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my favorite things 131-140

 my favorite things 131(2014年1月7日)から140(2014年7月26日)までの分です。 【最新ページへ戻る】

140. 1974年のロバート・ワイアット『ロック・ボトム』(2014年7月26日)

1974Wyatt_Rock Bottom01

ちょうど40年前の1974年7月26日に、イギリスでリリースされたロバート・ワイアット(Robert Wyatt)のアルバム『ロック・ボトム(ROCK BOTTOM)』のジャケットです。
ジャケットの鉛筆画を描いているのは、ロバート・ワイアットのパートナー、アルフレーダ・ベンジ(Alfreda Benge)です。

ずっと聴き続けてきたアルバムです。 このアルバムとも長い長い付き合いになるわけです。

夏休みの日記帳の1ページのようなジャケットです。イソギンチャク、クラゲ、巻き貝、海草など命あるもので豊かな夏の磯辺を前景に、海で遊ぶ子どもたちを中景に、そして遠景に船と灯台が見えます。穏やかに過ぎる夏の光景です。浜辺の遊び道具の中にモグラの人形らしきものも見えます。ロバート・ワイアットが在籍した最後のバンド、マッチング・モール(Matching Mole)への目配せでしょうか。
「Rock Bottom」には「どん底」や「根本的な部分」という意味がありますが、アルバム中で歌われるように「Rocky Bottom」と歌われると「ゆらゆらした底」に意味を変えます。

このアルバムの前年、1973年6月1日、ロバート・ワイアットは転落事故で、第12脊柱にひびが入り、下半身不随となり、車いす生活となります。ドラムス奏者であることを続けることができなくなってしまいました。
『ロック・ボトム』は、事故の後、初めて作られたソロアルバムです。世の中の不条理を超えて、つぶやき、ささやき、請い、甘え、はしゃぐワイアットの歌声は、はじめて聴いたときから体の中の深い場所にしみ入って、響き続けています。

ロバート・ワイアットのアルバムの中では、もっとも私的で、アルフレーダ・ベンジの存在が濃厚な1枚です。 このアルバムがリリースされた1974年7月26日、ロバート・ワイアットとアルフレーダ・ベンジは結婚届を出しています。今日は2人の結婚40周年でもあるわけです。

1974Wyatt_Rock Bottom02

▲1974年英初回盤のジャケット裏面

1974Wyatt_Rock Bottom_label01

▲1974年英初回盤のレーベルA面
ロジャー・ディーンがデザインしたヴァージンレーベル初期のレーベルデザイン。
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 V 2017 A – 2U

1974Wyatt_Rock Bottom_label02

▲1974年英初回盤のレーベルB面
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 V 2017 B – 1U

1974年アメリカ盤テストプレス01

▲1974年アメリカ盤(VIRGIN RECORDS VR 13-112)テストプレス
1974年10月18日の日付。

1974年アメリカ盤テストプレスlabel02

▲1974年アメリカ盤(VIRGIN RECORDS VR 13-112)テストプレスのレーベルA面
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 ST-VR-743237-A
B面のマトリクス番号は、ST-VR-743238-A

1980Rock Bottom + Ruth Is Stranger Than Richard01

▲1980年に出た、『Ruth Is Stranger Than Richard』(1975年リリース)とのカップリング盤(VGD3505)
最初に自分のものとして所有したのはこのカップリング盤です。それまでは友達の家で聴く盤でした。

1980Rock Bottom + Ruth Is Stranger Than Richard_label01

▲1980年『Ruth Is Stranger Than Richard』とのカップリング盤のレーベルA面。
パンク・ニューウェイブ期のヴァージンのレーベル面。
盤面の内周に刻まれている文字を読むと、マスタリングはTOWNHOUSEで、マトリクス番号は
 VGD3505 A1

1980Rock Bottom + Ruth Is Stranger Than Richard_label02

▲1980年『Ruth Is Stranger Than Richard』とのカップリング盤のレーベルB面
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 VGD3505 B1

2008Rock Bottom英domino盤01

▲2008年イギリスのdominoレーベルから再発されたときのアナログ盤ジャケット
この盤のジャケットでは、アルフレーダ・ベンジの原画を使って再構成しています。原画の紙の周囲が焼けていますが、1974年盤ではトリミングされていた部分まで再現しています。再発におけるジャケットデザインを考えると、この方法は見識です。

▲2008年イギリスのdominoレーベルから再発されたときのアナログ盤ジャケット 02

▲2008年イギリスのdominoレーベルから再発されたときのアナログ盤ジャケットの裏面

2008Rock Bottom英domino A面

▲2008年英dominoレーベルからの再発盤のレーベルA面
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 REWIG LP 40 A-1

2008Rock Bottom英domino B面

▲2008年英dominoレーベルからの再発盤のレーベルB面
盤面の内周に刻まれているマトリクス番号は
 REWIG LP 40 B-1

アナログ盤だけでなく、CD再発盤も掲載します。

1989Rock Bottom再発CD日本盤

▲1989年、再発CD日本盤のジャケット
鉛筆画の階調が飛び、波が消えてしまっています。

1989Rock Bottom再発CD日本盤Label

▲1989年、再発CD日本盤のレーベル面

1998Rock Bottom_Rykodisk再発CD

▲1998年のRycodisc再発CDのジャケット
CDジャケットとのサイズの違いもあって、アナログ盤ジャケットの繊細な表現を再現できなかったためか、アルフレーダ・ベンジによる新しいイラストが使われています。

1998Rock Bottom_Rykodisk再発CD_label

▲1998年のRycodisc再発CDのレーベル面
2008年のdomino盤にも使われたロバートとアルフレーダを思わせる男女2人。「私性」を強めています。

2002Rick Bottom日本盤紙ジャケ

▲2002年の日本盤紙ジャケ再発CDのジャケット
再現度は高いほうです。 音源はRykodisc再発盤のものです。

2002Rick Bottom日本盤紙ジャケLabel

▲2002年の日本盤紙ジャケ再発CDのレーベル面

2008Rock Bottom_domino再発CD

▲2008年英dominoレーベルからの再発盤CDのジャケット

2008Rock Bottom_domino再発CD_label

▲2008年英dominoレーベルからの再発盤CDのレーベル面

1994wrong movements: a robert wyatt history

▲マイケル・キング(Michael King)著『wrong movements: a robert wyatt history』(1994年、SAF)のページから
右側に、『ロック・ボトム』が発表された当時、よく使われたロバート・ワイアットとアルフレーダ・ベンジの写真。撮影はTrevor Keyです。マイク・オールドフィールドの『チューブラーベルズ』のジャケット写真で知られている人です。

にこやかな表情で車いすに座っているロバート・ワイアットと、固く口を結んで手にナイフを持って寄り添っているアルフレーダ・ベンジの姿は、男性と女性の、ある典型であり続けています。

 

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139. 1998年の『河原温 全体と部分 1964-1995』展カタログ(2014年7月16日)

1998河原温_表紙

1998年1月24日から4月5日にかけて、東京都現代美術館で開催された『河原温 全体と部分 1964 - 1995(On Kawara, Whole and Parts 1964 - 1995)』展のカタログです。展覧会カタログは、ふつう図版中心ですが、これは、河原温について語ろうとする言葉で作られています。所在の明らかでない人、旅する人、河原温から送られてきた簡潔な絵はがきに対して、幾人もの人が長い長い返信を書いている、そんな本です。

ここ1か月ほど、ネット上で、河原温(1933年1月2日生まれ)が亡くなったのではないかというざわめきが続いていましたが、各メディアでも「亡くなった」と公式に報道されて、その事実に間違いはないようです。ただ、いつ亡くなったのか、どういう形で亡くなったのかは、まだ明らかになっていませんし、明らかにされるのかどうかも分かりません。

「現代美術」を人の身体に例えると、河原温は、「背骨」のような存在だった気がします。その「死」は、33個ある椎骨のひとつが失われてしまったような感じでしょうか。もちろん本当に椎骨が失われてしまったら、身体そのものが成り立たず「現代美術」そのものが失われてしまうことになるので、比喩としてはおかしいのですが、河原温の「死」は、どこか現実感がなく、失った肉体の一部がまだあるような感覚が続いています。

河原温は、1960年代なかばから、自分のポートレイト写真をまったく公表しておらず、それに替わるように、毎日世界のどこかに「I AM STILL ALIVE(わたしはまだ生きている)」というメッセージを、電報などの形で発信し続けてきました。
Twitter上にも、2009年1月から、それが本人のものか、なりすましか、明らかではありませんが、毎日「On Kawara」の名前で「I AM STILL ALIVE」というメッセージが書かれ、それは今も続いています。ここのところ、そのアカウントがまだ残されているのか、ついつい見てしまいます。
たぶん、誰も語らなくなる、情報としての「死」もあるのでしょうが、その情報が行き交う世界では、河原温は「死」を迎えることはない「不死の人」になっているのかもしれません。

1998河原温_表紙背

▲『河原温 全体と部分 1964-1995』展カタログ表紙の背

装釘も簡潔な本ですが、カタログ最後にある「河原温 略歴」も簡潔です。

    23,772日
 (1998年1月24日 現在)

誕生の日から展覧会の日までの日数だけです。

1998河原温_紙袋

▲『河原温 全体と部分 1964-1995』展カタログの紙袋

本の日焼けのよる変色は、嫌いではありません。どちらかというと好きです。時を間違いなく感じさせるからです。
この紙袋に入れたまま本棚に突っ込んでいたのですが、もう15年以上経ったわけです。日頃の行いが悪かったのでしょうか、思ったほど、いい感じの日焼けにはなりませんでした。

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138. 1913年の半仙子『日當山侏儒戯言』(2014年6月30日)

1913半仙子『日当山侏儒戯言』表紙

大正2年(1913)、鹿児島の久永金光堂が上梓した。日当山侏儒(ひなたやましゅじゅ)ドンのトンチ話集です。80ページほどの小冊子です。この本は手もとになく、いつか古書店で出会えたらと思っている本の1冊です。表紙図像は、国会図書館の近代デジタルライブラリーからダウンロードしたものです。

タイトルページでは『日当山侏儒のおどけばなし 半仙子編』となっています。 日当山侏儒ドンは、本名を德田大兵衛〔天正12年(1584)~寛永11年(1634)〕といい、島津忠恒〔家久、天正4年(1576)~寛永15年(1638)〕に仕え、その頓知と道化ぶりで知られています。大兵衛(おおひょうえ、たへえ)という名前ですが、非常に小さい人だったので侏儒ドン(しゅじゅどん)と呼ばれていました。日当山は德田大兵衛が地頭をつとめていた場所です。『日当山侏儒戯言』では、德田大兵衛の話だけでなく、附録として「薩摩奇譚笑話 半仙子聞書」も収録しています。

『日当山侏儒戯言』中には、奥付にも著者は「半仙子」とあるだけで、加藤雄吉の名前はありませんが、加藤雄吉『尾花集』に「日當山侏儒戯言の首に」が収録され、「加藤雄吉著編刊行目」にも含まれていますので、間違いなく加藤雄吉の著作です。

『日当山侏儒戯言』の文字組

▲『日当山侏儒戯言』の文字組。一字下げ「半仙子曰」で加藤雄吉の考証癖が出ています。挿絵は誰の手になるものか分かりません。図像は、国会図書館の近代デジタルライブラリーからダウンロードしたものです。

『日当山侏儒戯言』の奥付

▲『日当山侏儒戯言』の奥付。図像は、国会図書館の近代デジタルライブラリーからダウンロードしたものです。天文館にあった久永金光堂は、書店のほうは店じまいしてテナントビルになっています。

 

この『日当山侏儒戯言』の序文に、
大兵衛の墓は冷水町なる舊興國寺跡の墓地に在る(上ると左側の竹藪の中である)法名は桃岩宗源居士、德田大兵衛と刻し一方に其歿年を刻つてある、かりそめにも洒落や地口でも言ふ人は宜しく此墓に詣でてムサクロしく茂つて居る篠笹や苔でも掃つてやるべきである。
とありました。梅雨の晴れ間で天気もよく、「洒落や地口でも言ふ人」のはしくれですので、散歩がてら興国寺墓地まで日当山侏儒ドンのお墓参りに行ってきました。

德田大兵衛のお墓_桃岩宗源居士

▲德田大兵衛のお墓。「桃岩宗源居士」が正面に刻まれています。

加藤雄吉の時代と違って篠笹の茂っている竹藪の中ではなく、通路沿いの分かりやすい場所にあります。加藤雄吉もこの場所を訪れ、お参りしたのだと思うと、ちょっと感慨深いものがあります。このお墓自体は、もっと時代が下ってから作られたもののような気がしますが、確かではありません。

德田大兵衛の墓左面_寛永十一年

▲德田大兵衛のお墓の左面。没年が「寛永十一年正月十六日」と刻まれています。

德田大兵衛のお墓の右面

▲德田大兵衛のお墓の右面。「德田大兵衛」と刻まれています。大きな楠の木の木陰にあります。

 

長澤鼎の墓

▲長澤鼎(1852~1934)のお墓。カルフォルニアの葡萄王と呼ばれた人です。実家の磯長家の墓の傍らに新しい墓が建てられていました。ローレンス・オリファントにからんで、長沢鼎についても書きたいことはあるのですが、ひとまず置いておきます。

興国寺墓地は、鹿児島市でも古い墓地です。島津家、伊集院家、新納家など、薩摩の歴史をつくってきた大きな家のお墓が並んでいます。ちょっと巡ってみるだけでも、江戸時代の鹿児島を感じることのできる数少ない場所です、鹿児島の歴史を歩いているようです。ただ放置されている墓も多く、一部撤去も進んでいるようです。

 

四元義隆のお墓

▲花田清輝の項で言及した、血盟団事件の四元義隆(1908~2004)のお墓。

 

伊地知季安の墓

伊地知季通

▲島津家700年の歴史書『薩藩旧記雑録』を編纂した、伊地知季安〔天明2(1782)~慶応3(1867)〕 、伊地知季通〔文政元(1818)~明治34(1901)〕 父子のお墓。

 

大迫尚敏の墓

▲陸軍大将・大迫尚敏〔天保15(1844)~昭和2年(1927)〕のお墓。

 

児玉利純之墓

▲児玉利純之墓
京都の薩摩屋敷で、薩長同盟が結ばれたのは有名な話ですが、そのとき幕府・京都守護職の目をのがれるため、琵琶の会という名目で集まっていました。そのとき『平家物語』から「小敦盛」を薩摩琵琶で奏でていたのが、児玉利純〔天南、弘化3年(1846)~大正6年(1917)〕だとされます。墓の側面に薩摩琵琶が浮彫されています。

 

肱岡武二の墓碑銘

▲薩摩琵琶の肱岡武二の墓碑銘。

 

染川實秀の墓碑銘_西郷隆盛

▲染川實秀(1843~1868)の墓碑銘から。染川實秀は、戊辰戦争の白河(白川)城攻めで戦死。この墓碑銘は西郷隆盛が誌しています。

 

巍山高崎君之墓_高崎五郎右衛門

▲巍山高崎君之墓。薩摩藩主島津斉彬の襲封をめぐるお家騒動、嘉永朋党事件、近藤崩れ、お由羅騒動、あるいは高崎崩れなどとよばれるお家騒動の中心人物、高崎五郎右衛門のお墓です。高崎五郎右衛門について、『鹿児島大百科事典』(1981年、南日本新聞社)から村野守治の記述を引用します。

高崎五郎右衛門 たかさき ごろうえもん 一八〇一(享和元)~一八四九(嘉永二)。高崎崩れの首魁として処刑、名は温恭、巍山と号した。藩の船奉行家老座書役勤奥掛を勤めた。藩世子島津斉彬が四〇歳を超えてもなお藩主就任が実現しないのは、斉彬の父斉興の側室由羅およびそれと結ぶ家老島津久徳らの悪謀に出づるものとし、由羅一派を除く計画をした。しかし、その行動は内偵され、一八四九年(嘉永二)一二月近藤隆左衛門、山田清安、高崎五郎右衛門ら六人は自刃の内達をうけ即夜切腹した。その後の調査により計画の内容が露見するようになり、三人を首魁とし翌三年三月追罰を加えられ、士籍を除き磔刑を加え、嗣子高崎佐太郎(後の正風)も同四年一五歳に達するのを待って遠島を申し渡され大島に流された。一八六五年(慶応元)一二月三日五郎右衛門の一七回忌が京都室町の旅館で開かれたとき、西郷は漢詩二首を賦して五郎右衛門の霊を弔っている。参考文献『高崎正風先生伝記』 →高崎崩れ →島津斉彬 →お由羅 →近藤隆左衛門 →山田清安 →西郷隆盛 →高崎正風

高崎五郎右衛門は、鹿児島の歴史にとって、重要な存在ですが、この人の墓が放置されて荒れた状態になっています。

巍山高崎君之墓の右側面_高崎正風

▲巍山高崎君之墓の右側面から。高崎五郎右衛門の息子、高崎正風が墓碑を誌し、友人の磯永吉徳という人が書いたことが分かります。高崎正風〔1836(天保7)~1912(明治45)〕は、宮中の御歌所長をつとめ、明治の桂園派の中心的存在です。最近では宮本誉士『御歌所と国学』(2010年、弘文堂)などで新たな読み直しも進んでいる存在です。

「巍山高崎君之墓」周辺は高崎家一族の墓所となっていて、「明治十一年十二月 二等侍補県皇后宮亮從五位高㟢正風謹誌」と刻まれた高崎家の墓碑などもありますが、鹿児島で墓を守る方がおられないのか、草が伸び放題になっています。

2014年6月29日の『南日本新聞』に、次のような記事がありました。

県都・鹿児島市の市営墓地でも放置されている墓が増えている。市は1998年度から、市営墓地で一定の期間管理されていないとみられる区画の調査を始めた。名義人と連絡がとれず、「花がない」「草が伸び放題」などの基準に該当する墓は撤去される。
これまで撤去したのは14墓地で804基。引き続き市内で最も古い興国寺(冷水町)と草牟田の2カ所の、約1500基が対象になっている。
撤去となれば、市が遺骨を掘り起こして無縁納骨堂に移す。市の担当者は「県外に出た人が県外で墓や納骨堂を手に入れ、故郷に残した先祖の墓を放置しているケースが多いのではないか」という。

高崎五郎右衛門のお墓「巍山高崎君之墓」を含む高崎家の墓がある場所は、この記事の「花がない」「草が伸び放題」に該当します。もし撤去になったらと考えると、恐ろしいです。少なくとも「伊地知季安の墓」と同じように解説プレートは必要だと思います。

 

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137. 1917年の加藤雄吉『尾花集』(2014年6月27日)

1917加藤雄吉_尾花集_表紙

大正6年(1917)10月に刊行された加藤雄吉の『尾花集』です。「自分には未だ纏つた著述といふものが一つも無い」と言っていた加藤雄吉の、ほぼ唯一の「纏つた著述」です。

加藤雄吉は鹿児島の串木野出身の文筆家です。明治6年(1873)に、加藤彦十郞〔明治43年(1910)8月26日に66歳で没〕の次男として誕生。父の加藤彦十郎は西南戦争で薩摩軍に小隊長として従軍し、敗戦後3年ほど禁錮の刑に服しています。
加藤雄吉は、明治21年(1888)16歳で東京に出て、東京法学院に学びますが、学業の途中いったん鹿児島に帰ります。そのころから「文學」で身を立てようという気持ちが強かったようです。明治24年(1891)再度上京し、文學的青年の20歳代を過ごします。明治33年(1900)、理由は定かではありませんが、鹿児島に戻り、中学の教師(鹿児島明治学院の教頭)や新聞記者(春島東四郎の政治新聞)をしていました。鹿児島の歴史文化についての多角的な関心を持ち、大きな著作を書こうという志を持っていたようです。しかし、大正6年6月食道癌が見つかり、『尾花集』刊行からおよそ3か月後、大正7年(1918)1月10日に亡くなっています。46歳でした。

227ミリ×152ミリ、ステープル綴じ、『尾花集』166ページと附録の自選和歌集『觀雲亭家集』17ページ、200ページに満たない薄い本です。 東京時代の友人たち、森林太郎(森鷗外)、喜田貞吉(歴史学者)、田山花袋らが序文を寄せています。

尾花はススキの別名で、加藤雄吉が若い頃に自ら名乗った戯号です。最後の本のタイトルとしては、枯れ尾花が生えている光景のようで、寂しさを感じます。幸田露伴に『尾花集』〔明治25年(1892)、青木嵩山堂〕という作品がありますが、それとはつながりはないようです。


1917加藤雄吉_尾花集_奥付

▲加藤雄吉『尾花集』の奥付。

 大正六年十月廿三日印刷
 大正六年十月三十日發行
 著者兼發行者 鹿兒島縣日置郡串木野村一九一 加藤雄吉
 印刷人 鹿兒島市山下町一八八 田代運平
 印刷所 鹿兒島市山下町一八八 嘉定社

印刷所の「嘉定社」という社名は、中国・明の時代に官の生活をよしとせず詩書画に耽った「嘉定の四君子」から取られた社名でしょうか。

次は『尾花集』の目次です。加藤雄吉の目配りの広さがうかがえます。 鹿児島の歌、踊り、物語、絵画、鳥の趣味、民俗、風俗など、多方面に関心を押しひろげようとしたテキスト群です。

 加藤雄吉折柬謂將刊尾花集裁詩代序 丁巳秋日 森林太郎
 尾花集の發行を聞きて所感を述ぶ 大正六年九月 喜田貞吉
 はしがき 大正六年九月十一日
 尾花集目次
 尾花集 加藤雄吉著
 ○薩摩暦(大正四年八月稿)
 ○俊寛堀は俊寛儈都と縁由無し(大正四年二月稿)
 ○島津榮翁の禽癖
 ○薩隅の歌舞(大正二年八月)
  ▲六調子
  ▲ションガ節
  ▲疱瘡踊
  ▲田之神舞
  ▲鶴龜舞
  ▲磨欲踊
  ▲設樂曲
  ▲十五夜踊
  ▲棒踊
  ▲太鼓踊
  ▲町踊
 ○薩摩へ遁れしといふ人物(明治四十年稿)
 ○成形圖説考(大正六年一月發行ほんや所載)
 ○質問本草の著者呉繼志に就いて(大正六年六月博物學會にて講演の一部)
 ○山田清安の藏書に就て(大正五年六月發行ほんや所載)
 ○童蒙須知和解解題
 ○訓蒙圖彙私鈔に就きて
 ○日當山侏儒戯言の首に(大正二年春)
 ○島津氏の十字紋(大正六年二月十日稿)
 ○アイヌ語と薩隅の地名(大正六年三月三十一日記す)
 ○戯曲中の薩人(大正二年二月)
 ○在薩中の近衛三藐院の事を記す(大正三年十二月)
 ○赤﨑海門と其作に成れる俗謠と(大正二年十二月)
 ○坂本養伯と木村探元と(明治四十五年四月)
 ○賢章院逸事(明治四十二年五月二日、大阪朝日新聞)
 ○田の神考
 ○石敢當
 ○隼人歌舞の遺風にあらじか
 ○先住民の遺習を學びしかと思はるゝ事ども(大正六年七月十日)
 ○薩言中の外來語二三(大正二年五月)
 ○薩隅日の硯材(大正三年十二月)
 ○寒櫻について(大正三年三月五日)
 ○近世薩集群書一覧補遺(大正六年八月下旬病床にて)
 ○「無戸室」の神話と南島の風俗と(大正四年九月郷土研究)
 ○薩藩國學家の傳記を調査し始めし動機
 ○曾占春略年譜(大正三年十一月稿)
 ○白尾國柱略年譜(大正四年十一月二十日)
 ○八田知紀略年譜(明治三十八年夏稿)
 ○白尾先生の贈位に就いて(大正四年十一月十二日燈下に草す)
 ○女歌人山田歌子(大正二年一月)
 ○赤﨑海門(明治三十五年二月發行目不醉草)
 ○赤﨑海門傳補遺(明治三十五年十一月發行、萬年草)
 ○栗原信充(明治三十七年二月發行、萬年草)
 ○石塚崔高
 ○譚叢
  ▲明君と爭臣(明治四十一年八月、大阪朝日新聞)
  ▲呑牛の氣
  ▲爭臣と義士
  ▲渓山公
  ▲さくらの一葉
  ▲清遠翁の壯事
  ▲もろは草
  ▲斉彬公と雲嘯と
 ○觀雲亭雜筆(大正六年九月)
  ●さい(明治三十六年六月發行、萬年草)
  ●かび、かびや(明治三十六年八月、萬年草)
  ●松蝉(明治三十六年九月、萬年草)
  ●山田之曾富騰(明治三十七年一月、萬年草)
  ●きつ、はにつ、
  ●薩摩椀(明治三十七年二月、心の花)
  ●筑紫櫛
  ●神樂歌の早歌に就て
  ●筑紫針
  ●ほき
  ●ワクドウ(明治四十年八月、心の花)
  ●鳥のこゑこゑ(明治四十五年四月、「心乃花」)
 ○施治擥要に就て(大正六年十月)
 ○薩摩に移植されし外來植物二三に就いて

 觀雲亭家集をみてよめる  七十五翁 [松波]遊山
 觀雲亭家集のなれるを喜ひて  [松浦]辰男
 加藤君は 大正六年九月 田山花袋
 觀雲亭家集  加藤雄吉稿

加藤雄吉『尾花集』は、大正期に書かれた鹿児島についての考証的随筆として、とても魅力的な本になっています。加藤雄吉に、もう少し時間を与えて欲しかったと惜しまれます。

余談ですが、父も寄稿していた『鹿児島史談』百周年記念号(平成25年10月)には、大正2年(1913)6月の「鹿児島史談会」発足当時の記事があり、加藤雄吉もその発足メンバーの1人に名を連ねていました。

 

いちき串木野市_加藤雄吉之墓

▲加藤雄吉のお墓。

機会があったので、いちき串木野市のかつての中心部、串木野城跡周辺の麓地区を歩いて、麓大堂庵墓地にある加藤雄吉のお墓をお参りしました。加藤雄吉の父・加藤彦十郎の墓をはじめ一族の墓の中にありました。お墓をお守りする方がおられるのでしょう、清潔に掃除されていました。麓大堂庵墓地には、衆議院議長・文部大臣をつとめた長谷場純孝(1854~1914)のお墓(墓碑を書いたのは樺山資紀。今だと白洲正子のお祖父さんといったほうが通りがよいのかもしれません)、関門トンネルの設計者・橋口幸彦のお墓もありました。

 

加藤雄吉之墓_森林太郎の書

▲「加藤雄吉之墓」という正面の書は、森林太郎(鷗外、1862~1922)が書いた墓碑と考えて間違いないようです。

左側面・裏面・右側面には、栗山直次郎が撰した漢文の墓碑が刻まれています。日影の関係もあったのでしょうが、左側面の文字は読みにくく、ちょっと手に負えませんでした。裏面と右側面の文字ははっきり読めます。ただ経年の痛みは隠せないものがあります。この友情の証のようなお墓は、しっかり残してほしいものです。

加藤雄吉に関しては、『串木野郷土史』〔昭和59年(1984)3月、串木野市〕に「健筆に鳴る加藤雄吉」という項目があり、そのおおよその姿を知ることができます。

 

『尾花集』には、序として、森林太郎が漢詩を寄せています。岩波書店の『鷗外歴史文学集 第13巻』(2001年)に、古田島洋介の注釈で、その詩と書き下し文・訳が掲載されていますが、ここでも、その詩とその現代文試訳を掲載します。

  加藤雄吉折柬謂將刊尾花集裁詩代序
          [加藤雄吉の手紙に「尾花集を刊行します」と。詩を作ってその序に代える]

 我有朋友在海隅  [私には朋友がおり、はるか遠くの海辺に暮らしています]
 廿年不見但長吁  [もう二十年会っていません、ただただ、ため息ばかり]
 今日尺素適復至  [今日のことです、その友人から便りが久し振りに届きました]
 手未開緘心先愉  [まだ封を切らないうちから、心はもう躍っています]
 自問書中果何有  [自問します、さあて、果たして何を書いて寄こしたか]
 妍詞麗句聯蠙珠  [彼らしい美しい気の利いた言葉が連ねられているのかしらん]
 讀將數行忽驚絶  [数行を読んで、ただただ驚き戸惑ってしまいした]
 坦塗却有陥穽虞  [なだらかな道だと思っていたら、落とし穴が待っていました]
 君云近嬰嗝噎病  [君は書いていました「近ごろ食道癌とわかりました]
 攬鏡日歎面貌癯  [鏡をとって、日に日にやせ衰えていく姿を嘆くばかりです]
 扁倉一見皆郤走  [名医といわれる人たちも皆さじを投げました]
 此疾未聞百藥蘇  [この病気は、どんな薬でも治った例がありません]
 著作等身無由遂  [これからいろいろ書こうと思っていましたが、無理のようです]
 忍向九原捐此軀  [もうこの体はお墓に差し出すだけのものだと思っています」]
 一讀涕沾翰    [一度読んで、涙が手紙を濡らします]
 再讀粟生膚    [もう一度読むと、全身に鳥肌がたちます]
 人生畢竟譬何物  [人生は、つまるところ、何物に例えたらよいのでしょうか]
 死囚待刑犠俟屠  [刑の執行を待つ死刑囚か、屠殺されるのを待ついけにえでしょうか]
 聞説君壽保一歳  [しかし、話では、君の寿命は、一年はもつとのこと]
 豈比屬纊立可須  [少なくともただ死期を待つだけとは違うのではないでしょうか]
 我亦非有金石質  [私もまた、健康な体とはいいかねて]
 况覺餘生迫桑楡  [ましては老い先短いことを自覚する身です]
 若謂病而始知死  [もし病気になってはじめて死を自覚するのなら]
 一病眞足㠯砭愚  [病気になるたびに、愚かさから脱していくのではないでしょうか]
 裁書却寄非徒爾  [こうして手紙を書き送るのは、無駄なこととは思えません]
 我能爲君决良圖  [わたしは君のためにこれからのことを考えたいのです]
 君欲文章傳身後  [君は死後も自らの文章が残ることを望んでいて]
 我欲磨蠣與君倶  [わたしも、君と一緒に、文章の世界で生きていたいと思うのです]
 雙調雖異響    [わたしたちの調子は、響きは異なるかもしれませんが]
 兩情或合符    [わたしたちの気持ちは、ぴったり合うと思います]
 世上無斯樂    [世の中で、こんな楽しみは、ほかにありません]
 何須心煩紆    [悲しみ思い悩むのは、もうやめましょう]
 從此文苑同馳騁  [今すぐ文章の世界に一緒に行こうじゃありませんか]
 振策而起勿踟蹰  [あれこれ思い悩まず、今すぐ筆を執って下さい]
  丁巳秋日 [大正六年の秋の日に]     森林太郎

 

明治39年(1906)、加藤雄吉は『觀雲亭家集』という自選和歌集を鹿児島で出版します。その中で、明治38年1月1日、加藤雄吉の父・加藤彦十郎の還暦祝いに、黒田清綱、松波遊山、松浦辰男、森高湛、井上通泰、福崎季連、鎌田正夫、北里闌、落合東郭らが歌を寄せていて、森高湛(森鷗外)は次のような歌を贈っています。

   きみが住むはる山しなひ咲く花のひとよひとよに千とせこもしれ [森高湛]

日露戦争のころの加藤雄吉と森高湛(森林太郎・森鷗外)の歌の応酬も残されています。

三十七年(1904)八月十四日の夜の夢に出征中なる陸軍々醫監森高湛大人にまみえければ其あけの日このことなど書添ける消息の奥に
  千里あまり海と山とはへだたれどへだてぬものは夢路なりけり
 [加藤雄吉]
といひければ大人よりかへし
  契あれや百重かさなる海山を中にへだてて夢にあひみし
 [森高湛]
十月ばかり同大人に贈れる
  をやみたるいくさのまには唐土のあきの千草やかぞへますらん
 [加藤雄吉]
  つつのおとのたえまたえまに聞ゆらんとりでのなかのむしの聲々 [加藤雄吉]
大人よりかへし
  敵住みしかりやの跡の秋なれど花の色香はかはらざりけり
 [森高湛]
  直土にきびがら敷てまろねする枕に近き虫の聲々 [森高湛]

「むしの聲々」に「虫の聲々」と返すところが、旧派の作法でしょうか。 近代短歌は、個の表出という面を強く出しますが 、 旧派と言われた桂園派には歌の応酬・唱和で、人と人をつなぐという面が強くあったように思われます。

加藤雄吉の没後、大正10年(1921)に完成した森鷗外の史伝『北条霞亭』には、
享和(三年)癸亥に霞亭が父適斎に寄せた書には、赤崎源助の名が見えてゐる。源助は薩摩の儒臣にして幕府に徴された海門楨幹である。其詳伝は不日刊行せらるべき加藤雄吉さんの薩州名家伝に見えてゐる。海門は享和(二年)壬戌八月九日六十四歳にして歿した。
という記述があって、加藤雄吉の名前が登場しています。残念ながら「刊行せらるべき加藤雄吉さんの薩州名家伝」は刊行されていません。

 

加藤雄吉之墓_尾花集

▲加藤雄吉之墓に、手もとにある『尾花集』をお供えしました。

『尾花集』には、加藤雄吉の自選和歌集『觀雲亭家集』が掲載されています。大正6年に田山花袋(1872~1930)が新たに『觀雲亭家集』に添えた序文を引用します。

加藤君は私がわかいころ親しく交つた友です。私の結婚した時にも席に連つて下すつたことがあります。加藤君は正直正大夫などとも交際して、私のわかい時には、私などの知らないことをも知つて居る皮肉な人でした。何方かといへば氣味のわるい人でした。この皮肉が、テ[デ]カダンが君を一生田舍に住むやうにしたのではないかとおもはれる理由があります。しかし人間は自己でする。後悔も滿足もすべてその人のものである。根本になれば、他人や世間が批評することも出來ないやうなものです。
君が食道癌の爲めに死を宣告された際に私はかうしたことを言ふ機會を得た、君は私と和歌に於て同窓の友であります、君の和歌に純な感情の多いことは私は否むことは出來ません。私達の師匠松浦先生も君については度々さうした言葉を口にしたことを私は知つてをります。
死は復歸である。これは平凡な言葉ではありますが、これを痛感するものは君のやうに死に臨んた人でなけ[れ]ば出來ないことであるとおもひます。君が最初の知らせには死をさへ皮肉に取扱つた形があつてイヤであつた。純であつて欲しい。死に面してはことに純であつて欲しいとおもひます、これを君が歌集の序文に書き得ることを喜びます。
 大正六年九月
                             田山花袋

田山花袋は、加藤雄吉を「皮肉な人」「氣味のわるい人」と書き、「純」であってほしいと書くことのできる友人です。

序文に出てくる「正直正大[太]夫」は、毒舌で知られる明治の文筆家、齋藤緑雨(1868~1904)のことです。「正直正大[太]夫」の名前を挙げたことを考えると、田山花袋は、加藤雄吉と齋藤緑雨に近いものがあると感じていたのかもしれません。

田山花袋に『日本一周』(博文館)という紀行があります。日本全国にその線路網を広げていた鉄道で日本一周を試みた紀行本で、明治末から大正初期の日本の姿を、どこか醒めた、簡潔な文体で伝えています。3巻本の大著で、前編(近畿・東海)は大正3年(1914)、中編(中国・九州・四国)は大正4年(1915)、後編(関東・東北・北海道)は大正5年(1916)に刊行されています。

その中で、明治41年(1908)の夏、 鹿児島市に住む、名前の出てこない「友達」を訪ねたことを書いた部分があります。最初読んだとき、その友人は桂園派の歌人つながりで、沖永良部の土持綱安ともつながりがあり、年齢も近い早稲田出身の樋渡清廉(1870~1953)かなと考えていたのですが、調べてみると、まさしく加藤雄吉のことでした。

田山花袋と「友達」加藤雄吉の再会の一日を、少し長くなりますが、『日本一周(中編)』から引用します。

 重富から鹿兒島へ入つて行く路は、實に何とも言はれないほど好い景色だ。汽車のレールは國道と並んで、殆ど海岸の波打際を通つてゐるので、錦江灣の風景はかくすところなく汽車の窓に入つて來る。帆が三つも四つも並んで通て行く。海はくつきりと鮮やかな碧の色をなしてゐる。櫻島の岸にある人家が蜃気樓のやうになつて見える。
 あの新聞で、日本の新三景を募つたことがあつた。その時、この錦江灣が有力な候補者になつてゐた。私も躊躇するところなく此處を選んだ。私の考では、富士山麓の海岸よりも此處の方がすぐれてゐると思ふ。成ほど規模は富士の方が大きい。蒲原あたりから見たのは殊にさうである。しかし、全體として此方が感じが纏つてゐる。そしてやわらかである。それに、櫻島がいかにも好い。
『何とも言はれないですね』
 かう私は思はず車中の人に言つた。
 丘陵が徙崖を成して、すぐ海岸近くまで來てゐる。小崎、大崎、三船鼻などいふ鼻の出てゐる間を、汽車は一直線に通つて行つてゐる。櫻島は益々近くなつて來てゐる。直徑にしたら、十町か十二三町位しかないと思はれる位である。
 トンネルがある。それを拔けると、鹿兒島市が繪のやうに前に展けて來る。

(略)

 鹿兒島に入つたのは、暑い暑い日であつた。
 私は停車場を出るとすぐ車を雇つた。賑やかな大通がやがて私の前に展けた。中町通である。私は電信柱の長く連つてゐるのと、庇の淺い家屋のずつと並んでゐるのを見た。車はガタガタと輕い音を立てゝ走つた。別に他の町と違つた趣も見出されなかつた。
 私の選んだ旅館は、中學校だの師範学校だのある上のところに位置してゐた。普通の旅館とは思はれないやうなつくりで、階段を上つて行くと、上に大きな十五疊位の室が二間つゞいてゐた。前の庭には、百日紅が暑い日影の中に鮮かに見えてゐた。
 私の此處に着くのを待つてたやうにして、私の昔の友達はやつて來た。私は二十年前の友達の顔を言ふに言はれないなつかしいやうな心持を以て見た。友達の髪にはもう白いのが雜つてゐた、
『今、來たんですか』
『今來たばかり』
 こんなことを私達は言つた。私達は何から話して好いかわからなかつた。神田の下宿屋にゐた時分のことから、私達は話して行かなければならなかつた、友達もなつかしさうにして話した。
『それでも、とうとう來ましたよ、鹿兒島へ』
 私は笑ひながら言つた。『是非來たまへ、何アに、旅費など百圓もあれば澤山だ。』かうその友達はよく言つたものだ。それから私はその友達の口から、櫻島だの、海門嶽だの、城山だのの話をよく聞いた。『その時は僕が案内してやる』友達はかうも言つた。
 二十餘年の月日は人間をいろいろにして了ふものだ。この友達など國に歸らずに、東京にゐれば、今時分は立派に成功してゐつ筈の人だ。其頃、文學の話などをしては、かれは一番仲間の中ですぐれてゐた、文章もかなりによく書いた。文壇の先輩などのところへもよく出かけて行つた。作物の批評は殊にかれの得意とするところであつた。
 新橋でわかれる時、『來春はきつと出て來る』かう言つて國に歸つて行つた。しかし、かれは再び東京に出て來ることは出來なかつたのである。かれは田舍の空氣の中に老いた。
『田舍にゐると、仕方がないから、家にばかり引込んでゐるよ。町になんか一年の中に一度も出て來たことはありやしない。これでも、舊友に逢いたい一心で、この暑い中を出て來たんだよ。』
 昔の皮肉な調子はまだ矢張殘つてゐた。
 かれは中學校組織の學校の國語の教師をしてゐた。かれの故郷は鹿兒島から十五六里も隔つた串木野といふところにあつた。其處に父母もゐた。かれは初めからその後をつぐべく運命つけられた子であつた。それでもかれはその田舍にゐるに堪へなかつた。東京に出られなくも、せめて鹿兒島にはでてゐたい。かう言つてかれは此處に家を持つた。妻も持つた。
『子供は?』
『一人もない・・・・・・』
『それはさびしいね』
『なアに、ない方が好いよ。嬶と二人きりの方が暢氣で好い』
 かれは皮肉な笑を顔に漂した。私達の話はやがて今の文壇の上に及んで行つた。『何うも今の小説はむづかしくつて、理窟ばかり云つてゐてわからない』かう言つたり、『矢張、田舍にゐると、いつか時代おくれになつて了ふんだね』と言つたりした。『でも、此の間出てゐた君の小説は讀んだよ。旨くなつたもんだ』などゝ言つた。
 遠い島にゐる友達の話なども出た。『奴がゐると、喜ぶんだがな・・・・・・。』かう言つて考へて、『一體、君は幾日此處にゐられるんだ? え? 明日か明後日立つ? それぢや駄目だけれど、一週間もゐるんだと、電報を打てば、やつて來るがなア。・・・・・・奴のゐる島から出て來るには、三日かゝるんだ』
『何と云ふ島だえ』
『沖の永良部ッていふ島だ』
『一體、何をしてゐるんだえ、そんなところに行つて?』
『村長か何かしてるよ。・・・・・・本當に土持君には逢ひたい。やさしい面白い氣分の人だつたからな』
 かう私も言つた。其友達も矢張歌をよんだり小説を書いたりした青年の仲間だつた。
 私達は久し振で、膳を並べてビールを飲んだ。旨い鯛の刺身があつた。私はワイシヤツ一つになつてゐた。それでも汗がダクダク流れた。
『鹿兒島は何うだえ?』
『暑いね』
『暑いのは仕方がない。・・・・・・なんしろ熱帯國だからな、もう。けれど、今日は此處でも暑い方だ』こんなことを言つたが、ふと話頭をかへて、『さうかへ? 高千穂に登つたのかえ? それは豪かつた。矢張、昔の君だね。元氣があるね。此土地でも高千穂には人が滅多には上らない。・・・・・・櫻島は何うだつたえ?』
『好いね』
『一寸、此位のところはないだらう』
『實際ない』
 私達はかうした調子で長い間話した。

 午後から私はその友達につれられて市中の見物に出かけた。
『何年にも町など歩いたことはないんだよ。・・・・・・しかし、君が來たら、案内すると言つたのは、二十年來の約束だからな』友達は歩きながらこんなことを言つた。
 私達は一番先に城山に登つて行くことにした。竹藪のしげつた日蔭になつたやうなところを私達は選んで歩いた。『堪らん、堪らん、汗が出てたまらん』かう言つて私は幾度となく帽子をぬいで汗を拭いた。新しい襟カラはすぐ濡れてクシャクシャになつた。
 私達はやがて公園の見晴しの好い處に行つた。そこには茶屋などが出てゐた。明治天皇の記念の館などもあつた。そこからは櫻島が唯一目に見わたされた。白帆などは鏡の中にあるやうに見えた。
『いくら好い景色だつて、仕方がないやうなものだね。好い景色が何だつて言ふやうな氣になるよ』
友達はつまらなさうにして歩いた。案内しなければならないから仕方なしに案内するといふ風であつた。私達はやがて其處を出て、今度は裏の方へ行つた。
『西郷の死んだところへ行つて見やう』
 かう言つて友達は先に立つて歩いた。友達は昔と同じやうに桐の幅廣な大きな駒下駄を穿いてゐた。私達は登つたり下つたりして行つた。それは谷合のやうなところであつた。栗の大きな樹などがあつた。友達は歩きながら話した。『西郷はしかし矢張豪かつたね。この谷だよ、西郷の死んだのは――。可愛嶽から圍みを衝いて遁れて來た時には、びつくりしたさうだからね、政府の奴等は。疾風迅雷のやうだつたさうだから。それでも此處に來て二十日も落ちずにゐたんだからね。それはもう此處までついて來たのは必死を期したものばかりだつたんだからな・・・・・・。官軍の攻擊も盛んだつたさうだよ。この細長い谷に・・・・・・さうだ、岩崎谷だ。この谷に司令部を置いて、今の縣立病院のあるところの私學校を本據として、そして戰つたんだからね。官軍もよく戰つたが、それでも何うしても、この谷まで來ることが出來なかつたんだね。西郷が自殺するまでは出來なかつたんだね。今でも病院の垣には彈丸のあとが残つてゐるよ』
 やがて私達は大きな石碑の立つてゐるところへ出た。こゝが西郷の終焉の地であつた。私は其前に行つて帽を取つた。
『西郷の墓は、この上にあるんだが、行つて見るかえ?』
『何うでも好い』
『行つても好いけれども、唯、墓が並んでゐるばかりだよ。暑いからよさうぢやないか』
『何うでも好い』
 で、私達はそこから引返した。そして初め來た路とは別な路を通つて、聯隊司令部のある方へと出て來た。『あれが中學校、あれが造士館、あれが市役所、あれが縣廳』などと言つた。私達は城山のすぐ下のやうなところを歩いた。
 それから私達は中町通に出て、本願寺別院の大きな建物を見たり、島津斉彬を祀つた照國神社に參詣したり、石造の興業館の中に入つて見たり、運漕店の澤山並んでゐる波止場の方へ行つて見たりした。名山堀なども見た。
『もう、こんなもんだよ、他には見るものはありやしないよ』で、私達は旅館の方へと引かえして來た。
 友達は一度家にかえつたが、『君が來たので、新聞記者が歡迎會をひらくさうだ。出席してやりたまへ』かう言つて再びやつて來た。それは午後4時ごろであつた。私達は再び町へ出て、今度はさつき來なかつた方へと行つた。
 停車場の東北の方には春日町だの清水町だのといふ町があつた。稻荷川の岸には、薩摩燒の陶器を賣る家が二軒も三軒も並んでゐた。『さうかえ、君は盃に趣味を持つてるのかえ? 僕が一つ好いのを買つてやらう』友達はかう言つて、その一軒に入つて、そして、無地の、薄手のものを一つ買つて呉れた。
『無地の方が好いんだよ。薩摩燒は土器だから、ぢつといろんなものが浸み込んで色がつくやうなところに面白みがあるんだよ。茶器でも、茶が浸み込まないやうな奴はいけないんだよ』
などゝ言つて、薩摩燒の講釈をして、『でも、今ぢや、衰微してゐるんだね。人物がゐないからね。昔のやうに立派なものは燒けやしないよ』
 新聞記者達が私を歡迎して呉れたところは、松原の中にあるやうな瀟洒な酒樓であつた。その室からは、櫻島が一目に見られた。そこの風呂場はたゝきになつてゐて、その硝子窓から白帆が通つて行くのがみえたりした。酒の始まる前に、私達は記念の撮影をした。
 新聞記者の中には、国木田獨歩の友達だといふ人もあつた。その人は立つて演説した。
『何も上げるやうな美酒佳肴はないけれど、櫻島といふものがありますから、それを肴にこゝろよく飲んで下さい。櫻島の景色だけは、それだけは確かに御馳走になると思ひますから』などゝ言つた。私も立つて短かい挨拶をした。
『磯邸に行つて御覧になると好いですな。そこから見た錦江灣は別ですからな』
 などゝ言つて呉れる人もあつた。磯邸は田ノ浦の北方吉野村にある島津公の邸であつた。中には御望みなら御覧なされるやうにして上げませうかなどゝ云つて呉れる人もあつた。

この男2人のブラブラ歩きは、明治41年(1908)8月1日の鹿児島でのことです。いいあんばいに肩に力の入っていない、ちょっと感傷的な街歩きです。

 ●鹿児島駅の停車場(旅館まで車で移動)
 ●中町通
 ●中學校だの師範学校だのある上のところに位置する旅館(現在の小川町あたり?)
 ●「友達」と落ち合い旅館で鯛の刺身でビール
 ●午後から城山登山
 ●公園の見晴しの好い處・茶屋(城山展望台あたり?)
 ●岩崎谷・西郷の終焉の地(暑かったので西郷墓地には行かず)
 ●城山のすぐ下聯隊司令部のある方『あれが中學校、あれが造士館、あれが市役所、あれが縣廳』(鶴丸城跡の堀あたり)
 ●中町通
 ●本願寺別院
 ●島津斉彬を祀つた照國神社
 ●石造の興業館(現在の県立博物館考古資料館で現存しますが、立入禁止になっています。)
 ●運漕店の澤山並んでゐる波止場
 ●名山堀
 ●旅館
 ●午後4時ごろ町に出て、春日町だの清水町だのといふ町に
 ●稻荷川の岸辺の薩摩燒の陶器を賣る家(慶田窯ほか?)
 ●祇園之洲の料亭(三日月か山海樓か風景樓のいずれか?)

並べてみると、一日で、よく歩いています。二人の歩いた「市中の見物」鹿児島市観光の行路は目に見えるようです。明治41年のことですので、まだ天文館周辺(まだ中学生の島津久基が住んでいるはずです)は鹿児島の繁華街ではありません。コースからはずれています。

夜の宴会では、「国木田獨歩の友達」だという人も登場しますが、この旅の直前、明治41年6月23日、国木田獨歩は亡くなっており、田山花袋はその告別式で弔辞を読んでいます。

加藤雄吉の父親は薩摩軍の小隊長として従軍し、戦後約3年収監されていていますが、一方、田山花袋の父親は官軍に従軍し戦死しています。その墓は熊本の八代にあって、この旅で、田山花袋は初めて父親の墓参りをしています。西南戦争はこの2人の背景にあります。

実は、この前の年、明治40年(1907)10月、加藤雄吉は、鹿児島二中の教師坂田長愛と共著で『鹿兒島縣案内』というガイド本を作っているので、鹿児島市の案内役としては、適任のはずなのですが、含羞の人なのか、 「もう、こんなもんだよ、他には見るものはありやしないよ」と言ってしまうところが、ちょっとかわいいです。

 

田山花袋は鹿児島を去って、熊本の球磨に泊まっています。その部分を『日本一周(中編)』から引用します。

 鹿兒島にゐる時、『玖摩に行つたら、燒酎を飮みたまへ、それは好い燒酎だ。とても、此處のとはくらべものにはならない』かう友達が言つて呉れた。私は二三日前、鹿兒島の停車場で大勢の友達に送られて別れて來た。私は燒酎を飮みながらその友達のことなどを考へてゐた。
 その友達は二十年ほど前、神田の狹い巷路の中の英語の學校で逢つた人達であつた。一緒に歌などを詠んで、下宿屋の二階で、一夜百首などをよくやつた。その友達の一人は、鹿兒島から三日かゝらなければ行けないやうな海の中にゐた。
 鹿兒島にゐる友達と、その遠い友達の噂などをした。『奴も、滅多に鹿兒島にやつて來ませんよ、三年に一度位しか――』などゝ言つた。その遠い友達は、いつも櫻島の景色を賞めて、日本であんな好いところはないと云つてゐた。『是非、一度やつて來たまへ』などゝ言つた。で、私は其處から『櫻島君にきゝにし櫻島一人して見る此夕かな』といふ歌をよんで、そしてそれを繪はがきに書いて出した。
 私は燒酎を飮みながら,鹿兒島にゐる友達にやる歌を考へた。『君もあれどあづまの空に我を待てる妹のこひしき此夕かな』かう書いてそれにつゞけて、『さはいへと君そこひしき一人してあたら若鮎くまの濃き酒』これを私は玖摩川の繪葉書に紫鉛筆で書いて出した。東京にゐる女のもとにもそれと一緒に一枚出した。それにはかういふ歌を書いた。『はるばると野こえ山こえ來ても猶夜毎に君の夢をのみ見る』

田山花袋の鹿児島訪問を楽しみにしていた加藤雄吉は、『觀雲亭家集』に次のような歌を残しています。

 同年[四十一年]八月一日田山花袋氏の來麑を停車場に出迎に出し時
    しばしだに早く逢はばやかたらばや君がくるまの待ちとほき哉

加藤雄吉の『しばしだに早く逢はばやかたらばや君がくるまの待ちとほき哉』と、田山花袋の『君もあれどあづまの空に我を待てる妹のこひしき此夕かな』『さはいへと君そこひしき一人してあたら若鮎くまの濃き酒』という歌の応酬があったわけです。

田山が絵はがきに『櫻島君にきゝにし櫻島一人して見る此夕かな』 という歌を書いて送った相手は、沖永良部の土持綱安です。

明治41年は、柳田國男も、農商務省の官僚として5月24日から8月22日にかけて九州を視察しています。この視察時の見聞は後に『後狩詞記』にまとめられます。鹿児島は6月下旬に巡回しています。 そのときの加藤雄吉の歌も残っています。

 同じ年[四十一年]の夏鹿兒島にて久しぶりに柳田國男君に逢ひける時
   まづ何を聞きて何より語るべき十とせぶりにて君に逢ひにけり

旧友と会う機会があったということは、加藤雄吉のためにも喜ばしいことでした。

加藤雄吉は、田山花袋が『東京の三十年』で生き生きと描きだした明治二十年代に、田山花袋や柳田國男らに、桂園派の歌人松浦辰男を通して知り合ったようです。その交遊については、兼清正徳の『松浦辰男の生涯 桂園派最後の歌人』(1994年、作品社)に書かれています。

 

尾花集_加藤雄吉著編刊行目

▲『尾花集』巻末の加藤雄吉著編刊行目。加藤雄吉之墓のそばに生えていたムラサキカタバミを本のしおりにさせてもらいました。

 加藤雄吉著編刊行目
  ○觀雲亭家集(明治三十九年刊)
  ○鹿兒島縣案内(坂田長愛氏と共編、明治四十年刊)
  ○作樂園遺稿(大正元年刊)
  ○日當山侏儒戯言(大正二年刊)半仙子
  ○薩州群書一覧(大正五年刊)

この刊行目以外に『串木野村史資料』があります。 『尾花集』をはじめ鹿児島県立図書館で読むことができます。『尾花集』『日當山侏儒戯言』は、国会図書館の近代デジタルライブラリーでPDFをダウンロード可能です。

加藤雄吉が「半仙子」というペンネームで出した『日當山侏儒戯言』は、鹿児島のトンチ話で知られる日当山侏儒ドンの再話です。現在では、伊地知信一郎『日当山侏儒どん』(1968年、三州談義社) や椋鳩十『日当山侏儒物語』(1980年、ポプラ社)の再話が知られていますが、加藤は大正2年(1913)に先駆けて試みていました。鹿児島の久永金光堂が出した80ページほどの小冊子(印刷は嘉定社)で、総ルビで読みやすいのですが、加藤の性癖というか、つい考証にはいってしまい、日当山侏儒ドンのトンチ話と『醒睡抄』『假名世説』『常山紀談』『笑ふはやし』中の似た挿話との比較に筆が進んでいます。 素直に再話だけにした方が子どもたちにも受けたような気がします。「半仙」というペンネームも、半分人間界を脱した存在ということでしょうか、人を食っています。

 

尾花集_蔵書印_愛甲蔵書

▲『尾花集』に押されていた元の所有者の蔵書印。

手もとにある『尾花集』は、東京・神田の古書店で求めました。加藤雄吉と田山花袋は神田で出会ったようなので、これも何かの縁かもしれません。この本には、旧所有者の蔵書印が押されていました。「愛甲蔵書」と読むのではないかと思います。加藤雄吉と同時代で、愛甲というと、主に関西で活動した、鹿児島曾於出身の実業家・愛甲兼達(1862~1928)が思い浮かぶのですが、たぶん愛甲兼達旧蔵の本で間違いないと思います。

大正12年(1923)に大阪毎日新聞で連載された「関東関西の財閥鳥瞰」(全157回)中の記事に、愛甲兼達は次のような人物と紹介されています。

愛甲氏は鹿児島県士族。久しく浪速銀行の常務取締役として、頭取松方正雄氏を助けて浪速の発展を遂げしめ、現在十五(銀行)の常務たる外、泰昌銀行、鹿児島電気軌道、大洋商船、大隈鉄道、鹿児島紡織、日本海事工業、日本水電、東印拓殖、南国ゴム工業、薩摩製糸、羊毛整製、東京瓦斯電気工業の各取締役をして居り即ち単に十五銀行関係のみならず郷県の事業に可なり関係している。現在も依然として旧の十五銀行大阪支店に在り、関西方面に於ては薩州系財界の人々の重鎮である。氏は僅かに師範学校を出たのみで、シカモ、中々に積極的、進歩的の人で、浪速銀行でドシドシ学士を採用したのは氏の方針であったと云い、現蔵相市来氏とも親善の間柄であると称せられる。

貴族のための銀行と言われた十五銀行は、なぜか松方巌、松方正雄や園田孝吉など薩州系の人脈が経営していていたのですが、愛甲兼達もその一人でした。昭和2年(1927)の金融恐慌で事実上破綻し、愛甲兼達はその処理のさなか、昭和3年(1928)に亡くなっています。

 

愛甲喜春先生記念碑

▲鹿児島市の南林寺墓地にある愛甲喜春先生碑

鹿児島市の南林寺墓地にある愛甲喜春先生碑は、愛甲兼達が中心になって昭和2年に建てられました。篆刻は、梅園良正。『愛甲喜春先生碑』と『尾花集』に押された蔵書印の「愛甲」の文字を比較すると、同じ手で書かれ刻まれたものではないかと思われます。
愛甲喜春先生碑の撰文は西村天囚(西村時彦)です。西村天囚(1865~1924)は、種子島出身で、大阪朝日新聞の主筆を務めました。コラム「天声人語」の名付け親とされています。京都帝国大学の講師もつとめ、大阪(大坂)の懐徳堂の再興を図ったことで知られています。『日本宋学史』『南島偉功伝』などの著書があります。同郷のよしみということもあったのか、愛甲兼達は、西村天囚の活動を支援していたようです。

 

愛甲喜春先生碑_愛甲兼達

▲「愛甲喜春先生碑」裏面にある愛甲兼達の名前

この江戸時代初期の儒学者、愛甲喜春(1605~1697)の記念碑建設は、愛甲兼達が中心になって計画され、西村天囚による碑文は大正12年10月に書かれ、碑の裏面には、昭和2年2月の日付で愛甲兼達が碑を建てた経緯と関係者への感謝を述べた文章が刻まれています。

おもに関西で活躍した西村天囚と愛甲兼達は、懐徳堂再興を通して、大阪の文化的アーカイブに寄与しています。西村天囚は、江戸時代からの大坂(大阪)の市民教育施設・文庫であった懐徳堂の再興をはかり、愛甲兼達もその蔵書を懐徳堂に寄贈しています。西村天囚の蔵書も懐徳堂に寄贈されて、その重要なコレクションになっています。

加藤雄吉は「山田清安の蔵書に就て」というエッセイで、山田清安の蔵書の滅んだことを惜しんでいますが、蔵書の行方という点では、愛甲兼達や西村天囚の蔵書が大阪の懐徳堂に収められたということは、その行き先として候補としてありえた鹿児島に、受け皿がなかったということを意味しているとも言えます。無い物ねだりかもしれませんが、誘致する方はいなかったのでしょうか。とても惜しい気がします。

 

ところで、蔵書といえば、以前『釣技百科』を紹介した松崎明治の蔵書は、鹿児島大学水産学部に残されていて、7月にその展覧会が開かれるそうです。
松崎明治の釣り関連の蔵書約300冊、雑誌16タイトルは、鹿児島大学水産学部の前身である鹿児島水産専門学校に寄贈されて、「松崎文庫」として残されていたそうです。鹿児島大学附属図書館水産学部分館は、平成26年(2014)6月、リニューアルオープンし、7月14日(月)~18日(金)の短い期間ですが、分館所蔵の「松崎文庫」の展示会と松崎明治についての講演会が開催される予定だそうです。

 

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136. 1929年の島津久基『羅生門の鬼』(2014年6月12日)

1929島津久基_羅生門の鬼_箱

島津久基の最初の随筆集『羅生門の鬼 ―國民傳説二十三話―』〔昭和4年(1929)5月30日印刷、昭和4年6月5日発行、新潮社〕です。
箱の題字を書いているのは、日本の図書館学の基礎を築いた国文学者、和田萬吉〔慶応元年(1865)~昭和9年(1934)〕です。島津久基の本は、装釘がびしっと決まっています。

島津久基は、島津家の分家のひとつ、大隅半島の鹿屋市花岡に領地があった花岡島津家の9代目にあたります。花岡島津家はふだんは鹿児島城下に住んでいて、久基は鹿児島市の花岡島津邸で、明治24年(1891)4月16日に生まれています。花岡島津邸は、現在の天文館の中心にあたる場所にあって、約3000坪の屋敷を構えていました。

明治43年(1910)に鹿児島一中を卒業、 大正2年(1913)に第七高等学校造士館の文科乙類を卒業して東京帝国大学文科大学に進むまで鹿児島で過ごした、生粋の鹿児島育ちです。島津久基が育ったころの天文館周辺がどんなふうだったかというと、鹿児島市が出した『鹿児島のおいたち』(1955年)に「大正の初めまで天文館通りは中福良通りとよばれ夜など暗く寂しいところであった」とあります。どうも島津久基が東京に進学したころから、天文館周辺の歓楽街化・繁華街化が進んだようです。

東京帝国大学文科大学国文学科を卒業後、大正11年(1922)には東京帝国大学助教授になっていますが、生来虚弱体質で病気がちなため、大正15年(1926)にはいったん退官。東洋大学教授などを経て、昭和18年(1943)に東京帝国大学教授となります。しかし、病には勝てず昭和24年(1949)4月8日、病没しています。57歳でした。

こういう古典素養が豊かな存在が鹿児島の街から育ったのか、どこか不思議なくらいの博覧強記の国文学者です。逆に考えれば、条件次第では島津久基のような存在も鹿児島から生まれ育つという証拠でもあります。

著書は、『近古小説新纂初輯』(1928)、『対訳源氏物語講話』〔第1巻(1930)~第5巻(1949)で中絶〕、『義経伝説と文学』(1935)、『源氏物語新考』(1936)、『国文学の新考察』(1941)、『やまとごころ』(1942)、『日本文学考論』(1947)、『光る君』(1948)、『紫式部 人とその作品』(1948)など多岐にわたりますが、 個人的には、『羅生門の鬼』や『歡喜咲(ゑらぎ)』(1942年、河出書房)、『鎌倉つれづれ草』(1947年、矢島書房)などの随筆集が、その装釘も含めて、気に入っています。

 

島津久基が眠る「島津家之墓」

▲鹿屋市の花岡にある花岡島津氏歴代墓地に、島津久基が眠る「島津家之墓」があります。島津久基は鹿児島を離れたあと、東京・鎌倉で生活していましたが、お墓は郷里の花岡にあります。機会があったのでお墓参りをしました。花岡島津氏歴代墓地には、初代久儔から9代久基に至るまでの歴代の墓があり、7代からは「島津家之墓」に一緒に眠っています。その「島津家之墓」の正面下部に碑銘があり、表面はだいぶ痛んでいて特に没年の刻まれた下部は剥落して読めなくなっていますが、おおよそ次のように読めます。

  久敬 文政十一年十一月十日生
  結子 天保十年五月八日生 明治廿七年二月
  久実 慶応二年一月一日生 大正十二年二月
  佐江子 明治元年十月十九日生 大正十一年十二月
  久基 明治廿四年四月十六日生 昭和廿四年四月

  稜威雄 明治廿六年二月八日生 昭和四十五年

左側にこの墓の建立者名が刻まれています。

  島津久代
    直久
    稜威雄
  昭和二十七年十二月建之

久敬は花岡島津家7代、結子はその妻。久実は花岡島津家8代、佐江子はその妻。久基は花岡島津家9代で、稜威雄は久基の弟。左側面にある島津久代は久基の妻、直久は久基の養子だと思われます。

 

島津久基のお墓に『羅生門の鬼』と『歡喜咲』

▲島津久基のお墓に『羅生門の鬼』と『歡喜咲』をお供えしました。
天空高くヒバリがピーチクパーチクさえずっている、のどかな日でした。墓所隣の畑の上で、ヒバリの急降下を久しぶりに見ることができました。

 

1929島津久基_羅生門の鬼_表紙

▲『羅生門の鬼』の表紙。箱から本を取り出すと鬼が飛び出します。表紙の鬼は狩野直信筆「厳島繪馬鑑」によるもの。写真のカタバミの葉は、島津久基のお墓参りをしたとき、そのお墓にかたわらに生えていたものです。『羅生門の鬼』や『歡喜咲』『鎌倉つれづれ草』のしおりにしています。

平凡社の東洋文庫版『羅生門の鬼』(1975年)では、新潮社版に収録されていた図版が「旧版には、写真・図版などが若干掲載されているが、あまり意味のないものが多く、且つ複刻の効果が技術的に期待出来ないため、本書ではすべてこれを割愛した」ということになっています。確かに印刷図版の出来があまりよくないとはいえ,すべて省略するのも惜しい気がします。中には、挿絵の黄金時代のイラストレーター、エドマンド・デュラック(Edmund Dulac、1882~1953)の描く「萑の中のモーゼ」を引用していたりして、デュラックのイラストを引用することの弱さも含めて、同時代性を考える上でも興味深いものがあります。

 

島津久基『歡喜咲』の箱

▲島津久基『歡喜咲』〔昭和17年(1942)11月10日初版印刷、昭和17年11月20日初版発行(3000部)、河出書房〕の箱。
太平洋戦争中の出版で、内容でも戦時色濃厚ではありますが、どこかのんびりした本です。歡喜咲(ゑらぎ)ということばは、古事記の岩戸伝説で使われたことばです。岩戸にお隠れになった天照大神(アマテラスオオミカミ)を呼び戻すため、にぎやかに楽しげに歌い舞った様子を歓喜咲楽(ゑらぎあそんだ)と表していて、日本の芸能の起源になっていることばです。 困難のなか、病苦のなかからでも「歡喜咲(ゑらぎ)」が芽生える――そんな心境から付けられたようです。

『羅生門の鬼』では、鹿児島についての言及はほとんどありませんでしたが、『歡喜咲』では、いくつか印象的に登場します。「相撲を聴く」(1939年)で「小生がまだアンヨは上手時代のこと、地方巡業の一行が私の郷里で打つた折り、一人の力士に抱かれて土俵の中を廻つた」思い出を語り、「けむり嫌ひ」(1939年) では、煙草が駄目な島津久基が、愛煙家だった両親を語っています。「阿久根の鶴」(1942年)は 、昭和13年(1938)初春、公用で19年ぶりに故郷の鹿児島に出向いた折、帰りに阿久根の榮屋で温泉に浸かり、鶴を見に行く長閑なエッセイです。 「我が温泉ノート」(1941年)というエッセイで「新鮮な味でいつも想出すのは、九州の故山から歸京の途、鶴の群棲を見學に行つた阿久根温泉での海老料理だ」とも書いています。 鹿児島のいろいろな温泉にも浸ってほしかった。

「阿久根の鶴」を読んだとき、個人的なことですが、「榮屋」という名前に引っかかって、20年ぐらい前に一度泊まったことがあるのを思い出しました。確か弟が父にとっての初孫を連れて帰省したときに、鶴見学がてら家族みんなで栄屋旅館に泊まったのです。栄屋旅館は今もあって、ぼんたん湯と伊勢エビ料理が名物になっているそうです。

博覧強記を誇るとはいえ、島津久基の随筆は基本的に読みやすいのが特徴です。ラジオ放送で話したことをもとにした作品も結構あって、話し言葉を意識したテキストになっています。日本でラジオ放送が開始されたのは大正14年(1925)3月22日ですから、ラジオが、明治の書き言葉とは違う、昭和の新しい書き言葉に与えたものは大きかったのではないかと感じます。

 

『歡喜咲』の表紙

▲『歡喜咲』の表紙。ごぞんじ鳥獣戯画をモチーフに。

『歡喜咲』では、「妖氣」(1942年)という随筆が尾をひきます。大正11年(1922)、東京帝大での講義の後、危篤になってからの体験を語ったものです。なすすべがないように思われた島津久基の治療に当たったのが尼子先生で、この人は、夏目漱石『吾輩は猫である』で「甘木ドクトル」として登場するお医者さんです。

島津久基の随筆がもつ資質と近い書き手を挙げるとすると、まず芥川龍之介(1892~1927)が連想されます。 芥川龍之介が明治25年(1892)3月1日生まれで、島津久基とほぼ同世代ということもありますが、旧制高校的な教養主義が20世紀になって生みはじめたテキスト群ということで、共通のくくりに入れられるような気がします。ペダンティックを嫌味と思う人には向かないかもしれませんが、引用が引用を呼び彩模様を織り上げるようなテキストを好む人には向いています。世界の中心でない場所で世界の中心に近づこうとする、どこかボルヘスの迷宮にも通じるテキストとして読むこともできるのではないかと思います。

また、島津久基は、生涯を「虚弱体質」と折り合いをつけて過ごした人です。病とテキストを結びつけるのは野暮な振る舞いですが、島津久基の晩年の主治医だった武見太郎の診断では、島津久基の病は「慢性肺炎」と「アレルギー症」ということになっています。 今は廃れた肺結核のテキストというものが、当時主流で、かつて確かにあったとすれば、島津久基はそこには属していません。「アレルギー症」ということで、かえって現代的な読み返しができるような気もします。

「つゆ空」(1932年) では鹿児島一中時代の恩師のことを書いています。

書け書けと言ふ人ばかり多い中に、たつた二人だけ書くなと言つてくれた人がある。一人は畏友平林治徳君である。「書くな、書くな、書き過ぎるな」と、いつも君は言ふ。私が書かないのも、書けないのも、そして事實、雜誌にすら一年に一つか、二年に一つしか書かないのを十分知つてゐて、而も猶さう言つてくれるのだから有難い。もう一人は出身中學の恩師樋渡清廉先生である。私が國文學に志した第一の機縁はこの先生の感化だと言つてよい。母校に教鞭を執られる事二十有餘年、先頃後進に道を譲つてめでたく勇退せられたが、去年の春、在京卒業生に招かれて東上せられた折、赤羽の假寓をお訪ねして、十二年ぶりで溫容に接する事が出來た。久闊を舒し、追懐に耽り、文學を談じたりもした中に、昔に變らぬ慈父のやうな先生の、この我がまゝな大供に對する心からの訓辭は、「あんまり書いてはいけないよ」の一言であつた。やつぱり先生だ。本當によく自分を知つてゐて下さると、泣きたい程嬉しかつた。『羅生門の鬼』を送つてあげた時、自分としては實は最も會心のものの一つである「齋藤別當實盛」を、全巻の中で一番面白く讀んだと、書いてよこされた唯一人の人も、この先生であつた。

樋渡清廉(ひわたしきよかど、1870~1953)は、鹿児島一中で国語・漢文を教えた名物教師だった人です。『鹿児島県姓氏家系大辞典』(1994年、角川書店)によれば、「給黎郡知覧郷郡村(知覧町)出身。早稲田専門学校の一期生。鹿児島第一中学校国漢教師を36年務めた。 昭和10・11年には鹿児島県史編纂協議委員を務めた。郷土を愛し,母校知覧小学校の記念誌や顕彰碑に数多くの文を残した。」とあります。東京の早稲田に学んで帰郷後は、一中だけの教師生活だったようです。『知覧町郷土誌』によれば、樋渡清廉は、「古今和歌集」を重んじる桂園派とよばれる系統に連なる歌人で、系統でいうと、宮原直二の歌の弟子で、 宮原直二は宮原景賢の子、宮原景賢は,賀茂真淵派の歌匠・井上文雄の柯堂塾に学び、香川景樹の子、香川景恒の弟子にあたるそうです。つまり桂園派の祖・香川景樹直系の、正統の系譜に連なる人です。また、メアリ・フェノロサの2番目の夫レッドヤード・スコット(Ledyard Scott)についての数少ない記述のある『島津珍彦男建像記念誌』(1923年)や薩摩桂園派の八田知紀の記念誌『八田大人翁記念誌』編著者でもあります。樋渡清廉は、沖永良部島の和泊にある西郷隆盛関連の碑文も書いており、これは桂園派の歌人でもあった和泊の土持綱安との関係からと思われます。どうも薩摩の桂園派コネクションは探索のしがいのある領域という気もします。

平林治徳(1889~1959)は谷崎潤一郎(1886~1965)とも親しかった国文学者です。その谷崎について、島津久基は「古典随想」(1935年)というエッセイで「ウエリー氏の英譯文を更に日本語へ重譯した谷崎氏の文」 と書いています。これは毒でしょうか。

 

島津久基『鎌倉つれづれ草』カヴァー

▲『鎌倉つれづれ草』〔昭和22年(1947)1月5日印刷、昭和22年1月10日發行、矢島書房〕のカヴァー
東京への爆撃での防空壕暮らしで体調を崩し、療養もかねて鎌倉で暮らした時期の随筆集です。『歡喜咲』に続いて、犬バカものとも言えそうな愛犬記「ミツチヤン」ものも掲載。 島津久基の愛犬「ミツチャン」の一人称で語られる読み物で、その溺愛ぶりは内田百閒のノラものに通じるものがあります。


島津久基『鎌倉つれづれ草』の表紙

▲島津久基『鎌倉つれづれ草』の表紙。
題字並装釘は松邨巽によるもの。制作・印刷の段階では、¥25.00と設定されていた価格が、発行の段階でインフレが進んだのでしょう、¥85.00に手書きとシールで修正されています。

「亡父の歌」で学生のころ、父親が葉書で送ってきた歌について 「亡父は景園風の歌にかけては、相當詠み古してゐて、郷里ではいつしか所謂「大人」の仲間入させられ、よく諸處の歌會の點者などに引張り出されてゐたのだつた。」 と書いています。島津久基の父、島津久実は景園(桂園)風の歌をよくする人でもあったようです。

『鎌倉つれづれ草』は、「この書の印刷のさなかに恰も家弟の歸還せしを記念する爲によめる句並びに歌」(1946年)で締めくくられています。 「家弟」は、戦地から帰還した弟、島津稜威雄のことです。島津稜威雄は海軍の主計少将でした。昭和45年(1970)に亡くなり、花岡の「島津家之墓」に眠っています。この「島津家之墓」に眠る花岡島津家最後の人になっています。

  兄一人弟一人が亡き母のみ影の前に相逢へる今日
  ともしくと背戸の畠の初ぎうりトマトも切りて夕げかざらむ
  家こぞりゑらぎとよみて思はず見上げし額の笑まひ給へる

 

鶴羽城・鶴羽城跡

▲花岡島津家の御仮屋があった鶴羽城は、御一新後の明治2年、花岡の地頭になった高崎正風(1836~1912)が育英堂とし、のちに鶴羽小学校となります。その鶴羽小学校は2013年3月に廃校となって、144年の歴史に幕を閉じていました。高崎正風はそれこそ明治の桂園派の中心人物で、宮中の御歌所の初代所長になった人物で、正岡子規らから「旧派」と揶揄された存在です。

変な考えかもしれませんが、地方都市での「島津久基のつくりかた」ということで、その条件を考えてみると、旧家、虚弱体質、旧制高校など、いろいろな条件が混じり合っているのでしょうが、父親の島津久実、恩師の樋渡清廉など桂園派の敷島の道に親しんだ人々が周りにいたことも大きかったような気がします。

「もしも」や「ないものねだり」になるのですが、島津久基が幼年・少年・青年期を過ごした鹿児島時代〔明治24年(1891)~ 大正2年(1913)〕の回想を書き残してくれていたら、と思います。久基の両親、母・島津佐江子は大正11年(1922)、父・島津久実は大正12年(1923)に亡くなっています。天文館に3000坪の屋敷があった花岡島津家が鹿児島から東京へ移ったことで、天文館が繁華街に変わったとも考えられます。今ではあまりピンと来ないのかもしれませんが、明治の鹿児島は火事が多く、例えば島津久基が天文館の花岡島津邸で暮らしていた時期、天文館は何度も大火に遭っています。

 ・明治26年(1893)3月28日 東千石町で出火。全焼92戸。
 ・明治27年(1894)1月24日 金生町から出火。東千石馬場も延焼。555戸全焼。
 ・明治34年(1901)10月23日 天文館大火。362戸全焼。
 ・明治44年(1911)9月6日 天文館通りで出火。96戸全焼。

そうした鹿児島の中心街の移り変わりを含めて、虚弱体質だけれど、博覧強記の資質を持つ少年の回想は、とても魅力的なものになったのではないかと思います。テキストとテキストの間を響き合う鈴の音を聞き分ける「銀の猫」(1931年)のような随筆を書く島津久基なら、わたしたちが見たことのない鹿児島を描きだしてくれたのではないかと想像してしまいます。

「あんまり書いてはいけないよ」という気持ちもわかりますが、島津久基のような存在には、書き散らしてほしかった。長生きしてほしかったな、と思います。

 

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135. 1943年の『FLEURON』誌刊行20周年記念に催された食事会のメニュー(2014年4月25日)

1943年『Fleuron』誌20周年昼食会メニュー01

およそ70年前,第2次世界大戦中の1943年4月21日水曜日, ロンドンのレストランで開かれた『FLEURON』誌創刊20周年の記念に開かれた昼食会のメニューです。メニューを印刷しているのはCurwen Pressです。

父の49日が過ぎても,まだそれが現実でないような,よるべない感覚がついてまわります。何か記憶に残るものを,記憶を仮託するものを,と考えました。結局,わたしの場合,「本」ということになってしまいます。いつもなら不相応かなと躊躇するタイプの本なのですが,ちょっと奮発して,1923年から1930年に刊行されたイギリスを代表するタイポフラフィーの年誌『FLEURON』誌の7冊セットを手もとに置いてみたいと思い,古書店でその揃いを注文しました。 『FLEURON』誌には,約100部のデラックス版と約1000部の通常版がでていましたが,通常版の揃いです。

その1冊,1930年刊の『FLEURON』7号(終刊号)に,この昼食会のメニューが入った手紙が挟み込まれていました。

1943年,『FLEURON』誌が刊行されて20年,終刊になって13年,その刊行にかかわった人たちが集まった昼食会です。まさに戦時中ということもあって,記念の昼食会といっても,簡素なメニューです。試訳すると,

・オードブル
 「盛り合わせ,トゥルネ風に」
・アントレ
 「牛の蒸し煮,フリューロン風に」
・甘味
 「果物のコンポート,ジャクソン風に」

といったところでしょうか。タイポグラファーたちの昼食会だけあって,メニューの命名もタイポグラファーらしい遊び心のあるものになっています。 「盛り合わせ, トゥルネ風に(varié Tournesien)」は,フランス・リヨンの出版印刷業社ジャン・ド・トゥルヌ(Jean de Tournes, 1504~1564)から, 「牛の蒸し煮, フリューロン風に(Bœuf Braisé Fleuronné)」は,『FLEURON』誌の由来にもなっている印刷オーナメントの花型装飾活字から, 「果物のコンポート,ジャクソン風に(Compôté de Fruits Jackson)」 は, 昼食会にも参加した本好きの著作家ホルブルック・ジャクソンから名づけられたのでしょうか。

この『FLEURON』終刊号に挟み込まれていた手紙は,アメリカ・ニューヨーク在住のPaul Standard宛のものです。この揃いの元の所有者だったようです。Paul Standard(1896~1992)は,ロシア生まれのアメリカの書家(Calligrapher)で,イタリック体を得意とする人です。どうやらCurwen Press関連のコレクターだったようです。手紙の消印の日付は1943年4月22日ですので,20周年昼食会が開かれたその翌日に投函されたようです。

1943年Paul Standard宛名

▲Paul Standardへの宛名

1943年Paul Standard消印

▲手紙の1943年4月22日付け消印
消印上部にある「[  ]STOW」は,Curwen Pressの所在地PLAISTOWだと思われます。

手紙には,短いメモも同封されていました。

1943年Paul Standard宛メモ

▲Paul Standard宛のメモ

  22/4/43
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「このメニュー,きみのアーカイブ向けだな!」と書き送っているのは,たぶんCurwen Press代表のオリヴァー・サイモンです。 こうしたエフェメラをコレクターは喜ぶものです。Paul Standardは,そういう顧客だったようです。

 

1943年検閲テープ

▲封筒左側には「OPENED BY EXAMINER 1522」とテープが貼ってあって,開封して検閲されています。
ロンドンからニューヨークへの郵便物が検閲されているのは,いかにも戦時中です。


昼食会メニューの裏には,同封メモと同じ手で,『FLEURON』誌20周年昼食会の参加者名が書かれています。

1943年『Fleuron』昼食会メニュー裏

▲メニューの裏側のメモ

 Present
  Oliver Simon
  Stanley Morison
  Francis Meynell
  Holbrook Jackson
  Herbert Simon

この両大戦間のイギリスを代表するような出版人たちは,戦火の深まるなか,何を話し合ったのでしょうか。

オリヴァー・サイモン(Oliver Simon,1895~1956)は,イギリスの印刷出版業者。ハロルド・カーウェン(Harold Curwen,1885~1949)とともにCurwen Pressの代表者。『FLEURON』1号~4号の編集を担当しています。 『Introduction to Typography』(Faber,1945)は古典です。
スタンレー・モリソン(Stanley Morison,1889~1967)は,イギリスのタイポグラファー。20世紀を代表する新聞活字タイムズ・ニューロマン(Times New Roman)の制作者です。『FLEURON』5号~7号の編集を担当しています。
フランシス・メイネル(Francis Meynell,1891~1975)は,イギリスの印刷出版業者。Nonesuch Pressの創設者。詩人アリス・メイネル(Alice Meynell,1847~1922)の息子です。
ホルブルック・ジャクソン(Holbrook Jackson,1874~1948)は,イギリスの文筆家。日本では,19世紀末藝術を論じた『世紀末イギリスの芸術と思想(The Eighteen Nineties: A Review of Art and Ideas at the Close of the Nineteenth Century)』が翻訳されています。『FLEURON』誌の寄稿者のひとりで,『書痴の解剖学(Anatomy of Bibliomania )』など書物エッセイの書き手です。
ハーバート・サイモン(Herbert Simon,1898~1974)は,オリヴァー・サイモンの弟で,オリヴァー亡き後,Curwen Pressの経営にあたります。両大戦間期のCurwen Pressの記録『Song and Words: A HISTORY OF THE CURWEN PRESS』(GEORGE ALLEN & UNWIN,1973)を残しています。


『FLEURON』7冊揃いを注文したときには,うかつにも,そのことに思い到らなかったのですが,父は1930年生まれなので,無意識に父と同い年の本を注文していたわけです。 特に終刊号は,父と全く同じ年月を過ごしてきた本です。その質実でいて,優美な姿勢は,やはり好きにならすにいられません。

この本に挟まれていたメニューも,父からの贈り物のような気がします。

 

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134. 1995年の平田信芳『石の鹿児島』(2014年2月27日)

平田信芳_石の鹿児島

  ――父・平田信芳の著作目録準備のための覚書・その1――

父の本です。表紙に鉛筆で「訂正用」と書かれています。
 印刷 平成7年3月31日
 発行 平成7年4月7日
南日本新聞開発センターから出ています。1986年(昭和61年)11月から南日本新聞夕刊に連載した歴史エッセイを中心として,鹿児島において石造建築物・石碑など石の文化が連綿として続いてきたことを示した本です。その「石の街」鹿児島は,近代化とともに,その姿を急ぎ足で変えています。1993年(平成5年)の8・6水害で,鹿児島の石橋群が破壊流出し,結果的にその挽歌となった本です。

父の仕事には,あまり関わってきませんでしたが,この本では挿絵を手伝いました。今思えば,大胆な省略もなく,緻密な描き込みもなく,中途半端な仕上がりの挿絵ばかりで,もっと気持ちを込めて描けばよかったと後悔しきりです。変な照れというか,余計なものがあったのかもしれません。父と息子というのは難しいものです。

父,平田信芳は,2014年(平成26年)2月15日に,亡くなりました。
家族に見守られ,穏やかな最期でした。
父が亡くなって,もう2週間近くになります。 ぼんやりばかりしておられません。

それぞれ自分の好きなことをして,お互いの領域にあまり入り込まない家族でしたので,父の領域は,離れたところから見ていました。 父はとにかく筆まめな人でした。父の部屋には,愛用のスポイト式のモンブランで丁寧に書き綴られた,膨大な数の歴史に関するノートやメモ,それにカセットテープが残されています。それに,毎日欠かさなかったスクラップや資料類もかなりの量になります。父の手と頭でなければ,正確に使うことはできないものばかりではありますが,ぼつぼつ,その整理をはじめて,父の著作目録からでも,作り始めようかと考えています。

父が出していた冊子や本は,父の部屋にはそれぞれ1冊ぐらいしか残っていません。
 『浄光明寺の歴史』
という小冊子も書いていたはずですが,今のところ目に付くところには置いてないので,探しているところです。

父が所持していた『石の鹿児島』には,修正の書き込みが少しありますので,遅ればせながらの「正誤表」ですが,掲載しておきます。
 ・88ページ上段1行目「退校さぜる」→「退校せざる」
 ・90ページ下段5行目「諸候」→「諸侯」
 ・182ページ上段9行目「岩永五三郞」→「岩永三五郎」
 ・182ページ下段6行目「一九九三・五・十一・六記」→「一九九三・十一・六記」
 ・巻末著者略歴「鹿児島農高校」→「鹿屋農校」

石の鹿児島_実方太鼓橋

▲『石の鹿児島』のページから。この稲荷川に架かっていた,魅力的な小さな石橋,実方太鼓橋も,8・6水害で破壊流出し,現存しません。

地名が語る鹿児島の歴史

▲平田信芳『地名が語る鹿児島の歴史』(かごしま文庫-38,春苑堂出版,平成9年[1997])
これにも書き込みがある訂正本がありましたので,遅ればせながらの正誤表です。
 ・58ページ下段3行目「七五四年(天平勝宝六年) 一月」→「十二月二十日」
 ・58ページ下段6行目「四月」→改行して「七五四年(天平勝宝六年) 四月」
 ・147ページ下段3行目「駆謨」→「馭謨」
 ・169ページ表「宝永七年 京泊 5反帆以下 6」→「宝永七年 京泊 5反帆以下 46」
 ・195ページ上段2行目「安政八年」→「安永八年」
 ・215ページ上段9行目「平成九年刊行予定」→「平成十年刊行」
 ・217ページ表の最終行「小字末収録」→「小字未収録」
 ・223ページ上段7行目「五十順に整理してあるので、」→「五十音順に整理してあるので」

【2015年10月2日追記】うかつな話ですが、今まで『地名が語る鹿児島の歴史』が増刷されていたことに気付きませんでした。今日、古書店で購入した『地名が語る鹿児島の歴史』は平成13年2月10日発行の第2刷で、第2刷があったことに驚きました。父の蔵書の中には、この第2刷はなかったので、初版のみと思い込んでいました。第2刷では、上の平成9年初版訂正本に書き込まれていた誤記や誤植の部分が修正されています。

父の部屋は父の城でしたので,めったなことでは入りませんでしたが,父が亡くなって,父の部屋で過ごしていると,改めて父のことを知らないのだなと気づかされます。 大ざっぱなものですが,父の著作をいくつか並べておきます。 いちばん大きなかたまりは,父が世話役をしていた鹿児島地名研究会の会報で,昭和58年の第1号から,父が病気になる前の平成22年8月の第113号まで,自分でつくっていましたが,揃っているようです。これは改めて別の機会に取り上げることにします。

父の部屋にいると,こつこつと,ひとつずつ積み重ねていくカタログ(目録)づくりが好きな人だったのだなと思います。グランドセオリーよりも草莽の小さなものごとを大事にする人だったのだな,と思います。

日本地名ルーツ辞典

▲『日本地名ルーツ辞典』平成4年(1992年)
辞典類では,次のようなものに寄稿しています。
 ・南日本新聞社『鹿児島大百科事典』昭和56年(1981年)
 ・『角川日本地名大辞典46 鹿児島県』昭和58年(1983年)
 ・監修=池田末則/丹羽基二『日本地名ルーツ辞典』(創択社,平成4年[1992年])
 ・日本歴史地名大系46『鹿児島県の地名』(平凡社,平成10年[1998年])

『日本地名ルーツ辞典』では,鹿児島県関連の全項目や福岡県・大分県・宮崎県・沖縄県の項目を書き,次のようなタイトルで「地名歴史散歩」などのコラムも書いています。
 ・「新田」の訓(よ)み
 ・性にちなむ地名
 ・「熊襲(クマソ)」は地名
 ・「大」「小」のつく地名
 ・「隼人」の語源
〔注:父の書き込みで,462ページ上段10行目「敏捷く」のルビが「たけ」から「はや」に修正〕
 ・「クワバラ、クワバラ」の由来
〔注:父の書き込みで,647ページ上段5行目「日本後記」→「日本後紀」,647ページ下段2行目「明治三十年、西噎唹郡」→「明治二十九年、西囎唹郡」,647ページ下段19行目「社こと」→「社こそ」と修正〕
 ・山名語尾
 ・日向は「ヒムカ」の転訛か?
 ・豊国(とよのくに)の地名説話

鹿児島関連項目での修正の書き込みでは,
・982ページ上段16行目「奈良時代の『和名抄』」→「平安時代の『和名抄』」
とありました。

七高造士館で学んだ人々(名簿編)

▲七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』(2000年12月,B5判,572ページ)
父は旧制七高の最後の入学者で,「七高生」であったことに誇りを持っていました。父は七高の正確な同窓会名簿の作成を目論み,『名簿編』と『業績編』の原稿を書いていました。七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』は,今のところ七高最後の同窓会名簿で,内容自体は,1高から8高までのナンバースクールの名簿のなかでも最もしっかりしたものと評判もよいようです。
七高の先輩で鹿大元学長の石神兼文さんなど,支援してくださる方も多かったのですが,諸事情で,父たち七高史研究会の自費出版のような形になりました。 本の形になった『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』で,父が手もとに残していたのは1冊だけでした。
そして,1000人を超える七高出身者の書誌目録が中心の『七高造士館で学んだ人々(業績編)』のほうは,とうとう上梓することができませんでした。

『業績編』の原稿・資料を含め,鹿児島大学の総合研究博物館にあずけたという話も聞いていましたが、『名簿編』と『業績編』のノートが父の書庫に残されています。(2014年11月8日、一部訂正)

家族が書いたものを読むのは,なんとなく苦手で,父が亡くなって,はじめて 『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』を手にしました。わたしは七高・鹿大関係者ではありませんが,モダーンな鹿児島を見かえすとき,やはり七高・鹿大は大きなトピックで,わたしなりに関心を持っています。このサイトでも,赤塚正朝らの『楠郷山誌』や『七高さん』,マードック,花田清輝,岩下壮一,四元義隆らのことを取り上げてきましたが,父に直接聞けば,話をもっと膨らますことができたのかもしれません。

『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』を見ると,赤塚正朝の生年は1901年7月15日とあり,それだけでも大きな情報でしたが,没年は不詳でした。

だいぶ前の話ですが,父と磯の旧マードック邸跡周辺を散歩したとき,近くに四元義隆の生家がある偶然に父が感心していたことがありました。「アーカイヴ」そのもののような人であった父から,いろいろ聞いておけばよかったと思うばかりです。

七高造士館で学んだ人々(名簿編)_奥付

▲七高史研究会『七高造士館で学んだ人々(名簿編)』奥付
父の書いた編集後記を読むと,カタログ(目録)制作者としての父の,気持ちの入った仕事だったことが分かります。

 

薩軍城山帰還路調査

▲薩軍城山帰還路調査会編『薩軍城山帰還路調査――城山帰還最後の四日間』(2010年1月,南方新社)
平田信芳,二見剛史,上野堯史,米原正晃,川野雄一,内山憲一の共著。
父のもとめで,表紙の絵を描きました。
父は,最後に西南戦争の戦没者名簿づくりに取り組んでいましたが,それは未完のままになりました。


国分物語

▲『国分物語―郷土史再考―』(昭和59年〔1984年〕)
鹿児島の国分の鎌倉時代までの歴史をまとめた80ページのテキストです。国分高校の七十周年記念誌に掲載したものの抜き刷りです。学校関係の記念誌類にもいろいろ寄稿しているようで,調べる必要がありそうです。

歴史教科書をめぐる諸問題

▲『歴史教科書をめぐる諸問題』(平成13年〔2001〕8月)
こういう小冊子を作っていたことは,まったく知りませんでした。平成13年(2001年)8月,「歴史教科書」問題で議論になっている個所をまとめ,これからの議論のための叩き台にしようと書き上げたもののようです。鹿児島県立図書館には納本していました。

 

薩摩国府_国分寺跡の発見

▲父は,賞状などを飾るタイプの人ではありませんでしたが,本棚の上に無造作に重ねられていた賞状群のなかに,父の薩摩国分寺跡発見にかかわるものもありました。まだ場所が明らかでない国分寺跡を発見するということは,なかなかない歴史的発見ですから,父はよい運の持ち主でもありました。

最後の読書
父が最後に読んでいた本は,平凡社の東洋文庫『五雑組』の第四巻でした。
父は,寝しなに東洋文庫を読んでいくのを愉しみにしていました。『甲子夜話』なども全編読んでいるはずです。『五雑組』の第四巻は,ちょうど「人」の部で,中国の女性列伝のようなパートで,その女たちの記述に飽きたようなところで,生涯の読書生活を終えました。 コラム的なもの,挿話(アネクドート)好きで,そうしたところは親子だなと感じます。だからこそ,何かもっと読み続けたくなるような本を選んであげればよかった,と思います。

 

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133. 1983年のリチャード・カーライン回顧展カタログ(2014年2月8日)

1983Richard Carline_catalogue

1983年,リチャード・カーライン(Richard Carline,1896~1980)没後に,Camden Arts Centreで開かれた回顧展のカタログです。48ページの小冊子で,20世紀初頭のリトル・マガジンのようなフォーマットの展覧会カタログです。ちなみにマルカム・カウリー(Malcolm Cowley, 1898~1989)が要約したモダニストたちのリトル・マガジンの特徴によると,
 ・創刊号は64ページ,ハーフトーンの図版,コート紙。
 ・第2号は64ページ,ラインブロックの図版。
 ・第3号は48ページ,図版無し。
 ・第4号は32ページ,図版無し。
 ・第5号は出ない。
ということだそうです。日本でも「3号雑誌」といいますが,たぶん第4号には「幻の~」と頭につくのでしょう。

リチャード・カーライン回顧展に展示されたのは101点(油彩64点,デッサン・水彩など37点),そのうちカラー図版4点,モノクロ図版6点がカタログに収められています。あとは,Richard MorphetとElizabeth Cowlingによるテキスト,それに年譜と作品情報のシンプルなカタログです。それが48ページ,148ミリ×210ミリ(A5判)、重さ100グラムの小冊子にまとめられています。

A判といえば,A2,A3,B3,B4,B5の判型は18世紀のフランス革命のころから使われていましたが,A0からA10までのA判の国際規格は,1922年のドイツ工業規格(DIN 476)に基づいているので,これもまた,20世紀モダンそのものです。

ということで,この小さなカタログは,モダニストの回顧にふさわしいフォーマットで作られている,ともいえそうです。

今時の展覧会カタログは,展示作品すべての図版を収め,詳細なデータも収録し,コート紙に刷られて,凶器になるくらい大きく重いものが当たり前になっていますし,そうしたものが求められているのでしょうが,こういう簡素な小冊子タイプのカタログも悪くありません。
複製図版は時とともに確実に古びますし,かえってテキストだけのカタログのほうが,想像力を刺激することがあります。

1982Reynolds Stone_V&A

▲「my favorite things 第99回」でちょっと紹介した1982年V&Aでのレイノルズ・ストーン(Reynolds Stone,1909~1979)の回顧展カタログを改めて手にとってみると,いわゆるリトルマガジンのフォーマットからは,ページ数も88ページとちょっと多いですが,139ミリ×215ミリ,170グラムというサイズは,ちょうどいい塩梅で,気に入っています。慎ましいけれど,とても好ましい存在になっています。

このレイノルズ・ストーン展のカタログには,図版は少ないものの,1000点を超える展示品のカタログが掲載されていて,そのタイトルを見ているだけも結構楽しめます。レイノルズ・ストーンは版画家としてかなりの数の蔵書票を彫っていますが,カタログ番号297は,
 297 Peter Pears and Benjamin Britten. Bookplate. 1970
ということで,1970年に2人は一緒の蔵書票を依頼したのかと思ったり,カタログ番号452と453では,
 452 Frances Cagney. Letterheading. c.1934.
 453 James Cagney. Letterheading. not used. c.1934.
1930年代のハリウッドスターの夫妻からも依頼があって,しかしながらジェイムズ・キャグニーはそのレターヘッドを使わなかったのだなとか,ゴシップ的に読む楽しみもあります。

この展覧会では「レイノルズ・ストーンの収集から書籍ほか(Books etc from RS' Collection)」というコーナーがあり,20冊ほどの印刷物が選ばれています。版画家の蔵書として興味深い選択になっています。引用してみます。

 A The Three Jovial Huntsmen. Illustrations by Randolph Caldecott. London 1880.

 B Alice through the Looking-Glass by Lewis Carroll with illustrations by John Tenniel. Macmillan & Co Ltd. 1913.

 C Back of the North Wind by George Macdonald. illustrated by Arthur Hughes. Blackie & Son. 1916. Given to R S by his aunt.

 D In Fairyland. A series of pictures from the Elf world by Richard Doyle, with a poem by W. Allingham. Longmans, Green, Reader & Dyer. 1870.

 E A Memoir of Edward Calvert by his third Son. Sampson Low, Marston & Co. 1893.

 F A General History of Quadrupeds. The figures engraved on wood by Thomas Bewick. 8th edition. Newcastle upon Tyne. Printed by Edw. Walker for T. Bewick, & Son.(Longman & Co, London.) 1824.

 G History of British Birds. The figures engraved on wood by J. Bewick. 8th edition. Newcastle upon Tyne. Printed by Edw. Walker for T. Bewick & Son. 1826.

 H Poets of the Nineteenth Century. Engraved by the Brothers Dalziel. George Routledge & Co. 1857. Illustration to The Sabbath by Birkett Foster.

 I Wayside Poesies. Pictures by E. J. Pinwell, T. W. Worth and Frederick Walker. Engraved by the Brothers Dalziel. George Routledge & Sons. 1867. Illustration by E. J. Pinwell to the poem Shadow & Substance.

 J Engraving by Gwen Raverat from The Runaway by the The Author of Mrs Jerningham's Journal. Macmillan & Co Ltd. 1936.

 K An edition of Libro nel qual s'insegna à scrivere by Giovan Battista Palatino. Rome. 1545. Inscribed ‘Reynolds Stone bought from Orioli in Florence 1936’.

 L Idea del Buon Scrittore by Tomaso Ruinettida. Ravenna. 1619.

 M Calligraphic Models of Ludovico degli Arrighi, surnamed Vicentino. A complete facsimile and instruction by Stanley Morison. Privately printed. Paris. 1926.

 N The Fleuron A Journal of Typography. Edited by Oliver Simon. No I. London. At the office of The Fleuron. 1923. Article ‘Printers’ Flowers & Alabesques’ by Francis Meynell & Stanley Morison.

 O The Fleuron A Journal of Typography. Edited by Oliver Simon. No 3. London. At the office of The Fleuron. 1924. Article ‘The Chancery Types of Italy & France’ by A. F. Johnson & Stanley Morison.

 P Inscribed verso: traced by R S from copy of Pellegrimo's book in The Fitzwilliam Museum Library. c. 1931. La Fleur de la Science de Pourtraicture by Paul Beaujon.

 Q The Fleuron A Journal of Typography. Edited by Stanley Morison. No VII. Cambridge University Press. 1930. Article ‘Eric Gill. Printed and published at the Golden Cockerel Press. 1931.

 R The Four Gospels with decorations by Eric Gill. Printed ans published at the Golden Cockerel Press. 1931.

 S Wood-engraving. A Manual of Instruction by W. J. Linton. George Bell & Sons. 1884.

挿絵本や活字本の選択やその版は,過度に審美的でもなく,着実に仕事をこなす版画家の書架に似合っていて,ケネス・クラークが肯定的な意味でレイノルズ・ストーンに冠した「現実逃避者(escapist)」という呼び名によく合ったものです。グウェン・ラヴェラの『逃亡』(「my favorite things 第36回」で紹介した本です)が選ばれているところも嬉しいところです。

展示された蔵書リストのアルファベットがRSとレイノルズ・ストーンのイニシャルで終わるところも,ちょっと粋です。

 

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132. 1971年のリチャード・カーライン『ポストのなかの絵』第2版(2014年1月26日)

1971Carline_Post

本には2種類の本があります。
初版だけで終わる本と,増補改訂版を出すことのできる本の2種類です。この本は1959年の初版を増補改訂した第2版で,そういう意味では幸福な本です。

『ポストのなかの絵:絵はがきの物語とその大衆芸術史における位置(PICTURES in the POST: The Story of the Picture Postcard and its Place in the History of Popular Art)』(1971,Gordon Fraser)は128ページの小著ですが, 19世紀末から20世紀前半の絵はがきの歴史を,美術史・社会史的観点から簡潔にまとめていて,この種のものでは古典といっていい本です。

著者のリチャード・カーライン(Richard Carline,1896~1980)は,英国のモダニズムの画家・批評家・美術教育者です。本業は画家ですが,1934年に西アフリカの芸術についての本に寄稿したり,絵はがきの歴史をまとめた英国で最初の展覧会「Fifty years of Picture Postcard Art」を1945年に企画したり,1946年に設立されたユネスコ(UNESCO)の最初の「芸術顧問(Consultant in Art)」として第2次大戦後の1946~47年,最初の国際モダニズム展をパリで企画したりと,20世紀モダニズムに足跡を残しています。

1874年,ベルンの国際郵便会議で,それまで「Correspondence Card」と呼ばれていたはがきに「Postcard」という名称が採用され,国と国の間でも配達される「はがき(Postcard)」が定着します。
最初の絵はがきは,1870年の普仏戦争のときのフランスで作られたものだなど,諸説ありますが,イギリスで私製の絵はがきが認められたのは他の国々より遅く,もうすぐ20世紀の1894年からだそうです。
この本では,日本を題材にした絵はがきも少し取り上げられ,東郷平八郎らが描かれた日露戦争の絵はがきが紹介されています。日本の絵はがきも日露戦争の絵はがき流行で一般化したようです。
「絵はがき」というメディアは,19世紀末にはじまり20世紀はじめに開花する,例えばグラモフォンやタイプライターなどと同世代の,意外と新しい存在なのです。

リチャード・カーライン著『ポストのなかの絵』は,次のような目次(Contents)になっています。

  Acknowledgements
  Introduction
 1. The Postcard as Art
 2. The Background in Popular Art
 3. Postal Pictures in Early Victorian Times
 4. The First Postcards
 5. Correspondence by Postcard
 6. The Craze for Collecting
 7. The Artists of the Postcard
 8. The Picture with a Message
 9. Postcards for Propaganda
  Notes
  Select Bibliography
  Index

1970年代のイギリスの本らしいつくりで,好ましい本です。

19世紀から20世紀にかけて,大英帝国の富を背景に,それを食いつぶすようにといったら口が悪いかもしれませんが,親兄弟の多くが藝術にかかわる藝術一家が続出します。カーライン家もその1つです。
リチャード・カーラインは,画家ジョージ・カーライン(George Carline,1855~1920)の息子で,リチャードの兄のシドニー(Sydney Carline,1888~1929)や姉のヒルダ(Hilda Carline,1889~1950)も画家です。 ただ,カーラインはカーラインの名で記憶されるというより,スタンレー・スペンサー(Stanley Spencer,1891~1959)という強いキャラクターの周りにいた人として記憶されています。
リチャードの姉ヒルダは,スタンレー・スペンサーの最初の妻となります。

1999Hilda Carline

▲USHER GALLERYの『The Art of HILDA CARLINE: Mrs Stanley Spencer』展(1999年)カタログ
ヒルダ・カーライン(HILDA CARLINE,1889~1950)の展覧会カタログで、Francis SpaldingとAlison Thomasが寄稿しています。カタログの表紙は,1923年のヒルダ自画像の一部です。
ヒルダの画題は,ともに生活したスタンレー・スペンサーと共通するものが多く,スタンレー・スペンサーの作品と並べると,世界にはいくつもの見方があるという感を強くします。

1972LouiseCollis_Spencer

▲ルイーズ・コリス(Louise Collis,1925~)の『スタンレー・スペンサー私見(A Private View of Stanley Spencer)』(1972,Heinemann)
スタンレー・スペンサーの2番目の妻,謎の多い女性パトリシア・プリース(Patricia Preece,1894~1966)の視点で書かれたスタンレー・スペンサー回想です。
表紙のデザインが,のぞき見る人スタンレーという構図で,意図を感じます。表紙に使われている作品は,スタンレー・スペンサーの『争う白鳥を分かつ(Separating Fighting Swans)』です。
著者ルイーズ・コリスの父モーリス・コリス(Maurice Collis,1889~1973)は,スタンレー・スペンサーの近所に住んでいたスタンレーと同世代の小説家で,スタンレー・スペンサー没後に出された最初の伝記『スタンレー・スペンサー(STANLEY SPENCER: a biography)』(1962,HARVILL PRESS)を書いた人です。スタンレーが書き残していた膨大な手稿をもてあましたようなところのある伝記でした。

1978Carline_Spencer

▲Richard Carline『スタンレー・スペンサーの戦争(Stanley Spencer at War)』(1978,FABER)
リチャード・カーラインが書いたスタンレー・スペンサー回想。スタンレー・スペンサーと同時代を生きた人として,誠実に記録しておこうとした回想です。ルイーズ・コリスの書いた『スタンレー・スペンサー私見』に対する反感が濃厚で,そこに書かれていたことを事実誤認という形で訂正しています。
表紙に使われている作品は,スタンレー・スペンサーのBurghclere Chapelの壁画から『マケドニアのカラスリでの野営(Camp at Karasuli, Macedonia)』の一部です。

1996PamGems_Stanley

▲Pam Gemsの『STANLEY』(1996,NHB)は,スタンレー・スペンサーとヒルダ・スペンサーとパトリシア・プリースの奇妙な三角関係を題材にした戯曲です。少なくとも,こうして劇化しようとする人が現れるような三角関係ではあります。戯曲の題材にされる人生というのは,なかなか大変です。
表紙に使われている作品は,スタンレー・スペンサーの『復活の日,クッカム村(The Resurrection, Cookham)』の一部です。

 

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131. 1994年のウィリー・アイゼンハート『ドナルド・エヴァンスの世界』(2014年1月7日)

1994DonaldEvans_cover

平出隆の『葉書でドナルド・エヴァンスに』にも登場したウィリー・アイゼンハート(Willy Eisenhart)による『ドナルド・エヴァンスの世界(THE WORLD OF DONALD EVANS)』です。生涯に約4000枚の架空の切手を描き続けたドナルド・エヴァンス(1945~1977)の最初のまとまった作品集になります。初版は1980年のDial/Delacorte Press版で,これは1994年の第2版の増補改訂版です。Abbeville Pressから出ています。本のサイズは215.9×279.4センチ(8.5インチ×11インチ),欧米の便箋サイズ,国際判便箋のサイズです。架空の切手を描き続けたエヴァンスの作品にふさわしい判型です。ポストカードのサイズも選択肢としてありでしょうが。

旅先の空気がいっぱいにつまった本です。その旅先は空想旅行でしか到達できない架空の土地で,存在しない土地の風物が律儀に切手の姿におさまっています。
詮無い望みですが,切手の表面のような紙質の紙に印刷されていたら,言うことないくらい理想的なのに,と思います。

郵便・手紙・切手をモチーフにしたものとして,イギリスのバンドScritti Polittiのレコードも思い浮かびます。

1985Scritti Politti_The Word Girl

▲Scritti Politti 1985年のシングル「The Word Girl」のピクチャーディスクは,手紙の形を模していました。ちゃんとレコードとして聴くことができます。

1988Scritti Politti_Oh Patti

▲Scritti Politti 1988年のシングル「Oh Patti (Don't Feel Sorry for Loverboy)」には,絵はがきや切手シートのようなシールが付いていました。誘惑に勝てず,何枚か使ってしまいました。