射し込みます
そっと重なった草の影にコオロギが身を隠し
一日中歌います

クスノキの枝で,年老いたカラスが鳴いています
千年もそこで巣作りしてきました
ヒナは身を寄せ合ってうたた寝し,ふっと動いて
こわいこわいと鳴いています

白いキツネは丘のわが家へしのび足
小さな灰色の猿がお日さまをじっと見上げています
コオロギは日の光とまだ争っています
一日が始まったのです

この詩の生まれた場所は鹿児島のどこだったんでしょうか。メアリ・マックニール・フェノロサが鹿児島のどこに住んでいたのかさえ,分かっていないのが残念です。この詩は,鹿児島市内の,どこか見晴らしの良い丘に「詩碑」があってもおかしくないような作品だと思います。それから,急ぎ足の試訳の出来についてはご容赦ください。あくまで参考まで。
小品ですが「朝の幻(MORNING FANCY)」も良い作品です。

MORNING FANCY

O LET me die a singing !
O let me drown in light !
Another day is winging
Out from the nest of night.
The morning-glory's velvet eye
Brims with a jewelled bead.
To-day my soul's a dragon-fly,
The world a swaying reed.

【試訳】朝の幻

ねえ,歌いながら死なせて
ねえ,光のなかに溺れさせて
夜の巣から飛び立ち
新しい一日が羽ばたきます

朝顔のヴェルヴェトの眼は
きらめくしずくで縁取られています
きょう,わたしの魂は一羽のトンボとなり
世界はそよぐ一本の葦となります

 

1901Truth Dexter

1905Breath of the Gods

メアリがシドニー・マッコール(SIDNEY McCALL)名義で出した小説『トゥルース・デクスター(Truth Dexter)』(Little, Brown,1901年)と『神々の息吹(The Breath of the Gods)』(Little, Brown,1905年)の表紙の装釘は,ASというイニシャルのロゴがあるので,ボストンの装釘家エイミー・サッカー(AMY SACKER,1872~1965)のものです。これは,『龍の画家』の野暮ったい装釘よりも,良い意味でジャポニズムらしさが出ていると思います。いずれも裸本です。20世紀になると,出版社が出す本は,カヴァー(ダストラッパー)がつくのが当たり前のようになっていますので,これらの本にもカヴァー(ダストラッパー)があったのだと思いますが,まだカヴァー(ダストラッパー)付きのものを見たことはありません。

処女小説『トゥルース・デクスター(Truth Dexter)』は,メアリとアーネスト・フェノロサの関係から生まれた小説で,メアリの小説の中では,読み手の力次第で生まれかわる可能性を持った小説だと思います。アーネストの離婚調停中に始まったとされるメアリとの関係は,ボストンではスキャンダルとされ,アーネスト・フェノロサは1896年以降,2度とボストンの地に足を踏み入れていません。日本の外国人社会のなかでも,2人は温かく迎え入れられたとは言えず,2人が現れると席を外す外国人夫人たちもいたようです。恋に生きるというのもたいへんです。

YOUNGER AMERICAN POETS01

YOUNGER AMERICAN POETS02

1904Mary McNeil Fenollosa

参考までに,同じLittle, Brown社から1904年に出たJESSIE B. RITTENHOUSE『THE YOUNGER AMERICAN POETS』で,カヴァー(ダストラッパー)つきのものが手元にあったので,掲載しておきます。たぶんメアリの本もこのような単色で文字主体のカヴァーなのだろうと思います。この本には,有望な詩人の1人としてメアリの名前もあり,たおやかな風情のメアリの肖像写真も載っています。この写真は日本で撮られたものらしいのですが,どの写真家が撮影したか分かれば,また別の挿話が浮かび上がってくるような気がします。

1895The Chap-Book_Chicago

手元にあるものでは,もっとも古いメアリのテキストが掲載されたリトル・マガジンです。1895年3月15日発行『The Chap-Book』(Stone & Kimball)という小冊子で,シカゴで発行されていたものです。このときの名前はまだ,MARY McNEIL SCOTTで,「FLYING-FISH」という詩が掲載されています。
詩人の野口米次郎が,『坐る人間の評論』(改造社,大正14年)収録の「重大な結果」で,
「曾て市俄古は大仕掛で豚や牛を殺す屠殺所を誇るのみであつたものが,今日では人の知る如く市俄古大學を持ち圖書館を持ち,米國の中西部の若い豫言者や女豫言者の至聖殿である詩の雑誌『詩歌』を持つて居る。この『詩歌』は薄ぺらな一小雑誌に過ぎないが,英語詩をしてカーライルの所謂古い着物を捨てさせるに勇敢な仕事をしたのである。」
と書いていますが,現在も刊行されているシカゴの『POETRY』誌をハリエット・モンロー(Harriet Monroe,1860~1936)が創刊したのが1912年ですから,1895年のシカゴも屠殺所ばかりではなかったようです。

ふと思いましたが,この「FLYING-FISH」という詩には,篠原鳳作の「しんしんと肺碧きまで海の旅」という句と通じる海と空の青さがあります。

 

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34. 1906年のメアリ・フェノロサ『龍の画家』(2013年1月6日)

1906DragonPainter

小説『龍の画家(THE DRAGON PAINTER)』(Little, Brown,1906)は,明治期の日本美術に大きな役割を果たしたアーネスト・フェノロサ(Ernest Fenollosa,1853~1908)の夫人が,メアリ・マックニール・フェノロサ(Mary McNeil Fenollosa,1865~1954)の名前で出した最初の小説です。それ以前の2冊の小説はシドニー・マッコール(SIDNEY McCALL)という男性名で出しています。
小説『龍の画家』は,狩野派の画家の家を舞台にした,恋のおとぎ話です。東京に住む狩野インダラは巨匠ですが,自分の絵を継ぐにふさわしい存在が周りにおらず,失望しています。そこに,旧友ウチダが,九州の山奥で会った,理想の存在「龍姫」を探して九州の山々をめぐりながら絵を描き「画狂」といわれる野生児タツの存在を教えます。インダラはタツを東京に呼び寄せ,タツはインダラの娘ウメコと恋に落ちます。その恋の行方はいかに――といった物語です。狩野インダラは狩野永悳(えいとく),タツは狩野芳崖がモデルとされています。1906年のボストンのLittle, Brown社版には,「TO KANO YEITAN」と献辞がありますが,狩野永探はアーネスト・フェノロサの画号です。

メアリが『龍の画家』執筆について語ったインタビューの一部がCaldwell Delany『A MOBILE SEXTET』(HBS,1981)の「Mary McNeil Fenollosa, an Alabama Woman of Letter」(初出は『The ALABAMA REVIEW』誌1963年7月号)に収録されていて,羽田美也子『ジャポニズム小説の世界 アメリカ編』(彩流社,2005年)で訳されています。その部分は,鹿児島にとっても,意味のある発言ですので,孫引きになりますが,引用します。

「何年もの間,私の心の奥にこれくらいの長さの物語がありました。その考えが思い浮かんだのは私が薩摩に住んでいた時で,そこでは綺麗な流れの川の側に快適な小さな家,家や川の上空には澄みきった空気,粘土や灰色の岩がごつごつと突き出たそびえ立つ崖,そしてその頂上には巨大なクスノキ。それが私の物語の情景でした。タイトルの『龍の画家』はその次に思い浮かびました,そしてそれからは私の鉛筆の先から,何万もの言葉が自然にほとばしり出てきました。すでに書いたいくつかの詩は別として,この物語を書いたときほどすらすらと楽しみながら筆を運んだことはありませんでした。」

メアリはかつて暮らした鹿児島の風景を意識しながら,この小説を書き上げたようです。メアリの物語の情景となる「綺麗な流れの川の側に快適な小さな家,家や川の上空には澄みきった空気,粘土や灰色の岩がごつごつと突き出たそびえ立つ崖,そしてその頂上には巨大なクスノキ」という風景を,鹿児島としては準備しておきたい気がします。

『龍の画家』のなかで,かつて美術家で,現在は明治政府の鉱山技師となっているインダラの旧友ウチダが訪ねてきて,タツの存在を伝えるのですが,そのときインダラが九州のことを懐かしく語っています。
“Kiu Shiu,” murmured the artist. “I wandered there in youth and have thought always to return. The rocks and cliffs are of great beauty. I remember well one white, thin waterfall that flung itself out like a laugh, but never reached a thing so dull as earth. Midway it was splintered upon a sunbeam, and changed into rainbows, pearls, and swallows!”
さて,その美しい滝はどこの滝か,と考えるのも楽しいかもしれません。

メアリ・フェノロサは,1865年3月8日,南部同盟の最後日に,アメリカ南部のアラバマ州モービルにウィリアム・マクニールとローラ夫妻の長女として生まれ,南部の再建時代に,情熱的で文学的な少女として育ちます。
生涯3度の結婚をしています。
15歳の時に駆け落ちして最初の結婚。長男アランをもうけますが,最初の夫とは死別し,実家に戻ります。そのとき,かつての求婚者のひとりで,アラバマ州立大学を卒業後,鹿児島の造士館中学に勤めていたレッドヤード・スコット(Ledyard Scott)の手紙による求婚を受け入れ,息子のアランとともに来日し,1890年(明治23)横浜で2度目の結婚をします。東京・日光,鎌倉,箱根を観光し,神戸経由で鹿児島へ向かいます。しかし,いつしか厳格な夫に幻滅し,妊娠を隠して帰国してしまいます。1892年(明治25)2月,長女をモービルの実家で出産しています。スコットは和解をのぞんだようですが,メアリは復縁を拒否し,離婚します。このころから,メアリは詩を雑誌などで発表し始めます。
レッドヤード・スコットとメアリの鹿児島での記録は,あまり見つかっていません。今藤慶四郎・樋渡清廉編『島津珍彦男建像記念誌』(大正12年)収録の「造士館職員略歴」では「雇外國語教師として米國人ダブルユー,レッドヤードスコット氏等あり今一々詳記せず」,また,樋渡清廉「編輯を了りて」に「よい加減な英語から會話の本修行で面くらふたスコット師の来任には厠まで新調して迎へられた演武館がいまの寄宿舎の隅に移されると」といった記述があるくらいです。「一々詳記」してくれたら,ありがたかったのですが。スコットの肖像を見ることができたのは,Caldwell Delany『A MOBILE SEXTET』のみです。

Ledyard Scott01

メアリの鹿児島滞在は,1890年から1891年の2年前後と思われますが,筆まめなメアリがこの時期の日記を残していたら,鹿児島にとって宝物のようなテキストになるような気がします。結果として,メアリの鹿児島滞在は,不幸な結婚として終わりましたが,『龍の画家』をはじめ,おとぎ話のような文学作品に結びついていきます。

メアリは,アメリカ帰国後,ボストン美術館の助手募集で職を得てボストンに移り住み,そこで,館長のアーネスト・フェノロサと出会います。1895年,アーネスト・フェノロサはリジー夫人と離婚し,メアリと再婚します。1896年(明治29)7月に,夫妻は再来日。1901年(明治34)まで,日米を往復するようになります。
メアリは,1899年,最初の詩集『巣立ち(Out of the Nest)』(Little, Brown)をMary McNeil Fenollosaとして出版。1901年,最初の長編小説『トゥルース・デクスター(Truth Dexter)』(Little, Brown),1905年,『神々の息吹(The Breath of the Gods)』(Little, Brown)を発表。この2冊はシドニー・マッコール名義で出版しています。1908年,アーネストがロンドンで急死すると,アーネストの未完の書物出版のため奔走します。

『龍の画家』は,Caldwell Delany『A MOBILE SEXTET』や羽田美也子『ジャポニズム小説の世界 アメリカ編』で,雑誌『Collier's』の懸賞小説に当選し,1万ドルの賞金を得たとされていますが,「1万ドル懸賞金」の話は,少し怪しいようです。
確かに,F. X. Leyendeckerが表紙絵で「Dragon Painter」を描いている『Collier's』1905年7月15日号に掲載されたことは間違いないようです。書籍版は,雑誌掲載版に加筆したものなので,その雑誌掲載版を読んでみたいのですが,雑誌自体はまだ手にとったことはありません。
1888年から1957年まで続いた20世紀前半のアメリカを代表する雑誌のひとつ『Collier's』が1904年に募集した短編小説の懸賞は大規模なものだったようで,『Collier's』はその総評をまとめた小冊子『The COLLIER QUATERLY PRIZES FOR SHORT STORIES』というのを出しています。1万2000作品の応募があり,入選は次の3作でした。
 【1st Prize: 賞金$5000】FAGAN by Rowland Thomas
 【2nd Prize: 賞金$2000】MANY WATER by Mrs. Margaret Deland
 【3rd Prize: 賞金$1000】IN THE PROMISED LAND by Raymond M. Alden
この3作のほかに『Collier's』誌で65作品を買い上げたとあり,そのリストの中に「The Dragon-Painter Mary M. Fenollosa」も含まれていますので,「1万ドル懸賞」の話は,何か別の話がまじったものかもしれません。

Colliers1905

1919年『龍の画家』はハリウッドで映画化されています。
主演は,早川雪洲と青木鶴子の夫妻。早川雪洲がタツ,青木鶴子がウメコを演じています。ハリウッドで最初の日本人スターです。サイレント映画の時代には,英語を話さない日本人もハリウッドスターになることができた,その見本のような存在です。1910年代は,エキゾチックな東洋趣味の映画がアメリカで集客を望めた時代で,ジャポニズム的なものもまだ有効でした。早川雪洲は,その時期のハリウッド映画のエキゾチックな二枚目スターでした。セシル・B・デミルの映画『チート』(1915年)では,白人女性を誘惑し,その肌に焼き印を押す悪の二枚目を演じて,スターダムに乗ります。日本では,『チート』の影響でアメリカにおける排日運動が活発になったと上映禁止となっています。確かに,終盤,群衆が早川雪洲演じるビルマの象牙王Mr.Haka Arakauをつかまえろと糾弾する場面は白人たちのリンチの現場を見るように恐ろしいことも確かです。

2008DragonPainterDVD

『THE DRAGON PAINTER』(MILESTONE,2008)というDVDも出ています。
このDVDには,特典映像として,1914年の早川雪洲,青木鶴子の出演作『The Wrath of the Gods』の現存しているフィルムからの復元版が収録されています。早川雪洲の最初期のハリウッド映画出演作です。この作品は,鹿児島に住む人間にとっても興味深い映画です。なぜなら,1914年(大正3年)1月の桜島大噴火を題材とした映画なのです。
正式なタイトルは,
『The Wrath of the Gods, The Destruction of Sakura-Jima(「神々の怒り,桜島の破壊」)』
です。しかし,正直言って,鹿児島の人は,心の健康のため,見ないほうがいいかもしれません。人によっては「国辱的」と思うかもしれない内容です。
「ジャポニズム」というのは,日本というものに対する妄想あるいは誤解の領域にあるものと考えた方が,「日本人」としては心の健康のためによいしろものなのかもしれません。これは他者の「妄想」なのだから,心広く持とうと自分に言い聞かせてからでないと,落ち着いて見ることはできないような作品です。架空の「サクラジマ」の「ファンタジー」と思うことでかろうじて,見ることができるような作品です。
もっとも,日本人が,外国人の描く「日本」を見てむずがゆくなるように,外国人もまた,日本人が描く「外国」にむずがゆくなっているのでしょう。これは,日本人が描く海外,西洋や東洋についても,言えることだと自戒にもなるのかもしれません。
『The Wrath of the Gods』のあらすじは,次のようなものです。
桜島に住むヤマキ家は呪われた一族です。言い伝えによれば,
  而シテ山木ノ一子勝臣ハ敵ヲ山門
  ニ追ヒ入レテ霊仏の御前ニ於テ
  彼ヲ殺害セリキ。其時仏陀出現
  マシマシ彼ヲ叱咤シ且ツ宣ワク霊
  地ヲ汚黷セシ罪ニヨリ今日以後
  汝ノ一族ヲシテ絶滅ノ非運ニ
  陥ラシムベシ。加之何人ヲ問ハズ
  汝ノ子女ヲ娶ル者アラバ仏罰
  立ロニ現ハレテ桜島ハ爆発し
  全島全滅生物ハ残ラズ焼殺シ
  去ラルベシ
ということで,ヤマキ(早川雪洲)とその娘トヤさん(青木鶴子)は島で孤立しています。そこへ台風(Typhoon)で難破したアメリカ船の乗組員トム・ウィルソンが浜に打ち上げられ,トヤさんと恋に落ちます。トムは自分がかけていた十字架のネックレスをトヤさんに渡し,神が守ってくれると伝え,「A STREET IN KAGOSHIMA」にあるJAPANESE-AMERICAN MISSION(鹿児嶋美以教會)で結婚します。そこへ,仏罰神罰を恐れる島民たちが押し寄せ,その騒ぎの中で,ヤマキの家は燃やされ,ヤマキは殺されてしまいます。そのとき,桜島が大爆発をおこします。煙や粉塵の中を逃げ惑う群衆を遠景でとらえる終末的なスペクタル映像のなかで,島民たちは次々に死んでいきます。カリフォルニアのサンタモニカの海岸で撮られた鹿児島と桜島です。トムとトヤさんは舟で沖に漕ぎ出し,アメリカ船に救出されて映画は終わります。100年前の映画とは言え,ひどい話です。
わが家の父方は,1914年(大正3年)1月の桜島大爆発で家土地を失い,鹿児島市に移り住んだという過去があるので,笑いごとではありません。映画『The Wrath of the Gods』のアメリカ公開が1914年9月ですから,映画化まで時間はかかっていません。1914年の大事件のひとつだったことがうかがえます。

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早川雪洲と青木鶴子については,中川織江『セッシュウ! 世界を魅了した日本人スター早川雪洲』(講談社,2012年)という伝記が出たばかりです。
メアリ・フェノロサがシドニー・マッコール名義で出版した『神々の息吹(The Breath of the Gods)』も1921年に,ハリウッドで映画化されています。主演は青木鶴子で,その最後の出演作のようです。この映画は未見ですが,物語は大山巌と山川捨松の夫婦をモデルにしており,徳冨蘆花の『不如帰(ほととぎす)』(1899)の姉妹のような物語なので,これもまた,鹿児島とは無縁ではありません。

 

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33. 1961年のジュニア鹿児島編『ニコニコ郷土史』(2013年1月5日)

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表紙が破れている本で,すいません。
1961年(昭和36年)に,ジュニア鹿児島新聞社出版部から出版された,活版印刷でステープル綴じ,本文30ページの小冊子です。
  文 やました・たい
  ひょうしとさしえ 坂井正剛
とありますが,お二方ともどういう方か分かりません。鹿児島の子どもに届く語りで,いい味の出ている小冊子だと思います。
「ニコニコ」とあるように,鹿児島もユーモラスな郷土史話を,小学生向けに語ったものです。坂井正剛の挿絵も昭和30年代1コマ漫画的で,確かに子どものころこの小冊子を読んだ記憶があります。小さいころ,鹿児島の昔話では日当山侏儒(ひなたやましゅじゅ)どんのトンチ話など,笑える話が好みだったのですが,日当山侏儒どんのトンチ話は伊地知信一郎や椋鳩十のものより,この小冊子で初めて読んだのだと思います。『ニコニコ郷土史』に収録されているお話は次のようなものです。

【大根とおきゅう】島津斉興の時代の鹿児島城下池ノ上町のオイヨンさん(中神織右衛門)のトンチ話
【ふしぎな門】加治屋町のヤンブシさん(日高存竜院)のケチンボ話
【応接間のカステラ】西郷さんと高島鞆之助が大久保どん邸を訪ねる話
【ちんちろりん】新納忠元と豊臣秀吉の話
【カッパ退治】豊臣秀吉の時代,ボッケモン(「ハシにも棒にもかからぬ元気坊」)の大山三次どんと伊東仙平どんが甲突川でカッパを釣ろうとする話
【海軍大将の馬】山本権兵衛の話
【月夜の兄弟】文政のころ,上荒田町の肝付どんと下荒田の今井兄弟の話
【とのさまの足】島津重豪の侍医橋口杏庵先生の話
【天を向いた鼻】日当山侏儒どんのトンチ話

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タイトルページには『ニコニコ郷土史 第1集』とありますが,第2集以降は出ていないようです。存在するのなら続きが読みたいものです。印刷の秀巧社印刷所は現在もやってますが,発行・編集のジュニア鹿児島新聞社がどういうものだったかよく分かりません。

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「カッパ退治」で,ボッケモンの少年たちが,自分のおしりでカッパを釣ろうと,甲突川におしりをつける話は,今思うと,鹿児島のお稚児さんの世界が垣間見える話だったのかもしれません。

1961年『ニコニコ郷土史』

▲その後、古本屋さんで、少なくとも破けていない表紙のものを見つけました。(2015年1月18日)

 

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32. 1940年のジョン・ファーリー『刻まれたイメージ』(2013年1月4日)

1940GRAVEN IMAGE

ジョン・ファーリー(JOHN FARLEIGH,1900~1965)『刻まれたイメージ(GRAVEN IMAGE An Autobiographical textbook)』(MACMILLAN,1940)は,イギリスの木版画家ファーリーの自伝的なテキストであると同時に,木版の技法的側面について書かれたテキストでもあります。ファーリーにとって,生きること即ち木版を制作するということだったわけです。
技法書としても面白いつくりの本で,同時代の版画家――Noel Rooke,John Beedham,Gertrude Hermes,Ian Macnab,Blair Hughes-Stanton,Lynton Lamb,Clifford Webbら――が,木版の彫刻刀(グレイヴァー,ビュラン)をどのように握って作業しているかを,その手の握りの写真を撮って集めたり,バーナード・ショウ(BERNARD SHAW,1856~1950)の小説『神を探し求める黒人少女の冒険(The Adventures of the Black Girl in Her Search for God)』(Constable,1932)の挿画を描くにあたって,依頼から決定稿までのショウとのやり取りを記録したりしていて,基本的な版画技法から版画で暮らしを立てることまでを書いた実践的なテキストでもあります。
ジョン・ファーリーの木版は,19世紀のジョン・ラスキン(1819~1900)やウィリアム・モリス(1834~1896)から生まれた「アーツ・アンド・クラフツ(Arts and Crafts)」が,20世紀前半にどんなイメージで立ち現れたかを示すサンプルのような存在のひとつだと位置づけています。個人的には,アーツ・アンド・クラフツの美的ユートピアにはどこか不気味なところもあって,そこで暮らしたいという気にはなりません。その美的ユートピアに暮らしたいかどうかは別として,ジョン・ファーリーには美的表現だけでなく,それで暮らしを立て生活をするという意識が明確にあって,アーツ・アンド・クラフツの実践の書として,現在でもじゅうぶんに面白い本だと思います。この木版で刷られた表紙も,アメリカ流の資本主義が生む図像でもない,ソ連流の社会主義が生む図像でもない,20世紀前半におけるアーツ・アンド・クラフツ的な図像のひとつの典型のような気もします。
この本にはもう一つ,歴史的な大きな特徴があります。表紙の右下に1939年9月1日という,ドイツがポーランドに侵攻した日付が,「Sept. 1. '39」と刻まれているのです。表紙にこの日付が刻まれた本が何冊あるのか分かりませんが,少なくともここに1冊存在するわけです。

1945FIFTEEN CRAFTSMEN

▲JOHN FARLEIGH編『FIFTEEN CRAFTSMEN ON THEIR CRAFTS』(THE SYLVAN PRESS,1945)

ジョン・ファーリーは1945年に,イギリスの15人の職人が自分の仕事について語る本を編集していて,その当時のアーツ・アンド・クラフツの現状をまとめています。紹介されているのは,次の分野です。

 BOOKBINDING by Roger Powell and Anthony Gardner
 EMBROIDERY by Hebe Cox
 JEWELLERY by A. R. Emerson
 METAL ENGRAVING by G. T. Friend
 MUSIC AND CRAFTSMANSHIP by Carl F. Dolmetsch
 POTTERY by Bernard Leach
 PRINTING by J. H. Mason
 SILVERSMITHING by L. G. Durbin
 SMITHCRAFT by Francis Adam
 SPINNING ANF WEAVING by James Dibb
 STAINED GLASS by Francis. H. Spear
 TEXTILE PRINTING by Margaret Simeon
 WOOD ENGRAVING by John Farleigh
 WOODWORK by Eric Sharpe
 WRITING AND LETTERING by M. C. Oliver

1934BERNARD SHAW_Prefaces

ジョン・ファーリーが本のために制作した木版では,バーナード・ショウの『序文集(PREFACES)』(Constable,1934)のタイトルページも印象的です。バーナード・ショウも現在では聞き慣れない名前になっているようで,その紹介としては,オードリー・ヘップバーンが演じた『マイフェアレディ』の原作者というのがいちばん分かりやすいのかもしれません。たくさんの戯曲や評論を書いた著作家です。バーナード・ショウは,本を出すとき,時事批評を含む長い序文を書き下ろすのが常で,『序文集』は,その序文を集めた2段組で800ページを超える大冊です。

1934Shaw_2000Gray

そのショウの『序文集』に並ぶような本『序文の書』を,2000年,アラスデア・グレイ(Alasdair Gray)が編んでいます。

2000Alasdair Gray

▲Alasdair Gray『THE BOOK OF PREFACES』(BLOOMSBURY,2000)のタイトルページ。

675年ごろのカドモン(CAEDMON)『天地創造(Genesis)』から,1920年のオーウェン(Owen)『詩集(Poems)』まで,170を超える英語で書かれた本の序文を集めたアンソロジーです。単に「序文」を集めたということなら,藝がないアンソロジーですが,アラスデア・グレイが編集し,挿画・解説を加えたことでヘヴィー級の「奇想の書」になってしまいました。

 

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31. 1939年と1946年の『トワエモワ』(2013年1月3日)

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ある日とつぜん,甘いものが食べたくなることがあります。
というわけで,ポール・ジェラルディ(PAUL GÉRALDY,1885~1983)の詩集『きみとぼく(トワエモワ,TOI ET MOI)』(初版は1912年)に,アンドレ・マルティ(André E. Marty)が挿絵をかいたL'ÉDITION D'ART H. PIAZZA版です。ジェラルディの詩には苦みがまじっていますし,アンドレ・マルティの挿絵は甘口ですが,くどくはありません。
アンドレ・マルティ挿絵の『トワエモワ』は1939年(写真左)と1946年(写真右)の2つの版があって,ともに,ポショワール(仏),あるいはステンシル(英),または合羽刷り(日)と呼ばれる方法で,型紙を使って色を置いているので,手彩色のような仕上がりです。ページをめくる手が喜ぶ本です。

1939_1946ToiEtMoi02

ただ,1939年の版(写真上)には,各詩に登場した恋人たちが,1946年の版(写真下)では,口絵を除いて花模様だけになっています。戦争で恋人たちも亡くなってしまったような,そんな不安がよぎります。