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my favorite things 221-230

 my favorite things 221(2018年1月20日)から230(2018年4月4日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 221. 2017年のピーター・ブレグヴァド『GO FIGURE』(2018年1月20日)
 222. 1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』(2018年1月28日)
 223. 1933年の富安風生『草の花』(2018年2月12日)
 224. 1934年の山口青邨『雜草園』(2018年2月12日)
 225. 1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』(2018年2月12日)
 226. 1934年の山口青邨『花のある隨筆』(2018年2月12日)
 227. 1990年の江間章子『タンポポの呪咀』(2018年3月16日)
 228. 1936年の東郷青児『手袋』(2018年3月27日)
 229. 1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』(2018年4月4日)
 230. 1983年の高野文子『おともだち』(2018年4月4日)
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230. 1983年の高野文子『おともだち』(2018年4月4日)

高野文子『おともだち』表紙とアンドレ・マルティ挿画の『青い鳥』

 

ある方のインスタグラムの写真で、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)とアンドレ・マルティ挿画の『トワエモア』(1939年、L'ÉDITION D'ART H. PIAZZA)を並べているのを見つけました。
「スウィート」な組み合わせだと思いました。

同じように「スウィート」な組み合わせはあるかなあ、と考えてみました。

1983年に綺譚社から刊行された高野文子『おともだち』とアンドレ・マルティ挿画の『青い鳥』(1945年、L'ÉDITION D'ART H. PIAZZA)を並べてみるのはどうでしょう。
『おともだち』に収録された「春ノ波止場デウマレタ鳥ハ」では、港町の女学校を舞台にして、劇中劇として『青い鳥』が使われています。
2つの本を並べて見ると、時には、こういう「ビター」で「スウィート」な組み合わせも必要だなと思ってしまいます。

 

高野文子『おともだち』箱とアンドレ・マルティ挿画の『青い鳥』

 

考えれば、もう40年近く、高野文子の次回作を待ち続けています。

高野文子作品

並べてみて気づきましたが、高野文子には、新書サイズのコミック本がありません。 A5判が基本です。

『高野文子作品集 絶対安全剃刀』(昭和57年1月19日初版発行、白泉社)
手もとにあるのは、昭和57年(1982)4月20日発行の第6刷でした。
収録されている作品では、『別冊奇想天外』(1979年)で「ふとん」を、『漫金超』(1980年)で「田辺のつる」を、『プチフラワー』(1981年)で「玄関」を読んだ記憶もあります。かれこれ40年近く、次回作を楽しみにしているわけです。

高野文子『おともだち』(昭和58年7月1日初版発行、綺譚社)
南伸坊の装幀。1993年の筑摩書房版との違いは、外箱の色もありますが、バーコードがないこと。2015年に筑摩書房から紙装の新装版も出ています。

高野文子『ラッキー嬢ちゃんのあたらしい仕事』(昭和62年8月10日初版、小学館)

高野文子『るきさん』(1993年6月25日第1刷発行、筑摩書房)
1996年にちくま文庫版、2015年に筑摩書房から紙装の新装版も出ています。

高野文子『棒がいっぽん』(1995年7月20日第1刷発行、マガジンハウス)

高野文子『黄色い本 ジャック・チボーという名の友人』(2002年2月22日第1刷発行、講談社)

高野文子『しきぶとんさん かけぶとんさん まくらさん』(2010年2月1日発行、福音館書店)

高野文子『ドミトリーともきんす』(2014年9月25日初版発行、中央公論新社)

約40年で8冊。初版はいずれも出版社が違います。
読者のわたしも、いつまで高野文子の次回作を待つことができるのか、という年にさしかかってきました。
こうして並べてみると、時代の同伴者に高野文子の作品があったのだなと思います。
線の魔にとりつかれず、線の隘路に迷い込まずに、次回作が高野文子の手から生まれることを、祈るばかりです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

2001年クミコのシングル「お帰りなさい」

 クミコの2001年のシングル「お帰りなさい」。松本隆作詞、筒美京平作曲。 CDジャケットは高野文子。

 

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229. 1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』(2018年4月4日)

1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』

 

「京橋区銀座二ノ四」にあった時期の昭森社から、1936年6月1日に発行された『マリイ・ロオランサン詩畫集』です。

昭和4年(1929)には「マリー、ローランサン崇拝者の隨一」と言われ、三笠書房時代にもロオランサン詩集出版の企画を立てていた秋朱之介(西谷操、1903~1997)ですが、最初にロオランサンの詩集を出したのは、裳鳥会の時代です。

昭和9年(1934)11月25日発行の『書物倶楽部』第二号(裳鳥会)収録の「マリイ・ロオランサン詩集 動物小詩集・未發表詩・」で次のように告知しています。

これはそのマリイ・ロオランサンのたつた一冊の詩集である。本書には原畫の木版繪が挿入され、玻璃版の肖像が挿入されてある。紙は三方耳付譯者名堀口大學氏の肉筆漉込程村紙、一百部を限定刊行いたしましたが。(、)頒布數は稀少數しかない。装幀は秋朱之介がやりました。頒價は一冊十圓送料二十一錢。裳鳥會新刊

マリイ・ロオランサン著・堀口大學訳『動物小詩集』(裳鳥会) は、昭和10年2月20日刊で、限定80部刊行されています。
残念ながら、私は裳鳥会版『動物小詩集』をまだ見たことがありません。翌年の昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』と訳語の異同など、比較してみたいものです。

 

1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』奥付

▲1936年の堀口大學譯『マリイ・ロオランサン詩畫集』(昭森社)奥付

「刊行者註」が1枚差し挟まれています。次のような内容です。

 刊行者註
本集の詩は“Petit Bestiaire Poemes enedits par Marie Laurencin”に據る全譯であり巻頭の筆跡はジヤン・モレアス詩をポオル・フォルが戯れに改作して堀口先生に贈ったもの、この原詩はNRF社版“Eventail”(堀口先生文中所出)の巻頭に載せられてゐる。
繪は“Eventail”のエツチング十點の外Quatre Chemins版“Marie Laurencin”“Les Biches”からの原色、La Galerie Simon版“Brigitte ou La belle au bois dormant”La Nouvelle Revue Francais版“Marie Laurencin”及びKlinkhardt & Biermann版“Marie Laurencin”其他から採った。それから表紙は同じく“Eventail”の意匠から考案されたが、力めて忠實に再現を企てた。
之らは堀口先生並びに神原泰氏藏書中から選ばれたのである。こゝに記して感謝の意を表する。

堀口大學は秋朱之介との結びつき、神原泰は森谷均との結びつきが強いので、『マリイ・ロオランサン詩畫集』を制作するにあたって、2つのところから、状態の良い図版を選ぶことができたようです。

 

昭森社のPR誌『木香通信』での『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告を見てみます。秋朱之介の喜色が伝わる広告になっています。

 

昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告

▲昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告

広告コピーの末尾にある「(秋)」は秋朱之介。広告文を書き出しておきます。

マリイ・ロオランサン詩畫集

堀口大學氏最初の豪華版 昭森社の美擧
◆詩王ポオル・フオル氏は本書のために肉筆の序詩を送られた本書にはフランスの香り高い詩王の肉筆をそのまま巻頭に別漉耳付和紙に復刻添付した。
◆尚日本の鶯とマリイ・ロオランサンに呼ばれ、マリイと交友深い日本の愛人堀口大學氏は感激本書のために肉筆の序詩を送られた。本書にはまた堀口氏の筆跡そのまゝ掲載した。
◆世界の戀人ロオランサンの全詩が本書には収容されてゐる。ニコ・D・ホリグチは愛人の吐息を感じ乍、花の香のする部屋の中で本書を譯し乍いく度吐息されたことであつたらう。ペンををきペンを握り、またペンををき胸のいたみを感じられたといふことである。
◆尚本書は妖艶花をあざむくロオランサンの大畫集として恥しからざるものになつた、世界一の閨秀畫家にして詩人マリイ・ロオランサンはこゝにはじめてその全姿を現はしたのである。多くの偉大な詩人達にまもられて。
◆あゝ、フランスの流行の王者、マリイ・ロオランサンが今や銀座の流行の王者となリつゝあるではないか。(秋)
大型本畫面數十葉入定價 二圓 送二一
他に譯者自家版豪華特装本百部東郷青兒装總皮本堀口大學氏署名入。頒布本僅少、 定價五圓 送二一

ちょっと気恥ずかしいような文章ですが、この文面からすると、『マリイ・ロオランサン詩畫集』は、ロオランサン崇拝者・秋朱之介にとっても、満足のいく仕上がりだったようです。

 

『木香通信』六月・第二號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告

▲昭森社のPR誌『木香通信』六月・第二號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告(日本近代文学館所蔵のもののコピー)
広告コピーに記名はありませんが、おそらく秋朱之介が書いたものと思われます。

果然申込殺到特装本希望者は一應葉書で有無問合されたし。

豪奢本 マリイ・ロオランサン詩畫集 昭森社

どんな花より美しい、どんな蝶よりなまめかしい、どんな鳥よりほがらかなあかるい書物だ。どんな高價な香水よりもいい香り、居乍らにして巴里を感じさされる妖艶な書物だ。美しい閨房畫家にして詩人たるマリイ・ロオランサンの息吹きに醉はされるがよい。
本文及畫面木炭紙刷稀有の豪奢本原色版四枚コロタイプ版十二枚(内十枚は有名なエバンタイユより)他素描數點挿入。
定價三圓 送料二十一錢
他に書痴版皮装本局紙刷堀口氏署名入一百部
定價五圓 送料二十一錢(實費)

『マリイ・ロオランサン詩畫集』刊行から約1か月後の、1936年7月5日に発行された莊原照子『マルスの薔薇』(昭森社)は、秋朱之介が 編集・装釘をし、「あとがき」も書いていますが、この人魚の絵などロオランサンの図版を流用しています。たぶん無断で使用したのではないかと思われます。

どんな高價な香水よりもいい香り」と広告コピーにありますが、平成元年(1989)2月12日発行 の『太陽』330号(平凡社)掲載の「ダンディズム頌」でのインタビューで、秋朱之介は次のように語っています。

 いつも銀座で飲んで歩いた、毎晩ね(笑)。ちょうど僕は銀座に住んでたから、いやでも呼ばれちゃうんだ。岡崎って、堀口さんの専属の店があって、堀口さんが来ると、女給さんが家まで呼びにくるんですよ。文士ってみんな遊ぶ人ばっかりだからね。
 城左門と石川淳と私の三人でよく通ったのがスリーシスターズ。二・二六事件の時、雪の降る中、朝早くね、城君が僕のところに知らせに飛び込んできた。あれも家に帰ってないのだ、どこかで遊んでいて軍隊を目撃したんだな(笑)。
 その頃、矢野
〔目〕源一と美容科学研究会というの始めて、銀座のサロン春とか紫煙荘〔紫烟荘か〕の女給さんたちのメーキャップやったんですよ。矢野〔目〕源一の香水の作り方の本は僕が出したんです。真っ赤なちりめんの表紙の本でね。僕もマリーロランサンなんていう香水、作ったことがある(笑)。
 石川君が、その頃の僕を『山桜』に書いたんだ。

秋朱之介と銀座のカフェ・女給の世界との関わりも興味深いものがあります。秋朱之介が本の装幀だけでなく。女給さんたちにメイクを施していたというのも、なかなかすごい話です。

秋朱之介が装釘した矢野目源一『美貌処方書』(1937年7月20日発行、美容科学研究会)も未見です。
まだ見たことのない本がたくさんです。

そして、秋朱之介が作った「マリーロランサン」という香水は、どんな香りだったのでしょうか。気になります。
たぶん容器や外箱にも凝ったと思われます。

マリイ・ロオランサンの詩集をつくり、その名をつけた香水までつくる。ここまで入れ込む人は、なかなかいません。

 

『木香通信』八月・第三號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告

▲昭森社のPR誌『木香通信』八月・第三號に掲載された『マリイ・ロオランサン詩畫集』の広告(日本近代文学館所蔵のもののコピー)
これもだれが書いたのか記名はありませんが、おそらく秋朱之介が書いたものと思われます。

この遣瀬ない愉しさ! そこに時代の新鮮な精神は甦り、あなたの朝夕は清新は出發をもつことになる。

マリイ・ロオランサン詩畫集

二十世紀のロオランサンは帆立貝の代りに華扇の上に立つてゐるのです。
堀口大學譯編
ジヤン・モレアス、ギヨイオム・アポリネエル序詩
挿繪原色四葉、コロタイプ十二葉、素描十二葉、限定七〇〇部内局紙版百部木炭紙版六百部
A定價五圓 B定價三圓 送・二一
六月の清冽な感觸! うす紫と桃いろの熟した階調が、あなたを快適な季節へと誘ひます。繪でポエジーを書くロオランサン! だがこの一巻に収めた彼女の全詩集には馥郁とした匂ひと愉しい色彩が輝き出るのです。
彼女の眼には巴里の簡雅な影がうつり、彼女の耳には窓を過ぎる微風の囁きがきこえ、彼女の心には青春の吐息が感じられます。
この大きな華扇のかげで、あなたの感情は豊かに、あなたの身體は薔薇に埋もれ、あなたは思ひきり放心することを覚えるでせう。
昭森社

 

本来なら、ここで『Eventail』のオリジナル版を掲載することができれば、記事として美しいのでしょうが、 ここで脇道にそれます。

マリー・ローランサンの学習マンガを千明初美が描いていると知って、飛びつきました。

千明初美が描く伝記マンガ『マリー・ローランサン』

▲千明初美が描く集英社版・学習漫画『マリー・ローランサン』(1996年)
監修は阿部良雄。このサイトで紹介しないタイプの表紙の本ですが、読み応えのある仕上がりです。
この伝記マンガを描いている千明初美(ちぎらはつみ)のペン描は、少女マンガのスタンダードだと思っていました。
もっとシンプルな装幀に改装すれば、より魅力的な本になると思います。
アンリ・ピエール・ロシェやギヨーム・アポリネールがふつうに登場するという点だけでも、めずらしいマンガですから。

 

千明初美『いちじくの恋』

▲千明初美『いちじくの恋』(1978年、集英社)
小さな、つつましい世界を描く柔らかい線です。
昭和30年代的な世界を舞台にした「少女漫画」の物語にはお手上げになることもありますが、かわいらしさを的確に表現する、線のまるみに、なつかしさを感じます。

何年か前、幾人かの作家を残して、場所をとっていたコミック本を、まとめて処分しました。
そのとき、千明初美のものは残しておいたつもりだったのですが、この一冊だけしか残っていませんでした。失敗しました。

 

千明初美が描く『たけくらべ』

▲千明初美が描く、樋口一葉『漫画版【文語】たけくらべ』(2016年、武蔵野大学出版会)
1970年代的な「少女漫画」表現で再構成された『たけくらべ』です。千明初美の線は今も魅力的です。
学習漫画や原作ものだけでなく、オリジナルストーリーのスモールタウンものを描いてほしい、と思います。

 

高野文子が編集した千明初美作品集『ちひろのお城』

▲高野文子が企画・監修した千明初美作品集『ちひろのお城』(2017年、復刊ドットコム)
千明初美の旧作が手に入れにくくなっていたときに、この本が出ました。
高野文子のファンでもありますので、この組み合わせは、うれしかったです。
復刊ドットコムで購入すると、高野文子のちらし「千明初美さんのマンガの中に出てくる足の指が好きなのさ。」がついていました。必読です。

 

 拾い読み・抜き書き 2021年12月17日追記

『マリイ・ロオランサン詩畫集』のもとになっているのは、1922年にフランスのNRFから刊行されたマリー・ローランサンの詩画集『Éventail』(『扇』)ですが、このエヴェンタイユ(扇)の名を冠した美術品店を、1929年、神戸で開いた女性がいます。

映画評論家・淀川長治(1909~1998)の姉、淀川富子です。
店の名前は「アール・エヴァンタイユ」といいます。
フランス語で「L'Art Éventail」と書くのでしょうか。
南蛮美術のコレクターとして知られる池長孟(1891~1955)の2番目の妻で、池長と別れたあと、店を開いています。

そのあたりことについて、池長孟の評伝、高見澤たか子『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』(1989年5月31日初版第一刷発行、筑摩書房)の「ラール・エヴァンタイユ」 の章から抜き書きしてみます。

 (淀川)富子との別れを、生さぬ仲の子どもたちへのつれない仕打ちが原因と高見澤(忠雄)に告白した池長(孟)の気持ちには、幾分の見栄とそして強がりがあったかもしれない。富子の存在は池長に大きな喜びをもたらすと同時に、しばしば混乱に陥れた。なぜ二人が別れなければならなくなったのか、池長はいくら考えてもわからなかった。富子のひどいヒステリー発作のあと、思わず「出て行け」と言ったその言葉を、富子はそのまま破局へとつなげてしまった。池長は富子と別れたのちも、なお富子が自分のもとに戻ってくると信じていた。その真情を、最初の戯曲集『荒つ削りの魂』の中で吐露している。「賢明な人々」という一幕物の法廷劇がそれである。
「気まぐれで、浮気つぽくて、金づかいが荒うて、虚栄心が強うて、そのかはり、着物の色柄のえりこのみから、きこなし、もちもののこのみまでほんまにお手に入つたものの」女優と、「おとなしいて人から気受けのよい、えい人間の」青二才の坊ちゃんとの訴訟事件の顚末がそのあらすじだが、結局は主人公二人が互いの思い違いを認め、つまらぬ誤解を解き、愛を確かめ合ったところでめでたし、めでたしの結果になる。この戯曲は昭和四年八月の脱稿であるから、富子が池長のもとを去ってほどなく書かれたものとみてよい。「これからは、法廷と教会とを、とりちがへないやうにしませう」と言って二人が相抱擁するようなハッピーエンドを、池長は本気で信じていたのだろうか。いずれにしてもこの作品は富子への“メッセージ”である。
「私にとつて一番いけないのはあまりにも艶子(ヒロインの女優)を可愛がりすぎる事なんです。それで艶子が増長して、あんなにわがままなことをするんです。艶子も一度私から離れて、もつと社会のドン底にふれて、本当の苦しみをなめて来たら、始めて私の深い愛といふやうなものが分つてくれるだらうと思ひます」
 池長は劇中の主人公の口を借りて、こう切せつと訴えている。そして芝居の中では、女が男を貞操蹂躙で訴え、十万円の賠償金を要求し、最終的には「まあ、お金なんか要りませんわ。わたしはあなたの愛情がとりかへしたいんです」と言わせているが、現実の富子は、しかしそうは言わなかった。
「姉はローランサン、池長氏は南蛮絵画、趣味がことごとにちがい、姉はパーティ好き(中略)、池長氏は教育家でスポーツもゴルフよりも剣道、姉はゴルフと車。車は二台持っていた。けっきょく別れたが池長氏はこれはひとときの妻の気まぐれ、再び戻るときめて巨額の今なら何十億というべらぼうな別れ金を姉に与え、姉はこれで商売をしようと外国美術品店を思いつく」
 淀川長治の自伝からの引用であるが、富子のはなやかでしかも奔放な生きざまは、弟にとっても、語らずにはいられない刺激的な思い出なのだ。
 まもなく富子は、生田筋に「ラール・エヴァンタイユ」という輸入美術品店を開くことになる。淀川によれば、この名前の由来は、神戸の港がその形から扇港
と呼ばれたところから「扇屋美術品店」としたものを、そのままフランス語にしたのだという。そしてフランス語の店名を勧めたのは、画家の小磯良平や詩人の竹中郁であった。
「姉はありあまる金をすべて商店と商品に入れあげた。チェコのカットグラス、フランスのシャンデリア、ベルジュームのしんちゅう美術品、ペルシャのカーペット、アメリカ・インディアンの手づくりのモカシン靴と壁かけ(タペストリイ)、それにイタリアのムラノのガラス製品、ドイツのモダン美術ガラス、それにフランスのイヴニング・ドレスまで輸入した」
 東京で足かけ三年、映画雑誌の編集部で働いていた淀川は、再び富子の仕事を手伝うために神戸へ呼び戻されることになる。ラール・エヴァンタイユは富子の「大胆不敵な商品買い入れの断行」で、たちまち神戸の名物となり、富子は美貌の女主人、「エヴァンタイユのお富さん」として名をはせた。日活映画「この太陽」(昭和五年製作・村田実監督)の一シーンに、エヴァンタイユの店が使われたとき、監督は富子にしきりに女優になることを勧めた。しかし富子は、「こわい、こわい」と笑ってはぐらかしてしまったという。
 富子は、夜九時に店を閉めるや、しばしば弟の長治を引き連れ、車を駆って阪神間のダンス・ホールに踊りに出かけた。当然池長とぶつかることもあったであろう。池長は、しばらくの間、富子との問題で悶もんの日を送ることになる。
「このようなエヴァンタイュ(ママ)にやさしくも離婚後の池長氏がマジョリカの陶器やノックスのネクタイを買いにみえた。姉はその買い上げ品に普通の客どおりに金を取っていた。このような温厚な紳士には姉はしょうが合わなかったのであった」
 エヴァンタイユに普通の客として足を運び、富子の真意を確かめようとした池長は、息子の澄がその店の前を何度も行きつ戻りつしながら、美しくやさしいおばさんである富子の姿を求めていたことには気付いてはいなかった。
「この中にはいれば、淀川さんがいるんだということはわかっていても、どうしてもドアを押すことができない。何度もお店の前を通ったのを覚えています」
 富子が
(池長孟の)子どもたちに示したやさしさは、いったいなんだったのだろう。富子の一時の気まぐれは、子どもたちにとってはかえって、人恋しい気持ちをつのらせる結果になったと思われる。

 

ここでは、 マリー・ローランサンの「エヴァンタイユ」については言及されていませんが、間違いなく、マリー・ローランサンを意識しての命名だと思われます。
また、 「ドイツのモダン美術ガラス」がどんなものだったか想像すると、ちょっとわくわくします。

小磯良平(1903~1988)や竹中郁(1904~1982)の名前もでてきましたが、池長孟や淀川富子は谷崎潤一郎(1886~1965)ともつながりがありましたし、森谷均は、小出楢重の本を出すために昭森社を立ち上げた人だったので、もしかしたら、秋朱之介を含めて、今まで目に見えていなかったつながりがあったのではないかと想像してしまいます。

 

高見澤たか子『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』

▲ 高見澤たか子『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』(1989年5月31日初版第一刷発行、筑摩書房)表紙

 

【2022年10月17日追記】

恩地孝四郎編輯の書物研究誌『書窓』第三巻第三号(1936年8月5日発行、アオイ書房)に、恩地孝四郎(1891~1955)による『マリイ・ロオランサン詩畫集』の書評が掲載されていました。同時代の評ということで、引用しておきます。

マリイ・ロオランサン詩畫集

堀口大學氏の譯になるロオランサンの詩十篇、二十五程の銅版畫、水畫、鉛筆畫ペン畫等の複製とがアポリネール、モレアス、大學の序詩などを伴つて編まれてゐる。堀口氏の解説が添へられてある、そのパリでの訪問記はこの夢のやうな情趣の世界に住む女畫人を偲ばせて甚だおもしろい。畫の複製は多分オフセツトであるが、エツチングなど弱くて力がなく、折角押版まで用いた配慮がむだになつてゐるのは殘念。限定七百、内百部局紙刷六百部木炭紙刷であつて、この特趣ある女畫人の作を盛つて手頃に親しめる。装はNFR社本の彼女の畫著に據つて作られたといふ扇形の賦色と配字を持つたしやれもの、局紙が餘白多く用ひられてゐる。局紙がもつと上質ならもつとよかつたらう。白つや紙に空色染柾を用ひた箱もいい。昭森社好みの本である。(昭森社六月刊 並3.00 特5.00)

 

【2024年3月5日追記】

1936年の昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』以前に、秋朱之介が私家版で準備していた『マリイ・ロオランサン詩畫集』の近刊予告を、秋朱之介編輯『書物』(1933年~1934年、三笠書房)から抜き出してみます。

 

1933年12月書物マリイ・ロオランサン詩画集予告

『書物』1933年12月

 

1934年1月書物マリイ・ロオランサン詩画集予告

『書物』1934年1月

 

1934年2月書物マリイ・ロオランサン詩画集予告

『書物』1934年2月

 

1934年3月書物マリイ・ロオランサン詩画集予告

『書物』1934年3月

 

秋朱之介念願のの『マリイ・ロオランサン詩畫集』は1934年1月に刊行予定でした。十円という高額な価格設定でした。
三笠書房の日本限定版倶楽部では刊行されず、1935年に秋朱之介の裳鳥會から刊行されました。

この裳鳥会版のマリイ・ロオランサン 堀口大學譯『動物小詩集』(1935年2月20日発行)は未見です。
裳鳥会版が、昭森社版のもとになったとされています。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

ローランサンにまつわる曲というと、堀口大學訳のマリイ・ロオランサンの詩「鎮静剤」は、高田渡や加川良が曲をつけていたり、小西康陽プロデュースで夏木マリが歌っていたりしますし、それとは別に、加藤和彦の『あの頃、マリー・ローランサン』(1983年)というアルバムもあったりするのですが、ローランサンとは関係の無い、浅川マキ『裏窓』(1973年、EXPRESS)から「裏窓」を。

浅川マキ『裏窓』(1973年)

なぜだが、「京橋区銀座二丁目」の裏窓からの眺めを連想しました。

盤面の状態がお世辞にもよいとはいえない浅川マキのアナログ盤4枚が捨て値で売られていました。
クリーニングして聴いてみたら、スクラッチノイズは大きいのですが、音としてはCDで聴くより染みいります。不思議なものです。

 

浅川マキ『裏窓』A面

▲浅川マキ『裏窓』side1ラベル

 

浅川マキ『裏窓』B面

 浅川マキ『裏窓』side2ラベル

 

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228. 1936年の東郷青児『手袋』(2018年3月27日)

1936年の東郷青児『手袋』

 

鹿児島出身の画家、東郷青児(1897~1978)が、東京銀座で創業したばかりの昭森社から出した本です。「東郷青児コント集」とあり、とても洗練された小話が17編収録されています。手もとにあるのは、箱なしの裸本です。エロチックな内容を含んでいたため発禁になったことでも知られています。

装幀は、画家の吉原治良(1905~1972)。東郷青児は『手袋』の序にそえた「装釘について。」という文章で、「普及版の装釘は親友吉原治良君にやつてもらつた。私が一番大きな期待をかけてゐる二科會の新人である。畫家の私が自装の本を出すのでは妙味が薄い。手縫の洋服よりはオーダー・メイドの晴れ着が着せたかつたのである。特製本と書痴版は自分で装釘した。この方も見て頂きたい。」と書いています。

森谷均(1897~1969)が昭和10年(1935)10月に、昭森社を創業するのですが、この東郷青児『手袋』を含めて、昭森社が「東京市京橋区銀座二ノ四」にあった約1年間に出版した本の企画・編集・装釘には、秋朱之介(西谷操、1903~1997)が大きくかかわっていたと思われます。

 

1936年の東郷青児『手袋』の奥付

▲1936年の東郷青児『手袋』の奥付
「手袋」初版一一一〇部刊行内一〇部著者
自装エナメル皮装肉筆油繪入著値版定價二〇圓
一〇〇部著者自装肉筆筆畫入特製定價五圓
殘一〇〇〇部吉原治良装上製本版定價二圓五〇錢

森谷均の「特製本二、三について」(『限定版手帖』第二号、吾八、昭和24年10月)に次のような記述があります。

最後に、東郷青児氏の随筆集『手袋』と『カルバドスの唇』には、奥付にいずれも書癡版、特製の印刷があるが、『手袋』の発禁ということがありとうとうこの局紙の刷本は空しく破棄することになり残念やる方ない。即ちこの二版とも世にないということを後の蒐集家のためにことわっておく。

『手袋』に関しては、吉原治良装の上製本版しか残っていないようです。

 

昭森社のPR誌『木香通信』四月号第一號(1936年4月)

▲昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號(1936年4月)に掲載された東郷青児著作集全五巻の広告・その1

東郷靑兒著作集 全五巻
感謝諸君に心からの感謝を捧ぐる
國寶は世界に輝く、見よ日本の國民的畫家、日本のピカソ的存在、そして若い日本國民の愛人、東郷靑兒の作品を、それは諸君の心の新しき糧だ。この著作集は東郷靑兒の繪と文との交響樂だ。レントゲンにかけて見せた東郷靑兒の赤裸の姿だ。見よ、日本の出版界をリードしつゝある昭森社の良心的出版物を、東郷著作集へのこの嵐のやうな賞讃を山積されたこの申込書を、あゝ、諸君と、著者と我々とのこのこころよき握手を、酩酊を。(秋)

第一巻 手袋 四月刊
第二巻 エロスと淑女 五月刊
第三巻 カルバドスの唇 六月刊
第四巻 空氣人形 七月刊
第五巻 お孃さんは宿なし 八月刊

著者自装挿畫五十數葉入、新菊版フールス紙刷、約三百頁豪華本
定價一冊 二圓五十銭 送二一 全五冊 十二圓五十錢
他に總皮特装本百部著者肉筆畫一葉入、番號入本
定價一冊 四圓  送二一 全五冊 二十圓
書痴版總皮装著者肉筆採色畫入和紙刷本二十部限定
一冊 二十圓  全五冊 壹百圓
本書直接申込者に限り抽せんにて十人を限り東郷畫伯の肉筆色紙を進呈す、締切五月十日、當選者は本誌六月號誌上に發表

「(秋)」とあるのは、秋朱之介のことです。秋朱之介が関わった雑誌『書物』(三笠書房)や『木香通信』(昭森社)では、「秋」「秋朱之介」と執筆者名を明記して広告コピーを書くことも珍しくありませんでした。
この昭森社の東郷青児著作集は、1936年6月に『手袋』、1936年10月に『カルバドスの唇』を刊行したものの、残念ながら残りの3巻は刊行されることはありませんでした。

昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號で 、秋朱之介がコピーを書いた昭森社出版物の広告は次の通りです。

『東郷青兒著作集全五巻』 広告文に「(秋)」と執筆者名
『マリイ・ロオランサン詩畫集』 広告文に「(秋)」と執筆者名
『現代日本画大鑑』 広告文に「〈秋〉」と執筆者名
佐藤春夫『霧社』 広告文に「〈秋〉」と執筆者名
モラエス『おヨネと小春』 広告文に「〈秋〉」と執筆者名
城昌幸『ひと夜の情熱』 広告文に「(秋)」と執筆者名
小出楢重『大切な雰圍氣』 広告文に「〈秋〉」と執筆者名

こうした広告文は、その本の編集にかかわった者が書くことが多いので、これらの制作編集にも秋朱之介はかかわっていたと推測されます。
特に、マリイ・ロオランサンの詩画集は、秋朱之介が出版の世界に入ったときからの念願の企画のひとつだったと考えられます。昭和4年(1929)4月、南柯書院から刊行された雑誌『古今桃色草紙』四月号「本誌編輯諸君の月旦」に、西谷操(秋朱之介)の紹介文があり、次のように紹介されています。

さて、その次は西谷操君。彼れはツい最近まで官吏生活のコチコチした空氣の中にゐたのだが、どうしたのかそれがイヤになつて突然本誌編輯部へ飛込んで來た變人で新人である。結城の上下の着流しに絹のエリ巻、フエルト草履と云ふいでたちだから、正にこれ僕等の仲間にあつては珍品であり變人であらねばならない。聞くところに依ると、大變幸福(!)な獨身者だといふから、まあ、そつとして置いた方が無事である。趣味としては、金ピカのデコレエシヨンオーナメントの書物蒐集が第一で本當は詩人で、マリー、ローランサン崇拝者の隨一である。

昭森社版『マリイ・ロオランサン詩畫集』は、秋朱之介と訳者の堀口大學とのつながりもあり、「マリー、ローランサン崇拝者の隨一」だった秋朱之介(西谷操)の企画と考えて間違いないと思います。

佐藤春夫『霧社』も、秋朱之介の自信作だったようですが、秋朱之介『書物游記』(書肆ひやね、1988年)別冊付録「座談・秋朱之介を囲んで」に、次のような発言があります。

岡澤(貞行) 秋さんも貧乏でしたか。
秋(朱之介) とくに貧乏でしたよ。あと、一番貧乏してたのは佐藤春夫ですよ。
岡澤 よっぽど、印税が入ってこなかった。
秋 いや、あの人の本は、売れないですよ。僕はね、佐藤春夫と喧嘩しちゃった。森谷均君がね、私を訪ねて銀座に来たんですよ。そこで、昭森社を始めたんです。一番最初に彼が出したのが……。
齋藤(滿雄) 『大切な雰囲気』ですね。
秋 そう、そう。それからね、里見勝蔵だとか、柳亮とかね。私の関係では、堀口大學、佐藤春夫ね。それで、『霧社』を出した。東郷青児とか、海老原喜之助、林芙美子もね、私と同県人なんですよ。その頃、林の家が落合にあったんです。行ったことありますよ。

ここでの「森谷均君がね、私を訪ねて銀座に来たんですよ。そこで、昭森社を始めたんです。」は注目すべき発言です。
秋朱之介と森谷均との関係は、少なくとも、昭和8年(1933)にさかのぼります。
創業当初の三笠書房で『書物』誌を編集していた秋朱之介は、『書物』誌のなかで、予約購読による日本限定版倶楽部を立ち上げ、その消息を報告していきます。
『書物』臘月號(十二月号、1933年)に掲載された、日本限定版倶樂部の倶樂部員氏名録に、壹百の番号で「森谷均」の名前があります。大阪のサラリーマンだった森谷均は、秋朱之介の作ろうとしていた限定版の愛好家であり、支持者でした。だからこそ、自分の出版社を立ち上げようとしたとき、その本づくりのパートナーとして秋朱之介を選んだと思われます。

昭森社が始まる前、秋朱之介(西谷操)は、新宿の裳鳥会(淀橋區角筈一ノ一 エルテルアパート)をたたんで、「京橋区銀座二ノ四」に引っ越してきます。
昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號(1936年4月)に掲載された秋朱之介の「春箋半帖」に、 「今年は銀座の眞中に住居を定めてはじめて春を迎へるのである、こゝは前住所新宿の中心地とは異る。」と書かれていますので、1935年の春以降に引っ越したと考えられます。
秋朱之介が銀座で何をしようと目論んでいたのかは、はっきりしないのですが、出版だけでなく、美術商的なことも始めていたようです。
未確認で、時期もはっきりしないのですが、銀座にいたころ、『美術経済新聞』を発行して、美術品の相場情報などを発信していたという話もあります。

銀座二丁目に拠点を移した秋朱之介のもとを、森谷均が訪ねます。昭和9年(1934)に十数年勤めた大阪の東洋紡績をやめて、その退職金と小出楢重の遺稿を持って上京し、しばらくは齋藤昌三の書物展望社に籍を置いていた森谷均が、新しい出版社をつくりたいと秋朱之介に協力を求めたようです。
1935年10月、銀座の秋朱之介の部屋に近い仕事師の家の二階を借りて、森谷均は昭森社を立ち上げます。森谷均はそこに住むのではなく、通うかたちだったようです。森谷が借りた部屋と秋の住む部屋が、「京橋区銀座二ノ四」時代の昭森社の仕事場になったようです。

秋朱之介は、近所にあった、永井荷風の熱烈なファンのおかみが営む小料理屋「おかざき」の常連で、そこを足場に、城左門、矢野目源一、石川淳といった文士や、銀座に遊びに出た師の堀口大學と飲み歩いていたことを回想しています。

 

昭森社の資料では、創立前後の経緯が書かれることがなく、 秋朱之介のよた話やほら話ではないかと思われる向きもあるかと思います。

ただ、昭森社が創設当初に出していたPR誌『木香通信』をこまめに見てみると、昭森社の「京橋区銀座二ノ四」時代には、秋朱之介の関わりが大きかったことを否定するのは難しいと思います。

昭森社のPR誌『木香通信』四月・第一號(1936年4月)の編者後記は、森谷均と秋朱之介の二人が書いています。

●どうも恐ろしくきびしい冬でした。度々の雪の間に例の二、二六事件で、出版もくそもないといふ始末でした。パンフレツト「木香通信」にものを書いたのが、昨年の十二月でしたが、思へば長い冬眠でした。
●だが、その間二回關西へ遊びに行つたきり社内無休で、それこそ銀座にゐて銀座を知らぬ有様でした。三月の「寶船考」をきつかけに四月は五六冊の本を見参に入れられます。徒らな休止でなかつたことを、私は誇りたいのです。
●モツコウツウシンも、いよいよ雜誌として花信と共に贈ることが出來ます。小出氏七周忌記念特輯としましたが、表紙は小出愛藏の氏の美神誕生圖にしました。創刊號であるだけにこの圖は一層有緣のものと成り得たと信じます。
●近い將来に「小出楢重書簡集」編纂の意圖を持つが故に、本號では特に宇野浩二氏へのものをお借りし、氏から懇切な解説をいただきました。この意圖達成のために諸兄の御援助を期待し、ついでながらお願ひする次第です。
●創業以来「大切な雰圍気」一冊出しただけで、斷然ショウシン社の存在理由は公認されたと思ひます。だがむしろ小生の仕事は今後に在ります。それはこの雜誌の上で月々報告出來ると思ふのです。處女出版の改装、改訂が單なる道樂でなかつたことを知つて下さる讀者よ、この雜誌の成長と共に注意と鞭撻を惜しまないで下さい。(森谷)

▲昭森社(しようしんしや)を百人のうち九十九人迄が昭林社と呼んでゐるのはどういふわけかみな小學校時代不成績な人達だつたらしい、この字はどうひつくりかへしてもしようりんしやと讀みやうがないのである。社名位は正しく呼んでいただきたいものです。
▲作家が作品としてもたいした價値のない舊作をいく度もいく度も装幀をかへ、作品を入れかへ、書名をかへてあちこちの出版社から刊行するといふことは作者の不徳のいたさせるところであり。かつ罪惡である。作者は罪惡ををかしても印税さへはいればいいのか知らないが、讀者の立場になつてみれば、時間と費用の亂費で實にたまつたものでない。その中間に立つ出版社はその意味でも強くならねばならぬと思ふ。
▲私が社の刊行プラン中、最も力を入れてゐるものは、ロバート・バートンが「憂欝症の解剖」である。本書をどこよりも先に出版し得るといふことは出版社の名譽である。約七八年前私はこの特装原書を珍重してゐた。私は本書の装幀にもまた全力を注いでゐる。
▲美術作品にもいたづらとしか見へないやうなものが多い、美術品ではあるかもしれないが、藝術品をその中からさがすのは大變だ。日本畫家洋畫家を問はず近頃の展覧會の作品を見て感じることは、このことだ。
▲次號はマリイ・ロオランサン、東郷靑兒の特輯、その他珍らしい原稿が滿載される、春いよいよたけなはといつた進出ぶりである。うんとさしゑを入れて、本書一冊もつて居れば花見などへは行かんでも、行つたやうな氣のするすばらしいものにする。(秋朱之介)

は森谷均、は秋朱之介の文です。最初は、双頭体制のようなものだったのではないかと思われます。年齢的には、秋朱之介が年下ですが、書物づくりについては秋朱之介の方が先輩でした。

昭森社のロバート・バートン『憂欝症の解剖』(1936年4月)には、装幀者の名前がありませんが、「私は本書の装幀にもまた全力を注いでゐる」という記述から、秋朱之介が装幀した本だと分かります。

 

昭森社のPR誌『木香通信』六月第二號(1936年6月)

▲昭森社のPR誌『木香通信』六月・第二號(1936年6月)に掲載された東郷青児著作集全五巻の広告・その2(日本近代文学館所蔵のもののコピー)
この広告コピーを書いたのも、秋朱之介と思われます。

単行本『手袋』には、広告にある「18. シュミイズを呉れたエマ」は収録されていません。「発禁」後、削除されたのかもしれません。

昭森社のPR誌『木香通信』六月・第二號(1936年6月)の編集後記は、秋朱之介が単独で書いており、表紙絵が東郷青児のこの号は、特に秋朱之介の色の濃い編集になっています。 そのちょっと浮かれているような編集後記も引用します。

 後記
微笑もしらぬ幾明けがたの遣瀬なさ、戀もない幾夕暮れのあぢきなさ、おゝ、むらさきの、こむらさきのみなつきよ、おまへよ、女の肌のひやりと冷たい、戀の季節よ、矢車草、チユリツプ、花あやめ、杜若、藤の花、桐の花、罌粟の花までもむらさきの、水晶のやうな季節よ。處女のおつぱいに、いつぱい乳のたまる頃、そうしてすべてのものがむしばまれる頃、昆虫よ、蝶々よ、大理石像のための葡萄の葉つぱよ、そのかげの小さな花々よ、蟻よ、蜂よ、白い商船よ、水色の帽子よ、知らぬ女よ、港や都會の片隅をむしばんでゐるむらさきの女達よ、賣春婦よ。ああ、微笑もしらぬ幾明けかたの遣瀬なさ、戀もない幾夕暮れのあぢきなさ、むらさきの、こむらさきのみなつきよ。と、こんなのん氣な後記を書いて居られる程、今月は氣持よく仕事に醉ふて編輯しました。少し表紙があまつたるい氣持がしないでもないが、東郷靑兒とマリイ・ロオランサンではかたくならうたつてなれるものではない。次號は巴里すうぶにいる特輯。日本にゐて巴里を散歩しやうといつたすばらしい豪華版。それに今月出版されたマリイ・ロオランサン詩畫集と東郷靑兒の手袋の美しさはどうだ。昭森社創立以来の豪奢本として、きつと皆様の御好みに添へるものとして責任をもつておすすめ出來るものである。それに前月號の本欄で御紹介申上げた『憂欝症の解剖』は果然帝國大學及早稻田大學等に大きな過紋を捲き起して大學生のために刊行したやうな不思議な反響を得ることとなつて了つた。さもあらん、大學生ともあらうものがバアトンの憂欝症の解剖を知らんでは卒業があやうからう。この國家的非常時にこんな面白い本を讀んで頭の大掃除をし大いに國家、文化のために盡すべきだ。
尚、大書御知らせすることがある。それは元第一書房のセルパンを編輯し、また第一書房の出版をやつて居られた、先輩三浦逸雄氏が今月から入社されたことである。そうして日に月に昭森社及木香通信の飛躍、強化、今後のめざましい躍進に期待されたい。
〈秋朱之介〉

ここで、第一書房から三浦逸雄が移籍してきたことで、風向きが変わります。
昭森社が、秋朱之介にとって居心地のよい場所ではなくなります。

 

昭森社のPR誌『木香通信』八月第四號(1936年8月)

▲昭森社のPR誌『木香通信』八月・第四號(1936年8月、「第四號」とありますが実質は「第三號」。『木香通信』には1936年1月に配布されたパンフレットも存在するので、それから数えたのかもしれません。そのパンフレットは未見です。日本近代文学館所蔵のもののコピー)に掲載された堀口大學訳・ラムボオ『醉ひどれ船』の広告。

第二の豆水雷
先に日本一の豪華版マリイ・ロオランサン詩畫集を送つた、昭森社はここに第二の豆水雷を發射する。この水雷の道こそ眞に正しい美書造書の道である。今迄眞に美しい書物は日本ではマリイ・ロオランサン詩畫集以外どこからも刊行されてゐない。醉ひどれ船はその第二の日本に於ける美書出版だ。何も出來ぬくせにとやかくの悪口をつく限定出版屋のおしやべりなどには耳もかさずに、美しい仕事で答へて見せる昭森社の醉ひどれ船の豪奢にまづ眼をうばはれるがよい。秋朱之介

広告文は秋朱之介が書いています。『木香通信』に広告は出ましたが、この本は、昭森社からは出版されませんでした。秋朱之介はこの企画を、中村重義が立ち上げた伸展社に持ち込み、そこで出版することになるので、このころには、秋朱之介と昭森社の関係は終わりが見えていたようです。

この広告では、東郷青児の『手袋』に収録された「マリー・ローランサンの戀」の絵を流用しているので、とても洒落ています。

 

この昭森社のPR誌『木香通信』八月號では、編集後記「編輯者の手」を、前号で秋朱之介が新しく昭森社に入ったと紹介していた三浦逸雄が書いています。一部引用します。

「木香通信」はこの號から、御覧のとほり生活にもとづく文化主義的なベリオディシテイを表現してゆくことになつた。雜誌としてはすでに、ある程度の文藝的な役割は果した後だから、もうこの邊で積極的に、いま一歩高い見地から、すべての文化現象を批判し、検討し、それを生活的に内包して行つてもいい筈である。

ある程度の文藝的な役割は果した」とはよく言ったものです。秋朱之介の享楽的な文学性は、どうやら必要とされなくなり、昭森社に秋朱之介の居場所がなくなったようです。

 

1936年の東郷青児『カルバドスの唇』の表紙

▲1936年の東郷青児『カルバドスの唇』(昭森社)の表紙
手もとにある本は箱が壊れているので、表紙だけの写真にしました。
32編の小話を収録。
装釘は吉原治良。

 

1936年の東郷青児『カルバドスの唇』の奥付

▲1936年の東郷青児『カルバドスの唇』の奥付
この1936年10月に、昭森社は、「京橋区銀座二ノ四」を離れ、「京橋区木挽町三ノ二」に移転しています。
さらに1936年12月、「小石川区大塚坂下町一〇二」の森谷均の自宅に移転するという形で、昭森社は、秋朱之介の影響圏から離れていきます。

「京橋区銀座二ノ四」時代に企画が立てられた『東郷青児著作集』全五巻やロバート・バートン『憂欝症の解剖』全三巻は、完結しないまま終わってしまいます。秋朱之介の企画だったからかもしれません。

 

2018年に刊行された東郷青児『戀愛譚』カバー

▲2018年に刊行された野崎泉・編『戀愛譚 東郷青児文筆選集』(2018年3月、創元社)カバー
昨年2017年は、東郷青児生誕120年ということで、日本各地で巡回展が開かれ、今年になって、東郷青児の文筆選集も出ました。
『手袋』や『カルバドスの唇』に収録されていた戦前の文章を読むのが難しい状態が続いていたので、まずはめでたい限り。
序文は小西康陽が書いています。


2018年に刊行された東郷青児『戀愛譚』奥付

▲2018年に刊行された野崎泉・編『戀愛譚 東郷青児文筆選集』奥付
『カルバドスの唇』の検印紙を流用しています。
『戀愛譚』では、『手袋』から2編、『カルバドスの唇』から11編収録していますが、『手袋』の伏せ字部分については、「発刊当時の一九三六年、公序良俗にふれるとして伏せ字になった箇所。他作品の伏せ字も同様である」として、その部分の復元を試みてはいません。
東郷青児の資料について詳しいことは知らないのですが、この伏せ字部分については、もう分からないということになっているのでしょうか?

戦前のエロチックな書物では、伏せ字は当たり前のことになっていて、同時に伏せ字部分だけを印刷した別刷りが配布されることもよくあったようです。秋朱之介はそうした本を作った経験もありますし、東郷青児『手袋』についても、そういう別刷りが存在する可能性も否定しきれません。

 

1936年の東郷青児『手袋』の伏せ字その1

▲1936年の東郷青児『手袋』の伏せ字・その1 「フィリップ」から。
さて「××」2字に何といれれば、「発禁」になるのでしょうか。

 

1936年の東郷青児『手袋』の伏せ字その2

▲1936年の東郷青児『手袋』の伏せ字・その2 「ブレロの殺人事件」から。
たった2文字の「××」ですが、ピタッとはまるやつが見つかりません。難しいものです。大喜利みたいなことになります。

東郷青児というと、晩年の二科会の権力者というイメージがあって、後の世代に小馬鹿にされていたという印象もあります。
東郷青児のグラフィズムは、20世紀の商業美術とも「物語」とも、すこぶる相性がよかったのだし、「画家」とか「芸術家」としてでなく、そちらのほうにいい立ち位置があれば、今も伝説の存在として尊敬され続けていたような気がします。

 

1970年の『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』表紙

▲1970年の『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』(昭森社)表紙。
昭森社の歴史を振り返るときに、欠かせない一冊です。
手もとにあるものは、「日本の古本屋」サイトから購入しました。「鉛筆等書込みあり」ということで手ごろな値段でしたが、切り抜きや挟み込まれた葉書などから、稲村徹元旧蔵の資料と思われます。

戦後を代表するような、多くの作家・詩人・画家たちが追悼文や回想を寄稿していますが、昭森社の神田神保町時代の回想が主で、戦前の銀座時代の回想は少ないのが残念です。

そして、秋朱之介に関しては、「昭森社刊行書目総覧」中の、昭和11年(1936)6月の高畑棟材『山麓通信』と昭和11年(1936)7月の莊原照子『マルスの薔薇――ろまん・ぽえじい――』の装幀という、たった2個所の記述だけでした。

『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』では、昭森社がなぜ「京橋区銀座二ノ四」で始まったかを知ることができません。

『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』から、銀座時代を回想した文章をいくつか引用してみます。

草野心平 「最後の頃の森谷均」から。
昭森社が銀座二丁目あたりの横丁の二階にあった頃、あれはいつ頃だったのだろうか。そこには高見順や倉橋弥一などがよく行っていたようだったし、初めて会った柳亮と議論したのも、どうやらそこでだったような気がする。三原橋の下を流れてた言わばドブ川の川っぺりにガラの大きなカフェがあったが、そこへ森谷均と二三回は行った気がする。酒歴も矢張り古い。

土方定一「初志、奪うべからず―昭森社事始―」 から。
 森谷さんのことを、われわれは、いつの間にか、昭森社、昭森社と呼んでいたので、ここで、昭森社といえば、森谷さんのことである。
(中略)
 ところが、ある日、この昭森社が
(齋藤昌三の)書物展望社から離れて独立し、昭森社という名の出版社となり、そのうえ、セルパン(第一書房)の編集長をしていた、ぼくの尊敬する先輩、三浦逸雄氏がその昭森社の編集長になったという通知は、ぼくを驚かせた。さっそく、その昭森社を訪ねると、裏銀座のうすぐらい二階に二人はいて、ぼくの記憶では机の前に三浦氏が腰かけていた。小出楢重の『大切な雰囲気』を処女出版とし、もう三版を重ね、宇野浩二の『軍港行進曲』を印刷中とか、いろいろな話がでたことを記憶している。もっとも『大切な雰囲気』は、かけ声につられて四版も刷ってしまい、後で返本でこまったという話を聞いたが、昭森社もそのころは出版の素人であったことを思わせ、またこの『大切な雰囲気』が各版意匠を異にすることなどは、昭森社の愛書癖を示すことになる。これは誰れに聞いたのかを、ぼくは忘れてしまったが、大阪のプティ・コレクショナーで愛書家であった会社員の昭森社は、齋藤昌三の書物展望社の仕事に惚れこみ、書物展望の仕事を援助するために会社を辞し、退職金二万円を持って東京に来たが、酔っぱらいの齋藤昌三に半分飲まれてしまったので、これでは全部飲まれてしまうということで昭森社として独立したというのである。後年の昭森社はあながちこの風評を否定しなかったから、半分くらいはあたっていたようだ。

「昭森社事始」とタイトルにありますが、「三浦逸雄氏がその昭森社の編集長になったという通知」から始まっているので、その前にあった秋朱之介の存在がまるっきり消えています。

森谷均「創業三〇周年インタビュー」(『日本読書新聞』昭和39年12月14日号)
――三十年の間で一番印象に残っている本は?
――やはり処女出版ですね。小出楢重さんが大好きで、あの人の遺稿絵入り随筆集『大切な雰囲気』を出したのですが、これが版を重ね、話題にもなりました。まだ「蔵の中」を書いてないころの宇野浩二さんや東郷青児さんなど沢山の人たちを、この出版によって知ることができたんです。ハイブラウな芸術書を出して行こう、という方向をきめてくれたのがこの本だったし、愛着も深いですね。
 当時は銀座二丁目に本拠をかまえていた。石川淳のいきつけで猛烈な荷風ファンのおかみのいる呑み屋の紹介で借りたのだが、借りてみて驚いた。なんとそこは清水港は次郎長の乾分小政の家だった。

これらの記述から、あいまいだった「京橋区銀座二ノ四」のようすが、少し具体的になってはきました。

しかし、昭森社を立ち上げたときに大きな役割を果たした秋朱之介という人物がいたはずなのに、『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』は、そのことに関して全く触れることがありません。記録とは何かということを考えてしまいます。

『本の手帖 別冊 森谷均追悼文集 昭森社刊行書目総覧』だけを読めば、秋朱之介は存在しないも同然です。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

『戀愛譚』の序文を小西康陽が書いていたので、そのつながりで、biceの「an apple a day」(2001年、TOKUMA JAPAN)を。
リンゴも東郷青児的な果物という気がします。

biceの「An apple a day」

2010年4月から2013年3月までNHK-FMで放送されていた「小西康陽 これからの人生。」というラジオ番組がありました。
2012年7月25日(水)放送のNHK-FM「小西康陽 これからの人生。」第28回は、2010年7月に亡くなったbiceの追悼特集で、改めて録音したものを聴いてみると、今でもいろんな感情がくすぶり出します。

 

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227. 1990年の江間章子『タンポポの呪咀』(2018年3月16日)

1990年の江間章子『タンポポの呪詛』

 

3月6日から5月6日まで、鹿児島県薩摩川内市の川内まごころ文学館で、「川内の生んだもう一人の出版人」として秋朱之介関連の新収蔵資料の展示が行われています。

川内出身の出版人としては、改造社の山本實彦(1885~1952)の名が知られていますが、山本實彦とは全く別のタイプの「もう一人の出版人」秋朱之介(西谷操、1903~1997)がいたことを知ってもらいたいと企画された展示です。ささやかな展示ですが、鹿児島では初めての秋朱之介の展示ですので、とても冒険的な試みでもあります。今回は図録なしの小展示ですが、将来、今まで川内まごころ文学館が作成してきた山本實彦や有島3兄弟についての資料のような図録が作られることも期待しています。

 

川内まごころ文学館「川内の生んだもう一人の出版人」秋朱之介関連新収蔵資料展示

▲川内まごころ文学館「川内の生んだもう一人の出版人」秋朱之介関連新収蔵資料展示のちらしです。

このサイトでも、たびたび秋朱之介の本を取り上げていますが、こうした公共の場に展示されることで、鹿児島でまったく知られていなかった秋朱之介のような存在が川内から生まれたのだと知られるようになればいいなと思っています。

 

というわけで、今回も、秋朱之介関連の本を紹介します。秋朱之介が「装幀」した最後の本と思われる、江間章子の詩集『タンポポの呪咀』(書肆ひやね、1990年)です。秋朱之介87歳のときの本です。

江間章子(1913~2005)は、「夏が来れば思い出す はるかな尾瀬 とおい空」(夏の思い出)や「七色の谷を越えて 流れて行く 風のリボン」(花の街)などの作詞家として記憶されていますが、1930年代には、春山行夫門下の先鋭的なモダニスト詩人でした。『タンポポの呪咀』は、江間章子の1930年代の作品を集めた詩集です。表紙に使われているジャン・コクトオ(1889~1963)の絵は、1936年に来日したコクトオが江間章子に贈ったものです。

 

『タンポポの呪詛』口絵

▲『タンポポの呪咀』口繪ページ見開き
 装幀 秋朱之介
 口繪 ジャン・コクトオ
 挿繪 野原隆平

扉の裏ページに「装幀 秋朱之介」とありますが、『タンポポの呪咀』は、実際に秋朱之介が細かく設計したものではないようです。


江間章子『詩の宴 わが人生』(1995年、影書房)に、平成2年(1990)10月3日に開かれた詩集『タンポポの呪咀』の出版記念パーティーの記述があり、装幀のいきさつが書かれていますので、少し長くなりますが、引用します。

 まず、場所は横浜の市内の中心地。これが第一に優先されなければならないのは、装丁の秋朱之介氏が米寿を迎える年齢で、彼の住居のある本牧に近くなければならないこと。こんどの詩集を計画、実現してくださった佐々木桔梗氏、書肆ひやねの比屋根英夫社長、詩を集めてくださった方々、本は多くの友情に支えられて出来た。佐々木さんが解説で書かれているように「実はこの詩集そのものが、現代の奇跡にも似て、いまだに信じられない思いである」ということのうちには、私が半世紀以上前に、いま書物愛好家のあいだで美本装丁家として、とくべつ敬意を払われている秋朱之介氏なる人物を、親しく知っていたという偶然さもひそんでいる。
 幻の本とされているという、佐藤春夫の蛇皮を張った表紙の詩集とか、堀口大學の第一書房から出版された限定詩集その他、彼の装丁の数々は、ある方々には万金にも代えがたい本らしいのである。
 私が知っている彼は、近く遠く、いつも堀口大學の傍らにいた。もちろん、大學のまわりには四天王(城左門、岩佐東一郎、青柳瑞穂、矢野目源一)といった個性強く、才能あふれた強者がいたし、大學の門下生と名のる七人のサムライとよばれる詩人たちがいた。
「江間さんは何も知らない。ぼくが四つの名前を持って、使いわけしているのに驚くんだから、……中国では百もの名前を持っていた文人がいたンですよ。だから、四つぐらいの名前は数ではありません」
 といわれると、言う言葉もない。
 戦前、秋さんは、銀座裏通りに部屋を借りて住んでいた。仕事に都合いいから、ここを根じろに、一日じゅう、出版社、作家、画家を訪ねたり会ったりする生活だったようだ。広く知られているのは、棟方志功、芹沢銈介も、無名時代に彼がとりあげて、世に送りだしたという。彼は無名な画家を世に出し、その人物が世間でもてはやされるようになると、自分から遠ざかるのが、好きだったようである。
 いまから四十年近い前のこと、戦後のなまなましいがれきの道を、本牧に移り住んでいる秋さんを訪ねると、離れに小説家を住まわせているという。
 彼がそこへ私をつれて行って、声をかけたその小説家が、山本周五郎だった。
 もらいものの良いウイスキーがあるから、と小説家はすぐ近くの間門の山へ私を案内して、まっすぐにその場所へ向かい、山ウドを数本採った。
 飲めない私が、酒豪周五郎の相手をし、GIが横流ししたらしいウイスキーを飲んだ。女を美しくさせるには、ほめればいいと、彼は私に教えた。
 
〔中略〕
 白状すれば、秋朱之介さんは詩集の表紙をミロの絵でいきたかったのである。一枚のミロの複写を渡されて、
〔編集の〕〔孝一〕さんはとまどった。戦前派の秋さんには〈著作権〉なるものがピンとこない。いま、ミロの作品を使用するとなると著作権の額は相当なことになる。佐々木〔桔梗〕さん、比屋根〔英夫〕さんと森さんが思案したあげ句、私がコクトオから贈られたデッサンでいこうということになった。それは、私の名が入っているものなので、問題はない。
詩は、一九三〇年代のもの、それらはすべて、当時の詩誌を保存してくださった方々からちょうだいした。
 〔中略〕
それにしても、米寿を迎えようという秋朱之介氏ほど年齢を感じさせない人もめずらしい。体形も、若いころのまま、痩せていて、なんべんたおれても、不死鳥のようにたち上がり、足を少しひきずることをのぞけば、とつとつとした、辛口の語り口、それでいて十分温かさのある照れたほほえみ、半世紀前のままである。
秋さんは一年前のご自分のパーティーのこと
〔『書物游記』出版記念〕を「彼女の出席によって大いなるサバトの宴となり―」と書いたが、この夜も、彼には「みんなダリの絵の世界の天使」に見えたのではないだろうか。

ミロの作品を使った装幀の本も見たかったですが、最終的に表紙がジャン・コクトオに落ち着くところまで、秋朱之介は関わっていなかったようです。


江間章子『詩の宴 わが人生』(1995年、影書房)

▲江間章子『詩の宴 わが人生』(1995年、影書房)

それでは、なぜ「装幀 秋朱之介」の本をつくることに、『タンポポの呪咀』を制作編集した人たちはこだわったのでしょうか。

『タンポポの呪咀』を制作編集した人たちは、1988年に刊行され、秋朱之介再評価のきっかけとなった秋朱之介『書物游記』(書肆ひやね)を制作編集した方々と重なっています。両書ともに、書肆ひやねに集まっていた書物愛好家の集まり「優游の会」のメンバーが中心になっていてます。

『書物游記』に先だって、昭和62年(1987)6月24日に発行された、江間章子『〈夏の思い出〉 その想いのゆくえ』(宝文館出版)に収録された「詩と俳句のあいだ」に、次のような文章があります。

 「詩人はひとり。わたしは決して、弟子をとらない」と仰有っていられた堀口〔大學〕先生だったけれど、かつて、〈大學門下〉といわれる詩人たちが、仲よく一体となっていた。
 それは詩と小説の新人の登竜門のようだった。「文芸汎論」の編集者・岩佐東一郎、城左門とその仲間で、彼らを大學門下の〈五人のサムライ〉とか、〈七人のサムライ〉と、友人たちはかげでよんでいた。
 彼らは先生にならって、高価な着ながし姿で、毎夕銀座を闊歩していた。二十歳そこそこの私よりも、十歳ぐらいしか年上でないのに、ひどく完成された、大人の風格が感じられた。
 〔中略〕
 大學門下生に、三つの名前を持つ変わり者がいた。本当の名前は西谷操ではなかったろうか。私が彼らを知ったころは、すでに西谷は詩を書かないで、フランスから帰国したばかりの海老原喜之助などと親しくしていた。
 堀口先生が小石川にお住まいのころ、私は彼にさそわれて、お邪魔したことがある。そこには、もの静かな貴公子〈安南の王子〉がいた。「あの人たちは、詩よりも日常の生き方を、堀口先生にならっていた」と、サムライたちを評するひともいる。
 西谷操はその後、本づくりに熱中し、私にも人形の衣裳の布で、一冊ずつちがう表紙の詩集をつくるといってくれたが、私はフランス綴じの、なんでもない詩集でなければいやだと、断った。若げのいたりで、ちょっと惜しかったと、いま思う。
 戦後、私が東京に戻ってくると、西谷操は、横浜の本牧に、奇跡的に焼け残った隠れ家のような住まいに、夢二好みの美しい奥さんとくらしていた。
 戦時中、堀口先生から不用の家具を払うように命じられ、それが想像以上の値で古道具屋が引き取ったといい、彼はそのお金を手にしてゆたかそうだった。
 その向い側には、やはり西谷操にすすめられて、大森から居を移したという、まだ有名でない山本周五郎がいた。彼は間門の丘から、山うどを採ってきて、そのころめずらしいスコッチをすすめた。「女をきれいにするのも、醜くするのもかんたんなこと」という言葉に、小説家は恐ろしいと思った。

 

この文章は、最初『朝日新聞』に掲載されたこともあって、西谷操(秋朱之介)という存在を改めて認知させた文章です。

そして、その中の「西谷操はその後、本づくりに熱中し、私にも人形の衣裳の布で、一冊ずつちがう表紙の詩集をつくるといってくれたが、私はフランス綴じの、なんでもない詩集でなければいやだと、断った。若げのいたりで、ちょっと惜しかったと、いま思う。」という一節から、この世界に秋朱之介が装幀した江間章子の本を存在させたいと、50年後になって動いた人たちがいたのだと思います。それが書肆ひやねに集まっていた人たちでした。

いわば、『タンポポの呪咀』は、書物愛好家の夢の結晶のような書物です。
「装幀 秋朱之介」であることは、欠かせなかったのだと思います。

 

江間章子『〈夏の思い出〉 その想いのゆくえ』

▲江間章子『〈夏の思い出〉 その想いのゆくえ』(1987年、宝文館出版)

秋朱之介が1930年代に、詩人・江間章子に期待したものについては、第188回「1936年の『木香通信』6月号(2016年9月26日)」で取り上げた、秋朱之介「梨の花白く咲く頃」という文章を読んでいただきたいです。

 

『タンポポの呪詛』洋紙版の奥付

▲『タンポポの呪咀』洋紙本の奥付
日付は、平成2年(1990)9月17日。

 

『タンポポの呪詛』の革装の和紙本。透明なアクリル―ケース

▲『タンポポの呪咀』の革装の和紙本。透明なアクリル―ケースにタイトルが印刷されています。
書肆ひやねで見せていただきました。

 

『タンポポの呪詛』の革装の和紙本。アクリルケースを外した状態。

▲『タンポポの呪咀』の革装の和紙本。アクリルケースを外した状態。
ニュアンスに富んだ濃い緑の革です。中央に貼り込まれているのは、江間章子さんが大切にしていた古代ペルシャの古裂で、それを少しずつ切り分けて貼り込んだそうです。『イラク紀行』(1983年、沖積舎)の著者である江間章子さんに、サダム・フセインからプレゼントされたものと聞きました。

 

『タンポポの呪詛』の発行部数

▲『タンポポの呪咀』の発行部数は、和紙本が77部(市販62部)、洋紙本が300部。
秋朱之介は、革装の和紙本の制作にはかかわっておらず、革装本のほうは見ることがなかったようです。

 

『タンポポの呪詛』革装の和紙版の奥付

▲『タンポポの呪咀』革装の和紙版の奥付
日付は平成2年(1990)10月27日。洋紙本から40日遅れで刊行ということになっています。

 

【2019年11月26日追記】

サダム・フセインから贈られた古代織布と語られた挿話も、なかなかの「伝説」ですが、『タンポポの呪咀』の装幀については、 『江間章子全詩集』(1999年5月20日初版第一刷発行、宝文館出版)の、佐々木桔梗の「解説」で、詳しく書かれていますで、その部分を引用します。

 平成二年九月刊行の第三詩集『タンポポの呪咀』は表紙にコクトオのデッサンを配らったフランス装で秋朱之介が装幀を担当し、その進行は刊処のブレーンが協力した。
 後日二種の特装版が制作されたが、奥付では平成二年十月の本文和紙・総革装、平中央に江間章子がシリアを旅して買い求めた古代ダマス織布が菱形に貼込まれ、透明なアクリルケースに納まった。完成は遅れたが、恐らく限定本の最右翼にランクされる見事な出来栄えであった。
更にダマス織布の別柄で、七十七部本に用いた柄が純金糸を生かした馬上の貴族図に対し、平成五年九月刊の十二部本は古代狩猟の図で純金糸の使われた短かい寸法のダマス織、その時価相場は算定困難な最上級の古代織地、この短かい生地を総革の表・裏表紙に幅広く使用し、用いた緑染のモロッコ革も製本師自らヨーロッパから持ち帰ったもの。製本はアトリエ・ド・クレといい担当者は岡本幸治。
 織布の寸法は菱形で上下一一・五センチ、幅九センチ、十二部本は表裏共幅一〇・五センチ、縦二四~二五センチ使用という贅沢本。手間のかかるルリュール製本で、未だ半数位しか完成していないがもし頒費をつけるとすれば四〇万円位と聞く。
 「VOU」の後輩にあたる白石かずこの、平成八年十二月刊行、新詩集『羊たちの午后』画スザンヌ・トライスター、銅版画スイット付総革モザイク装二五部本は頒費三十六万円であったが、この二冊の詩集こそ正に美術工芸品といってよく、日本を代表し世界に誇れる書物といえよう。後者の製本担当は指月社のパリ・エスティエンヌ美大卒大家利夫である。
 さきの織布に就いては昭和五十八年九月に出された沖積舎版『イラク紀行』で、想像が可能であるが、刊行より十年余り前、昭和四十七年晩秋、旅行社が実験旅行と名づけた、六人だけのグループ旅行で、イラク、ヨルダン、更に旧ソ連領各地を歩いた江間章子は、他の同行者が貴金属品や陶器類に目をつけ熱心に買求めていたが、江間は女性らしい感性で、大小の寸法二種の古代織地にしぼって大金をはたいたと伝えられる。
 湾岸戦争の寸前にも彼の地から招待があったというが、今日では一般観光旅行などの望めない地帯、先般の詩集『ハナコ』の本文総雁皮紙刷りという特別版(平成八年八月刊)の差込みケースの平に細長い波形の窓をあけ、残った織地をこの窓の部分に用いた。この細い窓は同著のカラー口絵、ジャコメッティのシュールレアリズム風なテーブルの足のデザインが生かされたもの。
 この詩集を最後に再び手にすることの出来ない古代織の美術布地は自らの詩集に全部使い切ったことになる。
 折角の『イラク紀行』は組版上及び校正直しの不手際により、詩集としての生命(いのち)を半減させた書物になっている。版元の沖積舎は良書出版で知られているだけに誠に残念だ。
 この詩集には勿論特装も作られず、思出深い織布の使用もなかったのである。

『タンポポの呪咀』の十二部特装本も、いつか、見てみたいものです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

音楽というより、鉱物から生まれるざわめきです。

Anthony Mooreの新譜、 Anthony Moore & Therapeutische Hörgruppe Köln『Ore Talks(鉱物の話)』 (2017)です。

Anthony Moore & Therapeutische Hörgruppe Köln『Ore Talks(鉱物の話)』

 

「メディアアート」「現代音楽」の領域で聴かれるものでしょうか。 Slapp Happyのときのような、いわゆる「ポップな音楽」なところは、いっさいなし。 音楽として聴くと、ただの「しごき」かもしれません。

アンソニー・ムーア御大が、録音・記録メディアの歴史とそれが必然的に生み出す音やノイズについて考察して語る声を、 歴史的な初期マイクロフォン、錫箔シリンダー、蠟シリンダー、水銀整流器、高圧検波器、変換器、磁気酸化物、 短波ラジオ、古いロシア製真空管、自家製コンデンサー機器など歴史的な機材を通して、録音・記録・変調したもの。 世界が発している音に耳をすますための講義録です。

45回転の12インチ盤2枚組。ジャケットを含めて、美しい作りです。

その4面の基本構成はこんな感じです。技術用語に弱いので、いい加減な試訳です。

A. VALVES / ROEHRE(Röhre):
1. Their Electrons. The development of De Forest’s Audion.
2. Noise as signal and the power of redundancy.
A. 弁 / 管
1. それらの電子。ド・フォレストの三極管の発達。
2. シグナルとしてのノイズ、冗長性の持つ力。

VALVES / ROEHRE(Röhre)

 

B. PIEZOS:
1. Reversibility; Loudspeakers as Microphones and The Transmitting Ear.
2. Mercury Acoustic Delays Lines.
B. 圧電マイク
1. 可逆性;マイクロフォンや送信器としてのスピーカー。
2. 水銀音響遅延線。

B. PIEZOS

 

C. RECORDERS:
1. Wax Cylinders, Hill’n Dale, Voices of the Dead.
2. Magnetic Oxide and Memory Machines, Storing Time.
C. 録音機
1. 蠟管、ヒルンデイル、死者の声。
2. 磁気酸化物と記憶機械、時間の貯蔵。

C. RECORDERS

 

D. CRYSTAL SETS:
1. Waves: The Air as Vast (negentropic) Library.
2. Farewell to AM, Fades to Infinity.
D. 鉱石ラジオ
1. 周波;膨大な(エントロピー減少に向かう)図書館としての大気。
2. さよならラジオ、無限への溶暗。

D. CRYSTAL SETS

 

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226. 1934年の山口青邨『花のある隨筆』(2018年2月12日)

1934年の山口青邨『花のある隨筆』

 

【初期の龍星閣の本・その4】

澤田伊四郎(1904~1988)の龍星閣(1933年創業)で、秋朱之介(1903~1997)が装幀した2冊目の本です。
東大工学部教授にしてホトトギス派の俳人、山口青邨(1892~1988)の最初の随筆集です。
龍星閣では第一句集『雜草園』に続いての本になります。

外箱や扉の絵は、『草の花』『雜草園』に続いて、福田豊四郎(1904~1970)です。

深い緑の背革に、光沢のある唐紙をあしらった装幀は、秋朱之介にとっても満足のいく仕上がりだったようです。
外箱や扉の図版は、福田豊四郎の原画を写真に撮ったものを網点分解した図版を使っています。龍星閣最初の2冊と同じように木版を使っていたらと思うのですが、依頼仕事ですから、コスト感覚が働いたのでしょうか。

三笠書房(1933年創業)をやめたばかりの秋朱之介が急ごしらえで作った雑誌『書物倶楽部』創刊号(裳鳥会、1934年10月)で、秋朱之介は『花のある随筆』について、次のように書いています。フリーになったばかりの装幀家としての営業みたいなところのある文章です。

 『花のある隨筆』 山口青邨著
 龍星閣板、花のある随筆は、私の最近の仕事として、裳鳥會新板堀口大學氏著ヴェニュス生誕と共に責任を以ておすゝめ出來る装釘の本になつた。私が今迄造つた本のうち、この二著だけが自由に思ふやうに仕事がやれたので、一番自分でも好きになつた。同閣板水原秋櫻子氏の定型俳句陣はまだ、装釘に關して龍星閣主人の希望も多かつた事とて自分としては不滿な處がある。
 花のある随筆の扉、筥ばりの繪は帝展の福田豊四郎畫伯の筆になるもので惡からう筈がなく、本書のいい處は、福田畫伯の絵に負ふところが多い事は事實だ。それに本書の扉と筥に繪を入れる事は装釘する時のはじめからの豫定であつたが、それでもこんな立派な繪が描いていただけやうとは夢に思つてゐなかつた。福田畫伯は帝展その他を通じて私の最も尊敬してゐる畫家で、本書の廣告等に、私の名が福田畫伯の上やさきに出てゐることは私としては大變不滿だ。本書の背は濃い草色の皮を使つて、平を黄色の臘
(蠟牋か?)花模様唐紙にした。どんな本でも色彩の調和さへとれてゐればそう失敗はしないものである。とにかく自分の装釘の本について書くべきではないと思ふが、少くとも私の仕事を見直していただき度いためには本書とヴェニュス生誕を見ていただき度いのでおくめんもなくペンをとった次第である。讀者その點凉とせられよ。
 本書の著者山口先生は東大鑛山冶金學の教授であり、ホトトギス派俳壇の巨匠である。氏の隨筆は私の編輯した雜誌書物にも御掲載を願つたこともあるが、今日に所謂文學者流のところがなく、よく氏の人格の崇高な氣韻を落さず讀者をして、純金質の鑛石にでもふれるやうな詩情を感じさせる。さうだ、之こそは眞に金属で云ふたら純金である。ダイヤモンドのやうな隨筆でもなければ、眞珠のやうな感じの隨筆でもなく、まがふ方なきあのやはらかな、美しいそうしてしたしみ深い純金質の隨筆といふものがあるならばそれはこの山口博士の随筆を於て他にないと云つても過言ではないだらう。

『花のある随筆』の外箱には、福田豊四郎が描いたドクダミの絵が使われていますが、このころ、秋朱之介は、『書物倶楽部』のほかに、『どくだみ』というタイトルの美術・工藝・文學の総合雑誌を企画し、『書物倶楽部』誌上で予告まで出しています。残念ながら未刊に終わったようです。布裂や手刷り・手彩色の図版を貼り込んだ、ぜいたくなつくりの雑誌にする予定だったようです。創刊号だけでも出ていたらと思います。

 

1934年の山口青邨『花のある隨筆』表紙

▲『花のある隨筆』表紙

 

 1934年の山口青邨『花のある隨筆』背

▲『花のある隨筆』革装の背

 

1934年の山口青邨『花のある隨筆』扉

▲『花のある隨筆』扉 福田豊四郎の絵。

 

1934年の山口青邨『花のある隨筆』装幀

▲秋朱之介装 福田豊四郎絵
本書の「跋」(昭和九年秋十月)に次のような謝辞があります。

この本の装幀は秋朱之介氏、畫は福田豊四郎畫伯である、御好意を深謝する。それから書肆澤田伊四郎氏には一切の面倒を御願ひした、之また感謝の意を表する。

 

1934年の山口青邨『花のある隨筆』奥付

▲『花のある隨筆』奥付

 

『書物倶楽部』(裳鳥会)掲載の龍星閣の広告01

『書物倶楽部』(裳鳥会)掲載の龍星閣の広告02

▲秋朱之介編集の『書物倶楽部』創刊号(裳鳥会、1934年10月)掲載の龍星閣の広告

 

『書物倶楽部』奥付

▲『書物倶楽部』奥付
『書物倶楽部』は、三笠書房をやめた秋朱之介が急ごしらえで作った雑誌で、1934年11月発行の第2号までしか続きませんでした。
注目すべきは発売所が紀伊國屋書店ということ。紀伊國屋書店の創業は、昭和2年(1927)ですから、まだまだ新しい書店だったころです。
ただ秋朱之介の新宿時代は、そう長く続かず、昭和10年(1935)には拠点を銀座に移しています。
そして、大阪から、銀座の秋朱之介を訪ねてきた森谷均(1897~1969)の出版社、昭森社の立ち上げにかかわることになるのですが、それは、また、別の話です。

一方、澤田伊四郎の龍星閣も昭和10年になると、次のような本を上梓して、順調に出版点数を伸ばしていきます。

 田中茂穂 随筆『魚の随筆』
 日野草城 第三句集『昨日の花』
 軽部烏帽子 句集『しどみの花』
 山口誓子 句集『黄旗』
 楠眼橙黄子 句集『橙圃』虚子・秋桜子序
 水原秋櫻子 第三句集『秋苑』
 富安風生 随筆『艸魚集』
 水原秋櫻子編『馬酔木年刊句集 昭和10年版』

山口誓子(1901~1994)と水原秋櫻子(1892~1981)の句集も出して、富安風生(1885~1979)、山口青邨との、いわばエースの4カードを完成させています。

しかし、 龍星閣というと、昭和16年(1941)に出版した高村光太郎『智恵子抄』が、まず最初に思い浮かびます。
同世代で、地方出身で、東京の同じ職場の文学仲間としてスタートした秋朱之介と澤田伊四郎ですが、びっくりするぐらい売れた大ロングセラーの版元になった澤田のことを秋はどう思っていたのだろうかと思うことがあります。
まあ、人の成功など、気にしても仕方のないことなのですが。

今回、澤田伊四郎のことを調べていましたら、澤田伊四郎の故郷、秋田県鹿角郡小坂町に、澤田伊四郎や福田豊四郎の資料の寄贈が、龍星閣からあったようです。もしかしたら、そのなかに、秋朱之介(西谷操)の資料も含まれているかもしれません。

 

龍星閣初期の本を駆け足で見てきましたが、『草の花』『雜草園』『定型俳句陣』『花のある隨筆』この4冊の本は、いずれも天金ということでも共通していました。

龍星閣初期の本の天金

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

Green Leaves: Nick Drake Covered

英国の音楽誌『MOJO』3月号の付録CDが、久々の当たりでした。
おまけで付いているCDは、繰り返し聴かないものですが、これは結構な回数、繰り返し聴いています。
「Green Leaves: Nick Drake Covered」
ということで、ニック・ドレイク・トリビュートなのですが、参加しているのが、 Vashti Bunyan や Bridget St John や Judy Dyble といったおねえさまがた。その人選だけでもうすでに素晴らしい。
5曲めをケヴィン・エアーズが歌っていたら、12曲目をワイアットが歌っていたら、と思う瞬間もあるのですが、そこまでは望むのは、望みすぎだと思います。

 

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225. 1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』(2018年2月12日)

1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』

 

【初期の龍星閣の本・その3】

澤田伊四郎(1904~1988)の龍星閣(1933年創業)で、秋朱之介(1903~1997)が装幀した1冊目の本です。
ちょうど秋朱之介が三笠書房(1933年創業)をやめるころの仕事のようです。
龍星閣の本としては最初の革装本です。龍星閣のロゴである龍を使うという指示があったのでしょうか、そういう注文が嫌いな秋朱之介としては、思い通りに作れなかったという印象があるようです。
『草の花』『雜草園』のように新たな木版画を使わず、 手堅いつくりの本になっています。

水原秋櫻子(1892~1981)の、俳句について随筆・批評集です。
水原秋櫻子も、富安風生(1885~1979)、山口青邨(1892~1988)同様、東大ホトトギス派の俳人。産婦人科の医師で、昭和医学専門学校の産婦人科学教授、宮内省侍医寮御用係を務めた人です。

『定型俳句陣』には、『草の花』『雜草園』両書の評も収録されています。

その〈「草の花」を讀む〉では、富安風生のことを次のように書いています。

 (昭和八年)九月のはじめに風生さんが來られて、個人句集を出版するかも知れぬといふ話があつた。以前からの知人が今度出版業をはじめて、その處女出版として句稿を懇望されたとのことであつた。風生さんは非常に謙遜してそのことを話された。

 (昭和八年)十一月十五日夜、風生さんは出來あがつた句集を持つて訪ねて下さつた。しかし私は生憎留守で、晩く歸つてから著者の好みの行きわたつた美しい句集を手にした。

 大正十一年(1922)といふ年は、私がはじめて風生さんを訪ねた年なのだ。それはその年に東大俳句會が生れて、その用件で私は築地の貯金局へ出かけて行つた。長い廊下の突當りにまん丸い課長室があつて、その机に積み重ねた書類の中で、白い夏服姿の風生さんが事務をとつて居られたのを憶えてゐる。

なんだか、戦後の小津安二郎の映画に出てきそうな光景です。

風生さんは逓信省の經理局長といふ忙しい本職を持つて」と書いているので、昭和8年(1933)の末ごろ、富安風生は逓信省の経理局長だったようです。

一方、〈「雜草園」に佇みて〉では、次のように回想しています。

 「雜草園」の著者はその跋文で東大俳句會のことを語り、次のやうに結んでゐる。
 ――それにしても當時の會員で、今東京にゐるものは秋櫻子君と風生君と僕だけだ(下略)――
 私は、嘗て山口誓子君の「凍港」が上梓された時、それが東京堂の書架に「葛飾」と竝んで収められてゐるのを見、一種の感慨のおこるのを禁ずることが出來なかつたが、昨日まだ三省堂の書架の中に「雜草園」と「草の花」と「新樹」とが竝ぶ立てるを瞥見し、ゆくりなくもこの跋文の一節を思ひ起して、しばらくはその前を立ち去ることが出來なかつた。

『凍港』(素人社、1932)は、山口誓子(1901~1994)の第一句集。
『葛飾』(馬酔木発行所、1930)は、水原秋櫻子の第一句集で、『新樹』(香蘭社、1933)は水原秋櫻子の第二句集。
水原秋櫻子の第三句集『秋苑』と山口誓子の句集『黄旗』は、昭和10年(1935)に龍星閣から上梓されますので、龍星閣は、その創業初期においては、富安風生、水原秋櫻子、山口青邨、山口誓子ら4人の最初期の句集を出すことを自分の役割としていたようです。

 

1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』表紙

▲『定型俳句陣』表紙

 

1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』扉

▲『定型俳句陣』扉

 

 1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』装幀者

▲装幀 秋朱之介氏

 

1934年の水原秋櫻子『定型俳句陣』奥付

▲『定型俳句陣』奥付
水原豊は水原秋櫻子の本名。
あとがきにあたる「解説」で、水原秋櫻子は、次のように書いています。

龍星閣主人澤田氏は、「草の花」「雜草園」の二集を出版した人である。私も平素尊敬する風生青邨二友につゞいて、同じ書肆から本書を上梓することを嬉しく思ふ。

 

【その4へ続く】

 

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224. 1934年の山口青邨『雜草園』(2018年2月12日)

1934年の山口青邨『雜草園』

 

【初期の龍星閣の本・その2】

澤田伊四郎(1904~1988)の龍星閣(1933年創業)の2冊目の本です。
東大工学部教授にしてホトトギス派の俳人、山口青邨(1892~1988)の最初の句集です。
序文は富安風生(1885~1979)の『草の花』と同じく、高浜虚子(1874~1959) 。
手もとにあるのは箱なしの裸本ですが、今度の装幀は福田豊四郎(1904~1970)単独で、表紙の鶏頭の多色木版が美しい本です。

「跋」 (昭和九年五月十日)で、次のように謝辞をのべています。

  虛子先生からまことに懇篤な序文を頂いたことはこの上もない光榮である、雜草園の眞上に暖い太陽が終日照らしてゐるやうな幸福を感ずるのである、謹んで御禮を申し上げる。
 又、この句集を出すに至つたのは風生君にすゝめられたことが動機になつてゐるので、それがなかつたならば、まだ出來なかつたかも知れない。
 又、龍星閣主人澤田伊四郎君には終始お骨折を願つた。
 又、装幀はは福田豐四郎畫伯をわづらはすことが出來て、かうした美しい本を作ることが出來た、茲に諸君の御好意に對して厚く感謝の意を表する。

 

1934年の山口青邨『雜草園』表紙

▲『雜草園』の表紙は、福田豊四郎の描いた鶏頭の花。多色木版。

 

1934年の山口青邨『雜草園』見返し

▲『雜草園』の見返しは、福田豊四郎が描いたほおずき。木版。

 

1934年の山口青邨『雜草園』扉

▲『雜草園』の扉は、福田豊四郎が描いたタンポポ。木版。

 

1934年の山口青邨『雜草園』奥付

▲『雜草園』奥付
山口吉郎は、山口青邨の本名。
『草の花』にはなかった、龍星閣の龍のロゴが登場。このロゴは福田豊四郎の作なのでしょうか?

 

『草の花』再版のちらし

▲『雜草園』にはさまれていた、富安風生『草の花』再版改装版のちらし
水原秋櫻子、楠目橙黄子、本田あふひ、永田青嵐、高浜虚子の賛辞。

 

『書物』(1934年8月、三笠書房)に掲載された龍星閣の広告

▲秋朱之介編集の雑誌『書物』(1934年8月、三笠書房)に掲載された龍星閣の『草の花』『雜草園』広告
広告コピーを秋朱之介が書いています。

草の花については書物展望社の齋藤昌三氏が書物展望へ紹介し、小生も先月號書物で書いた。本書はほんとに落ちついた立派な美しい書物になつた。福田畫伯の装釘は本書に於て實にしつくりと落ちつきを見せてゐる。俳人で隨筆家としての大家山口先生の本にふさはしい名装釘だ。(秋朱之介)

『雜草園』本体には、「山口梅三郎木版刻 都築徳三郎版畫刷」の情報は記載されていないので、これは貴重な情報です。木版の刻と摺りは、富安風生『草の花』と同じメンバーです。

【2019年9月24日追記】外箱に貼られた題簽には、その情報が記載されています。裸本だと分かりませんでした。

『書物』8月号には、水原秋櫻子「秋川の谿」、山口青邨「梅雨雜筆」、富安風生「瀧不動」と、龍星閣の初期を飾った作家たちも寄稿しています。

 

【その3へ続く】

 

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223. 1933年の富安風生『草の花』(2018年2月12日)

1933年の富安風生『草の花』

 

【初期の龍星閣の本・その1】

関東大震災後に復興する東京で、秋朱之介(西谷操、1903~1997)と澤田伊四郎(1904~1988)という、独立独歩のインディーズな出版人を生み出した職場がありました。逓信省の貯金局というところです。

秋朱之介が1980年代末に書いた回想「築地小劇場の頃」(『書物游記』書肆ひやね、1988)で、次のように書いています。

 ボクは、銀座で震災に逢った。正確にいえば新橋の貯金局、東京振替貯金課だった。そこでボクは原簿助手というのをやりながら、トーシャ版刷りのパンフレットを出していた。
 そこには松井、水野、竹内、沢田伊四郎(龍星閣主人)といった文学青年がいたのを思い出す。

「竹内」は、昭和8年(1933)に三笠書房を創業する竹内道之助でしょうか?
【2018年3月26日追記 『木香往来』創刊第壱号(書肆ひやね、平成元年1月25日発行)の「座談・秋朱之介を囲んで」によれば、同じ貯金局にいたの「川崎の竹内タサブロウ」という人物でした。竹内多三郎と思われます。】

関東大震災があった大正12年(1923)からいつごろまで、彼らがそこで働いていたのかは、はっきりしませんが、同じころ、彼らの上役にあたる地位に、東大ホトトギス系の俳人、富安風生(1885~1979)がいました。 富安は昭和11年(1936)に逓信次官までのぼって退職しますが、職場俳誌『青葉』の選者もつとめており、上司がそういう人なら、文学青年が集まりやすい職場環境だったのかもしれません。
なぜ貯金局から秋朱之介や澤田伊四郎のようなインディーズな出版人が生まれたのかという謎の答えにはなりませんが、手掛かりにはなりそうです。

当時の職場俳誌『青葉』を見ることができれば、秋朱之介(西谷操)や澤田伊四郎の名前も見つけることができるかもしれません。

澤田伊四郎は、学生時代から同人誌づくりに熱心だったようで、当時「創作版画」と呼ばれた版画作家と組んで、『港』や『風』といった詩と版画の同人誌をつくっています。かかわった版画家は、恩地孝四郎(1891~1955) 、川上澄生(1895~1972)、平塚運一(1895~1997)、藤森静雄(1891~1943)、前川千帆(1889~1960)、田中恭吉(1892~1915)、川西英(1894~1965)、山口進(1897~1983)、深澤索一(1896~1947)、更科源蔵(1904~1985) といった、1904年生まれの澤田伊四郎より少し上の世代の作家たちです。

その経験をもとに、昭和8年(1933)、澤田伊四郎は龍星閣をたちあげ、本の出版にのりだします。
昭和4年(1929)には、本の出版を始めて、自分のつくりたい本をつくることを追求していた秋朱之介に続いたかたちになります。

その龍星閣が出した最初の本が、富安風生の第一句集『草の花』です。この人選は、貯金局コネクションだったのでしょうか。
序文は高浜虚子(1874~1959)。
表紙の絵は、秋田県出身の澤田伊四郎の同郷で、同い年の福田豊四郎(1904~1970)。
見返しと扉は、創作版画の深澤索一。
龍星閣最初の本ですが、知り合いからしっかり協力してもらって、作ることができた本という印象です。

【2019年9月24日追記】
『草の花』外箱には、澤田伊四郎による案内が書かれた紙が貼り込まれています。手もとにある本は、その案内が剥がれたものでした。
その案内文は、『澤田伊四郎 造本一路』(2018年8月31日、龍星閣)でも読むことができます。

 

1933年の富安風生『草の花』表紙

▲『草の花』表紙
福田豊四郎による大麦の絵。手漉きの紺紙に金泥。木版で摺られています。

 

1933年の富安風生『草の花』見返し

▲『草の花』見返し
深澤索一の木版によるザクロ。当時の「創作版画」という感じがします。

 

1933年の富安風生『草の花』扉

▲『草の花』扉
深澤索一の木版による椿の花かご。

 

 一冬の榻をうつすや下萌ゆる

▲富安風生の自筆で、「一冬の榻をうつすや下萌ゆる 風生」と書き込まれていました。

 

1933年の富安風生『草の花』奥付

▲『草の花』奥付
富安謙次は、富安風生の本名。
木版画の手摺師は都築徳三郎。
福田豊四郎の表紙絵の彫師は山口梅三郎。
表紙の手漉きの紺紙は、島根県の渡邊弘。
外箱の手漉き紙は埼玉県の田中町兵衛。

この本が出版された昭和8年(1933)11月には、秋朱之介は三笠書房の創設期の編集者・装幀者として、『書物』誌の編集をはじめていました。
昭和9年(1934)『書物』7月号で、秋朱之介が、『草の花』の評を書いています。

 『草の花』富安風生著句集 高濱虚子序
初版五百部賣切、私の手許にあるのはその再版五百部の内の一冊です。この本は初版と再版の装釘がちがひますので特にその點を明かにしてをきます。著者富安氏はホトトギス派の俳人、本志
(『書物』)に寄稿下さつた随筆を見てもわかりますやうに名文家として知られてゐます。草の花の作品はかつてホトトギスに發表されたものを一冊にまとめられたものであります、逓信省經理局長の肩書はいかめしくも感じられますが、それが草の花一巻の著者富安氏です、大正八年から昭和八年迄の、五五八句が収載されてゐて、それに高濱虚子先生が十九頁を費やして序を書いて居られます。
  沼の月東京遠き思ひかな
  蓮如忌やをさな覺えの御文章
  羽子板や母が贔屓の歌右衛門
  蝶低し葵の花の低ければ
刊行者龍星閣主人澤田さんは私の十年來の友人です。永い日月大變苦労して來てこのときはじめて本らしい本を刊行された、長い間雜誌を出したり本を賣つたりして來られたのではありますが、出版家としての君はまだ素人です、本に大變費用をかけすぎて、そのかけただけの効果を擧げ得てゐないといつた感じがあります、表紙見返し扉みな木版でそれに用紙も申分ない上物を使つてゐます、普通の出版屋には出來ない藝當をしてゐられます、之ではもうかりやうがありません、そこに私は君らしいところ、君らしい良さを感じます。この本は私の思つたより賣れるでせふ、賣れてくれればいいと思ひます、君は永い間貧乏して來られたのですから。賣れてくれなくては全く困ります、しかし賣れたところで、こんなに金のかかつた本をこさへてはもうかりやうがないでせう、人は君の良心的な仕事を、詩人らしい趣味を、認めずには居られません。さうして草の花一巻は君の出版家としての礎としては、申分のない出來です、君と私は逢ふとお互に口が惡いから。君の仕事は認めて居りほめたくても、あまりほめられない。君の仕事はどんなに立派に出來ても。君に逢つて私が最初に投げつける言葉は悪口ですからね、そのしようこに君は草の花の初版は私には見せてさへくれなかった。君が見せてくれたのはこんなに賣れるよ、と讀者や本屋からの注文書だけでしたね、それにしても君が良い仕事をつづけて出してくれることは私には何よりもうれしい。

この評のときには、『草の花』初版は売り切れて、再版改装版が出ていたようです。
本づくりでは、先輩ということでしょうか、少し上から目線で、ほめています。

 

【2022年9月30日追記】

恩地孝四郎(1891~1955)編輯の書物専門誌『書窓』第二巻・第二號(1935年11月10日發行、アオイ書房、發行者・志茂太郎)の「既刊御自著中、装幀のお氣に入つた本」というアンケートで、富安風生が次のように答えていました。

私の出した本といつては、後にも先きにも句集『草の花』一種しかありません。紺地に金泥の表紙見返しは念入りな木版畫だつたのですが、あれは、御承知と存じます龍星閣主人澤田伊四郎君の處女出版でして同君が特に刊行してくれたもの。今見ても矢つ張り氣に入つて居ります。

 

【その2へ続く】

 

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222. 1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』(2018年1月28日)

1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』表紙

 

第二次世界大戦中の昭和17年(1942)、西谷操(秋朱之介、1903~1997)は、中村重義、佐藤俊雄らと昭南書房を立ち上げ、一般文芸書の出版を始めます。

西谷操(秋朱之介)の名前は限定出版の特装本と結びつけられがちですが、昭南書房の本は、初版2000部から5000部の一般書です。戦時中の制限の多いなか、よくぞつくれたものだという本が並んでいます。

昭南書房が出版した本は、井伏鱒二、太宰治、石川淳、丸山薫、中川一政、網野菊、島津敬義、横山重、納言恭平、飯田莫哀、室生犀星、南達彦、河東碧梧桐といった人たちのもので、この岡本かの子(1889~1939)の『かの子短歌全集 第一巻』もその1冊です。

昭南書房は、翻訳書も手がけていて、ベルトラン『夜のガスパアル』(城左門訳) のほか、敵国イギリスの作家ヴァジニア・ウルフの『波』(鈴木幸夫訳)やイーデイス・シチエルの『イタリー及び北歐におけるルネサンス』 (飯田敏雄訳)も出していて、わたしたちが一般的に思う「敵性語」の世界とは違った場所もあったのだということを知ることができます。

この『かの子短歌全集 第一巻』は、山口蓬春(1893~1971)の装幀で、表紙には優雅な白いケシの花の多色木版が使われています。それだけでも、なんだか贅沢な気分になります。

この表紙のいちばんの趣向は、白地の紙に、胡粉の白を重ねて花弁を表現しているところでしょうか。


1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』表紙02

1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』表紙03

1943年の昭南書房版『かの子短歌全集 第一巻』表紙04

 

汚れやすいという欠点もありますが、白に白を重ねるという表現には、心意気を感じます。

ただ、『かの子短歌全集 第一巻』に収められた歌のなかには、確かに「曇天のけし」という連作はあるものの、これは紅色のヒナゲシのことで、表紙に使われた白いケシの花と、本文で歌われた花が照応しているのか、ちょっと分かりません。

『かの子全集 第一巻』には、「けし」を歌ったものはないようです。「ひなげし」の歌を引用してみます。

ひなげしも我が黒かみも燃えさかる初夏の日となりにけるかな
あざやかにひなげしの花うつるなり泣きはらしたる後の瞳に
あでやかに君が面を照らせよと灯かげに置きねひなげしの花
ひとところ闇をいや濃く隈どりてひなげしの咲く門にまちけり
前髪のふとしもふれてくづれたる机のうえのひなげしのはな

「曇天のけし」
くもれるままややけき空ひなげしの花の紅うるみ照らへり
低く垂るる雨雲に行きうるみ照らふひなげしに飛ぶ眞白蝶蝶
雨雲は低くたれたり雛罌粟のくれなゐのしめり堪へがてに見ゆ
雨雲のものち紅うるむ罌粟のはな眞白蝶蝶とまりにじめり
足あらけく歩み寄れども曇日の罌粟のしめらひ深くして揺れず

 

装幀 山口蓬春

▲『かの子短歌全集 第一巻』の「装幀 山口蓬春」

 

『かの子短歌全集 第一巻』カバー

▲『かの子短歌全集 第一巻』カバー
花に詳しくないのがばれてしましますが、ここに描かれているのはフジバカマでしょうか。
この本には外箱があるのではないかと思いますが、未見です。

 

『かの子短歌全集 第一巻』見返し

▲『かの子短歌全集 第一巻』見返し
『かの子短歌全集 第一巻』には、「ふたつみつ土筆を折りて代々木野をまたも寂しくたちいでにけり」という歌が収められていました。

 

『かの子短歌全集 第一巻』扉

▲『かの子短歌全集 第一巻』扉
扉は、かわいらしい紙雛の多色木版です。
装幀の山口蓬春の手になるカバーや見返しは、今まさに世界で戦いが続いているのだとは思えないほど、たおやかな仕上がりです。
意識して控えめな題材が選ばれているような気もします。

岡本かの子の歌には、桜や薔薇、芍薬など、大ぶりな派手な花の歌も多いのですが、装幀につかわれている絵は、控えめなものばかりが選ばれているような気もします。岡本一平(1886~1948)が「あと書き」で「今日は時局下假りにも誤解を招かん懸念ある傾きは自粛に自粛を加ふべきは國民として藝術家の務めなりかし。これ僅少なれども意識して集中より若干首を遠慮せしめし由縁。」と書いていますが、装幀でも「自粛」があったのかもしれません。

とはいえ、白に白を重ねるなど、趣向はこらされています。
絵と本文の照応と、しかつめらしく考えるより、「花のかずかず」と考えた方がいいのかもしれません。

 

『かの子短歌全集 第一巻』奥付

▲『かの子短歌全集 第一巻』奥付
初版5000部と分かります。
昭南書房では秋朱之介の名前は使わず、「發行者 西谷操」です。
昭南書房の看板は、青山二郎(1901~1979)の兄、青山民吉(1896~1953)が描いたものだったようで、検印のデザインも青山民吉ではないかと思われます。

秋朱之介『書物游記』(書肆ひやね、1988年)の「山本周五郎をひらく鍵」に、次のような記述があります。

ボクは神田三崎町の印刷屋の二階を事務所にして昭南書房――後の操書房という小さな出版屋をやっていた。たった三人だけの店で、その中の一人が佐藤俊雄(のちの大雅洞主人)で新潟から出て来た文学青年だった。ボクはこの佐藤俊雄の兄と、出版物を通してながいつきあいがあった。チューリップの球根を生産して、外国へ輸出している農家だった。佐藤俊雄はボクの所で著者関係の仕事を委せていたので、岡本一平氏と交渉して『かの子短歌全集』をまとめたり、網野菊のものをとってきたり、太宰治やその他にも、よい仕事をやってくれたと思っている。

岡本一平も、『かの子短歌全集 第一巻』の「あと書き」で、

こゝに昭南書房の佐藤なにがしなる若人あり。愛書の癖より書肆の人となりしが如し他は知らずしきりに來つて女史の詩書の刊行を乞ふ。逐へどもまた來る。その執拗やがて信賴の域にまで達す。予を扶けて渉獵筆勞の煩をも執らんといふ。予をしてつひに懷抱の業をこの助緣によつてなさんとおもはしめぬ。

と書いていて、『かの子短歌全集』は佐藤俊雄の企画だったと知ることができます。

それでも、装幀などから見て、いかにも西谷操(秋朱之介)が関わった本、という印象を受ける1冊です。

残念ながら、「全集」と銘打ちながら、続巻は出ることはありませんでした。
戦局が悪化し、出版に必要な紙を入手することができなくなり、昭和19年(1944)に、昭南書房は、いったん店じまいします。
昭南書房で準備中だった山本周五郎の本は、終戦後、昭和21年(1946)に操書房と名前を改めて、そこで出版されることになります。

『かの子短歌全集 第一巻』は、岡本かの子18歳(明治39年・1906年)から35歳(大正12年・1923年)までの歌で構成されています。
大正12年は関東大震災の年で、最後に収録されている「大震――鎌倉にて遭難――」連作は、終わりに向かう第二次世界大戦とも重なっているようにも読めます。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

三十一文字つながりということで、宮城純子と小川美潮のユニットSecret Bookのアルバム 『夢が眠る場所』(1999年、Tecnico Label)から「Ancient Song」を。

『夢が眠る場所』

「茜さす紫野行きしめ野行き野守は見ずや君が袖振る」や「紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑに吾恋ひめやも」を、小川美潮が、しっとりと読み上げるのでなく、「明るいテレンコ娘」として読み上げています。

 

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221. 2017年のピーター・ブレグヴァド『GO FIGURE』(2018年1月20日)

2017年のピーター・ブレグヴァド『Go Figure』

 

ピーター・ブレグヴァドのソロアルバムまとめ・その3(承前)

去年の暮れ、2001年の『Choices Under Pressure』以来16年ぶり、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)のソロアルバム第8作『GO FIGURE』がリリースされました。わが家では「ブレグヴァド祭」になっています。
「Go figure」というのは、「信じられない、わけわかんない」といった意味の口語表現のようですが、ジャケットでは「E」の部分が「EL」になっていて、それだけではなさそうです。「碁フィギュア」だって、あり得そうです。

本来は、ブレグヴァド初めてのボックスセット『BLEGVAD BANDBOX』(6枚組)中の1枚として準備されていたのですが、ReRレーベルのありがちなことで、制作進行が遅れて、新作『GO FIGURE』だけが先に届けられました。

全17曲。いちばん長い曲で3分34秒。このアルバムは3分の曲が基本という姿勢のようです。

 

【2018年8月8日追記】

2017年7月に、2017年暮れに発売予定と予約を募っていたPeter Blegvad Bandのボックス『The PETER BLEGVAD BANDBOX』。ReRレーベルらしく、何度が発売延期になっていましたが、ついに2018年7月に完成、届きました。Recommended Records(ReR Megacorp)からリリースされた、Peter Blegvad Bandの『Downtime』(1988)、『Just Woke Up』(1995)、『Hangman's Hill』(1998)、『Go Figure』(2017)の音源をまとめたボックスです。
72ページのブックレットも力作で、各曲についてピーター・ブレグヴァドやクリス・カトラーがコメントしていますので、そこで語られていたことを【2018年8月追記】として書き加えました。

ピーター・ブレグヴァドは、2009年ごろ、曲作りへの興味を失っていたようです。

『Radio Free Song Club』(2010年~2014年に、32回のプロクラムをWEB上で配信。現在でも聴くことができます)に参加するように招かれたことで、曲作りへの意欲がよみがえったようです。
『Go Figure』に収録された曲の多くは『Radio Free Song Club』が初演。
ピーター・ブレグヴァド、クリス・カトラー、ジョン・グリーヴスのトリオに、カレン・マントラ―、ボブ・ドレイクを加えた5人編成で19曲を録音。そのうち16曲をアルバム『Go Figure』に、残りの3曲は、『The PETER BLEGVAD BANDBOX』のボーナスCD『It's All ‘Experimental' 1』に収録されています。

 

『GO FIGRURE』CD01

『GO FIGRURE』CD02

『GO FIGRURE』CD03

▲『GO FIGRURE』(2017年、AMATEUR/ReR)CDのパッケージ
手書き文字を使って人や馬や魚、鳥、ハートの図などを描いているのですが、このCDサイズの大きさでは文字を読むことができません。アナログ盤がでれば、図版もLPサイズになるので、 判読可能になりそうです。アナログ盤のリリースも期待したいところです。

 

『GO FIGURE』CDブックレット

『GO FIGURE』CDブックレット02

▲『GO FIGURE』CDブックレット
歌詞に使われている書体は、ブレグヴァドの手書き文字をもとにデジタルフォントを作成したものではないかと考えています。2016年の『SELECTED SONGS by SLAPP HAPPY』(An AMATEUR Production)で使われていたものと同じ書体です。

 

『GO FIGURE』収録曲要約

01. Had to be Bad(3'20)
どうして、人は救いようのないほどの「悪」になれるのだろうか。人を悪たらしめるものがあるのだろうか。
この歌の「悪」は、父親との関係が鍵になっているようです。
【2018年8月追記】
『Just Woke Up』(1995年)セッションでも試したがまとまらず、22年後、カレン・マントラ―、ボブ・ドレイクが加わったことで形になった曲。
サディステッィクなサイコパスが主役の詩。サイコパスではない、わたしたちを悪の領域に踏み込ませないものは何か。
自分の中の「悪」は、ブレグヴァドが繰り返し取り上げられる主題。
曲にはビートルズの影響。

02. Penny Black(2'34)
恋文をもらった娘は、その封筒にはられた運命のペニーブラックを見て発作をおこし死ぬ。生まれ変わっても、またペニーブラックのために死ぬ。
コレクター価値の高い世界最初の郵便切手ペニーブラックをめぐる寓話。
【2018年8月追記】
古典的な「死と乙女(Death and the Maiden)」のテーマ。
Plainsongも1999年のアルバム『New Place Now』でカヴァー。

03. King of Straw〔Peter Blegvad/Clive Gregson〕(2'51)
「わらの王」を燃やす夜。
「わらの王」が何の象徴か、比喩かは聴き手にまかされています。
○Slapp Happy『Ça Va』(1998年) に別ヴァージョン。
【2018年8月追記】
Plainsongに在籍していたころのClive Gregsonとの共作。
Slapp Happy『Ça Va』(1998)が最初の録音。
フレイザーの『金枝編』から。

04. Simon at the Stone(3'23)
「ゴーストハンター」として知られた写真家サイモン・マースデン(Simon Marsden、1948~2012)に捧げられた歌。「the Stone」はニューヨークのフルトンストリートにあったアイリッシュパブ「the Blarney Stone」のこと。飲み仲間だったようです。
そのパブのジュークボックスで、サイモン・マースデンがよくかけていたクランシーブラザースの「Isn’t It Grand Boys」の一節「すごいじゃないか、坊や、おっ死んじまっているのは(Isn't it grand. boys, to be bloody well dead?)」 が使われています。
○ブレグヴァドは英INDEPENDENT紙に、サイモン・マースデンの追悼記事を書いています。(2012年3月9日)
○2013年に、音楽サイト「Radio Free Song Club」でギター弾き語り版を公開。
○まったくの余談ですが、イギリスの哲学者サイモン・クリッチリー(Simon Critchley)は、『The NEW YORK TIMES』のウエブ版で、2010年から「The Stone」というオピニオン・フォーラムを主宰しています。「Simon at the Stone」を聴いたら、俺のことかと思いそうです。
【2018年8月追記】
ブックレットに、ブレグヴァドとSimon Marsdenが、「the Blarney Stone」のカウンターに並んで座っている1981年頃の写真を掲載。

05. I Miss You(2'59)
時空を超えて、相手を破滅してしまうほどの強い恋慕。
相手はもうそこにはいない。
【2018年8月追記】
ゾンビーズ(the Zombies)の「She's Not There」という曲があります。
彼女がいないのは、彼女が現実の存在でないからかもしれません。
彼女が空想の存在だからかもしれません。
私たちが他者についてできることは、お互いに想像し合うことだけかもしれません。

06. The Unborn Byron〔Peter Blegvad/Anthony Moore〕(2'51)
○Slapp Happy『Ça Va』(1998年)に 別ヴァージョン。
○ピーター・ブレグヴァドのソロ第7作『Choices Under Pressure』(2001年) に別ヴァ-ジョン。
【2018年8月追記】
Slapp Happy『Ça Va』(1998)のため、アンソニー・ムーアと共作。
「Byron(バイロン、詩人)」と「embryo(胎児)」の文字に共通するものがあることから発想。

07. Sven(2'49)
少年時代の空想。
「7(seven)」と「スヴェン(Sven)」のだじゃれ。
空想の世界に存在し続ける、最後のヴァイキングの男スヴェン。
やつのようなのにはもう会えないだろう。
【2018年8月追記】
コメディあるいはノヴェリティソング。
スヴェンは7歳。
Blegvadはデーン人系の名前で、父方はヴァイキングの血筋だと夢想していたそうです。

08. Way to Play the Blues(3'27)
このところブレグヴァドの自称であった「amateur」のことを考えていたのですが、『GO FIGURE』には、「amateur」という言葉を歌詞に使っている曲がありました。 たぶん歌詞で「amateur」という言葉を使うのは初めてだと思います。

  有名なバンドでローリングストーンズというのが
  ぼくの所に来て、帽子を脱いで言うんだ
  どうかブルーズを演奏する方法を
  教えていただけませんでしょうか

  ぼくは言ってやったよ、ぼくにも分からないし、確かじゃないよ。
  ぼくはプロじゃないし、ただのアマチュアだ
  でも、それを感じるなら、それを出せばいい、
  それから、シャウトよりささやきのほうが響くこともあるってことを憶えておくといいよ

なんとも人を食った歌詞です。
【2018年8月追記】
ブレグヴァドにとって、ローリングストーンズはずっと大好きなバンド。この曲は、ブレグヴァドのストーンズへのトリビュート。
Bonzo Dog Doo-Dah Bandの「Can Blue Men Sing the Whites?」(1968)や1966年のボブ・ディランのブルーズについての発言の影響も。

09. Powers in the Air(3'02)
○ピーター・ブレグヴァドのソロ第1作『The Naked Shakespeare』(1983年)に別ヴァージョン。
【2018年8月追記】
ソロ第1作『The Naked Shakespeare』(1983)に収録されていた曲。
当時、詩が、完全な個人の創作でなく、一部は「spirits(精霊)」が関わっている受信機のような存在としての詩人達に興味を持っていたという。
エズラ・パウンドもそのリストに入るのではないかと歌ったが、パウンド自身は自分がそんなラジオのような存在だとは思っていなかっただろう。

10. Mind the Gap(2'46)
見ず知らずの2人が、ひとつになる。
幸せな結びつきでなく、事故や事件、災厄の気配。
【2018年8月追記】
またまた、二人が一つになることがテーマの曲。
初校では、グランギニョール色が強く、血なまぐさすぎた。

11. Too Much(2'21)
世の中すべて「トゥーマッチ」なことばかりでうんざり。
○2012年に音楽サイト「Radio Free Song Club」でギター弾き語り版公開。
【2018年8月追記】
出発点は、姪のMistyが歌う、Washington Phillipsの1927年作「お母さんが息子に残した最後のことば(Mother's Last Word To Her Son)」 。

12. Million Things(3'34)
数え切れないものごとが途中のままだけど、お迎えはやってくる。
【2018年8月追記】
「things」が韻の柱に。

13. My father's face(3'20)
亡くなった父の肖像を描いてみる。消しゴムで消しては描いて。
ブレグヴァドが長年やっている絵遊び「Imagined, Observed, Remembered(想像して、観察して、記憶して)」を連想させます。
父を想像して描く、父を目の前にして観察して描く、父を記憶から思い出して描く。
【2018年8月追記】
基本のアイデアは、青年が、子どもの世界であった「母の家(the House of the Mother)」から「父の家(the House of the Father)」への移ること。
コーンウォールへの夏の家族旅行からロンドンへ帰る電車の中で、電車の遅延があって、いつも自分でやっている絵遊び「imagine, observe, remember」を準備。あるものを想像・観察・記憶の3通りで描く。
長い停車でうとうとして夢を見る。子どもたちが私の絵を描いては消し、私は父の絵を描いては消し、父は、祖父の絵を描いては消していた。わたしたちはお互いを描いては消して、続いていく。

14. Winner Came There None(2'40)
勝者がレースのゴールに飛び込んでくるのをずっと待っていたのに、だれも来ない。
ずっと待っていた彼女は60歳になり、スターター用の銃で頭を撃ち抜く。
【2018年8月追記】
教訓寓話。
人生は競争か? ならば誰と何を争う? 時間か? 幸運を祈る。

15. God Detector(2'48)
○ソロ第7作『Choices Under Pressure』では「Blegvad/Partridge」とクレジットされていましたが、今回のCDの歌詞ブックレットにアンディ・パートリッジのクレジットがありません。
○ピーター・ブレグヴァドのソロ第7作『Choices Under Pressure』(2001年)に別ヴァージョン。
【2018年8月追記】
最初のヴァージョンは、曲がAndy Partridgeで『Choices Under Pressure』に収録。
ただブレグヴァドがひとりで演奏するには難しいので、より単純なコード進行に。
「God Detector」は「想像上のメディア(Imaginary Media)」のひとつ。舞台作品「On Imaginary Media」(2004年、2009年)でも使用。
「God Detector」の詩は、連載コミック『Leviathan』でも使用。

16. Cote d'Azur(3'32)
南フランスの海岸リゾート地、コートダジュール(青の海岸)に暮らす、たぶん死を前にした、お金持ちの心象風景でしょうか。
「人生はビッチで、金は糞肥」
○2010年、音楽サイト「Radio Free Song Club」に別ヴァージョン。
【2018年8月追記】
子どもの頃リヴィエラのメントンあたりを訪れたことがあったそうである。
コードダジュールに癒やしを求めて来たのだが、病んでしまう人。

17. Our First Kiss(2'50)
今も思い出すことのできる、このファーストキスの胸の高鳴りは、彼女のためだけのときめき。ほかの相手では、決してありえないもの。
現実の女性というより、夢の女性のような気もします。自分の分身である女性。アニマとのファースト・キス。
【2018年8月追記】
ブレグヴァドの曲に幸せな人は登場しない。
失恋の痛みは、ソングライターにとって貯金みたいなもの。

 

David Morleyの詩集『Enchantment』

▲David Morleyの詩集『Enchantment』(2010年、CARCANET)の表紙
表紙の絵はブレグヴァド。今度のアルバム『GO FIGURE』と同じものが使われています。
せっかく16年ぶりの新譜なのですから、絵の使い回しをしなくてもと思ったりもしますが、この絵でなければならない何か理由があったのでしょうか。

 

正規版CDアルバムのほかに、正規版ですが、CD-Rで出されたものもあります。

Peter Blegvad『Live at WFMU』(2013年)

▲Peter Blegvad『Live at WFMU』(2013年)
FM局のチャリティーとして出されたCD-R。1988~89年のスタジオ・ライブ音源。ジャケットの絵は、娘さんのKaye Blegvadが描いています。

ほかに、2005年に出されたCD-Rで、ブレグヴァドが「eartoon(耳まんが)」と呼ぶ、音楽ショートコント的なものを集めた『Passing Through』という2枚組があるのですが、いまだに手にしたことも聴いたこともありません。いつか聴いてみたいものです。

 

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