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my favorite things 191-200

 my favorite things 191(2016年10月27日)から200(2017年3月16日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

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 191. 1980年の今井田勲『雑誌雑書館』(2016年10月27日)
 192. 1995年の峯村幸造『孤拙優游』(2016年11月30日)
 193. 1974年の富岡多恵子『壺中庵異聞』(2016年12月15日)
 194. 1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)
 195. 1978年のキャシー・アッカーの声(2016年12月31日)
 196. 2017年1月1日の桜島
 197. 1967年の『笑いごとじゃない』(2017年1月14日)
 198. 1934年の『西山文雄遺稿集』(2017年1月31日)
 199. 2009年の『黒いページ』展カタログ(2017年2月14日)
 200. 千駄木の秋朱之介寓居から小日向の堀口大學の家まで(2017年3月16日)
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200. 千駄木の秋朱之介寓居から小日向の堀口大學の家まで(2017年3月16日)

小日向の鷺坂

 

東京小石川、小日向(こびなた)の堀口九萬一(1865~1945)・堀口大學(1892~1981)の家があった辺りへ登る坂は、「鷺坂(さぎざか)」と呼ばれています。この石碑に揮毫したのは堀口九萬一(昭和7年7月)で、側面には「山城の久世の鷺坂神代より春ハ張りつゝ秋は散りけり 」という柿本人麻呂の万葉集の歌が刻まれています。

2月に上京したとき、日暮里駅から飯田橋駅あたりまでをブラブラ歩いてみました。秋朱之介(1903~1997)が一時期暮らしていた千駄木から、秋朱之介が「詩父」と仰いだ堀口大學の家があった小日向まで歩いてみようという趣向です。

このルートは、谷中の岡倉天心の旧居から、小日向のフェノロサ夫妻の寓居へ行く道とも重なっています。メアリー・フェノロサ(Mary McNeill Fenollosa、1865~1954)が一時期鹿児島に暮らしていたということもあって、フェノロサ夫妻にも関心がありますので、1度で2度おいしいウォーキングコースです。

今、気づきましたが、堀口九萬一とメアリー・フェノロサは同い年ですね。

その日のウォーキングのおさらいです。

日暮里駅を下りて、谷中ぎんざのほうへ向かいます。

 

谷中銀座

少し横道に入って、岡倉天心宅跡・旧前期日本美術院跡、現在の岡倉天心記念公園に。
住所は台東区谷中五丁目七番(旧・谷中初音町四丁目)。
東京美術学校騒動で岡倉天心が非職となったあとの時期、明治32年(1899)、小日向のフェノロサ夫妻の家を訪ねるという設定でスタート。

 

谷中_岡倉天心記念公園

そこには、六角堂(岡倉天心史蹟記念堂)もあります。

 

岡倉天心_六角堂

六角堂には、平櫛田中の「岡倉天心先生坐像」が収められています。

団子坂(江戸川乱歩風にいうと「D坂」)へ向かいます。

 

団子坂

団子坂を登りきったところに、森鷗外(1862~1922)の「観潮樓」跡があります。
現在は、森鷗外記念館(文京区千駄木一丁目23)になっています。

 

森鷗外記念館

秋朱之介『書物游記』(書肆ひやね、1988年)に収録された「築地小劇場の頃」に次のような記述があります。

ボクの住所は、駒込千駄木町だった。銀座から歩いてかえった。その住居は森鴎外の観潮楼の裏で、専念寺という寺と境を同じくしていた。寺には高い雑木が繁っており、その中が墓地だった。墓を掘り返えしているのを、ボクは住居の二階から見ていたことがある。中から大きな素焼きの甕が出てきた。中には骨がなく、澄みきった水だけが、甕の底にたまっているだけだった。わびしい思いがした。住居の下の方には根津神社があった。奥の方が団子坂、その上が林町、高村光雲、光太郎は林町に住んでいた。中条百合子、のちの宮本百合子の実家も林町にあった。そして通りを西にゆくと、つきあたりが白山上、南天堂、そして坂の中途に坪川という古本屋があった。近所に小さな公園があり、その公園で書いた詩が(第一書房の)「セルパン」に出たことがある。

ということで、大正12年(1923)ごろから昭和4年(1929)ぐらいまでは、秋朱之介はこの辺りに暮らしていたようです。
昭和7年(1932)3月1日発行の『セルパン』に掲載されたのは、「春先き」という詩です。堀口大學が編集にかかわっていた『パンテオン』誌(第一書房)に西谷操(秋朱之介)の詩がはじめて掲載されたのが昭和3年(1928)なので、このころには、堀口大學のもとに通っていたと思われます。

佐佐木信綱の『筆のまにまに』(人文書院、1935年)を読んでいましたら、次のような記述がありました。

團子坂の古名である潮見坂の上成る森鷗外博士の観潮樓を訪うたある日の夕方、ゆくりなくも、雲中語の第一回のつどひの日であつた。(「雲中語の思ひ出」)

「潮見坂」の上だから「観潮樓」だったようです。その観潮樓から少し離れて、秋朱之介が言及した「専念寺」があります。

 

専念寺

専念寺の銅造地蔵菩薩立像。東都六地蔵の第二番・宝珠地蔵。

観潮樓の横筋に寄り道すると、夏目漱石の旧居跡もあります。

 

夏目漱石旧宅01

夏目漱石猫の家

夏目漱石旧居跡の石碑の題字は川端康成。

この辺りは犬も歩けば文学碑にあたるという感じですが、ずんずん進んで小石川植物園の方へ出ます。

 

小石川植物園

小石川植物園ソテツ

小石川植物園には、鹿児島とも縁の深い「精子発見のソテツ」もあります。小石川植物園でのんびりしたいところですが、先を急いで、播磨坂の桜並木のほうへ。

 

播磨坂

播磨坂の途中に、石川啄木(1886~1912)が亡くなった場所があり、碑が建っていました。

 

石川啄木終焉の地

この辺りから少し進むと、「小日向(こびなた)」とよばれる高台になります。この辺りは古い道筋も残っているようです。

屋久島に上陸したシドッチ(Giovanni Battista Sidotti)を新井白石が尋問した「切支丹屋敷跡」や新渡戸稲造旧居跡があります。

 

切支丹屋敷跡や新渡戸稲造旧居跡

 

さて、目的地のひとつ、フェノロサ夫妻の寓居跡をめざしたのですが、目印になる古いレンガ塀がなかなか見つかりません。1899年(明治32年)4月から1900年8月まで、アーネストとメアリーのフェノロサ夫妻がアメリカへ帰国するまで住んでいた小石川小日向の家があったあたりです。

杉形明子『アーネスト・F・フェノロサ文書集成―翻刻・翻訳と研究』(京都大学学術出版会、2001年)ですと、「小石川小日向水道端町43」とあるところ。ただ、大正元年の『東京市及接続郡部地籍地図』には「小石川小日向水道端町43」は見当たらず、
「小石川区水道端町二丁目43番地」(764坪)が存在(明治44年に小日向水道端町から水道端町に)。
「小石川区水道端町一丁目43番地」も存在しますが、坪数が49坪で、美しい庭つきの家という描写に当てはまりません。ですから、「小石川区小日向水道端町二丁目43番地」がフェノロサ夫妻の寓居と思われます。


小日向フェノロサ寓居跡

かつてフェノロサ夫妻が暮らしていたあたり。小日向台町小学校の近くに、その古いレンガ塀はまだ残っていると思っていたのですが、今回訪ねてみると、古いレンガ塀はすべて撤去されていました。ちょっとショックでした。Google ストリート ビューで見てみると、2015年まではレンガ塀は残っていたようです。

小日向にいたころは、アーネスト・フェノロサ(Ernest Francisco Fenollosa、1853~1908)にとって、岡倉覚三や九鬼隆一がいわば浪人になってしまい、かつてのような支援を期待できず日本でのキャリアをあきらめた時期です。
妻のメアリーは、第一詩集『Out of Nest(巣立ち)』を出版し、最初の小説『Truth Dexter(トゥルース・デクスター)』を執筆していた時期です。
夫妻は、「無職」状態で帰国しますが、その処女小説『トゥルース・デクスター』が思いがけず売れて大きな印税も入ったことで、1902年、メアリーの故郷アラバマ州モービール郊外に家屋を購入して改築して「Kobinata(コビナタ)」と名づけることになります。
「小日向」は、夫妻にとって、良い記憶の場所だったと思われます。行政上には「こひなた」と読むようですが、「こびなた」と呼ばれてきた歴史があります。フェノロサ夫妻も「Kobinata」と読んでいます。

ふるきを偲ばせるものはなくなってしまいましたが、旧富山高等学校蔵ハーン文庫にあるメアリー・フェノロサの第一詩集『巣立ち―詩の飛翔』見開きにある献辞を書いたのは、この場所かという感慨はありました。

親愛なる友ラフカディオ・ハーンに、我が処女作の最初の献呈本を送る。オアガリ ナサイ! メアリー・マクニール・フェノロサ 1899年11月 東京

昭和6年(1931)の『東京市小石川区地籍台帳』を、国会図書館のデジタルコレクションで見ていましたら、フェノロサ寓居跡と思われる「小石川区水道端町二丁目43番地」の所有者は、地理学者の田中阿歌麿(たなかあかまろ、1869~1944)でした。あの失われたレンガ塀は、田中阿歌麿ゆかりのものだったのかもしれません。


【2019年3月23日追記】
ちなみに、第126回(2013年11月27日)で紹介した「 1926年の南九州山岳會編『楠郷山誌』」に、田中阿歌麿は、執筆者として「南九州の湖沼に就いて」を寄稿し、鹿児島各地の湖沼、池田湖、鰻池、住吉池、藺牟田池、大浪池、霧島御池、上甑島の湖沼などについて解説しています。鹿児島と無縁の人ではありませんでした。

 

【2019年12月19日追記】
田中阿歌麿の妻・竹子は、高崎正風(1836~1912)の長女で、鹿児島ともゆかりのある人でした。高崎正風の父・高崎五郎右衛門は、1850年、島津家のお家騒動、お由羅騒動で切腹を命じられ、騒動の別名が「高崎崩れ」と呼ばれるゆえんになった人物です。鹿児島の興国寺墓地にある高崎五郎右衛門のお墓については、「第138回 1913年の半仙子『日當山侏儒戯言』(2014年6月30日)」で少し書いています。
別々の話題として書いた鹿児島のお墓の話とフェノロサ寓居跡の話につながりがあったことに正直驚いています。

 

この辺りの公営住宅が立て替えの時期なのか、立入禁止の場所があちこち目立ちました。この辺りも街の姿を変えていくのでしょう。

 

フェノロサゆかりの古いレンガ塀が失われていたことに茫然としながら、堀口九萬一・堀口大學親子が暮らしていた、久世山あたりに向かいました。

 

小日向_鷺坂01

小日向_鷺坂02

外国暮らしの長かった堀口九萬一が「小石川区小日向水道町108番地」(通称・久世山)に居を構えたのが大正14年(1925)9月。
昭和6年(1931)の『東京市小石川区地籍台帳』では、「小日向水道町108ノ11 350坪」とあります。
秋朱之介もこの坂を上り下りしたのでしょう。

 

鷺坂を下って神田川沿いに進むと、印刷博物館のある凸版印刷のビルが見えました。その敷地内に『遠野物語』の語り手、佐々木喜善の旧居跡もありました。

 

凸版印刷

 

別の日、秋朱之介ゆかりの横浜のあちこちも歩いてみました。

秋朱之介(西谷操)は昭和19年頃から亡くなるまで、横浜の本牧元町に住み続けますが、昭和5・6年ごろにも、横浜に住んでいた時期があります。昭和5年頃は、横浜の五十沢二郎のやぽんな(雅博那)書房に居候して、川上澄生の『ゑげれすいろは』の制作を手伝ったり、昭和6年には、自らの出版所・以士帖印社(エステル印社)を立ち上げ、佐藤春夫の詩集『魔女』を制作しています。

『定本佐藤春夫全集』第36巻(臨川書店、2001年)に収録された、佐藤春夫の秋朱之介宛て書簡には、次の3つの住所が残されています。

 

横浜市東神奈川渡辺山 逢茶庵内以士帖印社(昭和6年2月、佐藤春夫の秋朱之介宛書簡にある住所)

昭和6年には、この住所だけで手紙が届いたのでしょう?
同じ昭和6年2月の佐藤春夫の秋朱之介宛書簡にある「横浜市神奈川立町1717 逢茶庵内」と同じ場所である可能性が高い気がします。
daily-sumusブログの2006年10月4日の記事「柿食へどあるが如くになきがまゝ」の掲載された「ヤポンナ叢書」の刊行案内によれば、「横浜市東神奈川渡辺山」は、五十澤二郎のやぽんな書房の所在地としても使われていた住所でもあります。
少なくとも、間違いなく、五十澤二郎と秋朱之介が同居していた時期があったわけです。

 

横浜市神奈川立町1717 逢茶庵内(昭和6年2月、佐藤春夫の秋朱之介宛書簡にある住所)

昭和5年(1930)4月の『横浜市土地宝典』によると、「立町」の地番は1番から28番までで、「1717」という地番はありませんでした。『定本佐藤春夫全集』では読み違えがあったのかもしれませんが、実際の手紙を見てみないことには分かりません。
「立町一七」があったと思われる場所に行ってみると、今は空き地になっていますが、高台の眺めの良い場所で、「文人」好みの場所でした。秋朱之介が居候していた「やぽんや書房」のあった場所、同時に以士帖印社があった場所だった可能性は高いという気がしました。

【付記・2017年4月26日】
daily sumusの林哲夫さんに、昭和6年(1931)春ごろに出されたと思われる、秌朱之介編輯月刊襍志『以士帖』のコピーをいただきました(このころは「秋」ではなく「秌」の字を使っていました。)
『以士帖』に記載されている住所は「横濱市神奈川立町一七一七逢茶庵内 以士帖印社」とありますので、秋本人は間違いなく「一七一七」という地番を使っていました。
昭和5年に「立町」の地番が1番から28番までだったこととの食い違いは、なかなか解決されません。
昭和5年(1930)4月の『横浜市土地宝典』によると、この時点で立町の土地所有者のなかに、秋が居候していたやぽんな書房の五十澤二郎の名前はありません。借家の可能性が高そうです。

あらためて、昭和5年(1930)4月の『横浜市土地宝典』の地図と現在の地図を比べてみますと、昭和5年当時の「立町一七」のあった場所も、わたしが探し歩いた場所ではなく、もっと東寄りの神奈川図書館から坂を下ったあたりが妥当な場所と思われます。

これらの情報のもとになっている、秋朱之介宛て佐藤春夫書簡を所有していたのが、 佐藤春夫研究家の牛山百合子さんだったことを知りました。われながら、気づくのが遅すぎで、恥ずかしいくらいです。
『國文學』(學燈社、2000年11月号)に「昭和6年 佐藤春夫の手紙―詩集『魔女』の頃」という、この一連の書簡についての解説を書かれていました。そのなかで、次のように書かれています。

「JR東神奈川駅にほど近い浦島伝説ゆかりの地、浦島町、亀住町、浦島が丘に囲まれた立町に秋が居候していたという五十沢宅があったのだろうか。昭和七年一月一日施行の町界町名地番整理により、現在は神奈川区立町二三あたりと推測される。」

昭和6年の「立町一七一七」が、この場所に間違いないと断定するところまでいっていないようです。
明治の住所と現在の住所を重ね合わせるのは、思った以上に難しい作業です。

当方、 鹿児島ですので、散歩に行って、気軽に確かめなおすことができないところが残念です。


神奈川立町

この「神奈川区立町」という表示のある歩道橋を渡り、左手にある坂道を登ったところに横浜市神奈川図書館があり、その坂の途中あたりが、昭和5年当時の「立町一七」のあった場所だったようです。肝心の場所の写真を撮り損ねました。


横浜市本牧宮原899 エステル印社(昭和6年4月、佐藤春夫の秋朱之介宛書簡にある住所)

昭和5年(1930)4月の『横浜市土地宝典』によれば、確かに「本牧宮原899」は存在しましたが、その辺りは空襲があったり、米軍に接収されたりで、現在のどのあたりにあたるかを探すのは、難しいようです。

今回は、秋朱之介(西谷操)の長女、大久保文香さんの案内で、秋朱之介ゆかりの場所を歩くことができました。昭和5年(1930)に建てられた秋朱之介の家や、その隣にある山本周五郎(1903~1967)が仕事場にしていた離れも見ることができました。(今回は、写真は掲載しません。)

 

ホテルニューグランド

秋朱之介『書物游記』出版記念の集いが開かれた横浜のホテルニューグランド。

 

山本周五郎が秋朱之介(西谷操)の離れから仕事場を移した間門園の跡も訪ねることができました。
この階段で、雪の朝、足を滑らせて亡くなったそうです。

間門園の跡01

間門園の跡02

かつて海岸があった先には、石油コンビナートがひろがっていました。山本周五郎が亡くなったころは、まだ埋め立てられていなかったようです。

 

間門園前のコンビナート

 

秋朱之介の家や間門園跡の近くに明治の富豪、原三渓(原富太郎、1868~1939)の建てた「三渓園」があります。その三渓園の南側に、かつての崖になっていた海岸の名残が見られます。以前は、波打ち際の崖で飛び込み自殺が多くあったそうで、傍の草むらには「ちょっと待て」などと書いた看板があったそうです。ある人にとっては、ここは「この世の果て」だったのでしょう。しかし、ここが埋め立てられ、海岸でなくなると、自殺者も減ったというのは、自殺志願者にも理想の場所があるということなのでしょう。

三渓園の南側

 

現在の三渓園の高台から見ると、かつてのように海原でなく、工業地帯がひろがっています。

三渓園_工業地帯01

三渓園_工業地帯02

 

ところで、この三渓園にもかつて、六角堂があったようです。

三渓園_六角堂

谷中の六角堂から始まったブラブラ歩きは、横浜本牧の六角堂で終わることにします。
けっこう歩きました。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

上京中は、毎晩のようにライブを聴くことができた歌姫週でした。Slapp Happyの素晴らしさについても語りあかしたいのですが、横浜の一夜、運よく聴くことのできた小川美潮の「夜店の男」を。

小川美潮ウズマキマズウ

その声は「宝」です。

 

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199. 2009年の『黒いページ』展カタログ(2017年2月14日)

2009年の『黒いページ』展カタログ

 

2009年は、イギリスの小説家ローレンス・スターン(Laurence Sterne、1713~1768)が『トリストラム・シャンディ(Tristram Shandy)』の第1巻を上梓してから250年にあたり、写真は、それを記念して、ヨーク(York)のコックスウォルド(Coxwold)にあるスターンの旧宅シャンディー・ホール(Shandy Hall)のギャラリーで開かれた展覧会のカタログです。

『トリストラム・シャンディ』は、仕掛けに富んだ小説で、主要人物のヨリック(Yorick)が亡くなったことを悼んで、73ページが黒いページになっています。そのことを踏まえて、73組の作家やアーチストに新たな「黒いページ」を作ってもらい、それを展示したのが「The Black Page」展でした。

展示された、73組プラス1組の「The Black Page」は、「blackpage73」のwebサイトですべて見ることができます。

2011年には、 『トリストラム・シャンディ』169ページのマーブルペーパーにちなんで、169組の作家・アーチストに依頼した「The Emblem of My Work」展も開かれています。

 

岩波文庫版『トリストラム・シャンデイ』

▲岩波文庫版『トリストラム・シャンデイ』(朱牟田夏雄訳、1969年第1刷、写真は1977年の第6刷)の黒いページ

 

「The Black Page」展カタログ

▲カタログの箱をひらくと、カード状の黒いページが74枚が収められています。右に見えるのは、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)がつくった「黒いページ」です。

 

68ミリ×105ミリの枠

▲この『トリストラム・シャンディ』初版と同じ68ミリ×105ミリの枠のなかに、「黒いページ」を作りあげて欲しいと、作家たちに依頼したのかと思われます。作家たちに送られたものと同じものがカタログに収められていました。カタログを求めた人自身の「黒いページ」を作れ、ということなのかもしれません。
『トリストラム・シャンディ』というと、夏目漱石がまず連想されます。漱石が存命なら、どんな黒いページをつくったのだろうと考えます。

 

封筒の中のカードに解答

▲「黒いページ」のカード本体や「The Black Page」webページ上では、それぞれのページの作者名は伏せられていて、謎解きの要素もあります。74組の「The Black Page」とそこに付されたコメントを見ただけで作者の名前を当てるのは、難易度高しです。 展覧会カタログに収められた封筒の中のカードに、それぞれのページの作者名が記されています。

 

刀根康尚の黒いページ

▲ 日本からの参加はYasunao Tone(刀根康尚)のみ。74枚のカードを見ただけでそれぞれの作者名を言い当てるのはとても難しいのですが、刀根康尚の場合、蕪村の句を使っているので、目立ちます。
與謝蕪村が円山応挙から黒犬の絵に賛してほしいと望まれて添えた句「己が身の闇より吼て夜半の秋」が使われています。

「おのが身の闇」ということばは、「The Black Page」と響き合っています。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

Peter Blegvad & John Greavesの『Unearthed』

 

「黒犬」ということで、Peter Blegvad & John GreavesのCD『Unearthed』(1995年、sub rosa)から、「The Black Dog」を。
歌ものではありません。音楽にのせた朗読です。ほとんどが、1994年にピーター・ブレグヴァドが出した掌編集『Headcheese』(Atlas Press)からの朗読。
「The Black Dog」は、1ページちょっとの掌編です。
イギリスの首相だったウィンストン・チャーチルは、自分の鬱(depression)のことを「黒い犬(The Black Dog)」と呼んでいましたが、チャーチルが亡くなった後、その「黒い犬」がイギリス各地をさまようというお話。「黒い犬」は最後にリバプールにたどり着き、丸太(log)のように燃やされてしまいます。
「dog」と「log」をかけているのは、リバプール出身のTHE BEATLESの「A Hard Day’s Night」から。

 

Peter Blegvad『Headcheese』01

▲Peter Blegvad『Headcheese』(1994年、Atlas Press)

 

Peter Blegvad『Headcheese』02

 Peter Blegvad『Headcheese』(1994年、Atlas Press)表紙の違う版

 

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198. 1934年の『西山文雄遺稿集』(2017年1月31日)

1934年の『西山文雄遺稿集』

 

27歳で亡くなった西山文雄(1907~1933)の遺稿集です。
「幸多かるべき未來と、新鋭多角な才學とを抱いたまま、わが西山文雄君が、二十七歳の春を一期に、あたらこの世を去られたのは、昭和八年五月一日だつた」とはじまる序文を堀口大學(1892~1981)が書き、城左門(1904~1976)が編纂し、秋朱之介(1903~1997)が装釘し、岩佐東一郎(1905~1974)が刊行しました。仲間たちによって作られた1冊です。 1934年8月、岩佐東一郎と城左門が主宰する文藝汎論社から刊行されました。

秋朱之介の簡潔な装釘で、凜々しい本です。

 

『西山文雄遺稿集』表紙

▲『西山文雄遺稿集』表紙

 

『西山文雄遺稿集』口絵と扉

▲『西山文雄遺稿集』口絵と扉

『西山文雄遺稿集』の目次は次の通りです。

西山文雄影像(寫眞版)
序  堀口大學(昭和九年盂蘭盆の日)

感想集
  文學論
  葡萄の葉
  秋の慾情
  汽車の中の感想
  巴里目指して ー 四十一夜譚
  mèmoires
  bioc notes ―巴里から―
  ミュジック・ホール四つ
  巴里小景
  Idylle

譯詩集
  二人は默つて居た  トリスタン・ドレエム
  賦  ジアン・モレアス
  リード  ピエエル・キラアル
  ヂエルメンヌ  フランシス・カルコ
  マツクス・ジヤコブ抄
  こひものがたり  ジアン・モレアス
  齢稚くして逝ける者  ホセ・マリア・ドゥ エレディア
  オヂィエ先生(一四〇七年)  アロイジウス・ベルトラン

飜譯集
  さも似たり!  ヴイリエ・ド・リイラダン
  鎖された家  ルイ・メルレエ
  マドムアゼル・P・・・・・・  アンリ・ド・レニエ
  年三十萬法  ジヨルジユ・ドレエ
  招かれた男  トリスタン・ベルナアル
  オスカー・ワイルドの想ひ出  アンリ・ド・レニエ
  マリイ・ロオランサン  ウヂェエン・モンフォオル
  ヂヨルヂユ・ド・ポルト リツシユ  エドモン・セエ
  我が交遊錄  モオリス ド フルウリイ
  (續)我が交友錄  モオリス ド フルウリイ
  愛のことば  ピエエル・ルイス

西山文雄年譜  城左門
「西山文雄遺稿集」編纂覺書  城左門

 

目次と本文のページには違いがあり、入れ替えがあるので、最後まで配列を決めきれなかったのかも知れません。

萩原朔太郎(1886~1942)は、「ふらんすへ行きたしと思へども ふらんすはあまりに遠し」とうたいました。
西山文雄は「ふらんす」へ行くことのできた少数者だったのですが、病を得て帰国せざるを得ず、若くして亡くなりました。

 

『西山文雄遺稿集』には、家藏本と頒布本があります。

『西山文雄遺稿集』頒布本の奥付

▲『西山文雄遺稿集』頒布本の奥付。頒布本は50部。番号は101から150まで。家藏本との違いは、本文用紙が「上質紙」を使用していることです。

 

『西山文雄遺稿集』家藏本の奥付

▲『西山文雄遺稿集』家藏本の奥付。家藏本は100部。番号は1から100まで。本文用紙に、透かし入りの「越前國岡本村杉原商店手漉局紙」を使用しています。

 

「西山文雄遺稿集」の透かし

▲『西山文雄遺稿集』の「西山文雄遺稿集」の透かし。
本文に「未來のイヴ」の文字が見えますが、モオリス・ド・フルウリイ(Maurice de Fleury、1860~1931)のリラダン回想の部分です。

 

「文藝汎論社」の透かし

▲『西山文雄遺稿集』の「文藝汎論社」の透かし。
頒布本の値段が2円で、家藏本の値段が5円です。紙代の差でしょうか。もっとも家藏本は配る本で売る本というわけではないのでしょうが。

装釘の秋朱之介が、透かし入り局紙を特注した杉原商店は越前和紙の老舗で、現在も営業しています。今この透かし入り局紙を使って本を作るとすると、どのくらいの予算が必要なのかと思ったりしました。

西山文雄は、生前、城左門と共訳で、ベルトラン『夜のガスパアル 』を第一書房から1932年に出しています。その『夜のガスパアル』は、秋朱之介の昭南書房から1943年に新版、同じく秋朱之介の操書房から1948年に新装版が出ています。昭南書房・操書房版では城左門の単独訳の形になっていますが、その覚書では、西山文雄との共訳と明記しています。


2008年に国書刊行会から出た『巴里幻想譯詩集』は、『戀人へおくる』『ヴィヨン詩抄』『古希臘風俗鑑』『巴里幻想集』と並んで、『夜のガスパァル』も収録してます。矢野目源一訳の『戀人へおくる』も秋朱之介の操書房から新装版が出ているので、秋朱之介好みの訳詩集とも言えそうです。

 

『巴里幻想譯詩集』

▲『巴里幻想譯詩集』(2008年、国書刊行会)

 

【2022年9月30日追記】

恩地孝四郎(1891~1955)編輯の書物専門誌『書窓』第一巻・第二號(1935年5月10日發行、アオイ書房、發行者・志茂太郎)のアンケートで、「最近の出版書中特に御印象のもの二三」という問いかけに、北園克衛(1902~1978)が「西山文雄遺稿集。F&F・發行の新しい詩集叢學[書?]」と答えていました。
『西山文雄遺稿集』は、1935年の北園克衛が選んだ本でもあったわけです。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

去年の11月、2003年のヒゲの未亡人のCD『ヒゲの未亡人の休日』(5曲収録)が、11曲収録のアナログ盤として復活したので、その中から「三十路の小娘」を。
夏の歌なので、季節はずれではありますが、この、ほんわかとした、たおやめ振りは、女性の衣裳をまとったヒゲの男性が歌っているということを超えて、癖になります。

 

ヒゲの未亡人『ヒゲの未亡人の休日』アナログ盤/表

ヒゲの未亡人『ヒゲの未亡人の休日』アナログ盤/裏

▲ヒゲの未亡人『ヒゲの未亡人の休日』アナログ盤(2016年、 VIVID SOUND)

 

ヒゲの未亡人CD

▲ヒゲの未亡人『ヒゲの未亡人の休日』CD(2003年、Out One Disc)
2003年CD盤と2016年アナログ盤のジャケットを見比べると、色味やトリミングの違いのほかに、レコードの擦れ跡もデザインして古色を出しています。

アナログ盤の「三十路の小娘」は、CDと同音源の再発ではなく、新しい録音で、セリフも少し変更されていました。

2003年CD盤では、

 デパートなんかで買い物してるときに
 今までは目に入らなかった男性用のシャンプー
 歯磨き粉、そしてシェービングクリームなんか
 つい手にとってみてしまう。

という語りバートが、2016年アナログ盤では、

 スーパーなんかで買い物してるときに
 これまでは目に入らなかった男性用のメンソールのシャンプーや
 からそうな歯磨き粉、そして、シェービングクリームなんかを
 カートに入れては、また、棚に戻してしまうのです。

と変わっています。「デパート」という言葉がもつレトロ感と合う曲だと思っていたので、変更の善し悪しは悩むところです。いまどき、「デパート」を歌う人もなかなかいませんし。これが「コンビニ」だと、また景色が変わってくるのでしょう。

そういえば、小川美潮がいたチャクラに「私と百貨店」という曲があって、曲中の「セイカツベンリヒン」や「ぶたこまひゃくください」が、「生活便利品」や「豚こま100(g)ください」のことだと分かるのに、けっこう時間が掛かりました。
「せいかつべんりひん」、なんだが懐かしい響きです。

 

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197. 1967年の『笑いごとじゃない』(2017年1月14日)

1972年の『笑いごとじゃない』

 

あまり知られていないけど面白い小説を挙げてみて、というお題で、真っ先に思い浮かぶのが、アンガス・ウィルソン(Angus Wilson、1913~1991)の『No Laughing Matter』(1967年、Secker & Warburg)。「読んだ」という人と知り合う機会がまだありません。
写真は1972年に出た翻訳版『笑いごとじゃない』(芹川和之訳、講談社)のカヴァーです。

1912年から1967年までのイギリスを舞台にした、中産階級のマシューズ一家の6人きょうだい(長男クェンティン、長女グラディス、二男ルーパート、二女マーガレット、三女スーキー、三男マーカス)が主演の大河小説。それぞれを主人公にして小説6本が成り立つようなアイデアがこの作品に注ぎ込まれています。虚構に存在に思うことでもないのですが、その後のマシューズきょうだい、2017年にはみんな亡くなっているのだろうなあという感慨もあります。

1967年のイギリスというと、ビートルズのアルバム『サージェント・ペッパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド(Sgt. Pepper's Lonely Hearts Club Band)』が出た年ですが、サージェント・ペッパーズに負けないくらいポップでいろんな仕掛けがいっぱいのおもちゃ箱のようでいて、風俗がしっかり描き込まれた小説です。現代の古典とまでは言いませんが、傑作だと思います。

アンガス・ウィルソンの名前を知った切っ掛けは、60年代のニューウェーヴSFの作家マイケル・ムアコック(Michael Moorcock)への讃辞を書いていたことだったような気がします。そうした方面への関心も閉ざすことのない作家でした。

アンガス・ウィルソンの翻訳で単行本になっているものは、ほかに、長編小説で、

世界の文学〈15〉ウォー、ウィルソン(1977年、集英社)収録
永川玲二訳『アングロ・サクソンの姿勢』
Anglo-Saxon Attitudes(1956年、Secker & Warburg)

短編集で、
工藤昭雄・鈴木寧訳『悪い仲間』(1968年、白水社)
The Wrong Set(1949年、Secker & Warburg)

評伝で、
松村昌家訳『ディケンズの世界』(1979年、英宝社)
The World of Charles Dickens(1970年、Secker & Warburg)

があります。アンガス・ウィルソンは、すべての作品が翻訳されていてもおかしくない存在ですが、今ひとつ翻訳の機会に恵まれません。デヴィッド・ロッジ(David Lodge)を翻訳する高儀進のような存在が、アンガス・ウィルソンにもいたら違ったのかなと思います。

 

話は大きく跳ぶのですが、『笑いごとじゃない』というタイトルを見ていて、漢字1文字に仮名で構成されたタイトルというのは、1つのジャンルのような気がしてきて、本棚から引っ張り出して幾つか並べてみました。さすがにジャンルというほどではないですが、ある傾向はあるようです。今回は、「論」「集」「伝」などと仮名の組み合わせのタイトルは省きました。

 

漢字1字プラス仮名03

▲石井桃子の本が並んでしまいました。「石井桃子」的なタイトルのつけ方なのかもしれません。

 

漢字1字プラス仮名01

漢字1字プラス仮名02

漢字1字プラス仮名04

漢字1字プラス仮名05

漢字1字プラス仮名06

特に、漢字仮名交じりの動詞が、ある種の柔らかさを演じているようです。

うまい具合に本を並べれば、探偵小説の仕掛けのように、本棚にメッセージを込めることができるかもしれません。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

bice『let love be your destiny』

昨年12月に、biceの2002年のアルバム『let love be your destiny』のアナログ盤が出ました。
このアルバムから「包んであげる」を。
作曲はbice、作詞は松本隆です。

アナログ盤のジャケットに貼られたシールに「美少女だった。メロディメイカーだった。天才だった。これは彼女の二枚目の傑作。」という小西康陽の言葉があります。その言葉どおりの存在です。
biceのアルバムはどれも素晴らしいのですが、biceのCDが入手しにくくなっている状況での、アナログ盤再発は、うれしいのですが、ちょっと複雑な気分です。biceの音源がいい形で再発されるのを待っています。
biceが手がけたサントラ盤『きみはペット』(2003年、エイベックス・トラックス)も、当時の、悪夢のようなコピーコントロールCD(CCCD)なので、普通のCD規格で出し直してほしいものです。

 

bice『let love be your destiny』A面

▲bice『let love be your destiny』(2016年、Jet Set)アナログ盤A面ラベル

 

bice『let love be your destiny』B面

▲bice『let love be your destiny』(2016年、Jet Set)アナログ盤B面ラベル


bice『let love be your destiny』CD

▲bice『let love be your destiny』(2002年、TOKUMA JAPAN)CD

2002年版『let love be your destiny』CDのブックレットに記載された歌詞には不備があって、
「*歌詞の一部に誤りがありました。お詫びと訂正をさせていただきます。」
と訂正紙が差し込まれています。CD制作の場面で、スタッフに恵まれていなかったのかもしれません。
修正個所を抜き出してみます。

「blossom diary」
【誤】君 La La La…..
【正】君 La La La…..

*2002年の訂正分でも未修正個所が残っていました。2016年版では修正。
【誤】溶けはじめた ソフトクリーム
【正】溶けはじめた ソフトクリーム

「Walking in the rain」
【誤】あえない白い時間を たのしもうなんて
【正】あえない白い時間を たのしもうなんて

【誤】恋はいつか Walk in the rain
【正】恋はいつか Walking in the rain

【誤】雨に濡れて…..
   Walking in the rain
【正】雨に濡れて…..
   恋はいつか(*この詞が脱落)
   Walking in the rain

「ハムラビラヴ」
*訂正分ではタイトルを「ハムラビラヴ」から「ハムラビラブ」に。「ブ」と「ヴ」で逡巡していたようです。2016年版は「ハムラビラヴ」を採用。

【誤】あー消耗してるかもしもしたら
【正】あー消耗してるかもしもしたら
   私とあなたの関係(*この詞が脱落)

「悲しき鳥」
【誤】そっと心を私にあずけてくれればいい
【正】そっと心を私にくれるだけでいい

 

2016年版の歌詞シートでは、これらの間違いは修正されていたのですが、新たな間違いや見落としがありました。ちょっと残念です。

「Talk Talk」
【誤】Walking along in paris, Along an unknown highway.
【正】Walking along in pairs, Along an unknown highway.

【誤】(I miss your stubborness)
【正】(I miss your stubbornness)

 

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196. 2017年1月1日の桜島

2017年1月1日の桜島01

 

奥に高隈山地。

 

196. 2017年1月1日の桜島02

196. 2017年1月1日の桜島03

196. 2017年1月1日の桜島04


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195. 1978年のキャシー・アッカーの声(2016年12月31日)

2016年Peter Gordon & David van Tieghem「Winter Summer」裏ジャケット

 

12月のはじめに、イギリスのFOOM.というインディーレーベルから、ピーター・ゴードン&デヴィッド・ヴァン・ティーゲム(Peter Gordon & David van Tieghem)の「Winter  Summer」という12インチ盤がリリースされました。
写真は、そのジャケットの裏面です。
70年代後半から80年代前半にかけて、ニューヨーク・ダウンタウンに集まった若いミュージシャンのネットワークのなかにあって、ラヴ・オブ・ライフ・オーケストラ(Love of Life Orchetra)の主要メンバーとして確かな存在感を示していた2人が久しぶりに組んだのかと、心が騒ぎました。

届いたアナログ盤を見ると、新しい録音ではなく、1978年の未発表音源のレコード化でした。でも、そこには、70年代・80年代には聴くことのできなかったキャシー・アッカー(Kathy Acker、1947~1997)の声がありました。
「雪が降っている、涙も雪のようにこぼれ落ちる、戻ってきて行かないで」と、後のグロテスクな言葉に満ちあふれた小説家キャシー・アッカーからは想像できないようなリリカルな言葉を語っています。
当時出ていたレコード盤には、キャシー・アッカーの作詞曲はあっても、声がのった盤はなかったので、ほぼ40年越しの驚きでした。

今ならYouTubeやUbuWebなどで簡単に聴くことができるキャシー・アッカーの声ですが、70年代から80年代にかけてニューヨークのダウンタウンで活動していた時期のピーター・ゴードンと一緒の録音は今まで聴くことができませんでした。

「Winter/Summer」のジャケット絵を描いているのは、同じくダウンタウンのアイコンのような音楽家・芸術家のひとり、ローリー・アンダーソン(Laurie Anderson)です。そこに書かれた
  K.A.
  Come back
  Don't forget me
  I will kill you
の文字のうち、「K.A.」はキャシー・アッカーのことでしょう。他のことばは、1978年のキャシー・アッカーが作詞し歌った「Winter」の詞の一節です。

 

Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)のジャケット

▲Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)のジャケット

 

Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)の「Winter」面のラベル

▲Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)の「Winter」面のラベル
レコードの「Winter」の面の内周には
  FM006 - 4  “letting go”  grinser@manmade

 

Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)の「Summer」面のラベル

▲Peter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)の「Summer」面のラベル
「Summer」の面の内周には
  FM006 - 3  “love thy neighbor”  grinser@manmade
と刻まれています。
レコード盤の内周に刻まれたメッセージは、見過ごされがちですが、それを読み解くのもアナログ盤の楽しみのひとつです。

 

ピーター・ゴードンとラヴ・オブ・ライフ・オーケストラといえば、まず1980年のデビュー盤、12インチの「Extended Niceties / Beginning Of The Heartbreak」 です。
1970年代のニューヨーク・ダウンタウンに、現代音楽とディスコを接合する、アヴァンギャルトなポップ・カルチャーが生まれていて、そのシーンの中で「快楽主義的でありながら頭のよい音楽(music that was hedonisitic but also brainy)」をつくろうとしていたキイパーソンの1人がピーター・ゴードンでした。そのシーンは80年代なかばにはしぼんでしまい、今だと、同じシーンから出てきたマドンナのなかにかすかに残っているぐらいなのでしょうが、その頃の音は、今聴いても胸にくるものがあります。一種の感傷かもしれませんが。

「快楽主義的でありながら頭のよい音楽」という訳は、2010年に奇跡的に翻訳された、ティム・ローレンス著・山根夏美訳『アーサー・ラッセル  ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』(P-Vine Books)から。
常に再発見を待っている音楽家、アーサー・ラッセル(Arthur Russell、1951~1992)の評伝ですが、1970年代~1980年代のニューヨーク・ダウンタウンの音楽シーンが持っていた可能性にわくわくすることができる本です。ピーター・ゴードンは、アーサー・ラッセルとともに、いろいろな音楽活動をしていたので、この本ではピーター・ゴードンについても多くのページをさいています。そのため、ピーター・ゴードンについて書かれた数少ない日本語文献の1つになっています。
ピーター・ゴードンやアーサー・ラッセルは、世代的にいうと、ビッグ4と呼ばれたスティーヴ・ライヒ、テリー・ライリー、フィリップ・グラス、ラモンテ・ヤングらの後からスタートした世代にあたります。


Love Of Life Orchestra『Extended Niceties』(1980年、Infidelity、JMB-227)ジャケット

▲Love Of Life Orchestra『Extended Niceties / Beginning of The Heartbreak』(1980年、Infidelity、JMB-227)ジャケット

 

Love Of Life Orchestra『Extended Niceties』(1980年、Infidelity、JMB-227)This Sideのラベル

▲Love Of Life Orchestra『Extended Niceties / Beginning of The Heartbreak』(1980年、Infidelity、JMB-227)This Sideのラベル
This Sideの内周には
  JMB-227-A  MASTERDISK HW  “the Miracle of Tape Record Co.”
と刻まれていて、まさに録音が生んだ奇跡のようなトラックです。この時期のラヴ・オブ・ライフ・オーケストラのもう一人の柱、デヴィッド・ヴァン・ティーゲム(David Van Tieghem)のドラムスの音色が素晴らしいです。ピーター・ゴードンともに共同プロデュースのカート・マンカシ(Kurt Munkacsi)は、フィリップ・グラス(Philip Glass)のレコードを制作してきた人です。

 

Love Of Life Orchestra『Extended Niceties』(1980年、Infidelity、JMB-227)That Sideのラベル

▲Love Of Life Orchestra『Extended Niceties / Beginning of The Heartbreak』(1980年、Infidelity、JMB-227)That Sideのラベル
That Sideの内周には
  JMB-227-B  MASTERDISK HW
と刻まれています。ゲストのデヴィッド・バーン(David Byrne)やアート・リンゼイ(Arto Lindsay)のギターも強烈です。

Peter Gordon と Love of Life Orchestraは、しばらく忘れられたような存在になっていましたが、2007年ごろからクラブDJに発見されたようで、James Murphy & Pat Mahoney『FABRICLIVE 36』(2007年、FABRIC RECORDS)やBetty Botox『mmm, BETTY!』(2008年、ENDLESS FLIGHT)といったコンピ盤に「Beginning of The Heartbreak」が一種のキラーチューンとして採用され、再評価されたようです。さらに2010年には、LCD SoundsystemのDFA RECORDSから、Love Of Life Orchestraのコンピ盤も出て、それ以来、90年代なかばから録音メディアから御無沙汰していたピーター・ゴードンの消息も届くようになりました。

 

James Murphy & Pat Mahoney『FABRICLIVE 36』(2007年、FABRIC RECORDS)

▲James Murphy & Pat Mahoney『FABRICLIVE 36』(2007年、FABRIC RECORDS)
「Beginning of The Heartbreak」で始まります。

 

Betty Botox『mmm, BETTY!』(2008年、ENDLESS FLIGHT)

▲Betty Botox『mmm, BETTY!』(2008年、ENDLESS FLIGHT)
「Beginning of The Heartbreak」を収録。

 

Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Love Of Life Orchestra』(2010年、DFA、DFA2229)

▲Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Love Of Life Orchestra』(2010年、DFA、DFA2229)
アメリカのDFAレーベルからの編集盤CD。

 

Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Another Heartbreak / Don't Don't Redux』(2010年、DFA、dfa2238)a面ラベル

▲Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Another Heartbreak / Don't Don't Redux』(2010年、DFA、dfa2238)a面ラベル
アメリカのDFA RECORDSからの12インチアナログ盤。

 

Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Another Heartbreak / Don't Don't Redux』(2010年、DFA、dfa2238)b面ラベル

▲Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Another Heartbreak / Don't Don't Redux』(2010年、DFA、dfa2238)b面ラベル

 

Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、Foom、FM004)

▲Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、FOOM.、FM004)
Peter Gordonのスタジオ録音アルバムとしては、1995年のPeter Gordon & Love Of Life Orchestra『Quartet』(New Tone Records、nt 6738 2)以来の作品。
出さなかったのか、出せなかったのか。『Symphony 5』というからには、1番から4番も存在するのでしょうが、録音は出回っていないようです。
クレジットには2014年とありますが、アナログ盤は2014年10月の予定が遅れて、2015年2月にリリースされました。

 

Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、Foom、FM004)Side Aラベル

▲Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、FOOM.、FM004)Side Aラベル
  FM-004-A2  BE44101-01 A2  grinser@manmade  “For Kit”
と内周に刻まれています。「キット(Kit)」は、ピーター・ゴードンのパートナー、ヴィデオ作家のキット・フィッツジェラルド(Kit Fitzgerald)。アルバムのアートワークもキット・フィッツジェラルドです。キット・フィッツジェラルドは80年代に坂本龍一のヴィデオも作っていました。

 

Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、Foom、FM004)Side Bラベル

▲Peter Gordon『Symphony 5』(2015年、FOOM.、FM004)Side Bラベル
  FM-004-B  BE44101-01 B1  grinser@manmade  For Max
と内周に刻まれています。「マックス(Max)」は 、ピーター・ゴードンとキット・フィッツジェラルドの息子さん。

 

最近になって、音楽活動が目立つようになってきたピーター・ゴードンですが、個人的に知りたいのは70年代~80年代の活動です。そのころにレコード化されたものは、1980年のLove Of Life Orchestra『Extended Niceties / Beginning of The Heartbreak』のほかに、
Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)
Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)
Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)
がありますが、こうしてレコード化されたもの意外にも、たぶん、今聴いても刺激的な実験や試行錯誤がなされていたと確信しています。

1978年の『スタージョーズ』のクレジットに次のようにあります。

 Special thanks to Kathy Acker, Lt.Col. Ron Al-Robboy, Laurie Anderson, Bob Ashley, Jed Bark, David Behrman, Nick Bertoni, Rhys Chatham, Jane Crawford, William Farley, Mimi Johnson, Jill Kroesen, Arthur Russell, Kermit Smith, Performing Artservices, Inc., The Kitchen Center.

 This Album is dedicated to the artists in the Love of Life Orchestra: Kathy Acker, Ernie Brooks, Rhys Chatham, Kenneth Deifik, Ed Friedman, Scott Johnson, Jill Kroesen, Arhtur Russell, Dave Van Tieghem, “Blue” Gene Tyranny, and Peter Zummo.

このメンバーの Love of Life Orchestra が聴けたらなあと、長年、思ってきました。
その一端が、この12月にリリースされたPeter Gordon & David Van Tieghem『Winter Summer』(2016年、Foom、FM006)ということが分かってきました。今後、ものすごいものが発掘されるのではないかと期待しているところです。

 

Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)

▲Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)
とぼけたタイトルです。録音は1977年。
ちなみに『ジョーズ』の公開は1975年、『スター・ウォーズ』の公開は1977年でした。
Lovely Music, Ltd.は1978年に創業したインディーレーベル。ロバート・アシュレイはじめアメリカの現代音楽をリリースし続けています。
このアルバムでは、 「I'm Dreaming In The Sun And Dreaming In The Moon」と「Lullabye」の2曲にキャシー・アッカーが詞を提供していますが、歌ってはいません。キャシー・アッカーが歌っているラヴ・オブ・ライフ・オーケストラの音源があるのでないかと気になっていました。

 

Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)Side Oneラベル

▲Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)Side Oneラベル
Side Oneの内周には
  LML-1031-A

 

Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)Side Twoラベル

▲Peter Gordon『Star Jaws』(1978年、Lovely Music, Ltd.、LML 1031)Side Twoラベル
Side Twoの内周には
  LML-1031-B

 

Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)

▲Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)
スイスのジュネーブで録音されたファースト・アルバム。

 

Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)This Sideラベル

▲Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)This Sideラベル
This Sideの内周には
  JMB-233-A  EDP  MASTERDISK HW

 

Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)That Sideラベル
▲Love Of Life Orchestra『Geneva』(1980年、Infidelity、JMB-233)That Sideラベル
That Sideの内周には
  JMB-233-B  MASTERDISK HW  EDP

 

Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)

▲Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)
イタリアのレーベルから出た12インチ盤。 ヨーローパツアでベースを担当したジョン・グリーブス(John Greaves)への謝辞があります。

 

Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)LATO 1ラベル

▲Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)LATO 1ラベル
LATO 1の内周には
  EX8-1L  DD  17-6-82

 

Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)LATO 2ラベル

▲Love Of Life Orchestra『Casino』(1982年、ANTARCTICA、Expanded Music、EX 8 Y)LATO 2ラベル
LATO 2の内周には
  EX8-2L  DD  17-6-82

 

Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Geneva & Extended Niceties』(1992年、New Tone Records、nt 6706-2)

▲Peter Gordon & Love Of Life Orchestra『Geneva & Extended Niceties』(1992年、New Tone Records、nt 6706-2)
イタリアでCD再発された、『Geneva』と『Extended Niceties』のカップリング盤。

 

Peter Gordon『Star Jaws』(2008年、Lovely Music, Ltd.、LCD 1031)

▲Peter Gordon『Star Jaws』(2008年、Lovely Music, Ltd.、LCD 1031)
ジャケットを変えた再発CD。

 

たとえば、キャシー・アッカー在籍時の Love of Life Orchestra が、ヒット曲を出してしまっていたら、と夢想することがあります。キャシー・アッカーが、マドンナのようなポップアイコン、カルチュアル・アイコンになっていた世界もありえたかもしれません。

キャシー・アッカーは、どういう経緯かわかりませんが、日本でも90年代に続けて4冊、小説作品が翻訳されました。そして、その後が続きませんでした。「悪趣味」ブームにのった一過性のものだったのでしょうか。

『血みどろ臓物ハイスクール』渡辺佐智江訳、白水社、1992年

▲『血みどろ臓物ハイスクール』渡辺佐智江訳、白水社、1992年(Blood and Guts in High School, 1984年)

 

『アホダラ帝国』山形浩生・久霧亜子訳、ペヨトル工房

▲『アホダラ帝国』山形浩生・久霧亜子訳、ペヨトル工房、1993年(Empire of the Senseless, 1988年)

 

『ドン・キホーテ』渡辺佐智江訳、白水社、1994年

▲『ドン・キホーテ』渡辺佐智江訳、白水社、1994年(Don Quixote: Which Was a Dream, 1986年)

 

『わが母 : 悪魔学』渡辺佐智江訳、白水社

▲『わが母 : 悪魔学』渡辺佐智江訳、白水社、1996年(My Mother: Demonology, 1994年)

1970年代にラヴ・オブ・ライフ・オーケストラのピーター・ゴードンと活動していたキャシー・アッカーが、「小説家」キャシー・アッカーと同一人物と知ったのは、90年代でした。
今ならググればすぐに結びつくものが、かつては気づくのに何十年もかかったというわけです。

 

〉〉〉今日の本〈〈〈

というわけで、今日は、音楽のかわりに、本。ティム・ローレンスの『アーサー・ラッセル』を。

ティム・ローレンス著・山根夏美訳『アーサー・ラッセル ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』(2010年、P-Vine Books)

▲ティム・ローレンス著・山根夏美訳『アーサー・ラッセル ニューヨーク、音楽、その大いなる冒険』(2010年、P-Vine Books)

 

Tim Laurence 『Hold On to Your Dreams: Arthur Russell and the Downtown Music Scene, 1973-1992』(2009年、Duke University Press)

▲Tim Laurence『Hold On to Your Dreams: Arthur Russell and the Downtown Music Scene, 1973-1992』(2009年、Duke University Press)
副題にもあるように、70年代~80年代の「the Downtown Music Scene(ロウアーマンハッタン、ソーホーの音楽シーン)」がいかに面白かったかという本なので、アーサー・ラッセルとも付き合いの長い、盟友的存在としてピーター・ゴードンや ラヴ・オブ・ライフ・オーケストラについても結構詳しく言及している、稀有な本です。

その翻訳の一節。

(1973年頃、ピーター・)ゴードンはサンディエゴのカリフォルニア大学に在学中にケリー・アッカー(同じく本質的に異なる音楽のシンタックスに関心を持っていた)と出会い、自由形式の即興でチャートの上位100位の曲を融合させるポップ・バンドを結成した。
《中略》
(ジル・)クレセンに続いて(ピーター・)ゴードンも1975年2月にニューヨークへ向かい、アッカーと一緒に東5番街の線路沿いのアパートを借りた(ふたりで月150ドルの家賃を折半していた)。

ここに「ケリー・アッカー」とあるのは、キャシー・アッカーの誤記です。さすがに、なんでこんな残念な間違いをするかなと思いました。
というわけで、70年代、キャシー・アッカーとピーター・ゴードンは同居人だったということを、この本で初めて知り、ものすごく驚きました。

この本では、80年代になると、ダウンタウンが不動産価値を持つようになって、家賃が高騰し、ピーター・ゴードンは、ダウンタウンを離れ、ヴィデオ作家のキット・フィッツジェラルドとともに ブルックリンに転居するという展開まで知ることができました。
家賃があがってしまったことが、ポップとはいえアート指向の強かった音楽シーンが消えてしまった理由のひとつだったのかもしれません。

この種の本は日本語訳が出ただけでも感謝なのですが、英語版にあった索引が、日本語版には欠けている、というのは、やはり残念です。

ところで、この『アーサー・ラッセル』の著者ティム・ローレンスは1967年生まれの英国人で、 今年、ピーター・ゴードンとコラボ・アルバムを出した、シャーラタンズ(The Charlatans)のティム・バージェス(Tim Burgess)も 1967年生まれの英国人でした。
ふたりの同い年のティムが、70年代のニューヨーク・ダウンタウンの音楽シーンに憧れていたわけです。

 

Tim Burgess & Peter Gordon『Same Language, Different Worlds』(2016年、O Genesis、OGEN075LPDL)

 Tim Burgess & Peter Gordon『Same Language, Different Worlds』(2016年、O Genesis、OGEN075LPDL)

 

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194. 1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』(2016年12月19日)

1934年のポオル・ジェラルデイ著・西尾幹子訳『お前と私』

 

フランスのポオル・ジェラルデイ(Paul Géraldy、1885~1983)の詩集『お前と私』(Toi et Moi、1912年) の日本語初訳、 1934年の三笠書房版の表紙です。訳者は西尾幹子。序文を佐藤春夫が書いています。

革のクオーター装で表紙に花のモチーフの木版画を配して、秋朱之介(1903~1997)の装釘の中で最もかわいらしいもののひとつかと思います。

『お前と私』は、32編の口語体の恋愛詩からなる詩集で、この1934年版では、男性の「僕」が主語になるので、ほんとうは『お前と僕』というタイトルのほうがふさわしいと思います。ほかの翻訳のタイトルは、1952年の井上勇訳は『お前とわたし』(創藝社)、1988年の水橋晋訳は『きみとぼく』(沖積舎)というタイトルになっています。

この本に訳者の献辞が書き込まれた版を手にすることができました。

 

ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)箱

▲ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)箱

 

ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)扉

▲ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)扉

 

ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)奥付

▲ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)奥付。

 

西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)の見返しと扉の間の遊び紙に書かれた訳者の献辞

▲ポオル・ジェラルデイ著、西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)の見返しと扉の間の遊び紙に書かれた訳者の献辞。

  A Monsieur Odin, Cher Ojisama, je suis heureuse de vous présenter mon premier livre.
  Mikiko
  Le 20 Mai 1934

とフランス語で書かれています。わたしの力ではおぼつかないので、フランス語をふだん使っている友人に尋ねると、次のように訳せるのではと教えてくれました。

  オダンさまに
  親愛なるおじさま
  私の最初の本を贈ることができて嬉しく思います。
  幹子
  1934年5月20日

「A Monsieur 《人名》, Cher Monsieur」というのは献辞や手紙の定型句で、それをもじった「Cher Ojisama」という、初めて見る表現に、他人様への献辞ながら舞い上がってしまいました。
自分が「おじちゃん」としか呼ばれず、「おじさま」と呼ばれたことがないからかもしれません。「Cher Ojisama」は、フランス語を使う日本女性にとっては常套句だったりするのかしらん? 初めて知る表現ゆえに、それが機智なのか、気恥ずかしいものなのか、判断がつきません。

「おじさま」というと、そう話す原節子が思い浮かびます。小津安二郎の『晩春』(1949年)で 笠智衆の友人役の三島雅夫が、原節子から「おじさま」と呼ばれていました。 「おじさま、新しい奥様おもらいになったんですって?  なんだか不潔よ。きたならしいわ」と原節子に言われる場面はすばらしいのですが、「おじさま」ということばを使う女性たちがいた文化圏に、この「Cher Ojisama」もあったような気がします。

 

1934年の『お前と私』の訳者、西尾幹子がどういう人なのかについては、今のところ、手がかりがほとんどありません。まずは、分かっていることを並べてみます。

【1】秋朱之介編輯の書物誌『書物』はつはる瑞月號(1934年1月、三笠書房)の『お前と私』近刊広告の記述から、フランスに滞在していたことがわかります。

《附記、ポール・ジェラルデイ(Paul Géraldy)のお前と私(TOI ET MOI)巴里ストツク書房刊(Librairie Stock)の本書は三十二聯の戀愛詩集である。本志にはそのはじめの二聯を西尾幹子女史の譯稿に依つて發表した。因に西尾女史は最近巴里から歸朝された若い女流作家である》單行本として三笠書房から刊行される本書には佐藤春夫山内義雄の兩氏から序文がいたゞけることになつてゐる、佐藤・山内氏の推薦なら安心してよからう。編輯者記。

【2】『お前と私』の佐藤春夫の序文 ― 「稿本「お前と私」の本文をまへにある餘白に記して譯者に與ふ」

 なんの氣どりも身ぶりもなくほんのふだんのままのさつぱりした言葉で、色戀の沙汰をおもしろく歌ふといふのではなく、つい打明け話に語り出したともいふべき。うぶな僞らぬ心のすがたを報告してゐるところにこの詩集の時と場所とを限らぬ深い値打もあり、現代の戀愛詩としての大きな意味もあるらしいのですね。抒情的詩といふより寧ろ心理的なのですか。原作はわかりませぬながら御譯稿の再三改まつて行つたあとを點檢すると自然にのみこめました。なんの氣どりもなくほんのふだんのままのさばさばした言葉でといふことがこの詩集にとつてどれほど大切な役目をしてゐるかを篤と御存じなだけに御苦心の並大ていでなかつたのはお察し出來ます。何しろ儒教の感化で、情愛の表現などは古來禁じられてそんな表現の一言だつてない我國の現代日本語からそれを珠數つなぎにしてみつけ出さうといふのですから新國語を創造するといふやうなわけですね。無理なところや及ばぬところはあなたの才能や努力の不足ではなく日本語そのものの不足ですよといふのは譯者を慰める言葉でもありますし同時に自家辯護でもあります。――度々相談を受けながら力及ばなかつた僕ですから。
 幸に山内さんがまづまづこれ位ならと仰言つて下さつたなら、一まづはここら位であきらめるとして、あとは宿題となさることですね。品位ある率直な潑溂たる情愛の表現。それはあなただけの宿題ではなく將來の日本語の宿題として新日本の全青年子女に殘されるでせう。この解決し難い大問題の提出があるためにこの書は廣く深く愛讀される筈です。あなたの仕事は嚴密には未完成ですが、それでも有意義な仕事である所以です。この至難なしかし成否の如何を問はず最も有意義な仕事を見つけ出して下さつた山内さんに感謝を捧げるべきでせう。
  一九三三年十二月十一日夜

近刊予告にあった山内義雄の序文は本には掲載されませんでした。 このテキストは、秋朱之介編輯の書物誌『書物』はつはる瑞月號(1934年1月、三笠書房)にも掲載されています。

【3】国会図書館が所蔵する西尾幹子の本は、『お前と私』だけでした。
ほかの所蔵書では、佐佐木信綱の竹柏会『心の花』1929年8月号に、西尾幹子の寄稿があるようです。
竹柏会というと、木下利玄、川田順、前川佐美雄、相馬御風、新村出、九条武子、柳原白蓮、片山広子、村岡花子といった人の名前が連なるところですから、そうしたサークルの中にいたとも推測されます。

【4】公共図書館で西尾幹子訳『お前と私』を所蔵しているのは、熊本県立図書館。
熊本に縁のある人の可能性があります。熊本には、西尾という地名も姓もあります。

 

西尾幹子訳『お前と私』を、2016年の今読むと、古くなった口語の実験作という印象は否めません。話し言葉で書かれた恋愛詩の翻訳ということなのですが、佐藤の序文にあるように、恋を伝える話し言葉として決して成功しているとはいえません。ぎこちないのです。もっとも、ぎこちなさは恋する言葉のなかでは重要な意味をもちますが、そのぎこちなさとは違った、恋以前のぎこちなさです。ほんとうに「何しろ儒教の感化で、情愛の表現などは古來禁じられてそんな表現の一言だつてない我國の現代日本語からそれを珠數つなぎにしてみつけ出さうといふのですから新國語を創造するといふやうなわけ」だったのでしょう。

その工夫のひとつというか、苦し紛れのものだったのかもしれませんが、「ね」という間投詞の多用があります。そうした間投詞を使った部分を抜き出してみます。

  ぢや、よく解るやうに、よく感じさせるやうに、
  どうしたらいゝんだらう。(1 思ひを語る)
  こんな風にお前を抱いて、、可愛いゝひと、(1 思ひを語る)

  あゝ! 此の人達は、、お前、(3 悲しみ)
  取り返しのつかない事だ。。(3 悲しみ)

  ね、愛し合つて居ると僕が言つて居るんだから!(4 平静)
  僕達はあるがまゝで居やう!・・・・・・えゝ、、(4 平静)
  僕もそうはならないよ。、何。(4 平静)
  習慣さ。人は慣れる。。(4 平静)
  ひとりぼつちな感じがする・・・・・・、(4 平静)

  かさをすこし下げてくれ、? その方がいゝ。(5 かさ)
  何ていゝ氣持だらう! 、何、(5 かさ)

  心變りですつて? まあ、出來る事ちやありません!(8 ピアノ)
  ばかなまねだの、やきもちなんで、、(8 ピアノ)
  さあ、これがあなたの爲に作つた

  別れる! 二人が! ? 別れられるつて?(9 瞑想)

  仕事をお止め、横になり、こゝへ、!(12 やさしさ)
  見える、。解つたかい。(12 やさしさ)
  すつかりいふよ、お前(12 やさしさ)
  つまり、ほらね。(12 やさしさ)
  本當かい、、本當かい・・・・・・(12 やさしさ)

  ね、何故なのさ。此間、あんなに、(13 なだめる)
  だが、、今度は僕から始めたのぢやない。(13 なだめる)
  簡單なんだ。、ほら、《先がたは愛し合つて居た》と。(13 なだめる)
  それで、、お前に二人共幸せだつて事が、(13 なだめる)

  僕は悲しい、うん、本當なんだ。(14 試鍊)

  お默り、! コルサージュを外させておくれ、(18 説明)
  お前の言ひたい事は、お前(18 説明)

  あゝ! いぢわるをしないでくれ、!(20 敗北)

  ね、こんな風に、大した用もない手紙を(23 手紙)
  毎日僕がお前に言ふのは、、(23 手紙)

  おゝ! 泣くのはお止し、! どうなるものぢやない。(27 聲のひゞき)
  まあ、いゝ! 間ちがつてるのは僕だ、! 大間ちがひだともさ。(27 聲のひゞき)
  もううちきりだよ! 。もうお前氣を惡くして居ない。(27 聲のひゞき)
  ほんのちよつぴりですか。さあ、奥様。、そうれ、(27 聲のひゞき)
  さあ! 抱き締めて下さい。。それで。おしまひ。(27 聲のひゞき)

  どんな努力をしなければならないんだ、、(32 終局)
  ぢや、此處にお出で! いゝともお出で、!(32 終局)
  おすわり、! 僕のそばで又退屈おし、(32 終局)

「ね」に頼りすぎていることは否めないのですが、新しい形の愛を語る言葉を形にしようとして「品位ある率直な潑溂たる情愛の表現」を手探りしている姿勢を否定することはできません。


この西尾幹子の献辞が書き込まれた本には、西尾幹子だけでなく、ほかの人に手による書き込みもありました。
それをもとに、この本の来歴をたどってみます。

昭和9年(1934)2月15日印刷、2月20日発行。三笠書房。装釘者は秋朱之介。
限定500部の本で、番号は9番。著者分の本ということでしょう。

限定版番号

 

昭和9年(1934)5月20日

 A Monsieur Odin, Cher Ojisama, je suis heureuse de vous présenter mon premier livre.
 Mikiko
 Le 20 Mai 1934

という献辞とともに、訳者の西尾幹子から「オダン」おじさまに贈られる。

 

昭和20年(1945)5月某日、「オダン叔母さん」から前所有者へ贈られる。見返しに次の書き込み。

 オダン叔母さんより
 昭和廿年五月某日
 《前所有者の署名》

オダン叔母さんは、在日フランス人オダン氏に嫁いだ日本人女性でしょうか? その女性から甥っ子に譲られたようです。
昭和20年5月といえば、東京の大空襲も連想されます。

 

平成28年(2016)、京都の古書店から売りに出される。

 

西尾幹子訳『お前と私』に差し挟まれた楓の葉のしおり

▲西尾幹子の献辞が書き込まれた『お前と私』には、楓の葉のしおりが差し挟まれていたページがありました。
そこには、次の詩句がありました。

  僕の記憶は、もつと忠實だ。
  たしかにいくらかは線をもつれさせ、輪郭を崩し、
  ぼんやりとした外見をなほかすませたが・・・・・・
  然し此の上もない美しい思ひ出に
  記憶は愛の味を止めて居た。
  記憶は僕の幸福を保存して、
  どんな幽かな呼聲にでも、
  それをもたらしてくれる、
  幸福の和やかさ、趣き、
  空の高さと共にね。
  僕が樂しい思ひ出の中に生きようとする時、
  記憶にしかそれを望むことは出來ない。

秋朱之介の装釘ということで手に入れた本ですが、そこに秘められた由縁に、ちょっと気圧されそうです。
今のところ、訳者をはじめ、もとの所有者たちがどういう人たちなのか分からないままなのですが、過剰なくらいロマンチックな気配を勝手に感じています。

 

【追記】
西尾幹子のその後について分かったことを、次の回で書いています。

第231回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』(2018年4月5日)
第232回 1956年の『POETLORE(ポエトロア)』第8輯(2018年4月30日)
第239回 1960年の石邨幹子訳 マリイ・ロオランサン『夜たちの手帖』特製本(2018年7月13日)

 

【2024年2月10日追記】

日佛會館編『日佛文化』新第六輯(1934年7月7日発行、日佛會館)の「日佛會館雜報」に、次の記述がありました。

一、日本研究家にして日本美術の好愛者たるユルリック・オダン氏は引き續き學賓として當館に宿泊。日本美術の研究を續けたる外日佛々教學院に關する事務を取扱ひつゝありし處、杉並區東荻町十三番地に新邸建築成り昭和八年十一月末日退館せり。昭和九年三月當會の爲めに「日本藝術と昨今の佛蘭西人」なる氏の貴重なる蘊蓄を披瀝せる興味ある講演をなせり。

西尾幹子が本を贈ったオダンおじさまは、このユルリック・オダン氏でしょうか。


〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

それこそトワ・エ・モアのレコードやCDでもいいのですが、考えれば、手元には1枚もありません。そういえば、ジェラルデイの『トワ・エ・モア』の詩がもとになったとも思われる日本のヒット曲の一節がありました。
『そして僕は途方に暮れる』(作詞:銀色夏生 作曲:大沢誉志幸)の「見慣れない服を着た君が今 出て行った」という部分。
水橋晋訳『きみと ぼく』(1988年・2005年、沖積舎)だと、
  きみはぼくの知らない新しい衣服を着て、街を歩いているだろう。(XXXII フィナーレ)
西尾幹子訳『お前と私』(1934年、三笠書房)だと、
  僕の見覚えのない着物を着て、お前は通つてしまふだろう。(32 終局)

それはさておいて、「et」「and」「と」という接続詞からまず連想された曲は、新ミックス盤が出たばかりのKing Crimson 「Neal And Jack And Me」(1982年)で、とはいえ、ビートニクのニール・キャサディとジャック・ケルアックと(たぶん読者の)僕の世界は、『トワ・エ・モア』の世界とは遠すぎて、さすがにこれは違いすぎるなと感じて、Slapp Happyのメンバー、ピーター・ブレグヴァド(Peter Blegvad)の2作目のソロアルバム『Knights Like This』(1985年、Virgin)からのシングル曲「Pretty U Ugly I」を選びました。
80年代の音を聴くときには、時に苦痛を伴うもので、古びて聴こえる音色の中から、音楽を引き出す作業が必要に感じるときがあります。当時の音のままがいいと思うものがある一方で、今の音色でリメイクしたものを聴いてみたいアルバムもありますが、これは後者と感じます。


Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤ジャケット

▲Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤ジャケット。ジャケットの絵もPeter Blegvad。

 

Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤A面ラベル

▲Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤A面ラベル。レタリングもピーター・ブレグヴァド。

 

Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤B面ラベル

 Peter Blegvad『Pretty U Ugly I』(1985年、Virgin)12インチ盤B面ラベル。

 

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193. 1974年の富岡多恵子『壺中庵異聞』(2016年12月15日)

1974年の富岡多恵子『壺中庵異聞』

 

富岡多恵子の小説『壺中庵異聞』は、最初、栃折久美子カバーの集英社文庫(1978年)で読みました。最初はあまりピンと来なかった気がします。今でも上出来の小説とは思えません。でも、なんというか、痛みの残像のようなものが心に残っています。

1974年に文藝春秋から出た単行本を古本屋で見つけて、はじめてその世界の肌ざわりが感じられるような気がしました。けれんみがありつつ、こじんまりしている、1974年の空気です。
例えば、1968年と1980年と比べて、その1974年とはどう違うのかと聞かれるかもしれません。説明するのは難しいです。それを説明する言葉をまだ持っていないという、説得力のない話になります。感覚的には違いは分かるのだけど、なんとも言語化するのがもどかしい時代感覚みたいなものです。この本は、間違いなく「1974年」なのです。

外連の連発でできたような横尾忠則の装幀です。

『壺中庵異聞』は、「雛本」と呼ばれた小さな限定本づくりにのめり込んだ人々をめぐる小説で、主人公・横川蒼太は、平井蒼太(1900~1971)がモデルです。江戸川乱歩(1894~1965)の弟で、本名は平井通です。
ほかの主要登場人物では、パトロン的存在「橘村好造」は峯村幸造、雛本に挿画を提供する版画家「沼田ミツオ」は池田満寿夫(1934~1997)、「わたし」は富岡多恵子がモデルになっています。

物語は、富岡多恵子と池田満寿夫の別れとも重なっていて、その別れ話を後腐れのないように取り仕切った「橘村好造」(峯村幸造)の存在に感心したりもしました。

昔から、もめごとをうまく収めることのできる人に、あこがれます。例えば、ウィリアム・モリス(William Morris、1834~1896)のケルムスコット・プレス(Kelmscott Press)を、モリスの没後、見事に店じまいさせた、シドニー・コッカレル(Sydney Cockerell、1867~1962)のような存在です。できた人だなあと感心します。『壺中庵異聞』のなかの「橘村好造」(峯村幸造)にもそれに近いものを感じたわけです。

 

富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋) カバーと帯

▲横尾忠則装幀の富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋) カバーと帯

 

富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)カバー

▲横尾忠則装幀の富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)カバー

 

富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)表紙

▲横尾忠則装幀の富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)表紙

 

富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)見返し1

▲横尾忠則装幀の富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)見返し1

 

富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)見返し2

▲横尾忠則装幀の富岡多恵子『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)見返し2

 

秋朱之介は、本名は西谷小助といい、ほかに西谷操や山茶庵主人などを名のっていましたが、平井通は、より多くの筆名を持っていました。『壺中庵異聞』では、筆名をさらにフィクション化することはあきらめたのか、平井通が使っていた筆名をそのまま列挙しています。

 牡丹蝶太郎(小説)
 牡丹耽八(小説)
 書鬼海二(書物考証)
 耽好洞主人(風俗読物)
 横山三郎(風俗考証)
 横山徹(風俗考証、川柳)
 薔薇蒼太郎(小説)
 壺中庵(古書通信販売)
 真珠社(雛絵本出版)

今年の春、古書店で、『グロテスク』『古今桃色草紙』『變態資料』『奇書』『風俗資料』『談奇黨』『猟奇畫報』『藝術市場』『變態黄表紙』『人間探究』『あまとりあ』『愛苑』などの雑誌のかたまりを分けてもらいました。まだ整理はしていませんが、その中に、これらの名前はちょくちょく登場しています。 平井通の一巻本アンソロジーがあればいいなと思うのですが、まだないようです。

『壺中庵異聞』では、横川蒼太一周忌の集まりが描かれています。その集まりのことを、斎藤夜居が『愛書家の散歩』(1982年、出版ニュース社)中の「私の好きな愛書家たち――平井通 壺中庵の通信販売」で書き残しています。

私は、今手元に残されているこの目録を眺めているうち、彼(平井通)の没後一年目に、昭和四十七年十月のことだった、赤坂の料亭で、書痴往来社主でもあり、少なからず平井通さんのため経済的助力をおしまなかった人と伝えられる、峯村幸造氏が主宰し、彼を偲ぶ会が催されたことを思い出した。峯村さんは少雨荘直系の愛弟子で、元同所にあった永井荷風の発禁本『ふらんすものがたり』を相続したことでも知られている。
この時の発起人は、同氏のほか坂本篤、長尾桃郎、池田満寿夫、根本治、保田敏雄、富岡多恵子、八木福次郎、岡沢貞行、今村秀太郎、等々の諸氏が名をつらね列席した。ほかにマツ未亡人、乱歩氏ご長男の平井隆太郎教授も来賓として出席された。参会者の顔ぶれまた多彩をきわめたがここではふれない。この種の追悼会としてはまったく珍らしい盛会だったことだけをお伝えしておく。

秋朱之介の『書物游記』の特装版に池田満寿夫のリトグラフが使われたのは、峯村幸造と池田満寿夫のつながりがあったからだったのかもしれません。
ふと思ったのですが、豆本の収集家だった今井田勲や坂本一敏は参加しなかったのでしょうか。それとも付き合うグループが違っていたのでしょうか。


『壺中庵異聞』は、小説と評伝の間でゆらいでいます。カタルシスはありません。小さな世界に閉じてはいるけれど、どこか底の見えない計り知れない存在を感じさせて、それが1974年の空気と重なり、なんだか離れがたい作品です。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

1974年『Slapp Happy』

1974年の音楽にはいろいろ思い入れがありすぎて、自分でも困ってしまいます。
今日は、Slapp Happy 1974年のアルバム『Slapp Happy』(1974年、Virgn)から「Slow Moon's Rose」を。
熱を鎮めてくれます。

 

『Slapp Happy』の歌詞ブックレット

▲Slapp Happy 『Slapp Happy』の歌詞ブックレット

 

『Slapp Happy』のA面ラベル

▲Slapp Happy 『Slapp Happy』のA面ラベル

 

『Slapp Happy』のB面ラベル

▲Slapp Happy 『Slapp Happy』のB面ラベル

 

CASABLANCA MOON / Slow Moon's Rose 』(1974年、Virgin)のA面ラベル

▲Slapp Happyのシングル盤 『CASABLANCA MOON / Slow Moon's Rose 』(1974年、Virgin)のA面ラベル

 

『CASABLANCA MOON / Slow Moon's Rose 』(1974年、Virgin)のB面ラベル

▲Slapp Happyのシングル盤 『CASABLANCA MOON / Slow Moon's Rose 』(1974年、Virgin)のB面ラベル

スラップハッピーが活動再開したというニュースは知っていたのですが、2000年5月の、あの素晴らしいコンサート以来の来日が、9月には決まっていたことは知らず、あたふたしています。

 

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192. 1995年の峯村幸造『孤拙優游』(2016年11月30日)

1995年の峯村幸造『孤拙優游』

 

秋朱之介『書物游記』(1988年、書肆ひやね)には、1988年1月16日、横浜本牧の秋朱之介の自宅で開かれた座談会を記録した別冊がついています。
そのメンバーは、秋朱之介、齋藤専一郎、岡澤貞行、伊藤滿雄、佐々木桔梗、比屋根英夫、峯村幸造、荻生孝。
書物の収集家、「書痴」といったほうがいい人たちの集まりです。

そのうちの一人、峯村幸造が古稀を迎えたときに出した本が『孤拙優游』です。大正14年(1925年)2月28日生まれとあります。富岡多恵子の小説『壺中庵異聞』(1974年、文藝春秋)の登場人物、橘村好造は峯村幸造がモデルですが、小説中の橘村は40歳代だったわけです。

版元の鹿鳴荘の主人も、同じく座談会参加者の伊藤滿雄です。

峯村幸造は、インテリアの施工会社を経営する一方、「趣味のない人生ほど寂しい人生はないと考える私にとって、私の趣味は本であり、書物である。その研究と蒐集である」「 私の場合、趣味は本一本にしぼって、ゴルフ・マージャン・カーといったものには全く見向きもしなかった」の言葉の通りの書物収集家として知られています。

『孤拙優游』は、近しい人に贈られた少部数の本ですが、私は古書店で手に入れました。

 

峯村幸造『孤拙優游』扉

▲峯村幸造『孤拙優游』扉

 

峯村幸造『孤拙優游』扉

▲峯村幸造『孤拙優游』奥付。平成七年七月七日刊で「777」です。

 

峯村幸造『孤拙優游』扉

▲『孤拙優游』に挟まれたしおりに、その造りが記されています。とても贅沢な造りです。

著者は、峯村幸造
表紙は、菅原匠の藍染手織麻布地
本文紙は、土佐雁皮楮溜手漉紙
見返紙は、草木染手漉紙
遊印は、中国・杭州・西冷印社
蔵書票は、高橋輝雄の〈良寛・長歌・冬ごもり〉より
印刷は、精興社の新鋳活字原版刷
刊行は、鹿鳴荘

「跋文拙語」に「最後に、株式会社精興社専務取締役・上神寛並に営業部長・川原豊の両氏の御尽力により日本一の精興社活版印刷の歴史的最終版として、本書を刊行された、鹿鳴荘主人・伊藤満雄氏に深甚なる謝意を表する次第である。」とありますので、精興社の最後の活版印刷本ということのようです。そういう意味では歴史的な1冊です。

 

峯村幸造『孤拙優游』見返しの蔵書票

▲峯村幸造『孤拙優游』見返しの蔵書票。高橋輝雄の〈良寛・長歌・冬ごもり〉より。

100ページに満たない本で、収録されている文章も次の5編。

友人・池田満寿夫
吾書師・故小雨叟・斎藤昌三先生に捧ぐ
良寛・漱石・秀雄・鱒二
善友師教―岩波文庫『良寛詩集』閑話
跋文拙語

こういう簡潔なスタイルの本もいいのですが、まだまだ、この味はわたしには分からないのかも知れません。
斎藤昌三とともに書物誌『書痴往来』を刊行し、『銀花』『別冊太陽』『暮しの創造』などに書物エッセイを寄稿していた峯村幸造ですから、500ページぐらいに本への過剰な愛が詰め込まれた本も見てみたい気がします。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

かえる目『主観』(2007年)

かえる目(「かえるめ」でなく「かえるもく」)の5年ぶり4枚目のアルバムが出たので、1枚目から聴いています。
1枚目のアルバム『主観』(2007年、compare notes / map)の帯にあった「おっさんの体にユーミンが宿る!」は嘘ではありませんでした。『主観』から、 「あの寺へ帰りたい(弁慶の引き摺り鐘の伝説)」 を。

 

かえる目『惑星』(2009年)

かえる目『惑星』ソングブック

▲かえる目『惑星』(2009年、compare notes / map)

 

かえる目『拝借』(2011年)

かえる目『拝借』ソングブック

▲かえる目『拝借』(2011年、compare notes / map)

 

かえる目『切符』(2016年)

かえる目『切符』ソングブック

▲かえる目『切符』(2016年、compare notes / map)
新作の帯には「メンバー、大絶賛!」とあります。 ユーミンだけでなく、昭和歌謡のエッセンスがおっさんの体に宿っています。

いずれも、ソングブックが付録でついているお店で購入。『主観』のソングブックもあったような気がするのですが、こうした小冊子は一度所在を把握できなくなると、見つけるのが難しく、ほんとうにあったかどうかも記憶はあいまいです。

 

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191. 1980年の今井田勲『雑誌雑書館』(2016年10月27日)

1980年の今井田勲『雑誌雑書館』箱表紙

 

鹿児島出身の出版人で、大きな仕事をしたにもかかわらず、鹿児島ではほとんど名前を聞くことのない人のひとりに、今井田勲(いまいだいさお、1915~1989)がいます。

三枝佐枝子との共著『編集長から読者へ』(1967年、現代ジャーナリズム出版会)にある、自分で書いたと思われる略歴には次のようにあります。

1915年(大正4年)鹿児島県(南種子町)に生まれる。年少より文学志望、長じて編集者を志し、主婦の友社記者となる。戦中大東亜出版文化協会に転じ、応召、ラバールにて捕虜となる。収容所においても持ち前の編集者魂から、ガリ版雑誌を発行、復員後ただちに「婦人の国」創刊。婦人書房経営後、1951年(昭和26年)、文化服飾学院出版局(現・文化出版局)「装苑」編集長となる。その後「ハイファッション」、「ミセス」、「銀花」などの雑誌を創刊、編集長を兼ねる。

今井田勲編集の「装苑」「ハイファッション」「ミセス」「銀花」などのバックナンバーを並べれば、1950年代~1980年代の日本のある一面がくっきりと浮かび上がるのではないでしょうか。そのアーカイブにアクセスできる場所が鹿児島にもあればいいのですが、今のところ、ないようです。

1980年の『雑誌雑書館』(書肆季節社)は、1950年代~1970年代に、自身が編集する「装苑」などに書いたものもありますが、 主に自社刊行物以外の「婦人公論」「婦人画報」「朝日新聞」「毎日新聞」「週刊文春」「主婦と生活」「新女性」「文藝春秋」「日本経済新聞」などに寄稿した文章をまとめた本です。鹿児島県立図書館と鹿児島市立図書館で検索してみたのですが、所蔵していませんでした。今井田勲の『編集中記』『鶏留啼記』も所蔵していません。

今の言葉で言えば、鹿児島から「ガン無視」にあっているみたいなものです。

 

今井田勲『雑誌雑書館』(1980年、書肆季節社)扉

▲今井田勲『雑誌雑書館』(1980年、書肆季節社)扉

 

今井田勲『雑誌雑書館』(1980年、書肆季節社)奥付

▲今井田勲『雑誌雑書館』(1980年、書肆季節社)奥付

『雑誌雑書館』から、桜島について書いた部分を引用。

 桜島は世界で最も美しい山である。世界中回ってみたけれど、身びいきでなく、こんな美しい山はどこにもない。ナポリから見たベスビヤス山を世界一の景観だと言うが、これは桜島を知らないヨーロッパ人の自慢にすぎない。鹿児島を東洋のナポリだという言葉に反撥して、冗談じゃない、ナポリがヨーロッパの鹿児島なのだといったのは、大佛次郎で、これにまったく同感である。桜島は錦江湾をはさんで鹿児島市の西四キロのところに位する約千百メートルの活火山で、いまでも噴煙を噴きあげている。朝は鹿児島市からは逆光になってやや霞んで見え、その情緒もまた捨て難いものがあるけれど、順光になった午後から夕刻にかけての景観はまさに一つのパノラマを見ているようである。山はもとより空も海も刻々に変化してゆく。一日に七色に変化するといわれている。だから梅原龍三郎をはじめ多くの画家がこれに挑んできた。

故郷愛を感じます。一方で「ふるさと」について次のようにも書いています。

 ふるさとはなつかしくありがたいものだがただ一つだけ警戒しなければならないことがある。それは過剰な郷党意識である。何々県人会とか何々郡友会などというものがよくあるが、そしてそれはそれなりに意義もあるとは思うしあるときはずいぶん美しい光景だとも感ずるけれど、度がすぎるといただけなくなる。郷党人だけで団結して排他的になったり、郷党人のゆえをもってかばいすぎたりする。むかしは薩長土肥などといって、その国出身者はだいぶ羽ぶりをきかせたものだそうだが、パリにゆくのに一日もかからないいまは、すでにしてナンセンスとしか映らない。北海道人も東北人も九州人もあったものではない。ふるさとはありがたいものではあるけれど、ふるさとによって人間の価値はかわらない。ふるさとは遠きにありて思うもの――それだけでふるさとの意義は充分である。

この距離感が、今井田勲を今の鹿児島から遠ざけているのでしょうか。

 

今井田勲『鶏留啼記』(1978年、湯川書房)

▲今井田勲『鶏留啼記』(1978年、湯川書房)「ミセス」連載、1976年(昭和51年)新年号から1977年(昭和52年)12月号まで。

 

今井田勲『編集中記』(1981年、書肆季節社)

▲今井田勲『編集中記』(1981年、書肆季節社)「ミセス」連載、1978年(昭和53年)1月から2年間。
『鶏留啼記』『雑誌雑書館』『編集中記』の装幀は、政田岑生。

 

銀花第11号(1972年9月)

銀花第58号(1984年6月)

▲今井田勲が「編集人」時代の「銀花」から、川上澄生を特集した第11号(1972年9月)と芹澤銈介を特集した第58号(1984年6月)。表紙構成は杉浦康平。

「銀花」誌は、1967年~2010年の間に刊行された雑誌ですが、その間に本の装幀についても数多く取り上げています。
今、秋朱之介(西谷操、1903~1997)への関心もあって、もしかしたら、「銀花」で秋朱之介(西谷操)を取り上げていなかったかと、調べたかったのですが、鹿児島で「銀花」のバックナンバーを揃えているところを、今のところ見つけられません。個人だと置く場所を考える大きさになりますから、公の施設で今井田勲の編集した雑誌を揃えていたら、それだけでも大きな意義があると思うのですが、難しいのでしょうか。

 

井田勲『私の稀覯本〈豆本とその周辺〉』(1976年1月、丸ノ内出版)

▲今井田勲『私の稀覯本〈豆本とその周辺〉』(1976年1月、丸ノ内出版)

今井田勲は、本の収集家、とくに豆本の収集家としても知られており、その方面の著書もあります。
本の装幀・本の収集という点で、今井田勲と秋朱之介(西谷操)との間に共通する人脈があり、2人につながる縁はなかったのかと考えることがあります。実際に具体的な本の形に実を結んだ作品はないので、つながりはなかったのでしょうが、だれかがうまくプロデュースすれば、いいものが生まれたのではないかと、なんだか惜しい気がします。

今井田勲の蔵書は、遺族の意向で創価大に寄贈されたと聞きます。鹿児島に持ってくる豪腕、いなかったかなあと思わぬでもありません。

 

今井田勲編集の雑誌を評価したものでは、次の3冊がおすすめです。

金井美恵子『昔のミセス』(2008年8月、幻戯書房)

▲金井美恵子『昔のミセス』(2008年8月、幻戯書房)

 

江刺昭子 『ミセス』の時代(2014年11月、現代書館)

▲江刺昭子 『ミセス』の時代(2014年11月、現代書館)

 

『アートディレクター江島任 手をつかえ』2016年6月

▲『アートディレクター江島任 手をつかえ』2016年6月
 編集、装丁、デザイン 江島任の本制作委員会
 発行 木村裕治 木村デザイン事務所
 発売 リトルモア

今年の初夏、今井田勲編集長時代の「ミセス」「ハイファッション」誌のアートディレクター江島任(えじまたもつ、1933~2014)のモノグラフが出ました。 その最後のページに、

今井田勲は立派な仕事をしたと言われて、そこそこ江島もしたっていうことが残ればね、後は若い連中がやってくれますよ、って

ということばが引用されています。

今井田勲が「立派な仕事」をしても、それを見てもくれない、思い出してもくれない「ふるさと」というのは、なんだかさびしいところです。
個人的には、今井田勲は苦手なタイプなのですが、それでも、今の鹿児島における「ガン無視」状態は、普通ではない感じがします。

他力本願ですが、「若い連中」のなかに、これは絶対適任者がいるでしょうし、鹿児島のだれかが、今井田勲再評価をやってくれないかと期待しています。

 

〉〉〉今日の音楽〈〈〈

 

さよならポニーテールの『青春ファンタジア』

今井田勲とはまったく関係ありません。
最近の作業用音楽から、さよならポニーテールの『青春ファンタジア』(2013年、EPIC RECORDS)を。

音楽学校の「荒井由美」「シューゲイザー」特講やらを受講した後、レポートとして作成された出来すぎのデモテープのような「既聴感」が好き嫌いの分かれ目かもしれませんが、心地よいです。「青春」の「ファンタジア」が、これでもかと展開されています。

顔出しなしで、ライブ活動をせず、SNS経由の録音と、メンバーが描くコミックで各キャラクターが代理され、バンドになっているのですが、成り立っているのがすごいなと感心します。

 

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